本名=秋元松代(あきもと・まつよ)
明治44年1月2日—平成13年4月24日
享年90歳(青松院本覚妙楽大姉)
埼玉県戸田市美女木2丁目27―4 妙厳寺(曹洞宗)
劇作家。神奈川県生。横浜吉田小学校卒。秋元不死男の妹。昭和21年三好十郎主宰の戯曲研究会に入る。『ものいわぬ女たち』などを発表。『日立坊海尊』『かさぶた式部考』で独自の民衆劇を確立し、数々の賞を受ける。主な作品に『七人みさき』『近松心中物語』などがある。

どうしても書かなければならないこと、それは運命というものだ。碑とはどこかに行かなければならなくなる。段体的に行かなければならない時がやってくる。
亡びるものと、生き残るものとの、愛と惜別と燃える情熱とを書きたい。
作者が真に新しい生命に言葉を与えることなしに、単にあるがままの現実相を巧みに捉えて見せたところで、成程と云って忘れるよりほかに仕方がない。巧妙に作品化した現実とは、伝統的に完成された形式に手際よく盛り上げた概念ではなかろうか。作者は自己に手頃な柄杓を持って大海の水をくみとる。水は自在な形になるから作者にはそれで完成とみえるかもしれないが、それは水の本質では なくて柄杓の姿だ。自分の掌ですくって見ないでどうして水の味が分かるものか。水を化して湯にするものは、掌よりほかにはない。
作品の成熟度と云うものは、作家の経験、実人生的経験の多い少ないにはよらない。彼が今居る場所における経験の仕方が未熟なら、彼はいつまでたっても青臭い、何をしてみても、無駄と浪費である。
(日記より)
幼少期から家、家族からの脱却を願い、いつの時も「孤絶」の中に身を置いてきた。松代が劇作家として出発したのは遅く、36歳の時であった。偶然とはいえ三好十郎との邂逅によって劇作家としての生涯が決定したのだった。若年で肋膜を患いながらも壮年期に入ってからは大きな病気をしていなかったが、77歳の秋、4時間にも及ぶ食道潰瘍の手術、86歳の時には乳がんの手術を受けた。翌々年には脳梗塞で入院。晩年を迎えて松代は記している。〈死を思うとは生を知ることである。生の貴重と、去って再び来ないものについて思うことである〉と。平成13年4月24日午前10時47分、肺がんのため鎌倉市の聖テレジオ病院で死去した。
土地の名主の家に生まれながら斜陽と没落の中での父の死後、困窮生活を背負いながら女手一つで子供たちを育て、長男だけを溺愛した母や〈自我が強く敏感でいつも不満だった〉兄姉たち、〈家族が諸悪の根源です〉と言ってはばからなかったが、直腸がんで入院中の確執のあった兄秋元不死男の病室を頻繁に見舞い、臨終の床にも立ち会った秋元松代の墓は埼玉県戸田市美女木の菩提寺妙厳寺にある。本堂裏、玉垣の内に南天が繁る塋域の自然石に「秋元家」とだけ刻まれた墓碑。右脇に建つ墓誌の表面に両親や三兄に並んで左端に兄秋元不死男の戒名と没年月日、裏面三番目に松代の戒名「青松院本覚妙楽大姉」と没年月日、行年が刻まれている。
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