網野 菊 あみの・きく(1900—1978)     


 

本名=網野 菊(あみの・きく)
明治33年1月16日—昭和53年5月15日 
享年78歳
東京都港区南青山2丁目32–2 青山霊園1種ロ7号21側
 



小説家。東京府生。日本女子大学卒。志賀直哉に師事し、その推薦で『家』を『文芸春秋』に、『光子』を『中央公論』に発表。大正15年短編集『光子』が出版され認められた。その後不幸な結婚生活のため創作活動は中断されたが、昭和15年短編集『汽車の中で』を発表。『金の棺』『さくらの花』などがある。






 

 「ああ、伊豆のさくら?……」よし子は感嘆して、それまでよし子の視線に入らずにいたさくらの花を見直した。大きな花瓶にさされた大きな枝で、満開のさくらの花がいっぱいついている。姑の心遣いからか、夫の愛情のおくりものか、いずれにせよ、ゆう子のところヘ、ゆう子が数え年二十二歳で嫁いで以来二十二年間毎年の春見慣れていたさくらを今年も見せようと思って届けられたものなのだ。そして、そのさくらを嬉しそうに眺めているゆう子の哀れさが、ひしとよし子の心にこたえた。
 「やっぱり、伊豆は暖かいから、さくらも早いのね。東京のさくらは、チラホラ咲き始めたばかりだけど……思いがけなく、伊豆のさくらのお花見をさせて貫えたわ」とよし子は言い、ゆう子とともに、さくらに見入った。よし子は、どらやきとカステラの箱包みのみやげを貰って、「では、また来るわね」と言って元気よげに病室を出たが、廊下へ出るや否や、心も足も重くなった。ゆう子の、いつにない優しさに、かえって不吉な予感を感じるのだった。
帰りの都電の中で、よし子は人目も忘れ、ぐったりと窓にもたれ、ゆう子への哀れみと悲しみに、うちひしがれていた。
                                                          
(さくらの花)



 

 この作家の作品はおおよそ私小説である。そして常に何らかの「死」が 描かれている。一般的に言えばおそらく不幸な運命によって成り立っている人生であったのだろう。
 麻布狸穴町で生まれ赤坂で育った。父・亀吉は馬具製造販売業を営んで裕福だったが、7歳の時、離縁された実母・ふじのと生き別れ、以後、三人の母を迎えている。二人目、三人目の継母や異母妹弟は戦争をはさんで、病死や行方不明によって惜別。複雑な家庭環境で多感な少女時代を過ごし、自らも不幸な結婚生活を経験した。この「私」だけの人生を執拗に、客観的な眼で透視している。
 昭和53年5月15日午後5時15分、千駄ヶ谷の代々木病院で腎不全によって逝った網野菊の瞼は、穏やかに閉じていた。



 

 終生の師、志賀直哉が眠る青山霊園の西はずれ、外苑西通りに向かって急坂が落ち込んだ窪地にある「網野家之墓」は、茂り翳った葉陰から、差し込んだ低い陽射しに斜めの帯をくっきりと映してあった。黒滲みた台石には若草色の新しい葉をまとった蔦が張りつこうとしている。墓碑に「網野菊」の名は見当たらない。
 姦通罪で獄に入り離縁された実母との別れ、三人の継母との辛く哀しい関係、夫の相原信作との愛憎など、悲運に包まれた時々の網野菊苦悩の様相を呈して、濃く沈んだ塋域ではあったが、裏筋にある縁者の墓参に訪れたと思われる楽しげな家族連れの中に、幼女の抱かえた白菊が、冴え冴えとした明かりのように揺れて見えた。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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