天野貞祐 あまの・ていゆう(1884—1980)                       


 

本名=天野貞祐(あまの・ていゆう)
明治17年9月30日―昭和55年3月6日 
享年95歳 
東京都豊島区南池袋4丁目25–1 雑司ヶ谷霊園1種8号10側30番




哲学者・教育家。神奈川県生。京都帝国大学卒。カント哲学を研究し、『純粋理性批判』を翻訳。京都帝国大学教授、甲南高校(現・甲南大学)や第一高等学校校長、第三次吉田内閣文部大臣、日本育英会会長などを歴任。のちに独協大学学長。『道理の感覚』『学生に与ふる書』などがある。








 

 自ら悩みを体験した人にして、初めて他人の悩みを共に悩むことができるのであるが、恕 (思 いやり) とか同情とかいう徳はここに成り立ち、ひとはそれによつて人間性の根源に 参興し能うからである。苦難の克服は人間性の内実を開示して、人生のあらゆる価値 に対する鋭敏な感覚を目覚ましめる。悩みの体験者にして初めて深く人生を生き、充 実した生存を営むことができるのである。ゲーテの詩に

  涙を流してパンを食ぺなかつた人
  思いなやむよるよるを
  ベッドに倚つて泣き明かさなかつた人
  その人は神々を知らない

 とあるのは、苦悩を知る者のみが人間性の根源を会得しうることを教えると思う。固 より私は小事に拘泥することを善しとするのではない、否、小事を小事とし大事を大 事とする處にこそ人生の智慧が成立する。「道は近くにあるにこれを遠きに求め、事 は易きにあるにこれを難きに求む」 ることがあつてはならぬ。しかもかかる人生の智 慧を教うるもの、苦悩の体験と苦難の克服とにまさるものはないであろう。

(私の人生観)





 

 旧独逸学協会学校中学校(現・独協学園)の校長大村仁太郎や内村鑑三の著書に出会った経験は天野貞祐にとって〈一種の精神革命〉ともなるものであった。京都帝国大学文学部哲学科卒業後、学習院大学、京都帝国大学教授となり、名著『学生に与ふる書』も刊行した。この間、研究者・教育者として天野理念の結実もみた。また「昭和十五年戦争」の初期に発表した『道理の感覚』によって、軍国の時潮を毅然とした姿勢で批判した。日本で最初の本格的なカント哲学研究者、信念の哲人、第三次吉田内閣の文部大臣も経験し、カント文相とも呼ばれたが、昭和55年3月6日、武蔵野市の自邸で老衰により静かな死を迎えた。



 

 中学生の時に母をチフスで失ったことは天野貞祐にとって大きな失意となった。回想録で〈母を失って家の中心が無くなってしまいました。今のわたしにもし神様がどういう希望でもかなえてやると仰せられるならば、わたしの希望は母と会い母と語りたいということであります〉と語った天野貞祐の墓は敬服する大村仁太郎の眠るだだっ広い雑司ヶ谷の墓原、竹久夢二や夏目漱石の眠る墓碑の近くにあった。95歳で亡くなった天野も昭和41年5月に天野貞祐自身が建之した横型の「天野家」に102歳で逝った妻タマとともに眠っているが、亡き母と会い心ゆくまで語り合っているのであろうか。天野夫妻墓はこのほかに郷里の神奈川県相模原市緑区大字鳥屋の天野家墓所にも分骨されてある。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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文学散歩 :住まいの軌跡


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