本名=阿川弘之(あがわ・ひろゆき)
大正9年12月24日—平成27年8月3日
享年94歳
神奈川県鎌倉市山ノ内1402 浄智寺(臨済宗)
小説家。広島県生。東京帝国大学卒。戦時中は海軍に従軍。戦後は志賀直哉の推挽により文壇に登場、昭和27年『春の城』で読売文学賞、41年『山本五十六』で新潮社文学賞、平成6年『志賀直哉』で毎日出版文化賞を受賞。11年文化勲章受章。ほかに『雲の墓標』『なかよし特急』『井上成美』などがある。

広漠たるみどりのなかへ、沈むように続々と降りて来る赤トンボ、不知火の海のむこう、うすくかすむ島山のうえに太陽が落ちる。一尺あまりしげった青草に腰をおろすと、足もとからしきりに虫が鳴く。ぷんと草の匂いがする。
脚を抱いてだまって景色をながめている。日が落ちきると、天草の山のいただきが、落日の余映に其のどすぐろい姿をくっきりとあらわして来る。飛行場の草のうえで、あかあかと指導燈の炎が燃えはじめる。自分の眼の高さにしげった雑草の穂先が風にゆれて、其の真っ赤な焔をちらちらとさえぎる。「戦は又親も討たれよ子も討たれよ死ぬればのりこえのりこえ闘ふ 候。」まよってはならぬ、歯車の一片となり切るよりほかに道はない。自分をあわれとおもうまい。そのはしからしかし、また湧く想いを如何にすればよいか。
(雲の墓標)
67歳の時、日本経済新聞の「私の履歴書」という連載の冒頭に〈私の履歴を一言で記せば「地方の平凡な中流家庭に生まれ、小学校から大学までごく平凡な学生生活を送り、戦争中は海軍に従軍して多少の辛酸を嘗めたが、戦後間もなく志賀直哉の推挽により文壇登場、以来こんにちに至る」、これだけである。〉と記しているが、予備学生として海軍に入隊従軍した体験をもとに、特攻で死んでいった同期への鎮魂、生き残ってしまった己の無常観を強く意識して戦争を描き、軍人を描き、戦争を批判し続けてきた長い余生だったが、戦後70年の平成27年8月3日午後10時33分、老衰のため都内の病院で死去。暑い夏の夜は更けていった。
北鎌倉の東慶寺に近い臨済宗円覚寺派の寺である浄智寺は鎌倉五山の一つに数えられている。薄暗がりの苔生した石段をゆっくりと上っていると突然、目の前に真っ赤な椿の花がポトリと足下に落ちてきた。気をつけて見回すと椿の木があちらこちらに見えている。この墓地に阿川家の墓があることはずっと以前、澁澤龍彦の墓参に訪れたときに承知していたのだが、崖のふちに生えている二本の椿の枝の間からその墓碑が顔を覗かせている。冬の落ち葉は掃いても掃いても切りがないらしく、「あ〜あ」と嘆きながら箒を掃いている墓掃除の女性が「つい先日法要があったばかり」と教えてくれた「阿川家之墓」。
〈かの日 汝を呑みし修羅の時よ いま寂かなる平安の裡 汝をいだく千重の浪々 きらめく雲のいしぶみよ〉、『雲の墓標』の主人公吉野次郎に捧げた鎮魂詩「展墓」の一節をなんとなく思い浮かべた。
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