尾崎士郎 おざき・しろう(1898—1964)


 

本名=尾崎士郎(おざき・しろう)
明治31年2月5日—昭和39年2月19日 
享年66歳(文光院殿士山豪雄大居士)❖瓢々忌 
神奈川県川崎市多摩区南生田8丁目1–1 春秋苑墓地中6区1–1
 



小説家。愛知県生。早稲田大学中退。大正15年宇野千代と結婚するが、昭和5年離婚。8年から都新聞に連載した『人生劇場』が川端康成に認められ、ベストセラーになり、その後、『青春篇』『愛欲篇』と七篇が書きつがれた。ほかに『高杉晋作』『篝火』『空想部落』などがある。



 


 

 瓢吉はぐったりと窓にもたれかかった。空はまた曇ってきたらしい。
 窓外の風景は深い闇の中にとじこめられて、汽車の礫音だけが、つめたい夜気をとおして胸の底に沁みるようである。
瓢吉の眼は闇の中に黒い輸郭を残している山のかたちや森のすがたを無心に追いながら、しかし、煮えたぎるように湧いてくる感慨をおさえることができなかった。
 (青成瓢吉よ!)
 彼は自分の心にさけびかける、----いよいよお前も立直らねばならんときが来たぞ、前進せよ前進せよ、今は過去の幻影におびやかされるときではないぞ、瓢太郎が死んだのだ、ああ親父の瓢太郎が。
 そういう感情が高まってくるにつれて、瓢太郎のすがたは彼の心の中に浮彫のようにあらわれてくる。
 (空は曇ったと思うと晴れ、晴れたと思うとすぐに曇った)
 お袖の顔が遠くの方にぼやけた輪郭を描いてうすくかすんで見える。お袖よ!お前の愛情の高さに調子を合わすことのできないおれをうらんでくれるな。こうやって遠くはなれているとお前のことで胸がふさがるようではないか、-----瓢吉の感情はこのとき急速力で走っている汽車と同じ速力をもって走っていたというべきであろう。彼の心の中では混乱した想念が混乱したままで潮のようにどよめきかえしているのだ。
                                                               

(人生劇場)

 


 

 『時事新報』の懸賞小説で二等。その時一等だったのが宇野千代。運命の糸というか悪戯というか、翌日、『中央公論社』でバッタリ会った二人はそのまま同棲してしまうのだったが、〈結合が不自然〉であった二人の関係は長くは続かず、伊豆・湯ヶ島での千代と梶井基次郎との恋愛問題によって壊れてしまった。
 ——今日、多くの読者にとって『人生劇場』は「尾崎士郎」であり、「尾崎士郎」は『人生劇場』、それ以外の作品は思い浮かばないのではなかろうか。運命共同体とも言うべき強烈な印象を持ったこの作品に、川端康成は「痛ましい夢」を認識したというが、昭和39年2月19日雪の朝、結腸がんによって世を去る作家の脳裏を走り抜けた「青春の夢」は遙か彼方に遠のいてしまったようだ。



 

 士郎25歳、千代26歳。馬込での新しい生活と別離。宇野千代はラジオ番組「我が文学我が回想」で語っている。〈尾崎は人に非常に好かれる人で、自分もまた好かれたがる人だった。それが彼の人生を駄目にした〉と。
 ——飄々と揺らぐ時の片隅に小さな墓石があった。数個のとび石の向こうに「尾崎士郎」と自署を刻された高さ三、四〇センチばかりの碑が建っている。宇野千代との不自然な愛と必然の別れ、天衣無縫に生きた尾崎の「人生劇場」はこのわずか六、七坪の塋域の中に納まりきるべくもなかろうが。
——〈去る日は楽しく来たる日また楽し よしや哀憐の夢は儚くとも青春の志に湧きたつ若者の胸は曇るべからず〉。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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