尾崎放哉 おざき・ほうさい(1885—1926)


 

本名=尾崎秀雄(おざき・ひでお)
明治18年1月20日—大正15年4月7日 
享年41歳(大空放哉居士)❖放哉忌 
香川県小豆郡土庄町本町甲1082 西光寺奥の院(真言宗)



俳人。鳥取県生。東京帝国大学卒。荻原井泉水に師事。保険会社の支店次長にまでなったが、酒癖で失敗を重ね罷免される。大正12年京都の一燈園で托鉢と奉仕の生活に入る。その後方々の寺で寺男となり転々としながら、数多くの俳句を詠み、14年小豆島西光寺奥の院南郷庵の庵主となる。




 


 

障子しめきつて淋しさをみたす

木魚ほんほんたたかれまるう暮れて居る

淋しいぞ一人五本のゆびを開いて見る

わが顔ぶらさげてあやまりにゆく

なんにもない机の引き出しをあけて見る

背を汽車通る草ひく顔をあげず

足のうら洗へば白くなる

入れものが無い両手で受ける

咳をしても一人

墓のうらに廻る

 


 

 〈咳をしても一人〉。
 絆をすべて切り捨て、漂泊に漂泊を重ねてきた放哉にとって唯一捨てられなかったものは自分自身だった。師荻原井泉水の紹介で、最後の地香川県小豆島にきて8か月、咽喉結核がいよいよすすみ、もう起き上がることさえもできない。眼もみえなくなってしまった。妻や子、捨てたはずのものがつぎつぎと脳裏に浮かんでくる。詮無いことだ。海風よ、おまえがはこんでくるかそけき潮の香といっしょに、やせ衰えて軽々となった体を庵の上の墓山に運んではくれまいか——。
 ああ、やっと「無」になれる。
 〈春の山のうしろから烟が出だした〉。
 大正15年4月7日、花曇り、春の夕べに癒着性肋膜炎湿性咽喉カタルのため「漂泊の俳人」尾崎放哉は逝った。



 

 小豆島霊場58番札所「西光寺」奥之院、漂泊の果てに住み着いた「南郷庵」。大きな松の木もある。その前の道を墓山へと辿る行く手に、一個の無情の塔となってある無縁の人々の墓。放哉が日夜拝み見たであろう墓山。切り拓かれ、黄土色の砂地庭に整理された墓山に樹木の陰りもなく、円形劇場のように段々と灰色の空に続いている。
 雨は降り止まず、湿りきった気をまといながら巡りのぼった先に「放哉さんのお墓」と筆書きされた木碑を前にした五輪塔「大空放哉居士霊位」は孤としてあった。
 〈墓のうらに廻る〉——。この碑の裏には何がある。来世の入り口か、捨て去った諸々の亡骸か。眼下、遥か西光寺の三重の塔は小島の雨に烟っている。桜も散り始めた。もう春も終わりだ。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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