尾崎紅葉 おざき・こうよう(1868—1903)


 

本名=尾崎徳太郎(おざき・とくたろう)
慶応3年12月16日(新暦1月10日)—明治36年10月30日 
享年35歳(彩文院紅葉日崇居士)・紅葉忌 
東京都港区南青山2丁目32–2 青山霊園1種ロ10号14側


 
小説家。江戸(東京都)生。東京帝国大学中退。明治28年山田美妙らと硯友社を結成。同人雑誌『我楽多文庫』を発刊。32年『二人比丘尼色懺悔』で評価を得る。『伽羅枕』『三人妻』『金色夜叉』を読売新聞に発表。『不言不語』『多情多恨』などがある。



 


 

 予の言ふには、今日あつて明日を知らぬ人の命の事であるから、頑健鐵の如き者と雖、明日の命は受合ふ事は出来ぬ。又此の難療不治の病を抱いて居るからは、元より死ぬものと覺悟を極めて居なければならぬのである。然しながら君が言ふ如く、予は必ず此が爲に死ぬものとすれば、何を目的に此の苦しい思を忍んで、效の無い日を送るのであらう。自分は日夜苦しみ、家内には迷惑を懸け、無用の財を費し、實に天下の穀潰のやうである。其で揚句は死と云ふ事ならば、一日も早く、死ぬが優であつて、苦しい生を貪る所以を知らぬのではないか。然るに自分に限らず必ず助からんと謂ふ几ての大患者が、皆苦しい思を忍びつゝ、一縷の生命を繋いで居るのは、心窃に萬一を僥倖して居るのである。此が人問の弱點であつて、其苦しい一日が生きて居たいのではなくて、恁して居る中には、月の再び圓かなる日がある如く、健康體に復す時も来やうと謂ふ、儚い望を懸けて居るので、若し然もなければ、誰か生效の無い命を細々と保つて、日夜の苦痛を忍ぶものぞ、皆手短く自殺を爲るに違ない。であるから、命は惜くないの、死は怖れぬの、覺悟は爲て居るのと、ロでは立派に言ふものゝ、此の萬一の僥倖を希はぬ病人は一人も無いのである。
 予も死ぬをば極めて居るものゝ、或は助かるものと信じて居る。然もなければ既に二三箇月以前に、ピストルを額に当てゝ、今頃は青山の墓地でお目に懸つて居るのだ。

(病骨録)

 


 

 親分肌の紅葉のもとには、泉鏡花、小栗風葉、徳田秋声などが次々と門をたたき、門前市を成すという有様で、幸田露伴と並び〈紅露時代〉築き、言文一致体の小説『多情多恨』や一大傑作『金色夜叉』は読者の人気を頂点まで引き上げたのであったが、明治36年10月30日午後11時15分、胃がんにより死去。11月2日、牛込区横寺町四七番地(現・新宿区横寺町)を出た2000人にも及ぶ大葬列は、晩秋の陽のもと、神楽坂からお壕端、四谷見附を通り青山墓地へと続いた。
 ——〈今死に候はば七生までも世に出でおもふ通りの文章を書き申さずては已まずと執着致居候〉と書簡にしたためた35年の生涯は余りにも無念で短い。



 

 硯友社をともに結成した幼友達山田美妙は病と貧困のうちにさびしい死を迎えたが、紅葉もまた名を挙げたとはいえ無念の死を遂げたのであった。
 昼下がりの青山墓地、ジョギングの足音が私の背中をすり抜けていく。少し勾配のある細道に背を向けた褐色の墓があった。〈死なば秋露の干ぬ間ぞ面白き〉、辞世の句が刻まれた「尾崎家墓所」の円柱灯篭の奥に建っている「紅葉尾崎徳太郎墓」。一世を風靡した未完の大作『金色夜叉』の作者は、彼岸の温もりを保った石の下に眠っている。
 ——〈十年後の今月今夜も、僕の涙で月は曇らせて見せるから、月が曇ったらば、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いて居ると想ふが可い〉。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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