小熊秀雄 おぐま・ひでお(1901—1940)


 

本名=小熊秀雄(おぐま・ひでお)
明治34年9月9日—昭和15年11月20日 
享年39歳(徹禅秀学信士)❖長長忌 
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園24区1種68側1番



詩人。北海道生。樺太・泊居高等小学校卒。昭和2年詩誌『円筒帽』同人となり小熊醜吉の名で詩作。翌年上京し、「プロレタリア詩人会」を経て、「全日本無産者芸術連盟」(ナップ)に参加。10年『小熊秀雄詩集』、長編叙事詩『飛ぶ橇』を刊行。死後『流民詩集』が刊行された。



 


 

それを待て、憤懣の夜の明け放されるのを
若い鶯たちの歌に依って
生活は彩どられる
いくたびも、いくたびも、
暁の瞬間がくりかへされた
ほうほけきよ、ほうほけきょ、
だが、唯の一度も同じやうな暁はなかつた
さうだ、鶯よ、君は生活の暗さに眼を掩ふなかれ
君はそこから首尾一貫した
よろこびの歌を曳きずりだせ
夜から暁にかけて
ほうほけきよ、ほうほけきよ、
新しい生活のタイプをつくるために
枝から枝へ渡りあるけ
そして最も位置のよい
反響するところを
ほうほけきよ、ほうほけきよ、
谷から谷へ鳴いてとほれ
既にして飢餓の歌は陳腐だ
それほどにも遠いところから
われらは飢と共にやつてきた
悲しみの歌は尽きてしまつた
残つてゐるものは喜びの歌ばかりだ。
                                                             
(鶯の歌)

 


 

 大正の終わりから第二次世界大戦の末期にかけて〈池袋モンパルナス〉というアトリエ村があった。この名称は小熊秀雄が言いだした。東京の西池袋から椎名町、千早町、南長崎などの周辺に画家や音楽家、詩人などの若い芸術家たちが活動の拠点として集っていたのだった。
 太平洋戦争の始まるほぼ1年前、その活動が頂点に達する頃の昭和15年11月20日の冬のかかりに小熊秀雄は生涯を閉じた。〈私はしゃべる、若い詩人よ、君もしゃべくり捲れ〉と歌った饒舌な詩人が、貧困と、病と、時代と、運命によって「沈黙」を余儀なくされた悲しみを思うと、東京・豊島区千早町のアパートで、肺結核のために逝った39年の生涯は、いかにも短いものであったといわざるを得ない。



 

 野分の前触れのように周囲を巡らせた樹木がザワザワと揺れている。霊園の西外れにあるけもの道のような細道を辿ると、枯葉の吹き溜まった殺風景な土庭の上に一基の洋風墓があった。黒御影に彫られた「小熊秀雄」の自筆文字は、背後から西日の強い光線を浴び、見る方向によって、白く浮き出たり、暗く沈んだり、碑面に溶け込んだりしている。
 〈信じがたい程  暗い、暗い、空のもとに  我等は生活してゐる、 暗黒と名づけようか、この夜の連続的なふかさを——、〉と叫びながら、〈池袋モンパルナス〉の千早町30番地東荘で肺結核に死んだ詩人に、何をもって捧げるとしようか。
 今なら思う存分に歌っていいのだよ。尽きてしまった悲しみの歌、あとに残った喜びの歌を。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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