岡田八千代 おかだ・やちよ(1883—1962)


 

本名=岡田八千代(おかだ・やちよ)
明治16年12月3日—昭和37年2月10日 
享年78歳 
東京都港区南青山2丁目32–2 青山霊園1種イ1号34側


 
小説家・劇作家。広島県生。成女学校専科(現・成女高等学校)卒。兄(小山内薫)の影響を受け、戯曲・小説を『明星』などに発表。結婚後も創作活動を続け『青鞜』にも参加。大正11年児童劇団「芽生座」結成。12年長谷川時雨と『女人芸術』を創刊。昭和23年「日本女流劇作家会」を創立。戯曲『黄楊の櫛』小説集『門の草』『新緑』などがある。



 以前の墓
 整地され新しくされた墓


 

 お島は又ぼうツと眼を開いた。變りもせぬ穢ない寄宿の一室である。
 あたしはほんとに厭になつてしまふわ。かうしてる中に穢ないお婆さ んになつて 人に嫌はれて終ふ位なら今の中に血を吐かない毒を呑んで 死んで終つた方が好い わ、けれどもあたしが今死んだ處で誰が何とい ふでせう。あたしはあたしが死ん だ爲めにはつとして倒れる位の人を 見出し度いと思つてよ。それはきつとあると 思ふの。けれどもその人 が何處にかあるといふのではあたしの氣は安まらない。 その人が目の 前に來てその人の驚く様を見ながらあたしは死にたいと思つてよ。 あ ゝあたしは夢の場の宮のやうに死にたい、あたしは宮は憎い憎いと思 ひなが らあたしが若し宮であつたら今死んでも好いと思つてよ。光ち やんはもうあたし の外に便る人が出來たのでよく寝てること、あなた もあたしも光ちやんももう十 年經ったら、どうなるでせう、昨日はじ めて逢つた人のやうにきつと空々しい挨 拶をするのでせうね、あゝも う胸が痛くなつたから止めてよ。
 寂しき女より、
   たき野さまへ。
 お島は急いで封をして終った。

(お 島)

 


 

 明治16年、劇作家小山内薫の妹として広島県広島市大手町に生まれた。明治39年、23歳の時に森鴎外の世話で洋画家岡田三郎助と結婚、数々の名画のモデルともなったが、家庭生活の不和から別居を繰り返す年月であった。
 平塚らいてうを知り、『青鞜』の顧問となって文筆の場ともしていたのだったが、大正12年に長谷川時雨と二人で創刊した『女人藝術』は運悪く、関東大震災のあおりを受けて二号で終刊する羽目になってしまった。
 昭和14年に夫が死去したことによって、ようやく自宅に帰った。虐げられた女性の立場から日本の家族制度・社会問題に取り組んだが、昭和37年2月10日午後9時21分、肺炎のために死去する。



 

 あこがれ、尊敬の対象であった兄小山内薫の影響で、早くから文学に目覚めて20歳になるかならない内に処女作『めぐりあひ』を発表、翌年には『歌舞伎』に劇評を執筆と、華々しい出発であったが、そのことはやがて家庭不和、別居の原因ともなっていったのだった。
 ——昭和26年、湯浅芳子らと「田村俊子の会」をつくり、異土に倒れた田村のために北鎌倉・東慶寺に岡田八千代の筆になる墓碑を建立した。
 彼女自身は家庭生活で相容れることがなかった夫岡田三郎助の傍らで不本意にも眠ることとなったが、さぞや居心地の悪い思いをしているのにちがいない。あるいはとっくに仲直りをしてしまったのだろうか。無機質な石碑の醸し出す寂寞感がただ弱々しい陰影を投げ出しているだけの風景ではあったが。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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文学散歩 :住まいの軌跡


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