太田水穂 おおた・みずほ(1876—1955)


 

本名=太田貞一(おおた・ていいち)
明治9年12月9日—昭和30年1月1日 
享年78歳(潮音院杳荘水穂居士)
神奈川県鎌倉市山ノ内1367 東慶寺(臨済宗)



歌人。長野県生。長野県師範学校(現・信州大学)卒。明治35年処女歌集『つゆ艸』、38年に島木赤彦と『山上湖上』を刊行。大正4年『潮音』を創刊、主宰。9年阿部次郎、幸田露伴らと『芭蕉研究会』を結成。『芭蕉俳句研究』など研究書を多数発表。歌集『冬菜』『螺鈿』『流鶯』などがある。






 

ゆく雲を見送るなべにその雲の行方もわかず日もくれにけり      

何をかも夢みてさめし眼かひに熱き涙はたまりてゐたり        

みんなみの海のはてよりふき寄する春のあらしの音ぞとよもす     

こがらしの吹ききよめたる朝空にはじけて梅の花しろく咲く   

しろじろと花を盛りあげて庭ざくらおのが光りに暗く曇りをり        

命ひとつ露にまみれて野をぞゆく涯なきものを追ふごとくにも

 


 

 明治42年、同じ長野県出身で窪田空穂らと結成した和歌同好会「この花会」会員の四賀光子と結婚。夫婦ともども教壇に立ちながら歌の道に精進したのだった。
 古典文学や芭蕉研究にも打ち込み、伝統を柔軟に内包した歌風で抒情・象徴の世界をうたって、近代短歌の一つの道を示した。昭和14年、鎌倉に移り住み、創作活動に勤しんだ太田水穂。
 ——〈もの忘れまたうちわすれかくしつつ生命をさへや明日は忘れむ〉、昭和27年6月以降、脳溢血症から臥床を余儀なくされた自身の生命を安らけくも淡々と詠んだ最晩年の歌である。
 昭和30年元旦、78年の生涯を夢幻のごとく見やった水穂に、穏やかな初日が夢の架け橋となって昇っていった。



 

 終焉の家となった鎌倉扇ヶ谷に建てた杳々山荘の北方に位置する東慶寺の奥深い墓地は、冷厳な気が充ち満ちて、俗世間とは隔絶した幽境なる別天地となっている。
 黄楊垣にかこまれた塋域に深閑として建つ、苔生した五輪塔の水輪には、朝比奈円覚寺管長筆になる「水穂居士」の刻がある。左側には太田水穂の歌碑〈何事を待つべきならし何事もかつがつ思ふ程は遂げしに〉、右には水穂に遅れること21年の昭和51年3月23日に亡くなった妻四賀光子の歌碑〈九十年生き来しわれか目をつむれば遠汐騒の音ぞきこゆる〉があり、切り取られた一画にようやく訪れようとする初夏の夕靄をただ静寂と見守っている。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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