岡本綺堂 おかもと・きどう(1872—1939)


 

本名=岡本敬二(おかもと・けいじ)
明治5年10月15日(新暦11月15日)—昭和14年3月1日 
享年66歳(常楽院綺堂日敬居士)
東京都港区南青山2丁目32–2 青山霊園1種ロ8号30側9番


 
小説家・劇作家。東京府生。東京府尋常中学校(現・日比谷高等学校)卒。中学卒業頃から劇作家を志し、新聞記者生活をおくりながら劇作に励んだ。明治44年『修禅寺物語』が明治座で初演され好評を博し、出世作となる。大正2年以後作家活動に専念、『鳥辺山心中』『番町皿屋敷』などの戯曲を発表。『半七捕物帳』などがある。



 


 

 団十郎の模様がよくないということは、これまで新聞紙上にも伝えられて、世間でもみな知っていた。わたしたちはむろん承知していた。今度こそ再び起つことは覚束ないという情報をも握っていた。それだけに今日のあやめの話がいよいよ胸にこたえて、堀越もいよいよいけないのかという嘆息まじりの会話が諸人のあいだに交換された。我々の予覚が現実となって、「春日局」が遂に最後の舞台となったことなども語られた。なかには自分の社へ電話をかけて、団十郎いよいよ危篤を通知する人もあった。涼しいのを通り越して、薄ら寒いような雨の日は早く暮れて、午後六時ごろには大森の海もまったく暗くなった。(中略)
 そのあとの座敷はいよいよ沈んで来た。団十郎が死んだと決まったので、無休刊の新聞社の人はその記事をかくために早々立去るのもあったが、わたしたちのような月曜休刊の社のものは直ぐに帰っても仕様がないのと、あやめが気の毒そうにひき止めるのとで、あとに居残って夜のふけるまで故人の噂をくりかえしていると、秋の雨はまだ降りやまないで、暗い海の音がさびしく聞こえた。その夜はまったく寂しい夜であった。団十郎は天保九年の生まれで、享年六十六歳であると聞いた。その葬式は一週間の後、青山墓地に営まれたが、この日にも雨が降った。

(団十郎の死)

 


 

 東京日日新聞をはじめ数社の新聞記者として過ごしながら小説や戯曲を書いてきた。『修禅寺物語』などの成功によって『新歌舞伎座』を代表する劇作家ともなった。
 捕り物小説『半七捕物帳』は江戸の人情や描写に優れ、好評を博した岡本綺堂。酒は下戸、旅行嫌い、賭事は全く興味なし、遊興の趣はさらになし、ただひたすら執筆と読書に打ち込んだ。日記を読む限りにおいて、綺堂の日常にはほとんど起伏がない。戯曲におけるそれとは、大いにかけ離れた様子であった
 。晩年において旧冬来の感冒は慢性化、心臓衰弱は甚だしく、中学生の頃から書き続けた日記も昭和13年9月を以て終わる。翌年2月重態に陥り、3月1日午後零時20分、肺炎のため目黒の自宅で平安の眠りに入った。



 

 綺堂に『父の墓』という小文がある。〈父は五人兄弟の第三人にして、前後四人は已に世を去りぬ。随って我も四人の叔を失ひぬ。第一の叔は遠く奥州の雪ふかぎ由に埋まれ給ひしかば、その当時まだ幼稚き我は送葬の列に加はらざりしも、他の三人の叔は後れ先立ちて、いづれも斯の青山の草露しげぎ塚の主となり給ひつ、その間に一人の叔母と一人の姪をも併せてこゝに葬りたれば、われは実に前後五たび、泣いて斯の墓地へ枢を送り来りしなり〉——。
 その後も甥英一や母幾野を送ってきた岡本家墓地に、岡本綺堂の墓はある。「綺堂岡本敬二/室えい子之墓」、旧墓に並んだこの石碑に、弱々しい木漏れ陽は背後より差し込んでいる。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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