奥野信太郎 おくの・しんたろう(1899—1968)


 

本名=奥野信太郎(おくの・しんたろう)
明治32年11月11日—昭和43年1月15日 
享年68歳 
東京都港区西麻布2丁目21–34 長谷寺(曹洞宗)



中国文学者・随筆家。東京府生。慶応義塾大学卒。昭和11年中国に留学、13年帰国。外務省ワシントン在勤特別研究員、北京輔仁大学教授を経て22年慶應義塾大学教授。『随筆北京』『日時計のある風景』『芸文おりおり』など多数の随筆のほかマスコミ界で多彩な活躍をした。



 


 

 論語のなかに「坐スルニハ、必ズ安ンジ、ナンジノ顔ヲマモレ」ということばがある。考えてみると、どうやら老いさらばえた今日まで、あんまり聖賢の教えなどありがたがらないできたぼくが、もし、今までで一番心にしみ、そしておまえを支えてきたことばがあるとすれば、それはどういうのかと聞かれたら、躊躇することなくこの「生スルニハ、必ズ安ンジ、ナンジノ顔ヲマモレ」ということばをあげるであろう。これはもう少しやさしく今ふうのことばに翻訳すると、「ゆったりと坐り、ありのままの顔つきで向かえ」ということになる。 ぼくはつまらない人間で、なにひとつ取柄がない。別にひどい劣等感にわずらわされているわけではないが、ひと様にくらべると、たしかに才能においても胆力においても、意志においても、どれもこれもひとにずばぬげているという自信のあるものがない。(中略)
そのためにとくに目立つということもなかったかわり、またひとの邪魔になったこともなかった。そのことは結局、今日までどうやらぼくに衣食の道を絶つことなからしめてくれた。
これはなんといってもありがたいことといわなければならない。そこでつくづくと考えてみる。そういう心がけの源泉みたいなことばがあったとしたなら、それはなんであったろうかと。そして思いあたるのが論語のことばである。もう一度くりかえそう。「坐スルニハ、必ズ安ンジ、ナンジノ顔ヲマモレ」

(東京暮色)

 


 

 陸軍軍人の父を持ち、謹厳な家庭に育ったのだが、奥野信太郎自身は少年期から芝居やオペラに熱中していた。また、永井荷風に心酔して、荷風が教授を務めていた慶應義塾大学に入ったのだが、その時すでに荷風は職を退いた後であった。
 母校の教授になってからは中国文学がもっぱらの研究対象となったが、軽妙洒脱な話術は座をなごませて座談の名手としても知られ、専門の中国文学学会のみならずジャーナリズムでも活躍した。
 〈もし人あって人生の三福を問うならば、よく酒味、艶味、書味を解することができることと答える。三福はその香を愛するにとどまる〉と書香を愛する文を残している凱南奥野信太郎は、昭和43年1月15日、浅草に没する。



 

 明治の洋画家黒田清輝や元勲井上馨なども眠るこの寺は曹洞宗大本山永平寺の別院として観音信仰の聖地となっている。
 東京の一等地である閑静な西麻布に位置しており、北に根津美術館の森を見下ろす台地、都心の寺院墓地にしては比較的広い敷地であったが、墓地の参り道は細く曲がりくねってまことに迷路の様相を呈している。やっと探し当てたのは、新緑に囲まれた塋域に背筋を伸ばして建つその墓姿である。
 「奥野宅世坆」、おそらく奥野信太郎自身の筆になるものだろうが、わずかに右上がりで、女文字のように優しげな碑文字であった。小菊や黄色の百合花など、供えられた花々の明るさが照り映え、故人の人柄が偲ばれて心が和んだものだ。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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