大塚楠緒子 おおつか・くすおこ/なおこ(1875—1910)


 

本名=大塚久寿雄(おおつか・くすお)
明治8年8月9日—明治43年11月9日 
享年35歳 
東京都豊島区南池袋4丁目25–1 雑司ヶ谷霊園1種1号11側 



小説家・歌人。東京府生。東京女子師範付属女学校(現・お茶の水女子大学附属高等学校)卒。和歌を佐々木信綱、画を橋本雅邦に学ぶ。夏目漱石の指導で小説も書いた。明治38年雑誌『太陽』に発表された詩『お百度詣で』は与謝野晶子の『君死にたまふこと勿れ』と並び称される。小説『晴小袖』『露』などがある。






 

ひとあし踏みて夫思ひ
ふたあし國を思へども
三足ふたたび夫おもふ
女心に咎ありや
朝日に匂ふ日の本の
國は世界に只一つ
妻と呼ばれて契りてし
人は此世に只ひとり
かくて御國と我夫と
いづれ重しととはれなば
ただ答へずに泣かんのみ
お百度詣ああ咎ありや

                                                     
 (お百度詣)

 


 

 夏目漱石が愛媛県尋常中学校(現・松山東高等学校)の嘱託教員として四国松山に流浪したのは、大塚楠緒子に失恋したからだという伝説もある才色兼備の彼女に、あまりにも早い死が訪れたのは35歳の時であった。
 後年は夏目漱石に師事していたが、明治43年、流行性感冒のため『朝日新聞』の連載を中絶して東京高輪病院に入院。7月に悪化して肋膜炎を併発、大磯の別荘・大内館に転地したが、快復かなわず三人の娘と2歳の息子を残して、11月9日午後2時30分、死去。床枕には、白紙のままのノートが数冊重ねられてあった。
 胃腸病院に入院中だった漱石はその訃報に二句を手向けた。
 〈棺には菊抛げ入れよ有らん程〉 。
 〈有る程の菊抛げ入れよ棺の中〉。



 

 「大塚家」の墓が数基並ぶ塋域の中央に「文学博士大塚保治妻楠緒之墓」はある。養子であった夫保治の名は、右端の小さな石碑に刻まれている。
和歌の友人たちが植えたという八重山茶花の白い大輪の花が咲くのは秋から冬にかけてだということを長谷川時雨が『近代美人伝』に書いていたのを思いだしたが、桜の花も散り始めた季節には時すでに遅しであった。
小説は漱石に、和歌は佐佐木木弘綱・信綱に、絵は橋本雅邦にと、当代一流の指導を受けた彼女にはなお美貌と才能、経済的に恵まれた家庭があった。同じ時代に生きた樋口一葉の貧窮生活に比して、何という豊かな世界であったろうか。繰り返さない時を想って空しい感傷がよぎった。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


墓所一覧表


文学散歩 :住まいの軌跡


記載事項の訂正・追加


 

 

 

 

 

 

ご感想をお聞かせ下さい


作家INDEX

   
 
 
   
 
   
       
   
           

 

    


   大岡昇平

    大木惇夫

   大須賀乙字

   大杉 栄

   太田水穂

   大田洋子

   大塚楠緒子

   大手拓次

   大西民子

   大庭みな子

   大原富枝

   大町桂月

   大宅壮一

   大藪春彦

   岡倉天心

   尾形亀之助

   岡田八千代

   岡野知十

   岡 麓

   岡本かの子

   岡本綺堂

   小川国夫

   小川未明

   荻原井泉水

   奥野信太郎

   小熊秀雄

   小栗虫太郎

   長部日出雄

   尾崎一雄

   尾崎喜八

   尾崎紅葉

   尾崎士郎

   尾崎放哉

   尾崎 翠

   小山内薫

   大佛次郎

   小沢昭一

   織田作之助

   小田 実

   落合直文

   折口信夫