藤原定家年譜

※工事中。今後記事を増やしてゆく予定です。
※定家の歌番号は冷泉為臣編「藤原定家全歌集」による(1501番以降、新編国歌大観番号とは異なる)。

十代 二十代 三十代 四十代 五十代 六十代 七十代 八十代

西暦・和暦 天皇 事跡 没年 関連事項
1162 応保二
(1歳)
二条 藤原定家生れる。父は俊成(当時の名は顕広)49歳。母は藤原親忠女(美福門院加賀)。  
1164 長寛二
(3歳)
  2/19 藤原忠通(48歳)
8/26 崇徳院(46歳)
 
1165 永万元
(4歳)
    6/5 改元。
この年、藤原清輔撰の私撰集「続詞花和歌集」成立か。
1166 仁安元
(5歳)
8/27 父顕広、従三位に叙される。
12/30 従五位下に叙される。
8/27 改元。
1167 仁安二
(6歳)
12/30 紀伊守に任ぜられる。
この年、父は顕広から俊成に改名。
この頃までに西行「山家集」の原型成るか。
1169 嘉応元
(8歳)
高倉   4/8 改元。
7月 式子内親王、斎院退下。この頃定家の姉竜寿御前、式子に仕えるか。
この年、九条良経生れる。
1170 嘉応二
(9歳)
  飛鳥井雅経生れる。
1171 承安元
(10歳)
  4/21 改元。
この年 西園寺公経生れる。
1172 承安二
(11歳)
2/10 父俊成、皇太后宮大夫となる。   この頃、藤原定長(俊成の甥で猶子)、出家。法名寂蓮
1175 安元元
(14歳)
2月 赤斑で死にかける。
12/8 父俊成右京大夫を辞し、定家を侍従に申し任ず。
  7/28 改元。
この頃、西行の「山家心中集」成るか。
1176 安元二
(15歳)
9/28 俊成、病により出家、法名釈阿。  
1177 治承元
(16歳)
3月 疱瘡で死にかける。 6/20 藤原清輔(74歳) 4/28 安元の大火。京の三分の一が焼亡。
8/4 改元。
1178 治承二
(17歳)
3/15 父俊成が判者を務める別雷社歌合」に三首出詠(員外之外3973~3975)。記録に残る限りでは定家の処女作。
6月 俊成、九条兼実邸に初めて招かれる。
 
1179 治承三
(18歳)
2/9 俊成より古今伝授を受ける。
3/11 初めて内昇殿を聴許される。
3/24 石清水臨時祭舞人奉仕。
10月 俊成、「右大臣兼実歌合」で判者を務める。
道因法師この年以後 11/20 後白河院、幽閉される。
この年か前年、慈円「述懐百首」を詠む。
1180 治承四
(19歳)
高倉/
安徳
1/5 従五位上に昇叙。
2/5 現存する「明月記」はこの日から。
2/14 京に大火、俊成邸全焼する。
9月 「明月記」に「紅旗征戎非吾事」云々の記述あり(後年の追補とする説も)。
5/26 源頼政(77歳) 2/21 安徳天皇践祚。高倉上皇が院政を執る。
5月 以仁王・源頼政、挙兵。
6/3 福原遷都。
7/14 後鳥羽院生れる。
8月 源頼朝挙兵。
1181 養和元
(20歳)
安徳 1/3 式子内親王の三条高倉第に初めて参る。
1/14 高倉上皇の崩御を知る。「心肝如摧」(明月記)。
4月 「初学百首」(上1~)を詠む。
9/27 父に伴われ式子内親王の萱御所に参る。式子は定家父子のため箏を弾く。
1/14 高倉上皇(21歳)
閏2/4 平清盛(64歳)
12/4 皇嘉門院(61歳)
皇嘉門院別当この年以後
1/14 後白河院、院政再開。
  
  
7/14 改元。
1182 寿永元
(21歳)
11月以前 父の命により「堀河題百首」を詠む(員外3462~)。出来映えに父母感涙し、諸家より賞賛の詞あり。
11月 賀茂重保撰の私撰集「月詣和歌集」成る。定家の作九首入る(うち五首は「初学百首」、二首は「堀河題百首」より)。
春、飢饉により京の死者多数。
5/27 改元。

1183 寿永二
(22歳)
安徳/
後鳥羽
2/19 正五位下に叙される。
2月 後白河法皇、俊成に和歌撰進を命ず。
この年、藤原季能女と結婚か。藤原季能は歌道家六条家顕季の子長実の孫で、俊成の弟子。
7月 平家、安徳天皇と共に都落ち。
8/20 後鳥羽天皇(4歳)、践祚。
1184 元暦元
(23歳)
後鳥羽 9月 賀茂重保主催の「賀茂社歌合」に出詠(下2183,2184)。
10/26 公衡と禁色のことをめぐって和歌贈答(下2394)。
この年、長男の光家(初名清家)生れるか。
4/16 改元。
7/28 後鳥羽天皇、即位。
1185 文治元
(24歳)
11/22 少将源雅行と殿上で争い除籍される。 3/24 安徳天皇(8歳) 3月 壇ノ浦に平氏滅亡。
この年6月~8月、京都で大地震(文治京都地震)とその余震。死者多数(「方丈記」に記述あり)。
8/14 改元。
この年、慈円が後鳥羽天皇の護持僧となる。
1186 文治二
(25歳)
3月 除籍解除される。
3/16 摂政九条兼実の拝賀に前駆を勤める。この頃から九条家の家司として仕えたか。
10/23(22) 吉田経房主催の十七番歌合(新編国歌大観に「歌合 文治二年」として所載)に五首出詠(員外之外3976~3980)。
この年、西行勧進の「二見浦百首」を詠む(上101~)。
3/12 九条兼実、摂政・氏長者となる。
1187 文治三
(26歳)
春 殷富門院大輔主催の「皇后宮大輔百首」を詠進する(上201~)。
11/23 賀茂臨時祭舞人に召される。
11月 藤原家隆と共に「閑居百首」を詠む(上301~)。
この年冬、藤原公仲の冬十首歌を詠む(下2317~2326)。
この年、西行、自歌合「御裳濯河歌合」を完成、判詞を年来の友藤原俊成に依頼する。「宮河歌合」の判詞を定家に依頼したのも同じ頃(判詞の完成は二年後)。
  この年、慈円「厭離百首」「結題百首」を詠む。
1188 文治四
(27歳)
4/22、父俊成撰の第七勅撰和歌集「千載和歌集」奏覧。定家の歌は八首入集。
9/29 殷富門院大輔を訪ね連歌の会。
  2月 九条良通(良経の兄)急逝。
この年か前年の暮、慈円「早率露胆百首」(堀河題百首)を詠む。翌年、定家が奉和。
1189 文治五
(28歳)
春 慈円の「早率露胆百首」に和し、「奉和無動寺法印早率露胆百首」を詠む(上401~)。
3月 重ねて慈円に和した「重奉和早率百首」を詠む(上501~)。
10月 西行の「宮河歌合」に加判。
11/13 左近衛権少将に任ぜられる。
12月 兼実女任子(宜秋門院)の入内につき「女御入内御屏風和歌」に三十六首詠進(中1779~。翌年三首撰定される)。
12月 良経邸で雪十首歌(下2357~2366)。
  閏4月 陸奥で源義経討たれる。
7/10 良経、権大納言任官。
12/30 良経、左大将を兼ねる。
1190 建久元
(29歳)
1/5 従四位下に昇叙される。
2/16以後 西行の入寂を知り、公衡と歌を贈答(下2634)。
2/20 因幡権介に任ぜられる。
6/25 「一字百首」を詠む(員外2792以下)。
6/26 「一句百首」を詠む(員外2892以下)。
9/13 九条良経邸で「花月百首」披講(上601~)。
10月 後白河法皇の東大寺臨幸において九条兼実に扈従し、途中宇治で慈円と十首歌を唱和する(員外之外3896~)。
12/15・19 内裏直廬にて良経と「二夜百首」を速詠する(定家の作は残存せず。慈円は題を送られて翌年正月に詠む)。
2/16 西行(73歳)




1月 九条兼実女任子、入内して後鳥羽天皇の女御となる。同年4月立后、中宮となる。
3/1 俊成、「五社百首」を清書する。
4/11 改元。

1191 建久二
(30歳)
6月 「伊呂波四十七首」を詠む(員外2992~)。
8/16 「法皇(後白河)栖霞寺におはしましし時、駒牽のひきわけの使に参るとて」(下2178)。
閏12/4 良経邸で「十題百首」を披講(上701~)。
3/10 藤原長方(53歳)
12/16 藤原実定(53歳)
俊恵、この頃か
 
1192 建久三
(31歳)
9/13 良経邸で「いまこむと」の三十三首を詠む(員外3137~)。
この年までに私撰集「玄玉和歌集」成る(撰者不詳)。九条家・御子左家の歌が多く採られ、定家の歌は二十四首入集。
3/13 後白河院(66歳)


7/12 源頼朝、征夷大将軍に任ぜられる。
8/9 源実朝、生れる。
1193 建久四
(32歳)
2/13 母没。この月、殷富門院大輔からの弔問の歌あり、返歌(下2614)。
3/29 良経の弔問の歌あり、返歌(下2615)。
5月 季経より弔問の歌あり、返歌(下2616)。
6/27 官職に復任される。
秋、良経に「歌合百首」を詠進する(上801~。その後結番され、「六百番歌合」が催される)。
秋、父と亡母につき歌を贈答(下2617)。
9/30 母の喪中、慈円に歌十首を奉り(下2618~2617)、後日慈円より返歌あり。同日、殷富門院大輔と歌を贈答(下2628)。
冬 雪の朝、良経より贈歌あり、これに返歌(下2368~2372、2629~2633)。
年末、比叡山に登り、中堂に籠って越年する。この時、父と歌を贈答(下2554・2555)。
2/21 藤原公衡(36歳)






1194 建久五
(33歳)
この頃、藤原季能女と離婚し、大納言西園寺実宗女と再婚。
夏 左大将(良経)家歌合。名所題(下2026ほか)。
8/15 左大将家で八月十五夜歌会(下2186~2188)。
「式子内親王集」の最初の二つの百首歌の成立はこの年2月以前。
1195 建久六
(34歳)
1/5 従四位上となる。
1/20 吉田経房主催「民部卿家歌合」に列す(下2101)。
2/29 伊勢勅使となった良経に扈従し伊勢に下る。鈴鹿関・外宮にて作歌(下2540・2699)。
秋、良経邸で「荻の上風」ほか末句十を書き出して十首歌を詠む(下2211~)。
同じ頃、良経邸で秋五首歌を詠む(下2221~)。
この年、長女の因子(民部卿典侍)生れる。
11/10 良経、内大臣となる。
1196 建久七
(35歳)
3/5 関白兼実の宇治歌会に出席、当座で歌を詠む(下2066)。
9/13 良経家月五首歌会(下2172~2176)。
9/18 良経邸で「韻歌百二十八首」を詠む(中1501~)。
この年秋、良経邸で「をみなへし ふちはかま」などの二十字を頭に置いた歌二十首を詠む(下2226~)。
この年秋、良経の命で「秋はなほ…」の歌の字を頭に置いて三十一首を詠む(員外3106~)。
11月 源通親の策謀により関白兼実が失脚。良経も辞官し、慈円は天台座主を辞す。
1197 建久八
(36歳)
12/5 寂蓮より守覚法親王が定家父子に五十首歌を求めている由を聞き、定家承諾する。翌年夏詠進。
この年、「秋歌あまたよみける」(拾遺愚草には下2150の一首のみ)。
  順徳院生れる。
1198 建久九
(37歳)
後鳥羽/
土御門
「仁和寺宮五十首」(御室五十首)を詠進する(中1629~)。
この年、為家生れる。
  土御門天皇即位。
1199 正治元
(38歳)
土御門 1/30 安藝権介に任ぜられる。同日の明月記に「行嵯峨宿」とあり、これ以前に嵯峨山荘を所有か。
12月 「左大将家冬十首歌合」に列する(下2330~2337,2450,2546)。
1/13 源頼朝(53歳) 6/22 良経、左大臣になる。
1200 正治二
(39歳)
2/20 姉の八条院三条が死去(53歳)。定家は翌日知り悲歎。
閏2/1 「正治二年二月左大臣家歌合」に参列(下2055ほか)。
8/9 後鳥羽院主催「正治二年院百首(正治初度百首)」の作者に加えられ、同25に詠進(上901~)。
8/26 内昇殿を許される。
9/13 「院初度歌合(仙洞十人歌合)」に出詠(下2031ほか全十首)。
10/26 正四位下
11/7 二条殿新宮歌合に参列、三首詠進。二首のみ伝存(下2315,2316)。
殷富門院大輔この頃か 4/27 改元。
1201 建仁元
(40歳)
1/7 後鳥羽院の年始歌会に出詠(下2027~2029)。
2/16・18 後鳥羽院主催「老若五十首歌合」に出詠。
3月 院の水無瀬殿に初めて伺候する。
3/16 「通親亭影供歌合」に春題六首出詠(下2039ほか)。
3/29 「新宮撰歌合」行われる。十題三十六番、定家の歌は五首入撰(下2046ほか)。
6/11 「千五百番歌合」の百首歌を後鳥羽院に詠進する(上1001~)。
7/27 後鳥羽院、和歌所を設置。新古今集の撰進はじまる。定家は和歌所寄人となり、11月には撰者に任命される。他の撰者は源通具・藤原有家・藤原家隆・飛鳥井雅経。
8/15 「建仁元年八月十五夜撰歌合」披講。定家、判詞を書く。
10/5 熊野御幸に御供として出発する。
10/6 初めて住吉社に参詣、和歌あり(明月記、員外之外3793~3795)。
10/16 熊野本宮で作歌(下2714~1716)。さらに18日新宮(下2717~2719)、19日那智(下2720~2722)。26日帰京。
11月 「院句題五十首」を後鳥羽院に詠進する(中1729~)。
12/6~13 日吉社に参籠、夢想を得る。
12/28 石清水八幡宮の歌合に出詠(下2345、2346)。
1/25 式子内親王(53歳) 2/13 改元。
1202 建仁二
(41歳)
3/22 和歌所の「三体和歌会」に列する(下2058ほか全六首)。
6/3 「水無瀬釣殿六首歌合」に詠進(下2123~2125,2412~2414)。
7/20 寂蓮の死を知り哀慟。この後、雅経と歌を贈答(下2679)。
8/20 院影供歌合・当座歌会で「秋夜詠三首」(員外之外3775~)と「詠二首和歌」(員外之外3778~)
9/6 「千五百番歌合」の判者十名の一人に任ぜられる。
9/13 「水無瀬恋十五首歌合」に列する(下2415~2429)。
閏10/24 左近衛権中将となる。
11/19 為家、従五位下に叙される。
この年、九条より冷泉小路に本居を移す。承久頃まで住み続ける。
7月 寂蓮
10.20(21?) 源通親(54歳)
12/25 良経、摂政となる。
1203 建仁三
(42歳)
1/13 美濃介を兼ねる。
2/4 和歌所、京極殿に移される。
2/24 雅経・具親ら和歌所の人々と大内の花見をし、和歌を講ずる(下2068)。
8/1 良経邸の詩歌合に出詠(下2053・2054)。
8/14 後鳥羽院の命により「俊成九十賀屏風歌」詠進(下1817,員外之外3734~3744)。
8/15 「八月十五夜和歌所当座五首」(後鳥羽院御集)。明月記によれば定家は講師。定家の作は続古今集415に一首のみ伝わる(拾遺愚草不収録)。
11/23 俊成、和歌所にて九十賀を賜わる。御遊後、諸歌人と共に歌を詠む(下2387)。
12/17 姉の八条院按察没(50歳)。
12/24 兄の成家(49歳)、従三位に叙せられる。
9月 源実朝、征夷大将軍となる。
1204 元久元
(43歳)
7月 「宇治離宮御会」
8/15 五辻殿で八月十五夜五首歌会(下2189~2193)。
11/10 「春日社歌合」の講師を務める。
11/30 藤原俊成(91歳) 2/20 改元。
1205 元久二
(44歳)
3/9 後鳥羽院より「自讃歌廿首」の撰進を命ぜられる。
3/25 復任。
3/26「新古今和歌集」撰集終功の竟宴が催される。定家は欠席。
6/15 「元久詩歌合」催される。定家は出詠したが当日は欠席。
9/2 源実朝に古今集写本を献ずる。
 
1206 建永元
(45歳)
1/11 高陽院殿初度歌会(下2411)。
1/17 為家、従五位上に加階。定家は雅経と贈答(下2396)、また家長と贈答(下2588)。
3/7 良経急死。定家は家隆と歌を贈答(下2635)。数日後、家隆より贈歌、これに返歌する(下2636~2645)。同じ頃、弔問した人への返歌(下2646~2653)。
夏 ある人に良経追悼の十首を贈る(下2654~2663)。
7/13 和歌所で有家・家隆ら新古今撰者と相議し、「卿相侍臣歌合」勝利祈願のため住吉社に願書を書く。当夜、院給題の当座歌会(下2168ほか)。
7/25 「卿相侍臣歌合」に列する(下2148,2149)。
7/28 仙洞和歌所当座歌合(散逸)に出詠する(下2441ほか)。
8/1 「卿相侍臣嫉妬歌合」に出詠する(下2570~2572)。
8/15 鳥羽殿で御舟遊、和歌(下2381)。
3/7 九条良経(38歳) 4/27 改元。
1207 承元元
(46歳)
3/7 上下社の「賀茂歌合」に列する(員外之外4008~4012)。
3/8 良経一周忌の翌日、「大僧正十首御哥の返し」(下2664~2673)。
4/7 院より「自嘆歌十首」を召される。
6/10 「最勝四天王院名所障子歌」詠進(中1818~1863)。
4/5 九条兼実(59歳) 10/25 改元。
1208 承元二
(47歳)
4/14 女子を具し日吉社参。21日帰洛。
4/22 賀茂祭の勅使中山忠明と歌を贈答(下2098)。
閏4/4 院和歌所御会に三首詠進する(下2111・2435)。
5/29 「住吉社歌合」に列する(下2388)。
秋 少将具親、石清水・住吉・広田の三社で歌を披講すべく勧進、定家は六首出詠(下2573・2574、2703~2706)。
 
1209 承元三
(48歳)
4/14 為家、任侍従(公卿補任)。
夏 源実朝の歌に合点を加え、「近代秀歌」を贈る。8/13鎌倉に届く(吾妻鏡)。
9月 「新羅社歌合」に出詠(下2290)。
この年 「長尾社歌合」に出詠(員外之外3885、夫木和歌抄16124)。
顕昭、この年以後。
1210 承元四
(49歳)
土御門
/順徳
1/14 讃岐権介に任ぜられる。
7/21 中将を辞し、為家(13歳)を左近衛権少将に任じ替う。
9/22 後鳥羽院主催の粟田宮歌合に出詠。他に家隆・雅経・忠経。
10月 源家長の日吉社歌会に詠歌(下2304)。
11/30 為家、昇殿を許される(公卿補任)。
12/17 内蔵頭に任ぜられる。
  11/25 順徳天皇、践祚。
1211 建暦元
(50歳)
順徳 9/8 侍従となり従三位に叙せられる。この件につき雅経・家隆と歌を贈答(下2398・2399)。
10/15 光家内昇殿を許される。
11/4 津守経国の請いにより住吉社に東遊の歌を奉る(下2701)。
1/25 法然(80歳)。
6/26 八条院(75歳)
3/9 改元。
1212 建暦二
(51歳)
3月頃 三首詠草(順徳天皇七条殿行幸の際の当座歌会。員外之外3772~)
5/9 消息にて家隆の昇殿を知り喜ぶ。
5/11 「内裏詩歌合」(散逸)に列す(下2048ほか)。「御製殊勝、目を驚かす者なり」(明月記)。
9/15 内裏秋十首歌会(下2261~2270)。
10/28 大嘗会御禊に供奉。翌日、雅経と御禊につき和歌を贈答(下2393)。
11/22 後鳥羽院より三題を給わり、二十首歌の詠進を求められる(院二十首)。
12/2 後鳥羽院の「二十首御会」(院二十首)に詠進(中1864~)。後鳥羽院「人もをし」の歌を詠む。
  この頃鴨長明「方丈記」「無名抄」成る。
1213 建保元
(52歳)
1/17 後鳥羽院より「生涯の詠歌廿首」を撰進するよう命ぜられる。
3月 内裏歌会で恋歌三首を詠む(下2442~2444)。
7/28 松尾社歌合(下2130ほか)。詠進は17日。
8/7 順徳天皇の内裏歌合(下2542,2543)。
8/16 順徳天皇の内裏当座歌会(下2291)。
9/13 順徳天皇主催の九月十三夜内裏歌合(下2203,2445)。
閏9/19 順徳天皇主催の内裏歌合に出詠(下2171ほか)。
11/8 源実朝に万葉集写本を贈る。
  12/6 改元。
12月 源実朝「金槐和歌集」成る。
1214 建保二
(53歳)
2/10 参議となる。家隆より祝歌(下2400)。
2/3 「内裏詩歌合(禁裏詩歌合)」に出詠(下2044ほか)。
2/30 「後仁和寺宮花鳥」に詠進(中1884~1907)。
8/16 「内裏秋十五首歌合」に詠進し加判する(下2236~2250)。
8/27 馬場殿撰歌合(水無瀬殿秋十首)に列す(下2271~2280)。
9/13 九月十三夜内裏歌会(下2181,2292)。
9/14 和歌所歌会(下2379)。
この年、実朝に古今集を書写して贈る。
 
1215 建保三
(54歳)
3/21 順徳天皇の内裏歌合に出詠か(下2049)。
3/30 兄の成家が出家する。
6/2 後鳥羽院御所において「院四十五番歌合」行われる(下2057ほか)。
6/18 順徳天皇の内裏歌合に出詠(下2041ほか)。
8/15 八月十五夜内裏歌合に出詠(下2165~2167)。
9/13 「内大臣家百首」披講(上1101~)。
10/26 「内裏名所百首」を献ずる(上1201~)。
この頃、定家、八代集から抜粋した手控えの秀歌撰「定家八代抄(二四代抄)」を編む。
1216 建保四
(55歳)
1/5 家隆が従三位に叙せられ、定家は祝歌を贈る(下2407)。
1/13 治部卿に任ぜられる。
1/28 「建保四年院百首」(仙洞百首)詠進(上1301~)。
2月 「百番自歌合」(第一次本)成る。
3/18 「拾遺愚草」(第一次本)成る。続いて「拾遺愚草員外」(第一次本)も成るか。
3/28 侍従を辞す(下2589・公卿補任)。同日、雅経が右兵衛督に任官し、翌朝贈答(下2405)。
閏6/9 順徳天皇主催の「内裏百番歌合」に出詠し、のち百人一首に自ら採った「来ぬ人を…」の歌を詠む(下2447)。
11/30 俊成十三回忌に遺言により結縁経供養をし和歌(下2752)。
12/14 正三位に叙される。雅経と歌を贈答(下2406)。
4/2 殷富門院(70歳)。
4/11 藤原有家(62歳)
閏6月 鴨長明(62歳?)
二条院讃岐この年以後
1217 建保五
(56歳)
4/14 「後鳥羽院庚申御会」に列する(下2069ほか全五首)。
5月 「御室にて三首」(下2598,2599)
6月 「百番自歌合」(第一次本)に改訂を施す。
11/4 「内裏歌合」に列する。
12/12 為家、左中将に昇進。
 
1218 建保六
(57歳)
7/9 民部卿に任ぜられる。
8/13 中殿御会で歌を奉る(下2182)。
8/28 九月十三夜内裏歌会のために詠進(下2295~2297)。
9/13 九月十三夜内裏三首御会。
この年春 「韻字四季歌」六十四首を詠む(員外3398~3461)。
この年、慈円の勧めで「文集題百首」を詠む(員外3198~3297)。
12月 源実朝、右大臣となる。 
1219 承久元
(58歳)
1/5 為家、正四位下に叙せられる。
6月 故八条院の忌日、蓮華心院に参詣し女房と歌を贈答(下2680~〔2687〕)。
7/27 順徳天皇主催の「内裏百番歌合」に出詠(下2030ほか全十首)。
7月 「毎月抄」を内大臣衣笠家良に贈る。
9/7 「日吉歌合(日吉社十禅師歌合)」奉納(下2285~2288,2712,2713)。
この年、「百番自歌合」に順徳天皇の勅判を請う。
この年、道助法親王主催「仁和寺宮五十首和歌」に詠進(中1908~)。
1/27 源実朝(28歳) 4/12 改元。
1220 承久二
(59歳)
1/22 播磨権守を兼ねる。
2/13 内裏歌会に提出した歌が後鳥羽院の怒りに触れ、勅勘を被って、公の出座・出詠を禁ぜられる。
6/4 兄成家没(66歳)。
8月 道助法親王より忍んで秋十首歌を召される(下2251~2260)。
8月 土御門院より忍んで歌を召される(下2463)。
9/13 慈円に十首の述懐歌を贈る(下2604~2613)。返歌あり。
秋 慈円の勧めにより「四季題百首」を詠む(員外3298以下)。
  3/22 藤原家隆、正三位に叙せられる。
1221 承久三
(60歳)
順徳/
仲恭/
後堀河
3月 左大臣道家と歌を贈答(下2082)。
3/8 順徳天皇より忍んで「春日社歌合」の歌三首を召される(下2083・2084)。
3/21 「顕註密勘」成る。
この年、「内よりめされし述懐哥」(下2587)。
3/11 藤原雅経(52歳) 4/20 順徳天皇、譲位。仲恭天皇(4歳)践祚。
5/14 後鳥羽院、北条義時追討の院宣を下す(承久の乱)。
7月 後鳥羽院・順徳院の遠島配流が決せられ、まもなく隠岐・佐渡に遷幸。
7/9 仲恭天皇が廃され、後堀河天皇(10歳)践祚。後高倉院が院政を執る。
1222 貞応元
(61歳)
後堀河 8/16 従二位に叙され、参議を辞す。播磨権守は元の如し。
11/24 五節舞姫参入の夜、太政大臣西園寺公経と歌を贈答(下2327,2328)。
この年、孫の為氏生れる。為家と宇都宮頼綱女の子。
この頃、冷泉小路より一条京極に住居を移す。
  4/13 改元。
8/13 藤原(西園寺)公経、任太政大臣(翌年辞任)。
1223 貞応二
(62歳)
7/22 古今集を書写する(貞応本)。
8月 為家、「千首和歌」を詠ずる。
5/14 後高倉院、崩御。
1224 元仁元
(63歳)
この年、「権大納言家五首」を詠む(下2089ほか)。
この年、「藤川百首」を詠むか(員外3562~)。
  11/20 改元。
1225 嘉禄元
(64歳)
2/16 前年冬よりの「源氏物語」全帖の書写を終える。
3/14 「覚寛法眼五首」(仁和寺宮五首とも。下2085~2088)と「権大納言家三十首」を詠出する(中1958~。三十首の詠進は21日)
3/29 権大納言家三十首和歌会に列する。
12/22 為家(28歳)、蔵人頭に任ぜられ、定家は歓喜に涙する。
光家(浄照坊)、この年以前に出家か。
9/25 慈円(71歳) 4/20 改元。
1226 嘉禄二
(65歳)
3/15 古今集を書写する(嘉禄本)。
4/19 為家(29歳)、参議兼侍従に任ぜられる。
8月 俊成の口伝に基づき歌学書「僻案抄」を著す(初稿本)。
11/4 為家、従三位に叙せられる。
 
1227 安貞元
(66歳)
閏3月 「詠十五首和歌」(道助法親王家十五首。員外之外3757~)
10/22 民部卿を辞す正二位に叙せられる。
この年「京極亭月次会」で「時雨知時」の題が詠まれる(為家集)(下2305)。
12/10 改元。
1229 寛喜元
(68歳)
11月 「女御入内屏風和歌」に詠進し、撰定(中1988~2025)。   3/5 改元。
1230 寛喜二
(69歳)
6月 九条道家、百首歌を発案(二年後、「洞院摂政家百首(関白左大臣家百首)」として成立)。  
1231 寛喜三
(70歳)
8/19 臥待の願をかけて春日社に参詣する。 10/11 土御門院(37歳) 12/22 西園寺公経、出家。
1232 貞永元
(71歳)
後堀河
/四条
1/30 権中納言に就任。
3/25 「石清水若宮歌合」に出詠(員外之外4027~4029)。
4月 「関白左大臣家百首」を詠む(上1401~)。定家最後の百首歌。
6/13 後堀河天皇より勅撰集撰進を命じられる。
7月 「光明峰寺摂政家歌合」(「拾遺愚草」には「大殿哥合」とある)に出詠(下2469~2478)。また判者を務める。
8/15 「内裏三十五番名所月歌合」に出詠(員外之外4030~4032)。
12/15 権中納言を辞し、勅撰集編集に専心する。
「百番自歌合」の再改訂(十首差し替え)はこの年か。
  4/2 改元。
10/4 後堀河天皇、譲位。四条天皇(2歳)、践祚。
1233 天福元
(72歳)
四条 9/23 長女の民部卿典侍(因子)が藻壁門院の崩御に殉じて出家。この件につき、家隆と歌を贈答(下2698)。
10/11 出家。法名、明静。
10/11以後 出家を巡って源家長・藤原隆衡と歌を贈答(下2790・2791)。「拾遺愚草」正編の末尾。


「拾遺愚草」(正編)の改編完成(第二次成立)はこの年7月~10/11の間。また10/11以後、さらに補訂されたと見られる。
「名号七十首(名号七字十題和歌)」(員外之外3664~)はこの年以後の成立。
  4/15 改元。
9/18 後堀河天皇の中宮藻壁門院(九条道家の娘、四条天皇の母)、死産の後崩御(25歳)。
この年7月中旬、寂延法師撰「御裳濯和歌集」成る。定家作多数撰入。
1234 文暦元
(73歳)
6/3 自筆の「新勅撰和歌集」未定稿本を後堀河院に仮奏覧。
8/6 後堀河院、崩御(23歳)。定家は落胆し、手もとにあった「新勅撰集」草稿を焼く。
9/8 「八代集秀逸」道助法親王に進上する。明月記に「有子細云々、有恐惶事」などとあり、実は後鳥羽院の仰せであったらしい。
11/9 九条道家に召されて参上。「新勅撰集」につき「御感言」を頂くが、「猶時輩歌有承旨等」と、当代歌人の作につき改編を要求される(新勅撰集識語)。
11/10 再び道家邸に赴き、後堀河院に奏覧した「新勅撰集」未定稿本を受け取り、「百余首」を除棄した上で進上する(新勅撰集識語)。
8/6 後堀河院(23歳) 11/5 改元。
1235 嘉禎元
(74歳)
3/12 世尊寺行能による「新勅撰集」精撰本の浄書が完成し、道家のもとに進上される。
3/18 前関白道家・摂政教実、後鳥羽院・順徳院の環京を鎌倉に提案。
4/13 嵯峨山荘に行く(以下、明月記)。
4/23 嵯峨中院山荘(宇都宮入道蓮生の別荘)に赴く。
5/1 嵯峨中院山荘の連歌会に出席する。藤原信実らが同席。
5/5 嵯峨山荘より帰宅。
5/14 遠島両院の環京案が幕府によって拒否されたことを知る。
5/27 蓮生の懇切な求めに応じ、嵯峨中院山荘の障子色紙形に「古来人歌各一首」を書いて送る。「自天智天皇以来及家隆雅経」。
3/28 九条教実(26歳) 3月以前、後鳥羽院撰「時代不同歌合」(初撰本)成立〔一説〕
9/10 家隆、正三位より従二位に昇叙される。※百人秀歌はこの時以前に成立。〕
9/19 改元。
1236 嘉禎二
(75歳)
    7月 後鳥羽院、隠岐で「遠島御歌合」を開催。家隆・如願源通光ら、詠進。
7月以後 後鳥羽院、「時代不同歌合」を改編。
1237 嘉禎三
(76歳)
9.23 「拾遺愚草員外」時雨亭文庫所蔵本の識語に「写本云嘉禎三年九月廿三日以京極正本一校了」とある。この日「員外」定家自筆本を(為家関係者が?)書写を終える。この本に「堀河題百首」は収録されていないので、定家が「員外」に「堀河題百首」を増補したのはこの日以後か。
10月 順徳院の百首歌(「順徳院御百首」)に加判する。
「名号七十首」は一説にこの年の作。
4/9 藤原家隆(80歳)
1238 暦仁元
(77歳)
この年、順徳院に「僻案抄」を奉る。 12/28 宜秋門院(65歳) 11/23 改元。
1239 延応元
(78歳)
2/22 後鳥羽院(60歳) 2/7 改元。
5/29 隠岐で崩じた院に「顕徳院」の諡号が贈られる〔仁治三年、後鳥羽院に改める〕
1240 仁治元
(79歳)
6月 藤原長綱に「僻案抄」の一見を許す。 5/21 如願(藤原秀能)(57歳) 7/26 改元。
1241 仁治二
(80歳)
8/20 没。80歳。  
1290 正応三
(没後49年)
伏見 1月 為家の子慶融、「拾遺愚草」正編の「京極入道中納言家真筆」の本を書写(名大本の中巻末の識語)。  
1301 正安三
(没後60年)
後伏見 3月 素月、慶融の写した「拾遺愚草」を書写(名大本識語)。  
1410 応永一七
(没後169年)
後小松 4/1 正徹、素月の写した「拾遺愚草」正編の書写を終える(名大本識語)。
7/1 正徹、「拾遺愚草員外」の書写を終える(名大本員外末識語)。
 

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公開日:平成22年07月29日
最終更新日:平成24年05月12日