藤原為氏 ふじわらのためうじ 貞応元〜弘安九(1222-1286)

権大納言為家の嫡男。母は宇都宮頼綱の娘。源承・為教(京極家の祖)・為相(冷泉家の祖)・慶融ほかの兄。為世・為実・定為延政門院新大納言ほかの父。二条家の祖。御子左家系図
嘉禄二年(1226)正月、叙爵。侍従・左少将・左中将を経て、建長二年(1250)正月、蔵人頭に補せらる。同三年正月、参議に就任。同四年、右衛門督を兼ねる。正嘉二年(1258)十一月、権中納言に進み、文応元年(1260)九月、正二位に叙せられる。同二年三月、中納言に転じ、侍従を兼ねる。文永四年(1267)二月、権大納言に任ぜられたが、翌年正月、辞退した。建治元年(1275)、父が没すると御子左家を継承したが、為相の母阿仏尼との間で荘園や文書の相続をめぐって訴訟が起こり、結局御子左家は二条・冷泉・京極の三家に分裂するに至る。
祖父定家・父為家の薫陶を受けて育つ。寛元元年(1243)の河合社歌合に出詠したのを始め、宝治元年(1247)の後嵯峨院歌合、同二年の宝治百首、建長三年(1251)九月影供歌合、文永二年(1265)七月七日白河殿七百首、同年八月十五夜歌合、同年九月十三夜亀山殿五首歌合、弘長元年(1261)以後の弘長百首など、後嵯峨院の内裏歌壇を中心に活躍した。弘長三年(1263)には父為家主催の住吉社歌合・玉津島歌合に出詠。建治二年(1276)秋、住吉社三十五番歌合を主催し、自ら判者を務めた。同年七月、亀山院より勅撰集撰者に任命され、弘安元年(1278)十二月二十七日、『続拾遺集』として奏覧。弘安八年(1285)八月、出家。法名は覚阿。翌年九月十四日、薨。六十五歳。生涯を通じたびたび関東に下向したが、死没地も鎌倉かと言う。
宇都宮歌壇を中心とした歌集『新和歌集』を編纂した。後人撰の家集『大納言為氏卿集』がある。続後撰集初出。以下、勅撰入集は計二百三十二首。

  2首  2首  2首  3首  4首 計13首

文永四年内裏詩歌をあはせられ侍りし時、春日望山

はるかなる麓はそこと見えわかで霞のうへにのこる山の端(続拾遺28)

【通釈】遥かな麓は、どこにあるとも見分けられず、立ち込める霞の上に山の稜線だけが残っている。

【補記】文永四年(1267)、漢詩と和歌を左右に分けて番う詩歌合での作。春の日、遥かに山を望めば、麓がどこから始まるとも判別できないほど立ち込める霞。ただ辛うじて山の稜線だけがその上に覗けている、という状景。墨絵の暈(ぼか)しの技法を思わせる。

【主な派生歌】
暮るる空のながめはここにかかれとや霞のしたにのこる山の端(伏見院)
そことしも麓は見えぬ朝霧に残るもうすき秋の山の端(一条内経[玉葉])

建長二年詩歌を合せられ侍りし時、江上春望

人問はば見ずとや言はむ玉津島かすむ入江の春のあけぼの(続後撰41)

【通釈】人が尋ねたら、見なかったと言おうか。玉津島の景色――霞のたちこめる入江の春の曙を。

【補記】玉津島は紀伊国の歌枕。今は妹背山と呼ばれる、和歌の浦に浮ぶ小島である。万葉集でも「玉津島見れども飽かずいかにして包み持ちゆかむ見ぬ人の為」「玉津島よく見ていませあをによし奈良なる人の待ち問はばいかに」とその景観が賞美された。為氏の作は後者の歌を承け、「人から訊ねられたら、見なかったと言おうか」と応じたもの。筆舌に尽し難い美しさは、自分の心ひとつに秘めておこう、との気持であろう。ところが『井蛙抄』にこの歌に関する逸話があり、為氏ははじめ第二句を「見つとやいはん」としたのを、父為家の助言により「見ず」に改めて歌合に提出したのだという。肯定を否定に言い換えたことで、春の曙の玉津島の情景が、いわば作者の内面の景と化したのだ。

【本歌】作者未詳「万葉集」巻七
玉津島よく見ていませあをによし奈良なる人の待ち問はばいかに

【主な派生歌】
見てしかな見ぬ面影の玉津島きくにもうかぶ春のあけぼの(大内政弘)

弘安百首歌たてまつりける時

を鹿待つ猟男(さつを)火串(ほぐし)ほのみえてよそに明けゆく端山しげ山(風雅373)

【通釈】鹿をおびき寄せる猟師の火串がほの見える――その炎とは無縁に、やがて明けゆく端山・茂山。

【語釈】◇火串(ほぐし) 鹿を寄せるために焚く松明を挟んでおく木。◇よそに明けゆく 火串とは無関係に。炎の明るさとは別に、空が明るくなってゆくさまを言うが、「鹿が獲れないまま夜が明けゆく」ことを含意している。◇端山(はやま)しげ山 端山繁山。端山は里との境にある山。茂山はそれより奥の、木々が深く茂った山。風俗歌「筑波山」に由来する語句。源重之が「つくば山は山しげ山しげけれど思ひ入るにはさはらざりけり」(新古今集)と本歌取りして以後、歌によく用いられるようになった。

弘長三年内裏百首歌たてまつりし時、杜蝉(もりのせみ)

をりはへてねに鳴きくらす蝉の()の夕日もうすき衣手の森(続拾遺210)

【通釈】せわしなく、一日を鳴き暮らす蝉――その羽の薄いように、夕日も薄く射す衣手(ころもで)の森。

【補記】晩夏の森に鳴く蝉を主題とする。「夕日も」は「結ふ紐」と掛詞になり、「うすき」と共に「衣」の縁語。また「蝉の羽」は薄い夏衣の喩えとされたから、これも衣の縁語と言える。暮夏の衰えた夕日の涼しさに、衣替えの季節も近づいたことを暗示してみせた、巧妙な趣向。それと共に一首の見どころは、「蝉」から歌枕「衣手の森」(京都松尾大社付近の森かという)へと、いわば連想ゲームのように言葉をつなげてみせた瀟洒な技法にある。

【本歌】よみ人しらず「後撰集」
をりはへてねをのみぞなく郭公しげきなげきの枝ごとにゐて

弘長元年百首歌たてまつりし時、雪

さゆる夜のあらしの風にふりそめて明くる雲まにつもる白雪(続拾遺434)

【通釈】冷え冷えとした夜、山から吹き下ろす風に降り始めて――明け方、雲が切れた晴れ間には、白雪が積もっている。

【補記】寒夜、山から吹きつける強風に舞い始めた雪が、雲間に朝日が射し始める頃には、地面を白く覆っている。前夜の嵐の激しさに対し、今朝の嘘のような静けさ。「明くる雲まにつもる白雪」と言いなして、雲と雪の白さを照応させたのも心憎い趣向。

【主な派生歌】
雲かかるかづらき山に降りそめてよそにつもらぬけさの白雪(近衛道嗣[新拾遺])

冬歌とて

暮れかかる夕べの空に雲さえて山の端ばかりふれる白雪(玉葉959)

【通釈】暮れ始めた夕空に雲が寒々とかかり、山の端のあたりだけ白雪が積もっている。

【補記】灰色と白の冬景色。のちの京極派に受け継がれ発展させられてゆく詠風で、実際京極派の勅撰集である玉葉集に採られている。

【主な派生歌】
けさはまづ山のはばかりうづもれて都のよもにふれるしら雪(頓阿)

入道前太政大臣家に十首歌よませ侍りけるに、初恋の心を

今よりの涙の果てよいかならむ恋ひそむるだに袖は濡れけり(玉葉1249)

【通釈】これから先、私の流す涙はどんなことになってゆくのだろう。恋し始めたばかりでさえ、袖はこんなに濡れてしまっている。

【補記】西園寺実兼邸での十首歌会。「初恋」は「恋の初期段階」の意で、「初めての恋」ではない。

恋歌の中に

思ひかねなほ世にもらばいかがせむさのみ涙のとがになしても(続拾遺812)

【通釈】思い余って、とうとうこの恋が世間に漏れたらどうしよう。そうは涙のせいにばかりもできず…。

【補記】「もらば」は涙の縁語で、抑えきれぬ涙が袖を漏れること即ち「世にもれる」ことであった。「涙のとが」は「人のとが」を隠し、本当はつれない恋人のせいなのだ、と恨みたい心を秘めている。

宝治元年十首歌合に、遇不逢恋

ありしよを恋ふるうつつはかひなきに夢になさばや又も見ゆやと(続千載1412)

【通釈】かつての逢瀬の日々を懐かしがる――そんな現実など甲斐もないことだ。いっそあの日々を夢にしてしまいたい。そうすれば夢で再び逢えるかも知れないからと。

【補記】題「遇不逢恋」は「一時逢っていたが、今は逢い難くなった恋」ほどの意。「ありしよ」の「よ」には「世」「夜」の両義を掛ける。

人々にすすめてよませ侍りける住吉社十首歌に、旅宿風

夢をだに見つとは言はじ難波なる葦のしのやの夜はの秋風(続千載802)

【通釈】夢をさえ見たとは言うまい。難波の葦葺きの小屋で過ごす夜の秋風よ。

【補記】難波江のほとり、葦で葺いた粗末な宿で過ごす旅寝の一夜、秋風の音に夢を破られる。故郷の人にも告げまいと言うその夢とは、いったいどんな夢だったのか。あまりの侘びしさに、消息をしたためる気力もなくしたのだろうか。「みつ」は「御津」と掛詞になり、船出を控えていることを暗示している。

【参考歌】賀茂女王「万葉集」
大伴の見つとは言はじあかねさす照れる月夜にただにあへりとも
  伊勢「古今集」
夢にだに見ゆとは見えじ朝な朝なわが面影にはづる身なれば

題しらず

清見潟うち出でてみれば庵原(いほはら)の三保の沖つは波しづかなり(新後撰591)

【通釈】清見潟よ、そこに出てうち眺めれば、庵原の三保の沖は波静かである。

【語釈】◇清見潟(きよみがた) 駿河国の歌枕、今の静岡市清水区興津あたり。富士や三保の松原を望む景勝地で、「清く見ゆ」の意が掛かる。◇庵原の三保 駿河国庵原郡三保。

【補記】「庵原の三保」は山部赤人が「田子の浦ゆうち出てみれば真白にぞ富士の高嶺に雪はふりける」と詠んだ場所に近い。風体も赤人詠に倣った叙景歌だが、美しい地名を連ねて旅情を誘い、「波しづかなり」と収めた結句が清々しい。作者はたびたび関東に下った経験があり、実見の印象を踏まえた作だろう。初出は宝治百首。題は「海眺望」で、雑の部に入れるべきところだが、新後撰集は敢えて羇旅の部に採った(「題しらず」としたのはそのためだろう)。玉葉集雑三に重出している。

【参考歌】田口益人「万葉集」
庵原の清見の崎のみほの浦のゆたに見えつつ物思ひもなし

宝治元年三月三日、西園寺へ御幸ありて、翫花といふ事を講ぜられけるに

千とせふるためしを今にはじめおきて花のみゆきの春ぞ久しき(風雅2175)

【通釈】これを千年も続く最初の例として、花をご覧になる華やかな御幸の春は、長久であります。

【補記】宝治元年(1247)三月、後嵯峨院西園寺実氏邸御幸の際に詠進した歌。

為氏の大納言、伊勢の勅使上る道より申しおくりにける

勅として祈るしるしの神風によせくる浪はかつくだけつつ(増鏡)

【通釈】勅(ちょく)を奉じて伊勢神宮に祈った、その霊験として神風が吹き、寄せ来る敵船は次々と波が砕け散るように敗走してゆく。

【補記】弘安四年(1281)、蒙古襲来の風聞で世情騒然とする中、伊勢神宮に敵国降伏を祈る勅使が派遣された。蒙古の軍船は九州目指して侵攻したが、閏七月一日、大風によって難破し、かくて未曾有の国難は回避された。勅使が伊勢からの帰途、この報に接して詠んだのが本作である。
伊勢勅使の任を受けた人物は、『増鏡』からも当時の記録等からも大納言藤原経任(つねとう)であることが明らかなのだが、『増鏡』はこの歌の作者として何故か為氏の名を記している。為氏が伊勢の勅使に任じられた記事は他に見えず、経任の誤記と見る説が有力のようだ。もっとも、歴史学者の龍粛(りょうすすむ)は「為氏は歌学の名流であり、殊にその歌は特別に意味の深いものであるから、確実な反証のない限り、軽々しく誤りとみるのは如何であろうか。無論『勅として』の歌は現存の為氏の家集には見えず、為氏の歌である確証はないが、さりとて別人の歌である証拠もなく、この問題についてはなお攻究すべき余地がある」と保留している(『鎌倉時代』)。ここでは、とりあえず『増鏡』の記事にしたがって為氏の作としておいた。


公開日:平成14年08月25日
最終更新日:平成21年04月16日