顕昭 けんしょう 生没年不詳(1130頃-1209以後) 別称:亮公・亮君・亮阿闍梨ほか

俗姓藤原(六条)氏。父母は不明。左京大夫顕輔の猶子。系図
少年期から比叡山で修行し、まもなく離山。のち、寿永から元暦の間に仁和寺に入ったらしい。建久二年(1191)までに阿闍梨となり、承元元年(1207)、法橋(法眼の次位。律師相当)となる。
六条藤家の一員として歌壇で活躍し、多くの歌合に出詠。顕輔・清輔没後は六条藤家の主導者の一人となり、守覚法親王を中心とした歌壇で指導的立場にあった。万葉風の古語を好んで用い、やや理知的傾向を重んじる歌風である。建久四年(1193)頃、藤原良経主催の『六百番歌合』では御子左家歌人と論戦を展開し、のち『六百番陳状』を著して俊成の判に反駁した。建仁三年(1203)頃、後鳥羽院主催の『千五百番歌合』に出詠し、判者も務めた。歌学者としても名高く、『袖中抄』『万葉集時代難事』『古今集註』など、実証主義的な学風を特色とする歌学書・注釈書がある。新古今歌風形成期にあって俊成・定家ら御子左家と激しく対立する存在であり、特に歌壇史的に注目されている歌人である。
千載集初出。勅撰入集四十三首。私撰集『今撰和歌集』の撰者という(『八雲御抄』)。『夫木和歌抄』によれば家集が存在したらしい。

  1首  1首  3首  1首  3首  3首 計12首

題しらず

惜しみかね思ひこりにし我が心また花見ればあくがれにけり(万代集)

【通釈】毎年桜の花が散るたびに名残惜しさに耐えきれず、もう懲りたと思っていた私の心だが、また咲いた花を見れば、やっぱり気もそぞろになってしまうのだった。

ゆふま山松の葉風にうちそひて蝉のなくねも峰わたるなり(六百番歌合)

【通釈】夕暮の木綿間山では、松の葉を吹き鳴らす風の音といっしょになって、蝉の鳴く声も峰々をわたって聞こえてくる。

【語釈】◇ゆふま山 万葉集の「木綿間山」に由来する歌枕だが、所在等は不詳。「夕」を掛ける。

【補記】建久四年(1193)頃、九条良経が主宰した歌合。夏二十八番左勝。

月の歌十首よみ侍りける時よめる

さびしさにあはれもいとどまさりけり独りぞ月は見るべかりける(千載993)

【通釈】寂しさのために、いっそうしみじみと情趣がまさって感じられるよ。やはり月というのは、独りで眺めるものだったのだなあ。

【補記】宴などで友と眺める月よりも、独り眺める月の方が「あはれ」は深いとした。出家しての庵住いを暗示している。

思ひやる心の道や近からんゆかで千里の月を見るかな(御室五十首)

【通釈】月を想いやる心の中では、道も近いのだろうか。行かずして、千里の彼方の月を見るのだなあ。

【語釈】◇千里(ちさと) 遥かな道のりを比喩的に言う。

【補記】「御室五十首」は建久九年(1198)頃に成った守覚法親王主催の五十首歌。「守覚法親王家五十首」とも言う。

守覚法親王、五十首歌よませ侍りけるに

萩が花ま袖にかけて高円の尾上の宮に領布(ひれ)ふるや(たれ)(新古331)

【通釈】萩の花を袖に懸けて、高円山の頂の方にある離宮で、領布を振っているのは誰だろう。

【語釈】◇高円(たかまと)の尾上(をのへ)の宮 高円は奈良市春日山の南の丘陵地帯。聖武天皇の離宮があった。万葉集以来、萩が詠まれることの多い歌枕。◇領布 衣の上から肩にかけて垂らした細長い布で、スカーフのようなもの。女子の装身具。

【本歌】大伴家持「万葉集」20-4315
宮人の袖付け衣秋萩ににほひよろしき高円の宮

湊辺氷と云ふことを

舟出する比良のみなとの朝ごほり棹にくだくる音のさやけさ(続後拾遺474)

【通釈】比良の湊(みなと)を船出してゆくと、岸近くに張っている朝氷が、棹にあたって砕ける、その音のなんと冴え冴えと響くことか。

【補記】「比良」は琵琶湖の西岸、滋賀県滋賀郡志賀町北比良・南比良のあたり。比良山から冷たい「比良おろし」が吹きつけ、冬の寒さの厳しい土地と見なされた。

【主な派生歌】
霜こほる朝けの窓の竹の葉に霰くだくる音のさやけさ(頓阿)

偶不逢恋の心を

生きてなぞ後のつらさを歎くらむ逢ふにかへてし命ならずや(万代集)

【通釈】なぜ私はこうして生きていて、逢瀬を遂げたのちの辛さを歎くのだろう。逢うことと引き換えに、捨ててしまったはずの命ではないのか。

【語釈】◇偶不逢恋 偶(あ)ひて逢はざる恋。一度逢って想いを遂げたが、その後逢うことが困難になった恋。◇後のつらさ 逢った後、つのる恋心の辛さ。◇逢ふにかへてし命 逢瀬と引き換えにした命。死んでもいいという覚悟のもとに逢ったことを言う。「命やはなにぞは露のあだ物を逢ふにしかへば惜しからなくに」(友則[古今])など、古来恋歌に頻出する言い方。

題しらず

つらきをも憂きをも夢になしはてて逢ふ夜ばかりをうつつともがな(新勅撰977)

【通釈】人の無情さも、つれなさも、すっかり夢にしてしまって、逢瀬を遂げたあの夜だけを現実としたいものだなあ。

【語釈】◇つらき 恋人の思いやりなさに対し、堪えがたい思いをすること。 ◇憂き 恋人の態度がつれなくて、晴れぬ思いをすること。

後京極摂政家百首歌合に

なぐさめし月にも果ては()をぞ泣く恋やむなしき空にみつらむ(続古今1141)

【通釈】いつも心を慰めてくれた月――今はそれを眺めても、恋しさの募った果てに、声をあげて泣いてしまうのだ。私の恋は、昔の歌のようにからっぽの大空をむなしく満たしているのだろうか。

【語釈】◇後京極摂政家百首歌合 いわゆる六百番歌合。恋六、寄月恋一番左勝。◇むなしき空 漢語「虚空」に由来する言い方という。「むなしき」に恋の虚しさ(いくら相手を思っても報われないという思い)を掛ける。また「空」は「月」の縁語になる。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
我が恋はむなしき空にみちぬらし思ひやれども行方もなし

〔題欠〕

富士の山いくかすぎぬとかぞふれば同じ麓に有明の月(三百六十番歌合)

【通釈】富士の山裾を旅してゆく――いったい幾日経っただろうと数えてみると、ずっと何日も同じ山の麓にいて、今日有明の月を見るのだ。

【語釈】◇同じ麓に 何日も旅したが、相変わらず同じ富士の麓にいる、ということ。富士の広大さをあらわしている。◇有明の月 夜遅く昇って、明け方まで空に残る月。ふつう、陰暦二十日以降の月。「あり」は「(麓に)在り」と掛詞になっている。

【補記】『三百六十番歌合』は正治二年(1200)、公任の「三十六人撰」に倣って編まれた歌合形式の秀歌撰。

【主な派生歌】
北になし南になして今日いくか不二の麓をめぐりきぬらん(宗良親王)

母の身まかりにける時よめる

たらちめやとまりて我を惜しままし代はるに代はる命なりせば(千載602)

【通釈】母の代りに私が死ねばよかったのだろうか。いや、代わろうとして代われる命であったとしたら、この世にとどまった母は、私の死を惜しみ歎くことになっただろう。

【語釈】◇たらちめ 母を意味する歌語。万葉集などに母の枕詞として用いられている「たらちねの」の「たらちね」が、その後父母を意味するようになり、またこれが転訛して「たらちめ」になった。◇惜しままし 惜しんだだろう。マシはいわゆる反実仮想の助動詞。現実に反する仮定のもとで、こうなるだろう、と予想する心。この歌では、もし自分が母に代わって死んだなら、残された母は私の命を惜しんで悲しんだだろう、ということ。

五十首歌の中に

死にやらぬ命ひとつにはかられて憂き身のはてを人に見えぬる(万代集)

【通釈】どうにも死にきれずに生き延びてしまった。命というたった一つのものに騙されて、情けない我が身の果ての姿を、人に見られてしまったよ。

【補記】守覚法親王家五十首歌。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成18年12月17日