慈円 じえん 久寿二〜嘉禄一(1155〜1225) 諡号:慈鎮和尚 通称:吉水僧正

摂政関白藤原忠通の子。母は藤原仲光女、加賀局(忠通家女房)。覚忠・崇徳院后聖子・基実・基房・兼実・兼房らの弟。良経・後鳥羽院后任子らの叔父にあたる。
二歳で母を、十歳で父を失う。永万元年(1165)、覚快法親王(鳥羽天皇の皇子)に入門し、道快を名のる。仁安二年(1167)、天台座主明雲を戒師として得度する。嘉応二年(1170)、一身阿闍梨に補せられ、兄兼実の推挙により法眼に叙せられる。以後、天台僧としての修行に専心し、安元二年(1176)には比叡山の無動寺で千日入堂を果す。摂関家の子息として法界での立身は約束された身であったが、当時紛争闘乱の場と化していた延暦寺に反発したためか、治承四年(1180)、隠遁籠居の望みを兄の兼実に述べ、結局兼実に説得されて思いとどまった。養和元年(1181)十一月、師覚快の入滅に遭う。この頃慈円と名を改めたという。
寿永元年(1182)、全玄より伝法灌頂をうける。文治二年(1186)、平氏が滅亡し、源頼朝の支持のもと、兄兼実が摂政に就く。以後慈円は平等院執印・法成寺執印など、大寺の管理を委ねられた。同五年には、後白河院御悩により初めて宮中に召され、修法をおこなう。
この頃から歌壇での活躍も目立ちはじめ、良経を後援して九条家歌壇の中心的歌人として多くの歌会・歌合に参加した。文治四年(1188)には西行勧進の「二見浦百首」に出詠。
建久元年(1190)、姪の任子が後鳥羽天皇に入内。同三年(1192)、天台座主に就任し、同時に権僧正に叙せられ、ついで護持僧・法務に補せられる。同年、無動寺に大乗院を建立し、ここに勧学講を開く。同六年、上洛した源頼朝と会見、意気投合し、盛んに和歌の贈答をした(『拾玉集』にこの折の頼朝詠が残る)。しかし同七年(1196)十一月、兼実の失脚により座主などの職位を辞して籠居した。
建久九年(1198)正月、譲位した後鳥羽天皇は院政を始め、建仁元年(1201)二月、慈円は再び座主に補せられた。この前後から、院主催の歌会や歌合に頻繁に出席するようになる。同年六月、千五百番歌合に出詠。七月には後鳥羽院の和歌所寄人となる。同二年(1202)七月、座主を辞し、同三年(1203)三月、大僧正に任ぜられたが、同年六月にはこの職も辞した。以後、「前大僧正」の称で呼ばれることになる。
九条家に代わって政界を制覇した源通親は建仁二年(1202)に急死し、兼実の子良経が摂政となったが、四年後の建永元年(1206)、良経は頓死し、翌承元元年(1207)には兄兼実が死去した。以後、慈円は兼実・良経の子弟の後見役として、九条家を背負って立つことにもなる。
この間、元久元年(1204)十二月に自坊白川坊に大懺法院を建立し、翌年、これを祇園東方の吉水坊に移す。建永元年(1206)には吉水坊に熾盛光堂(しじょうこうどう)を造営し、大熾盛光法を修す。また建仁二年の座主辞退の後、勧学講を青蓮院に移して再興するなど、天下泰平の祈祷をおこなうと共に、仏法興隆に努めた。
建暦二年(1212)正月、後鳥羽院の懇請により三たび座主職に就く。翌三年には一旦この職を辞したが、同年十一月には四度目の座主に復帰。建保二年(1214)六月まで在任した。
建保七年(1219)正月、鎌倉で将軍実朝が暗殺され、九条道家の子頼経が次期将軍として鎌倉に下向。しかし後鳥羽院は倒幕計画を進め、公武の融和と九条家を中心とした摂政制を政治的理想とした慈円との間に疎隔を生じた。院はついに承久三年(1221)五月、北条義時追討の宣旨を発し、挙兵。攻め上った幕府軍に敗れて、隠岐に配流された。
慈円はこれ以前から病のため籠居していたが、貞応元年(1222)、青蓮院に熾盛光堂・大懺法院を再興し、将軍頼経のための祈祷をするなどした。その一方、四天王寺で後鳥羽院の帰洛を念願してもいる。嘉禄元年(1225)九月二十五日、近江国小島坊にて入寂。七十一歳。無動寺に葬られた。嘉禎三年(1237)、慈鎮和尚の諡号を賜わる。
著書には歴史書『愚管抄』(承久二年頃の成立という)ほかがある。家集『拾玉集』(尊円親王ら編)、佚名の『無名和歌集』がある。千載集初出。勅撰入集二百六十九首。新古今集には九十二首を採られ、西行に次ぐ第二位の入集数。

青蓮院
青蓮院(しょうれんいん) 京都市東山区粟田口三条坊町。代々天台座主の住房とされた。慈円は第三代門主としてここに住し、勧学講を開くなどして仏法興隆の一拠点とした。

「大僧正は、おほやう西行がふりなり。すぐれたる哥、いづれの上手にも劣らず、むねと珍しき様(やう)を好まれき。そのふりに、多く人の口にある哥あり。(中略)されども、世の常にうるはしく詠みたる中に、最上の物どもはあり」(後鳥羽院御口伝)。

  1首  2首  4首  4首 哀傷 3首 羇旅 4首
  4首  22首 神祇 2首 釈教 6首 計52首

法楽日吉社 無題

色まさる松こそ見ゆれ君をいのる春の日吉(ひよし)の山のかひより(拾玉集)

【通釈】緑の色がいつもよりあざやかな松が見える。君の長久を祈る、春の日吉の山の峡から。

【語釈】◇法楽 神に和歌を奉納する法楽歌会。◇日吉社 滋賀県の日吉大社。延暦寺の鎮守。大国主命・大山咋(おおやまくい)の神を祀る。歌枕紀行近江国参照。◇日吉の山 日吉大社の背後の山。「(春の)日、良し」を掛ける。

【補記】本来は賀歌であろうが、ここでは春の部に置いた。

更衣をよみ侍りける

散りはてて花のかげなき()のもとにたつことやすき夏衣(なつごろも)かな(新古177)

【通釈】散り果てて、桜の花の影もない木の下――立ち去ることも気安いなあ、薄い夏衣に着替えた身には。

【語釈】◇花のかげなき 花の面影もない。また、花の作る陰がない、とも取れる。◇たつことやすき 本歌からして、「立ち去ることも気安い」の意であろう。「裁つこと易き」を掛け、「夏衣」につなげている。

【補記】拾玉集では制作年不明の百首歌として載る。

【本歌】凡河内躬恒「古今集」
けふのみと春を思はぬ時だにもたつことやすき花の陰かは

摂政太政大臣家百首歌合に、鵜河をよみ侍りける

鵜飼舟あはれとぞ見るもののふの八十(やそ)宇治川の夕闇の空(新古251)

【通釈】鵜飼船を見ると、情趣深く、悲しげに思えてならない。宇治川の夕闇の空の下で赤々とたいまつを燃やして。

長良川の鵜飼船
鵜飼の情景(古い絵葉書より)

【語釈】◇鵜飼舟(うかひぶね) 飼い慣らした鵜を用いて魚を獲る舟。夏の風物詩であり、貴族は見物を楽しんだが、仏教的な見地からは、殺生を業とする鵜飼の職は罪深いものとしても捉えられた。◇もののふの八十 氏(うぢ)から宇治川を起こす序。

【補記】建久三年(1192)給題の藤原良経主催「六百番歌合」。夏上廿一番右勝。

【鑑賞】「篝火をいはずしてそれと感じさせ、宇治川を覆ふ夕闇を、『夕闇の空』と大きくいひ、それとこれとの対照から来る印象を言外に感じさせてゐるところは余情であつて、これも当時の風である」(窪田空穂『新古今和歌集評釈』)

題しらず

身にとまる思ひをおきのうは葉にてこの頃かなし夕暮の空(新古352)

【通釈】我が身に留まる、秋の物思い――この物思いを置くのは、荻の上葉ならぬ我が身であるのに、思いはさながら哀れ深い荻の上風のごとくして、この頃かなしいことよ、夕暮の空。

【語釈】◇身にとまる思ひ 自分の身に留まって、消えることがない、秋の物思い。◇おき 置き・荻の掛詞。荻は歴史的仮名遣いでは「をぎ」だが、当時は「おき」と書いた。

【補記】「風ともいはず、秋ともいはざるは、ことさらにはぶきて、詞の外に思はせたるたくみ也、此人の歌、かやうなる趣多し」(本居宣長『美濃の家づと』)。

百首歌奉りし時、月の歌

いつまでか涙くもらで月は見し秋待ちえても秋ぞ恋しき(新古379)

【通釈】涙に目がくもらないで月を見たのは、いつ頃までのことだったろう。待望の秋を迎えても、さやかな月が見られるはずの、ほんとうの秋が恋しいのだ。

【補記】秋はただでさえ感傷的になる季節であるが、そのうえ境遇の辛さを味わうようになって以来、涙で曇らずに秋の明月を眺めたことがない、ということ。正治二年(1200)、後鳥羽院後度百首。

【他出】自讃歌、定家十体(有一節様)、拾玉集、新三十六人撰、六華集、題林愚抄

【参考歌】藤原頼輔「千載集」
身のうさの秋はわするる物ならば涙くもらで月はみてまし

【主な派生歌】
幾秋をたへて命のながらへて涙くもらぬ月にあふらん(藤原定家)

日吉社百首歌に

夕まぐれ鴫たつ沢の忘れ水思ひ出づとも袖はぬれなむ(続古今357)

【通釈】ぼんやりと暗い夕方、鴫(しぎ)が飛び立つ沢の、誰からも忘れられてしまったようなひそかな水の流れ――そのように、あの人と私の中も絶え絶えになってしまった。今更思い出したところで、また袖を濡らすだけだろう。

【語釈】◇忘れ水 野を絶え絶えに流れ、人から忘れられた水。恋人の訪問が途絶えがちになり、忘れられかけた境遇を暗喩する場合が多い。例、「はるばると野中に見ゆる忘れ水たえまたえまを歎く頃かな」(大和宣旨[後拾遺])。◇袖はぬれなむ 「濡れ」「水」は縁語。

【補記】拾玉集でも続古今集でも、秋歌に入れる。しかし恋の情緒の方に主眼があると言えるだろう。なお拾玉集では第五句「袖ぞぬれなむ」。

【参考歌】西行「新古今集」
心なき身にもあはれはしられけり鴫たつ沢の秋の夕ぐれ

五十首歌たてまつりし時、月前聞雁といふことを

おほえ山かたぶく月の影さえて鳥羽田(とばた)(おも)におつる雁がね(新古503)

【通釈】大枝山の稜線へ向かって沈みかけた月の光は冴え冴えとして、鳥羽の田のうえに降りてゆく雁の声。

【語釈】◇おほえ山 大枝山。山城・丹波国境の山。今で言えば、京都市西京区と亀岡市の境をなす。丹波・丹後国境の大江山と紛らわしいが、古来歌によく詠まれたのは大枝山の方である。◇鳥羽田 鳥羽は山城国の歌枕。今の京都市南区上鳥羽から伏見区下鳥羽あたり。鳥羽田はその地の田。

【参考歌】曾禰好忠「詞花集」
山城の鳥羽田の面をみわたせばほのかに今朝ぞ秋風は吹く
  西行「山家集」
なにとなくものがなしくぞ見えわたる鳥羽田の面の秋の夕暮

【主な派生歌】
雲路より穂波におつるしら鳥のとば田に消ゆる秋の夕霧(正徹)
山もとの軒ばの夕日影さえて袂にちかく落つる雁がね(心敬)
友あまたおりゐる声にさそはれて葦辺はるかにおつる雁がね(冷泉為村)
山風のさそふ木の葉と見るばかり麓のを田に落つる雁がね(村田春海)

題しらず

そむれども散らぬたもとに時雨きて猶色ふかき神無月かな(拾玉集)

【通釈】私の袂は、紅涙に染められたけれども、木の葉のように散ることはない。そこへさらに時雨が降ってきて、なお色を深くする、神無月なのだ。

【補記】承久元年(1219)十月、石清水八幡宮に奉納した二十首。後鳥羽院撰「時代不同歌合」に採られている。

春日社歌合に、落葉といふことをよみてたてまつりし

木の葉ちる宿にかたしく袖の色をありともしらでゆく嵐かな(新古559)

【通釈】木の葉の散る家で、ひとり寝ている私の袖は、悲しみに紅く染まっている。その色に気づきもしないで、嵐は無情に吹き過ぎてゆく。

【語釈】◇袖の色 紅涙に染まった袖の色。

【補記】冬の嵐は紅葉した葉を散らすものであるが、寝床で泣いている私の袖も紅葉のように染まっている。それも散らしてくれたらいいのに、袖の色には気づかずに通り過ぎてゆく…と嵐を恨んでいる趣向。男の訪れが途絶えた女の立場で詠んだ歌とも取れ、恋の恨みの情趣を纏綿させている。元久元年(1204)十一月十日、後鳥羽院の下命により和歌所において催された歌合、題は「落葉」、二番左勝。

【他出】自讃歌、定家十体(幽玄様)、六華集、題林愚抄

老若歌合 冬

明けばまづ木の葉に袖をくらぶべし夜半(よは)時雨(しぐれ)よ夜半の涙よ(拾玉集)

【通釈】朝が明けたらまず、散り落ちた紅葉に私の袖の色を比べてみよ。ああ、無情にも降りしきる夜の時雨よ、流れ続ける夜の涙よ。

【語釈】◇袖 紅涙に染まった袖。◇くらぶべし 木の葉と袖と、どちらの紅が濃いか、較べてみよ。この「べし」は自分の強い意思とも、相手(時雨や涙)に対する強い命令とも、どちらとも取れるが、下句からすると、後者か。

【補記】これも女の立場で詠んだ歌であろう。建仁元年(1201)二月、後鳥羽院主催の老若五十首歌合、百六十二番左勝。

【他出】定家十体(拉鬼様)、夫木和歌抄

題しらず

ながむれば我が山の端に雪しろし都の人よあはれとも見よ(新古680)

【通釈】眺めると、私の住む山の稜線には雪が積もって白く見える。都の人よ、この山の端を、そしてこの山に住む私をあわれと見よ。

【語釈】◇我が山の端(は) 作者の慈円は延暦寺に長く住んだので、この「山」は比叡山と解するのが自然である。

【補記】正治二年(1200)冬、後鳥羽院の命で詠進した百首歌、題は「雪」。比叡山の僧侶たる「我」が山を下りた折に「我が山の端」を眺めての詠として読むべき歌であろう。都の東北に聳える山は冬の訪れが早く、そこに住む人の寂しい境遇を思い遣ってほしいと、都の人に訴えている。題詠ではあるが、作者の実境を詠んだ歌である。

【他出】正治後度百首、定家十体(有心様)、拾玉集、三五記

哀傷

無常の心を(三首)

みな人の知りがほにして知らぬかなかならず死ぬるならひありとは(新古832)

【通釈】誰も皆、知ったような顔をしているが、肝に銘じては知らないのだな。生あるもの、必ず死ぬという決まりがあるとは。

【補記】文治四年(1188)十二月、「楚忽第一百首・無常」。作者三十四歳。

【他出】慈鎮和尚自歌合、定家八代抄、拾玉集、新三十六人撰

 

蓬生にいつか置くべき露の身はけふの夕暮あすの曙(新古834)

【通釈】蓬(よもぎ)の生えるような荒れ地に、いつか身を横たえるべき我が身――露のようにはかない我が身は、今日の夕暮とも、明日の明け方とも知れない命なのだ。

【語釈】◇蓬生(よもぎふ) 蓬などの雑草が繁る場所。ここでは墓地を暗示している。

【補記】文治三年(1187)十一月、「厭離百首」。

 

我もいつぞあらましかばと見し人を偲ぶとすればいとど添ひゆく(新古835)

【通釈】私もいつからこうなってしまったのか。「元気でいてくれたら」と思っていた人が亡くなって、思い出を偲ぼうとすれば、そんな人ばかりがますます増えてゆくようになったのは。

【語釈】◇あらましかばと 生きていてほしかったと。本歌を踏まえた言い方。

【補記】詠百首和歌。制作年不明。

【他出】慈鎮和尚自歌合、定家八代抄、拾玉集

【本歌】藤原為頼「拾遺集」
世の中にあらましかばと思ふ人亡きが多くもなりにけるかな

羇旅

題しらず

初瀬川さよの枕におとづれて明くる檜原に嵐をぞきく(玉葉1193)

【通釈】初瀬川のほとりで夜、旅寝していると、枕に川音が高く響いてきた。どうしたことかと思っていると、やがて明るくなり、見えてきた檜原に、嵐が吹きしきる。目覚めて今度はその音を聞くことになったのだ。

【語釈】◇初瀬川 大和川。特に奈良県桜井市の長谷寺のそばの流れを初瀬川とも言う。◇さよの枕におとづれて 枕元まで川音が響いてきて。翌朝、その音が嵐の前兆であったことを知るのである。◇檜原(ひばら) ヒノキ類が生えている原。

【補記】「拾玉集」では年代不明の詠百首和歌として載る。

【主な派生歌】
雲ちかき峰の木の葉をかたしきて枕の下に嵐をぞ聞く(藤原忠良[玉葉集])
さ夜ふかき軒ばの嶺に月はいりて暗き檜原に嵐をぞ聞く(永福門院 〃)

旅の歌とてよみ侍りける

旅の世にまた旅寝して草まくら夢のうちにも夢をみるかな(千載533)

【通釈】この世は仮の宿。いわば人生とは旅をしているようなものだが、そんな旅の世にあって、さらにまた旅寝をして、草を枕にする。そうして、夢の中でまた夢を見るというわけだ。

【語釈】◇草まくら 草を枕に寝ること。また、「枕」は「夢」の縁語になる。◇夢のうちにも はかない夢のような現世にあって。

【本歌】紀貫之「古今集」
やどりして春の山べにねたる夜は夢の内にも花ぞちりける

【他出】慈鎮和尚自歌合、拾玉集

詩を歌にあはせ侍りしに、山路秋行といへる心を

立田山秋ゆく人の袖を見よ木々の梢はしぐれざりけり(新古984)

【通釈】立田山を、秋に旅ゆく人の袖を見よ。旅の哀れさに流した涙で紅く染まっているだろう。それに較べたら、木々の梢の紅葉は時雨にも濡れなかったかのようだよ。

【語釈】◇立田山 龍田山とも。奈良県生駒郡三郷町の龍田神社背後の山。紅葉の名所。◇しぐれざりけり 時雨が降らなかったかのように、紅葉が薄い、ということ。時雨は木々を紅葉させると考えられた。

【補記】元久二年(1205)六月の元久詩歌合。

百首歌奉りし、旅歌

さとりゆくまことの道に入りぬれば恋しかるべき故郷もなし(新古985)

【通釈】遠く旅してきた人は故郷を恋しがるものだが、私は悟りへと通じる真実の道に入ったので、恋しく思うような故郷もありはしない。

【補記】正治二年(1200)後鳥羽院初度百首。

【主な派生歌】
旅の空なにかわびしき世をすてて出でにし身にはふるさともなし(元政)

百首歌奉りし時よめる

わが恋は松を時雨のそめかねて真葛が原に風さわぐなり(新古1030)

【通釈】私の恋は、松を時雨が染めかねるように、涙を流してもあの人の心を変えることはできず、ただ真葛が原に風が騒ぐように、胸を騒がせ、葛が葉の裏を見せて翻るように、あの人のつれなさを恨んでいるのだ。

【語釈】◇松を時雨のそめかねて 松は常緑樹であるから、時雨が紅く染めようとして染められない。涙を流しても相手の女の心を変えることができないことの譬喩。「そめかねて」を「顔色には出さずにいて」の譬喩と解する説もある(岩波新古典大系)。◇真葛(まくず)が原 真葛の生える原。葛はマメ科の蔓草。葉の裏が白く、秋風にひるがえるさまが顕著なため、「裏見」=「恨み」の掛詞が好んで歌に用いられた。◇風さわぐなり 恋心で胸中が動揺していることの比喩。

【補記】「時雨の染めかねて」と言い、「真葛が原に風さわぐなり」と言い、和歌的表現をいわば暗号として用い、恋心のありさまを秋の情景によって暗喩している歌。

【補記】正治二年(1200)、後鳥羽院初度百首。

【他出】三百六十番歌合、定家八代抄、竹園抄、和歌灌頂次第秘密抄(家隆口伝抄)

千五百番歌合に

わが恋はゆくかたもなきながめよりむなしき空に秋風ぞ吹く(風雅1517)

【通釈】私の恋は行方も知らず――ただ果てしもなく物思いに耽りつつ空を眺めている――その挙句、ただ虚しい大空に秋風が吹くばかり。

【補記】『千五百番歌合』千百四十三番左勝、生蓮の判詞は「左歌、たけたかくおもしろくはべり」。

【本歌】凡河内躬恒「古今集」
わが恋はゆくへもしらず果てもなし逢ふを限りと思ふばかりぞ

恋の歌とてよみ侍りける

わが恋は庭のむら萩うらがれて人をも身をも秋の夕暮(新古1322)

【通釈】私の恋は、庭の群萩の枝先が枯れるように、仲がれてしまって、つれないあの人のことも、自分のことも、もう厭になってしまった、そんな秋の夕暮。

【語釈】◇うらがれて ウラは葉や枝の先。離(か)れて(人と疎遠になる)を掛ける。◇人をも身をも あの人(恋人)をも、我が身をも。「逢ふことのたえてしなくは中々に人をも身をも恨みざらまし」(朝忠「拾遺集」)。◇秋 「飽き」を掛ける。

【補記】慈鎮和尚自歌合、十番右持。

【他出】慈鎮和尚自歌合、定家十体(濃様)、定家八代抄、詠歌大概、雲玉集

水無瀬恋十五首歌合

野べの露は色もなくてやこぼれつる袖より過ぐる荻のうは風(新古1338)

【通釈】野辺の草についた露は、色もなしにこぼれたのだろうか。私の袖を吹き過ぎていった、荻の上風に吹かれて…。私の袖から落ちた露は、涙で紅く染まっていたのだけれど。

【語釈】◇水無瀬恋十五首歌合 建仁二年(1202)九月十三日。◇色もなくて 野辺の露に「色がない」と言うことによって、袖には紅涙が露のように置いていることを言外に匂わせる。

【補記】建仁二年(1202)九月十三日、後鳥羽院が水無瀬離宮で催した水無瀬恋十五首歌合、題は「秋恋」、十一番右勝。俊成の判詞は「右歌また、色もなくてやといひ、袖よりすぐるをぎのうは風、いみじくをかしく侍る」。

【他出】若宮撰歌合、水無瀬桜宮十五番歌合、自讃歌、無名抄、定家八代抄、拾玉集、新三十六人撰

御裳濯百首 述懐

せめてなほうき世にとまる身とならば心のうちに宿はさだめむ(拾玉集)

【通釈】我が身がなお俗世間に留まることになるなら、せめて住む家はこの浮世でなく心のうちに定めよう。

【語釈】◇うき世にとまる 隠遁を思いとどまり、俗世間の中に留まる。◇心のうちに宿はさだめむ 身は俗世間の塵にまみれても、せめて心の中では閑静な家に住もう、ということ。

【補記】御裳濯百首(二見浦百首)。文治三年(1187)または翌年頃の作。この頃慈円は平等院執印・法成寺執印などを兼ね、摂政となった兄兼実のもとで、政治的な活躍が目立つようになっていた。

題しらず

おほけなくうき世の民におほふかなわが立つ杣に墨染の袖(千載1137)

【通釈】つたない我が身ながら、世の民(たみ)のうえに、法服の袖を覆いかけることかな。伝教大師が「我が立つ杣」とおっしゃった比叡山に住み始めて間もない私の墨染の袖ではあるが。

【語釈】◇おほけなく 身分不相応に。身の程もわきまえず。大胆に。◇おほふかな 法服の袖で民を覆うとは、仏法によって万民を保護すること。天下泰平の祈祷は、慈円が生涯にわたり打ち込んだことであった。◇わが立つ杣(そま) 比叡山のこと。下記本歌に拠った言い方。◇墨染の袖 僧衣の袖。墨染(すみぞめ)に「住み初め」を掛ける。この掛詞には「あしひきの山べに今はすみぞめの衣の袖はひる時もなし」(古今集、読人不知)などの先例がある。

【補記】日吉百首。千載集に載っているので、文治四年(1188)以前の作。三十代前半に詠まれた、慈円若き日の決意の歌である。古くは天台座主としての抱負を詠んだ歌との解釈があったが(細川幽斎)、慈円が初めて座主になるのは建久三年(1192)のこと。

【他出】慈鎮和尚自歌合、定家八代抄、拾玉集、別本八代集秀逸(家隆撰)、時代不同歌合、百人一首、新三十六人撰、釈教三十六人歌合

【本歌】伝教大師「新古今集」
阿耨多羅三みやく三菩提の仏たち我が立つ杣に冥加あらせたまへ

【主な派生歌】
今も猶わが立つ杣の朝がすみ世におほふべき袖かとぞみる(尊円親王[新千載])
散ればとて木の葉の衣袖なくはうき世の民におほひやはせむ(正徹)
おほけなく思ひあがれる心かなさてもぞ袖は染色のかげ(正広)
今宵なほ飽かず向ひておほけなくうき身の友とたのむ月かな(元政)
墨染のわが衣手のゆたならばうき世の民におほはましものを(*良寛)

題しらず

世の中を心高くもいとふかな富士のけぶりを身の思ひにて(新古1614)

【通釈】心高くも、俗世を厭離することだよ。天へ昇る、富士山の噴煙を我が身の望みとでもするように。

【語釈】◇心高く 身の程は低いのに、志だけは高く。謙譲の心を含んだ言い方であろう。

【補記】文治四年(1188)十二月、「楚忽第一百首・山」。

【他出】定家八代抄、拾玉集、歌枕名寄

五十首歌たてまつりし時

花ならでただ柴の戸をさして思ふ心のおくもみ吉野の山(新古1618)

【通釈】桜の花ではなく、ただ庵の粗末な柴の戸を目指して、吉野のことを思っているのだ。そんな私の心の奥まで見てくれよ、吉野の山よ。

【語釈】◇柴の戸 雑木で編んだ粗末な戸。「柴の戸をさして」とは、山奥での修行生活に入ろうとしていることを言う。「さして」は、(戸を)「さして(閉ざして)」と掛詞になり、庵に籠ることを暗示している。◇心のおくも おく(奥)は山の縁語。◇み吉野の山 「見よ」が掛詞になっている。吉野山は奈良県の吉野地方の山々。桜の名所であるとともに、修験の地でもあった。

【補記】建仁元年(1201)、老若五十首歌合。

法楽日吉社 無題 (二首)

山路ふかく憂き身のすゑをたどり行けば雲にあらそふ峰の松かぜ(拾玉集)

【通釈】辛い身の上の将来を思いつつ、山道を深く辿ってゆくと、雲に挑むように吹き付けているよ、峰の松風が。そのように私も、障害と戦い、高みを目指して進もう。

【語釈】◇法楽日吉社 既出。建暦二年(1212)。作者五十八歳。◇峰の松風 山の高いところに生えている松を吹き渡る風。

わが心奥までわれがしるべせよわが行く道はわれのみぞ知る(拾玉集)

【通釈】心の奥の奥まで、自分自身で先導してゆけ。わが行く道は、自分だけが知っているのだ。

【補記】「奥」には将来の意も掛けていると思われる。

日吉社にたてまつりける百首歌の中に(二首)

まことふかく思ひいづべき友もがなあらざらむ世の跡のなさけに(玉葉2590)

【通釈】誠心から深く、私のことを思い出してくれる友がいてくれたらなあ。死んだ後の世、私が生きたことへのいたわりとして。

【語釈】◇あらざらむ世 死んでしまったあとの世。和泉式部の歌「あらざらむこの世のほかの思ひ出に…」に由る。◇跡のなさけに 私が生きたという痕跡への思いやりとして。

【補記】上の二首と同じく建暦二年(1212)の日吉社法楽百首。

 

心ざし君にふかくて年もへぬまた()まれても又やいのらむ(玉葉2591)

【通釈】こころざしを深く陛下に捧げて、何年も経ちました。再び生まれ変っても、また同じように陛下のためにお祈りいたしましょう。

【語釈】◇君 主君。後鳥羽院を指す。◇いのらむ ここでは仏法による祈祷を言う。慈円は院の護持僧であった。

【補記】拾玉集では第三句「年たけぬ」。

題しらず

山里にひとりながめて思ふかな世にすむ人の心づよさを(新古1658)

【通釈】山里で、独りぼんやり考えごとに耽っていると、思うのだ、俗世に住む人々の心の強さということを。

【補記】「南海漁父北山樵客百番歌合」。

題しらず

草の庵をいとひても又いかがせむ露の命のかかるかぎりは(新古1661)

【通釈】山里の草庵を逃れたところで、ほかにどうすればいいというのか。露の命がこのようにはかなく続くかぎりは。

【語釈】◇かかる 露の縁語。

【補記】御裳濯百首(二見浦百首)。文治四年(1188)秋頃に詠まれた歌。

厭離欣求百首

里の犬のなほみ山べに慕ひくるを心の奥に思ひはなちつ(拾玉集)

【通釈】里で馴れついた野良犬が、追い払ってもなお深山のほとりまで慕って来るのを、心の奥で思い決めて、追いやったのだ。

【語釈】◇厭離欣求 厭離穢土、欣求浄土。現世をけがれた地として厭い離れ、浄土に往生することを喜んで求めること。◇み山べ 深山のほとり。◇心の奥 慈円が好んだ表現。「奥」は山(み山)の縁語。

【補記】「里」は人里。現世の生活が営まれている場所である。それに対して「み山(深山)」は世を捨てた人間が住む場所。「み山」にまで慕って来る「里の犬」は、捨てがたい現世への愛着を象徴するものと言えよう。承元三年(1209)十月十四日から十五日にかけて詠まれた百首詠。

述懐の心をよめる (三首)

何ごとを思ふ人ぞと人とはば答へぬさきに袖ぞぬるべき(新古1754)

【通釈】なにをあなたは思い悩んでいるのか、と人から問われたら、返事をする前に涙で袖が濡れてしまうだろう。

【補記】日頃こらえている涙が、何気ない人の問いで堰を切ってしまう。建久元年(1190)四月八日、「一日百首」。

【他出】定家八代抄、拾玉集、題林愚抄

いたづらに過ぎにしことや歎かれむ受けがたき身の夕暮の空(新古1755)

【通釈】虚しく歳月を過ごしたことが、きっと歎かれるのではないかなあ。有り難い果報として人の身に生まれてきたのに、解脱することもなく、最期の日の夕暮の空を迎えた時。

【語釈】◇受けがたき 二十五三昧式「何(イカ)ニ況ンヤ人身(ニンジン)受ケ難ク、仏法値(ア)ヒ難シ」に由る。人の身として生まれてくることは有り難い果報である、ということ。◇夕暮の空 陽が沈むことに、生命の終りを暗示。臨終の時を言っている。

【補記】「南海漁父北山樵客百番歌合」。

【他出】定家十体(事可然様)、拾玉集

うち絶えて世にふる身にはあらねどもあらぬ筋には罪ぞかなしき(新古1756)

【通釈】すっかり俗世間に染まって暮らしている身ではないけれども、あらぬ方面で罪を犯しているとしたら、悲しい。

【語釈】◇うち絶えて 下に打消しを伴い、全然…ではない、すっかり…ではない、の意になる。◇世にふる身にはあらねども 俗世間で暮らす身ではないけれども。出家した身であるから、俗世に埋没して生きているわけではないが、ということ。◇あらぬ筋には 仏道とは関係のない方面では。慈円は政界にも深く関与していた。そのことを言うか。

【補記】年代不明の「詠百首和歌」。

五十首歌の中に

思ふことなどとふ人のなかるらむ仰げば空に月ぞさやけき(新古1782)

【通釈】心中に思っていることを、どうして訊いてくれる人がいないのだろう。仰ぎ見れば、空には月が冴え冴えと照っている。

【補記】月は内心をも照らすものと考えられ(「月影に身をやかへましあはれてふ人の心にいりてみるべく」広幡御息所『村上御集』)、また月光は悟りの境地や仏による救済を暗喩する(「照る月の心の水にすみぬればやがて此の身に光をぞさす」藤原教長『千載集』)。

【補記】建仁元年(1201)、老若五十首歌合。

【他出】自讃歌、定家十体(長高様)、定家八代抄、拾玉集、新三十六人撰、三五記、六華集、心敬私語、和歌深秘抄

題しらず(七首)

ひと方に思ひとりにし心には猶そむかるる身をいかにせむ(新古1825)

【通釈】一途に出家を決意した私であるのに、その心になお背いてしまうこの身を、どうしたらいいのだろう。

【語釈】◇猶そむかるる 世を背いた心であるのに、現世にあるこの身は、その心につい背いてしまう。

【補記】法界と政界の両方で活動することを余儀なくされた作者の苦悩を読むべきであろうか。

【補記】「南海漁父北山樵客百番歌合」。

なにゆゑにこの世を深く厭ふぞと人のとへかしやすく答へむ(新古1826)

【通釈】なぜこの世を深く厭うのかと、人よ問うてくれ。やすやすと答えよう。

【補記】「南海漁父北山樵客百番歌合」。

思ふべき我がのちの世はあるかなきか無ければこそは此の世にはすめ(新古1827)

【通釈】心にかけて思うべき後世(ごせ)は、あるのかないのか。ないからこそ、現世に住んでいるのだ。

【語釈】◇後の世 生まれ変ってのちの生。◇此の世 今生(こんじょう)。現に今生きている生。

【補記】年代不明の「詠百首和歌」。

町くだりよろぼひ行きて世を見れば物のことわりみな知られけり(拾玉集)

【通釈】市街地を下り、よろよろと歩いて行きながら世の中を見ると、この世を成り立たせている道理というものが、みな知られるのだった。

【語釈】◇町 市街地。特に、市や店が建ち並ぶ市街。

【補記】詠百首和歌。

たれならむ目をしのごひて立てる人ひとの世わたる道のほとりに(拾玉集)

【通釈】誰だろう、涙に濡れた目をぬぐいながら、そこに立っている人は。人々が稼業(しょうばい)をしている道のほとりに。

【語釈】◇ひとの世わたる 生計をたてる。なにかの稼業をして暮らしてゆく。

【補記】詠百首和歌。

それもいさ爪に藍しむ物はりのしばしとりおく襷すがたよ(拾玉集)

【通釈】これはまあ、どうだろう。爪に藍(あい)の染料を染み付かせた物張りが、ちょっとの間する、襷姿(たすきすがた)よ。

【語釈】◇それもいさ 「いさ」は判断不能を言表する感動詞。さあ、わからない。さあ、どうだろう。◇藍(あゐ)しむ 藍色が染み付く。◇物はり 染色・裁縫などに従事する人。◇襷すがた 紐を肩から脇にかけて結び、袖をたくしあげた格好。

【補記】詠百首和歌。

まことならでまた思ふことはなきものを知らぬ人をばなにかうらみむ(拾玉集)

【通釈】まことの道以外、心に思うことはありはしない。なのに、それを知らない人を、どうして恨む道理などあろうか。

【補記】承久元年(1219)十月、八幡宮法楽に詠んだ歌。なお「拾玉集」巻末歌である。

神祇

十首歌合の中に、神祇をよめる

君をいのる心の色を人とはばただすの宮のあけの玉垣(新古1891)

【通釈】我が君の長久をお祈り申し上げる、この心の色を人が問うたなら、糺(ただす)の宮の朱塗りの玉垣と同じであると答えよう。

【語釈】◇君をいのる 主君の長久を祈る。この「君」は具体的には後鳥羽院。◇ただすの宮 下鴨神社。一説に同社の摂社河合神社とも。◇あけの玉がき 朱塗りの垣。赤心をあらわす比喩。「玉垣」は皇居や神社の垣(仕切りとなる壁や植込み)。

【補記】正治二年(1200)の仙洞十首歌合。

【主な派生歌】
いはで思ふ心の色を人とはば折りてやみせむ山吹の花(*宗尊親王[続古今])

題しらず

立ちかへる世と思はばや神風やみもすそ川のすゑの白波(玉葉2800)

【通釈】ふたたび昔へと返ってゆく世と思いたいものだ。将来のことはわからないけれども、伊勢の御裳濯川の流れの末に寄せる、白波のように。

【語釈】◇神風や もと「伊勢」にかかる枕詞。ここでは「みもすそ川」にかかるが「伊勢神宮の」という意を暗に含む。◇みもすそ川 御裳濯川。伊勢神宮内を流れる。五十鈴川に同じ。歌枕紀行伊勢国「五十鈴川」参照。◇すゑの白波 「末は知らぬ」の意を掛ける。

【補記】これは玉葉集の巻末歌。

【参考歌】源経信「後拾遺集」
君が代は尽きじとぞ思ふ神風や御裳濯川の澄まむかぎりは

【主な派生歌】
いにしへにはやたちかへれ水無瀬川ふかき心のすゑの白浪(長慶院)

釈教

述懐の心を(二首)

わがたのむ七の社のゆふだすきかけても六の道にかへすな(新古1902)

【通釈】我が身をゆだねて頼む日吉の七社よ、木綿襷(ゆうだすき)をかけるではありませんが、決して、私を六道の迷界に返さないでください。

【語釈】◇七(なな)の社(やしろ) 日吉山王七社。◇ゆふだすき 木綿でつくった襷。神を祭るときにかけた。ここは「かけて」の枕詞のように用いている。◇かけて 「襷をかけて」に副詞「かけて」(決して)の意を掛ける。◇六(むつ)の道 六道。衆生が往く六つの迷界。善悪の業によって、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上のいずれかに赴き住むことになる。七と六で数の縁語になる。

【補記】建久五年(1194)頃に詠んだ百首歌。のち九条良経の百首歌と結番し、「南海漁父北山樵客百番歌合」と称される。九十九番右持。

【他出】慈鎮和尚自歌合、自讃歌、定家十体(有一節様)、定家八代抄、拾玉集、新三十六人撰、歌枕名寄、雲玉集

もろ人のねがひをみつの浜風に心すずしき四手(しで)の音かな(新古1904)

【通釈】衆生を願いを満たす、日吉社の方へ吹いてくる三津の浜風に、すがすがしい音をたてて四手が揺れているなあ。

【語釈】◇みつの浜風 みつは地名「三津(御津)」に動詞「満つ」を掛ける。三津は琵琶湖畔の湊。今の滋賀県大津市あたり。◇四手 神に捧げる幣(ぬさ)の一種。木綿などでつくる。玉串や注連縄などに垂らす。三津の三と四手の四で数の縁語をなす。

【補記】日吉百首和歌。

述懐歌の中に(三首)

ねがはくはしばし闇路にやすらひてかかげやせまし(のり)のともし火(新古1931)

【通釈】私の願うのは、出来たらしばらくこの闇路に留まって、天台の法灯を掲げたいということなのだ。

【語釈】◇法のともし火 仏教語の「法灯」を和語化した語。仏の教えを、蒙昧を照らす灯りに喩える。

【補記】建久末年頃成立の「慈鎮和尚自歌合」に見える歌。

とく御法(みのり)きくの白露夜はおきてつとめて消えむことをしぞ思ふ(新古1932)

【通釈】説法を聞く時は、菊の白露が夜に置くように、夜は起きて勤行にいそしみ、翌朝、露がはなかなく消えてしまうように、我が身も死んでしまうことを思うのだ。

【語釈】◇きく 菊・聞くの掛詞。◇おきて 置きて・起きての掛詞。

【補記】文治三年(1187)十一月、厭離百首。

【本歌】素性法師「古今集」
音にのみきくのしら露夜はおきて昼は思ひにあへずけぬべし

極楽へまだ我が心ゆきつかず羊のあゆみしばしとどまれ(新古1933)

【通釈】私の心は、まだ修行が足りなくて、極楽に往生できる程に至っていない。刻々と死へと近づいてゆく時間よ、しばし停まってくれ。

【語釈】◇ひつじのあゆみ 屠所へ向かう羊の歩み。死が近づいて来ることの喩え。仏典に見え、例えば摩訶摩耶経の偈には「羊を駈りて屠所に至るに、歩々死地に近づくが如し」とある。

【補記】建久二年(1191)「十題百首・獣」。

法華経廿八品歌よみ侍りけるに、方便品(はうべんほん)唯有一乗法(ゆいういちじようほふ)の心を

いづくにも我が(のり)ならぬ法やあると空吹く風に問へど答へぬ(新古1941)

【通釈】「この世界のどこかに、我が信奉する法華経の教え以外に、一乗の教えがあるだろうか」空吹く風にそう問うてみても、答えてはくれない。

【語釈】◇方便品 法華経第二。◇唯有一乗法 ただ一乗の法のみ有り。一乗法とは衆生を救済する唯一の教え。天台宗では法華経を指す。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:令和4年07月28日