治承二年別雷社歌合 藤原定家『拾遺愚草』全注釈 付録

治承二年(1178)三月十五日、賀茂(わけ)(いかずち)社(上賀茂神社)の神主賀茂(かもの)重保(しげやす)が主催した三題各三十番の歌合。題は「霞」「花」「述懐」。参加した歌人は六十人、俊成・俊恵・二条院讃岐・顕昭といった名高い歌人が顔を揃えている。判者は俊成。当時十七歳だった定家が詠んだ三首は、記録に残る限りでは彼の処女作である。以下には定家の出詠した番のみを抄出し、注釈を添えた。本文は新編国歌大観(底本は書陵部蔵本)のテキストに従ったが、句読点は私意により改めた。

別雷社歌合

治承二年戊戌三月十五日己酉、天晴、今日於別雷社広庭有歌合事、是則当社神主重保之結搆也、歌人六十人、分左右番之

【訓読】治承二年(つちのえ)(いぬ)三月十五日(つちのと)(とり)(あめ)晴る。今日、(わけ)(いかづち)社の広庭に歌合の事有り、(これ)(すなは)ち当社神主重保(しげやす)の結構なり。歌人六十人、左右に分けて(これ)(つが)ふ。

廿一番 左持                 公時

01 み舟山そことも見えぬ霞にて落ちくる滝の音のみぞする

    右                  定家

02 神山の春の霞やひとしらにあはれをかくるしるしなるらん

左歌、おちくる滝のなどいへるすがたいとをかしくこそ侍るめれ、みふね山いづこにても侍りぬべからん。右歌、神山の霞もあはれをかくるしるしにやといへる心よしなきにあらず。但左なにとなく歌しなをかしくみえ侍り。右歌又神やまにことよれり。なほ持とす。

【通釈】(左)三船山はそことも見分けられない霞のうちにあって、落ちて来る滝の響ばかりがしている。
(右)神山の春の霞は、人はそれと知らずに神がご慈悲をおかけ下さる(しるし)なのだろうか。
(判)左の歌、「おちくる滝の」などと言う姿が大変趣があるようですが、三船山は他のどこでも宜しいはずでしょう。右の歌、神山の霞も「あはれをかくるしるし」にやと言う心は、理由のないことでありません。ただ、左は何となく歌の品が好ましく見えます。右歌はまた神山に根拠があります。やはり持(引き分け)とします。

【語釈】◇み舟山 大和国の歌枕。吉野宮滝と吉野川をはさんで東南にある三船山。山裾を激流が下る。◇神山 上賀茂神社の北にある円錐形の山。◇あはれをかくる 「かく」は霞の縁語。◇神やまにことよれり 「神山」という歌枕を用いたことにきちんと根拠がある。

【解説】題は《霞》。春の訪れた徴候として詠むのが本意である。公時の歌は万葉集に「滝の上の三船の山」と詠まれた歌枕に寄せて、山を隠すものとしての霞の性質を活かした作である。俊成の「みふね山いづこにても侍りぬべからん」は不適切な評と言わざるを得ない。一方定家の歌は「神」の名を冠した山に寄せて、春の霞に「あはれをかくる」神の心を見るという特異な趣向であるが、「神山」は歌合が催された賀茂社が鎮座する山なので、時宜に適った趣向とも言えよう。
なお、左の作者公時(きんとき)は藤原実国の子、保元二年(1157)生、承久二年(1220)没。千載集初出の勅撰歌人、従二位中納言。

廿一番 左勝               公時

101 年をへておなじ桜の花の色をそめます物は心なりけり

    右                定家

102 桜花また立ちならぶ物ぞなき誰まがへけん峰のしら雲

左、おなじ桜の花の色を染めます物はといへる心すがたいとをかしくも侍るかな。右、たれまがへけんみねの白雲といへる心もよろしきにやとみえ侍れど、左歌なほめづらしくもみえ侍れば左勝つべきにや侍らん。

【通釈】(左)何年にもわたって咲く、同じ桜の花――その色を以前よりいっそう美しく染めるのは、花を見る人の心なのであった。
(右)桜の花の美しさには、他に匹敵するものなどない。誰が見間違えたのだろう、峰の白雲と。
(判)左、「おなじ桜の花の色をそめますものは」と言う心・姿、大変趣深くもあることですよ。右、「誰まがへけん峰のしら雲」と言う心も結構ではないかと見えますけれど、左の歌がやはり素晴らしく見えますので、左が勝つべきでしょうか。

【解説】題は《花》。公時の歌は、同じ桜が年ごとにより美しく見える不思議を、人の「もののあはれ」を感じ取る心の深まりに原因があるとした。美を心の問題として捉え直し、情趣に深みのある歌と言え、俊成の高評価も当然であろう。一方定家の歌は《花と雲がまぎらわしい》という常套的な趣向に反抗的に挑んだ、少年らしい果敢な意欲作と言えよう。公時の歌はのち俊成によって千載集に採られた。定家にとっても印象深い一首だったのであろう、三年後の『初学百首』で彼は「年をへて同じ梢に咲く花のなどためしなきにほひなるらむ」と公時歌の影響が明らかな作をなしている。

廿一番 左持                 公時

161 二葉よりたのみぞわたる諸かづらつたはりきたる跡はたがはじ

    右                  定家

162 ふかからぬ汀にあとをかきとめて御手洗(みたらし)河をたのむばかりぞ

左もろかづら、二葉よりとおき、つたはりきたるなどいへる心姿をかしくこそ侍るめれ。右、御手洗川をたのむゆゑにふかからぬことのはをかきとむらん、思ふ心なきにあらず。老の心なん乱れて勝負不分明。よりて猶持と申すべし。

【通釈】(左)二葉の幼い頃からずっと頼み続けているのです。賀茂社よ、先祖から伝わってきた先例は、これを背き外れることはありますまいと。
(右)御手洗川の汀の水が深くないように、心の深くない歌を書き留めて跡に残す――そうしますのも、賀茂社のご慈悲に縋ってこそです。
(判)左の「もろかづら」の歌、「二葉より」と置き、「つたはりきたる」などと言う心・姿、趣深くあります。右、御手洗川を頼みとするゆえに、心の深くない歌を書き留めると言うのでしょう。心に思うところあり、老人の心は乱れて勝負の区別もつきません。よってやはり持と申すべきでしょう。

【語釈】◇二葉 発芽時の二枚の葉。人の幼少期の喩え。「諸かづら」の縁語。◇諸かづら 諸鬘。賀茂祭の時、頭にかざした葵の鬘であるが、ここは葵の異称であり、賀茂社のシンボルとして言う。◇御手洗河 賀茂神社境内を流れる川。参詣の際はこの川で禊ぎをした。やはり賀茂社のシンボルとして言う。

【解説】題は《述懐》。左右いずれも歌合の開催場所である賀茂社に託し、出世昇進を願う青年貴族の抱懐を述べた歌である。俊成の「思ふ心なきにあらず」は言うまでもなく親として子を「思ふ心」であろう。定家は若くして官途の前途多難であることを承知しつつ、廷臣としての活躍を、そして家門の復興を強く希っていた。その意を思い、判者としてあるべき冷静さも失って、俊成は「老の心」を乱したのだった。


公開日:平成22年12月01日
最終更新日:平成23年07月30日