近代秀歌

鎌倉三代将軍源実朝の求めに応じ、承元三年(1209)、四十代後半だった藤原定家が書いて贈った歌論書です。『吾妻鏡』に定家が実朝に贈った旨記されている「詠歌口伝一巻」と同一書とされています。
伝本は少なくとも十数種が現存しますが、ここには、平成八年に影印版が刊行された『冷泉家時雨亭叢書 第三十七巻(五代簡要 定家歌学)』(朝日新聞社刊)の「近代秀歌(甲本)」を底本とし、私(水垣)が翻字・整形した原文、およびそれに基づき現代語訳したテキストを掲載します。この本は、実朝に送られた原形本にもっとも近いテキストの一つと推測されています。
底本には「和哥秘々」という内題があり、序文はなく、和歌の歴史・本質・技法などを簡明に論じた上で、定家が「近代」の優れた歌人とみとめる六人―源経信源俊頼藤原顕輔藤原清輔藤原基俊藤原俊成―の秀歌を例にあげています。ここでは便宜上五章に分け、現代語訳には簡単な注釈も添えました。
本書について詳しくは『冷泉家時雨亭叢書 第三十七巻(五代簡要 定家歌学)』『日本歌学大系 第三巻』『歌論集・能楽論集(日本古典文学大系)』『中世の文学 歌論集一』などの解題を参照して下さい。

(定家自身が改編し、秀歌例を全面的に改めた所謂「自筆本」の引用歌は、百人一首関連資料として載せた「近代秀歌(自筆本)例歌」で読めます。)
冷泉家時雨亭叢書 第三十七巻


●原文
 (一、歌はどう詠まれてきたか)
 (二、歌はどう詠むべきか)
 (三、本歌はどう用いるべきか)
 (四、付言)
 (五、近代のすぐれた歌の例)
 (奧書)

●現代語訳
 (一、歌はどう詠まれてきたか)
 (二、歌はどう詠むべきか)
 (三、本歌はどう用いるべきか)
 (四、付言)
 (五、近代のすぐれた歌の例)


近代秀歌(冷泉家時雨亭叢書 甲本による)



和哥秘々

(一、歌はどう詠まれてきたか)

やまと哥の道、あさきに似てふかく、やすきにゝてかたし。わきまへしる人、又いくばくならず。
むかし貫之、哥心たくみに、たけをよびがたく、詞つよく、姿おもしろきさまを好て、餘情妖艷の躰をよまず。それよりこのかた、其流をうくる輩、ひとへに此姿におもむく。
但世くだり、人の心をとりて、たけもいはず、詞もいやしく成行。いはんやちかき世の人は、たゞ思えたる風情を三十一字にいひつゞけんことをさきとして、更に姿詞のをもむきをしらず。これによりて、末の世の哥は、たとへば田夫の花の陰をさり、商人の鮮衣をぬげるがごとし。
しかれども、大納言經信卿、俊頼朝臣、左京大夫顕輔卿、清輔朝臣、ちかくは亡父卿すなはち此道をならひ侍ける基俊と申ける人、此ともがら、末の世のいやしき姿をはなれて、常にふるき哥をこひねがへり。此人々の思入てすぐれたる哥は、たかき世にも及びてや侍らん。
今の世と成て、此賤きすがたをいさゝかかへて、ふるき詞をしたへる哥、あまたいできたりて、花山僧正、在原中将、素性、小町が後、たえたる哥のさま、わづかにみえきこゆる時侍を、ものの心さとりしらぬ人は、あたらしき事いできて、哥のみちかはりにたり、と申も侍べし。
但、此比の後学末生、まことに哥とのみ思て、其樣しらぬにや侍らん。たゞ聞にくきをことゝして、やすかるべき事をちがへ、はなれたる事をつゞけて、似ぬ哥をまねぶとおもへるともがら、あまねくなりて侍にや。


(二、歌はどう詠むべきか)

此道を弁へしらん人、かれこれをくはしくさとるべしとばかりは思給ながら、わづかに重代の名ばかりを傳へて、或は用られ、或はそしられ侍れど、もとより道をこのむ心かけて、わづかに人のゆるさぬことを申つゞくるより外は、ならひしる事も侍らず。をろかなるをやの庭のをしへとては、哥はひろくみ、とをくきく道にあらず。心よりいでて、身づからさとる物なり、とばかりこそ申侍しか。それを、まことなりけりとまで、たどりしる事も侍らず。いはんや、老にのぞみて後、やまいもをもく、うれへもふかく、しづみ侍にしかば、詞の花、色を忘れ、心のいづみ、源かれて、物をとかく思つゞくる事も侍らざりしかば、いよゝゝあとかたなく思すて侍にき。たゞをろかなる心に、いま思ひねがひ侍る哥のさまばかりを、いさゝか申侍也。
詞はふるきをしたひ、心は新しきをもとめ、をよばぬたかき姿をねがひて、寛平以往の哥にならはゞ、をのづからよろしき事も、などか侍ざらん。ふるきを戀ねがふにとりて、昔の哥の詞をあらためずよみすへたるを、すなはち本哥とすと申也。


(三、本歌はどう用いるべきか)

彼本哥を思ふに、たとへば五七五の七五の字をさながらをき、七ゝの字をおなじくつゞけつれば、新しき哥に聞なれぬ所ぞ侍る。五七の句は、やうによりてさるべきにや侍らん。たとへば、礒のかみふるき都、時鳥鳴やさ月、久かたのあまのかぐ山、玉ほこの道ゆき人、など申ことは、いくたびもこれをよまでは、哥いでくべからず。年の内に春はきにけり、袖ひぢてむすびし水、月やあらぬ春や昔の、さくらちる木の下かぜ、などは、よむべからずとぞをしへ侍し。
次に、今の世に哥をならふ輩、たとへば、世になくとも、昨日けふといふばかりいできたる哥は、一句も其人のよみたりしとみえん事をかならずさらまほしくおもひたまひ侍なり。

(四、付言)

たゞ、此おもむきをわづかに弁へ思ふことばかりにて、大方のあしよし、哥のたゞすまひ、さらにならひしる事も侍らず。いはんや、難義など申事は、家々にならひ、所々にたつるすぢ、をのゝゝ侍れど、更につたへ聞事侍らざりき。わづかにわきまへ申事も、人々のかきあつめたる物にかはりたる事なきのみ侍れば、をよばず。他家の人の説いさゝかかはる事侍らじ。


(五、近代のすぐれた歌の例)

                   大納言經信
夕されば門田の稲葉音づれてあしの丸屋に秋かぜぞふく
君が代はつきじとぞ思ふ神風やみもすそ河のすまんかぎりは
おきつかぜ吹にけらしな住吉の松のしづえをあらふしらなみ

                   俊頼朝臣
山ざくら咲そめしより久堅の雲井にみゆるたきのしら糸
落たぎつやそうぢ川のはやき瀬に岩こす波は千世の数かも
   これは秀哥の本躰と申べきにや。
うづら鳴ま野の入江の濱風にお花なみよる秋の夕ぐれ
古里はちる紅葉ばにうづもれて軒の忍ぶに秋風ぞ吹
   これは幽玄に面影かすかにさびしきさま也。
あすもこん野ぢの玉川萩こえて色なる波に月やどりけり
思草葉末にむすぶ白露のたまゝゝきては手にもたまらず
   これは面白み所あり。上手のし事とみゆ。
うかりける人をはつせの山おろしよはげしかれとは祈らぬ物を
とへかしな玉ぐしの葉にみがくれてもずの草ぐきめぢならずとも
   これは心ふかく、詞心に任せて、学ぶともいひつゞけがたく、
   まことに及ぶまじき姿也。

                    顕輔卿
かづらきや高まの山のさくら花雲井のよそにみてや過なん
秋風にたなびく雲のたえまよりもれいづる月の影のさやけさ
高砂のおのへの松を吹風のをとにのみやはきゝわたるべき

                    清輔朝臣
冬枯の杜の朽葉の霜のうへに落たる月の影のさやけさ
君こずばひとりやねなんさゝの葉のみ山もそよにさやぐ霜夜を
難波人すくもたく火の下こがれ上はつれなき我身なりけり
ながらへば又此比や忍ばれんうしとみし世ぞ今は戀しき

                    基俊
あたら夜をいせの濱荻折しきていも戀しらにみつる月かな
契おきしさせもが露を命にてあはれことしの秋もいぬめり

                    先人 俊成卿
又やみんかた野のみのゝさくらがり花の雪ちる春の明ぼの
世中よ道こそなけれ思ひいる山のおくにも鹿ぞなくなる
すみわびて身をかくすべき山里にあまりくまなき夜はの月哉
難波人あし火たくやに宿かりてすゞろに袖のしほたるゝ哉
立かへり又もきてみん松嶋やをじまのとまや波にあらすな
思きやしぢのはしがきかきつめて百夜もおなじ丸ねせんとは
いかにせん室の八嶋に宿もがな戀の煙を空にまがへん

   此内に、み山もそよにさやぐ霜夜、すくも焚く火の下こが
   れ、しぢのはしがき、伊勢の濱おぎ、かやうの哥を本哥に
   取て、新しき哥によめる、まことによろしく聞こゆる姿に
   侍也。是よりおほくとれば、わがよみたる哥とみえず、本
   のまゝにみゆる也。
   やすき事をちがへ、つゞかぬをつゞくとは、風ふり、雲ふ
   き、うき風、はつ雲、などやうなる物をみぐるしとは申也。
   たゞいまきとおぼゆる事をかきつけ侍れば、無下にかたの
   やうに侍れど、心はをのづから見え侍らん。


(奧書)

本云
 承元之比自征夷將軍依被尋先人所注送之秘本也
  弘長二年九月老後更書写之
          三代撰者桑門融覚醒
 以祖父入道大納言自筆本令書写了可為證本
          左兵衞督為秀
―中略―
  明應八年季龝七日書之
            左衛門督為廣




近代秀歌(現代語訳)

(一、歌はどう詠まれてきたか)

 和歌の道は、浅いようで深く、容易いようで難しい。よく弁え、理解している人は、やはり何人もいません。
 昔、貫之は、歌の心は巧みに、丈(たけ)は及びがたく、詞(ことば)は強く、姿の面白い様を好みましたが、余情妖艶の体を詠みませんでした。以来このかた、その流れを受けた輩は、もっぱらこの様式(訳者註:貫之らによって確立された古今的歌風)に心を向けてきました。
 ところが世が下り、人の心が劣って、丈は言うに及ばず、詞も卑しくなってゆきました。まして、近い時代の人々は、ただ思いつきの趣向を三十一文字に言い続けることばかりを逸って、姿や詞の情趣を一向に理解しません。こうして、末世の歌は、譬えて言えば、田夫が花の蔭を立ち去り、商売人が色鮮やかな衣服を脱いだようなものです。
 とは言え、大納言経信(つねのぶ)卿・俊頼(としより)朝臣・左京大夫顕輔(あきすけ)・清輔朝臣、最近では、亡父卿(訳者註:藤原俊成)がこの道を習い伝えた基俊(もととし)という人、こうした人々は、末の世の卑しい姿を離れて、常に古体を希み求めました。彼らの情の籠った、姿のすぐれた歌は、仰ぐべき昔の代にも匹敵するものではないでしょうか。
 今の世となって、この卑しい姿をいささか替えて、古い詞を慕った歌が、たくさん出て来ました。花山僧正在原中将素性小町の後、絶えていた歌の様式が、わずかに見聞きできるようになったのです。道理を悟らない人は、これを「新奇な傾向が出て来て、歌の道も変ったものだ」などと申すこともあるでしょう。
 但し、この頃の後学の若輩は、「こういうのが歌だ」とばかり思い込んで、あるべき歌のさまを知らないのでしょうか。ただ聞きづらいことを旨として、易しく詠むべきところを勘違いし、無理な続け方をして、相応しくない歌を学んでいるように思える輩が、多くなったのではないでしょうか。

 1「心」 歌の内容面をいう。趣向・情趣など。
 2「丈」 格調の高さ。「丈の高さ」は、崇高美などの意に解釈されることもある。
 3「詞」 「心」に対して、言語表現として見た歌。歌の形式面。表現上の技巧、あるいは語調・声調などの意にかたよる場合もある。
 4「姿」 歌の全体としての形、ありさま。
 5「余情妖艶の体」 妖艶な美的情趣を漂わせる歌の様式。定家は本書で遍昭・業平・小町らを代表的な歌人として挙げている。
 6「絶えていた歌の様式」余情妖艶の体を言う。

(二、歌はどう詠むべきか)

 この道を弁え知ろうという者は、詳しく悟らねばならないことがあれこれと多い。そうは心得ながらも、辛うじて代々の歌道の家の名を伝えるばかりの私は、ある時は用いられ、ある時は誹られましたけれども、もとより修道を好む心に欠けています。他人からは容認されないようなことですが、それを言い続けるよりほか、習い知ったこともございません。
 つたない親の庭訓としては、「歌は、広く求め、遠く聞く道にあらず。心より出でて、自ら悟る物なり(歌を修業する道のりは、読書や見聞を広めればよいというものではない。おのれの心から湧き起こり、自ら悟るものである)」ということばかりです。(不肖の私は)まったくその通りだとまで、遂に知ることはございませんでした。まして、老いに臨んで後は、病も重く、愁いも深く、沈淪していたために、美しい詞の使い方を忘れ、情趣を生みだすような心の泉も涸れ果て、物をあれこれと考え続けることも出来なくなってしまったゆえ、歌道のことは、いよいよ跡形もなく思い捨ててしまいました。ただ、愚かな心に、今希み願う歌のさまばかりを、いささか申し上げます。
 詞は古きを慕い、心は新しきを求め、及びがたい理想の姿を願って、寛平以前の歌を手本とすれば、おのずから良い歌が出来ないわけがありましょうか。古い歌体を希求するがために、昔の歌の詞を改めず、10一首のうちに詠み据えたのを、すなわち「本歌(ほんか)とする」と申すのです。

 7「親の庭訓(ていきん)父俊成の教えを指す。「庭の訓へ」は、庭を通りかかった我が子に孔子が詩と礼を教えたという『論語』の一節から出た言葉。家庭教育の意。
 8「詞は古きを慕い、心は新しきを求め」仮名遣いを除き、原文通り。定家歌論の核心として著名な句。言葉遣いは古風を良しとし、内容・情趣は清新を良しとする。
 9「寛平以前の歌」原文は「寛平已往の哥」。寛平は宇多天皇の治世(西暦887年〜897年)。「已往」は本来「以前」の意だが、「以往」と混用され、「以後」の意にも用いられる。この場合、六歌仙時代以前を指すと見られるので、「以前」の意に取るべきである。
 10「昔の歌の詞を改めず」底本の原文は「昔の哥の詞をあらためず」。この部分「昔の哥の詞をあらため」とする本もある。

(三、本歌はどう用いるべきか)

 その本歌について考えますに、たとえば、五七五(訳者註:上句)の七五の字句を古歌そのままに置いて、七七(訳者註:下句)の字句を古歌と同じように続けたなら、新しい歌とは聞いてもらえないことがございます。
 また、五七の句(訳者註:初句・二句)は、場合によっては(本歌取りを)避けたほうがよいでしょう。
 たとえば、「いそのかみ古き都」11「ほととぎす鳴くや五月」12「ひさかたの天の香具山」13「玉ほこの道ゆき人」14などといった句は、たびたびこれを用いて詠まなくては、歌が出来ません。15
「年の内に春は来にけり」16「袖ひぢて結びし水」17「月やあらぬ春や昔」18「桜散る木の下風」19などは、詠んではならないと(亡父は)教えました。20
 それから、現在歌を習っている人々が、たとえ物故した人の作でも、つい最近出来たばかりの歌から、一句でも「あの人の詠んだものだ」とわかるような句を詠み込むことは、避けたいものだと思います。21

 11「いそのかみ古き都」いそのかみ古き都のほととぎす声ばかりこそ昔なりけれ(素性法師 古今集)
 12「ほととぎす鳴くや五月」ほととぎす鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな(読人しらず 古今)
 13「ひさかたの天の香具山」ひさかたの天の香具山この夕べ霞たなびく春たつらしも(読人しらず 万葉集・新勅撰集ほか)
 14「玉ほこの道ゆき人」夏山のかげをしげみや玉ほこの道ゆき人もたちどまるらむ(貫之 拾遺集)
 15 上記四例は、和歌においては慣用句のようになっているので、たびたび使ってもかまわない、ということ。
 16「年の内に春は来にけり」年の内に春は来にけり一とせをこぞとやいはん今年とやいはん(在原元方 古今集)
 17「袖ひぢて結びし水」袖ひぢて結びし水のこほれるを春たつ今日の風やとくらん(貫之 古今集)
 18「月やあらぬ春や昔」月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ばかりはもとの身にして(業平 古今集)
 19「桜散る木の下風」桜散る木の下風はさむからで空に知られぬ雪ぞふりける(貫之 拾遺集)
 20 上記四例は、著名な秀句であり、作者の個性的な詞遣いであるから、本歌に用いるのに相応しくない、ということ。
 21 「現存歌人や最近亡くなった人が詠んだ著名な秀句を本歌取りに用いるのは、避けたい」の意。なお本歌取りについては、本書の末尾に改めて触れられている。


(四、付言)

 私はただ、こうした方面をわずかに弁えているばかりで、歌の一般的な良し悪しや歌風などについては、全く知識もございません。ましてや、難解語の釈義などといったことは、歌道の家々で教え、方々で立てている説があるようですが、全く伝え聞くこともございませんでした。わずかに理解しておりますことも、人々が書き集めた本と変り映えのしないことばかりですから、書き記すには及びません。他家の人たちの説も、似たようなものでしょう。

(五、近代のすぐれた歌の例)

                   大納言経信
夕されば門田の稲葉音づれて蘆のまろやに秋風ぞ吹く
〔夕方になり、吹きつのる秋風は、門田の稲葉を音立ててそよがせたあと、葦で作った仮小屋の中まで吹き入ってくる。〕
君が代は尽きじとぞ思ふ神風や御裳濯川の澄まむかぎりは
〔わが君の御代は尽きることはないでしょう。御裳濯川が澄んでいる間は、いつまでも。〕
沖つ風吹きにけらしな住吉の松のしづ枝を洗ふ白波
〔沖の方で風が吹いたらしい。白波がここ住吉の岸まで寄せてきて、松の下枝を洗っている。〕

                   俊頼朝臣
山桜咲きそめしより久堅の雲井に見ゆる滝の白糸
〔山桜の花が咲き始めてからというもの、空遠く、滝の白糸がかかっているのが見える。〕
落ちたぎつ八十宇治川の早き瀬に岩越す波は千世の数かも
〔激しく流れ下る宇治川の早瀬で、岩を越してゆく波は数知れない。あなたの齢も、そのように千を数えるほど限りないにちがいない。〕
   これらは、秀歌の典型と申すべきでしょう。
鶉鳴く真野の入江の浜風に尾花波寄る秋の夕暮
〔鶉が鳴く真野の入江に吹く浜風で、薄が波のように寄せている、秋の夕暮。〕
故郷は散る紅葉ばに埋もれて軒のしのぶに秋風ぞ吹く
〔荒れた里は散り落ちた紅葉の葉に埋もれて、軒に生えた忍ぶ草に秋風が吹く(まるで、昔を偲べとでもいうように)。〕
   これらは幽玄にして、面影かすかに、ものさびしげな趣です。
明日も来む野路の玉川萩こえて色なる波に月やどりけり
〔明日も来よう、野路の玉川に。川岸の萩の枝を越えて寄せる波は、花の色に映えて美しい。しかも、その波には月の光さえ宿っていたのだ。〕
思ひ草葉末にむすぶ白露のたまたま来ては手にもたまらず
〔人を思うという名の思い草。その葉末には涙のような白露が結ぶと言うが、私も涙を溜めてあなたを待っていたのだ。それなのに、あなたは白露の「玉」よろしく、「たまたま」来ては、私の手に抱かれることもなく帰ってしまう。まるで、白露が手にたまらずにこぼれ落ちてしまうように。〕
   これらは面白く、見どころがあります。名手の作と見えます。
憂かりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを
〔つれない人を私の方になびかしてくれと初瀬(長谷)の観音様に祈ったのだが、初瀬の山颪よ、ただ激しく吹けと祈ったわけではないぞ。あの人はおまえのように、いっそう私につらくあたるばかりではないか。〕
とへかしな玉串の葉にみがくれてもずの草ぐきめぢならずとも
〔春になると百舌は草にもぐり込んでしまうというが、そのように榊の葉に隠れて、見はるかす限り姿が見えなくなってしまったとしても、私のことを忘れず、安否を尋ねてください。(伊勢から遠い友人のもとにあてた歌)〕
   これらは心深く、詞は心のままに表現されて、真似ようとし
   ても、こうは続けられるものではございません。まことに及
   び難い姿です。

                    顕輔卿
葛城や高間の山の桜花雲井のよそに見てや過ぎなん
〔葛城の連山に抜きん出て聳える高間の山、いまや桜の花が盛りである。あれを、雲の彼方に眺めるばかりで通り過ぎてよいものだろうか(山に登って花にまじりたいものだ)。〕
秋風にたなびく雲の絶え間より洩れ出づる月の影のさやけさ
〔秋風が吹き、夜空に雲がたなびいている。その裂け目から、洩れてきた月の光の、なんという清けさよ。〕
高砂の尾上の松を吹く風の音にのみやは聞きわたるべき
〔高砂の尾上の松を吹く風の音ではないが、そのようにずっと噂にばかり聞いて過ごさなければならないのだろうか。〕

                    清輔朝臣
冬枯れの森の朽葉の霜のうへに落ちたる月の影のさやけさ
〔冬枯れした森の朽葉に置いた霜、その上に落ちた、月の光のさやけさよ。〕
君来ずばひとりや寝なむ笹の葉のみ山もそよにさやぐ霜夜を
〔あなたが来ないならば、私は独りで寝ることになるだろう。笹の葉が深山にさやさやとそよぐ、こんな寒い霜夜を。〕
難波人すくも焚く火の下焦がれ上はつれなき我が身なりけり
〔難波の海人がもみ殻を焼く火は、下の方でくすぶっている。そのように、表にはあらわさずに恋心を燃やしている我が身なのですよ。〕
ながらへば又この頃や偲ばれん憂しと見し世ぞ今は恋しき
〔今はどんなに苦しいと思っても、生き永らえれば、いつか又この頃が懐かしく偲ばれるのだろうか。つらいと思っていたことが、今では恋しく思われるのだから。〕

                    基俊
あたら夜を伊勢の浜荻折りしきて妹恋しらに見つる月かな
〔もったいないような良夜なのに、伊勢の浜荻を折り敷いて、都の人を恋しがりながら眺める月であるよ。〕
契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋も去ぬめり
〔「なほ頼めしめぢが原のさしも草」という歌がありましたが、お約束して頼りにしていたさしも草(ヨモギ)のはかない露をわが命と頼んで、ああ今年の秋もむなしく過ぎてゆくのですね。〕

                    先人22
又や見ん交野の御野の桜狩り花の雪散る春のあけぼの
〔再び見ることがあるだろうか、交野の御狩場の野に桜狩りにやってきて、花が雪のように散る春の曙に出逢った、このような光景を。〕
世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
〔ああ世の中よ。そこから遁れる道はないのだ。思いつめた末入った山の奥にも、鹿が悲しげに鳴いている。〕
住みわびて身を隠すべき山里にあまりくまなき夜半の月かな
〔浮世が住みづらくなって、隠遁しようと山里にやって来たが、あまりにも隈なく月が照っていて、身を隠すすべもないのだった。〕
難波人葦火焚く屋に宿借りてすずろに袖のしほたるるかな
〔難波の海人が葦を焼いて住む侘びしい小屋に宿を借りて、理由もなく袖が涙に濡れることだ。〕
たちかへり又も来て見ん松島や雄島の苫屋波に荒らすな
〔再び戻って来て見よう。だから松島の雄島の苫屋を波に荒らさないでくれ。〕
思ひきや榻(しぢ)のはしがきかきつめて百夜も同じまろ寝せんとは
〔思ってもみただろうか――昔、男が恋の成就を祈って榻の上に百夜丸寝し、その端に印を書き集めたというが、私もそんなふうに、百夜も同じ姿で独り寝しようとは。〕
いかにせん室の八島に宿もがな恋のけぶりを空にまがへん
〔この思いをどうすればよいだろう、そうだ、室の八島はいつも蒸気で煙っているというが、そこに宿があればよい。私の身から恋の煙を空に立ちのぼらせ、その湯気に紛らせてしまおう。〕

   この中に、「み山もそよにさやぐ霜夜」「すくも焚く火の
   下焦がれ」「榻のはしがき」「伊勢の浜荻」、このような
   歌の句を本歌に用いて、新しい歌に詠むのは、まことに素
   晴らしく聞こえる姿です。しかし、これ以上多く句を借り
   ると、自分が詠んだ歌とも見えず、もと歌のままに見えて
   しまいます。
   また、易しく詠むべきことを取り違え、無理な続け方をす
   ると申しますのは、「風ふり」23「雲吹き」「浮風」
   「初雲」等といったような言い方を見苦しいと申すのです。
   さしあたり思いついたことを書き付けましたので、ひどく
   不完全な様ですが、私の心はおのずから分かって頂けるこ
   とと存じます。
(以下、奧書略)


 22「先人」定家の父、俊成を指す。
 23「風ふり」《稲荷山みねのすぎむら風ふりてかみさびわたるしでの音かな》(良経「秋篠月清集」)に用例がある。



(C)水垣 久 最終更新日:平成12年5月13日
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