源通光 みなもとのみちてる 文冶三〜宝治二(1187-1248) 号:後久我太政大臣

内大臣土御門通親の三男。母は刑部卿藤原範兼女、従三位範子。通宗・通具の異母弟。承明門院在子(後鳥羽院妃)の同母異父弟。内大臣定通・大納言通方の同母兄。子に大納言通忠・同雅忠・式乾門院御匣ほかがいる。
後鳥羽天皇の文治四年(1188)、叙爵。正治元年(1199)、禁色を聴される。右少将・中将などを経て、建仁元年(1201)、従三位に叙せられる。同二年には正三位・従二位と累進。同年末、父を亡くすが、その後も後鳥羽院政下で順調に昇進し、同四年四月、権中納言。土御門天皇の元久二年(1205)、正二位に昇り、中納言に転ず。建永二年(1207)二月、権大納言。建保元年(1213)、娘を雅成親王に嫁がせる。順徳天皇の建保五年(1217)正月、右大将を兼ねる。同六年十月、大納言に転ず。同七年三月、内大臣に至る。しかし承久三年(1221)の承久の乱後、幕府の要求により閉居を命ぜられ、官を辞した。安貞二年(1228)三月、朝覲行幸の際に出仕を許され、後嵯峨院院政の寛元四年(1246)十二月二十四日、辞任した西園寺実氏に代り太政大臣に任ぜられた。同日、従一位。宝治二年(1248)正月十七日、病により上表して辞職、翌十八日、薨ず。六十二歳。
建仁元年(1201)、十五歳の時歌壇に登場し、早熟の才を発揮した。同年の「千五百番歌合」では参加歌人中最年少。同年三月の「通親亭影供歌合」、同二年(1202)五月の「仙洞影供歌合」、同三年(1203)六月の「影供歌合」、元久元年(1204)の「春日社歌合」「元久詩歌合」、建永元年(1206)七月の「卿相侍臣歌合」、同二年の「賀茂別雷社歌合」「最勝四天王院和歌」などに出詠。順徳天皇の内裏歌壇でも活躍し、建保四年(1216)閏六月の「内裏百番歌合」、建保五年(1217)十一月の「冬題歌合」、承久元年(1219)七月の「内裏百番歌合」などに詠進。建保五年(1217)八月には自邸に定家・慈円・家隆らを招き、歌合を催す(「右大将家歌合」)。承久の乱後は歌壇から遠ざかるも、後鳥羽院への忠義を失わず、嘉禎二年(1236)の遠島歌合に出詠した。宝治元年(1247)には、後嵯峨院の内裏歌合に出席、俊成卿女と詠を競った。
新古今集初出(十四首)。勅撰入集計四十九首。琵琶の名手でもあったという。

  5首  1首  7首  1首  4首  4首 計22首

詩をつくらせて歌に合せ侍りしに、水郷春望といふことを

三島江や霜もまだひぬ(あし)の葉につのぐむほどの春風ぞ吹く(新古25)

【通釈】三島江の、その汀に生える蘆の群――霜もまだ乾かない葉に、今朝はのどかな春風が吹き付ける、若芽がめぐむばかりに。

【語釈】◇三島江 摂津国の歌枕。現在の大阪府高槻市の淀川沿岸にあたる。蘆・菰・白菅などの繁る場所として詠まれることが多い。◇霜もまだひぬ 霜は融けたが、まだ乾いていない。◇つのぐむほどの 芽ぐむばかりの。「つのぐむ」は新芽が角のように出ること。

【補記】新古今の清新な叙景歌として評価の高い作。「霜もまだひぬ」「つのぐむほどの」という描写によって、春風に吹かれる水辺の蘆が官能性を帯びてさえ感じられる。元久二年(1205)、元久詩歌合に出詠された。

【他出】元久詩歌合、自讃歌、新三十六人撰、新時代不同歌合、歌枕名寄

【本歌】曾禰好忠「後拾遺集」
三島江につのぐみわたる蘆の根のひとよのほどに春めきにけり

建保四年内裏十首歌合に

雲のゐる遠山姫の花かづら霞をかけて吹く嵐かな(雲葉集)

【通釈】雲がわだかまっている遠くの山――山姫が花蘰をつけているのだ。そこへさらに、春の霞のベールをかけるように吹く山風であるよ。

【語釈】◇遠山姫 遠くの山の山姫。山姫は山を守る女神。◇花かづら 花の髪飾り。白雲を花に見立てて言う。

【補記】出典の『雲葉集』は建長五年〜六年頃藤原基家によって編まれた私撰和歌集。建保四年(1216)、順徳天皇の内裏で催された歌合に出詠され、二番左勝。内裏百番歌合とも。

【他出】夫木和歌抄、新時代不同歌合、六華集

【参考歌】寂蓮「千五百番歌合」
まきもくのあなしのひばら春くれば霞をかけて山かづらせり

【主な派生歌】
わたつ海のかざしの浪の花かづら霞をかけて浦風ぞ吹く(正徹)
明けわたる遠山かづらそのままに霞をかけて春や立つらむ(細川幽斎)
花なれや遠山かづら白妙に霞をかけて明くるひかりは(後水尾院)

千五百番歌合に

あだにやは麓の庵にながむべき花より出づる峰の月かげ(新続古今143)

【通釈】山麓の庵に独り寂しく住む私が、どうしておろそかな気持で眺めたりするだろう。山の頂きまで咲き誇る桜林から現われ出でる月を。

【主な派生歌】
春の夜はおぼろにかすむみよしのの花よりいづる山のはの月(藤原範宗)
山のはや桜にこめて見えざらん花より出づる有明の月(順徳院)

山桜

数ならぬ深山がくれを尋ねてぞ心の末の花も見るべき(遠島御歌合)

【通釈】もう桜の季節も終わりかけているけれども、とるにたらない山の奥深いところを訪ねて行こう。そうすれば、末遠くいつまでもと心に抱いていた花にも出会えるだろう。

【語釈】◇心の末の花 心の内に面影として慕う花の中でも、もっとも末端にある花。「末」には「行く末」の意を響かせ、「後々までも見たいと願う花」、また「春が終わろうとする頃にも賞美したい花」といった意を掛けるか。

【補記】嘉禎二年(1236)七月、後鳥羽院が配所の隠岐で催した歌合での作。通光は都から歌を贈ったのである。

【参考歌】藤原道信「新古今集」
散りのこる花もやあるとうち群れて深山がくれを尋ねてしがな

暮春雨

今はとて鶯かへる春雨にぬれてぞ花の跡は見るべき(承久元年内裏百番歌合)

【通釈】今はもう春の終わりだとて、鶯は谷へと帰ってゆく、春雨にうたれながら。その雨に濡れてこそ、花の散った跡を名残惜しみつつ眺めるのがよい。

【補記】承久元年(1219)七月、順徳天皇主催の内裏百番歌合。

【本歌】よみ人しらず「後撰集」
今はとてうつりはてにし菊の花かへる色をばたれかみるべき

最勝四天王院の障子に、清見が関かきたる所

清見がた月はつれなき(あま)()を待たでもしらむ波の上かな(新古259)

【通釈】清見潟の上空、有明の月は、夜が明けかけたことなど素知らぬふうに照っていて、天の扉が開くのを待たぬ内から、波の上は早くも白んでいるのだなあ。

【語釈】◇清見がた 駿河国の歌枕。静岡市清水区興津の海辺にあたる。「かた(潟)」は遠浅の海。富士山や三保の松原を望む景勝地。平安時代に関が設けられ、柵が海まで続いていた。「関屋どもあまたありて、海まで釘貫したり」(『更級日記』)。◇月はつれなき 「有明のつれなくみえし別れより…」(壬生忠岑『古今集』)を響かせる。◇天の門 日や月が出入りする天の門扉。これが開いて夜が明ける。

【補記】承元元年(1207)十一月の最勝四天王院障子和歌。清見が関を描いた障子絵に添える歌である。短夜を詠んでいるので新古今集夏部に入っている。

秋夕露

誰がための涙なるらむ夕暮のまがきの露に秋は来にけり(承久元年内裏百番歌合)

【通釈】誰を思っての涙なのだろう、この夕暮、垣根の草葉に置いた露は――誰に忘れられて流した涙だというのか。その露のあわれ深さに、秋が来たことを知ったよ。

【語釈】◇秋は来にけり 秋に「飽き」(恋人に飽き、捨てる意)を掛ける。

和歌所歌合に、朝草花といふ事を

明けぬとて野べより山に入る鹿のあと吹きおくる萩の下風(新古351)

【通釈】夜が明けたというので、野辺から山へ帰り入ってゆく鹿――その後を慕うように、萩を靡かせて吹き送る風。

【語釈】◇山にいる鹿 山に帰り入る鹿。「鹿と云ふものは、夜になれば山より野に出でて、明くれば山に帰るなり」(増抄)。◇萩の下風 萩が風に靡くさまを、鹿を見送っていると見立てた。万葉集から萩は鹿の妻として詠まれている。「吾が岳にさ壮鹿来鳴く初萩の花妻問ひに来鳴くさ壮鹿」(大伴旅人『万葉集』)。

【補記】建永元年(1206)七月二十五日、卿相侍臣歌合。

【他出】卿相侍臣歌合、自讃歌、定家十体(事可然様)、新三十六人撰、題林愚抄

【主な派生歌】
遠ざかる声こそいとど哀れなれ野べより山にかへるさを鹿(他阿)
名残ありと跡吹きおくる山風の声をうづまでかへるしら雲(下冷泉政為)

水無瀬にて、十首歌たてまつりし時

武蔵野やゆけども秋の果てぞなきいかなる風かすゑに吹くらむ(新古378)

【通釈】武蔵野を行けども行けども、秋の景色は果てがなく、あわれ深さも果てがない。野末には、どんな風が吹いているのだろう。

【語釈】◇武蔵野 関東平野西部の台地。薄や萱の茂る広大な原野として詠まれる。◇秋の果てぞなき 武蔵野の果てしなさに掛けて、秋のあわれ深い情趣が尽きないことを言う。◇いかなる風か… 今、風は野を蕭条と吹いているが、まして野末に至れば、どれほど…。「末」には「秋の末」の意が響き、晩秋になれば、との心を読み取ることも可能か。下句秀逸。

【他出】自讃歌、定家十体(事可然様)、新三十六人撰、撰集抄、歌枕名寄、三五記
(第四句を「いかなる風の」とする本が多い。)

【参考歌】よみ人しらず「古今集」
秋風の吹きと吹きぬる武蔵野はなべて草葉の色かはりけり

題しらず

龍田山よはにあらしの松吹けば雲にはうとき峰の月かげ(新古412)

【通釈】龍田山を、夜半、越えて行くと、嵐が峰の松に吹き付けて、雲は追い払われてゆく。そうして松の木の間にあらわれる月光――雲にとってはつれない仲というわけだ。

【語釈】◇龍田山 奈良県生駒郡三郷町の龍田神社背後の山。◇雲にはうとき 「月に親しく懸かりたる雲が、吹き退けられたる体也」(増抄)。峰の松と月影は親密になった一方、雲にとっては月影が疎遠な関係となった、ということ。

【補記】宣長は「三の句、まづは先也、松とかける本はひがごとぞ」とし、「いり方の月には、よく雲のかかるものなれども、いまだかたぶかざるさきに、夜はには先(まづ)あらしの吹きはらへる故に、雲にはうとしと也」と独自の解釈をしている。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
風ふけばおきつ白浪たつた山よはにや君がひとりこゆらむ

千五百番歌合に

さらにまた暮をたのめと明けにけり月はつれなき秋の夜の空(新古434)

【通釈】長いはずの秋の夜だが、月を見飽きないうちに明けてしまった。もっと見たいのなら、また日が暮れるのを待てとでも言うような月――つれないなあ。明るくなってゆく空に、平気な顔をしてまだ残っている。

【語釈】◇暮をたのめと 月を見たいなら暮を期待しろと。続く「明けにけり」の主語は末句「秋の夜の空」であるが、「たのめ」と促しているのは月であろう。

【本歌】壬生忠岑「古今集」
有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂き物はなし

河霧といふことを

あけぼのや川瀬の波のたかせ舟くだすか人の袖の秋霧(新古493)

【通釈】曙、川の浅瀬に波の音が高く聞こえ、秋霧の絶え間から人の袖がほの見える。船頭が高瀬舟を下してゆくのか。

【語釈】◇たかせ舟 高瀬(浅瀬)を越えやすいように、底を平に造った川舟。◇人の袖の秋霧 人の袖を垣間見せる秋霧。下記本歌を踏まえる。

【本歌】大納言経信母「後拾遺集」
明けぬるか川瀬の霧のたえまよりをちかた人の袖の見ゆるは

千五百番歌合に

入日さす麓の尾花うちなびき誰が秋風に鶉なくらむ(新古513)

【通釈】沈もうとする日の光が射している、山の麓――薄の穂をなびかして秋風が吹き、鶉が鳴く。誰の心の飽き風を、憂しとてそのように悲しげに鳴くのか。

【語釈】◇尾花(をばな) ススキの花穂、または穂の出たススキ。◇鶉(うづら) 「憂」を掛ける。鶉はキジ科の鳥。「君なくて荒れたる宿の浅茅生に鶉鳴くなり秋の夕暮」(源時綱『後拾遺集』)のように、荒れた里で鳴くものとされ、秋の夕の風物として詠まれることが多い。◇誰(た)が秋風に 「秋」に「飽き」を掛ける。下記本歌を匂わせ、鶉の鳴く声に、恋人に飽きられた女の歎きを響かせる。

【他出】千五百番歌合、定家八代抄、新三十六人撰、六華集

【本歌】藤原俊成「千載集」
夕されば野べの秋風身にしみてうづら鳴くなり深草の里

最勝四天王院の障子に、なるみの浦かきたるところ

浦人の日もゆふぐれになるみがたかへる袖より千鳥なくなり(新古650)

【通釈】鳴海の浦に住む海人が、一日も夕暮になり、入江を帰ってゆく。塩水に濡れた袖を、冬の夕風に翻(ひるがえ)らせて…。その陰から千鳥が鳴いて立つよ。

【語釈】◇日もゆふぐれに 「紐結ふ」を掛け、袖の縁語となる。「唐衣ひもゆふぐれになる時は返す返すぞ人はこひしき」(よみ人しらず『古今集』)。◇なるみがた 鳴海潟。今の名古屋市緑区あたりにあった入江。「潟」は遠浅の海。千鳥や鴫と共に詠まれ、潮の満ち干にも着目される。◇かへる袖より 「帰る」「翻(かへ)る」を掛けるか。「袖より…」には俊恵の「花すすきしげみが中を分けゆけば袂を越えて鶉鳴くなり」、または定家の「から衣すそののいほの旅枕袖よりしぎのたつ心ちする」の影響があるか。◇千鳥鳴くなり 千鳥は飛び立つ時に鳴くものとされた。なお「なり」は、音が聞こえることに、ある感慨を催している心をあらわす。

【主な派生歌】
夕づくよさほの河風身にしみて袖より過ぐる千鳥鳴くなり(源実朝)

千五百番歌合に

かぎりあればしのぶの山のふもとにも落葉がうへの露ぞ色づく(新古1095)

【通釈】耐えることにも限度があるので、「忍ぶ」という名の信夫(しのぶ)山の麓の木々だって、紅葉し、やがて葉を落とすことには抵抗できないのだ。そうして落葉の上には露が置き、紅く色づいている。そのように、人の心も堪え忍ぶことには限度があるから、思いを外に表わしてしまって、ついには涙の色も紅く染まるのだ。

【語釈】◇しのぶの山 陸奥国信夫郡の歌枕。いまの福島市内にある山。「忍ぶ」を掛ける。◇露ぞ色づく 落葉の上に落ちた露が、葉の色に染まる。紅涙(血涙)を暗示する。

【補記】「詞ごとに其意よくかなひて、露ばかりもいたづらなることのまじらぬ歌也、すべて歌は、かやうにいたづらなる詞をまじへず、一もじといへどもよしあるやうによむべきわざぞかし」(本居宣長『美濃の家づと』)。

千五百番歌合に

ながめ侘びそれとはなしに物ぞ思ふ雲のはたての夕暮の空(新古1106)

【通釈】むら雲の彼方の夕空をじっと眺めていた――そのうち眺める気力も失せて、「天空の人を恋する」とかいうのでなく、これといった宛もなしに、暮れてゆく空の下、ぼんやり物思いに耽っているのだ。

【語釈】◇それとはなしに 「本歌のやうに、天つ空なる人をこふとにはあらでといふ意なり」(美濃の家づと)。「たれをたのむとはなけれども」(聞書)。◇雲のはたて 雲の果て。但し『新古今集聞書』には「村々立たる雲はたをひろげたるやうなりといふ事也」とあり、雲の旗手と解している。

【補記】千五百番歌合の諸本には見えない歌。

【他出】自讃歌、定家八代抄、新三十六人撰(初句を「ながめ侘びぬ」とする本がある)

【本歌】よみ人しらず「古今集」
夕暮は雲のはたてに物ぞ思ふあまつそらなる人をこふとて
【参考歌】藤原良経「老若五十首歌合」
秋をあきと思ひ入れてぞながめつる雲のはたての夕暮の空

冬夜恋

消えわぶる霜の衣を返しても見る夜まれなる夢の通ひ路(冬題歌合)

【通釈】冬の夜を独り寝でばかり過ごす私の衣には、涙が霜になってなかなか消えない。――その衣を返し、せめて夢でもあの人のもとに通いたいと思うが、逢える夜は稀なのだ。

【語釈】◇見る夜 夢を見て恋人に逢う夜。◇夢の通ひ路 夢の中で恋人のもとを往き来する道。

【補記】建保五年(1217)十一月の内裏歌合。この歌は新拾遺集にも載るが、第四句は「みしよまれなる」と改変されている。

【本歌】紫式部「源氏物語・若紫」
見ても又逢ふ夜まれなる夢のうちにやがてまぎるる我が身ともがな

〔題欠〕

しのびあへず我や行かむのいざよひに昔語りの夕暮の空(千五百番歌合)

【通釈】堪えきれず、私の方から訪ねてゆこうか、どうしようかという躊躇いに、昔語りを思い出させるような、夕暮の空…。

【語釈】◇いざよひ ぐずぐずして進まないこと。もと「いさよひ」と清音であったが、鎌倉時代以降サを濁る。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
君や来む我や行かむのいさよひに槙の板戸もささず寝にけり

羇旅

日数さへしののをふぶき立ちかさねあふみちとほき行末の空(遠島御歌合)

【通釈】篠を靡かせて吹く嵐がつのり、旅の日数も重ねてきたが、あの人に逢える近江路は、まだ遠い空の彼方だ。

【語釈】◇しののをふぶき 篠の葉を鳴らして吹く強風。◇あふみち 近江路(あふみぢ)。「逢ふ道」と掛詞になるので、チは清音として表記した。

【参考歌】催馬楽
あふみぢのしののをふぶきはやひかすこもちまちやせぬらんしののをふぶき

山家

しらがしのしらぬ山路に入りぬともおくれじと思ふ嶺の松風(遠島御歌合)

【通釈】あなたが白樫の林の見知らぬ山に入り、消息が絶えてしまったとしても、私も遅れをとらず、世を捨てて山に籠もろうと思います。峰から吹き下ろす松風に誘われて。

【語釈】◇しらがしの 山に生える木として言うが、同音の「しらぬ」を導くはたらきもする。◇山路に入りぬとも 「山路に入る」は出家して山住いをすることを暗示する。◇おくれじとおもふ 出家したあなたに遅れをとるまいと思う。これは隠岐の後鳥羽院(すでに出家していた)へのメッセージであろう。

【参考歌】徳大寺実定「寂蓮法師集」「続千載集」
世の中をいでぬとなどかつげざりしおくれじと思ふ心あるものを

【補記】参考歌として挙げたのは、寂蓮法師が出家した時、それを聞き知った実定から贈られた歌である。通光の「おくれじと思ふ」はこの歌を踏まえ、己も遅れずに出家したい心があることを示したのであろう。
「嶺の松風」は、どう解釈するのがいいか、よく分からない。単に「山路」の背景として置いたとみればよいのか。あるいは、「おくれじと思ふ」我の暗喩と考え、「知らぬ山路に入った人のあとを追って吹く」イメージを想い浮かべるべきであろうか。

寄風懐旧

浅茅生や袖にくちにし秋の霜わすれぬ夢を吹く嵐かな(新古1564)

【通釈】荒れ果て、浅茅の茂る庭よ――私の袖には涙が秋の霜として置いているが、それも袖といっしょに朽ちてしまった。もはや、昔を忘れず思い出すのは夜寝て見る夢ばかりだが、茅屋を嵐が吹いて、眠りも破られてしまう。

【語釈】◇浅茅生(あさぢふ) 浅茅は丈の低いチガヤ。それが茂った荒れた庭を言い、茅屋を暗示する。◇秋の霜 秋になって霜に変じた涙。題から明瞭なように、懐旧の涙である。◇わすれぬ夢 昔を忘れぬ夢。現実は、すべてを忘却させるかのごとく荒れ果てているのである。

【他出】自讃歌、東野州聞書、心敬私語

【補記】建永元年(1206)七月、院当座歌合。

社頭祝

八幡山さかゆく峰も越えはてて君をぞ祈る身のうれしさに(宝治歌合)

【通釈】栄えゆく八幡様の山の頂もついに越えて、大君の長久をお祈りします。かかる御代に生を享け、ここまで永らえ得た我が身の幸に感謝しつつ。

【語釈】◇八幡(やはた) 石清水八幡宮の鎮座する山。京都府八幡市。下記本歌の「をとこ山」と同じ。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
今こそあれ我も昔はをとこ山さかゆく時も有りこしものを
  藤原家隆「新古今集」
大かたの秋の寝覚の長き夜も君をぞ祈る身を思ふとて

【補記】宝治元年(1247)九月、後嵯峨院主催の内裏歌合。「宝治二年歌合」とも。十題百三十番、二十六名参加の、当時としては大規模な歌合であった。六十一歳の通光は、七十歳を超えていた俊成卿女と左右を分けて対戦した。当時生き残っていた新古今歌人といえば、ほかに二、三の名を数えるばかりである。
上句は八幡に参詣する状を描くと共に、古今集の「我も昔はをとこ山」を想起させ、年の盛りを超え果てた我が身に対する感慨をこめる。下句では後鳥羽院を思いやった家隆の歌を懐かしく響かせつつ「我が身のうれしさに」と賀歌に相応しく晴ばれと結んで、深い感動を禁じ得ない。
通光はこの歌合を歌人としての最後の晴舞台とし、翌年正月、病没した。

【補記】玉葉集に入撰。ただし第二句「さかゆくみねは」。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年01月21日