kinematopiaの3Dロゴです

kinematopia97.09


 「主人公が生き生きとしているピーター・グリーナウェイの映画を初めて観たよ。これまでは、悪意に満ちた知的な遊戯が作品を支配し、登場人物はからくり人形のように存在感が希薄だった。でも『枕草子』で監督が作品を制御しきれなかった訳ではないだろう。音楽の使い方も柔軟になっている。グリーナウェイの新しい地平として評価したい」

 「ただ、作品が十分に成功しているかといえば、否定的にならざるを得ない。中国人のヴィヴィアン・ウーを起用したことは、許せる。しかし日本の文字に対するいいかげんな美意識はグリーナウェイらしくない。肌に文字を書かれることの快感は、流れるような美しい文字によって支えられる。映画の文字はうまくない上に、武骨な漢字の楷書ばかりでエロティックさに欠ける。おどろおどろしい寺山修司的な世界はそぐわないよ。スレンダーな東洋人の肌に、ひらがなか草書体で書けば官能的な優雅さが伝わったはずだ」

 「映像をデジタル化し、複数の映像を重ねるなどさまざまな技法を凝らしているが、全体を通じて妙に薄っぺらな印象が残った。『プロスペローの本』で切り開いた重層化した映像の豪華さが感じられない。代わりに、安易な東洋趣味に流れる場面が目立った」「しかし、 身体中に文字を書かれて死んだ同性愛の相手の死体を掘り出し、皮膚をはぎとって巻紙に整え、全身に巻つけて恍惚となるシーンには、グリーナウェイらしい残酷な官能が息づいていたね。深みとバランスを欠いているものの、映像密度の高さにはいつもながら圧倒される」

 「チェチェン戦争は、コーカサスとロシアの長い対立と融和の歴史を背景にした、しかし奇妙な戦い。『コーカサスの虜』(セルゲイ・ボドロフ監督)は、90年代のチェチェン戦争をテーマにした初めての映画だけれど、戦いの不可解さを象徴するように、最後まで視点が定まっていない。その歯切れの悪さをどう読むかで、この映画の評価が分かれる」

 「ロシア兵を襲って捕虜にしたチェチェン人がどういう訳かロシア軍に自由に出入りしていた。捕虜になった子供が母親に手紙を書き、その母親と捕虜にした チェチェン人 が直接会って交渉した。武装して襲わなければ拘束しないんだと思っていたら、最後にロシア軍が村を無差別空曝した。観ていて不思議に思うシーンの連続だったけれど、解説読んだらそれが事実だという」「おおらかさと残酷さが隣り合せの連続に戸惑い続けたね。これが現代の戦争ということか」「距離感を保ち直接ロシアの侵略性を批判してはいないけれど、チェチェンの長老アブドゥル・ムラットの最後の許しに、報復の連鎖を断ち切るという監督の希望が託されていることは間違いない」

   「『アントニア』(マルレーン・ゴリス監督)は、最初に微笑ましい幻想シーンを盛り込むことで、観ている者に寓話的な安心感を与えながら、性の規範から逃れた女性たちの生き様を正面から描いている。その生き方の揺るぎなさは、たおやかな風景と相まって清々しい」

 「妊娠と出産が生きがいのレッタは早死にするけれど、呆気なく死んでいくのは 皆んな男たち。この辺は『数に溺れて』などの初期のグリーナウェイを連想させる。ただ、本当の対比は厭世主義者・曲がった指とアントニアだろうね。二人は仲が良いが対照的な生き方をしていく。ショーペンハウエルとニーチェの関係のように。アントニアの娘が美術、その娘が音楽、そのまた娘が詩を志すというのも象徴的だ」

 「『すべては終ることはない』。この母系社会の圧倒的な現実肯定を前にして、男たちは今反論する余地もなく立ち尽くす。しかし、すべてを許し包み込む甘美な世界に身をゆだねる訳にはいかない。私は、嫉妬しつつ賞賛しない」

 「『心の指紋』は、マイケル・チミノ監督、6年ぶりの新作。前作『逃亡者』に比べ、はるかにスケールが大きく、研ぎ澄まされた映像には監督の全身全霊が込められている。カーチェイスをはじめ、相変わらずの力の入れようだ」

 「しかしリアリティに欠ける。ネイティヴ・アメリカン・ナバホのハーフ、16歳の殺人犯ブルーが末期癌を宣告され、主治医を誘拐してグランドキャニオンの聖なる山に向かう。医師は、少年のときに病に苦しむ兄ジミーに頼まれ生命維持装置を外したというトラウマを持っていたので、やがてブルーを助けながら山を目指していく。このストーリーの不自然さが最後まで気にさわった。医師の心変わりが唐突で説得力が乏しい。中でも、息も絶え絶えだったブルーが険しい崖を登り始めるのには、まいった。そして、神秘主義に逃げ込むようなブルーの救済や、薬を得るために強盗までした医師を上昇志向が強かった妻が手放しで迎えるラストシーンも奇異な感じを受けた」「山の頂上で二人が抱きあい、ブルーがマイケルに『おまえは本物の男だ』と言う場面では、僕もあきれてしまった」「重いテーマを抱えながら安易な解決を求めず、広い世界へと走り続けることの困難性。チミノの映画は、力強い映像表現の陰に探究に疲れた監督の弱さを映し出している」

 「リュック・ベッソン監督は、前作『レオン』では、ハリウッド的なアクションをうまく生かしていたけれど、『フィフス・エレメント』は、ハリウッドSFの悪いところを集約したような駄作。幼稚なストーリーと弛緩した映像に100億円の製作費が費やされた」「リュック・ベッソンは、物語のうまさではなく、映像の巧みさで引き付けるタイプの監督。それにしても世界救済のイマジネーションはあまりにも貧困だ。23世紀のビジョンも、人種や文化の混在化を除けば、二昔前のお手軽なSFコミックと変わらない」「衣装を担当したジャンポール・ゴルチエは、監督の個性を際立たせるデザイナーのはずだが『コックと泥棒、その妻と愛人』(ピーター・グリーナウェイ監督)や『キカ』(ペドロ・アルモドバル監督)でみせた冴えが感じられなかった」「唯一の救いはエリック・セラの音楽。さまざまなジャンルの音楽を取り入れ、要所要所で映画の雰囲気を盛り上げていた。中でも異星人ディーヴァが歌う『ザ・ディーヴァ・ダンス』はオペラとヒップが見事に融合し、束の間の至福をもたらしてくれた」

 

 「『キャッツ・アイ』(林海象監督)には失望した。70年代のノリによる、やぼったいキャッツ・アイ。せっかくのラヴァー・スーツの良さが生きていない」「ごちゃごちゃしていてカラーが統一されていない。3人の美女たちの魅力にも少し淡白すぎるのではないか」

 「『シャ乱Q演歌の花道』(滝田洋二郎監督)は、シーメールまで登場するシュールな展開。覆面演歌歌手という奇抜なアイデアは笑えた。演歌からロックへと飛躍するジャンピングボードとして、シャ乱Qは最適だ」 「でも、やっぱり型にはまり込んでいく。惜しい結末だった」


kinematopia97.10


 「水谷俊之監督はスタイルを徹底的に追及するタイプの監督だ。前作『勝手に死なせて!』は、ブラックなスラプスティック・コメディをパワー全開で走り抜けていたが、『人間椅子』は昭和初期の退廃的で耽美なエロティシズムを、鋭角的な映像で切り取った。江戸川乱歩の原作に谷崎潤一郎的な膨らみを持たせ、独自の世界を構築している」

 「清水美砂の濡れた瞳となだらかな肩が忘れられない。潔癖な性格の裏に退廃を育てていく役に、新鮮な発見があった。『うなぎ』では運命に翻弄される女性を演じたが、今回は自ら淫靡な世界へとのめり込んでいく作家をみせてくれた」

 「美術、音楽、カット割り、どれ一つおろそかにしていない。そして燃え上がる絹の手袋など、映像的なアイデアも豊穰」「ただ、触覚的なエロスの追及と子供の出産がうまく結び付いていないのが不満だ。子供を抱いて連れ添うライトシーンの平安は、視覚的なまやかしに見える」

 「遠藤周作原作、熊井啓監督とくれば『海と毒薬』、『深い河』という名作を連想する。新作に期待しないほうが嘘だが、『愛する』は底の浅い作品で失望した。少女の成長も差別の根深さも描けていないので、青春映画としても社会派映画としても中途半端に終った」

 「始まりのシャープな自然描写、伏線としての沖縄、流れるような展開と、見事な導入で期待が高まった。しかし森田ミツと吉岡努は出会い愛しあった後、ミツはハンセン病と診断され療養施設での精密検査を求められるあたりからの運びが不可解だ。沖縄出身の吉岡努がハンセン病をまったく知らないのは不自然。知ってからも感染を恐れて取り乱したりしない。飲み屋のマスター・知念も冷静に差別を語る。今も残るハンセン病への差別を描こうとしていながら、誰も怖れをみせない。これでは差別の深刻さが伝わってこない」

 「最大の疑問は、誤診と分かったミツが恋人のもとに帰ろうとせず、療養施設で働くことを選択するシーンだ。いかに施設の人たちが優しく魅力的で、その過酷な境遇に同情したからといって、一度も逢わないでとどまるというのは尋常ではない。何故ミツがそこまでの深い奉仕の精神を宿すようになったのかも不明だ。どう考えても私には納得できない」  

 「『ご存知!ふんどし頭巾』(小林隆志監督)は、サラリーマンの悲哀と心に秘めた正義感をくすぐる快作。家族愛という無難な着地点がやや物足りないが、内藤剛志とビデオカメラをクライマックスに持ってくるサービス精神は高く評価できる」「『ご存知!』というところで、参ったと思った。コメディになればなるほど、泣かせるね」

 「『コン・エアー』(サイモン・ウエスト監督)の着想は、アクション映画としては素晴らしい。しかし、結局は超人的な働きをする主人公の活躍の末のハッピーエンド」「大掛かりな爆発の連続で、飽きさせない。でも、最も凶暴な囚人が逃げ切るというオチは、意外と迫力なかった」

 「『ベスト・フレンド・ウエディング』(P・J・ホーガン監督)は、私が最も苦手とする映画だった。ジュリア・ロバーツのでかい口とキャメロン・ディアスの間の抜けた顔」「手厳しいね。機嫌悪いの?」「こういう種類の映画を気楽に楽しめる人が羨ましいよ。全然リアリティ感じないもの」

 「『バウンド』(アンディ・ウォシャウスキー、ラリー・ウォシャウスキー監督 )の、伏線をふんだんに盛り込んだスリリングな脚本に舌を巻いた。シカゴの匂いがあふれるストーリーを、多彩なアングルを駆使してリズミカルに盛り上げる映像は、見事過ぎるほどに決まっている。愛情でむすばれたタフな女性二人が活躍するのだから、男たちはとうてい太刀打ちできない」

 「コーキー役のジーナ・ガーションは、はまり役。『ショーガール』でも賢くてたくましい女性を演じ、同性愛的なシーンも巧みにこなしていた。ブリーフがあんなに似合う女優は、ちょっと他にいないだろう。ヴァイオレット役のジェニファー・ティリーも、かったるさが賢さに見えてきて、後半急速に輝きを増す」「注目すべきはウォシャウスキー兄弟の独自のユーモア感覚だろう。血みどろのアクションシーンに笑いを添えるテクニックは、小道具の生かし方とともにハイレベルにある。音楽のセンスも一筋縄ではいかないが、ラストに流れるトム・ジョーンズの『She's a lady』には思わず笑ってしまった」

 「『ファングルフ 月と心臓』(アンソニー・ウォラー監督)は、ロマンチック・コメディ・ホラー。心臓を求めて人を殺しまくる狼人間がテーマのはずだが、血なまぐささよりも青年の恋愛劇の要素が強く感じられる」「不思議なミックス・ジュース。デルピーは、すっかりバンパイアにはまっていたね」「CGの狼人間が、かなりやぼったいのが欠点」

 『ラリー・フリント』(ミロシュ・フォアマン監督)は、基本的にアメリカ礼賛の映画だね。ラリー・フリントの自由を求める闘いが、最高裁判所の無罪判決を引きだして、アメリカの自由さが示される。それに比べて日本はすぐに自主規制してしまって情けないと、思ってしまいかねない。しかしアメリカにはもう一つ、気に食わない奴を狙撃する自由も保証されているらしい。フリントを下半身不髄にしたテロリストはつかまっていない」

 「星条旗のパンツまでつくって国家と闘うフリントは、魅力的だ。しかし、スキャンダル好き、雑誌のための話題づくりという側面も見逃せない。一筋縄では扱えない人物であるが、ミロシュ・フォアマンは上品に仕上げすぎた。もっと悪趣味さを前面に出してよかった。また、下半身不髄になった後の苦悩をもっと描いていれば、振幅の大きな映画になったと思う」「ただ、オリヴァー・ストーンが監督しなかったのは正解だろう。たぶん観ているこちらが、恥ずかしくなるような図式を押し付けられたはずだ。その点、フォアマンは持ち前のユーモアのセンスで作品を包んでいた」

 「カール・セーガンの希望に満ちたメッセージを手堅くまとめ上げた『コンタクト』(ロバート・ゼメキス監督)は、『2001年 宇宙の旅』『惑星ソラリス』という名作を連想させる展開。導入が似ている『インデペンデンス・デイ』よりも、盛り上げ方ははるかにうまい。移動装置ポッドのデザインや作動による変化も、いかにも映画的で美しい。ジョディ・フォスターは、トラウマを抱えながらも前向きに生きる知的な女性をリアルに演じている」

 「しかし、重大な難点を抱えている。まず、大量の爆弾を持った顔の知れているテロリストが、最も重要なポッドの中核部分に入り込んでいるという設定には、無理がある。また、たとえ北海道が無人の島でも、巨大な建造物がマスコミに分からないうちに建設されるはずはない。だいたい、あれほどのテクノロジーがあれば、搭乗者に負担を与えながら力づくで宇宙を移動しなくても、宇宙人のメッセージをデリケートに地球に伝えられるはず。何故直接行かなければならなかったのか、納得がいかない」

 「『マルタイの女』(伊丹十三監督)は、監督自身が暴漢に襲われた経験を換骨奪胎し巧みなエンターテインメントに仕上げた作品。目新しさはないものの脚本自体は悪くない。しかし余裕のなさが感じられて、素直に笑えない」「宮本信子を主演として使い続けることの限界を感じた。いつもは軽妙な津川雅彦が、悪と闘って自殺するシーンに、珍しく監督の美学が示されていた」


kinematopia97.11


   「『世界中がアイ・ラブ・ユー』(ウディ・アレン監督)は、いつもの皮肉っぽい会話はさわりだけ、ナツメロの洪水とパロディにつぐバロディ、そして愛の賛歌に終る。前作『誘惑のアフロディーテ』でギリシャ悲劇のコロスにジャズナンバーを歌わせたアレンは、懐かしのミュージカル映画を自在にアレンジし、未踏のミュージカル映画を作り上げた」

 「ニューヨークの道行く人たちが歌う場面から、有名な宝石店ハリー・ウィンストンでの突然のダンスシーン、病院でのドタバタ・コメディ・ミュージカルにびっくりし、、幽霊達が『今を楽しもう』と踊りながら遺体安置所を出ていく展開で呆気にとられた。驚かされ続けたので、セーヌ川のほとりでジョーとステフィが踊り、ステフィの身体がゆっくりと宙に舞い上がったときは、その優しさにホッとした。こんな素朴なCGの使い方がうれしかった」

 「あまりにも多彩な家族とその周囲の人たちを描いているため、話しがとぎれたり拡散している部分もあるが、やりたいことを思う存分に実現し、とっておきのマルクス兄弟の落ちで締めくくったアレンの喜びが、すべてを補って余りある。こんなに幸せな映画には、最近なかなかお目にかかれない」

 「『クラム』(テリー・ズウィゴフ監督)は、1960年代のアンダーグラウンド・カルチャーを築いたCOMIX作家ロバート・クラムのドキュメンタリー。普通ならヒッピー文化など当時の社会現象との関係、検閲との闘いを中心に構成しがちだが、クラムと25年間つきあってきた監督は、社会に適合できずにいる彼の家族に焦点を当てる。クラムの飄々とした表情の裏に隠された、アメリカ社会への激しい憎悪の原点が明らかにされていく」

 「冒頭、クラムは『描かないでいると気が狂ってしまう。描くことは身体に染みついた習性、兄の影響なんだ』と語る。鬱病で家に閉じこもり、カントとヘーゲルしか読まない兄チャールズ。少年期の兄弟関係が、クラムの屈折を決定したことが兄との会話の中で見えてくる。彼が曲がりなりにも社会に出ていけたのは、憎悪を漫画として描きつづけることができたからだろう。最後にクラムは、兄から受けた世界から切り離されているという深い感情に触れ『僕はこの感情が好きだ』と話す」

 「兄がこの映画の撮影後に自殺したというクレジットを見て、衝撃を受けた。心を閉ざしたまま死んでいったチャールズの痛みを思い、心が押つぶされそうになった。こんな感情は『ゆきゆきて、神軍』で奥崎謙三の奥さんの死を知らされた時以来だ」

 「『黒人の心臓の缶詰』に代表される人種差別。『首のないDevil Girl』に代表される女性差別。クラムのあくの強いコミックは確かに差別的だ。免罪は出来ない。しかしそれは社会の差別を映し出す鏡といえるだろう。彼の作品はいつでも社会の本音を暴きだし笑いとばしてきた。その傍若無人さは通常の『風刺』よりも、厄介な毒だ」

 「『ラヂオの時間』は、三谷幸喜の初めての映画作品。ラヂオドラマの生放送という熟成された人情喜劇を、無駄のないテンポで編み上げたハイレベルのコメディ。笑いすぎてアゴが痛い。1997年を代表する作品だ。それにしても岩井俊二監督といい、最近の若手監督は何故か懐かしいテーマを初作品に選ぶ」

 「主要な登場人物は17人。さりげなく人生を匂わせながら一人ひとりに命を吹き込む術は並みの才能ではない。監督はアメリカ映画のような日本映画を目指したそうだが、唐沢寿明が演じるディレクターがいかにもアメリカ的な役回りだ。シニカルなポーズをとりながら、最後に熱血を見せるかっこよさ。しかし、一番かっこいいのは藤村俊二が深い味を出した元効果マンだ。後半は一大ヒーローとなって観客の喝采を浴びた」

 「前半プロデューサーが何気なく話すテレビとは違うラジオドラマの可能性が、後半のてんやわんやにつながっていく見事な伏線の張り方。笑いのつぼを知りつくしたサービス満点の仕上がり。出演者のわがままで影も形もなく変えられたオリジナルシナリオの全文を、パンフレットに載せるというのも、なかなかに心憎い演出だ」

 「『バウンス koGALS』(原田真人監督)は、久しぶりにひりひりするリアル感が充満している。ベッドシーンはないが、生々しい臨場感がある」「もっとも、そのリアルさは演出されたものだから、我々にとってのリアルさは、同世代にとっては嘘かもしれない。インターナショナルを一緒に歌うシーンなどで、そんな感じがした」「屈折した全共闘世代とコギャルを自然に結び付けているからね。しかし、この感触は捨てがたいな。たとえ、嘘だとしても」

 「『不機嫌な果実』(成瀬活雄監督)は、原色を生かしたスタイリッシュな映像に似合わない、おざなりなストーリー。『女の幸せは子供』というラストも貧しい発想だ」「『暗殺の森』の話が出てくるところが頂点かな。でも南果歩って、そんなに魅力的かなあ」「話がちまちましている。男性陣にもクールさがないし。みんな失格。不機嫌になるのは観ている方だ」

 「『ボルケーノ』(ミック・ジャクソン監督)の街を飲み込む溶岩のCGは重厚な迫力があった」「溶岩を人間の力ではなく大平洋という自然の力で押しとどめるという結末は、賢明だった」

 「『ベント』(ショーン・マサイアス監督)は、ナチス・ドイツによる同性愛者虐殺を取り上げ、世界中で反響を巻き起こした戯曲の映画化。舞台と映画では登場人物との距離の取り方が違う。舞台監督に演出をゆだねたことを評価する声が目立つが、中途半端なスタイルになったように思う。出だしのゲイパーティの雰囲気は的確だったが、徐々にペースが乱れ、後半の演出は単色過ぎて男どおしの愛の深まりが十分に伝わっていない」

 「そばにいながら互いの身体に触れることなく愛し合うというシーンは、舞台ならば観客を引き付けることが可能だろうが、映画では過酷な状況を丹念に積み重ねていかなければどうしてもわざとらしさが漂ってしまう。また周囲の人たちを丁寧に描かなくては、主人公たちの苦悩も深く響いてこない。エンドロールのミック・ジャガーの歌を聞きながら、癒しがたい物足りなさに耐えた」

『ぺダル・ドゥース』(ガブリエル・アギヨン監督)は、芸達者が個性を競い、洒落た会話と皮肉な展開でゲイたちの二重生活を描いたコメディ。エヴァ役のファニー・アルダンは、ぞくぞくするほど魅力的。妖艶さが印象的だった『リディキュール』とは別の一面、さばさばした姉御肌の自立した女性を好演した。アンドレ役ジャック・ガンブランの軽やかで華やかな演技も忘れ難い」

 「自由に自分らしく生きることを肯定した映画に見えるが、しかしながら『愛』がすべてを丸くおさめるという楽観主義ではスパイスがなさすぎる。過酷な現実を、うまくまとめる必要はない。口紅を塗るエヴァの男の子に、アンドリアンが「息子はゲイにしないぞ」と言って笑い合うラストもウイットに乏しく、映画を浮わつたものにしてい」

 「最後に見逃せないシーンについて。唐突にHIV検査を取り上げているが、同性愛者=HIVの危険性という根強い差別を増長する場面であり、あまりにも配慮 が欠けていると思う」

 「修道院での美少年たちの愛憎劇と、時を置いた刑務所内での復讐劇を交錯させた『百合の伝説』(ジョン・グレイソン監督)は、エイズをテーマにしたドタバタ・ミュージカル『ゼロ・ペイシェンス』に比べ、メジャー路線を狙った作品だ。才気走った趣向を凝らしてはいるものの、同性愛の悲劇という古典的な構図に収れんされジョン・グレイソンらしくない」

 「告解室の窓から見える劇が少年の日々の場面に変わり、そして一気に広い世界へと開かれていく見せ場は、ピーター・グリーナウェイならもっと巧みに演出しただろうと思えてしまう。多くの評論家が賞賛している女性役を含むすべてを男性が演じるというアイデアも、囚人達だからという消極的な設定の域を出ていないのではないか。わくわくするようなキャスティングの妙は感じられなかった」


kinematopia97.12


 「集団劇の楽しさに満ちた前作『猫が行方不明』で、パリの下町での騒動と人の出会いを、新鮮な切り口で見せたセドリック・クラピッシュ監督。『家族の気分』は6人の登場人物に的を絞って、シリアスとコメディのカクテルに挑んだ。ヒットした舞台の映画化で配役も同じ。派手さはないが気持ちの良い味に仕上げた。『猫が行方不明』と同時に撮影したという離れ業も特筆に値するね」

 「さえないバーテンのドニがどんどん魅力的になり、清楚な夫人のヨヨが酔うほどに毒を振りまき始める。そつがなさそうに見えたフィリップは小心さを露にし、口の悪いアンリは愚直な生き様を印象づける。つっぱっていたベティも柔らかさを取り戻す。そんな中でマイペースの母親だけは変わらない。登場人物の印象が自然に変化していく巧みな脚本。よくある親子、夫婦のいさかいとやさしさを程よく焼上げた家庭料理だ」 「『イベント・ホライゾン』(ポール・アンダーソン監督)は、特撮の満漢全席と言えるほど、さまざまなテクニックを駆使したSFサイコホラー。中世を思わせるデザインと爆破シーンは見応えがある。しかしブラックホール=地獄というあきれかえる設定が、この映画の価値を著しくおとしめることになった。どんなに新しい技術を用いても、それが古くさい価値観を増強するだけでは、深い感動は得られない。ポール・アンダーソンは、大変に器用な監督だが観客をなめている」

 「人間の奥深い記憶を具現化するというアイデアは、タルコフスキー監督の『惑星ソラリス』を連想させる。しかし十分に深められず、主題とつながっていない。サイコホラーの面ではアイデアの処理が生煮えで『羊たちの沈黙』など、さまざまな作品が思い出された。そのため、最後まで二番煎じという印象を拭い去ることができなかった」 「『ネイティブ・ハート』(タブ・マーフィー監督)に移ろうか。130年前に白人の大虐殺によって絶滅したとされるネイティブ・アメリカン・シャイアン族が山奥で生き続けている。それを発見した人類学者とカーボーイは彼等とともに生きる道を選び、村人もシャイアン族生存の秘密を守るという物語。いい気なものである。タブ・マーフィー監督は、シャイアンの側に立ったつもりなのだろうか。こんな脳天気なストーリーで満足している限り、先住民族とは出会えない。シャイアン族の描き方もあまりに平板すぎる」

 「やや甘い点はあるものの『ダンス・ウイズ・ウルブス』(ケビン・コスナー監督)には、白人による凄惨な虐殺の歴史を背負った緊張感があった。『ネイティブ・ハート』の葛藤のなさはひどすぎる。人類学者がシャイアンの生活を記録するために彼等と合流するという選択が何のためらいもなく進んでしまう。人類学者が行方不明になれば、そこからシャイアンの存在が知られる可能性は極めて大きい。だいたい人類学の歴史をみれば、異民族の発見とその文化の紹介が、結果として民族文化の破壊、民族の絶滅につながったことは明かだ。人類学者のこの苦悩を問わなければ、映画に血が通わないのではないか。自己満足に終わった駄作」

 「『天使の涙』で一つのスタイルを極めたウォン・カーウァイ監督は、『ブエノスアイレス』で地球の裏側のアルゼンチンに舞台を移し、だるい閉鎖空間からの脱出を試みた。すべてが崩れ落ち、そして浄化されるイグアスの滝のシーンに監督の思いが集約されている。久しぶりに、フランク・ザッパの曲が似合う作品に巡り会った」

 「舞台は香港から移ったが、虚ろな感触がリアルな質感に変わった訳ではない。空回りする切実な思いがふっきられた訳ではない。相変わらず、憔悴と奇妙な滑稽さが共存する独自の官能を漂わせている。しかし、とにかく世界を移動して台北に戻ってくる必要があった。同性愛を描くことで性別を超えた個性を描く必要があった。幾分甘いラストシーンも次へのステップとしての意味がある」

 「『スペーストラッカー』(スチュアート・ゴードン監督)には、驚いた。精緻なCG全盛の時代に、こんなにも安っぽい感覚のSFを撮る感覚は、たいしたものだ」「最初から最後まで統一感があるから、しらけたりしない」

 「『スノーホワイト』(マイケル・コーン監督)は、白雪姫のリメイクだが、キュートなモニカ・キーナが演じる少女リリアナの成長物語でもある。前半はやや上滑りだったが、後半はしっかりとゴシックホラーしていた」「ただでさえ怖いシガニー・ウィーバーが、さらに怖い」

 「『東京日和』は、待望の竹中直人監督作品。荒木経惟、陽子夫妻をどう料理するか、注目された。結論は無残というしかない。脚本が散漫で、写真集から借りてきたような映像が場面をつないで行くばかり。いいかげんにしてくれと言いたくなるほど、配役も大半が必然性を感じさせない。あるいは監督自身の人間関係を誇示させるような印象を受ける。隠し芸大会ではないはずだ」

 「肝心の夫婦間の葛藤と愛も、引き寄せて凝視されてはいない。荒木経惟の優しさとふてぶてしさ、陽子の繊細さと凄みが、ぬぐいさられ、淡い悲しみだけが虚ろに演出されている。荒木夫妻に気兼ねするくらいなら、映画を撮るべきではない。『無能の人』で魅せた潔さは、どこにいってしまったのだろうか」

 「話題となった中山美穂の演技も『ラブレター』(岩井俊二監督)に比べると、まだ迷いが感じられる。『アデルの恋の物語』(トリュフォー監督)のイザベル・アジャーニと比べるのは酷かもしれないが、もう一歩の踏み越えがほしい」

 「岩井俊二監督といえば、伝説の作品『GHOST SOUP』(1992年)をクリスマス・イブに観て、感心した。へたくそなタレントを使ったドタバタ喜劇が、やがてしみじみとしたメルヘンに変身する。すでに岩井ワールドが出来上がっていた。心が温まったよ」

 「観終わった映画について誰かに話したい思いで一杯になるのに、言葉がうまく見つからない。すぐれた映画に出会った時に共通する感情。とりわけ『萌の朱雀』(河瀬直美監督)は、感想を言葉にする空しさを味わわされる作品だ。地域の人たちとともに生活しながら地域の人たちとともに映画をつくる。小川紳介監督を連想させる手法が27歳の河瀬直美監督に引き継がれ、密度の高い作品に結実したことを喜びたい」

 「ときに録音状態が悪く会話が聞き取れなかったり、歴史的な背景を切り詰めたためにストーリーがくみ取りにくいという欠点はある。しかし、地域に溶け込みつつ大胆な省略法で情感を凝縮していく独創性は、なにものにも代えがたい魅力だ」「いつもは個性が強い国村隼が背景に回り、他の人たちを支えている姿勢がすがすがしい。そして一家の離散を迎えて、それまで家を支えてきた気丈な幸子の思い出が一気に歴史をさかのぼり山と溶け合うラストシーンでは、悲しみとともに不思議な恍惚感に包まれた」

 「胸元をXに切り裂く殺人事件が続発するが、加害者はそれぞれ違っている。謎が深まる中、一人の記憶喪失者が重要参考人として浮かび上がる。『CURE キュア』(黒沢清監督)は、一種のサスペンスではあるが、犯人探しの映画ではない」「動機なき連続殺人という点では『地獄の警備員』を思い出すが、あれも最初から犯人が分かっていた。女性新入社員が勇敢すぎてストーリーに無理があったし、お定まりの犯人の自殺で終わった」「犯人の顔つきは、どう見ても元相撲とりに思えなかった」「話しを戻そう。『CURE キュア』のテーマは、犯行の動機と催眠のかけ方、そして心を病む妻に疲れ果てている刑事・高部と犯人の壮絶な闘いですらない。倫理の壁が崩れかけている人間のもろさと狂暴さこそ、この作品の主題だ。感性の繊毛を逆なでする音と映像が、よそよそしい爛れた水のような恐怖を静かに育てる」

 「私達を不安にさせる映像。そこには『羊たちの沈黙』(ジョナサン・デミ監督)を連想させる根源的な問いが偏在する。いや、日常の中に殺人を忍び込ませる手つきは、こちらの方が一枚上かもしれない。また明治時代の映像を挿入することで、現代人を特殊化するような逃げ道もあらかじめ封じている。私達は最後まで何一つ答えを与えられない。刑事が犯人を射殺するラストシーンで安堵する自分に気付き、寒々しくなる。なにも終わってはいなかったのに」「観終わって席を立ったとき、周囲の人が怖かった。皆んなこころなしか、きつい眼をしていた。久々にオリジナリティの高い恐怖映画だった」

 「『タオの月』(雨宮慶太監督)のストーリー自体はありふれている。しかしSFXのセンス、宇宙人のアイデアは悪くない。花咲カニに見える珍妙なマカラガという怪物の造形は賛否が分かれるだろう」「時代劇の部分との色彩に統一感がほしかった」「谷啓さん、何で出てたのかな」


キネマトピアへ キネマやむちゃへ電脳バー・カウンターへ