第5章 死んだ後、どうなるのか
(われわれはいつかは肉体を捨てて次の世界へ行く。そこでの生活はどのようなものなのか、何をして過ごすのか、こうした疑問にシルバーバーチが答える)

こちらには昼も夜もありません。地軸の回転に依存していないからです。太陽の周りを回転しているのではありません。こちらには永遠の光が存在します。したがって地上のような時間と言うものはありません。
こちらへ来てからも仕事がありますが、それは自分がやりたいと思う仕事であって、お金を稼ぐためとか家賃を払うためとか衣服や食料を買うためにするのではありません。

地上で発揮されることのなかった能力や才能や技能を持つ人が次々と霊界へやって参ります。そういう人たちはこちらでそれを存分に発揮して、霊界の住民としての全体の豊かさの向上に寄与することが出来ます。

みんな自分がしたいと思うことにたずさわっております。霊界には無限の種類の楽しみがあります。音楽が好きであれば地上と霊界の名曲を鑑賞することが出来ます。コンサートも開かれております。文学が趣味の人は地上と霊界の名作を読むことが出来ます。絵画に興味ある人も地上と霊界の傑作の全てを鑑賞することが出来ます。

子供が好きな人間は両親に先だってこちらへ来た子供の世話をすることが出来ます。魂に病の有る者に関心を寄せる人は、そうした霊の為の更生施設で看護し介抱して霊的健康を取り戻させる仕事に携わります。それぞれの種類に応じた無限の種類の仕事があります。その上に更に私のように地上世界の為の仕事に従事する者もいます。

とにかく地上を去ってこちらへおいでになれば、言葉では言い尽くせない程の豊かさが待ち受けております。例えば音楽であれば、地上にない音階が存在します。絵画であれば、地上に存在しない色彩があります。そのすべてをお話しすることはとても不可能です。

・・・霊界へ行っても地上と同じようになんらかの形態を具えるのでしょうか。

幽霊や妖怪になるのではありませんよ。首のないお化けになるのではありませんよ。立派な胴体と、他人との区別のつく容貌を具えた、実在の個的存在です。また他人を認識するための感覚もちゃんと備えております。霊の世界で生きて行く上で必要な霊的器官が全部そろっています。

ちゃんと姿があります。形態を具えております。個人的存在を有しております。具えていないのは肉体的器官だけで、それに代わって、霊界で機能していく上で必要な霊的器官を具えています。

よく理解して頂きたいのは、あなた方人間にとって物質は個体性があり、実感があり、霊と言うとなんだか影の様で実態がないかに思えるのでしょうが、私達霊界の者にとっては霊こそ実在であり、実感があり、反対に物質の方が影のようで実態感がないということです。

と言っても、人間がしゃべるに必要な器具は霊にはありません。しゃべる必要がないからです。こちらの世界では思念で通じ合っています。お互いに思念を出し合い、それだけで通じ合えるのです。霊界では思念は実体のある存在なのです。

存在するものすべてが思念でこしらえられているのです。ですから、必要と思えるものはどんなものでも手に入れることが出来るのです。

(訳者注-別のところで、言葉でしゃべる必要があると思い込んでいる間はまだ幽質の発声器官が残っていて実際にしゃべり合っていると述べている。いわゆる地縛霊として地球圏内で自分が死んだことにも気づかずに生活している霊には地上時代に使用した器官がすべて残っていて、同じように食べて飲んで寝るという生活を繰り返しているのが実情である)

海もあれば山もあり、湖もあり、花も樹木もあり、動物も小鳥もいます。その美しさの中には実際にこちらへ来ないことには分からない種類のものがあります。ある程度の霊性に目覚めた者なら、もはや物質界の愉しみ(飲食欲・性欲等)を求めなくなります。仮にいても、それは例外に属します。

もう一つの霊界の有難い点は、地上の様な〝生きるための必需品〟を得る為の苦労が要らないことです。食料品や衣類を買う必要がありません。お金を払ってまでして家を求める必要がありません。全部揃っているのです。

・・・物的財産と言うものがなくなれば、貪欲とか、権力欲とかも無くなりますか。

いわゆる霊界でも低級な境涯にはまだ貪欲とか権力欲とかが存在します。忘れてならないのは、死んだ人間は霊的には死ぬ前と全く同じであることです。地上と違って霊界は思念が実在の世界です。心に思うことに実体が伴い実感があるのです。

私たちから皆さんを見ると、身体は影のように見え、皆さんが心に思っておられることの方が実態があります。このことはなかなか説明が難しいのですが、例えばみなさんが夢を見ているのと同じだと思えばよろしい。夢の中に現れるものは夢を見ている間は実在です。

もしも永遠に目覚めなかったら夢の世界がその人にとって実在の世界となります。乗る船も飛行機も、訪れる国も、夢の中ではみな実在です。

こちらの世界では思念が全てのものをこしらえる素材です。ですから心に思うことがみな存在するわけです。貪欲と権力欲を持ったままこちらへやってくれば、それがこちらでは無用のものであることに気づくまで、それを持ち続けます。

そうした自縛的状態から解放される段階まで成長すると、ようやく救われることになります。(これが本当の意味で成仏するという事―訳者)

困ったことに、権力欲や強欲は霊を地上へ縛り付けます。身体的に死んでいますが、同時に霊的にも死んだも同然です。波長が私達より人間の方に近い状態です。そこで同じ欲に燃えた地上の人間と感応しあって、その欲望を増幅してまいります。

・・・と言う事は、地上をうろつく霊がますます増え、同時にそれが地上問題の解決を難しくしているということでしょうか。

その通りです。というのは、こちらの世界は地上からの他界者で構成されていることを知らねばなりません。地球からの渡来者しかいないのです(*)。何の用意も身支度も出来ていない霊をそちらから送り込んでいる限り、地上と霊界双方の問題を増幅するばかりです。

そこで私達が地上人類の啓発の為にこうして働いているのです。暴力・貪欲・唯物思想・利己主義・強欲等々、要するに世界各地での戦争と不協和音と分裂の元凶である恐ろしいガンの発生を防ぐためです。

(*同じく〝霊界〟と言う言い方をしても地球圏の霊界、太陽系の霊界、銀河系の霊界、そして宇宙全体の規模の霊界がある。ここでは地球に限っての話である)

・・・霊界はこの地球からの他界者で占められているとおっしゃいましたが、その世界は地球を取り巻くように存在しているのでしょうか。それともずっと遠くまで広がっているのでしょうか。霊界も沢山あるのでしょうか。

神は無限です。生命は無限です。あなた方の小さな天球は宇宙の中の一個の豆粒の様な存在でしかありません。

・・・地球の様な世界が沢山あって、それぞれに霊界があると言うことですね?

霊の住む世界は無数に存在します。あなた方はこの宇宙の孤児(ミナシゴ)ではありません。

・・・となると〝死後の世界〟はどこにあるかという問い合わせにはどう答えたらよいのでしょうか。明確に答えるのは困難だと思いますが。

死後の世界とは、要するに今生活している世界の目に見えない側面、耳に聞こえない側面のことです。死んでからではなく今の時点で霊の世界に住んでいるのです。死んでからそこへ行くのではありません。今いる場所に霊界があるのです。

その世界の波長ないし振動、その他どう呼ばれても結構ですが、それをキャッチするための霊的感覚を発揮しない限りそれが認識できないと言うに過ぎません。別個の世界ではないのです。宇宙全体を構成する不可欠の側面であり、地球もその小さな一側面にすぎません。

・・・その見えない世界の存在を認識するために霊的感覚を養成することも、地上に生活している我々の義務と言ってよいでしょうか。

おっしゃる通りです。物質の世界の裏側に霊的側面があることを認識して初めて本当の意味で生きていることになります。霊的実在に気づかない限り、悲しいかな、霊的な意味で目と耳と口を塞がれているようなものです。

・・・霊界から地上へ戻ってくると地上が陰鬱に感じられるとおっしゃました。するとあなたはどこか別の場所からやってくることになりますが・・・。

自我の表現形態が変わるのです。霊界でのいつもの振動の速度を落とす操作をするのです。地上の低いオクターブをキャッチするために高いオクターブの振動に属する要素を霊界に預けてこなければなりません。

(質問者が代わる)
・・・何故霊界と物質界とが存在するのでしょうか。何故霊界一つだけではいけないのでしょうか。

それに対する答えは〝なぜあなた方はお子さんを学校へ通わせるのですか〟と言う答えと同じです。学校を出た後の生活で直面する様々な状況に備えて、勉強させるためです。物質界へ来るのも同じ理由からです。地上を去った後に訪れる生活に備えるために学習の一過程です。

物質界、霊界、そして果てしなく広がる宇宙は、あなた方の言う神、私が大霊と呼んでいる絶対的なエネルギーが顕現したものです。宇宙に存在する最高の力です。それは無限です。始まりも終りもありません。その叡智も無限です。その愛も無限です。その貯倉庫も無限です。

大霊の意思の表現である自然法側の働きは絶対です。かつて宇宙間に生じた現象、あるいはこれから生じるであろう現象で、その働きによる配慮が為されていないものは何一つありません。

人間界の法律は予期せぬ事情が生じて絶えず改正が行われます。しかし自然法則は完璧です。その働きの及ばないものは存在しません。誰一人、何一つ、極大、極小、複雑、単純に関係なく、その働きからはみ出るものはありません。

宇宙間のあらゆる事物、あらゆる環境、あらゆる事情、あらゆる現象が不変、不滅の法則によって規制されているのです。

私が何よりもまず、その絶対的な大霊に崇敬の念を捧げるのはその為です。荘厳さと深遠さにおいて、これに勝るものは何一つ、誰ひとり、存在しないのです。その知性の壮大さは到底地上の言語では表現できません。

皆さんのどなたよりも永い間顕幽にまたがる生命の旅を続けている私は、今なお、あらゆる存在の次元において働いている自然の摂理の完璧さに驚くことの連続です。

そこで申し上げますが、宇宙に存在するものは何らかの役目があるからこそ存在しているということです。自然の法則と調和して生きていれば、健康・幸福・霊的明るさ・精神的特性と言う形でその恩沢を受けます。それは、内在する神性を発揮しているということに他ならないからです。

あなたは有限の知性で持って無限なるものを理解しようとなさっていることを認識しておくことが大切です。

・・・あなたはその〝大霊〟と交信なさるのですか。

あなたの理解しておられる〝交信〟(コミュニケーション)の意味では〝ノー〟と言う答えになります。人間が交信するには口でしゃべるか、書くか、とにかく何か道具を使用しなければなりません。

自分の言いたいことを伝えるには言語を使用しなければなりません。しかし言語は有限なものであり、したがって無限なるものを表現することは出来ません。いかなる文章の達人も宇宙の無限性と、そこに存在するものすべてを、言語によって表現することは不可能です。

霊界では界層が高くなると意思の伝達が心と心との直接的なものとなります。そこで私が大霊と交信し合うのかとのご質問ですが、交信が言語の使用を意味するのであればノーです。私達は直接意思を通じ合うのです。大霊の無限の力にチャンネルを合わせて、できるだけ多くの力を頂戴するように努力するのです。

・・・あなた達霊の方が私たち人間より大霊と密接な関係にあるとお考えですか。

あなた方も同じように大霊と密接な関係にあります。何故なら大霊はあなた方の内部に存在するからです。大霊の火花が一人一人に宿っているからこそ生きていられるのです。

それとも〝密接〟とおっしゃったのは大霊とのより大きな調和、より強い一体関係が得やすいという意味でしょうか。それならば〝イエス〟です。なぜならば霊には無限の可能性と完全性が秘められていて、こちらの方がそれを発揮しやすいからです。しかし地上においても霊界においても、その完全性を全て発揮できる段階は来ません。

(質問者が代わる)
・・・完全性は永遠に達成できない・・・完全を目指しての絶え間ない努力の連続であるとおっしゃるのですが、それは完全性が二重性の一面だからでしょうか。二重性の原理を超えたところの別の意識の界層ないし状態があるのでしょうか。もしあるとすれば、それは理解を超えたものであるに相違ありません。

〝完全〟と言うものは、その本質ゆえに達成できません。〝これで完全です〟という段階、もうこれ以上目指すものがないという段階があるとしたら、ではその先はどうなっているのかという問題が生じます。
完全とは無限に続く過程です。霊の純金を磨き出すために絶え間なく不純なものを取り除いていく過程です。知識と同じです。知れば知るほど、また先に知るべきものが存在することを知ります。全知識の頂上に到達することは出来ません。意識には無限の次元、レベル、界層があるのです。

それが霊の属性の一つであり、無限であるがゆえに絶え間なく発展していくことを意味します。
ところであなたは〝二重性〟と言う言葉を用いておられますが、どういう意味ですか。

・・・〝対照性の原理〟のことです。

私の言う〝両極性〟のことですね。無限の知性と叡智によって案出され、ありとあらゆる可能性に配剤した自然法則があります。これには改正とか破棄とかの必要性は絶対に生じません。本質そのものが無限の知性の働きの証なのです。

もうこれでおしまいという限界がない・・・何処まで言ってもまだその先があると言うのは、これは素晴らしいことです。いわゆるニルバーナ・・・霊的進化のゴールとしての至福の境涯はないということです。

・・・いわゆる因果律の次元を超えて、現在の我々に理解できない別の次元の摂理が存在しますか。

摂理は無限に存在しますが、いかなる摂理も因果関係を律している総合的摂理の一部です。

・・・このサークルから離れている時のあなたは、どういうレベルの意識で機能しておられるのでしょうか。

人間の理解力を超えた境涯へ戻っております。霊の世界では地上的言語を超越し内的直覚を必要とする状態となります。私がこの地上を去って本来の次元の住処に引き返している間は、地上でこうして交信している時には出すことの出来ない高いレベルの意識を表現しております。それは皆さんに理解して頂けるような言語では全く用をなさない、霊的実感の世界です。

(初めてサークルに招待した人が質問した)
・・・死後の生命の存在を立証しようとすると、いろいろと不可解に思えることが生じてきます。どう証拠立てたらよいか思案しているのですが、存続すると言うのは一種のエネルギーとしてでしょうか。思念としてでしょうか。それともそれは今の我々と同じような、何らかの身体を具えたものなのでしょうか。

死後の生命とおっしゃいますが、私は時折地上世界を見渡して、果たして死ぬ前に生命があるのかと、疑わしく思う事さえあります。全く生きているとは思えない人、あるいは、仮に生きていると言えても、これ以上小さくなれないほどお粗末な形でしか自我を表現していない人が無数におります。

霊界での生活がどのようなものであるかを伝えるのは、とても困難です。なぜかと言えば、私達は人間のその五感に限られた状態で理解できる範囲を超えた次元で生活しているからです。言語と言うのは、あなた方の三次元の世界を超えたものを伝えるには全く無力です。

死後の世界の豊かさをお伝えしようにも、それを例えるものが地上にはないので、うまく言い表せないのです。しいて言えば、本来の自我の開発を望む人達の憧憬、夢、願望が叶えられる世界です。発揮されることなく終わった才能が存分に発揮されるのです。

経済問題がありません。社会問題がありません。人種問題がありません。身体ではなく魂が関心の全てだからです。魂には白も赤も黄も黒もないのです。

界層ないしは境涯と言うものがあり、そこに住む者の進化の程度に応じて段階的な差が出来ています。あなたが他界後に落ち着く先は、あなたが地上で身に付けた霊的成長に似合った界層であり、それより高い処へはいけません。行きたくても行けません。

またそれより低いところでもありません。行こうと思えば行けますが、何らかの使命を自発的に臨む者は別として、好んで行く者はいないでしょう。

霊的意識が深まるにつれて、自分に無限の可能性がある事、完全への道は果てしない道のりであることを認識するようになります。と同時に、それまでに犯した自分の過ち、為すべきでありながら怠った義務、他人に及ぼした害悪などが強烈に意識されるようになり、その償いをするための行いに励むことになります。

埋め合わせと懲罰の法則があり、行為の一つ一つに例外なく働きます。その法則は完全無欠です。誰一人としてそれから逃れる者はいません。見せかけは剥ぎ取られてしまいます。全てが知れてしまうのです。と言う事は、正直に生きている人間にとって何一つ恐れるものはないということです。

難しい問題がなくなってしまう分けではありません。解決すべき問題は次から次へと生じます。それを解決することによって魂が成長するのです。何の課題も無くなったら、いかなる意味においても〝生きている〟と言うことにはならなくなります。魂は陽光の中ではなく嵐の中にあってこそ自我を見出すものなのです。

もしも私があなたの悩みは全部こちらで引き受けてあげますと申し上げたら、それは嘘を言っていることになります。私にできることは、問題に正面から対処して克服していく方法をお教えすることです。いかに大きな難題も障害も、霊の力の協力を得れば、人間にとって克服できないものはありません。

霊は今の私の様に人間の口を借りてしゃべらなくても、いつまでも援助の手を差し伸べることが出来ます。時間と空間と言う厄介なものがないからです。あなたがいつどこにいても援助できます。その時の条件下で出来る限り援助し続けましょう。

・・・埋め合わせと懲罰があると言うことは、たとえば立派な行いには褒賞があると言うことになりますが、そういうことを裁定する神様は何処にいるのでしょうか。

もし埋め合わせと懲罰がなかったら、神の公正はどうやって発揮されるのでしょう。罪深い人間が聖者と同じ霊格を具えることがあっても良いでしょうか。もちろん、良いはずはありません。いかなることにせよ、良いことをすればそれだけ霊性が向上し、自己中心的なことをすれば、それだけ霊性を損なうのが道理です。

良きにつけ悪しきにつけ、あなたの霊的命運を定めて行くのは、あなた自身です。あなた自身のことに関して最後に責任を負うのはあなた自身です。もしも死の床にあって罪を告白し特別の信仰を受け入れればたちどころに罪が赦されて潔白の身になれるとしたら、それはまさにお笑いものであり、茶番劇と言うべきです。

・・・最後に責任を負うのは私であるとしても、それは生まれる時に思い通りの才能を選ばせてくれていたならば、の話です。私には選択の余地はありませんでした。

そう言い切れる根拠は何処にありますか。

・・・自分でそう自覚しているはずですが・・・

その自覚は本来の自覚のひと欠片に過ぎません。あなたはこの地上に誕生するに際して今の意識よりはるかに大きな意識によって、そう決断なさったのです。ですから、それを最大限に活用しないといけません。

(別のところで、このことは大半の人間について言えることだが、それは人間にはなかなか得心の行かないことでしょう。とも言っている。インペレーターもそれは高級霊でも同じであると言い、唯一その自覚を取り戻せたのはイエスだけでだと言っている―訳者)

・・・その小さな意識を活用しろと言うことでしょうか。

いえ、あなたが選んだ地上人生を、です。でもあなたは幸せな方です。一番必要とする時に霊的な啓示を受けられたのですから、現在のあなたはどうなっていたか分かりません。人生における最大の危機にもし霊があなたの進むべき道を指示してくれなかったら、現在のあなたはどうなっていたか分かりません。

あなたは地上のどこのマーケットでも買うことのできない知識を手にされました。本当に恵まれた方です。霊的実在についての知識を手にされたのです。バイブルにも〝汝の信仰に知識を加えよ〟とありますが、私は反対に〝汝の知識に信仰を加えよ〟と申し上げておきます。

(よく指摘される問題として、来生についての通信の食い違いがあることがあげられる。その点に付いて質されてシルバーバーチがこう語った)

霊の世界は無辺であること、従って当然そこに住む者による体験の多様性もまた無限であることを知らなければいけません。霊界の生活には霊的に上下の階段があり、従ってそれぞれに体験の相違と言うものが生じるわけです。

あなたと交信している霊は、その時の段階での自分の体験を述べているだけです。その後進歩してもう一つ上の次元の存在の場へ行けば、かつて抱いていた意見を改める可能性があるわけです。

このように霊界についてどう言う内容のことが伝えられるかは、中心霊の進歩の程度によって違ってくるわけです。ここで忘れてならないのは、地上近くで生活している霊ほど、これから体験することになっている上層界の高度な霊的事実を伝える能力が限られていると言うことです。

その霊が今生活している界層については何でも入手できますが、それより高い界層のことは理解出来ませんから、伝えてくることは必然的にその霊にとって明白なことに限られることになります。低い界へ降りることは出来ますが、高い界へは上がれないのです。

私から申し上げる忠告はいつも同じです。霊からの通信はことごとく理性で持って判断しなさいと言うことです。常識的に考えてどうしても受け入れ難いものは拒否なさることです。私達とて絶対に間違いを犯さない分けではありません。まだまだ完全からは程遠い存在です。

完全に到達するには無限の時を要するのです。何度も申し上げているように、それは永遠に続く過程なのです。

サークルのメンバーの方にも、あるいはご招待した方にも、私は決して〝こうしなさい〟とか〝これを信じなさい〟とかは申しません。独裁的指導者ではないからです。私達は協力者なのです。

皆さんの愛さえ獲得すれば仕事は成就したも同然であるとの認識のもとに私達は、真実と叡智と理論と理性と愛を持って皆さんの協力を得なければならないと考えているのです。

私達の宗教は真理の宗教です。私たちから提供するのは真理のみです。私達が真実であると理解した限りの真理、私達および皆さんに啓示された通りの真理です。その表現の仕方は拙劣(セツレツ)かもしれません。何故なら私達霊団の者もあなた方と同じ人間味を残している存在であり、過ちも犯します。欠点もあるからです。

しかしこれからも私達は、人生のすべての基盤となっている永遠にして不変の霊的原理であると信じるものを皆さんに説き続けます。その霊的摂理に忠実に生きている限り、絶対に危害は被らないことを断言します。

と言って、地上生活に付きものの困難と苦難と面倒なことから逃れることは出来ません。何故なら、それは魂の進化にとって必須のものだからです。光明を味わうには闇黒を体験しなくてはなりません。太陽の有難さを知るには雨の日を体験しなくてはなりません。

人生は両極性を体験しなくてはなりません。一方だけでは他方の存在価値が分からず、物質的にも精神的にも霊的にも啓発が得られないからです。

無限の叡智を具えた大霊はあなた方に理性と言う才能を賦与なさっています。何事にもそれを使用することです。例え霊界からのものであっても理性が反発を覚えるものは恐れずに拒否なさるがよろしい。

・・・私は地上はいずれまた戻ってくる学校だと考えているのですが正しいでしょうか。

学ぶべき教訓を学ばずに終われば、それは学ぶ為にまた戻って来なければならないでしょう。しかし、これまであなたの人生を振り返ってごらんになれば、万事休すと思われた時に霊の道標があなたの進むべき方向を教えてくれていることがお分かりになるはずです。

霊の力はそういう形で働いているのです。あなたは決して一人ぼっちではありません。いつもあなたと血族関係にあった霊だけでなく、血縁とは別の霊的近親関係によって結ばれている霊によって導かれております。神の子を導くことによって神に奉仕する。その手段として人間を導いているのです。

(質問者が代わる)
・・・霊界でピアノを習いたいときはやはり練習が必要なのでしょうか。

勿論です。何もしないで身に付くものはありません。霊界には各自の才能に応じて指導してくださる立派な先生が大勢います。地上において経済的理由や社会的環境の為に発揮できなかった才能を持つ新参者は、霊界へ来てから驚くほど素晴らしい機会を与えられる事が良くあります。霊界では、なにものにも束縛される事がなくそれを最高度に発揮することが出来ます。

・・・睡眠の必要がないそうですが。終息とか寛ぎの時間はありますか。

あります。寛ぐ必要を感じたら寛ぎます。

・・・霊体はどうやって養い、維持するのでしょうか。

食べ物によって養う必要のある物質的身体ではありません。

・・・霊的な栄養はありますか。

あります。摂取すべき霊的エネルギーが全て揃っています。霊は無限です。

・・・こうしたことは無論そちらへ行くまでは理解できないことなのでしょうね。

その通りです。こちらへおいでになれば、今度は私と同じように、それを地上の人に説明する難しさを知ります。

・・・ここにいる私が、死後はあなた方と同じ世界へ行くことは疑う余地もなく理解しております。あなたのお陰でその事実に途方もなく大きな意味があることを知りました。その意義を地上にいる間に実現しなければなりません。
また私たち人間には何らかの霊的才能が宿されていて、それを地上において発達させるのが私達の義務であることも知りました。私達は地上では大たい以上のように理解するのが精一杯であると考えてよろしいでしょうか。

非物質的な霊の世界のことを物質界の言語で表現できないのは、あなた方の思考そのもの、あなた方の精神的概念の全てが、その言語によって規制され、意識がその三次元の地上界だけに縛られているからです。
五感もそれ自体は素晴らしいものですが、現実にはそれが外界から摂取するものを制限しまた摂取したものを制約しています。霊覚者は表面の生命活動の裏側にある大きな実在を霊覚によって認識しますが、それを伝えようとすると言語の無力さを痛感します。言語は人間がこしらえたものであり、インスピレーションはその言語を超越したものだからです。

・・・霊界の各界層間の連絡はどのようにして行われるのでしょうか。

今も申し上げた通り、そうした質問にお答えする上で問題なのは、言語を超越した実在を言葉によって表現しなければならないと言うことです。〝界層〟という用語自体がまず問題です。皆さんは地球の表面の様な所を想像なさるのでしょうが、実際はただの〝状態〟であり、〝階段〟の一つです。

霊界は段階的に上下の差があります。一つの段階はすぐ上と下の段階と融合してつながっており、それが限りなく続いております。明確な境界線が引かれているわけではありません。地理的な区域と言うものはないのです。

ある界からそれより高い界へ一方的に通信を送ることは出来ませんが、高い界から低い界へ向けて通信を送ることは出来ます。その方法は以心伝心によります。言葉はしゃべりません。音声を発する器官がないからです。思念対思念による交信です。

・・・すると霊界には思念のプライバシー(秘密)はないわけですか。

ありません。私達の世界では何一つ隠す事は出来ません。全てが知れてしまうからです。だからと言って、別に恥ずかしく思うことはありません。地上ではごまかし、嘘をつき騙すことは出来ます。名前を合法的に変えることも出来ますが、本性を変える分けには参りません。

(招待客が自分のホームサークルに出てくる霊の中には歴史上の著名な人物の名を名乗る人物がいることを述べると)

私達の世界では名前は何の意味もありません。地上時代の名声はなんの価値もありません。魂の価値は地上時代の肩書ではなく、何を為したかによって自らを裁き、それが現在の個性を形成しているのです。霊界での唯一のパスポートは魂の発達程度です。それが赤裸々にされるのです。

ごまかすことは出来ません。嘘をつくことも出来ません。見せかけも通じません。こちらへ来ると地上時代の仮面が剥ぎ取られ、あるがままの姿が知れてしまいます。魂の霊的発達程度が誰の目にも分かります。
名声が何になりましょう。子供のおもちゃの様なものにすぎません。なんの価値もありません。そもそも名声はどうやって得られるのかを考えてごらんなさい。お金があるとか世間的に出世したと言うことで名が知れたに過ぎません。イエスはそうした名声は一切求めませんでした。先師、聖者、先駆者、改革者と言われる人は名声を求めたでしょうか。

大切なのはどれだけ人の為になることをしたかであって、その人の名前ではありません。ですから、いわゆる有名人の名前を名乗って出る霊には気をつけた方がよろしい。判断の基準はなんと名乗っているかではなくて、どういう態度でどんなことを説いているかです。

何時もお願いしているように、もしも私の言っていることにあなた方の知性を侮辱し理性を反発させるようなところがあったら、遠慮なく拒絶なさってください。愛の心で接し真理の核印を押されたものを説きながら、それで皆さんの魂に訴えることが出来なかったら、それは私達霊団の努力は失敗に終わったことを意味します。

(親密な間柄だった親戚の霊がどうしても出てくれないのはどう言う事情があってのことかとの質問に対して)

自由意思の問題です。地上へ無理に引き戻そうとする強制力は一切働きません。こちらの世界へ来て、たとえようもない楽しさと美しさと光輝を少しでも味わった者にとって、地上と言うところは、戻ってみたいと思うほど魅力のある世界ではありません。薄暗くて、じめじめして、これほど面白くない雰囲気はありません。こうした世界へ戻ってくるのは大変な犠牲を強いられるのです。

・・・テレパシーによって霊との交信ができた場合、それは霊にとって苦痛なのでしょうか。自分の所属界にいるままでは交信できないものでしょうか。

それは十分可能なことです。私達としてはそちらとこちらとがお互いに半分ずつ歩み寄る形で交信できれば有難いのですが、残念ながらそう希望どおりには参りません。私達の方から地球の大気圏、地上的環境、地上界のバイブレーションの中へ降りて行かねばならないのです。

つまり霊的なものを物的なものへ近づけなければならないのです。本当は物的なものを霊的なものへ近づけてほしいのですが・・・

(質問者が代わる)
・・・人間が幽体で旅行する話を聞くことがありますが、私にも同じ体験があるみたいです。どう言う現象なのでしょうか。

至って簡単なことです。幽体が肉体から抜け出て、時には私達の世界へ、時には地上の遠隔の地まで旅行するのです。実は睡眠中は一人の例外もなく幽体で旅行しております。一時的に肉体を離れて私達の世界を訪れ、縁のある人たちと会っているのです。

これは死後の環境の変化がショックにならないように、あらかじめ準備させるための神の配慮なのです。

死の現象(二つの身体をつないでいるコードの切断)を経てこちらの住民となれば(意識の中枢が幽体へ移って)地上時代の睡眠中の体験を思い出し、それから始まる素晴らしい霊界生活への準備が整います。皆さんは毎晩死んでいると言ってもいいのです。

・・・誰しも夢を見ます。その中で親しい人と会ったことを思い出すことがありますが、本当に会っているのでしょうか。それともただの想像にすぎないのでしょうか。あるいは会いたいと言う願望がそういう夢となって現れるのでしょうか。

いえ、実際にその人と会っておられるのです。と言っても想像力を見くびってはいけません。厄介な面もありますが、豊かな創造性も秘めております。純粋にして最高の形態で発揮された時の想像力は驚異的な働きをします。未開発の能力を花開かせていく創造的な力となります。

夢の全てが霊的体験と言うわけではありません。潜在意識に蓄積した観念の反映にすぎないこともありますし、夜遅く食べたものの反応にすぎないこともあります。

・・・その違いは分かるものなのでしょうか。

分かります。食べたものや潜在意識のせいである場合は霊的な効用がありません。実際に霊界の愛する人にあった場合は精神的ならびに霊的な温もり、充足感を覚えます。その違いは明確に分かります。

もっとも、その違いを見分けるには能力の発達が要請されます。物質的な印象にすぎない場合は肩にずっしりと重たさを感じますが、霊的な体験の場合は蝶に口づけをされたみたいな気分が致します。

(質問者が代わる)
・・・霊界では一個の霊が数か所で同時に仕事をすることが出来ると聞いております。これはグループ・ソールの原理と関係したことなのでしょうか。つまり一個のダイヤモンドの複数の相の一つ一つ行うことが、あたかも一つの相が同時に行っているように思えるのでしょうか。

霊界では様々な霊相を表現することが出来ますが、一個の霊が複数の相を別々の場所で同時に表現することは出来ません。一度に一つの場所にしか存在できません。

ただ地上の人間の様に物的条件による距離の制約は受けません。例えば地上の距離にして何マイルも離れたところへでも、行きたいと思えば一瞬の間に行くことが出来ます。
それはダイヤモンドの一側面、つまりグループ・ソールの一個の単位であることは何の関係もありません。その側面が全体としての進化に寄与する為の体験を獲得するために地上へ誕生します。

・・・その結果ダイヤモンドが全体としてより立派なものとなる分けですね。

そういう事です。一段と深い霊的覚醒と発展が得られるからです。各側面が地上での体験によって霊性を高めるのです。地球も本質的には霊的進化の場としての存在価値を有しているのです。そうでなかったら存在しないはずです。

・・・地上で意識しているような時間はないのでしょうか。

ありません。地上の時間と言うのは昼と夜と四季を生じさせている地球の自転と公転によって支配されております。私達は地球の回転の影響は受けません。したがって昼と夜とか春夏秋冬の区別がありません。時間は私達にとっては存在しません。強いて言えば〝永遠の現在〟の中に生きております。

・・・永遠の過去でもあるわけですね。

私達にとっては過去も未来も、ともに永遠の現在です。皆さんの睡眠中のことをお考えなれば、さほど理解の困難な話ではないと思います。睡眠中は一時的に物的束縛から解放されています。

ですから夢の中ではそういう束縛を受けないで、途方もない距離を行き来出来ます。いつもの時間の観念が無視されています。永い夢の出来事も数分の内に起きております。

・・・この世では時間に縛られているかに思えても霊界では時間と言うものが存在しないのですね。

時間そのものには過去も未来もありません。時間は永遠の現在の中に存在しています。過去と未来はあなたと時間との関わり方一つによって生じているに過ぎません。

(別のところで時間を無限に回転する輪に例え、今触れているところが現在で、すでに触れたところが過去、これから触れるところが未来ですと言っている―訳者)

皆さんは三次元の世界に生きておられます。私達は地軸の回転、つまり昼と夜を生じさせる回転する球体とは無縁です。永遠の光の中で生活しております。これをどう説明すればよいのでしょう。

肉体の様な物質身体がありませんから眠る必要がありません。睡眠を必要とする身体を持っていないのです。休息を必要とする時は、元気が回復するまで休止するだけです。

私達の世界は、皆さんには到底想像できないほど豊かで美しい世界です。皆さんの聴覚を超えたオクターブの世界、みなさんの視覚を超えたスペクトルの世界がどうして説明できましょう。どうにもならない程説明が難しいのですが、それでも実在しているのです。

物質の世界へ生まれてきた以上は物質の法則によって制約を受けざるを得ませんが、皆さんも霊なのです。魂が宿っているのです。それはいかなる物質なものよりも上です。霊が主人であり物質は召使いです。霊は不変の実在であり、物質には永遠性はないのです。

その霊が去ると肉体はもろく崩れてチリと化します。形体を変えてしまいます。そして二度と同じ形体には戻りません。一方真実のあなたである霊は生き生きと輝いた姿を見せております。心臓だの肝臓だの肺だのによって生かされているのではないのです。肉体に生きるエネルギー、あるいは生命を維持する上で必要なものすべてを供給しているのは霊なのです。