第4章 死ぬと言う事はどういうことか
死ぬと言うことは霊が肉体から脱皮して姿を現す過程のことです。何一つ怖がる要素はありません。死はありがたい解放者です。死は自由をもたらしてくれるのです。

地上では赤ん坊が生まれると喜びます。ところがいよいよ地上へ誕生しようとする時こちらでは泣いて別れを惜しむ霊が大勢いるのです。それと同じく、地上で誰かが死ぬと泣いて悲しみますが、こちらではその霊を出迎えて喜んでいる人たちがいます。

死とは地上生活がその目的を果たし、霊がこれから始まる霊的生活が提供してくれる圧倒的な豊かさと美しさとを味わう用意が出来たことを意味します。少なくとも本来はそうあらねばならないのです。

皆さんにも霊が宿っております。生命を与えている霊的本性です。肉体もお持ちですが、それもその霊によって生命を付与されて初めて存在しているのです。霊が最終的に引っ込めば・・・〝最終的に〟と申し上げるのは一時的には毎晩のように肉体から引っ込み、朝になると戻ってくるからです・・・肉体に死が訪れます。生命活動が切れたからです。

霊視能力者が見れば、霊体と肉体とをつないでいるコードが伸びて行きながら、ついにぷっつりと切れるのが分かります。その時に両者は永久に分離します。その分離の瞬間に死が発生します。そうなったら最後地上のいかなる手段をもってしても肉体を生き返らせることは出来ません。
(近似死体験と言うのがあるが、これは医者が〝ご臨終〟ですと宣告しても玉の緒がまだ切断していなかった場合である)

・・・臓器移植の技術的進歩によって新たな問題が生じております。医師たちは死者の心臓と腎臓を取り出すために死の瞬間を待ちうけております。問題は〝果たしてほんとに死んだと言えるのか・・・もう臓器を取り出してもよいか〟と言う点です。

臓器移植についてはよく存じております。そしてまた、その動機が立派な場合があることも承知しております。しかし私としては人体のいかなる部分も他人に移植することに反対であると申し上げます。

・・・死者はある一定期間そっと安置しておいてあげる必要があると信じている人がいます。それと言うのも、最近では人体を使って実験をするために死体をかっさらうように実験室へ持っていくことがよくあるのです。こうしたことは魂ないし霊にとって害があるのでしょうか。

それはその死者の霊が霊的事実についての知識があるかどうかによります。もしも何の知識もなければ一時的に害が生じる可能性があります。と言うのは、霊体と肉体とをつないでいるコードが切れた後も、地上での長い間の関係によって相互依存の習性が残っているからです。

その意味では一般的に言って埋葬または火葬迄に死後三日間は間を置いた方がよいでしょう。それから後のことは、どうなさろうと構いません。死体を医学的な研究の材料として提供したければ、それも結構でしょう。そちらで判断なさることです。

ただ一言わせていただけば、誰にも生まれるべき時があり、死すべき時があります。もしも死すべき時が来ていれば、たとえ臓器移植によってもその肉体を地上へ永らえさせることは出来ません。

・・・飛行機事故で即死するケースがありますが、その場合は霊的にどういう影響があるのでしょうか。

今申し上げたこととまったく同じです。霊的事実についての知識がある人は何の影響もありません。知識のない人はそのショックの影響があるのでしょうが、いずれにせよ、時の経過とともに意識と自覚を取り戻します。

・・・偶発事故による死があるとなると再生の事実を受け入れたくなります。

偶発事故と言う用語は感心しません。私は因果律の働きしか知らないからです。偶発のように思えることも、ちゃんとした因果律の働きの結果なのです。再生の問題ですが、これは大変複雑な問題で、今ここで十分な説明をする余裕がありません。

(訳者注-原書をお持ちの方のために参考までに付言すれば、本章のここのところまでSilver Birch Speaks)

(質問者が代わる)
・・・私はテレビで<人類発達史>を見ておりますが、見ているうちに人類の霊魂の起源のことを考え始めました。その当初において人類の霊魂は何らかの動物の種から発生したのでしょうか。

いいえ。

・・・と言う事は、動物界は我々人類と別個の存在と言うことでしょうか。

いいえ。

・・・では人類の霊魂はどこから発生したのでしょうか。

何処からも発生しておりません。霊魂に起源はありません。

・・・これまでずっと私は、人類の霊魂は徐々に進化してきたものと思っておりました。

そうではありません。進化してきたのは身体の方です。霊は大霊の一部であり、無始無終です。霊は無窮の過去から存在しています。それが人間の身体に宿った時に個別性を具えるのです。霊には始まりも終りもありません。

バイブルに〝アブラハムが生まれる前から私は存在している〟と言うイエスの言葉があります。霊は常に存在しているのです。霊は人間的形態に宿って初めて個別性を持つことになるのであり、霊ないし魂は常に存在していたのです。

(質問者が代わる)
・・・霊魂の永遠性についてお伺いしたいことがあります。年配の霊と若い霊と言う言い方をする人がいますが、霊が新たにこしらえられることがあるのでしょうか。私達はどこから来たのでしょうか。全ての霊が再生されたものなのでしょうか。それとも大霊から新しい霊が産み出されてくるのでしょうか。

霊はこしらえられるものではありません。過去も未来もなく常に存在しております。先ほど私は〝アブラハムが生まれる前から私は存在している〟と言うイエスの言葉を引用しました。霊としてはあなたも無始無終に存在しているのです。

霊を新たにこしらえなければならなかったことは一度もありません。霊が無になる段階と言うものはこれまで一度もありません。

生命の原動力、精髄、活力、そのものである霊は過去も未来もなく常に存在しております。霊はあらゆる生命現象が生まれるエネルギー源です。植物も小鳥も樹木も動物も、人間も、全てそうです。霊は存在の大原動力です。

母体に子供が宿された時、それは新しい霊でも新しい魂でもありません。無始無終に存在している永遠の霊の一部です。それが人体に宿って個別性を獲得し、その個体がしばらくの間地上で機能するわけです。

しかし霊は様々な側面を持つことができます。その幾つかが地上に再生して本霊であるダイヤモンドに新たな光沢を加えることはあり得ます。その意味では〝年配の霊〟〝若い霊〟と呼べる霊は存在します。しかし〝新しい霊〟と言うものはこしらえられません。地上での自我の表現機関として、新しい身体が提供されるだけです。

胎児が無事に宿り、地上生活の為の身体が用意されると、霊は個別的存在として地上へ誕生してきます。霊そのものは別に新しいものではありません。個別的形態を具えたと言うだけです。一個の人物となったと言うだけです。その男性また女性が成長してやがて地上を離れると、大きい自我の一個として新しい要素を加える事になります。

・・・各自に生まれるべき時があれば、同じく死ぬべき時もあることになりますが、帝王切開で生まれた場合はどうなるのでしょうか。決っていた誕生の日時を変えることになりませんか。

「それは地上へ生まれ出る日時を変えるだけです。母胎に宿って個としての表現を開始した日時を変えることにはなりません。また地上的生命に自ら終止符を打つ自由も与えられておりますが、その時はその時で自動的に報いがあります」

・・・出産を医師が人為的に早めたりすることがあります。するとその子は定められた時期より早く生まれることになりますが、これは占星学的になにか影響を及ぼしませんか。

「出生の時期が良く良く気になると見えますね!地上への誕生に関して唯一大切なことは、いつから自我を表現し始めるかと言うことです。それは受胎した瞬間からであって、生まれ出た時ではありません。占星学については私は何の関心もありません。受胎と共に地上生命が始まります。受胎なしには地上的生命はありません」

・・・ブラジルに来られたローマ法王が民衆の貧しさに嘆かれ、一方、家族計画(産児制限)は許されるべきではないことを強調されましたが、その矛盾をどう理解すればよいのでしょうか。

法王はとても立派な方ですが、宇宙の全知識を貯えられているわけではありません。家族計画は人類自身で解決すべきことですから、これからも続く問題です。ただ、一個の霊が人間界へ誕生することになっている時は、いかなる計画を立てても必ず生まれてきます。

(質問者が代わる)
・・・死後の生命なんかほしくないと、本心からそう思っている人がいます。そういう人たちにどう説かれますか。

地上なんかに二度と生まれたくないと本心から思っている霊がいますよ。しかしそれは、いかんともしがたいことなのです。自然の摂理との縁を切ることは出来ません。あなたがどう思うかに関係なく摂理は働きます。開け行く大自然のパノラマが人間の小さな欲求や願望、あるいは反坑にもお構いなく展開していく姿をご覧になれます。

・・・と言うことは、私達は地上へ来たくなくても無理やりに来させられるということでしょうか。私はその点は自由な選択が許されると思っていました。

必ずしも強制されるわけではありません。地上から此方へ来るのにも自由選択が許されるように、此方から地上へ行くのにも選択の余地が与えられています。

是非とも為さねばならない仕事があることを自覚して地上へ誕生する霊がいます。行きたくはないけれど、どうしてもしなければならない用事があるので止むを得ず誕生する霊もいます。あるいは償わねばならない業(カルマ)があって誕生してくる場合もあります。

・・・自殺するとこまで計画されていることがあると言うのは本当でしょうか。
とんでもありません。計画と言うのは母体に宿る以前に霊自身によって立てられるのです。

・・・自殺行為によって学べるものは何一つないと言うことでしょうか。

あるわけがある有りません!。生命は宇宙の大霊が授けるのです。それを縮める権利は人間にはありません。

・・・死んで霊界入りした人間は自分が死んだことを自覚できるのでしょうか。

みんながみんな自覚できるとは限りません。大半の者が自覚できますが、完全な自覚(悟り)に到達するまで相当な時間がかかります。

・・・霊界の人たちは何もしてくれないのでしょうか。

いえ、いろいろと指導しております。本人は気付かなくても陰から手助けをしております。霊界は全てが知れるように組織されております。上層界には高級霊による政庁が組織されており、その中には一度も物質界に誕生したことのない霊(天使)がいます。

その霊達が神の計画推進に当たっているのです。大規模な総合計画があって、有意識・無意識の区別なく、あらゆる存在を包摂しております。その宇宙的規模の摂理から外れて存在できるものは何一つありません。

・・・人間が死ぬと肉親や愛する人たちが出迎えて手引きしてくれるそうですが、それらの霊は他界者と同じ霊格の同じものばかりでしょうか。

そうではありません。なぜなら、その霊達は死後も霊的に進化しているからです。他界してきた者のレベルに合わせて交信するために、いわば階段を下りてくるのです。霊的成長とは成熟していくことであることを理解しないといけません。

地上の年齢とは一致しません。では、さっき述べた完全な悟りに到達できるのはどの段階においてかと言うことですが、これはお応えしくくい問題です。と申しますのは、悟りと言うのは固定した限りあるものではなく、いつまでも成長し続ける状態だからです。

悟りには無限の奥行きがあります。これでおしまいと言う終点がないのです。深まれば深まるほど、さらにその奥に悟るべきものがあることを自覚するものです。

それは事実上永遠に続く過程です。無知の状態からいきなり悟りが開かれると言う、そういう突然の変化ではありません。段階があり、魂がより高い段階への準備が整うにつれて、少しずつ開けて行くのです。

・・・例え生活水準が今より向上したところで不老不死と言うことはあり得ないのはいうまでもないのですが、もしも完全な生活条件が整ったら百五十歳までは生きられるのではないかと思うのですが。

肉体的年齢と霊的成熟度とを混同してはいけません。大切なのは年齢の数ではなく、肉体を通して一時的に顕現している霊の成長、発展開発の程度です。

肉体が地上で永らえる年数を長引かせることは神の計画の中にはありません。リンゴが熟すると木から落ちるように、霊に備えが出来ると肉体が滅びると言うことで良いのです。ですから、寿命と言うことは忘れることです。長生きすること自体は大切ではありません。

地上生活の一番肝心な目的は、霊が地上を去ったのちの霊界生活をスタートする上で役に立つ生活、教育、体験を積むことです。もしも必要な体験を積んでいなければ、それはちょうど学校へ通いながら何の教育も身につけずに卒業して、その後の大人の生活に対応できないのと同じです。

(永年スピリチュアリズムの仕事に努力した夫に先立たれた女性にシルバーバーチが次のような励ましの言葉を述べた)

本日あなたをここへお迎えして、苦労と試練の時の力となった基本的な霊的真理の真実性を改めて確認して差し上げることを、とてもうれしく思います。

地上に籍を置く人間にとって、たとえ死後にも生命があるとの知識を手にしている方でも、身近な者が宇宙の別の次元の世界へ連れていかれて時に平然としていることは、容易なことではありません。死と言う身体上の別離には悲しみが伴うものであるという事実を軽視するのは、愚かでもありましょう。

しかし、それはあくまでも身体上の別離であって霊的には少しも別れてはいないことを御認識すべきです。

地上に生を受けた人間にとって死は避けられません。いつかは地上に別れを告げなければならない時が参ります。それは、もはや地上生活がそれ以上その霊に与えるものがなくなり、完全へ向けての進化の不可欠の要素として、次の冒険へ旅立つ用意が出来たということです。

その死別と言う試練に直面した時に自分をどう慰められるかは、各自が考えるべきことです。それが容易でないことは私も理解しております。

しかし,死は愛によって結ばれた者を引き裂くことは出来ません。愛は、生命と同じく不滅です。また愛は、生命と同じく、条件さえ整えば望み通りのことを叶えさせる強烈な威力を秘めております。もとより、心ひそかに声もなく流される涙もあることでしょう。しかし、うなだれてはいけません。霊の力は決して見捨てません。必ずや援助の手が差し伸べられます。

悩んではいけません。悩みの念はその援助の通路を塞いでしまいます。あなたはご自分ではそうは思えないかもしれませんが、ある意味ではとても幸せな方です。と申しますのは、悲哀のどん底を味わうことによって霊的真理を受け入れる資格を身につけられたからです。

そのどん底から這い上がるのは容易ではありませんでしたが、道は間違いなく啓示されました。今あなたは愛する方が身近な存在そして実在していることを確信なさっておられます。

私はいつも思うのですが、地上の人々、なかでも特に霊的知識を手にされた方が背後霊の存在を実感を持って認識してくだされば、どんなに有難いことでしょう。地上の愛する者へ無益な害が及ばないように庇い、守り、導いている霊の姿をひと目ご覧になる事が出来れば、と思うのです.

その影響力の大きさを知ることが出来たら、明日のことを思い煩うようなことは絶対にしなくなることでしょう。それで私はここに集まる同志の方にいつも申し上げているのですが、新しい一日の訪れを素晴らしい霊的冒険の到来として喜んで迎えることです。

あなたの人生は手にされた証拠によって一変いたしました。そこであなたは今、ご自身が有難く思われた同じ思いを人にも体験させてあげようと、いろいろと努力をなさっておいでです。私は実際にその様子を拝見して、良く存じております。

他人がどう思うと気になさらぬことです。まったく下らぬことばかり言っております。大切なのはあなたの人生をどう生きられるかです。出来る限りの最善を尽くして人の為に力になってあげることです。

ご主人は肉体の束縛から解放されました。晩年に嫌な思いをされたあの痛みと不自由はもう二度と味わうことはありません。これからは今なお〝わが家〟とされているあなたの住居での生活の中で、ご自分の死後の存在の事実をあなたに実感させてくれることでしょう。

ですから、気を強くお持ちになり堂々と胸を張って、愛する者を失っても霊的知識があればこれだけ立派に生きていけるのだという、一つに手本を示して頂きたいのです。

別離と言っても身体上のことであり、霊的には別れていないのです。愛によって結ばれた者どうしを引き裂く力は地上にも霊界にも何一つありません。愛は、生命と同じく、死よりも強いのです。愛は、生命と同じく霊に属するものであり、霊は決して滅びないのです。