第11章 なぜ神に祈るのか
〝あなたはなぜ神に祈るのですか〟と問われてシルバーバーチは〝祈り〟の本来のあり方について次の様に述べた。

「それは、私に可能な限り最高の〝神の概念〟に波長を合わせたいと言う願いの表れなのです。
私は祈りとは魂の憧憬と内省の為の手段、つまり抑えがたい気持ちを外部へ向けて集中すると同時に、内部へ向けて探照の光を当てる行為であると考えております。ほんとうの祈りは利己的な動機から発した要望を嘆願することではありません。吾々の心の中に抱く思念は神は先刻ご承知なのです。要望は口に出される前にすでに知れているのです。

なのになぜ祈るのか。それは、祈りとは吾々の周りに存在するより高いエネルギーに波長を合わせる手段だからです。その行為によってほんの少しの間でも活動を休止して精神と霊とを普段より受容性に富んだ状態におくことになるのです。僅かな時間でも心を静かにしていると、その間により高い波長を受け入れることが出来、かくして吾々に本当に必要なものが授けられる通路を用意したことになります。

利己的な祈りは時間と言葉と精神的エネルギーの無駄遣いをしているに過ぎません。それらには何の効力もないからです。何の結果も生み出しません。が、自分をより一層役立てたいと言う真摯な願いから、改めるべき自己の欠点、克服すべき弱点、超えるべき限界を見つめる為の祈りであれば、その時の高められた波長を通して力と励ましと決意を授かり、祈りが本来の高揚を発揮したことになります。

では誰に、あるいは何に祈るべきか・・・この問題になると少し厄介です。なぜなら人間一人ひとりに個人差があるからです。人間は必然的に自己の精神的限界によって支配されます。その時点までに理解したものより大きいものは心象として描きえないのです。ですから私もこれまでに地上にもたらされた知識に、ある程度まで順応せざるを得ないことになります。例えば私は言語と言う媒体を使用しなければなりませんが、これは観念の代用記号に過ぎず、それ自体が、伝えるべき観念に制約を加える結果となっています。

この様に地上の為に仕事をしようとすれば、どうしても地上の慣例や習慣、しきたりと言ったものに従わざるを得ません。ですから私は、神は人間的存在でないと言いながら、男性代名詞を使用せざるを得ないことになります・・・(例えば〝神の法則〟と言うのをHis lawsと言う具合に)・・・私の説く神は宇宙の第一原因、始源、完全な摂理です。

私が地上にいた頃はインデアンはみな別の世界の存在によって導かれていることを信じておりました。それが今日の実験会とほぼ同じ形式で姿を見せることがありました。その際霊格の高い霊ほどその姿から発せられる光輝が目も眩まんばかりの純白の光を帯びていました。そこで我々は最高の霊すなわち神は最高の白さに輝いているものと想像したわけです。いつの時代にも〝白〟というのは〝完全〟〝無垢〟〝混ぜもののない純粋性〟の象徴です。そこで最高の霊は〝白光の大霊〟であると考えました。当時としてはそれが我々にとって最高の概念だったわけです。

それは、しかし、今の私にとっても馴染み深い言い方であり、どのみち地上の言語に移し替えなければならないのであれば、永年使いなれた古い型を使いたくなるわけです。ただしそれは人間ではありません。人間的な神ではありません。神格化された人間ではありません。

何かしらでかい存在ではありません。激情や怒りと言った人間的煩悩によって左右されるような存在ではありません。永遠不変の大霊、全生命の根源、宇宙の全存在の究極の実在であるところの霊的な宇宙エネルギーであり、それが個別的意識形体を取っているのが人間です。

しかし、こう述べてみますと、やはり今の私にも、全生命の背後の無限の知性的存在である神を包括的に叙述することは不可能であることを痛感いたします。が少なくとも、これまで余りに永い間地上世界にはびこっていた多くの幼稚な表現よりは、私が理解している神の概念に近いものを表現していると信じます。

忘れてならないのは、人類は常に進化していると言うこと、そしてその進化に伴って神の概念も深くなっていると言うことです。知的地平線の境界がかつてほど狭くなくなり、神ないしは大霊、つまり宇宙の第一原理の概念もそれに伴って進化しております。しかし神自体は少しも変わっておりません。

これから千年後には地上の人類は今日の人類よりはるかに進化した神の概念を持つことになるでしょう。だからこそ私は、宗教は過去の出来事に依存してはいけないと主張するのです。過去の出来事を、ただ古い時代のことだから、と言うことで神聖であるかに思うのは間違いです。霊力を過去の一時代だけに限定しようとすることは、霊力が永遠不変の実在であると言う崇高な事実を無視することで、所詮は無駄に終わります。地上のいずこであろうと、通路のあるところには霊力は注がれるのです。
(訳者注=紀元66年まで聖地パレスチナのみに降り、それきり神は霊力の泉の蓋をされた、と言うキリスト教の教えを踏まえて語っている)

過去は記録としては価値がありますが、その過去に啓示の全てが隠されているかに思うのは間違いです。神は子等に受容力が増すに応じて啓示を増してまいります。生命は常に成長しております。決して静止していません。〝自然は真空を嫌う〟という言葉もあるではありませんか。

あなた方は人々に次のように説いてあげないといけません。すなわち、どの人間にも神性と言うものが潜在し、それを毎日、いえ、時々刻々、より多く発揮する為に活用すべき才能が具わっていること、それさえ開発すれば、周囲に存在する莫大な霊的な富が誰にでも自由に利用できること、言語に絶する見事な叡知が無尽蔵に存在し、活用されるのを待っていると言うことです。人類はまだまだその宝庫の奥まで踏み込んではいません。ほんの正面しか知りません」

──あなたは霊的生活に関連した法則をよくテーマにされますが、肉体の管理に関連した法則のことは余りおっしゃっていないようにお見受けします。

「おっしゃる通り、余り申し上げておりません。それは肉体に関連して必要なことは既に十分な注意がはらわれているからです。私が見る限り地上の大多数の人間は自分自身の永遠なる部分、すなわち霊的自我について事実上何も知らずにおります。

生活の全てを肉体に関連した事ばかりに費やしております。霊的能力の開発に費やしている人は殆ど・・・勿論おしなべての話ですが・・・いません。第一、人間に霊的能力が潜在していることを知っている人が極めて少ないのです。そこで私は、正しい人生観を持って頂く為には、そうした霊的原理について教えてあげることが大切であると考えるわけです。

私は決して現実の生活の場である地上社会への義務を無視して良いとは説いておりません。霊的真理の重大性を認識すれば自分が広い宇宙の中のこの小さな地球上に置かれていることの意味を理解して、一段と義務を自覚する筈です。

自国だけでなく広い世界にとってより良き住民となる筈です。人生の裏側に大きな計画があることを理解し始め、その大機構での中で自分の役割を自覚し始め、そして、もしその人が賢明であれば、その自覚に忠実に生きようとし始めます。

肉体は霊の宿である以上、それなりに果たすべき義務があります。地上にいる限り霊はその肉体によって機能するのですから、大切にしないといけません。が、そうした地上の人間としての義務を疎かにするのが間違っているのと同じく、霊的実在を無視しているのも間違いであると申しあげているのです。

また世間から隔絶し社会への義務を果たさないで宗教的ないし神秘的瞑想に耽っている人が大勢いますが、そう言う人達は一種の利己主義者であり、私は少しも感心しません。何事も偏りがあってはなりません。いろんな法則があります。それを幅広く知らなくてはいけません。自分が授かっている神からの遺産と天命とを知らなくてはいけません。そこで初めてこの世に生れてきた目的を成就することになるのです。

霊的事実を受け入れることの出来る人は、その結果として人生について新しい理解が芽生え、あらゆる可能性に目覚めます。霊的機構の中における宗教の持つ意義を理解します。科学の意義が分かるようになります。芸術の価値が分るようになります。教育の理想が分るようになります。こうして人間的活動の全分野が理解出来るようになります。一つひとつが霊の光で啓蒙されていきます。所詮、無知のままでいるより知識を持って生きる方が良いに決まっています」

続いて二人の読者からの質問が読み上げられた。

一つは「〝神は宇宙の全生命に宿り、その一つを欠いても神の存在はありません〟とおっしゃっている箇所がありますが、もしそうだとすると、神に祈る必要ないことになりませんか」と言うものだった。これに対してシルバーバーチはこう答えた。

「その方が祈りたくないと思われるのなら、別に祈る必要はないのです。私は無理にも祈れとは誰にも申しておりません。祈る気になれないものを無理して祈っても、それは意味のない言葉の羅列に過ぎないものを機械的に反復するだけですから、むしろ祈らない方がいいです。祈りには目的があります。魂の開発を促進すると言う霊的な目的です。ただし、だからと言って祈りが人間的努力の代用、もしくは俗世からの逃避の手段となるかに解釈してもらっては困ります。

祈りは魂の憧憬を高め、決意をより強固にするための刺戟・・・これから訪れる様々な闘いに打ち克つ為に守りを固める手段です。何に向かって祈るか、いかに祈るかは、本人の魂の成長度と全生命の背後の力についての理解の仕方に関って来る問題です。
言いかえれば、祈りとは神性のひとかけらである自分がその始原との一層緊密な繋がりを求める為の手段です。その全生命の背後の力との関係に目覚めたとき、その時こそ真の自我を見出したことになります」

もう一つの質問は女性からのもので、「イエスは〝汝が祈りを求めるものは既に授かりたるも同然と信ぜよ、しからば汝に与えられん〟と言っていますが、これは愛するものへの祈りには当てはまらないように思いますが、如何でしょうか」と言うものだった。これに対してシルバーバーチはこう答えた。

「この方もご自分の理性にそぐわないことはなさらないことです。祈りたい気持ちがあれば祈ればよろしい。祈る気になれないのでしたら無理して祈ることはありません。イエスが述べたとされている言葉が真実だと思われれば、その言葉に従われることです。真実と思えなかったらうっちゃれば宜しい。

神からの大切な贈物であるご自分の理性を使って日常生活における考え、言葉、行為を規制し、ご自分が、気に食わないもの、ご自分の知性が侮蔑されるように思えるものを宗教観、哲学観から取り除いて行けばよいのです。私にはそれ以上のことは申し上げられません。

──〝求めよさらば与えられん〟という言葉も真実ではなさそうですね。

「その〝与えられるもの〟が何であるかが問題です。祈ったら何でもその通りになるとしたら、世の中は混乱します。最高の回答が何もせずに居ることである場合だってあるのです」

──今の二つの格言はそれぞれに矛盾しているようで真実も含まれていると言うことですね。

「私はいかなる書物の言葉にも興味はありません。私はこう申し上げたことがあるはずです──吾々が忠誠を捧げるのは教義でもなく、書物でもなく、教会でもない、宇宙の大霊すなわち神と、その永遠不滅の摂理である。と」