インドのボンベイの新聞〝フリープレス・ジャーナル〟のロンドン特派員シュリダール・テルカール氏がハンネン・スワッハー氏との不思議な出会いからシルバーバーチの交霊会に招かれた。いかはテルカール氏の記事である。
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我々の地上生活には不思議なことが起きるものである。何故そうなったかは必ずしも説明できない。〝ああ、それはそうなるようになっていたんだよ〟と言う人がいるであろう。〝それが神の意志だったのさ〟と言ってかたずけてしまう人もいるであろう。かくして凡人はそうした〝予期せぬこと〟の背後に重大な意味に気づかないまま毎日を生きている。
今私の脳裏に、なぜあの時、あんなことになってしまったのだろうかと言う、ある不思議な体験のことが残っている。今の私には不思議な謎に包まれたミステリーに思える。私の職業はジャーナリストである。母国インドの新聞に何か新鮮なものを送りたいと思っていつも眼を皿のようにしている人間である。
さて、つい先頃のことである。インドの友たちが情報局のプレスルームにひょっこり姿を見せた。思いがけないことだった。〝サボイ・ホテルまで来てくれないか。いい話があるんだ〟と言う。誘われるままに行ってみると、ストラボルギー卿の記者会見が行われていた。友たちは会見室に入って行きジャーナリストが並んでいる一番端に席をとった。が、私は何となく入る気がしなくて外で待っていた。
ところが突然ストラボルギー卿が席を立って私のところへ歩み寄り、握手を求め〝ま、お入りください〟と言って中へ案内した。そして座らされたテーブルには、なんと、卿夫妻とイスラエル人の他にハンネン・スワッハー氏がいた。私はスワッハー氏は取材旅行中に何度も見かけたことはあるが、それほど身近に見るのは初めてだった。氏には何かしら私を惹きつけるものを感じていた。
その瞬間私の脳裏には学生時代のことが浮かんだ。当時はハンネン・スワッハーと言えば毒舌を持って鳴らす怖い存在に思えた。が今初めて言葉を交わして見て、本当は心根の優しい、温かい、真の庶民の味方で、深い人間的理解力を秘めた方であることを知った。記者会見が終わると私はスワッハー氏に〝かねがねお会いできればと願っておりました〟と挨拶した。すると正午に私の家にいらっしゃい。と言われた。
尋ねてみるとスワッハー氏は書物と書類に埋もれた〝仕事場〟にいた。氏はそこであの超人的才能で文章を書き上げているのだ。あの辛辣な、容赦ない風刺をきかした文章、スワッハー一流の簡潔な文章・・・千語が百語に凝縮してしまうのだ。その日私はそのスワッハー氏がその魔術的仕事に携わっているところを見ていて〝ペンは剣より強し〟と言う古い諺を思い出した。
実はその時の私にはある不安の種があった。それを遠慮なく述べると、それをまともに取り上げてくれて、その場であっという間に記事を書き上げてしまった。奇跡としか思えなかった。スワッハーと言う人はただの毒舌家ではないのだ。
さて、私はそろそろ失礼しようとすると、氏が司会をしているホームサークルに出席してみないかと言われた。私は英国へ来て十五年余りになるが、スピリチュアリストの集会にも交霊会にも行ってみたことが無い。ジャーナリストである以上──ジャーナリストと言うのは常に抜け目のない批判的精神の持ち主であると相場が決まっているので──このチャンスを逃すのはもったいないと考えて、招待に応じた。
交霊会が催されるこぢんまりとした住居(バーバネルの私邸)に到着した時私はいささか興奮していた。とても雰囲気のいい家だった。バーバネル夫妻が温かく迎えてくれた。至って英国らしい家庭である。が、雰囲気はどこかよそと違うところがある。何となく母国インド人の手厚い歓迎を受けているような錯覚を覚えた。数こそ少ないが、その日そこに集まった人たちとすぐに打ちとけてしまったのである。
初めて会う人たちばかりなのに、あたかも親しい旧友と再会したみたいに愉快に語り合い、冗談を言い合っては笑いが巻き起るのだった。
壁の肖像画がすぐ目に入った。このハンネン・スワッハー・ホームサークルの支配霊シルバーバーチである。深い洞察力にとんだ目と顔の輝きがインデアンの聖人を思わせる。私はしばしその画に見入っていた。今にも私に語りかけそうな感じがした。
談笑はしばらく続いた。私はスワッハー氏の隣に腰かけた。有名な心霊治療家であるパリッシュ氏と向かい合う形となった。やがて急に部屋が静寂に包まれた。時折ヒソヒソと語り合う声がする。私は列席者の顔ぶれに興味のまなこを向けた。スワッハーの横にはもう一人、純情そうな若いジャーナリストがいた。こうして油断を怠らなくさせるのは新聞記者としての私の本能である。
列席している男女は至って普通の人間ばかりである。奇人、変人の様子はひとかけらも見られない。語り合った印象でも、みな教養豊かな知識人ばかりである。政治問題、社会主義、ガンジーなどが話題に上ったが、どう見ても〝ヒソ曲がり〟でもなく〝猫かぶり〟でもなく、〝一風変わった精神病者〟では有り得なかった。
(当時のスピリチュリストはそういう言葉で形容されていたのであろう)
そのうち霊媒のバーバネルが落ち着かない様子を見せ始めた。〝落ち着かない〟という表現は適切ではないであろうが、私の目にはそう映ったのである。両手でしきりに頬をさすっている。眼はすでに閉じている。氏の身も心も何か目に見えないものによって占領されているように私には思えた。続いて〝シュー〟と言う声とともにドラマチックな一瞬が訪れた。全員の目が霊媒の方へ注がれている。ついにシルバーバーチが語り始めたのである。
(訳者注=必ずいびきを伴った息遣いから始まり、それが次第に大きくなっていき、最後に〝フーッ〟と大きく吐き出す。それがそのときの唇の形によって〝シューッ〟となったり〝スーッ〟となったりする。霊媒から離れる時もなぜか鼾を伴った息遣いで終わる)
最初に祈りの言葉があった。その簡潔でいてしかも深い意味を持つ言葉に私は感銘を受けた。それが淀みなく流れ出るのに深い感動を覚えた。祈りが終わってスワッハー氏が私を(インドの霊格者)リシーと親交のある人物として紹介すると、シルバーバーチはこう語ってくれた。
「本日は私たちの会にご出席いただいて嬉しく思います。リシーご夫妻には私も深い敬意を抱いております。大きな仕事をなさっておられるからです。暗黒の大陸においては小さな灯でしかないかもしれませんが・・・
ご夫妻は右に偏ることも左に偏ることもなく、双肩に担わされた神聖な信任に応えるべくまっすぐに歩んでおられます。大陸を相手にたった一人です。自らも遅々として進歩の少ないことを自覚しておられますが、そのたった一人の力で、多くの魂が感動し、太古からの誤った教えと古臭い迷信による束縛から脱し、霊的真理の光明へ向かっております。
どんどん広がってまいります。小さなうねりが次第に大きくなって大河となり、やがて巨大な大洋となることでしょう。きっとなります。宗教についてはあれほど多くが語られながら霊についての真実がほとんど理解されていないあなたの大陸においてきっと広がることでしょう。
私から見るとインドには霊の道具となれる人があふれるほどいます。一人一人が福音を広める道具です。道具となれる可能性をもっております。一人の人間が一人の人間に真理をもたらすことが出来れば少なくとも倍の真理がもたらされることになりましょう。
所詮は短い人生です。その短い人生においてたった一人の人間でもいいから重荷を軽くしてあげることに成功したら、たった一人の人間の涙を拭ってあげることが出来たら、たった一人の人間の悩みを取り除いてあげることが出来たら、それだけでもあなたの生涯は無駄でなかったことになります。ところが悲しいことに、地上生活の終わりを迎えたときに何一つ他人の為になることをしていない人が実に多いのです。そう思われませんか」
「まったくです」と私は答えた。
社会主義者として、又普遍的同胞精神の大切さを信じる者の一人として、そのシルバーバーチの最後の言葉は、苦しむ人類の全てに対するメッセージと言ってよい。その言葉を肝に命ずべき人がいる筈である。今地上には同胞に対する非人間性がはびこりつつあり、吾々の想像力を悩ませている。神と真理の名において多くの罪悪が横行している。”力は善なり の風潮がはびこり、宇宙の永遠の摂理が嵐に吹き飛ばされている。確かにシルバーバーチの言う通り、もしも〝一人ひとりが福音を広める道具〟となれば、少なくとも吾々の人生は無駄でなかったことになろう。私はシルバーバーチにこう尋ねた。
「私は人間はすべて自由であるべきだと思います。私の国民は今大きな苦しみを味わっております。インドの魂は悶え苦しんでいると私は見ています。今日インドには立派な人がいることはいます。インド国民の霊的意識を高揚させ、霊力の貯蔵庫の恩恵にあずからせるべく献身的生活をしている霊覚者がいて、インドをイギリスの支配から独立させ、平和と幸福と自由を得る為に闘っております。私達の国民がそこまで到達する方法、あるいは道があるのでしょうか」
「今ここに素晴らしい方がお見えになっています。その方の詩をあなたも愛読していらっしゃると言えば、もう誰だかお分かりでしょう」
タゴールである。インド最高の詩人であり、その詩によって無数の国民の魂を鼓舞した人物である。シルバーバーチは続けた。
「いいですか、インドは今、過去に蒔いた種を刈り取っているところだと言うことを知ってください。宇宙は法則によって支配されております。原因と結果の法則です。
私の声は・・・そして地上の物的束縛から解放された者達の声もみなそうですが・・・自由と解放と寛容の大切さを強調します。が、血なまぐさい戦争の結果として生じた複雑な問題が一気に解決できるわけがありません。
国民が勝手にこれが自由だと思いこみ、それ以外の自由を望まない国民を安易に解放するわけに行かないでしょう。自由には必ず条件が付きものだからです。何の拘束も無い自由と言うものは無いのです。〝自由な自由〟と言うものは無いのです。自由と言うのは、その自由がもし、無条件なものとなったらかえって侵害されかねない〝自由の恩恵〟を味わう為に、ある程度の制約が必要なのです。
インドはこれまで幾世紀にもわたって、勝手にこしらえた信仰に縛られてきたがために生じた暗黒が支配しています。無数の国民が間違った偶像を崇拝し、それに神性と絶対力があるかのように思い、それ以外の神々を認める事を拒否します。それによって人間の霊性が束縛され、隷属させられ、抑圧されております。わけの分らない概念で戸惑わせるばかりの複雑な教義でがんじがらめにされております。
さてそうした彼らを救出してあげなければならないのですが、何世紀にもわたって積み重ねられてきたものをたった一日で元に戻す方法はありません。インド民族はまだ寛容の精神が身に付いておりません。神の前において人類はすべて平等であること、誰ひとりとして神の特別の寵愛を受ける者はいないこと、無私の奉仕に献身した者だけが神の恩寵にあずかると言う教えが理解できておりません。
改めなければならないことが沢山あります。永い間暗闇の中で暮らしてきた者は一度に真理の光を見ることが出来ません。そんなことをしたら眼がくらんでしまいます。仕事は一人一人が自分の力で、牢獄となってしまった宗教的束縛から抜け出ることから始まります。その束縛を打ち破ってしまえば、より大きな自由を手にすることが出来ます。すなわち他人の権利を認めてあげられる心のゆとりです。
人間の霊には教義やカースト(世襲階級制度)を超えてすべてを結びつける要素があるとこと、民族全体が一つの兄弟関係にあることを理解出来る人が大多数を占めるようになれば、もはやその民族を隷属させる権力者も支配者もいなくなります。なぜなら、すでにその民族は自らの努力によって獲得した魂の自由を駆使できる段階まで到達している筈だからです。
まずは献身的奉仕精神に目覚めた、一握りの誠心誠意の人物が出現すればいいのです。その人達によって多くの難問解決への道が切り開かれ、暗闇に光明を灯す糸口がつかめるでしょうが、その為にはその人達は〝我〟を超越し〝宗派〟を超越し、〝教義〟と〝カースト〟を超越して、インド民族の全てが広大な宇宙の一員であること、その一人一人に存在の意味があることを率直にそして謙虚に認められるようにならなければいけません。
あれほどの宗教国家においてあれほどの暗黒が存在するとは、何という矛盾でしょう! あれだけの裕福な階級がある一方で、あれほどの貧民階級が存在するとは、何と言う矛盾でしょう!」
私は主張した・・・
「でもインドにも偉大な人物が数多く存在します。政治犯として今なお獄中にあるネールを初め、ガンジー、そのほか偉大な人物がいます。インド国民は、問題は要するに一国家による他国家の占領支配にあると考えています」
「それは違いますよ」と優しく諭すようにシルバーバーチは語ってくれた。
「いいですか。問題はあなたのおっしゃる一国による占領支配にあるのではありません。何となれば、仮にその占領支配が一気に取り除かれても、それで民族に自由がもたらされるかと言うと、そうはいかないでしょう。
自由と言うのは苦労した末に手にすべきものなのです。自分の力で勝ち取らねばならないものなのです。その為の大きな革命がナザレのイエス以来ずっとこの方、個人の力で成就されてきているではありませんか」
(訳者注=イエス時代のイスラエル民族はローマの支配下にあり、それと結託したユダヤ政治家や宗教家の腐敗と堕落によって民衆は息も絶え絶えの状態にあった。そこに出現したのがイエスであり、腐敗と堕落を極めた宗教家と政治家を相手に厳然として立ち向かった。
イエスは一般にはキリスト教の教祖のように思われているが、世襲的にはユダヤ教徒だった。が、ユダヤ教の誤った教義によって束縛された生活習慣やものの考えを改める為に新しい霊的真理を説き、その証拠として持ち前の霊的能力を駆使したまでのことで、本質的には社会革命家だった。シルバーバーチの念頭にはインドが当時のイスラエルに似ているという認識がある)
シルバーバーチの霊言を聞いていて私は、その言葉には深い真理があることに気付いた。その訓え・・・インド民族への霊的メッセージに秘められた叡知に大きな感動を覚えた。最も、末節的には賛成しかねる部分もあった。現在のインド民族の大半がヒンズー教徒の信者であるが、今日のヒンズー教徒はペーダとウバニシャッド(ともにバラモン教の根本経典で最高の宗教哲学書とされている。訳者)をもとにした純粋のヒンズー教徒では無くなっている。ペーダとウバニシャッドの教えはまさにシルバーバーチの訓えそのものなのである。
ヒンズー教もその内きっと本来のあるべき姿を取り戻す日が来るであろう。それは時間の問題に過ぎない。ガンジーその他の大人物がすでにエネルギーを再生させ、それによって無数のインド人が勇気づけられている。今やインドは蘇ったのである。多くの者が既に邪神と似非(えせ)預言者との縁を絶っている。
この度の英国による政治支配はむろんインド自身の側にもその責任の一端がある。が、こうした事態に至らしめた最大の責任は、片手に銃を、もう一方の手にバイブルを持って攻め込んだ征服者の側にある。それが自分達の邪神と似非預言者をインドに植え付けたのである。それが積み重ねられた影響力がインド人の心にますます混乱を引き起こした。打ちひしがれた心が一段と虐げられ、インドの自由精神はほぼ外敵の戦車の車輪につがれてしまっていた。
今日のインドには世界の他のいかなる国にも劣らない霊的同胞精神がある、人間の霊性が武力の前に怖れおののいているように思えてならない。カーストと教義を超えてインド人は、シルバーバーチの言うように〝すべてが広大な宇宙の一員であること、その一人一人に存在の意味がある〟ことを認識している。
〝大きな革命は個人の力で成就されてきた〟・・・このシルバーバーチの言葉は至言である。ガンジーもネールも偉大な革命家だった。彼らの政策に批判的な人がいるかもしれない。その経済政策に疑問を持つ人がいるかもしれない。彼らの禁欲主義は度を過ごしていると思う人がいるかも知れない。が、彼らは現実にインドの大衆の心をとらえたのだ。
彼らこそ宗教的教義のジャングルを切り開き、不幸な私の母国に自由をもたらしてくれることであろう。が、同時に、他の多くの国の偉大な霊もまた、その霊的統一をもたらす上で力となってくれるに違いない。頑丈な体格をしながらも傷ついた人間に小柄な人間が力を貸すことが出来ることもあるのだ。
では最後にこう付け加えて本稿を終わろう。私は厳格な意味でのスピリチュアリストではないが、この度の交霊会の出席は素晴らしい体験だった。今なお私は勉強中であり、研究中であり、指導を求めている、道は遠く困難を極めることであろう。がどうやら、その旅の終わりには、それだけの価値のある者が待ち受けている様な気がする。