第5章 懲罰と報復・・・大戦が終わって
ヨーロッパの戦乱が終結して間もないある日の交霊会で、「敗戦国の人々に対して霊的真理をどう説かれますか」と問われて、シルバーバーチは次のように語った。
(訳者注-第二次大戦で枢軸国と呼ばれた日本、ドイツ、イタリア、三国のうち、まず独伊が降服し、それから二ヶ月後に日本が降服したので、この交霊会はその間つまり1945年6月から8月の間に開かれた計算になる)
「真理は真理です。その本質は永遠に変わることはありませんが、そのバリエーション(質・程度・適用性などの変化・変異)は無限です。大衆に一度に理解してもらえるような真理を説くことはできません。一人一人が異なった進化の段階にあり、同じ心理に対して各人各様の反応を示すものだからです。
私は常々神の計画は一度に大勢の人間を目覚めさせるためにあるのではないことを説いてまいりました。そういうやり方では、永続性のある効果は期待できないからです。いっときの間は魔法をかけられたようにその気になっても、やがて必ず反応が生じ、群集心理から目覚めて個人としての意識が戻ると、しばしば後悔の念とともに現実に目覚めるものです。
それではいけません。私たちの計画は個人を相手として、一人ひとりにその霊的需要度に応じて真理を授けることにあります。たいていの場合、地上でもっとも縁の強かった人からのメッセージで確信を植え付けます。それによって確立された信念はいつまでも持続し、いかなる人生の嵐に遭ってもいかなる痛打を受けても挫けることはありません。ですから、大勢の人を一度に目覚めさせる方法はないのです。少なくとも満足すべき結果を残させる方法はありません。
忘れてならないのは、真理を理解するには前もって魂に受け入れる体制が出来上がっていなければならないということです。その体制が整わない限り、それは岩盤に針を突き刺そうとするようなもので、いくら努力しても無駄です。魂が苦しみや悲しみの体験を通じて耕されるにつれて岩盤のような硬さが取れ、代わって受容性のある、求道心に富んだ従順な体質が出来上がります。
しかし、敗戦の苦しみの中におかれた人々へのメッセージが一つだけあります。何事も自分の理性に訴え、自分の道義の鏡に照らして行動しなさいということです。動物時代の名残を呼びさまされて、目には目を歯には歯をの考えで臨んでもラチはあかないということです。
苦難の代償はそれによって自らを霊的に開放し、憎しみも怨念も敵意もない、協調精神に富んだ、〝新しい世界〟に適応し、しかるべき役割を果たせる人材となることであらねばなりません」
ここで話題が〝敗れた枢軸国を連合軍はどう扱うべきか〟という、当時のもっとも関心の大きかった問題に発展した。かつてのキリスト教の牧師だったメンバーが正直に述べた。
──私はそれらの国の人間とは二度と握手する気にはなれません──
「迷える者に手を差し伸べるということが真理を手にした者の義務です。戦乱の雰囲気に巻き込まれて、その背後の永遠の霊的実在まで見えなくなるようではいけません」
──しかし、生意気を言うようですが、どう間違っても私にはあれほどの残虐行為はできません・・・
「心配なさるには及びません。神の摂理は完全です。一人一人が過不足のない賞罰を受けます。無限の叡智を持ってこの全大宇宙を計画し不変の法則によって支配している神は、そこに生活している者の全てのために摂理を用意しており、誰一人としてその働きから逃れることはできません。懲罰と報復を混同してはいけません。
私たちは同じ問題をあなた方とは別の視野で眺めております。復習心と憎しみによって世の中を良くすることはできません。その邪心が判断力を曇らせ、決断を下すにも計画するにも不適格な状態になってしまいます」
──復讐も懲罰の一種ではないでしょうか。
「違います。報復は古いモーゼの律法であり、懲罰は神の摂理です。つまり一人ひとりがその功罪に応じて報いを受けるのです」
──人間同士で一方が他方を罰することは許されないとおっしゃるのですか・・・
「私だったら、その相手を精神的に未熟な人間として扱います。つまり人生を正しい視野で眺められるように、矯正していくための処方を考えています。もし罰せざるを得ないとすれば・・・私はその必要があるとは思いませんが・・・魂が真の自我に目覚めるような性質のものでなければなりません。憎しみを増幅させ、新たな戦争を生むような性質のものであってはなりません」
──ああいう国民を甘い処分で済ませておくと、二十年もしたらまた戦争になります。それで私は徹底的に打ちのめすべきだというのです。
「どうやって打ちのめすのですか」
──このたびの戦争でやったようにです。
「それで問題が解決されたのでしょうか。肉体が機能しなくなったらその人の影響も存在しなくなるのでしょうか。お伺いしますが、憎悪を抱いたまま肉体から無理やり離された幾百万とも知れない人間が、地上の人間のために働いてくれると思われますか」
── 一つの教訓を教えることにはなると思います。少しは変わってくれると思います。
「それは憎むことを教えることになるでしょう。憎しみは憎しみを呼び、愛は愛を呼ぶものです。物質の目で物事を判断してはなりません。これまで何度も繰り返されてきたことです。殺人犯を処刑しても問題を解決した事にはなりません。地上へ戻ってきて他の人間を殺人行為へそそのかします。
では一体どうすれば問題の解決になるかということになりますが、処罰を矯正的なものにすればいいのです。社会の一員として相応しい人間になってくれるように、言いかえれば神の公正の理念に基づいて然るべき更生の機会を与えてあげるように配慮すればよいのです。
そういう人間は心が病んでいるのです。それを癒してあげないといけません。それが本来の方向なのです。それが本人のためになるのです。それが〝人のため〟の本来のあり方なのです。摂理に適い、それを活用した手段なのです」
──戦争で敵味方となって戦いあって死んだ二人に、あなたはそれぞれどう対処されますか。
「それはその二人の霊の状態次第です。条件付きの答えで申しわけありませんが、そうした問題は規格品的回答で片付けられる性質のものではないのです。それぞれの霊的進歩の状態で異なるのです。死んだ後も延々と戦い続けている者もいます。が、いつかは地上で抱いた敵対心は肉体の死とともに消滅すべきものとの認識が芽生えてきます。
霊界の下層階では地上で起きていることのすべてが再現されております。地上での戦争や抗争がそのまま続けられております。が、霊的覚醒とともにその界層を離れて、地上で培われた偏見と敵意とをきれいに捨て去ります。そうなると問題はひとりでに解決されてまいります。
霊的摂理の理解とともに、自分の為すべきことは霊的な身支度をすること、自分自身の霊性を磨くこと、自分自身の能力を開発することであることを自覚し、それは他人のために自分を役立てることによってのみ成就されるものであることを認識します。いずれにしても問題はあくまで過度的なものです。霊的事実を知らずにいる者にいかにしてそれを認識させるかということです。そのためにあらゆる手段を講じるのです。
一番厄介なのは、自分がすでに地上を去った人間であることが納得できない人たちです。非常に頑固なのがいます。さほどでもない者もいます。わりに素直なのもいます。このように人類の全てが同じ進化の階梯にいるわけではないのです。従って一人一人の霊への対処の仕方も、それぞれその時点での必要性に応じたものでなければなりません」
──あなたの訓えの中には〝恐怖心〟を棄てるように説いておられるものが多いのですが、実際に爆弾が投下されているときにそれを要求するのは無理です。そういう状態では怖がって当然ではないでしょうか。
「おっしゃる通り当然でしょう。が、その状態こそ恐怖心を棄てる試金石でもあります。私たちがみなさんの前に掲げる理想が非常に到達困難なものが多いことは私も承知しております。私たちの要求することのすべてを実現するのは容易ではありません。が、最大の富は往々にして困難の末に得られるものです。
それは大変な奮闘努力が要求されます。が、それを私があえて要求するのはそれだけの価値があるからです。いつも申し上げておりますようにあなた方はそれぞれの無限の可能性を秘めた霊なのです。宇宙を創造した力と本質的に同じものが各自に宿っているのです。
その潜在力を開発する方法を会得しさえすれば、内在する霊的な蓄えを呼覚ます方法を会得しさえすれば、霊力の貯水池から汲み上げることが出きるようになりさえすれば、恐怖の迫った状態でも泰然としていられるようになります。
人生の旅においてあなたを悩ますあらゆる問題を克服していく手段は全部揃っているのです。それがあなたの内部に宿っているのです。イエスはそれを〝神の御国は汝の中にある〟といいました。
神の御国とはその霊的貯蔵庫のことです。自己開発によってそれをわがものとすることが出来ると言っているのです。開発すればするほど、ますます多くの宝が永久に自分のものとなるのです。
もしも私の説く教えが楽なことばかりであれば、それは人生には発展と進化のチャンスがないことを意味します。人生には無数の困難があります。だからこそ完全へ向けてのチャンスが無数にあることになるのです。生命は永遠です。終わりがないのです。完全へ向けて成長も永遠に続く過程なのです」
──極端な言い方かもしれませんが、同じく参戦を拒否するにしても、恐怖心の一種である〝憶病〟から来ている場合があります。人類がもっと憶病になれば戦争も少なくなるのではないかと思うのですが、この考え方を霊界からどうご覧になりますか。
「憶病も人間として自然な発露です。私はいつも人生とは対象の中で営まれている・・・愛の倒錯したのが憎しみであり、勇気が倒錯したのが憶病である、と申し上げております。いずれも本質において同じ棒の両端を表現したものです。また、私は、低く沈むことが出来ただけ、それだけ高く上昇することが出来ると申し上げております。
憶病を勇気に、憎しみを愛に変えることができるということです。この考え方がとても受け入れ難い人がいることでしょう。が、これが私の考えです。人間の精神には様々な複雑な感情や想念が渦巻いております。それをうまくコントロールするところにあなたの成長があり進化があり、低いものが高いものに転換されていくのです」
──憶病であることは悪いことでしょうか。
「良いとか悪いとかの問題ではありません。一つの感情が発露したものであり、その人間の個性の一部であるというまでのことです。たとえ表に出なくても内部にはあるわけです。怖いという気持ちにならない時でもどこかに潜んでいるわけです。
私が言わんとしているのは、そうした感情がいかに陰性なものであっても、いかに好ましからぬものであっても、あなたにはそれを予知し高度に転換する力が備わっているということです。私はこの教えが最も大切であると思っています。
憶病は本質において勇気と同じものなのです。ただ歪められているだけなのです。そしてそれはあなたに備わっている力を駆使することによって正しい方向へ転換することが出来るのです」
──憎しみと同じく憶病心も人間の属性の一つだとおっしゃるのでしょうか。
「そうです。人間が備えている資質の一部だと言っているのです。精神にはありとあらゆる資源が備わっているのです」
ここでさっきの質問にあった〝人類がもっと憶病になれば戦争が少なくなるのではないか〟との意見についてのコメントを求められて・・・
「そうはまいりません。みんな憶病にすることによって戦争が解決されるものでないことは言わずと知れたことです」
別の日の交霊会において再び戦争が話題になった時次のような興味ある質問が出た。
──ダンケルクでの英国軍の撤退作戦のとき海が穏やかで、シチリヤ島での作戦のときも天候が味方してくれたと聞いておりますが、これは神が味方してくれたのでしょうか。
「宇宙の大霊である神はいかなることにも干渉いたしません。法則、大自然の摂理というものが存在し、これからも永遠に存在し続けます。摂理の働きを止めたり干渉したりする必要性が生じるような事態はかつて一度たりとも起きていませんし、これからも絶対におきません。
世の中の出来事は自然の摂理によって支配されており、神によるいかなる干渉も必要ありません。もし干渉がありうることになったら神が神でなくなります。完全でなくなり、混乱が生じます」
──今の質問は、最近多くの高名な方たちがラジオ放送で神が英国に味方してくれたかのように述べているのでお聞きしてみたのです。
「本当の高名は魂の偉大さが生むものです。それ以外には判断の基準はありません。何を根拠にしようと、神が自国に味方するかのように想像してはなりません。神とは法則なのです。
あなたが正しいことをすれば自動的にあなたは自然法則と調和するのです。窮地に陥ったあなた一人のために、どこか偉そうな人間的な神様が総力を挙げて救いに来てくれるような図を想像してはいけません。スピリチュアリストを持って自認する人たちの中にもいまだにそういう風に考えている人が大勢います」
── 一人ひとり進化の程度が異なるので理解の仕方も違ってくるのだと思います。
「ですから私が申し上げていることに賛成してくださらなくても、あるいは私が間違っている、とんでもないやつだと思われても一向に構わないのです。私は私が見たまでの真理を申し上げているだけです。永い永い進化の過程を経た後に学んだままをお届けしているのです。それがキリスト教やヒンズー教、その他、聞いてくださる方の宗教を混乱させることになっても、それは私には係わりのないことです。私は私がこれまで学んできた真理しか眼中にありません。それが私の唯一の判断基準です。
私の申し上げることがしっくりこないという方に押し付ける気持ちは毛頭ありません。私は私が知りえたものを精いっぱい謙虚に、精一杯真摯に、精一杯敬虔な気持ちで披歴するだけです。私の全知識、私が獲得した全叡智を、受け入れてくださる方の足元において差し上げるだけです。これは受け取れませんとおっしゃれば、それはその方の責任であって、私の責任ではありません」