黄金の腕 ★★☆
(The Man with the Golden Arm)

1955 US
監督:オットー・プレミンジャー
出演:フランク・シナトラ、キム・ノバクエリノア・パーカー、ダレン・マクギャビン

左:キム・ノバク、右:フランク・シナトラ

「黄金の腕」には、評価に困るところがあります。というのも、内容的にはそれなりの新しさが見られるにも関わらず、少なくとも個人的な印象としてはビジュアルがあまりにも古色蒼然として見え、どうにもインパクトに欠けるからです。たとえクラシック時代の古い白黒作品であっても、フィルムノワール作品のようにビジュアルにメリハリがあれば、現代のオーディエンスの目にも訴えるところがありますが、「黄金の腕」にはそれが不足しているように見えざるを得ないのです。監督のオットー・プレミンジャーは、さすがに表現主義が優勢であった大陸ヨーロッパの出身であったこともあってか、殊にポーカーシーンなどでは光と陰のコントラストが強調されているように見える個所もあるとはいえ、他の大陸ヨーロッパ出身の監督が手がけた作品に比べると、全体的に画面がフラットに見え、カラー映画を見慣れた今日のオーディエンスの目から見れば、ビジュアルに物足りなさを覚えるのは必至かもしれません。しかも、オットー・プレミンジャーは、前年に「帰らざる河」(1954)という、内容はともかくとして、ビジュアル面ではカラー+ワイドスクリーンを最大限に活かし現在のオーディエンスの目から見ても決して色褪せては見えない作品を監督しているにも関わらずです。以前にも指摘したことがありますが、オットー・プレミンジャーは、ビジュアル面ではどこかに迷いがあったのか、以下に年代順に示すように、1950年代中盤から1960年代中盤にかけてのおよそ10年ほど、一作か二作毎に白黒作品とカラー作品が交互するという揺れが見られます。

1953年:「Angel Face」(白黒)、「月蒼くして」(白黒)
1954年:「帰らざる河」(カラー)、「カルメン」(カラー)
1955年:「黄金の腕」(白黒)、「軍法会議」(カラー)
1957年:「Saint Joan」(白黒)
1958年:「悲しみよこんにちは」(カラー)
1959年:「ポギーとベス」(カラー)、「或る殺人」(白黒)
1960年:「栄光への脱出」(カラー)
1962年:「野望の系列」(白黒)
1963年:「枢機卿」(カラー)
1965年:「危険な道」(白黒)、「バニー・レークは行方不明」(白黒)
1967年:「夕陽よ急げ」(カラー)

勿論、たとえばミュージカルはカラーが普通であるなど、ジャンルによって制約があるのは確かであるとしても、それにしても白黒作品を監督したり、(ワイドスクリーン)カラー作品を監督したりと全く落ち着きがありません。そもそも、ジャンルの選択そのものがオットー・プレミンジャーの心の揺れを物語っているとすら言えるかもしれません。それに比べると、たとえばアルフレッド・ヒッチコックの作品は、1950年代中盤以後については、例のシャワー室シーンがある為に白黒で製作しなければならなかった「サイコ」(1960)と、お得意のジャンルには属さない地味な作品「間違えられた男」(1957)を除くと全てカラーです。ウィリアム・ワイラーの場合には、「友情ある説得」(1956)以後の作品は、「噂の二人」(1962)のみが白黒です。因みに、「友情ある説得」以前の監督作品については、恐らくドキュメンタリー以外は全て白黒であるように思われます。また、オットー・プレミンジャー同様、大陸ヨーロッパ出身のビリー・ワイルダーは、やや揺れがあるとはいえ、1950年代、60年代の作品の中では、「七年目の浮気」(1955)、「翼よ!あれがパリの灯だ」(1957)、「あなただけ今晩は」(1963)の3本のみがカラーであり、それ以外は白黒です。このように、ビジュアルに関しては、オットー・プレミンジャーの作品には、50年代当時活躍していた他のメジャーな監督の作品には見られない激しい揺れが見られ、しかも「黄金の腕」は、上に列挙した諸作品の中でも、カラー/白黒の別を問わず最もオーディエンスの目に訴えるところのないビジュアル的に平板な作品であるような印象を受けます。気のせいか、白黒のロマンティックコメディ作品「月蒼くして」の方がまだ、画像にメリハリがあるように見えます。しかしながら、そのようなイマイチなビジュアル面に対して、それ以外の面では見るべきところが数多くあります。見るべきところというよりも聞くべきところになりますが、まず挙げられるのは、アカデミー賞にもノミネートされたエルマー・バーンスタインのジャズ調の音楽が新鮮であることです。当時はまだ、映画音楽界でもクラシック系の作曲家が大手を振っていた頃なので、エルマー・バーンスタインの不協和に充ちたジャズ調の音楽は、当時のオーディエンスには相当なインパクトがあったのではないかと推測されます。それから、エルマー・バーンスタインのタイトルバック音楽に乗って、ソウル・バスの幾何学的なアニメーションが現れますが、これも極めて斬新です。プレミンジャーは、彼のアニメーションが気に入ったのか、以後何回か、ソウル・バスを起用しています。当作品でアカデミー主演男優賞にノミネートされた主演のフランク・シナトラは、彼が単なる歌手あがりの腰掛け映画スターでないことをここでは見事に証明しています。個人的にこれまで見た彼の作品の中では、「影なき狙撃者」(1962)とともに、彼のベストシリアスパフォーマンスを拝める逸品として推奨できます。しかしながら、何よりも注目すべきは、麻薬中毒が題材として扱われていることであり、確かにアルコール中毒や精神異常を扱った作品はハリウッドでも既に製作実績があったとしても、どうでしょうか、ヤク中についてはあったのでしょうか?いずれにしても、ヤク中を扱った最も初期の作品の1つであることには間違いがないはずです。爾来、最初からエンターテインメントとして発達した映画メディアにおいては、日常生活のおぞましい側面が殊更取り上げられることはあまりなかったはずであり、従ってアル中や精神異常を題材とした作品が本格的にハリウッドで製作されるようになったのも、ようやく40年代に入ってからのことです。勿論、ホラー映画のような「おぞましさ」をウリにしたジャンルは映画メディアの黎明期から存在していたとしても、ホラージャンルには、たとえネガティブな意味においてであったとしても、少なからず審美的な価値判断が含まれているのであり、ホラー映画の「おぞましさ」は、アル中やヤク中のような日常生活の中のリアルな「おぞましさ」とは根本的に異なります。たとえばフリークショーのおぞましさには、見てはいけない非日常的な不気味さを垣間見たいという、人間の心理に訴えかけるところがあり、そこには一種の裏返った審美的価値判断が含まれているはずです。David J. Skalという人は
「The Monster Show」(Farber and Farber)という本のイントロダクションの中で、トッド・ブラウニングのホラー映画に魅せられてファッションフォトグラファーからフリークショーのフリーク達を被写体とするフォトグラファーに転向したダイアン・アーバスという女流写真家について紹介しており、彼女のようなアーティストがフリークに惹かれることがある点からも分るように、醜とは美学の対象ともなり得るのです。ふんにまみれて猿とじゃれあっている晩年のメイ・ウエストのそれこそフリークのような写真を撮影して、ウエストから猛烈な抗議を受けても平然としていたというエピソードには笑えます。ダイアン・アーバスは70年代の初頭に自殺しますが、自分が死ぬところをカメラで捉えようとしたとも噂されているそうです。要するに、死の持つ「おぞましさ」を自らが演じ、それを一種の芸術作品として捉えようとしたのではないかということです。それに対して、アル中やヤク中は、たとえ裏返った意味で捉えられたとしても、とても審美的であるとは見なせないのであり、当時は社会問題としてヤク中が今日のように大きく扱われることがなかったという以上に、エンターテインメント作品にそのような題材を持ち込むことが憚られたのではないかと考えられます。しかしながら時代は変わるのであり、「失われた週末」(1945)や「愛しのシバよ帰れ」(1952)などのアル中、「蛇の穴」(1948)などの精神異常に続いて、「黄金の腕」ではついにヤク中が題材として取り上げられるようになったのです。フランク・シナトラのような一見すると役柄に合いそうにない役者が起用されているのは興味深いところではあれ、こちらの勝手な予想に反して彼は見事に大任を果たしています。ジャンキーが登場する最近の映画でよく見かける麻薬の粉を鼻から吸い込むシーンはなく(ジャンキーは本当にあのようにして麻薬を吸入するのかなといつも不思議に思っています)、主人公のフランキー(フランク・シナトラ)は、注射器で麻薬を注入します。シナトラのジャンキーパフォーマンスがなかなか見事で、麻薬も注射器もない部屋に閉じ込められているにも関わらず、ゴム管で腕を縛ろうとするシーンは、麻薬がなければ生きていけないジャンキー達の生態を見事に表現していて迫力があります。もしかして、生前様々な噂が絶えなかった彼は・・・、と言いかけてやめておきます。また、作品のドラマ面をより一層見応えあるものにしているのが、タイプの全く異なる二人の女性、すなわちゾシュ(エリノア・パーカー)とモリー(キム・ノバク)の存在です。既に歩けるにも関わらず歩けないふりをして車椅子に座っていることからも分るように前者が極めて依存的な女性であるのに対して、後者はアリアドネのように主人公を錯綜した人生の迷宮から救い出す女性であり、この二人のパーソナリティのコントラストが、「黄金の腕」の1つの大きな見所であると見なしても差し支えありません。興味深いのは、ゾシュが実は歩けるという事実を、映画を見ているオーディエンスに対しては早々と明かしてしまうことです。勿論、他の登場人物に対しては最後になるまでその事実は明かされません。きっと、「驚愕のラスト症候群」に陥った現代の映画であれば、彼女が歩ける事実はサプライズエレメントとして必ずや最後まで伏せておくのではないでしょうか。というのも、ストーリー展開のみにこだわれば、他の登場人物達に対してと同様、オーディエンスに対しても、ゾシュが歩けることを最後まで隠しておいてもほとんど問題がないように思われるからです。但し、確かに彼女が一人で車椅子に座っているシーンをあまり長く撮り続けることはできなくなるとはいえ、そもそも依存的な生き方しかできない彼女はフランキーあっての彼女でしかないのであり、彼女が一人で車椅子に座っているシーンを挿入する必要などあるようには思えません。では、最後まで隠しておいてもほとんど問題がないように思われるにも関わらず、なぜ早々と彼女が歩ける事実をオーディエンスには暴露してしまうかというと、それは彼女の依存的なパーソナリティを明確に示しておく必要があるからです。彼女は歩けないと思い込んでいると、オーディエンスは必ずや彼女に同情し、そんな境遇にある彼女が依存的になるのは仕方がなかろうと判断するはずであり、彼女が自分の意志でフランキーにしがみついているとは思わなくなるはずです。そのようにオーディエンスに思われるのは、ドラマのダイナミズムから見れば大きなマイナスであり、だからこそストーリー展開上は隠しておいた方がむしろあとあと効果的な事実を早々と暴露するわけです。「驚愕のラスト症候群」に陥った現代の映画と、いかに異なるかが分るというものでしょう。但し、個人的に1つ気になるのは、そのような依存的な性格を強調しようとしてか、ゾシュは工事現場のおっさんが持っているような笛をいつも首にかけていて、自分にとって状況が悪くなると、この笛をけたたましく「ピー」と鳴らすことであり、個人的にはこれは全く頂けません。欄干から彼女が落下するラストシーンでも、彼女は一発「ピー」をかませてくれますが、思わず「It doesn't work」と言いたくなります。それは、笛を吹いたところで状況を変えられるはずはないからというよりも、映画としてそのような表現はむしろわざとらしく滑稽に見えるからです。もう一人の女性を演じているキム・ノバクは、メジャーな役は恐らくこれが初めてではないかと思われますが、アリアドネ的な女性をなかなか説得的に演じています。というよりも、むしろメジャーな役が初めてであったことは、むしろプラスであったかもしれません。というのも、「ピクニック」(1956)や「めまい」(1958)などに出演してメジャースターの仲間入りをした後であってみれば、「黄金の腕」のモリーのような役柄とは大きく異なったイメージが彼女には付着していたはずだからです。ということで、「黄金の腕」は、確かにビジュアル面では今日のオーディエンスには全く受けないであろうことが予想されるとはいえ、ヤク中という新たな素材を利用し、フランク・シナトラ、キム・ノバク、エリノア・パーカーが扮する三人の登場人物が織り成す人間ドラマが巧みに描かれており、その点については大きく評価できます。


2009/01/20 by Hiroshi Iruma
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