めまい ★★★
(Vertigo)

1958 US
監督:アルフレッド・ヒッチコック
出演:ジェームズ・スチュワート、キム・ノバクバーバラ・ベル・ゲデス、トム・ヘルモア


<一口プロット解説>
犯人追跡中にビルの屋根から宙釣りになり高所恐怖症になった元捜査官スコティの元に、素行の怪しくなった自分の奥さんの尾行調査をしてくれと親友から頼まれる。
<入間洋のコメント>
 先日、「赤い影」(1973)のレビューの中でこの作品に言及し勿論、どんな監督であれ多かれ少なかれ語りが重視される作品もあれば視覚表象イメージが重視される作品もあり、たとえば語りのマスターヒッチコックといえども、50年代以降の作品で言えば「めまい」(1958)などの決定的に視覚表象的なイメージが重視されている作品もあります」と述べましたが、「視覚表象的なイメージ」などという用語を安易に使用したので、誤解を招きそうな不安がムクムクと湧いてきたこともあり、今回はこのポピュラーな作品を取り上げることにしました。というより、理由はもう1つあります。恐らくこの作品に魅了されるオーディエンスは大勢いるはずですが、その理由は何かといつも思案していました。これだけ有名な作品なので、「めまい」について書かれた記事は、一般の映画ファンが書いたインターネット上のレビューからプロの映画批評家が書いたレビュー或いは大学の先生が書いた論文まで星の数ほどあり、これまでもそのような記事を個人的にもかなり読んできました。確かに欲望論的視点から、或いはフェミニスト的視点から書かれた記事など興味深いものはいくつかあったとはいえども、「めまい」がなぜそれほど見る者を魅了するかに関しては、それらは決して必ずしも十分であるようには思われませんでした。個人的にこれまでこの有名な作品のレビューを書かなかったのは、書きたいことがまとまらずどこから切り込んでよいやらさっぱり分からなかったからです。そのような状況にあって、最近エドガール・モランという社会学者の映画論を読んだ折りに、これから説明する彼の理論は見事に「めまい」に適用できるのではないかと思いあたり、ついにここに切り口を見出したと思いつつ、やおら筆を取った次第です。ではモランの主張のどのような側面がかく思わしめたかというと、結論を先取りすれば、映画が特権的に有する魔術とも見なせる「イメージ−>イマジナリ(imaginary)の変容プロセス」という彼の提起するアイデアが、「めまい」ではヒロイン(キム・ノバク)の変容を典型とする数々のシーンを通して見事に示されていることに気付かせてくれた点にあります。「イメージ−>イマジナリ(imaginary)の変容プロセス)」といきなり言われても「何のこっちゃ?」と思われること必定なので、この点については、これから詳細に説明する予定です。実は、モランが提起するこのプロセスについて理解すれば、謎めいた「めまい」を見ることによって惹起される様々な疑問がクリアになるのです。たとえば、「めまい」のキム・ノバクに本当に真の魔性があるか否かというようなたぐいの議論がよく聞かれます。当レビューが以下に明らかにする論点を適用するならば、その回答は極めて明らかなのです。すなわち、この作品はまさに映画の有する魔法のパワーがそのテーマの核心として存在し、従ってキム・ノバクに魔性があるかどうかが問題なのではなく、偉そうな言い方をすると、そもそもこの映画でのノバクに魔性がないと感ずるならば、作品そのものがその人にとっては本来の仕方で全く機能していないと見なすべきなのです。但し、「イメージ−>イマジナリ(imaginary)の変容プロセス」について説明し始めるる前に、まず2点ほど準備作業をしておきます。1つは、1960年代以後のたとえばスタンリー・キューブリックやニコラス・ローグの作品とは異なり、ヒッチコック作品の場合には、これから述べることにも関わらず、根底にはやはり旧来的な要素である「語り」が極めて大きな度合いで重要視されていることの確認であり、それについては「赤い影」のレビューでも「視覚表象イメージの比重が大きい「めまい」の場合にしても、最後には全てが語りを通して解決され(すなわち種明かしがされるわけです)、言ってみれば視覚表象イメージが語りの素材の1つとして扱われていることには違いがありません」と述べた通りです。次に、2つ目の準備作業として、やや長くなりますがエドガール・モランの映画論のさわりの部分を紹介したいと思います。

 まず、「語り」の重視について考えてみましょう。「めまい」の原作はミステリー小説であることもあり、本来「語り」が重視されるのは当然と言えば当然なのです。しかしヒッチコックは、スムーズな「語り」という面では矛盾になるように思われる2つの要素をこの作品に持ち込み、一見すると「語り」が軽視されている側面があるかのようにも見えます。第1点は、「めまい」には、ストーリーの流れの中に断絶がいくつかあることです。たとえば、あまりにもしばしば言及される例を挙げると、冒頭で屋根からいままさに転落せんとしている主人公のスコティ(ジェームズ・スチュワート)が、次のシーンでは平然とオフィスに腰をおろして秘書(?)のミッジ(バーバラ・ベル・ゲデス)と話をしている一連のシーケンスは、どのような次第で彼は助かったかという「語り」としての説明が全く欠けています。また、ヒロインのマデリン(キム・ノバク)が塔から転落したことに全く疑問を抱かないスコティは、悲観してカタレプシー(要するに強度の引き篭もり状態)に陥るにも関わらず、回復を示すシーンが全く挿入されることなく、なぜか次のシーンでは街に繰り出して元気に聞き込み調査を開始します。すなわち、ここでも語りの連続性が断ち切られています。勿論、その時点を境として「めまい」は大きく前半と後半に分けられ、その為の明確な区切りとして機能していると捉えることは可能です。しかしそうであっても、そもそもカラーフィルターやアニメーション等を駆使して彼の絶望的な心理状況が恐ろしく誇張されて描かれた後ならば、そのような状態から回復するにあたり、少なくともその理由に関して何らかの説明が要求されるのは当然であるはずです。ところが、そのような説明はどこにも存在しません。敢えて言えば、ミッジの看護のおかげということかもしれませんが、彼女が精神科医に相談に行き、スコティは重症ですぐには治らないことを知らされた直後に、すぐに治らないはずの本人がピンピンして街中で聞き込み調査を開始しているのを見れば、「語り」の流れがスムーズであると考えるオーディエンスはまずいないはずです。これらの「語り」の断絶がなぜ存在するかについては検討の余地がありますが、思うに、これから説明する「イメージ−>イマジナリ(imaginary)変容プロセス」重視により、オーディエンスに対して「語り」の連続性を保証せねばならないとは、それ程意識されていなかったのかもしれません。ひょっとするとすると、意外にそれは監督のヒッチコックの意図ではなく、編集段階でそうなった可能性もあるかもしれません。いずれにしても、このような断絶が、しばしば議論として取り上げられること自体が、意識的にせよ無意識的にせよ一般的にヒッチコックは「語り」を重視する監督さんであると考えられている証拠であり、たとえばスタンリー・キューブリックが自分の作品に同じようなシーケンスを組み込んだとしても、意外な例として言及する人はほとんどいないのではないでしょうか。「語り」の矛盾点の2点目は、ミステリーとしての種明かしがかなり早い段階であっさりとさらけ出されてしまうことです。個人的に原作を読んだことはありませんが、聞いた話では原作ではミステリーの定石通り最後まで種明かしはされないそうです。とすると、早目の種明かしは作者ではなくヒッチコックの意図であったことになりますが、そうであれば、「語り」のマスターであるはずのヒッチコックがなぜわざわざミステリー的な「語り」の定石を無視したかが問われなければなりません。その回答は草葉の陰の本人に聞くしかないとはいえ(定石通りでは平凡過ぎると思ったから、というそれこそ定石通りの回答をどこかで読んだ記憶がありますが)、しかしながら確実に言えることは、確かにミステリーとしての「語り」の流れはそれによって切断されたとしても、「語り」そのものが切断されたわけではないということです。言い換えると、ミステリー的なラストのサプライズ効果は事前の暴露により無効化されたとはいえ、サプライズ効果とは「語り」の1つの仕掛けに過ぎないのであり、ミステリージャンルにおいてはまさにこの仕掛けが最重要視されても、「語り」のマスターたるヒッチコックは必ずしもミステリーに特化した射程の狭い監督さんではなかったのです。たとえば、個人的に好きなヒッチコック作品で言えば、確かに北北西に進路を取れ」(1959)では、通常のミステリーと比べれば、かなり早い段階で明瞭な種明かしが行なわれるとはいえ、比較的長く主人公からもオーディエンスからもミステリー要素が維持されます。それに対して、「ダイヤルMを廻せ!」(1954)においては、犯人が誰であるかは最初から割れており、オーディエンスに対してはミステリー要素は全く存在しない一方で、犯人である主人公(レイ・ミランド)を除いた登場人物全員に対して最後までミステリーが明かされることはありません。このように考えてみると、実は「めまい」における早目の種明かし後のストーリー展開は、「ダイヤルMを廻せ!」と類似したものだと考えられます。なぜならば、「めまい」で種明かしが行なわれるのは作品を見ているオーディエンスに対してのみであり、作中の主人公スコティは全くその事実を知らされないからです。ということはすなわち、「めまい」では早々とミステリー的仕掛けが放棄されるとはいえ、「ダイヤルMを廻せ!」が「語り」に依拠した作品であるのと同じくらいの度合いで「語り」に依拠したストーリー展開が依然として継続されていると見なせるのです。

 ということで「めまい」でも、その根底には「語り」の重要性が失われているわけではないことをまず確認しておき、次に、少なくとも1950年代以降のヒッチコック作品では「めまい」ほどには強調されることのない「イメージ−>イマジナリ(imaginary)変容プロセス」について考えてみましょう。予告通り、それにはまずエドガール・モランの映画論について紹介することから始めねばなりません。エドガール・モランは映画評論家ではなく、フランス出身の社会学者であり、日本でも法政大学出版会やみすず書房からかなり訳書が出ています。その内の何冊かは個人的にも読んだことがありますが、もう10年以上も前のことであり、内容は現在では全く失念してしまいました。ここで取り上げるモランの映画論は文字通り「映画」というタイトルで法政大学出版局から出版された実績があれど、発行日が古いので絶版かもしれません。個人的に読んだのは、ミネソタ大学出版局が出版した英訳版「the cinema」であり、これは間違いなく現在でもAmazon等から手に入ります。ということで、モランのこの著書の紹介をまず行うことにしましょう。以後、括弧内の用語は英訳からのものでありモラン自身が使用しているものではありませんが、英語と仏語の違いは大きくはないので仏語に詳しい人はもとの用語も容易に推測できるのではないかと思います。さて、まずモランは、一言で云えば映画を「魔術(Magic)」として捉えます。どのような魔術かというと、「イメージ(image)」を「イマジナリ(imaginary)」に転換変容(transform and metamorphose)する魔術です。またモランは、映画が有する魔術の構成要素となる2つの相補的な作用を挙げます。1つは「アニミズム(animism)」とその拡張である「自然の擬人化(anthropomorphism)」であり、もう1つは「コスモモルフィズム(cosmomorphism)」です。前者は自然(動植物のみではなく単なる無機的な物体すなわちオブジェクトまでもが含まれます)に対して、精神や感情などの人間固有の主観的アスペクトを刻印しながら把握することを意味し、後者は逆に人間の中に自然或いは小宇宙を見出そうとする態度を意味します。すなわち、前者と後者では作用ベクトルがそれぞれ外向き内向きになり方向が逆になります。しかしながら、通常はそれらが独立して別々に機能するわけではなく相補的に機能し、従ってモランはこの2つの用語をハイフンでつないで「anthropo-cosmomorphism」と呼びます。また、人間を主体として捉えた場合、前者は自己の内面を自然へ向けて「投射(projection)」することを意味し、後者は自己の内面へ向けて自然を「同一化(identification)」することを意味します。これらもまた、相補的に作用するのでハイフンで区切って「projection-identification」と呼びます。人間の主観性の中でこの「anthropo-cosmomorphismをベースとしたprojection-identification」が機能することにより、映画の中で表現される自然やオブジェクトとして提示されるイメージは、魔術的に「イマジナリ(imaginary)」に変換されるのです。すなわち、「イマジナリ(imaginary)」とは、人間の有する主観性とオブジェクトとして提示されるイメージが持つ客観性がこれらの作用を媒介として融合された複合物であるということであり、すなわちこの変容によって、イメージは単なるイメージではなくなって複合物としての「イマジナリ(imaginary)」に転換変容させられるのです。たとえば、フィルムノワール映画の中でファムファタールが点火するライターは、単なるライターではなく、「フィルムノワール」や「ファムファタール」などの語によって示される表象から喚起される主観性が「ライター」という客観的なイメージと密接に融合した、いわば魔法のライターなのです。このイメージから「イマジナリ(imaginary)」への変容について述べられた部分を英訳からですが以下に抜粋しておきます。

◎イメージは現実世界の厳密なる反映であり、それが有する客観性はイマジナリが持つ過剰とは矛盾する。しかしながら同時に、現実世界の反映とは既に「ダブル」なのである。イメージ自体既に主観的パワーに浸透されているのであり、このパワーはイメージを置き換え、変形し、ファンタジーや夢に投射する。イマジナリはイメージに魔法をかけるのであり、これはなぜならば後者が既に魔術師としての資格を持っているからである。イマジナリはあたかも癌細胞であるかのごとくイメージ上で増殖するのである。
(The image is the strict reflection of reality; its objectivity contradicts the extravagance of the imaginary. But at the same time, this reflection is already a "double". The image is already saturated with subjective powers that are going to displace it, distort it, project it into fantasy and dream. The imaginary casts a spell on the image because the latter is already a potential sorceress. It proliferates on the image like its natural cancer.)


下手をすると論点先取の虚偽に陥りそうな説明であり、それに陥らない為には「ダブル」という用語がキーであるように思われます。しかるに、これに関してはモランの説明を読んでもイマイチ判然としないものがあり、ここでは自分なりの解釈を加えておきます。端的に云えば、知覚プロセスとは、客観的なものの正確なコピーが主観内に再生成され、しかる後にそれに対して自らの持つ主観作用が適用される過程を通して機能するのではなく、知覚が発生するその第一の現場自体において既にそのような主観作用による何らかの変形が生じているということが言いたいのではないでしょうか。しばしば指摘されるように、知覚とは決して全ての外部情報を無際限に受け取る受動的なプロセスなどではなく、地から図を浮き上がらせるプロセス、すなわち当該コンテクストに不要な情報は切り捨てる能動的なプロセスなのです。つまり、主観に捉えられるイメージとは既にその時点で自己というフィルターを通した自己のダブルとして多かれ少なかれ表象されざるを得ないということです。ところで、イメージから「イマジナリ(imaginary)」への変容に並行して、モランはメディアとしての「cinematograph」から「cinema」への変容について述べています。「cinema」は勿論世に一般に言うシネマや映画のことで間違いがないと思われますが、実は正直に言うと「cinematograph」が具体的に何を指しているのかイマイチよく分かりませんでした。手持ちの安い英和辞典でひくと両方とも「映画」と記されているので、元のフランス語が何であるか知りたいところですが、もしそれが英語と同じであれば仏和辞典でも同じく「映画」と記されていました。いずれにせよ、主観的変容を被っていない映画のプリミティブな形態が「cinematograph」であると予想されます。

 またモランは映画ではなぜこのような魔術的な「イメージ−>イマジナリ(imaginary)変容プロセス」が強力に機能するかについて述べます。すなわち、映画メディアの場合、オーディエンスは画面上で発生していることに対して、身体的な動作を通じて積極的な参与を行うことが全く拒まれており(演劇などでは、オーディエンスの反応が舞台上で行なわれている演技に影響を及ぼす可能性があります)、従って主観的な参与がオーディエンスに最大限に要請されるからです。モランは次のように述べます、

己の小胞に深く沈潜し、匿名のオーディエンスと暗がりという二重の胎盤に包まれスクリーン以外の全てから隔離されたモナドである観客にとって、映画館の暗がりの白いスクリーンの上に影とダブルの魅惑が溶け合うその時に、全ての能動的アクションへのチャネルがブロックされると、神話や夢想や魔法への水門が一斉に開くのである。
(When the charms of the shadow and the double merge on a white screen in a darkened room, for the spector, deep in his cell, a monad closed off to everything except the screen, enveloped in the double placenta of an anonyumous community and obscurity, when the channels for action are blocked, then the locks to myth, dream, and magic open up.)


この英訳は修飾フレーズの併置がはなはだしく日本語にするのに苦労しますが、殊に「影とダブルの魅惑が溶け合う(the charms of the shadow and the double merge)」という部分は説明が必要でしょう。とは言いつつも、残念ながら実は推測しかできません。「ダブル」とは前述したダブルのことであろうと考えられますが、「影」とはおおよそ次のようなことではないかと推測されます。すなわち、原初的な知覚レベルではスクリーン上に映し出される個々のオブジェクトは、明確に分節された意味のある実体として把握されることはなく、白いスクリーンの上の影のようなものとして捉えられます。しかしながら、そのような影も純粋に客観的なものとして把握されることはなく、「ダブル」の作用によって主観的なふるい分けが同時に適用された上で知覚されます。従って、未開民族に映画を見せるとどのように反応するかという問題提起が大きな意味を持つのです。このような様相を指して、「影とダブルの魅惑が溶け合う」と表現しているのではないかと当方は勝手に考えています。いずれにせよ、そのような環境の下で前段で述べた「anthropo-cosmomorphismをベースとしたprojection-identification」が最大限に発揮されるのが映画の本質の1つであり、そのような効果が最大限に狙われ、それのみか後半のヒロインの変容過程などを通してそのような映画の持つ本質の1つがアレゴリカルに語られているのが、まさにこの「めまい」という作品なのではないかと考えられます。そこでまず注意すべきは、「めまい(Vertigo)」という作品タイトルです。めまいとはいわば主観的な実存状況の1つであり、客観的自然的なオブジェクトとして存在するわけではありません。これに対して「語り」が重視された彼の他の映画は、たとえば前述の「ダイヤルMを廻せ!(Dial M for Murder)」、「北北西に進路を取れ(North by Northwest)」を始めとして「裏窓(Rear Window)」(1954)、「サイコ(Psycho)」(1960)、「鳥(The Birds)」(1963)など、全て即物的なタイトルが付けられています。たとえば「サイコ」においては、サイコ(精神異常者)たる主人公ノーマン・ベイツの内的経験をオーディエンスが主観的に追体験するよう要請されているわけでは決してなく、一人の精神異常者を主人公とする「語り」を外部的な視点から眺めることのみがオーディエンスに要請されています。それに対して、「めまい」においては単に高所恐怖症に陥った主人公のスコティが体験するめまいの経験をオーディエンスとしての外部的な視点から眺めるだけではなく、この作品を見ているオーディエンス自身がめまいにも似た主観的体験が得られるように意図されているのです。すなわちこの作品で意図されていることは、単に「語り」の展開のみではなく、作品が提供するイメージとオーディエンスの間で行われる主観的インタラクションを通じて、めまいにも似た実存状況が「イマジナリ(imaginary)」として魔術的に増殖され、かくして形成される魔術的な世界にオーディエンスを可能な限り巻き込んでしまうところにもあるように思われます。勿論、そこで発動される作用が、モラン言うところの「anthropo-cosmomorphismをベースとしたprojection-identification」であり、繰り返しになりますが、投射/同一化という相補作用を通じて、スクリーン上で展開される一連のイメージとオーディエンスの間でめまいという主観的な発芽子が相互交換され、それが次々に「イマジナリ(imaginary)」として増殖していくのです。この作品の魅力は、まさにこのような魔術的なプロセスが典型的且つ理想に近い形態で発動されるからだと考えられるのではないでしょうか。典型的とは、「めまい」でなくとも映画メディア一般に、このプロセスを自動的に発動させる要素が胚胎しているからであり、それがゆえに「愚かな映画は愚かな小説よりも愚かではない」などと言われるのです。

 では次に具体的に映画の内容により、この相当に難解な理論を検証してみることにしましょう。「めまい」には、生理的現象のめまいに関連するイメージ或いはめまいそのものではなくとも、それに近い感興を喚起する多義的な揺れを孕んだイメージで充たされていることはわざわざ指摘するまでもありません。たとえば、よく挙げられるキム・ノバクの螺旋状に編んだ髪、或いは塔、階段、ポートレイト、暖炉の火、波打ち際のラブシーンなどです。また、そのような物理的なオブジェクトばかりではなく、タイトルバックで展開される目の中の螺旋模様、冒頭の主人公の宙釣りシーン、ぼかし効果等のカメラのトリックは言うに及ばず、撮影のモードそのものに極めて主観的な色彩を濃厚に付与する手法が採用されています。たとえばマデリンを尾行するスコティがかたつむりのようなスピードで車に乗って市内をグルグル回る様子(上掲画像中央)などは、あたかも濃厚な霧につつまれたミステリーを紡ぎ出すかのような極めて主観的な色調を帯びています。もしこの追跡シーンがノーマルな或いは現代のカーチェイスシーンのような狂ったようなスピードで撮影されたならば、サンフランシスコの街がミステリアスに立ち現れるなどということには絶対にならなかったはずです。また、後半スコティは街で偶然出会ったマデリンに似たジュディ(実は、本当にマデリンですが)を、リカちゃん人形よろしくマデリンに仕立てるシーン(上掲画像右)は圧巻であり、このシーケンスはまさに映画の有する魔術的な「イメージ−>イマジナリ(imaginary)の変容プロセス」をアレゴリカルに示していると考えられます。これに関連して言うと、ジュディ−>マデリンの変容とは全く逆にイメージが「イマジナリ(imaginary)」に結実することなくバックファイアして全く機能しないことを示唆するシーンがあります。それはミッジが、自分で描いた自分の肖像画をスコティに見せ、彼によってダメ出しされるシーンです。個人的には、モランの本を読むまでは或る意味で一種残酷なこのようなシーンがなぜ挿入されているのか、長い間「可哀想なテディベアちゃん!(何のこっちゃ?)」と不思議に思っていました。しかし、モランの本を読むことによってこのシーンが存在することの意味が分かったのです。すなわち、「イメージ−>イマジナリ(imaginary)の変容プロセス」が機能しないケースが対比的に示されているということに気が付いたのです。なぜ、けなげなミッジの行為がバックファイアするかと言うと、決してミッジの絵が稚拙であるか否かが問題なのではなく、一言で云えばミッジの肖像画という客観的イメージと結合すべき主観性がどこにも存在しないからです。ミッジは、単なるイメージの世界内に留まらざるを得ない存在であり、ジュディ−>マデリンのように変容を被って「イマジナリ(imaginary)」へと転換されることなしに、彼女を表象するポートレートを1つのイメージとしてむき出しのまま提示しても、マデリンの「イマジナリ(imaginary)」に文字通り憑依されているスコティにはそれを自らの主観性と結び付けて「イマジナリ(imaginary)」化することはもとより不可能であり、それは彼にとって下手な冗談にしか見えないのです。そして、スコティ同様マデリンの「イマジナリ(imaginary)」に憑依されているオーディエンスにしても、ミッジの絵を見て全く同様な感想を持つはずです。なんと、ヒッチコックという監督さんは意地が悪いことでしょう。そもそも幼児の描いた画が一種の芸術であると見なされることすらある現代では、絵が技巧的に稚拙であるか否かはその絵の評価にとって大きな問題にはならないのであり、絵が稚拙か否かの判断はまさにその絵が「イマジナリ(imaginary)」な表象に変換され得るコンテクストが手元に存在するか否かにかかっているのです。「めまい」では度々ポートレイト(肖像画)が映し出されますが、ポートレイトの存在はまさしく「イメージ−>イマジナリ(imaginary)の変容プロセス」の作動が前提とされて始めて、大きな意味を持つのです。こうして見ると確かにミッジは可哀想な存在であり、現実生活でスコティの力となれるのは決してマデリンではなくミッジであるはずにも関わらず、彼女がこのように悲劇的とも見なせる仕方で扱われているのは、スコティが現実世界ではなく「イマジナリ(imaginary)」の世界に引き篭もっているからなのです。その意味では、我々オーディエンスにしても、まさしくスコティ同様、一時的であるにせよ映画という「イマジナリ(imaginary)」の世界に没頭しているのであり、すなわちここには主人公のスコティと我々オーディエンスとの相同性が存在することになります。裏を返すと、主人公のスコティは映画の中で展開される現実世界の中で、一種の映画を見ているのと同じだということです。大袈裟な言い方をすれば、主人公が「イマジナリ(imaginary)」化した世界を生きているという意味において、「めまい」という映画は映画についての映画すなわち映画についてのマクロ的言説を孕んだ映画だとすら見なせるかもしれません。クライマックスのジュディ−>マデリンの変容が完結する、上掲画像右のシーンでは、主人公のスコティの視線とこの作品を見るオーディエンスの視点がまさしく一体化し、オーディエンス自身が主人公となり、主人公が究極のオーディエンスとなるのです。この一瞬はまた「語り」が完全に停止する一瞬であると言っても良いでしょう。しかし、この至福の時とも言うべき究極の一体化は、長くは続きません。なぜならば、「語り」は結末へと進行しなければならないからです。かくして、カルロッタの肖像画に描かれていたものと全く同じ宝石がマデリンの首にかかかっていることにスコティが気付いた時、至福の一瞬は過去のものとなり、再び「語り」が悲劇的なラストシーンへと向かって驀進しはじめるのです。

 かくして、「めまい」においては、それを見ているオーディエンスにとって、そこで示されるオブジェクトが単なるオブジェクトではなく魔法のオブジェクトに変容させられる世界、すなわち主観と客観が混交された魔術的な世界が展開されますが、それとの対比で「語り」がより重視されている、たとえば「ダイヤルMを廻せ!」のような作品に出現するオブジェクトがどのように扱われているかを次に考えてみましょう。「ダイヤルMを廻せ!」で最も重要なオブジェクトは何かというと、タイトルにあるダイアルすなわち電話機と、それに加えて鍵です。まず、ダイヤルMすなわち電話機に関してですが、これはプロットの流れの中で一回切り登場するのみであり、それがタイトルになっているのは、「語り」の流れの中でそれが登場するシーンが重要なポイントすなわち分水嶺を構成するが故なのです。従って、そのような「語り」の推進役として以上に、電話機のイメージが主観的な色調を帯びることは決してありません。更にそれよりも即物的な扱いをされているのが鍵です。実はこの作品の最大のウイークポイントは、後者の鍵すなわち部屋の鍵という瑣末なオブジェクトの扱いが重要な意味を持っているにも関わらず、それがあまりにも細かい偶然性に依拠し、あまりにも些細なコンテクストの中で提示されていることにあります。この点についての詳細は、「ダイヤルMを廻せ!」のレビューを参照して頂くものとして、いずれにせよ部屋の鍵は、「ダイヤルMを廻せ!」の重要な小道具であり数々のシーンで登場します。しかしながら、数々のシーンで登場しているからといって、鍵のイメージに主観的色調が刻印され「イマジナリ(imaginary)」として増殖しているわけでは全くありません。そうではなく全く逆であり、即物的どころかそれすら越えて鍵は「ダイヤルMを廻せ!」の中では連立方程式の媒介変数のようなものであり、比喩的な言い方をすれば「語り」が解決を迎える時分にはこの鍵の存在が媒介変数のように消失しなければならないのです。なぜならば、文字通り鍵がミステリーを解法する為のキーとして扱われているからであり、ミステリーを解法する為のキーはミステリーが解法された暁には無用になるからです。たとえて云えば、絵画における遠近法の消失点(vanishing point)のようなものであり、ミステリーを解法するキーとは、その存在は重要ではあるけれども自己を無化した時に真にそれが機能するような何ものかだということです。従って、最終的には無化されねばならないキーのイメージが「イメージ−>イマジナリ(imaginary)の変容プロセス」を通じて増殖することなどあってはならないことになります。

 ということで長くなってきましたのでこのくらいにしておきますが、最後に1つだけ付け加えておきたいことがあります。それは、バーナード・ハーマンの音楽であり、彼の音楽もまた「イメージ−>イマジナリ(imaginary)の変容プロセス」の為の道具として大きな貢献をしており、殊にジュディがリカちゃん人形のようにマデリンに変容するクライマックスの決定的なシーンでのクレシェンドは鳥肌ものです。モランも映画の持つ「イメージ−>イマジナリ(imaginary)の変容プロセス」における音楽の重要性についてとくと述べています。今月からプー太郎になったこともあり暇にあかせて書き過ぎいつもより長めのレビューと相成り、ここまで根性で読んだ人は少ないと思いますが、いずれにせよそれだけこの作品について語ることは多いということです。またこのような議論をわざわざくどくどと展開せずとも、この映画のファンが多いことは周知のところでしょう。

2007/07/08 by Hiroshi Iruma
ホーム:http://www.asahi-net.or.jp/~hj7h-tkhs/jap_actress.htm
メール::hj7h-tkhs@asahi-net.or.jp