サイコ ★★☆
(Psycho)

1960 US
監督:アルフレッド・ヒッチコック
出演:アンソニー・パーキンス、ジャネット・リーベラ・マイルズ、ジョン・ギャビン


<一口プロット解説>
公金を横領してさ迷うマリオンは、さびれた道路脇のモーテルに宿泊するが、モーテルを経営するノーマン・ベイツは実はサイコ(精神異常者)であった。
<入間洋のコメント>
 映画ファンならずとも知らぬ人はいないであろうこの有名なヒチコック作品については、「」(1963)のレビューで簡単に言及しましたので、少し長くなりますが、まずは以下にその部分を抜き出してみましょう。

「このように言うと、「深層心理的?それなら「サイコ」や「マーニー」の方が遥かに深層心理的ではないのか?」という疑問が湧くかもしれないので付け加えておくと、「サイコ」や「マーニー」が扱ういかにも深層心理的に見える内容は、実際は深層心理的であるどころか演劇的であると個人的には見なしている。たとえば「サイコ」において、ノーマン・ベイツ(アンソニー・パーキンス)が女性を次々と殺害するのは彼の心の中の母親形象が彼と出会う女性全てに対してジェラシーを抱くからであるというようなもっともらしい説明が最後になされるが、正直言えばこのいかにも精神分析的に響くフレーズは単にミステリーを解決する為に強引に追加された説明であるようにしか思えず、世の実際の狂気的な連続殺人犯でそのような明瞭な心理機制に支配されていたという例は皆無ではなかろうか。すなわち、あまりにも論理的或いはこう言ってよければ説明的すぎる感があり、深層心理がこのような単純なロジックに支配されているとはどうにも信じ難く、心の中にある母親形象のジェラシーというような説明は、「サイコ」というドラマの進行の中で最後に何らかの解決が必要であったが故に付け加えられた説明であり、故に深層心理的どころか演劇的であると言った方が良いのである。要するに、そのような説明はノーマン・ベイツが女性を殺害した動機が明かされなければ、ドラマそのものが解決されたことにはならないが故に付加されたドラマツルギーの一種ではないかということである」

 この文章を書いたのは3年前のことであり、勿論基本的には上の記述は間違いであったと告白するわけではありませんが、そもそも「サイコ」は当然のことながら不条理劇などではなく、確固としたドラマとして構成されることが最初から意図されていたはずなので、ドラマツルギーが前面化するのはむしろ自明であると現在では考えています。要するにヒッチコックは語りの名手であり、ジェームズ・ジョイスになろうとする意図があったわけではなかろうということです。それよりも、今一度見直して思ったのは、確かに「サイコ」はそのものずばりの意味においては深層心理的ではないとしても、ドラマたることそのことが構造的には実は精神分析的であることとパラレルではないかという意味において、そこに比喩関係を読み取ることが十分可能ではないかということです。というのも、精神分析とは、端的に言えばプライベート領域に偏在する非合理要素を、捨象したり変形したりすることによって合理的なパブリック領域に適合させることであり、それと同様にドラマも合理的な連続性を持って存在するわけではない断片的な出来事を、合理的な連続性を持つ全体としての語りへと統合することであると捉えられるからです。その意味では、「サイコ」は内容よりも全体の語りの構成という形式的な面において極めて精神分析的だと考えられるのです。精神分析の目的は、結局社会の落伍者を社会に適合させることに存するのであり、その前提として何が正常であり何が正常でないかという暗黙の了解がそこには必ず前提とされます。勿論、正しいのは現存の社会であることになります。但し、そのような現状肯定的で単純な前提は、精神分析を創始したフロイトの弟子や孫弟子達の中には否定されるべきであると考える人々も少なからずいました。ウィルヘルム・ライヒ、エーリッヒ・フロム、R・D・レインらがそうであり、彼らとはタイプは全く異なるとはいえユングなどもそうでしょう。しかしながら現実社会のあり方に対する批判がそこに含まれていたとしても、プライベートな領域にはびこる無秩序を秩序化して社会というパブリックな領域に適合させることが精神分析の第一の目標であることが、一般的に行なわれる精神分析的な実践の中で否定されていたわけではありません。勿論、ドゥルーズ&ガタリの「アンチオイディプス」に代表されるポストモダン以後の精神分析批判では、まさにその点についての徹底批判が行なわれますが、それについてはここでは問わないことにしましょう。いずれにせよ、このような統合化は、多くのオーディエンスによって、すなわち不特定多数のパブリックによって鑑賞されるべきドラマの統合化と同様な側面を持っているはずであり、或る意味で、精神分析とはパブリックなドラマ(語り=ナラティブ)の再構成であると言い換えることができるはずなのです。

 実は、「サイコ」の全体構造は、プライベートな空間に巣食うアノマリーを矯正してパブリックなノーマルな空間に適合させるというプロット展開において、まさに精神分析的な構造
と相同的な面を持つと考えられるのです。まず指摘しておくべき点は、作品の前半と後半では、著しく「スタイル」が異なることです。すなわち、主要登場人物としてはアンソニー・パーキンス演ずるノーマン・ベイツとジャネット・リー演ずるマリオン・クレインしか登場しない前半、すなわち冒頭から有名なシャワー室の惨劇のシーン辺りまでは、極めてプライベートな世界が描かれているのに対し、ベラ・マイルズ、ジョン・ギャビン、マーティン・バルサムが相次いで登場する後半は極めてパブリックな世界が描かれています。このような明確な構造的な区分を前提とすると、「サイコ」は次のような構造を持つと考えられます。すなわち、プライベートな世界が描かれる前半部において、プライベートな主人公二人の極めてプライベートでアノマリーな言動や行動を通じて撒かれ発展された不合理なミステリースリラー要素が、後半部において、パブリックな資格を有する登場人物達の極めてノーマルな行動によって徐々に解決され説明が与えられていくのです。まず前半について詳細に分析してみましょう。前半登場する二人、すなわちノーマン・ベイツ(アンソニー・パーキンス)とマリオン・クレーン(ジャネット・リー)は極めてプライベートな存在だと見なせます。前者はベイツモーテルの世界の中だけに閉じた存在であり、尚且つラストで明らかになるように精神異常を来たした破綻者です。また後者は公金をネコババした社会の不適格者であるという点でもプライベートでしかあり得ない存在だと言えますが、そもそも前半の彼女の描かれ方そのものにおいてプライベート且つミクロな様相に専ら焦点が絞られていることが分かります。たとえば、魔がさしたマリオンは公金を横領しますが、公金横領という行為自体は「サイコ」にあっては単にプライベートな意味しか持っていません。ギャング映画やフィルムノワール映画の冒頭で公金や組織のカネを横領するシーンが配置される場合、それには必ずやパブリックな組織に対する挑戦という意味合いが与えられ、それをトリガーとしてストーリーが展開されるのが普通です。ところが、「サイコ」では、マリオンの公金横領は確かに私立探偵(マーティン・バルサム)をストーリーに呼び込む役割を果たすとはいえ、その彼もストーリー展開上必須の存在ではないことは別としても、公金横領自体がストーリーを誘導するトリガーとなっているわけでは決してなく、挙句の果てに盗んだ金は泥沼の藻屑となって消えていくだけです。マリオンの公金横領は、彼女がシャワー室で惨殺される因果応報的な意味付けを与えているだけにも見え、プライベートなレベルを超えた要因として扱われることは一度もありません。端的に言えば、個人的なモラルに関する理由付けという側面を全く無視するならば、マリオンがわざわざ公金を横領しなくともストーリーは十分に成立するということです。そもそも、60年代以後の映画においては個人的モラルは必須要素ではなく無視されるケースの方が増えるくらいです。これに対し後半から登場する人物は、皆パブリックな領域にうまく適合し、パブリックな役割と責任を持つ人物ばかりです。そのような特徴は、主要登場人物ばかりではなく、町のシェリフやラストシーンに登場し事の次第を明瞭に説明する警部などにも見て取れます。そのような彼らに対し、前半登場するサングラスをかけた不気味な警察官は、パブリックな役割を持った人物であるにも関わらず態度振舞いが極めて怪しく、それはあたかも前半はパブリックではなくプライベートな世界が描かれているので公務員たる警察官の姿ですらその重力によって人物像が歪められたかのごとくです。パブリックという意味では、殊にラストシーンに登場する警部はまさに極めつけであり、このオーバーアクティング気味でいかにも得意気に全てを解き明かす人物は、もしかするとヒッチコック自身の姿なのではないかとすら思わせます。またそれと同時に、全てを自身満々に分析し尽くす彼の姿は、極めて家父長的であったと伝えられるフロイトその人をも想起させるかもしれません。いずれにせよ、後半登場するこれらの人物が寄ってたかって行なうことは、プライベートな前半部でまかれ発展された不合理なミステリ−要素に合理的な説明を与えることであり、それによって非合理性を治癒することなのです。但し、「サイコ」で治癒されるのはノーマン・ベイツという作中の精神病患者なのではなく、前半部で繰り広げられる様々な不合理な描写を目の当たりにして呆然としている我々オーディエンス自身なのです。またそれが、「サイコ」の構造は、精神分析的な構造と「相同的」だと述べた1つの理由なのです。

 ところで、当時の映画に少しでも詳しい人ならば既によくご存知のように、「サイコ」は、精神異常や猟奇殺人という素材を扱った数多くのサイコスリラー作品を生み出す結果になります。有名なシャワー室の惨劇シーンの斬新さに関してとかく強調されがちですが、個人的にそれ以上に重要であると見なしている点は、ミステリースリラー的な素材をプライベートな領域に開いたところにあると考えており、まさにそれが作品の前半部に相当するわけです。ところがこの作品には、かくして開かれたプライベートな領域が、後半部を経て再びパブリックな領域に収束されます。「サイコ」に触発されて製作された類似の作品は、「サイコ」の前半部だけに影響されたと思しきものが多く、代表的な作品を1つ挙げるとすれば、スタンリー・キューブリックの「シャイニング」(1980)が挙げられます。いずれにせよ、「サイコ」の主人公ノーマン・ベイツは、徹底的にプライベートな世界に引き篭もった人物であり、彼のみに注意するならば決定的に扱いは現代的であると見なせるかもしれません。ここで多少余談になりますが、猟奇殺人をテーマとした最近の映画の中で、ノーマン・ベイツとは対極の位置を占める異常者が登場する興味深い作品があるのでそれを紹介しておきましょう。それはパトリック・ジュスキントの映画化「パフューム」(2006)です。確かに「パフューム」の主人公は、嗅覚が異常に鋭いという特徴はあったとしてもノーマン・ベイツのような精神病患者ではありませんが、猟奇殺人を重ねる社会のはみ出しものである点ではノーマン・ベイツと何の変わりもありません。しかしこの両者の間には決定的な違いが1つあります。それはノーマン・ベイツが徹底的にプライベートな領域に閉じ篭る人物であるのに対し、「パフューム」の主人公は、街の雑踏の中で生まれ、ダスティン・ホフマン演ずる師匠の弟子となり、自らの手で殺害した少女達のエッセンスを元に調合した香水の匂いで、自らの処刑を見物しにやってきたオーディエンスを意のままに操るなど、徹底的にパブリックとの関わりの中でしか存在し得ない人物として描かれている点です。その意味において、「パフューム」という作品の真のすごさは、今日ではブランドものの香水という形以外では徹底的にプライベートな領域に追いやられた「匂い」が、実はかつては極めてパブリックな領域に属していた点が示唆されているところです。感性の歴史をテーマに掲げて昨今注目を浴びているアラン・コルバンというフランスの歴史学者がいますが、「パフューム」の原作者であるジュスキントはコルバンの代表作の1つである「においの歴史」(藤原書店)を読んでそれに感化されたのではないかと言われています。コルバンの著書は何冊か読んだことがありますが、「見たんか?」と言いたくなるほど生活に密接に関連したミクロな描写により、かつて「匂い」が社会の中でどのような役割を果たしていたかが解説されています。「パフューム」の冒頭でナレーションによって語られるように、ナポレオン3世治下オスマンの大改造によってパリの街区が近代化される以前は、パリは糞尿にまみれた極めて「くっちゃい」町だったのです。つまり、「匂い」は至るところに存在するパブリックな存在であったはずが、近代のある時期に一斉に囲い込まれパブリックな領域からプライベートな領域に追放されてしまうわけです。かつて「匂い」がパブリックな領域を充たしていたことは、たとえばフランスの国民的な作家であったヴィクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」でも描写対象とされており、革命のバリケードの中で重症を負ったマリユスを背負って主人公のジャン・バルジャンがパリの有名な地下下水道(フランス語でegoutと言いますが、まさにかつてのegoutはエグかったのです)の中を当局の目を避けて逃走するシーンでもそのエグさがふんだんに描かれています。かつてはパブリックであった「匂い」の象徴としての存在が、まさに「匂い」の持つパワーによってパブリックを支配するまでの権力を持つに至った「パフューム」の主人公の姿を借りて示されているのです。同じ猟奇殺人を犯す犯罪者であっても、その彼とノーマン・ベイツの間にある隔たりは限りなく大きく、「パフューム」を見ながらふと脳裏に「サイコ」を思い浮かべたという次第です。

 さて、そのような新たな地平を切り開いたが故か、アメリカには、「サイコ」は40年代から50年代にかけて製作されてきたフィルムノワールジャンルに属する最後の作品、或いはフィルムノワールジャンルに最後通牒をつきつけた作品であると見なす映画評論家もかなりいるようです。たとえば50年代から60年代初頭に製作されたハリウッド映画のDVDプロダクトの音声解説でお馴染みのドルー・キャスパー氏がそうですが、最も説得的なコメントを記しているのが「Dark City」(St. Martin's Griffin)というフィルムノワールに関する本を書いたエディ・ミューラー氏です。「Dark City」の「サイコ」に関して言及されている箇所を以下に抜粋してみましょう。やや長くなりますが、自身ハードボイルド小説も書いているミューラー氏の表現がなかなか素敵なのでご辛抱下さい。

◎ノワールは、カリフォルニアの中央を走る谷間の寂しいモーテルで実際に終焉を迎えた。ノワールは、フェニックスにある自身の仕事場の不動産屋のオフィスから25000ドルを猫ババした後、マリー・サミュエルズという偽名で宿帳に記入したのである。情熱にほだされて犯した衝動的な犯罪、これはまさにノワールの典型的パターンである。以前にも我々はこの道を下ったことがある。犯罪行為に至る移り気なセクシャリティ、道徳的なあいまいさ、絶望的な抗い、そこには全ての象徴やイメージが確固として出揃っていたのである。しかるに、ノワールは、モーテルの主人である若く孤独なノーマンと長いナイスな会話をした後、結局犯罪は見合わないことに気付いた。犯罪は希望のない袋小路であることに。「Moonrise」(※)のダニー・ホーキンスのように、彼女は自首して現実を直視することを決意したのである。ナイスな熱いシャワーが、犯した罪を彼女の体から洗い流すはずであった。かくして、この夜ノワールは死んだのである。母親の服とかつらを装って肉切り包丁を振りかざし、浴室に足を踏み入れた時、それはノーマン・ベイツにとっては小さなステップに過ぎなかったが、映画というメディアにとっては巨大なステップだったのである。分裂症の一方の状態であるノーマルな自己に戻ったノーマンは血にまみれた現場を掃除するが、この時彼は犠牲者の血とともに「クラシックノワール」の最後の痕跡を溝に洗い流したのである。
(Noir actually perished in a lonely motel room in California's central valley. Noir had registered under an assumed name - Marie Samuels - after stealing twnenty-five grand from the real estate office in Phoenix where she worked. Typical of Noir - an impetuous crime, commited in the throes of passion. We'd been down this road before: the volatile sexuallity leading to criminal behavior, the moral ambivalence, the desperate fight. All the icons and imagery were firmly in place. Then Noir had a nice long talk with lonely young Norman, the proprietor of the motel, and she decided that crime didn't pay after all. She realized it was a hopeless blind alley. Like Danny Hawkins in Moonrise, she decided to turn herself in and face the music. A nice hot shower would cleanse her of her sins. That was the night Noir died. When he stepped into that bathroom, brandishing a butcher knife and clad in his mother's housecoat and wig, it was one small step for Noman Bates, but one giant step for the movies. When Norman - reverting to his normal schizophrenic self - cleaned up the gory mess, he washed the last vestages of "classic noir" down the drain with the blood.)
※1948年製作のフィルムノワール作品ですが、日本劇場未公開のようであり、個人的にも見たことはありません。


 敢えて指摘するまでもなくミューラー氏は、マリー・サミュエルズという偽名でノーマン・ベイツの経営するモーテルに投宿して惨殺されるマリオン・クレーンをノワール映画の象徴として二重写しに捉えているわけです。すなわち、マリオン・クレーンの死とともにノワールは終わったということです。だとすると面白いことに気が付きます。当レビューの冒頭、シャワー室の惨劇のシーンを境として前半ではプライベートな領域が、後半ではパブリックな領域が描かれていると定式化しました。ということは、ノワールはプライベートな領域からパブリックな領域に移行する寸前で死を迎えたことになります。ここでは詳述しませんが、フィルムノワールには都市や犯罪組織などのパブリックな側面と、主人公の揺れ動く心理などのプライベートな側面の両方が存在し、実はこの両側面の大きなズレがテーマとされている場合が多々あります。ということは、「サイコ」によってとどめを刺されたノワール要素とは、この内のプライベートな側面であったことになります。ではプライベートな側面の何が変わったのでしょうか。その回答が、まさにシャワー室の惨劇のシーンにあるのです。つまり、ノーマン・ベイツの「狂気」がノワールのプライベートな側面を破壊したということです。フィルムノワールの主人公が持つ内面とは、それがファムファタルのものであろうが、私立探偵のものであろうが、悪徳警官のものであろうが、ギャングのものであろうが、犠牲者のものであろうが、或いは「死の接吻」(1947)などでのリチャード・ウィドマーク扮する精神異常ギリギリの犯罪者のものであろうが、たとえ動揺していたとしても、ノーマン・ベイツのような狂気性を持っていたわけではないのです。いくらフィルムノワールはドイツ表現主義から受け継いだフロイト的な心理要素を孕んでいたとはいえども、それは表現様式に関しての話であり、主人公の動機そのものが精神分析的に語られることなど恐らくなかったはずです。ノーマン・ベイツ程度ならばまだしも、その発展型であるレクター博士のような人物がフィルムノワールに登場し得るとは誰も考えないのではないでしょうか。とはいいつつも、実は、「Movie Love in the Fifties」(Da Capo Press)を書いたジェームズ・ハーベイ氏などは、マリオン・クレーンは既にノワール的な人物ではないとミューラー氏とは異なる見解を述べています。しかしながら、個人的にはミューラー氏の捉え方の方が説得的である印象があり、またいずれにしてもハーベイ氏も「サイコ」にノワール的なものの残滓を見出すからこそ、わざわざ彼女はノワール的人物ではないなどと述べるのでしょう。プライベート領域における狂気うんぬんは別としても、ノワール映画においても確かに残虐なストーリーが語られるとはいえ、ノワール映画には常にスタイリッシュでフォーマルなビジョンすなわちノワール的な美学が常に付随していたのに対し、「サイコ」においてはそのような美学が一旦提示されながら、マリオンの惨殺に代表されるリアリスティックで残酷なビジョンによって完膚なきまでにノワール美学を破壊し去ったとも考えられるのです。そして、ノワール映画がヒッチコックの手により潰え去った後、ハリウッドは「羊たちの沈黙」(1991)のレクター博士によって代表されるサイコキラーものへと至る道をひた走ることになるのです。まあ、いずれにせよヒッチコックは只者ではなかったということです。

2007/03/31 by Hiroshi Iruma
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