枢機卿 ★☆☆
(The Cardinal)

1963 US
監督:オットー・プレミンジャー
出演:トム・トライオン、ロミー・シュナイダーキャロル・リンレイ、ラフ・バローネ

左:トム・トライオン、右:ロミー・シュナイダー

オットー・プレミンジャーは、イスラエル建国というそれ程多くの人々の関心を呼びそうには思えないテーマで、しかも恐ろしく長大な「栄光への脱出」(1960)というをエピック作品を撮っていますが、私めの好きな政治映画「野望の系列」(1962)をはさんで、またしても少なくともアメリカでは(勿論日本でも)あまり関心を呼びそうもないカトリックの枢機卿をテーマとしたその名も「枢機卿」という長大な作品を撮っています(しかし後述するようにこれには時代背景も関連しているかもしれません)。アメリカではあまり関心を呼びそうもないと書いたのは、プロテスタントであるピューリタン達が元祖であるアメリカでは、カトリックはマイナーであるように思われるからです。勿論、後にイタリアやアイルランド等からカトリック系の移民がやってくるので、カトリックもそれなりの勢力を持っているのかもしれませんが、やはりアメリカとカトリックというのは少なくとも私めの頭の中ではなかなか結び付かないのですね。殊に、ホーソーンの「緋文字」が描くような質素で静謐且つ生命が封じ込められたような生命感に欠しいニューイングランドにおけるピューリタニズムの世界、とはいえどもそのような質素倹約的で個人信仰的な側面が、近代的な個人主義やひいては今日に至る資本主義の繁栄、すなわちまさに20世紀のアメリカが体現してきた価値感をもたらしたマックス・ウエーバーさんの言うプロテスタンティズム的な世界を思い浮かべると、厳格な位階級制度を維持し且つ過剰な華美に彩られたカトリックの世界とは全く相容れないように思われます。もともとカトリックが暖かい南国の産であるとすれば、プロテスタントは寒い寒い北国の産であったのであり、そのような土地柄の相違もそれぞれの文化の違いに反映されているように思われます。イタリア移民のマフィアの世界を描いた「ゴッドファーザー」(1972)の中で、カトリックの儀式を背景とした絢爛豪華なシーンがありましたが、これはまさに質素であることをモットーとするピューリタニズムをその源泉として発展してきた正統的なアメリカ社会とは異なる、過剰とも言えるような文化を持ったイタリア移民による独自な別世界を強調せんがために挿入されたとも言えるのではないでしょうか。「枢機卿」という作品を見ていて興味深い点の1つは、一方でバージェス・メレディス演ずる牧師やオシー・デイビス演ずる黒人牧師のようにアメリカの片田舎で極貧の内に布教を続ける人達もいれば、片やゴージャスなインテリアとゴージャスな衣装に包まれたローマの高位聖職者達もいることであり、同じカトリックでありながらそれ程の境遇の差があるにも関わらず、むしろそれが当然であるかのごとくに描かれていることです。ゴージャスなインテリアに飾られたオフィスの中で葉巻をくゆらせながら執務を執っているジョン・ヒューストン演ずるカトリック高位聖職者が、バージェス・メレディス演ずるくだんの極貧の田舎牧師に終油の秘蹟を行う様子には一見するとカトリック教会が持つ矛盾が描かれているかにも見えますが、矛盾であると見てしまうのは外部的視点からであり、むしろそのような境遇の差異は当の本人達にとっては大した問題ではないのかもしれません。というのは、もともと貧富の差をうんぬんする視点そのものが近代的な見方、それも宗教改革を得て資本主義が発達し始めてから大きな重要性を帯び始めた見方であるということができるのであり、古代からの長い伝統を誇るカトリックの世界においてはそのような見方そのものが考慮の埒外であったということなのかもしれません。しかしながら、世界各地に散在する一般信者が生きる現実世界のあり方とバチカンとの間にあるギャップは、この映画が製作された頃にはカトリック教会内部においてさえ強く意識化されつつあり無視できない問題と化しつつあったのですが、これについては後述します。さて、この作品は、アメリカ人としては珍しく枢機卿に選出されたトム・トライオン演ずるカトリック牧師が、紆余曲折の半生を回想するという設定になっています。この紆余曲折の半生において彼は、牧師として生活する日々のなまの体験とカトリックの教えの間に発生する矛盾に悩んで一度はカトリック牧師を継続することを断念しようとしますが、モラトリアム期間を経た後カトリック教会に留まり最後は枢機卿の地位にまで昇ります。彼がカトリックの教えに疑問を持つようになるのは、それに従うことによって難産で死にかけている自分の妹(キャロル・リンレイ)を見殺しにせざるを得なくなるという苦い体験を経ることによってです。この時彼は、赤ん坊かこの赤ん坊の母親たる自分の妹のどちらかを犠牲にすることを強いられますが、カトリックの教えに従えば妹が死んだ場合はそれは自然の流れすなわち神の摂理に従ったものであると解釈されるのに対し、赤ん坊を犠牲にすればそれは人為的な殺人と解釈されるので、妹を見殺しにせざるを得なくなるわけです。ご存知のように殊にカトリックの場合、精子と卵子が受精した瞬間、人格を備えた神聖な一人の人間が誕生すると見なすのであり、従ってカトリックでは胎児の受胎後の経過時間の如何に関わらず堕胎を認めていません。カトリックの場合にはかくして極端な見方を取りますが、カトリックであるか如何にかかわらず一般的に宗教感情の強いアメリカでは現在でも生命倫理が日本に比べれば遥かに大きな社会的焦点になっているようであり、たとえば臓器移植に大きな貢献が期待されるES細胞研究に対してアメリカでは歯止めがかけられているのは(数年前に亡くなったクリストファー・”スーパーマン”・リーブがES細胞研究を推進するような運動を晩年に行っていたということを何かの本で読みました)、その背景としてこのような宗教的な倫理規制が深く存在するからです。かくして自己の内面と教会の教えの間のギャップを調停しきれず彼はモラトリアム期間を貰って一端教師になりますが、やがて教会へ残ることを決心します。この作品を見ていて最も分らないのは彼がモラトリアム期間を終えて教会へ残る決心をする部分に関してであり、それ程までに悩んで教会を去ろうとした彼がモラトリアム期間を得ることにより最終決定を引き延ばしただけで何故教会に残る決心をするのかは、正直言えば私めには全く不明です。もしモラトリアム期間中に彼を教会に留まらせるような重要な出来事が発生したのであれば別ですが、どう見てもそのようなシーンはないどころか後述の通りその逆に見えるようなシーンが挿入されており、教会に残る決心をしたというよりもズルズルと教会に残ってしまったという印象をその結果としてオーディエンスに持たれたとしても何の不思議もなく、そもそもそれならば最初から彼はいったい何を悩んで教会を去る決心をジョン・ヒューストン演ずる上位聖職者に打ち明けたのかが疑問になる程です。殊に冒頭からインターミッションまでの部分では彼が矛盾を意識するようになるに至る経緯が丹念に描かれているように思われる分、余計に後半冒頭での教会への復帰が中途半端に思えてしまうのですね。教会を離れて教師をしている間彼は、ロミー・シュナイダー演ずるお嬢さんと出会いますが、彼が舞踏会で「もはやあなたへの思いを隠せない」などという歯の浮くような昼メロ的セリフを吐いたすぐ後に(何やら無言でお祈りをしているシーンは挿入されていますが)、牧師の姿に戻っているのは、ロミー・シュナイダーばかりか見ているこちらまで唖然として「あれれ!どういうこっちゃ」と言いたくなります。そして、その次にくる何年後かのシーンでは、全く何の悩みもない彼が元気にバチカンで働いている様子が映し出され、それ以後は前半の体験が無かったかのように振る舞います。フレッド・ジンネマンが監督しオードリー・ヘップバーンが主演した「尼僧物語」でも修道院という組織が要請する生き方と自己の内面とのギャップに悩む主人公の姿が描かれていましたが、この作品の場合には最後に修道院を去る不退転の決意をする主人公シスター・ルークの内面的変遷の描写は実に納得できるものであり、まさにそれを説得的に描くことが作品のテーマでもありました。それに比べると余計に、「枢機卿」の主人公の内面的変遷が極めて中途半端にしか描かれていないことが分ります。従って、もしこの作品のメインテーマがトム・トライオン演ずるカトリック牧師の内面の変遷を描くことであったとすれば、そのような不備は決定的なマイナス要素になります。「Alternately compelling and shallow(時に説得的であったり、時に浅薄であったりする)」(Mick Martin & Marsha Porter)や「An uneven, occasionally worthwhile film(むらがあり、時おり見る価値がある部分が存在する作品)」(Leonald Maltin)というようなプロの評価も、このような中途半端な部分に言及しているのではないかと考えられます。個人的な見解としても、そのような側面からこの作品を見ようとすると同じような評価を下さざるを得ませんが、但しそれだけでこの作品を切り捨てるのは惜しいとも考えています。というのも組織としてのカトリック教会の位階級的且つゴージャスな世界が描かれていて、そのような側面からの関心が引き立てられるからです。ご存知のように1950年代には、宗教的なテーマが扱われた作品がしきりに製作されていましたが、それらのほとんどが新約聖書や旧約聖書を題材にしたものであり、同時に歴史劇でもありました。それに対してこの作品は、宗教に関係するテーマが扱われていてもコンテンポラリーなセッティング(と言っても20世紀前半が舞台ですが)であり、また教会組織そのものが大きく前面に扱われている点も1950年代の作品とは異なっています。ここに至ってハタとある事実に気付きました。それは、この作品が製作された頃はまさに第2バチカン公会議(1962−65)が開催されていた時期でもあったということです。この会議の詳細な内容はよく知りませんが(Wikipediaなどでも検索することが出来ますが、どこまで正確な記述であるかに関しては私めが保証できるものではありません)、堅固な位階級制度をベースとして旧来的な伝統に大きく依存していたカトリック教会と、急速に移り変わる時代の様相との間の落差が大きくなり、そのことをカトリック教会側も意識し方向転換を図ろうとして開催された会議であったと聞いたことがあります。オットー・プレミンジャーが実際に影響を受けていたか否かは別として、そのような時代背景をも考え合わせてこの作品を見るのもまた一興かもしれません。たとえば、貧困の中で布教活動を続けるバージェス・メレディス演ずる田舎牧師の存在や、トム・トライオン演ずる主人公がオシー・デイビス演ずる黒人牧師の嘆願に応じてローマからわざわざアメリカの田舎町に出かけていく様子などは、もしかすると位階級制度という象牙の塔に閉じこもることに対するカトリック教会側の反省が象徴的に示されていると言えるかもしれません。また主人公の抱える矛盾は、それが全く同質のものであるとは言わないにしても当時のカトリック教会が抱えていた矛盾にアレゴリックに言及したものとして把握することができるかもしれません。最後に付け加えておくと、この作品には、この作品同様オットー・プレミンジャーが監督した珍しいコメディ作品「月蒼くして」(1953)でデビューしたマギー・マクナマラが出演しておりこれが1978年に睡眠薬自殺した彼女の最後の作品となります。「月蒼くして」ではウイリアム・ホールデンとデビッド・ニブンを相手に対等に立ち回っていましたが、この作品では目立たぬ役で出演しています(キャロル・リンレイの眼鏡をかけた姉(妹?)の役)。またキャロル・リンレイが母親と娘の一人二役で出演しており、道理で瓜二つに見えるはずです。それから私めがこの作品内に限っての一番のお気に入りの女優さんは、ロミー・シュナイダーでもキャロル・リンレイでも勿論かつての快活さのないマギー・マクナマラでもなくイギリス出身のジル・ハワースという女優さんで(バージェス・メレディス演ずる瀕死の田舎牧師の看護をしている娘が彼女です)、驚いたことに彼女はこのオールスターキャスト映画の中でトム・トライオン、ロミー・シュナイダー、キャロル・リンレイの次にクレジットされています。どうやらオットー・プレミンジャーに気に入られていたのか彼の他の2つの作品にも出演しています。それから、「大いなる西部」(1958)のジェローム・モロスの音楽なかなか効果的であることを付け加えておきましょう。


2007/08/26 by Hiroshi Iruma
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