或る殺人 ★★☆
(Anatomy of Murder)

1959 US
監督:オットー・プレミンジャー
出演:ジェームズ・スチュワート、ジョージ・C・スコット、リー・レミック、ベン・ギャザラ

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<一口プロット解説>
弁護士のビーグラーは、ある女性から自分を襲った暴漢を撃ち殺した旦那の弁護を依頼される。
<入間洋のコメント>
 法廷ものの映画が何故日本ではあまり受けないかに関しては何度か書いたのでここで繰り返すつもりはありませんが、我々日本人が法廷ものの映画と聞いた時何を連想するかまず考えてみましょう。法廷には、勿論家庭におけるいざこざを仲裁する法廷もあり、多くのドラマ映画の舞台として登場する法廷はこのタイプの法廷です。しかしながら、このような家庭裁判に関するシーンが含まれる映画は、法廷における裁判そのものがメインテーマであることはまずありえず、それを法廷ものの映画に分類することはできません。従って、法廷もの映画として分類される映画は、ほとんどが刑事犯罪を審議する法廷を扱った作品であると言い切っても構わないでしょう。進化論論争をテーマとした「風の遺産」などは恐らく数少ない例外に数えられるでしょうが、それでも進化論を教えて逮捕されたハイスクール教師が刑事被告なのでとりあえず表面上では犯罪法廷であるとも考えることができます。また軍事法廷ものは、確かに刑事犯が扱われているわけではありませんが、そうであったとしてもたとえば敵前逃亡や裏切りは軍隊のスポンサーである国家にとっては最高レベルの犯罪であり、従って軍事裁判を扱った作品も法廷ものの映画と呼ぶことができます。かくして、法廷ものとして括られる映画は、十中八九は犯罪が法廷で審議される映画であると考えて良いのではないでしょうか。では犯罪法廷では何が裁かれるのでしょうか。勿論それは、被告が有罪(guilty)であるのか無罪(not guilty)であるのかについてです。この点にまず注意が必要でしょう。というのも、同じように専ら犯罪を扱うジャンルでもミステリーと法廷ものの差がここで決定的に現れるからです。すなわち、ミステリーにおいては、主役である探偵が事件を捜査し、一種の因果系列をつきつめることにより犯人をあぶり出していく展開になるのに対して、法廷ものの場合には、犯人らしき人物は最初から特定されており、その人物が有罪であるか無罪であるかを法廷でかんかんがくがく議論することによって有罪か無罪かの判決を得る展開になります。従って法廷ものの場合においては論理的に更に2通りの展開が考えられます。1つは最終的に被告が有罪になる場合であり、このケースでは展開はミステリーに似通ってくるはずです。すなわち、被告が有罪であることを証明する因果関係を原告側の弁護士が明らかにするという流れになります。もう1つは、最終的に被告が無罪になる場合であり、流れは全く逆になります。すなわち、この場合、弁護側の弁護士は、有罪である証拠として提出されている証拠物件や証言を論駁することにより、すなわち被告に結び付けられた因果関係を1つずつ逆にほどいていき最後に証拠不十分であることを示して被告が無罪であることを逆証明する展開になります。実を云えば、私めの知る範囲内でつらつら考えてみると、法廷もの映画というと後者のパターンが意外に多いことに気が付きます。1950年代以前の映画についての知識が著しく乏しいのでいつ頃からこのタイプの法廷もの映画が出現し始めたかについてはっきりと断定することはできませんが、1つだけ確実に言えることがあります。それは、それを具現化した最初の決定的且つ重要な作品が、シドニー・ルメットの「十二人の怒れる男」(1957)であることです(この作品は厳密に云えば法廷そのものではなく狭い陪審員室が舞台になっていますが、法廷ものと呼んでも大きな間違いはないでしょう)。「十二人の怒れる男」では、ヘンリー・フォンダ演ずる主人公の陪審員が、被告と殺人の因果関係を立証する証拠物件や証言を次々と論破していきます。論破するとはどういうことかと云うと、因果関係が全く存在しないことを証明するのではなく、因果関係が絶対ではないことを証明するのですね。このようにして、1つ1つ因果関係の鎖を断ち切っていくことにより、最終的に証拠不十分として被告が無罪であることを「示す」わけです。ここでわざわざ「示す」と表現したのは、それによって決して被告が無罪であることが「証明された」のではなく、被告を犯人であるとして結び付けている既存の因果関係が単に絶対ではないことが「証明された」に過ぎないことを表わすためです。このように考えてみると、多くの法廷もの映画には、多少大袈裟な言い方をすればアンチミステリー的な側面があるとも考えられます。何故ならば、前述したようにミステリーは、因果関係を紡いで犯人を特定することにそのエッセンスがあるのに対し、「十二人の怒れる男」に代表される法廷ものは、一旦繋がれた因果関係をそれとは逆にほどいていくことにそのエッセンスがあるからです。そのように考えてみると、1つ面白い映画があることに皆さん気が付くのではないでしょうか。そうです。それは、ミステリー作家アガサ・クリスティーが原作の法廷もの映画「情婦」(1957)です。尚、この作品は最後のどんでん返しがウリの1つであり、まだ見ていない人でネタを知りたくない場合は、次の段までスキップして下さい。刑事法廷が舞台になる「情婦」では、一般のミステリーと違って犯人らしき人物(タイロン・パワー演ずる被告)は既に挙がっており、この被告を巡って審理が繰り広げられます。この時点でオーディエンスは一般的な法廷劇のパターンからすると、被告は無罪なのではなかろうかと予想するかもしれません。しかも、弁護側弁護士を演じているのは、チャールズ・ロートンであり、彼の恰幅のいい体型と自信に充ち溢れた態度を見れば彼が弁護する被告が有罪であるようにはとても見えないのですね。ところが、この作品を見たことがある人ならばご存知のように、法廷では無罪が言い渡されたあと最後の最後に実は被告は有罪であったことが明らかになります。つまり、それまでせっせとほどいてきたはずの因果関係の鎖が、最後の大逆転で再びがっちりと結び直されるのです。つまりアガサ・クリスティのこの作品は、アンチミステリーであるはずの法廷劇の姿を一見装って、ミステリーのトリックとして利用してしまうという一種のメタトリックが使われているとも考えられることになります。

 さて、「或る殺人」も上映時間トータル160分の半分くらいは法廷で審議が行われるシーンで占められる典型的な法廷劇であり、被告は最後に無罪を勝ち取ります。しかしながら、実はベン・ギャザラ演ずる被告マニオンが、実際に殺人を犯したか否かという点に関しては、最初から誰にも有罪であることが明確であるという点において実に特異な展開を持っています。犯罪がテーマでありながら、以下に示すように被告が犯罪を犯した時の精神状態がメインの審議内容になっており、そもそも因果関係など本来ほとんど問われる必要がないはずなのですね。しかしこの点については、これから説明するように極めて曖昧で中途半端に終わっており、その為にストーリー自体が一部で破綻しているような印象を受けざるを得ないところすらあります。それを説明する前に、まず「或る殺人」の舞台となる法廷では殺人を犯した被告マニオンについて何が審議されているかを明確にしましょう。それは以下の3点です。

@「抗い難い衝動(irregistible impulse)」に襲われて殺人を犯した場合、有罪か無罪か。
A被告マニオンが殺人を犯したその瞬間、彼は「抗い難い衝動」に襲われていたという弁護側の主張は真か偽か。
Bマニオンの奥さんローラ(リー・レミック)が、マニオンに殺されたクウィルによって彼女の意志に逆らいレイプされていたという主張は真か偽か。
(以下の文中で@、A、Bという表現が現れる場合、対応する審議内容を表わします)

@に関しては、厳密に云えば「或る殺人」における法廷で審議される項目というわけではなく、ジェームズ・スチュワート演ずる被告弁護士ビーグラーが資料の山の中から掘り出してきた判例(precident)によって、無罪であることがアプリオリに確定しています。ジョージ・C・スコット演ずる検察弁護士ダンサー(検察側弁護士は2名いますが、煩雑になるので以下の文中では代表して検察側弁護士はダンサーとのみ記します)は「抗い難い衝動」に襲われて殺人を犯した場合は有罪であろうと最初主張しますが、そのような状態で犯された犯罪が無罪になった判例が既にあることをビーグラーから聞いた途端あっさりと譲歩します。この時ダンサーは判例の存在を聞かされた途端、そういえばそんな判例があったことを思い出したと言いながらあまりにもあっさりと引き下がるので、恐らく彼は判例を知っていながらわざと知らないふりをして田舎弁護士のビーグラーを試そうとしたのではないかという印象すら受けます。いずれにしても、「抗い難い衝動」に襲われた状態にて犯された殺人は、少なくとも刑事罰上では無罪になるすなわち「@は無罪である」という前提があることがこのシーンで確認されることになります。また、この前提があって始めて、Aを論議する意味が生じます。ところで、@、Aはよしとしても、この作品を見ていて分かりにくい点は、何故Bが審議の対象になるのかということです。というのも、Aが真であればBが真であるかどうかは全く問題にはならないはずであり(何故なら@であれば無罪であるという前提が存在するからです)、又もしAが偽であればBが真であろうが偽であろうが被告の無罪は全く証明されないはずだからです(本当に自分の奥さんがレイプされたとしても、それでレイプ犯を即座に殺してもいいということには少なくとも刑事罰上ではならないからです)。勿論、Bが偽であれば陪審員の心象が悪くなることは確かであるとしても、それは単に奥さんのモラルの問題に過ぎないのであり(奥さんの証言が偽証であったとして仮に無効になってもそれはAの真偽には全く影響しません)、被告に直接関係のない事象が被告が有罪か無罪かの判決に影響することがあってはならないことでしょう。また必ずしも@+Aの図式に従っているわけではない検察側の立場からすれば、Bを審議する意味はそれなりにあるのかもしれませんが、この作品の主役側であり@+Aの図式を論拠とする弁護側の方が、後で例を挙げるように何故かBに固執するのですね。何故Bが主役たる弁護側にとって問題になるのでしょうか。しかもBに関する審議が行われるシーンにはかなり長い時間がかけられている上、被告側が最終的な勝利を勝ち取る決定打になるのが、或いは少なくとも決定打になるようにオーディエンスには見えざるを得ないのがBが真であることを示す証拠なのです(ローラのパンティがクウィルの住む部屋の近くの洗濯物シュートの中で見つかり、それを見つけたのが実はクウィルの娘であったということで、裁判は劇的なクライマックスを迎えます)。従ってこの映画を見終わると、どうも釈然としない点が残ってしまうのですね。これは、詳細に検討してみると単なる印象ではなく、実は実際にこの作品には、論理性が重要視されるべき法廷という空間が舞台となっていながら、まさに論理における混乱或いは破綻が存在するのを見出すことができるのです。たとえば、それはあるシーンで主人公のビーグラーが滔々と述べる見解に最も明瞭に見出せます。このシーンは冒頭からおよそ1時間30分経過したあたりのシーンであり、ローラとクウィルの間に「トラブル」があったことを知ってクイルを殺した」とマニオンが告げたと検察側が召喚した刑事が述べるのを聞いた時、ビーグラーは「抗い難い衝動」を無罪の論拠として弁護を行う方針を立てているにも関わらずローラとクウィルの「トラブル」とは具体的には何であったかを執拗に追求しようとするするので、検察側は異議を唱えそれに対してビーグラーが反論します。答弁の内容は以下の通りです。尚、「或る殺人」は国内で買ったDVDを持っているので、日本語字幕を書き写しました。

検察側弁護士:「”一時的錯乱”の立証が弁護側の主旨、”錯乱”の理由が本件に重要なら、それこそ精神分析医たる当証人の出番でしょう。<ここで精神分析医を紹介する>弁護側は扇情的な話題により問題の本質をぼかす腹づもりです」

ビーグラー:「陪審が各証言を正確に判断するためには、まず中尉がなぜクウィルを撃ったのか知るべきです。しかし検察は、動機と行為を分けたがる。リンゴを傷つけずに芯だけ抜こうというのです。弁護の芯は、被告人の錯乱の原因がクウィルの”迷惑”だという事実。裁判長どうかお願いです、リンゴに切り込ませて下さい」

ビーグラーの発言にある「クウィルの”迷惑”」とはやや分かりにくい訳になっていますが、これは「the so-called trouble with Quill」の訳で要するに検察側証人が口にしたローラとクウィルの「トラブル」のことを指します。ビーグラーは、この発言で何を主張しようとしているのでしょうか。それは一言で云えば、ある行為が行われる背景には必ずそれに対応する動機が存在するはずであるという主張であり、事件の背後に因果関係を見出すことの要請です。しかしながら至極当前に見えるこの主張も、実は「或る殺人」によって描かれるマニオンの裁判という文脈の中に置かれると矛盾しているのですね。ここで良く考えてみましょう。「被告人の錯乱の原因がクウィルの”迷惑”だという事実」という因果関係が仮に立証されたとして、ではそれはマニオンの裁判という文脈の中では一体何が証明されたことになるのでしょうか。Nothingです。そもそもビーグラーがまず何をさしおいても立証しなければならないのは、「被告は一時的錯乱状態にあった」という事実であり、それが証明されない限りは「被告の一時的錯乱は、検察側のいうクウィルとのトラブルが引き金となって引き起こされた」などと因果関係の存在を主張してみたところで何の意味もないはずです。従って、検察側の方が客観的な判断を下し、弁護側が自ら自分達の論理展開から足を踏み外すのを救っているとさえ見なし得るのですね。言い方を変えると、ビーグラーは「一時的錯乱」という正常性からの逸脱すなわち動機なき動機或いは動機の不在を論拠に弁護の論陣を張っているにも関わらず、動機が説明されなければ判決は下しようがないという全くの矛盾した主張を行っているのです。このような矛盾は何も、主人公のビーグラーの言説のみに限られるのみではなく、映画全体の流れも同様な大きな矛盾を孕んでいます。というのも、前述したようにあたかもBが真であることを示す証拠が決定打となって被告は最後に「錯乱」による無罪を勝ち取ったようにオーディエンスに思わせざるを得ないプロット展開になっていますが、よくよく考えてみればこれは論理的には明らかにアベコベなのですね。つまりBが真であったならばそれは殺人の動機となる要素が1つ増えたことを意味するだけであり、従って殺人が行われた時被告が「錯乱」状態にあったことを証明することには全くならないどころか、むしろ逆であるすなわち仕返しという明快な動機に基いた殺人である可能性が高いことを示唆すらするはずなのです。「一時的錯乱」や「抗い難い衝動」※とは、検察側が召喚した精神科医も指摘しているようにある特定の資質を持った人間が戦争中などのある特定の状況に置かれた時に発症するような性質のものであり、決して単なる激怒が昂じただけでそのような状況に陥るのではないのです。英語で「mad」には、「気が狂った(精神が錯乱した)」という意味と「怒り狂った」という実体的には全く異なる2つの意味がありますが、「錯乱(insanity)」は前者の語義に対してのみほぼイコールであると見なし得るにも関わらず、この作品ではあたかも後者が立証されば前者も立証されるだろうという語義の混同による誤謬推理が含まれていると言えるかもしれません。そのように考えてみると、むしろBが真でないことが立証された方が、動機なき殺人であったという意味において「錯乱」の論拠としてはより有効になるはずであろうとすら考えられることが分かります。ここでこれまでの議論をまとめると、判例により@が無罪であると確定している以上、「被告は一時的錯乱状態にあった」という事実が証明されれば、他の因果関係をわざわざ持ち出す必要は全くないはずであり、否むしろそれ以外の動機をわざわざ持ち出すことは「一時的錯乱」や「抗い難い衝動」という動機なき動機を論拠とする弁護側にとっては有利になるどころか不利にさえなります。確かに、ビーグラーは今は持っていない決定的な証拠あるいは証言を握るまで、わざと戦略的にポイントをボカして審議を長引かそうとしていると解釈することは可能でしょう。しかし、前述したように実際にその決定的な証拠として最終的に現れるのがBに関する証拠であるというプロット展開を考えれば、たとえ煙幕を張って審議を長引かせるのがビーグラーの戦略であったと仮定しても映画全体が論理的に破綻しているのではないかという非難を免れることは極めて困難でしょう。

※ここでは「一時的錯乱」と「抗い難い衝動」は、等価であるように併置しましたが、映画の中では区分されているように見えます。というのも弁護側が召喚したスミス医師が、ダンサーの証人喚問に答えて自分は被告が精神的に錯乱(insane)していたと主張したのではなく、たとえその時善悪の区別がついたとしても殺人を犯してしまうような抗い難い衝動に駆られていたのだと主張したと述べているからです。ところが、このスミス医師の言は被告を無罪にする重要な証言であるはずにも関わらず、実際に被告が陪審により無罪になるのはスミス医師がそのように主張したのではないとまさに断言している「錯乱(insanity)」によってです。単に陪審員が判決を言い渡すセリフに関してスクリプト上で「irregistible impulse」とするべきところを「insanity」と書き間違えたということかもしれませんが、これもこの映画の混乱した論理を示す証拠であると見なされても文句は言えないでしょうね。

 さてここまでは、この作品のいわば問題点をあげつらったことになりますが、次に考えねばならないのは何故そうなってしまったかについてです。結論を先取りすると、私見では実はこの作品はそれまでにはなかった全く新しい要素をこのジャンルの映画に導入しようとして、過去のしがらみに足を掬われたからこのような中途半端な結果になってしまったとも考えられるように思われます。では、そのそれまでにはなかった全く新しい要素とは一体何なのでしょうか。それは、これまで述べてきた通り「動機なき動機」すなわち因果関係の破壊をストーリーのメインのポイントとして据えようとしたことです。たとえば、19世紀以降流行を見るようになったミステリーという分野に「動機なき動機」を持ち込んでしまえば、それは最早ミステリーではなくなってしまうのですね。つまり、犯人には動機がなく、「抗い難い衝動」に突如襲われて殺人を犯したというのであれば、全くミステリーは成立しないということです。しかしながら後述するように、20世紀も後半になってくると事情も徐々に変化し始めます。この点に関して、映画界において最も先駆的であったのは、またもやかのヒチコックさんであったと考えられます。たとえば、「ロープ」(1948)は動機なき動機というか動機なき殺人が可能であるかを試すという動機が扱われていましたし、「サイコ」(1960)では精神異常者が犯人でした。但し「サイコ」は、精神分析的な説明が最後に無理矢理導入されていて、これは明らかに何らかの因果関係を設定して犯人の動機を確保しようとする先祖返り的傾向が顕現した結果だと見なせるかもしれません。その意味で、明らかにノーマン・ベイツは、ハンニバル・レクターではないのです。また、ミステリーではありませんが「」(1963)における鳥達は動機無くして人を襲います。「鳥」はミステリーではありませんと書きましたが、実はこれにも曖昧な面があります。というのも、この作品を何故鳥が人間を襲うのだろうかというミステリー的観点から見て、結局最後までその回答が得られないのでフラストレーションをためて七転八倒するオーディエンスも実際には少なくはないはずだからです。かく言う私めも昔はそのような印象を持っていました。オットー・プレミンジャーも、ヒチコック同様「或る殺人」という法廷映画にまさしく「動機なき動機」を取り入れようとしたのであり、実際それがプロットの骨子をなしています。ところが、やはり彼も「サイコ」におけるヒチコック同様後ろ髪をひかれてしまったのですね。それがまさにBに関するプロットの混在として現れているように思われます。つまり、19世紀までは必須であると見なされていた因果関係によるストーリー(ナラティブ)の展開というイメージがプレミンジャー(勿論原作者やプレミンジャーのスタッフも含めてですが)の頭から完全に消えてなくなることがなかったが故に、このような混乱が見られるのではないかということです。或る意味で、因果関係をことごとくぶった切って被告の無罪を主張する「十二人の怒れる男」のような作品は、因果関係を重視する19世紀的発想からすればなかなか生まれてこないのではないのではないかと個人的に勝手に思っていますが、「十二人の怒れる男」を監督したシドニー・ルメットが当時は全く新しい監督さんであったのに対し、旧大陸出身のオットー・プレミンジャーは「或る殺人」を監督した頃は既に押しも押されもしない巨匠だったのであり、ストーリー展開に対する見方は少なくともシドニー・ルメット程斬新ではなかったのかもしれません。しかも、「十二人の怒れる男」の場合には、一旦結ばれていたものがほどかれるというマイナスの意味において依然として因果関係がそこには存在していたと見なせるのに対し、「或る殺人」は因果関係そのものを全く等閑視しようとした点では更に斬新であろうとしたと考えられるかもしれません。何せプレミンジャーという御仁は、「月蒼くして」(1953)でマギー・マクナマラに「virgin」と言わせて物議を醸したり(現在ではそれだけで物議を醸すとはとても考えられませんが)、「黄金の腕」(1955)でヤク中を扱ったりと何らかの新奇性を注入しようと苦心していたようなので。ところがどうもプレミンジャーには旧と新との間でふらふら行きつ戻りつする傾向があったようなのです。たとえば、「黄金の腕」はヤク中という新しいテーマを扱いながら、画面イメージは旧態依然とした古臭いものです。しかも彼は前年に「帰らざる河」(1954)というワイドスクリーン総天然色カラー作品で見事に西部の風景を捉えていたにもかかわらずです。また1950年代後半に入るとほとんど一作ごとにカラー映画を撮ったり白黒映画を撮ったりしていて、あっちへフラフラこっちへフラフラしているような印象をどうしても受けざるを得ないのですね。そのようなどっちつかずの矛盾を孕んだ傾向が「或る殺人」という一作品の中だけでも見られ、折角斬新な要素を導入したにも関わらず結局それを貫徹し切れずに混乱や論理の破綻を招来する結果に繋がったものと考えられます。上記答弁の中でビーグラーは動機と行為を分離しようとする検察を非難する弁を述べていますが、動機と行為を分離するからこそ即ち行為のみに注目するからこそ「十二人の怒れる男」のヘンリー・フォンダ演ずる陪審員は、被告を無罪にすることができたのです。反対に出自や環境などを持ち出すことにより、行為と動機の間に強引に因果関係を引っ張ろうとしたリー・J・コッブ演ずる陪審員やエド・ベグリー演ずる陪審員は最後にヘンリー・フォンダ演ずる陪審員に完膚なきまでに打ち負かされるのです。「十二人の怒れる男」は他にも色々な面で凄さが際立つ作品ですが、このような点でも全く新しい要素をもたらすことに成功したと考えることができるのに対し、「或る殺人」はその点で空回りしたという印象があるのは否めないところでしょう。ここで1つ付け加えておく必要があるのは、因果関係を断ち切って証拠不十分であるとしたり「抗い難い衝動」に襲われたと主張したりすることにより被告が無罪になるようなケースは、実際の裁判においてはもしかすると1950年代よりも遥か昔から頻繁にあったのかもしれません。しかしたとえそうであったとしても、それはここでは問題にはならないのですね。何故ならば、実際の裁判プロセスで発生することと、それを伝統的なものの見方に支配されやすい物語的枠組みの中へ持ち込むこととはまったく別の事柄だからです。また同じ物語的枠組みといえども、より高踏的な純文学の世界と、できるだけ多くの大衆を惹き付ける必要がある商業映画の間にも大きな違いがあることは敢えて指摘するまでもないでしょう。前述の通り、純文学の世界では20世紀初頭には既にカフカのような作家が出現したのに対して、商業映画に関して言えば現在でも因果律を全く無視した不条理な作品を製作すれば客の入りはほとんど期待できないのではないでしょうか。そのようにつらつらと考えてみると、ガキンチョ向けお笑い番組で「烏なぜ鳴くの、烏の勝手でしょ」と歌って、因果律を執拗に追うことが場合によってはいかに無益であるかを見事に喝破し、ヒチコックの「鳥」を見て何故鳥達が人間を襲うのか最後まで理解できず七転八倒する俗物どもを涼しい顔をして嘲笑った志村けんは、本人が意識していたか否かはともかくとして、恐ろしいほどにモダン(いや或いはポストモダンと言うべきか)な哲学者であったことに気が付くことができます。また、因果律を最大限に利用するミステリーの本質を徹底的に茶化した作品として、私めが三度のメシよりも好きな「名探偵登場」(1976)が挙げられることを付け加えておきましょう。

 実を云えば、因果関係における捉え方の変遷に関しては、何も私めが勝手にでっち上げたというわけではなく、実は映画ではなく文学でそれを論じたネタ本があります。それは、スティーヴン・カーンという人が書いた「A Cultural History of Causality」(Princeton University Press)という本です。現在まだ邦訳は出ていないようですが、カーンの他の著書は既に何冊か邦訳されているので、その内この本の邦訳も出ることでしょう。ここであまり細かくこの本について解説しても仕方がないので、このレビューに関連して、シャーロック・ホームズのミステリーについて言及したフレーズを1つだけ挙げておくことにします。

◎シャーロック・ホームズは、「自然」の秩序に関する「客観的な」証拠と「合理的な」思考に基く「科学的な」因果関係による説明が当然とされ、そのような概念が疑問に思われることが少なかった失われた時代の忘れ形見である。現代では、ホームズは因果関係による説明に過剰な信頼を置いていた時代を象徴する存在になった。
(Sherlock Holms are mementos of a lost era that expected "scientific" causal explanation based on "objective" evidence and "rational" thinking about a "natural" order and was less inclined to question those concepts. In the modern period, Holms came to symbolize an age that was overly confident about its causal explanation.)


「現代では(In the modern period)」が一体正確にはどの時代までを指すかは議論のあるところでしょうが、文学の世界を取り上げてみれば1950年代は明らかにその範囲に入るはずです。というのも、20世紀初頭には既にカフカのような不条理文学が登場していたからであり、サルトルやカミュなどが全盛を迎えていたからです。まさに不条理文学とは因果関係の鎖を断ち切る文学だったのですね。では映画においてはどうなのかというと、やや判定は難しいかもしれません。ただ、1950年代が転換期にあったことは十分に考えられ、作家でもあったアラン・ロブ−グリエのような人が映画界に登場するのが1960年代初頭であり、前述した「鳥」のような或る意味で不条理性を秘めた作品がエンターテインメント作品として登場するのも1960年代前半です。いずれにせよ、カーンの用語によれば因果関係の鎖が、「特殊性(specificity)」->「多様性(multiplicity)」->「複雑性(complexity)」->「蓋然性(probability)」->「不確定性(uncertainty)」の順に変遷してきたのがこれまでの歴史の流れであり、「或る殺人」においては最後の「不確定性」がテーマとして挙げられながら、結局矢印を逆方向に引っ張る引力に抗し切れなかったと考えることができます。因みに「十二人の怒れる男」の場合には因果関連の存在そのものがなし崩しにされているわけではなく「蓋然性」のレベルに留まっているので(たとえば、証拠物件として提出された飛び出しナイフは被告が買ったものであって被告の犯行を示すかもしれないし、よく調査すればあちこちで売っているので赤の他人が買ったものであって被告の犯行を示すわけではないかもしれない、故に疑わしきは罰せずの原則により飛び出しナイフを殺人の証拠物件にはできない)、決定的な破綻からは免れているという見方もできるかもしれません。要するに「或る殺人」は時代的にもやや勇み足を踏みすぎて論理的破綻を来たしてしまったと考えられるかもしれません。とここまで書いて、これでは新規性にチャレンジしたという以外は全てマイナス面をあげつらってしまう結果になったことに気が付きました。この作品の名誉の為に付け加えておくと(個人的な評価は★★☆なのでなんのかんのと言いつつもかなり好きな映画の1つです)、裁判シーンの丁々発止のやり取りは、ジェームズ・スチュワートのwisecrack(ユーモア溢れる気にきいたセリフ)と相俟って聞いていても非常に楽しいものがあります。裁判長が「パンティ」という言葉に一くさり述べるシーンはやはり可笑しいですね。リー・レミックのモラル的な曖昧さを含んだ存在は(画像中央参照)、今まで述べたことからも非常に重要な意味を持っています。というのも、ここにも因果関係を容易には成立させないような要素を見出すことができるからです。それだけに、最後に彼女の履いていたパンティが見つかり法廷に提出されることが、あたかも判定に対する決定的な証拠であるように見えてしまうわけですが(よく考えてみれば全くそうではないことはこれまで説明した通りです)。また、ジェームズ・スチュワートとアーサー・オコンネルが塩を振ってゆで卵を食べるシーン(画像左参照)を見るといつも、ゆで卵が矢鱈に食べたくなるのは私めだけでしょうか。

2008/05/29 by Hiroshi Iruma
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