翼よ!あれが巴里の灯だ ★★★
(The Spirit of St. Louis)

1957 US
監督:ビリー・ワイルダー
出演:ジェームズ・スチュワート、マレー・ハミルトン、パトリシア・スミス、マーク・コネリー

上:「翼よ!あれが巴里の灯だ」などという超キザなセリフは決して吐かなかった
チャールズ・リンドバーグを演ずるジェームズ・スチュワート

前回ビリー・ワイルダーの作品「地獄の英雄」(1951)をレビューしましたので、引き続き1950年代のワイルダーの作品を取り上げましょう。ワイルダーは、1957年にこの「翼よ!あれが巴里の灯だ」と「昼下りの情事」の2本を監督していますが、実はこの2本には似たような傾向があります。それは、私めがガキンチョの頃すなわち1970年代頃には、この2本は名作映画ガイドなどでしばしば取り上げられる程ポピュラーな作品であったにも関わらず、21世紀になった今日では、同じ1950年代に製作された他のワイルダー作品に比べるとやや人気が下降したように思われることです。「昼下りの情事」の方に関しては、日本では絶大な人気を現在でも誇るオードリー・ヘプバーンが主演していることもあってか取り敢えず国内でも既にDVDが発売されていますが、「翼よ!あれが巴里の灯だ」についてはDVDはおろかVHS等の旧メディアでも遥か昔に販売されて以来新しい動きがなく、現在ではほとんど見ることが困難になっているような状況にあります。「昼下りの情事」に関して述べるのは別の機会に譲るとして、「翼よ!あれが巴里の灯だ」は、個人的な印象では、ノワール作品から出発したワイルダーとしては、リアリズムと云えばさすがに言い過ぎになりますが、ノワール的な表現主義傾向よりも写実主義傾向が色濃く見られる作品であり、従ってあまりワイルダーの作品らしくないようにも見えるところがあります。「地獄の英雄」のレビューでも述べましたが、ワイルダーの作品には、たとえ題材としてはコメディを扱っていても、表現スタイルにおいては彼の出発点であったノワール的或いは表現主義的な傾向を色濃く残しているのが普通でした。内容的にはほとんどスラップスティックとも云える「お熱いのがお好き」(1959)ですら、ビジュアル表現においては「深夜の告白」(1944)に似た雰囲気がふんぷんと漂っています。ノワールが終局を迎える1960年代においてもそれは同様であり、たとえばカラー作品の「あなただけ今晩は」(1963)のような作品にすら当て嵌まります。面白いのは、「翼よ!あれが巴里の灯だ」の後、ワイルダーは1970年代になるまで前述の「あなただけ今晩は」を除くと全て白黒で撮影しています。1950年代後半には、スタジオシステム崩壊に由来する資金難からアメリカ映画全般において白黒映画の比率が再び高くなっていたことは事実ですが、それにしてもカラー作品が普通になった1960年代になってもほとんどの作品を白黒で撮影していたのには何らかの理由があったに違いありません。つまり、彼の作品は本質的にビジュアル面において光と影のコントラストを重視する表現主義的傾向を有していたので、白黒作品の方がふさわしいという判断があったからではないかと考えられます。さすがに1970年代に入ると、コミックな要素があるとは云え基本的にはミステリーアドベンチャー作品である「シャーロック・ホームズの冒険」(1970)ではさすがに表現主義的傾向はやや後退したかに見えましたが、リメイク作品であるせいもあるかもしれませんが純粋なコメディに近いはずの「フロント・ページ」(1974)では、またぞろ1960年代以前の傾向が復活します。そのような彼のフィルモグラフィーの中にあって、丁度彼の経歴の中間地点で製作された「翼よ!あれが巴里の灯だ」は、恐ろしくリアリスティックで現代的な画面イメージを有しています。それは、アメリカ映画に疎い人に「翼よ!あれが巴里の灯だ」と「フロント・ページ」を見せて、どちらが1950年代に製作された作品でどちらが1970年代の作品かと問えば、恐らく10人に9人は本来と逆の回答をするのではないかと思われる程です。このような、「らしくない」ところが「翼よ!あれが巴里の灯だ」の人気の下降原因であると云えばさすがにそれは云い過ぎかもしれませんが、しかし確かにこの作品には他のワイルダー作品とは異なり現代のテクノロジーでリメイクすれば更に見栄えがする作品になるのではないかと思わせるような側面があることも確かです。さて内容についてですが、敢えて説明するまでもなく、この作品では小学校の図書館に鎮座する伝記シリーズの中ではヘレン・ケラーと並んで人気がある(と個人的には思っています)大西洋横断単独無着陸初飛行を成功させたチャールズ・リンドバーグの偉業を描いた作品です。リンドバーグというと恐ろしく過去の人のようにも思えますが、この作品が製作された当時はおろか私めが中学生になる頃まではまだ生きておられた人であり、伝記と云ってもむしろコンテンポラリーに近い人物でした。しかも、彼の名前は、この作品で描かれている有名な偉業を達成した英雄としてのみではなく、息子が誘拐殺害され、それを契機として成立した所謂リンドバーグ法によってもその名が知られており、英雄が一転して悲劇の主人公にもなりました。しかしふと不思議に思うのは、何故彼の名前がこれ程までに有名になったのかということです。たとえば大西洋横断単独無着陸初飛行の英雄がいるならば、太平洋横断単独無着陸初飛行の英雄がいても不思議ではなさそうなのに、そういう人物も当然いたはずにも関わらずそのような話は全く聞きません。「二番煎じは駄目よ」ということかもしれませんが、それよりも時代的な背景が大きく影響していたのではないかという気もします。というのも彼が偉業を成し遂げたのは1920年代でしたが、1890年代に合衆国内におけるフロンティアの消滅が宣言されてから、第一次世界大戦、禁酒法時代を経て人々の心の中にはアドベンチャラスな冒険の成就を目指す英雄願望が生まれていたのではないかということです。しかもリンドバーグは、この作品の前半からも分るように偉業を達成するまでは一介のパイロットであったに過ぎず、英雄は英雄でもシーザーやナポレオンのような別世界の人間ではなく一般庶民の一人であったのです。つまり、どこにでもいる一介の市民が英雄になるというまさに究極のアメリカン・ドリームを実現したのがリンドバーグであったのであり、人々はそこに一種の代理体験を見出したのかもしれません。従って、もしリンドバーグではなくどこかのヨーロッパの貴族(この作品を見ても分るように、直前にフランス人を含め何人かが大西洋横断飛行に挑戦していずれも失敗に終わっています)が偉業を達成していたならば、映画になることもなければ、高校の歴史の教科書の1ページに小さく記述はされても小学校の人気伝記図書の主人公として取り上げられるようなことにも決してならなかったのではないでしょうか。その意味では、高貴なイメージや或いはスーパーマン的イメージを与える俳優さん、たとえば古いところではゲーリー・クーパーやジョン・ウエイン、新しいところではグレゴリー・ペックやチャールトン・ヘストンなどのスターではなく、庶民的なイメージを常に持ちオーディエンスが容易に感情移入できるジェームズ・スチュワートをそのようなリンドバーグ役に据えたことは大正解であったと云えるでしょう。そのようなわけで、この作品を見ていると、リンドバーグという一人の英雄が孤高の気高く貴族的な存在、或いは自身の携帯する辞書の中に不可能という文字が書かれていないような超人的な存在であったというような印象を与えることが全くなく、「一人の庶民が思い切り頑張って一大偉業を成し遂げました」、すなわち「あなたもやれば出来る」というようなメッセージを容易に読み取ることができるのであり、いかにもフロンティア時代に憧憬を抱くアメリカというような印象を与えます。その点において、アメリカン・ドリームが単純に信じられなくなった現代のオーディエンスのシニカルな目から見るとあまりにも楽観的すぎるように見えるのがこの作品の人気下降のまた1つの原因かもしれませんが、リンドバーグという一人の英雄の存在が当時(これは実際に偉業が達成された1920年代と同時にこの作品が製作された1950年代をも意味します)有していた意味合いがどのあたりにあったかが透けて見えるような作品であることには間違いがありません。ところで話は変わりますが、ドルー・キャスパー氏は彼の近著「Postwar Hollywood 1946-1962」の中で、この作品に関して「135分の大部分がコックピットの中で費やされる」と述べていますが、これは明らかに彼の記憶違いであり、そもそもこの作品の丁度半分にあたる前半部ではどのようないきさつによりリンドバーグが大西洋横断飛行にチャレンジするに至ったかが描かれています。しかも愛機に搭乗してニューヨークを飛び立った後半に入っても過去のフラッシュバックシーンがしばしば挿入されるので、狭苦しいコックピット内のシーンが長時間に渡って続くわけではありません。後半のこのフラッシュバックシーンは一見すると不要にも見えますが、時間の経過を表現するには不可欠であることは敢えて述べるまでもないでしょう。「え!何故?」と思われる場合には、このような映画における時間経過を表現する一種のモンタージュ技法に関して「ドクトル・ジバゴ」(1965)のレビューで少し触れましたのでそちらを参照して下さい(或いは映画における時間イメージに関しては、かのジル・ドゥルーズのよく知られた「シネマ2 時間イメージ」(法政大学出版局)がありますが、さすがにこの20世紀最大の哲学者の一人である彼の著書を読むのは、筒井康隆流に云えば骨がバキバキ音をたてながら折れ、涙が必ずやチョチョ切れそうになるので誰にでも薦められるシロモノではありません)。まあ、いずれにせよ狭いコックピット内のシーンをいつまでも撮り続けるわけにはいかないでしょうね。実は子供の頃、この作品はまさにそのようなコックピット内の退屈なシーンが続く映画なのではないかと思い違いをしていて、「つまんなそう」と勝手に想像していましたが、決してそのようなことはありません。キャスパー氏の記述は、まだこの作品を見たことのない人に、私めの子供時代同様の無用な誤解を招く恐れがあり、いけませんね。最後にトリビア的な事項を付加しておくと、邦題にもなっている「翼よ!あれが巴里の灯だ」という有名なセリフは、この作品の中で発せられることもありませんし、実際本人によって発せられたわけでもないようです。そもそも、まるでシェークスピア劇か何かのように一人コクピットの中でそのような超キザなセリフを吐いたとしたならば間違いなく精神病院送りになってしまうでしょう。ガリレオの「それでも地球は廻っている」と同様、偉人伝につきものの脚色というところでしょうか(因みにガリレオの場合には絶対にそのように言わなかったという証拠もないようですが)。ということでいずれにしても、表現主義的傾向を色濃く有するワイルダー作品にしては極めて珍しいコックピットからのリアリスティックな遠望風景など素晴らしい画像をふんだんに見ることもでき、「地獄の英雄」ともどもDVDバージョンの発売によりもう一度見直されて然るべき作品の1つだと云えるでしょう。


2007/11/30 by Hiroshi Iruma
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