ピクニック ★☆☆
(Picnic)

1956 US
監督:ジョシュア・ローガン
出演:ウイリアム・ホールデン、キム・ノバク、クリフ・ロバートソン、ロザリンド・ラッセル

左:ウイリアム・ホールデン、右:キム・ノバク

 正直に言えば、いくつもの部門でオスカーにノミネートされ、その内のいくつかを受賞したこのポピュラーな映画が、単純に見て面白い映画であると思ったことは一度もない。また有名なウイリアム・ホールデンとキム・ノバクのダンスシーンにもそれ程大きな感銘を受けたことがない。それでは何故わざわざここに取り上げたかと言うと、単にポピュラーなタイトルであるからという理由によってのみではなく、小共同体に関するミクロな描写が極めて特徴的な作品だからでもある。実を言えば、この作品が扱う小共同体的なシーンが映画のテーマとしてまともに取り上げられるのは1950年代までであり、1960年代以後はほとんど皆無になる。また1980年代に入るとロバート・レッドフォードが監督した「普通の人々」(1980)が製作された頃から、映画が扱うドラマとは、その舞台が広くとも核家族的な範囲にほとんど限定され、文学で言えば私小説的な色合いが極めて濃くなり、その傾向は21世紀に突入した現在でも変わっていない。そのような流れを考えて見ると、「ピクニック」という映画は、同時期に製作された「青春物語」(1957)などと共に、小共同体的な単位に主眼が置かれる1950年代映画の特色が最も顕著に現れている作品の1つであると見なし得る。何しろ町を挙げてのピクニックを軸としてたった2日間の出来事が描かれているだけの作品であり、確かにフォアグラウンドとしてウイリアム・ホールデンとキム・ノバクのラブストーリーが描かれていると言えないこともないが、この作品はむしろフォアグラウンドよりもストーリー進行の舞台である地方の小共同体というバックグラウンドに、より大きな力点が置かれていると捉えるべきだろう。「ピクニック」をラブストーリーとして見た場合、どうしても説得力のなさが感じられるとすれば、描かれている期間がたった2日間であるということもそれには関係しているだろう。要するに、地方のそれ自体で充足した小さな共同体で育てられた箱入り娘が、他所からやって来た放浪者と、出会ってからたった2日間で駆け落ち同然に町を出て行くことが正当化されるとするならば、余程の説得力を持ってストーリーが語られなければならないはずだが、この点に関しては少なくとも小生にはとても十分であるようには思えない。そもそもタイトルが「ピクニック」であるということ自体、この映画が単なるラブストーリーではないことを物語っている。

 そのような点を考慮しても「ピクニック」は共同体的な側面が強調された映画であると見なされるべきだということが分かるが、構造的な面においてもそのことが明瞭に反映されており、この映画では町を挙げてのピクニックシーンを頂点として、それより前では小さな町の共同体によってウイリアム・ホールデン演ずる放浪者が歓迎される様子が描かれ、またそれより後ではその同じ共同体が彼を排除しようとする様子が描かれている。小さな地方の共同体がたとえ見かけは歓迎したとしても本質的には他所者を排除し、また逆に共同体の構成員すなわち身内の人間や或いはそれに関わる情報が外に向かって出て行くことを阻止しようとする様子は、「青春物語」及びその続編である「青春の旅情」(1961)でも説得的に描かれているが、この2本の映画はその点に関しては「ピクニック」と非常に似ている。但し、「青春物語」では数年単位というかなり長い期間が対象とされているのに対し、「ピクニック」では描かれるスパンがたった2日間だけに限定されていることは前述の通りである。同様にその結果として「ピクニック」が扱う空間的範囲もキム・ノバク一家とクリフ・ロバートソン一家の2家族に絞られ、また町を挙げてのピクニックという1つの具体的なイベントに重きが置かれていることからも分かるように、抽象性よりも具体性が強調されるような構成が取られている。一言で言えば「青春物語」が、小さな共同体の閉鎖性を、村人全員が参加する裁判シーンをクライマックスとしてかなり抽象的且つマクロ的視点を交えて描いた作品であったとするならば、「ピクニック」は専らより具体的且つミクロ的視点から小さな共同体の生活シーンを綴った作品であると言えるだろう。

 そのような構造的特質を有するこの作品では、描かれる対象期間が2日間に限定されていることもあり、ウイリアム・ホールデン演ずる浮浪者を歓迎する前半から彼を排除する後半へと急転直下する転回点となる瞬間が非常に重要な意味を持つことになるが、この瞬間は前半のハイライトとなるダンスシーンの直後にやって来る。そのシーンとは、ロザリンド・ラッセル演ずるオールドミスが酔っ払ってホールデンを罵倒するシーンであり、彼女の毒舌を通してベクトルが正から負へと反転する様子が見事に表現されている。恐らく彼女の存在がなければこの映画は成立しなかったのではなかろうか。勿論、親友のフィアンセを主人公が奪ってしまったという事実のみによってもこの転回点とすることは論理的には可能かもしれないが、それだけではこの作品は単なる愛憎劇に終ってしまったはずである。小さな町の共同体の代弁者としてロザリンド・ラッセルの毒舌を配したという点が実に巧みであり、また極めて1950年代的でもある。またそのようなドラマティックなシーンは別としても、「ピクニック」には町を挙げてのピクニックシーンを始めとして当時の地方共同体生活の機微が窺える細かな描写が散りばめられており、たとえばロザリンド・ラッセル演ずるオールドミスが間借りしてキム・ノバク一家と一緒に暮らしている様子などは今日から見れば奇異に見える程であるが、これも当時の地方共同体生活のありふれた光景の1つであったのだろう。付け加えておくと、くだんのピクニックシーンにはバルビゾン派の絵画を思わせるような素晴らしいビジュアルシーンがあり(キム・ノバクがブランコに乗り、その後ろにウイリアム・ホールデンが立っているシーン)、それだけでも見るに値する。


※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。


2004/10/09 by 雷小僧
(2008/10/09 revised by Hiroshi Iruma)
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