七年目の浮気 ★★★
(The Seven Year Itch)

1955 US
監督:ビリー・ワイルダー
出演:トム・イーウェル、マリリン・モンロー、ロバート・ストラウス、オスカー・ホモルカ



<一口プロット解説>
ある夏の暑い日、トム・イーウェル演ずるサラリーマンは、妻子を田舎に遊びに行かせるが、アパートの上階にマリリン・モンロー演ずるカワイコちゃんが住んでいることを知り、様々な妄想を思い浮かべ始める。
<入間洋のコメント>
 勿論、映画ファンで知らない人はいないであろうこのビリー・ワイルダーの傑作コメディは地下鉄の排気口の上でのマリリン・モンローのスカートハラリシーンで有名だが、実を言えばモンローの存在以上にトム・イーウェルの一人芝居的要素が濃い映画でもある。従って、この映画はマリリン・モンローに比べると当時でも今でも知名度が遥かに低いトム・イーウェルに作品としての出来不出来の如何が大きく依存しているが、幸いなことにそのトム・イーウェルが完璧に作品内容にマッチしており、結果的には彼の起用は大成功であったように思われる。この映画はニューヨークが舞台になっており、瀟洒な都会的センスを持つ俳優でなければ主人公は務まらないことは言うまでもないが、それと同時にトム・イーウェルが演じている主人公リチャードは自分では女性にもてるという妄想を始終抱いていながら、奥さんが子供と避暑地に休暇に出ると彼女が浮気をしているのではないかという妄想に取り憑かれ、居ても立ってもいられなくなる平凡なサラリーマンであり、このような役に都会的センスがあるということでカリスマ性のある俳優、たとえばケーリー・グラントやロック・ハドソンを配してしまえば主人公のキャラクターには全くそぐわなかったはずである。トム・イーウェルという俳優は、この辺の匙加減が絶妙で、都会的な瀟洒さを持ってはいてもカリスマ性があるというタイプではなく、この作品の主人公にはけだし最適である。

 このようにトム・イーウェルが真の主人公であるとは言え、勿論この映画の目玉は何と言っても主人公リチャードが居を構える部屋の上階に住む気の良いブロンド娘を演ずるマリリン・モンローであることは言うまでもないが、この映画では、彼女の持つクオリティが最大限に活かされていることに疑問の余地はない。実を言えば彼女の出演作で個人的に最も好きな作品は、この「七年目の浮気」と、これぞ究極のミスマッチとも言えるローレンス・オリビエと共演した「王子と踊子」(1957)である。何故かと言うと、この2作では彼女の持つおおらかな天然の気性の良さがうまく活かされているからである。実生活上では気が良いどころではなかったというような逸話もあるが、少なくともスクリーン上での彼女の特質はこの天然の気性の良さを感じさせるところであると個人的には考えている。「七年目の浮気」でドリーム・カム・トウルーと言わんばかりに主人公リチャードの前に出現する彼女は、ただでさえ妄想癖のある彼にとって夢の中の天使のような存在でなければならないが、ここでのモンローはその役に一部の隙もなくフィットしている。また、詳細は後述するが、この作品において典型的に見出せるモンローの持つ天性のおおらかな気質は、当時のおおらかな都会生活の1つの象徴でもあったと捉えることが可能である。

 また、このような配役の絶妙さを別にすると、この映画の素晴らしさは次のような点にあると考えられる。すなわち、ニューヨークという大都会が舞台となるこの作品は、コメディを通じて当時ののどかでおおらかな大都会の生活様式が手に取るように伝わってくるところである。この点をより明瞭にする為に、同じくニューヨークが舞台になっている1970年代の映画との簡単な比較を行ってみよう。前提として述べておきたいことは、「七年目の浮気」を見ても分かるように1950年代当時は大都会に対する人々の希望がまだ幻滅に変わっていなかったのに対し、1960年代を経て1970年代に入ると大都会はもはや希望の象徴どころではなく諸悪の根源であると見なされるようになることである。因みに、1950年代の大都会に対する人々の希望が、ものの見事に捉えられた作品として俳優リチャード・ベンジャミンの監督第一作「My Favorite Year」(1981)を推薦出来るが、日本劇場未公開であることと1980年代に製作された映画なのでここでは名前を挙げるに留めておく。さて、ここで比較の対象として取り上げる1970年代の映画とは、ニール・サイモンもの映画の中では「おかしな二人」(1968)と共に個人的に最も好きな作品であるが、ジャック・レモン、アン・バンクロフト主演にも関わらず残念ながら日本では劇場未公開の「The Prisoner of Second Avenue」(1975)である。この作品では、ニューヨークは二番街に住む夫婦が、失業、空き巣、隣人とのゴタゴタ等、大都会のマンション生活におけるありとあらゆるトラブルの洗礼を受ける様子が描かれており、基本的にはコメディでありながら必ずしも笑ってばかりはいられないようなシリアスさがある。これに対して「七年目の浮気」には確かに蒸し暑い都会の夏を皮肉っぽく描いたり、そもそもタイトルが示すようにそろそろ夫婦生活が倦怠期を迎えようとしている中年のサラリーマンが主人公であったりというような側面はあるが、決して大都会そのものが辛らつな批判の対象になっているわけではなく、むしろその点は実におおらかに扱われている。その一例がモンローのスカートハラリシーンであり、このシーンが示唆することは予想されるような扇情的なエロティシズムなどというたぐいのことでは全くなく、皆がそれぞれの仕方で大都会の生活をエンジョイしているということである。また「七年目の浮気」では、隣人とは懇ろにするものだという印象が手に取るように伝わってくるのに対し、「The Prisoner of Second Avenue」では上階に住んでいる住人がジャック・レモン演ずる主人公の頭に冷水を被せたりするように、隣人は敵であるか良くても没交渉であるかのように描かれている。前者ではアパートの管理人(ロバート・ストラウス)がおせっかいでフレンドリーな人物として登場するのに対し、後者ではマンションの管理人は非難の対象として言及されるのみであり決してスクリーン上に現れることはない。例を挙げればきりがないが、このような細かな生活描写からも、「七年目の浮気」と「The Prisoner of Second Avenue」との間にある都会生活に対する捉え方が180度違うことが見て取れる。

 かくして「七年目の浮気」の大都会生活に対するおおらかな扱いは、精神分析医が幅を利かせる今日ではまず得られないマイルドでほのぼのとしたクオリティを感じさせ、ノスタルジーすら喚起させる。それと同時に、マリリン・モンローという大スターが持っていたクオリティとは、必ずしもセックスアピールのみにあったのではなく、1950年代の大都会の生活に対するバラ色の希望や信頼感とも象徴的且つ不可分に結びついていたのではないかと考えられる。従って、たとえば50年間に渡り活躍したキャサリン・ヘップバーンなどとは違い、モンローは1950年代という背景でこそ最もその魅力を発揮することが出来た女優であり、彼女の場合には特定の時代の象徴的な価値と強く結びついていたという印象が強い。もし彼女が生きていたならば出演していたであろう映画のことをないものねだりして考え、彼女が1960年代初頭に若くして亡くなったのは大きな損失であると見なすならば、それは実情とは違うのではないかと少なくとも個人的には考えている。何故ならば、1960年代の初頭までは良いとして1960年代中盤以降になると彼女が体現するイメージと時代が要請するイメージは大きくズレてしまっていたはずであり、彼女が生きていたとして、またそれ以上に有り得ない仮説として彼女が全く同じ若さを保っていたとしても、彼女が活躍出来たであろう期間はせいぜい長くてその後5年間であったと考えられるからである。不謹慎の謗りを恐れず敢えて言えば、ズバリ女優としては非常に良いタイミングで亡くなったという方がむしろ正解だろう。要するに彼女がいつまでも変わらずに存在したとしても、時代の方が変わってしまうのであり、モンローとほぼ同世代に属するが彼女とは異なり惜しまれる程の若さで亡くなったわけではないオードリー・ヘップバーンの経歴がそれを雄弁に物語っている。

※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。

2000/09/02 by 雷小僧
(2008/10/15 revised by Hiroshi Iruma)
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