悲しみよこんにちは ★☆☆
(Bonjour Tristesse)

1958 US
監督:オットー・プレミンジャー
出演:ジーン・セバーグ、デビッド・ニブン、デボラ・カー、ミレーヌ・ドモンジョ

左から:デビッド・ニブン、ミレーヌ・ドモンジョ、ジーン・セバーグ、デボラ・カー

勿論、フランソワーズ・サガンによる同名小説の映画化ですが、現時点でこの作品を見るといかにも古臭い印象を受けざるを得ません。その原因をつらつらと考えてみると、テーマとして扱われている「アモラルさ」に関して、何がアモラルであると見なされるかを規定する境界線が時代時代に応じて変わるからであろうと考えられます。1958年には小生はまだこの世に存在していなかったので、当時のしかもアメリカのモラル観がいかなるものであったかは知るよしもありませんが、この作品を見ていると逆にそれが透けて見えてくるようにも思われます。いずれにしても、まさに「libertine」と呼ぶべき放蕩親父(デビッド・ニブン)と、そのような親父の影響をモロに被った娘セシル(ジーン・セバーグ)の当時からすると極め付けに大胆奔放な生活は、そのような描写が特別なものでは全くなくなった現代からすると、まさしくそれが主題として突出しているが故に余計に古びて見えるところがあります。つまり、提示されている描写内容と当時の実際のモラル観の差異が、「悲しみよこんにちは」という作品の持つ重要なエッセンスであったとするならば、そのような差異が小さくなればなる程、或いは現代のごとくマイナスにすらなってしまえば、それがアナクロニズムであると捉えられるようになっても仕方がないということです。アナクロニズム(=時代錯誤)という言い方は誤用であるかのような印象を与えるかもしれませんが、ここで言いたいことは、作品が製作された際の時代的なコンテクストを全く無視し、「悲しみよこんにちは」をあたかも現代製作された作品であるかのように見てしまうと時代錯誤に見えない方がおかしいということです。「悲しみよこんにちは」はアメリカ映画であるにも関わらず、舞台はフランスのリビエラ海岸に置かれており、ジーン・セバーグを除くそれ以外のメインキャストのほとんどは、イギリスを含めたヨーロッパ出身者です。しかも、そのジーン・セバーグですら、アメリカ生まれながら、この作品出演後はフランス映画への出演が多く、むしろ現在から見ればヨーロピアンな俳優であったという印象が色濃くあります。イギリス出身のデビッド・ニブンが放蕩親父を演じているのはむしろ当然であり、アメリカ人の目からすれば異邦人であることが歴然と分かる雰囲気を持つ俳優でなければこの役は務まらなかったとも考えられます。そのデビッド・ニブン演ずる放蕩親父が作品中で結婚することになるデボラ・カーもイギリス出身であり、彼女の場合はむしろ当時の一般的な常識を代弁する人物を演じています。そのような彼女が最後には事故死して、放蕩親父が娘のセシルと共に再びニヒルな放蕩生活に戻っていくところでこの作品はジエンドになりますが、このような展開はいかにも作為的であるような感があります。総括すると、「悲しみよこんにちは」は作品内容と当時のモラル観とのギャップによって存在価値が際立つよう故意に意図されていた印象が色濃く存在し、このような作品は時代が経過するにつれモラル観が変遷するに従って見掛けの価値も変わるのが必然であり、現在のようにギャップがマイナスにまで転ずると、時代遅れに見えるのは避けられないということです。但し、それは必ずしも悪い結果を生むばかりではなく、この作品にレトロな魅力を感ずるとすれば、それはまさに時代の流れに従って変化する価値観のズレから生じるとも考えられるのです。レトロとは言わばアナクロニズムの一種であり、この映画を見ていると時代遅れの印象とともにレトロな印象があることも間違いないところで、一種のノスタルジックな魅力が存在することは否定できないところでしょう。


2006/01/22 by 雷小僧
(2008/10/11 revised by Hiroshi Iruma)
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