`07/11/吉日記:

東京マタギ深瀬教室の仲間とのキノコ&蕎麦の会

誰それ


バックグラウンド

 本ページを、今回の『キノコ&蕎麦の会』に来る予定だったけれど、残念ながら来られなかった方々に捧げる。
それから、今回参加したメンバー全員にね。みんなメッチャ楽しく過ごせたとのこと。わたくしめも、会の後のお礼メイルに「楽しかった〜! 美味しかった〜! 天気も良かった〜! 景色も綺麗だった 〜! 温泉のお湯も良かったし、お土産持ち帰りも沢山頂けたし〜っ、、て!!!」と嬉しさ爆発で書いたくらい楽しかった。
 そして其の勢いで、小生がいつもながらの様に其の風景を切り撮って於いたので、みんなの想い出の為のページとして作成してみた。これで二度美味しいでしょ。

 しかしながら、公開されているWebページとして不特定少数の方々も当ページにアクセスされるであろうことを踏まえて、予備知識の無い方々にも興味を持っていただけるような内容構成にしてみた。

 

【楽しさのバックグラウンド】
 何故なら、当サイトは、自立精神、自給自足、半農半X、道具は自分で作る又は調達する、ブームではなく本当の意味での大自然のありがたさやを実感したり、その自然環境の保護意識などなどのテーマに対して、多少なりとも智慧深くなりたいものと考えるサイト管理者の想いを、ちょこちょことあっちこっちのページに散りばめた内容だからだ。同じ方向を向いている方のご参考になればと、本ページにもキノコ採りと蕎麦以外のことも沢山盛り込んでしまった。

 どちらかというと、わたくしめの専門、精神的な側面、意識の在り方とか自立意識みたいな内容に偏っているかも。だって、人は心の向き次第で人生の質が変わるでしょ。今の世の中が粗くなっているのは、心の質が低下しているからであり、受け身的意識、隷属的な心、自分自身に対して自己責任の意識を持たないで、他人のせいや社会のせいにした被害者意識的な人が多いからではないだろうか。自分で解決しようとか、智慧や知識を経験の中から身に付けようとか、智慧深く行動することによって道を開くとか、そんな考え方の人は少数派になってしまい、なんでもお金で解決するとか、権利意識で他人に守って貰おうとか、他人を利用するとかそう言ったことが意識の底に強くある人が多いものね。根底にそんな歪んだ心がある者ほど、無意識の内に自己肯定するもの(自分が正しいと思いたいが故)だから、自分以外の者に対する批判とか要求とか文句が多くなるものだ。そういった心の内に葛藤が多い人間は他人と協調して物事を成し遂げるのにトラブルを起こしがちだし、またミスや事故も多いように見受けられる。

 ところが、そういった一般的な小市民の傾向とは反対に、我々のキノコ採りの仲間は殆どが沢登りをやる沢屋であり、その沢屋(東京マタギ深瀬教室の主だった面々は特に)は自己責任、自立意識、そして助け合いシェアするというような成熟した精神性が高いように思われるんだよね。そもそも沢登りは、決まったルートなんか無い、そしてその渓相は出水などで変化するものである故、いつも自ら道を切り開く要素が高いと言えよう。滝を登攀したり激流を渉ったり、滑りやすい岩壁をへつったり、不安定な泥や草の壁を登下降したり、何時崩れるか解らない雪渓を渡ったり潜ったりしていくわけだ。常に判断が求められる、その状況の中で互いに助けあうことはあるが、構成するメンバーが他者依存で自助努力の意志のない人間では、人の足を引っ張ることは出来ても他人の補助にもならない。逆に危険でさえある。
 ま、此はわたくしめの勝手な勘違いと言うこともあるかも知れないけれど、此の教室のメンバー全員をけっこう好きなんだよね。年に数回しか一緒に行動しないけど、毎回楽しい。そんな世界を個人的な価値観を切り口として、あるキノコ採りと其の後の宴会の風景を切り取り作ったのが此のページである(可成りしつこい内容になってしまってゴメンね)。

 

 深瀬校長:36cmの片手フライパンに、具材を入れて炒め煮した後に、餅米&米を炊いたご飯を入れてかき混ぜる。
 他の沢登り、キノコ採り、山菜採りなどの講習会にも行ったことのある人に聞くと、こんな美味しくて楽しい沢登り講習会は他に無さそうだ。何処も技術講習だからね。深瀬教室は単なる技術のみならず、応用から楽しみ方まで、豊かな精神の下に実体験させてくれる。やっぱり危ない遊びは心の余裕が無いとね。
 でも最近、雑誌でよく目にする渓語り翁の瀬端氏の山菜・キノコ教室も楽しそうだ。瀬端氏も深瀬氏も仲間だからね。何れにしても沢登りや源流を極めた人達なので、リスク管理能力は非常に高いし、博識であり且つ実践的な智慧に満ち溢れているのは当然。

【滝も登れるハイカーに】
 さて、自分も沢登りをやるようになって十年ちょっと。自営業者の癖にろくに仕事もしなくなったので超貧乏になってしまった上、近年になって結婚なんてものをしてしまった故、うっかり怪我もできなくなった。そんなわけで暫く沢登りから遠ざかっていて、精々滝も登れるハイカーという身分に落ちぶれてしまった感がある今日この頃だ。
 それでも源流遡行、源流釣りのオーソリティである東京マタギの深瀬教室とは10年来のお付き合いが続いていて、毎年なんとか顔を出しているのは先に書いたとおり。前は沢登りの遡行教室にもたまに行っていたけれど、最近はお呼びが掛からないのを良いことに、仲間内だけの「裏」キノコ教室ばかりに行っている。そりゃあ〜、なんと言っても、素晴らしく「美味しくて」、めちゃ「楽しい」からだ。

 

【沢で永く楽しむには繊細な感覚を】
 深瀬校長は、険しい渓を詰める源流遡行、山岳渓流ガイドの開拓者だから、其の豪快な性格と敏捷でタフな身体能力は当たり前だが、兎に角、人のことをよく見ている。いや、感じているというのか、何かその場にそぐわないことをしていないかを嗅ぎ取って居るみたいなのだ。沢登りなんて、何時どんなことが起きてもおかしくないくらい危なっかしい遊びだから、自然そんな感覚が鋭敏になるのであろう。
 じゃなければ、自分達の滑落だけじゃなく、落石、突然の鉄砲水や増水、天候異変などに対応できるわけがない。どうも顔に似合わず?繊細な感覚を持っているみたいなのだ(本人は、イワナは顔で釣るんだ、なんて曰わって居るけれど、確かにいい男だった若いときの写真を知っている人以外は、今はごっついオッサンにしか見えないんだよね....)。
 また、そんな感覚だけじゃなく記憶力も凄いという。キノコや山菜の種類についての豊富さは当たり前だが、其の処理の仕方や調理法についてまであふれるように出てくる。場合によっては不食の毒キノコについてもどんな味がして食べたらどうなったのかまであふれ出てくるのだ。みんなベニテングダケも美味しい美味しいって食べる人達だからね。

 この間の裏キノコ教室には、プロ棋士のT岡八段(以前は羽生名人に勝っていたんだけど最近は...なんて話していた。後日、岳人2008年8月号に台高山脈東ノ川遡行記を執筆していた。深瀬氏が会長の遡行同人梁山泊所属)も来ていたんだけど、夜中の宴会の時にはそんな話も出て、記憶力の塊みたいなプロ棋士が校長の記憶力を褒め称え尊敬しているんだよね。校長は各地の沢の状況を覚えていて、滝を登攀やヘツリをするときの岩の形や手がかりまで覚えているし、何処の樹にキノコが出るとか、どの辺に山菜があるということまで山の中のことを事細かに覚えていることにたまげたという話。
 こういう人達は、ディジタル的な左脳意識だけじゃなく、直感的空間記憶的身体記憶的な意識に繋がる右脳処理とのバランスが高度なんだよね。頭で一々考えているんじゃなくて、三次元及び時間軸を含めた四次元的な精妙微細な感覚の持ち主なんだと思う。

 また、そういった感覚と共に、深瀬教室の沢登り講習では、ただ登る事ばかりに集中しているのではなく、歩いている周りの地形や目印になるものを覚えておけといわれる。遠くの山や岩の形や特長ある樹木などを覚えておき、自分達が登攀している場所との位置関係を掴んでおくのだ。それは山全体の地形を覚えると共に、何かあったり道に迷ったりして、同じところに戻ってくることになった場合、また事故が起こった場合などに対して、緊急対応を可能にするためだ。人の後にただくっついて歩くなという。つまり、意識的に行動せよということだね。
 これは人生も同じだと思う。色々なトラブルや出来事があるけれど、盲目的にやり過ごしていたら、其の原因となる因果関係も理解できない。その為に、同じ様な間違いを何度でも繰り返す。心が生きて居ないんだよね。沢登りは道無き道を自分でルートを探しながら登攀していく。道があるところを歩く登山とは基本的に違うものなのだ。これは人生についても同じだよね。他人や社会が作った価値観やレールのなかで生きている人と、そうでない人とは心の活性や意識的に生きるという側面で、住む世界や価値観がまるで違って当然。だから、もし社会生活に於いて創造的に生きることがし難いのであったなら、せめて大自然の中だけでも意識的に行動してみたいものではないか。取り敢えず、わたしがご縁があった深瀬教室に来る人達は心が活発に動いている人が多いのは確か。

 

 遡行同人梁山泊の那須講師。この方も、次から次へと料理をして食べさせてくれるし、片づけも手早い。オレンジの服は毎回愛知県から参加している30歳代働き盛りの独り暮らしのポッタちゃん。何年も経ってようやく色々なことが出来るようになった。

【沢屋は料理が上手い】
 だからなのか、料理も上手で手際よいわけ(たまに黴びたプラスティックの器を使っていたりするけど...この間なんかお高い泡盛をアルコール代わりに何枚も皿拭いちゃったよ〜。その黴びた皿で出されたキノコ食べていた医者やっているメンバーも居たけど、それじゃあ、キノコに当たったのか黴に当たったのか解らんもんねえ...)。教室があるハイシーズンには毎週講習会で料理しまくっているんだから凄いよね。今年春の山菜教室では、山菜ご飯を尺二寸(つまり36cmね)の片手中華鍋で四回も作ったという。深瀬教室の山菜やキノコ飯は、炊き込みよりも炒め煮してから更にご飯を混ぜる方法が多いので、このでかい中華鍋でやるんだよね。餅米も入って炊いた大量のご飯と具材を36cmの鍋を持ち上げて振るうったら、半端じゃないよ。ま、普通の人じゃ振れないって。でもって次から次へと大量に料理を作ってくれる。

 

【旨いもの大好き!】
 でも、それは校長だけじゃない。深瀬教室に長年顔を出しているメンバーもそうだし、最近講習を受けた人達にもそんな人達が多い。なんといっても沢登りのロケーションには、ミネラル水、旨い魚、そして山菜やキノコ、木の実などなど美味しいものが沢山あるから、必然的に、採ってきて処理して食べて、片付けるということの繰り返しになるわけさ。特に山菜教室、キノコ採り教室に出ているメンバーなんて、食べること飲むことの好きな連中ばかりだから、結構レベル高いのかも知れない。
 其の深瀬校長のご幼少の頃は宮城の山で育ち、山や野から食材を調達してくるのが家族内での役目だったそうだ。採ってくるとお母様が喜んでくれて、美味しく調理をしてくれたという。そんな経緯をもって身体に染みついた智慧や知識があるので、兎に角、みんなに楽しくて美味しいキノコや山菜のこと、そして渓魚などのこと、み〜んな教えてあげたいんだと、酔っぱらって何度も語るからね。
 そんな人に楽しく美味しく教えて貰っている他のメンバーもホント博識だし、料理が上手い人が多いのが此の教室の特長。その上、人柄がみんないいんだよね。わたしなんか、何度教えて貰ってもキノコの種類とか見方とかを覚えないので、何度でも同じ事をみんなに聞くけど、その度に何度でも教えてくれるし・・・ なので、年に数回しか会わないこの方達に会うのがホント楽しみなわけ。
 そんな沢屋がキノコ採りをのんびりやってインドアで宴会をするとどんな感じかなっていうのが此のページかもね。

 今回来られなかった方々に本ページを捧げる:手前右黒い帽子のS井氏、その奥の地毛のT原氏、左赤ジャンのみきさん達へ。真ん中は深瀬校長だ。いつもありがとうございます。合掌

 大体、深瀬教室は来る人の職業も様々で、社会の一線で活躍している人も居たり、わたくしめみたいに社会の片隅で食うや食わずの人間も居たりするが、総じて食い物にはうるさいね。それにプロの料理人も多いし、プロじゃなくてもプロ以上の人も少なからず居たりする。その上、例え料理を作らなくても、とても味にうるさい人が居たりする。そういう人は、仲間が調理している横に居座って、味が濃いだの茹ですぎだの奉行に徹していたりするのだ。

 

【男のくせに料理から後片づけまでキッチリと】
 だから、男とか女とか関係なく、周りの様子を見ながら下拵えから料理までチャッチャカやってしまう人が多いんだよね。そして片づけは気が付いた人や、手が空いている人が誰かやる。例え、酔っぱらってダウンしている人が居たり、翌朝二日酔いでグロッキーになっている人が居ても文句を言わずにみんなで片付けてしまう。大体、校長自体が、料理をしながら片付けていたり、気づくとサッサと処理していたりすることが多いから、自然周りの多くの人がそんな雰囲気なんだよね。
 教室では、食べ物を調達して処理して調理して食べて飲んで後片づけをして、それから寝て、朝起きてという生活のルーチンを野外や山で行うため、自らの後始末が出来ないとみんなに迷惑を掛ける。だからといって厳しかったり忙しかったりする訳じゃあない。周り人の自立レベルが高いからだんだんみんなそうなっていくのかも。
 やることやって楽しむことも思いっ切り。みんな凝り性の人が多いし楽しい人ばかりだから話が弾む、そして共同作業も楽しい。自分が役に立つ場所というのを心得ているのかも知れないし、周りの状況も良く観ている。やっぱり沢屋だね。
 だって、沢登りを複数人で行くときには、自分独りだけ気を付けていればいいわけじゃない。落石させないように落石を受けないように、他の人も登攀・徒渉出来そうかどうかとか常に他の人のことも、周りの自然も何気に観察しているからね。そういう気配りというのが身についている人が多いわけよ。

 それで気が付いてみれば、教室で長いことご一緒させていただいている人が沢山居るが、今まで教室以外で一緒になることはあまりなかったんだよね。毎回、教室で一緒に遊んで、飲んで食べて、終わると別れていたけど、今回初めて、教室のメンバーだけで行くキノコ採りに一緒に連れていって貰うことになった。
 というのも、今年は校長が忙しくて裏キノコ教室が一回か二回あったか無かったくらいだったし、また夏が無茶苦茶暑くて雨が降らなかったので、今年はキノコの調子が悪く、例年より2週間から一ヶ月近く遅れたという話だ。そんな状況だったので、遠くまで行ったキノコ採りも不発が多かったくらい。なので、キノコ採り講習の数も少なく、いつものメンバーと会う回数も少なかった。
 そして、受講生のみで行くことにした裏々キノコ教室に、わたくしめも一緒に潜り込ませて貰う、もう一つの理由があった。それは・・・

前置き長いねっ!

 前回の裏キノコ教室の時のメンバー。深瀬校長はカメラの用意をしていて写っていない。全部で16名だった。この時も大量に採れました。その最後の時に、A本氏が、今回のキノコ&蕎麦を行ける仲間内だけでやろうと企画した。でも、仲間とか言っているけれど年の頃も様々だよねえ。それに仕事を何しているのか知っている人も居るけれど、知らない人も多いものね。大体、山菜キノコ釣り沢登りに関しての話題が殆どでプライベートの事ってあんまり話に出ないよねえ。

前回の裏キノコ教室で。夜の11時に集まってから宴会。
この時は、朝の4時まで起きていた者が多かった。
7時頃までに起きた翌朝の集合ミーティング。
キノコ採りの注意点、互いの位置確認、標高、集合時間などについて。

 

 午後:採れましたね〜。お土産がたっぷり。
 処理してから試食会を行う。

以上、裏キノコ教室での風景


キノコと蕎麦はお友達?

 裏キノコ教室の風景:宴会の翌日、つまり深瀬教室「裏」キノコのメインイベント、朝からキノコ採りをタップリした後の、夕方の試食会の風景。採ってきたキノコをみんなでササッと処理した後に調理して美味しく戴く。キノコは処理して食べるところまでやってみないとなかなか覚えないからね。
 そして、左真ん中の鍋の前に居られる方が、鍋奉行のT原氏。キノコ鍋の最後の味付けの大役を果たす方。校長の昔からのお仲間だ。

 T原氏のお名前から採った、“エイちゃんの法則”ってのがございまして、其れは何かと申しますと、キノコ採りの時にT原氏の後を着いていって、T原氏がちょっとだけ覗いてめんどくさがって行かなかった所、藪の向こう側や土手の下には、必ず得物のいいキノコがあるという法則だ。覗き込んで面倒くさそうに去っていった後がチャンス。
 ご本人曰く、『いまいち、努力が足りないから成果がついてこないんだよね〜。感覚は良いんだけどさっ・・・』
 お陰で労せずキノコをゲットするのはわたしだ。

【直ぐに調子にのるんだからね...】
 本Webサイトの他のページに書いているように、蕎麦打ちが上達して、自分達が食べる分くらいは結構打てるようになったので、ちょっと天狗になっていたアホなわたくしめが、深瀬教室の古株であるA本さんに、メイルで、一度蕎麦食べに家に来て下さいよ〜、その辺の蕎麦屋なんかよりぜぇ〜ったい美味しいからなんて、偉そうに自慢していた経緯がある。
 それまで御馳走した人みんなが旨い旨いと言ってくれるもんだから、ちょいといい気になっていたんだね。そして、A本さんも人が悪いから、その時には自分だって蕎麦打ちをやるなんて一っ言も言わないし・・・

 それで、裏キノコ教室の時にA本さんがそんな話をするもんだから、みんなで盛り上がり、A本さんが幹事で今度キノコ採りとお蕎麦の会を、日程が合って一緒に行ける人だけでやらない? ということになった。場所が奥○○だったら山の中のテントでなく、M屋さんの家で宴会やれるし、それだったら水もたっぷり使えるのでお蕎麦もやれるしねということになって即決まった。お調子もんの自分は、「いいですよ〜、その頃だったら新蕎麦が出るし・・・」なんていい気なもんだったんだ。

 今回旦那さんのナオさんだけしか来られなかったミキさ〜ん! ナオさんとうちの嫁のお蕎麦屋に来ていただけるそうですね。待ってますよ〜。手配写真を嫁に見せておきましたから、お見えになったら何かサービスするようにしますね。
 嫁の店は機械打ちですけど、美味しいですよ。温かいお蕎麦やウドンも汁がほんと美味しいし、オトッツァンは天麩羅の達人です。タイミングが合うと料亭クラスのムクムクのシイタケ天麩羅がお安く追加できるし、セットもののカツ丼セットなんて1050円なのに他店の上カツ丼レベルのお肉ですよ。セットものは、冷温のお蕎麦かウドンが選べて、更に日替わりの小鉢と50年もの糠床のお漬け物、それに野菜サラダ、嫁手作りのカスピ海ヨーグルトが付きます。野菜もオトッツァンが畑やっているので、無農薬のものも使ってます(足りなくなったときはご勘弁)。
 あとセットものだと、わたしが独り者時代に作って食べていた、ニンニクを効かせたマグロのヅケを焼いた丼のバージョンもあります。カツ丼セットとお値段同じだから此方もお得ですよ〜。お腹空かせて行ってやって下さいね。
 そして、春だと、これまた私が独り者の時に作って食べていた、炒めたツクシを冷やし颪蕎麦に載せて食べる、ツクシ蕎麦もあります。これまた絶品ですからね〜。あと、夏だと冷や麦に、野菜と揚げ立てのロースカツを載せて韓国風の酸味とニンニクの効いたタレにラー油で辛くしたガッツン冷や麦ってのもありますよ。これも我々夫婦のオリジナルでーす。不思議なコラボだけど、これまた元気が出るほどメッチャ美味しいです。

 以上、内々のプチ自慢です。営業ではありませ〜ん。金土日の昼しかやっていない店ですが、駐車場も4、5台しか停められない小さな店は、満杯でお客さんが入れないことも多いので、これ以上営業しないんです。仲間内だけの自慢コラム故、美味しい話だけでご勘弁下さい。なので、嫁も、そしてわたしも超貧乏で〜す。

※シイタケは仲間のキノコ園のものを使っています:一般市販品に多い薫蒸殺菌など一切しない絶対安心ものです。シイタケを冷蔵庫に保存して於いて、1週間以上顔も変わらず平気なものは、必ず薬を使っています。自然なのは、そんなに長持ちしません。また、某国にも視察にいった、其の仲間は、絶対に食べちゃダメだと言います。
 シイタケ、ナメコなんかは上手にやればマンションのベランダでも栽培できますから、良いものが手に入らない人は、自分達で作りましょうね。

 その話をしている時に後ろで、『キノコと蕎麦は友達なんだよね〜。』と、T原氏がA本さんと話をしているのが聞こえた。其の声の主、T原氏は、山でパスタを飯盒で茹でていると、必ず横へ来て、『パスタはアルデンテだよねっ?』、と必ず釘を刺して横に居座る人だ。(^-^;;
 そんなこと言っていたって、今に歯槽膿漏になったり入れ歯になったりしてもアルデンテっ!って言うのかな〜と思いながらも、「そおですよね〜。あったり前じゃないですか〜。」と答える素直なわたしなんだけど・・・

 そのT原氏に「えっ?なにキノコとお蕎麦が友達って?」と話の内容を聞くと、『こんな相性のいいものないじゃない、蕎麦とキノコ最高よ。そんな企画だったらわたしも絶対に行くからねっ。』ということで、A本さん、T原氏、M井さん、M屋さん、E本さん、ナオさんミキさん夫妻、愛知のポッタちゃんが集まることになった。あとは、その時には出席していなかったS井さんもだよな〜。

 

【手打ち蕎麦は粉が命?】
 だとすると、総勢十名くらいだから粉は2kgを用意すればよいかなと嫁さんに頼んで於く。嫁さんは2,3年前に結婚した蕎麦屋の娘だ。親子三人で細々とやっている蕎麦屋だが、ちゃんと昔ながらのやり方でやっている蕎麦屋。蕎麦は機械打ちだけどその辺の蕎麦屋より美味しいもの。そのそば粉と割粉を使って手打ちにすると、更に、違う次元のものかと思うくらいに物凄く美味しくなる(はず?)。その辺の十割蕎麦とか石臼挽きの粉使った十割ですって言う店のものよりも、なんでか知らないけれど嫁の店の粉で手打ちにして食べるとめっちゃ美味しい。

 自分の腕は限りなくど素人に近いので其の美味しい理由が解らない。まあまあ美味しいけど機械打ちの嫁の蕎麦屋のそば粉が、手打ちにした途端、次元が違うほど更に美味しくなるのは、自宅で使っている活水器が原因くらいしか考えられない(ま、後はわたしの「気」かな?)。

 嫁の店のそば粉は、良いものは選んでいるけど一般蕎麦屋の業務用のものだしね。でも、今回のキノコ&蕎麦の会には、嫁の店ではまだ古い粉が残っていて新蕎麦になっていないので、粉の問屋さんに頼んで貰って新たに2kgだけ新蕎麦を持ってきて貰った。その粉屋のT田さんは親切に、会社には内緒でサンプルだといって1kg入りの新蕎麦の粉を2パックも作って持ってきてくれたのだ(感謝!)。その時に聞いたら北海道の粉と言っていた。もっとも業務用のものは北海道のものといっても、北海道の粉と他のものが混じっている可能性がある。以前の規制がなかった時代、他国産の玄蕎麦を北海道に一回デポして製粉すれば北海道産と言っていたので問題になっていたのだ。
 でも、持ってきてくれた粉については、後日北海道の産地の地図まで入ったポップまで作ってきてくれたので、今回の物は北海道産の粉であったのは確か。

 

【蕎麦の産地は世界に拡がっている】
 さてさて、そば粉は、中国産、アメリカ・カナダ産、それと国産のものがあるわけね。3年前の江戸の蕎麦を美味しく食べよう講習会で全国蕎麦製粉協同組合の理事長に聞いた話では、国内産2.7万t、輸入9.2万t(内8.1万tが中国産)だったはず。ただ、この中国産というのは70%程度が内モンゴル自治区のもの。モンゴルは気候が蕎麦栽培にあって居るみたいですね。また、モンゴルの人達は中国を通さずに直接日本と取り引きしたいので、向こうから人が来ていて、日本の農家に指導して貰いたがっていたのをモンゴルの人と付き合っていた仕事仲間から聞いたことがある。モンゴル産は質が良くて安いみたいね。アメリカ産は、ノースダコタ、マニトバ、サウスダコタ、ミネソタ、ワシントンの各州で栽培されているらしい。

 さて、その嫁さんの店の粉も、義父にいわせれば、多少は色々混ざっているんじゃないのという。でも、嫁の店の業務用そば粉は、そういった国内の何々産といったこだわりで売っているそば粉より美味しかったりするんだよね。自分が蕎麦打ちを三年前に始めたときには、拘って信州やら北海道やら色々な粉を取り寄せて十割蕎麦を打っていたわけ。

 

【そば粉の保存】
 ところが、其の取り寄せていたそば粉、確かに美味しいと言えば可成り美味しいんだけど、なんかいまいち日光の手前なんだよね(校長得意の言い回しね)。名の通ったところのものだけど、一般に出回っているのは質が落ちちゃっているのかな。クールで運んでも難しいのだろうか。それに、直ぐに使い切ってしまえば良いんだろうけれど、残して冷蔵庫で保管しておいても味が落ちるのが早いものね。
 此の保管てのが難しくて、温度や湿度だけでなく静電気の影響も多分あるんだよね。静電気によってプラスイオン化、つまり酸化していってしまうんだろうね。そもそも冷蔵庫に入れるときにはビニール袋に入れているし。一般的に食糧は、陶器に入れたものとプラスティック類にいれたものでは、全然保ちが違うからね。つまり静電気が起きると電荷の移動によって、食べ物から電子が抜けていってしまうんだと思う。電気が流れるっていうのは一般科学では電子が移動するということをいう。帯電しやすいものに触れていることによって食べ物に電気が流れてしまう。つまり電子が抜けてしまうとプラスイオン化、いわゆる酸化した状態になるわけね。石油化学製品は静電気を起こすので、食べ物にとっては大変宜しくないんだよ。プラスティックの器に果物や野菜を載せておくと悪くなるのがが凄く早い。場合によっては、器に当たっていることだけ直ぐに悪くなったりする。反対に漆塗りのお盆や陶器は帯電しにくいので食品の保ちがよい。

 大体、穀物類の倉庫保管やプラントでのパイプ搬入出において、穀類を流すと摩擦が起きて其の静電気が問題になるしね。製粉した後だって静電気の影響を受けている可能性は高いから。粉屋さんの大型の製粉器なども静電気対策をしていると言っていたと思う。でないと、微粒子になった粉体は静電気爆発しかねないようなことを講習会の時に突っ込んで質問したらそんな返事を貰った覚えがある。

 

【十割が美味しいとは限らない】
 そんなこんなで、嫁さんのお店の粉を十割で打ったりとか、色々やってみていたけれど、結局、嫁さんのお店のそば粉と割粉、甘皮を二八で打って食べるのが一番美味しかったりする。味、艶、歯触り、腰、喉越し、食後感などなど凄くバランスが良くて美味しかったんだわ。因みに此の粉を十割で打つと、可成り強いのか胃がもたれて仕方がなかった。大体、お蕎麦は精が強いものだから、十割のお蕎麦はしょっちゅう食べたい感じにはならないねしね。

 その後も、凝っている店や、ネットで有名なお店にも行ってみたけれど、言うほど美味しくなかったり、蕎麦つゆが日光の凄く手前だったり、美味しいけれど蕎麦に気が入っていなくて食後の感動が少なかったり(流行っている店のためか、後で店主と会話したけど商売疲れを感じたね)した。
 結局、石臼挽きだろうが良い粉だろうが、保存の仕方や、其の期間が問題だよね。良い玄蕎麦をその日に挽いていたら何が何でも絶対に美味しいよね。でも、商売でやっていたら、よっぽど高いお金を貰うか多人数で分担して仕事をやるかしないと、そんなそば粉を扱って毎日商売なんか出来ないって。実際に凝った手打ち蕎麦屋ほど長続きして居ないみたいだしね。蕎麦打ちなんて毎日何十人前を独りで打っていたら絶対身体悪くするから。

 

【払うお金と味はリンクしない】
 だから、有名な店でもそこそこの味しかしないのかも。それでも美味しい店は確かに美味しいよ。ただ、我々みたいな貧乏人は、それだったら交通費掛けて遠くまで行って、高いお金出して食べるよりも自分で打ってその場で食べた方がいいやと思っちゃうわけ。ホント美味しいしね。街場じゃなくて奥に引っ込んでいると自然とそんな考え方になってきてしまう。行動原理がお金(だけ)じゃないからね。街の論理と山の論理は違って当然。お金は使役するものであって、踊らされるものじゃないから。

 でもって、現実的に考えて計算してみれば、うちは嫁の蕎麦屋の粉をわけて貰っているからとても格安だけど、普通そば粉は高いのを買ったってkg二千円位でしょ。大抵はもっと安いよね。それで一般的には十人前(水500g弱で計算しても、140g×10人分は採れるし)は打てるものね。それと鰹節と醤油代だね。だから自分達で作ればホントお安いお金で美味しいものが食べられるわけ。

 その上、うちはインチキして、嫁の蕎麦屋の蕎麦つゆと上返しを貰って来ちゃうから、ほんとズルね。蕎麦打ちやっているなんて言えないレベル。それにしても本枯節と鯖節とで毎日出汁を採っている蕎麦つゆは可成り美味しい。

 

【ホントに味解っているの?】
 とは言っても、嫁さんと一緒になる前は、市販品の出汁の元と蕎麦つゆを二種類ほどブレンドして自分なりの味を作って食べていた。このつゆも、味にうるさい人でも、敢えて手の内をばらさなければ解らなかったりするくらいのレベルに出来る。勿体ぶらないで言えば、桃屋の蕎麦つゆの安い方(高い方は此のやり方に合わない)、それから味の素の鰹だし、それと五日市の醤油屋キッコーゴの蕎麦つゆ(醤油っぽいスッキリしたタイプ)だ。冷たいお蕎麦だったら、もりにもぶっかけにもOKだね。でも、温かいお蕎麦のつゆにしてやってみたらとても無理。砂糖分が際立ってしまって、とてもじゃないけど飲めなかった。まあ、可成り以前から蕎麦屋の中にはこういった手軽なつゆも採り入れてやっているところが多いらしい(蕎麦屋のオトッツァン談)。

 

【化学調味料?×】
 そして、わたしと嫁、何故か縁が出来た二人とも、化学調味料の味はダメ。舌に残って痺れたり、食後の口の中がドヨ〜っとしたりして気分悪くなるし、長い期間には体調も思わしくなくなる。だからやたらなお店では食べられないんだよね。でも、前記ブレンドはそんな自分達でもなんとか美味しく食べられるレベルまでに出来る。とは言っても、ブレンド時の薄めるための水は良いものを使った方がよい。また、混ぜるときには、わたしは自分の指先でやる。混ぜるときに気を入れてやるだけで、更に美味しくなるんだよ〜。

 その化学調味料だが、わたしは東南アジアに行ったことが無いのでよく知らないけれど、何人もの友達みなさんは海外に仕事でよく行っていて、食べ物屋の店先に、“No MSG(?だったと思う)”化学調味料を使っていないという看板を下げている店があって、結構そういう店が流行っていると言っていた。欧米人でもアジア人でも化学調味料を受け付けない人達が多いので逆にそういう店が流行っていると言うんだよね。日本人がなんでそんなに化学調味料を使うのかが解らないというし、中には日本人が発明した尤も危険な物質と本で書いている人もいる。真偽のほどは知らないけれど、自分達は体調が悪くなるのを実感しているから台所には上記のものだけしか置いていない。その他、食材や調味料類も、そういった類のものが入っているものはあまり使わないようにしている。

 そういうものに馴染んだ人と、逆に身体に採り入れていない人では、料理の美味しい美味しくないの基準が違って当たり前。だから、どんなバックグラウンドを持った、どんな人が言っていることなのかというのが大事だね。“美味しい”とかの言葉一つで自分と同じ事を言っていると思ったら大間違い。

 ああ、能書きが長っ! ど素人ほど言葉数が多いんだよね。自分がこのページの閲覧者だったら、こんなページ読まないね。でなければ、よっぽどお前の打つ蕎麦は旨いんだろうなっ!ってつっこんでいるかも。
 ま、まあまあ、バカな奴ほど自慢したがるってことですよ。ほんと大したこと無いんですから勘弁してやって下さ〜い。能書き書いて自分の小さなプライドを満たしているだけですから。広いお心で読み飛ばしてやって下さいね。

 さてさて、


確かに私が採ったキノコは四つだけだったよ・・・

だから〜?

【蕎麦打ちをしてから合流】
 さて、キノコ&蕎麦の会当日。朝は5時起きして蕎麦打ちを始めるはずだったが、前の晩に寝たのが相当遅くなってしまったので、寝坊して朝6時ちょっと前に起きてからやっと始まったという顛末。当初、全部で十一名の予定だったのが、前出の4名の方が予定がつけられずに来られないことになった。ホントにお会いするのを楽しみにしていたので残念至極。S井氏は今年体調が悪く、後半教室に出てきていない。頭痛がするとかいうことで殆ど欠席していた。日頃からキノコ菌に侵されているとご本人が仰る位キノコに夢中なのにキノコ教室に来ない。遂に麦角菌、いわゆる冬虫夏草にまでやられちゃったのではという噂だったが、平日の調子がよいときには山に入っていたらしい。でも今回は所用で来られなくなったということだった。T原氏は来客、ポッタちゃんは働き過ぎで体調不良、ミキさんはお墓のことで来られないと言う。

 それじゃあ、打つ量を減らして、粉で1.5kg、打ち上げて全部で約2.2kgも持っていけば、7名で飲んだ後に冷たいお蕎麦で食べて、翌朝にキノコ天麩羅蕎麦かなにかで温かいものが食べられるだろうということにした。蕎麦打ったね一生懸命。ヘボなので時間掛かるから焦って打っていった。
 それで、蕎麦屋に出勤する嫁さんを店に送って行ってから現地に向かう。遠い山奥まで打った蕎麦と、蕎麦つゆ、上返し、二番だし、それから効率よく蕎麦を茹で上げて冷やす道具類(蕎麦が良くても茹で方と冷やすのが下手だと台無しだもんね)を積み、その他キノコ採り装備と、シュラフなどを積んで山道をえっちらおっちら遅い車をまくりながらも猪のように?飛んでいった。
・・・・・・・・・・・

 んで、やっと現地合流。と思いきや、皆さんは未だ山の中まで入っていなくて、自分だけ先走りして入ってしまい、山の中から通じない切れ切れの電波で連絡したら、まだ表の国道裏でキノコを採っているという。戻って探したら居た居た。国道を歩いていた。それが12時半頃。

 

【サプラ〜イズ!】
 「採れたぁ〜?」、『もちろんですよ〜。』、「わたしの分、取って於いてある?」、『幾らでもありますよお。』なんて期待させる返事が来た。

 すると調子にのったわたくしめは、「ほんとぉ、M屋さん(現地案内役)さ〜、遅れてきたわたしに素敵なプレゼントないの〜。」、「例えばさ、Hちゃんあの辺なんかキノコ在りそうだから行ってみたら?なんてさり気なく言っちゃって、行くとキノコのシロとかあるなんてサプライズ! 前もって調べて於いたりしてプレゼントしてくれる、其のM屋さんの人柄の良さが滲み出る様なのって、どおぉ?」っておねだりしてみる。

M屋氏:『幾らでもサプライズありますよっ!沢山採れますから....』、『でも、キノコ採りは、時の運もありますからね。』
自分:「ふぅ〜ん、キノコ採りは腕だって言わないんだ?」、そー来たか・・・

 みんなチョコチョコと採っていて、楽しそうな午前中だった様子。最後のメンバーの私が合流したことで、そこから山に上がって昼飯にしようと言うことになった。車三台に分乗して山に上がっていく。林道の分かれ道の広いところに車を停める。わたしの車は、クーラーボックスに入っているとはいえ、打ち立ての蕎麦など大事な今晩のお食事を積んでいるので日射しの入らない日陰に移動する。

 で、車を置いて皆の方に歩き始めたら、目の前の土手の直ぐしたの樹の根のところにうずくまっている姿が。E本氏だ。げげ〜! 観るとナラタケの束生のでかい株を採っている最中。車を停めてこれから自分が観ようと思っていた矢先、先を越されてしまった。あ〜!とか、う〜!とか言ってくれよ〜。黙って採っているから最初事態が飲み込めなかったぜ。とてもガッカリなサプライズだった。(;_;)

 可成りいい感じのナラタケをずっしりと。まだややバクサレ気味のがたっぷり残っていたけど、そんなもの要らないと残りを採らないE本氏。
 このキノコが目に入らぬか。採った者は採れない者より偉いんだぞよ。
M井嬢は、キノコ以外にも、鹿の落ち角も拾っていた。

 

 去年の裏キノコ教室でのアオちゃん作。

【振り向けばアオちゃん】
 出だしが遅れてガッカリの後、軽く昼食を済ませる。元調理師のアオちゃんは、またまたまめにサラダとかサンドウィッチを作ってきてみんなに分けてくれている。偉いね、美味だね。アオちゃんは、キノコや山菜教室の時にもケーキやパイを作ってくれてきたりして女性陣にも人気なのだ。教室の時は、みんなが酒のつまみの味がしっかりした料理をつくるので、その点を気遣ってなのか、アオちゃんは美味しいサラダを作ってきてくれることが多い。

 さて、其の女性陣、今回の紅一点、M井嬢曰く、『アオちゃんは、さり気なく用意してくれるのよね。』と。そんな優しいアオちゃんだけど、深瀬教室のメンバー故、行動力は人並み以上にある。渓流釣りもキノコ採りも独りでチョコチョコと行っている様子。

 つい先日も、A本さんとM屋さんたちが、某キノコ山(1時間くらい林道を歩く)に行って、高級菌のコウタケを山ほど採って下山してきた時に、下の方の林の中でガサガサと音がするので覗いてみたら、なんとアオちゃんが独りでキノコを採っていたという。ウラベニホテイシメジを大分採っていたらしい。他の時でも、教室で山に入っているとバッタリと突然アオちゃんに出会ったりして、何故か偶然山の中で遭遇する率が高いのがアオちゃんだ。

 では、もうちょっと奥に行ってみようと車で移動する。天気予報では差ほど期待できなかったのに、日頃の行いがよいメンバーばかりなのだろうか、青空が拡がり暖かくてとても気持がよい。紅葉も真っ盛りで景色が素晴らしく良いので、それだけでも満足、、、するわけないよね。我々はキノコ眼が鍛えられた深瀬教室の構成員だもんね(※キノコ眼:一点だけに集中しないで視野全体を常にスキャンする視覚モードのスイッチを入れること。と同時に、意識下に、景色の中の異物、つまりキノコに対してトリガーが掛かる様に、キノコのイメイジをプログラムして、近似値の対象全てにスレッシュホールドレベル設定し、ハイレゾリューションモードにする高度な身体意識マネージメント。人間の眼は高精度のCCDカメラなんぞにも比較出来ないくらいの超精妙なセンサーであり、意識下の直感と皮膚感覚にスイッチが入れられればキノコ採り放題のはず....なんだけど

 

こんな山の中に居るだけで幸せね。
 で、ニョコッとキノコが出ていたりする。

 そう、今回の目的は紅葉狩りじゃない。キノコ採りだ。

 

 その去年の「裏キノコ教室」で。こんな写真まで撮っておく性格はいじましい?

【脚下照顧】
 するとM屋氏、『あの盛り上がったところ、行ってみたらどーですか?』、『あの辺はよく出るんですよ。』と来た。「どれどれ?」と期待して唐松の下の盛り上がった土手に上がり、その周りの藪の中を探す。いいところあるじゃんM屋氏も・・・やっぱり人柄だよねぇ。

 実は、去年、深瀬教室のキノコ採りを伝授する「裏キノコ教室」で山に入ったときに性格がとても良いわたくしめは、山道脇の倒木にムキタケが出ていた時なんて、初めてのキノコ採りだった昔のお姉さん達に、ホラホラこっちこっちなんて引っ張っていって、『きゃあ〜、キノコよぉ!』なんて喜ばせたりして。M屋さん覚えていたかなあ・・・
 やっぱりキノコ採りは顔も大事だけど、先ずは人柄だよね〜。

 で、サプライズ有るっかな?

自分:「無いねえ・・・」「さっきもおじさんが此の林道から出てきたし、結構人入ってるんじゃないのぉ・・・」
M屋氏:『そーですかねぇ。』、、、、、『あれぇ、Tさぁ〜ん!足下にあぁるじゃないですかぁ? ホラァ・・・』、『あれ、こっちにも! 通ってきたところにもあるじゃないですかぁ〜。』、『Tさぁ〜ん。ほら〜っ!!!』
自分:・・・・・「おっかしいなあ、よくみてるんだけどなぁぁぁぁぁ。」、「ほんと......」
M屋氏:『まいったなぁ。ちゃんと教えてあげてるのに〜。』と、さっきあんなに偉そうにおねだりした癖に、足下にあるキノコを見付けられないのかよ〜、って目でわたしを観る。

 サプライズは私の方だよ! と言いたげなM屋氏に教えて貰って、自分の、あ・し・も・と、のヌメリイグチの大きめの良い奴を三つゲットしてキノコ籠に大事に仕舞う。

 「ふんふ〜ん!いいんだもんね。まだまだこれからさ。さっきは現場に入ったばかりでキノコ眼のスイッチが入っていなかっただけよ・・・」と、みんなが下の斜面に入っているので、自分だけ林道上の斜面に入る。それが先に載せた紅葉ばたけの写真。綺麗だね〜気持ちいいねえ、誰も居ないところがいいよね。ああ、気持ちいい!と、ウロウロして良さ気なヌメリイグチを一つゲット。
 おっと、みんな車に戻って行っている。そろそろ移動だな。山の上の方から見下ろしながらのんびり斜面を降りていく。

 

【性格良くないと?】
 さあっ〜、其処から移動して、更にあちこち三カ所くらい山に入りました。気合い入れて奥の方まで入ったね。移動中は登山の人も多く歩いているし、また車も沢山停まっている。中にはキノコ採りの年輩のご夫婦がビニール袋を重そうに下げて車道を歩いていたりしたんだよね。まだまだ採れそうだ。

 前にも行ったことのある場所に車を停めて、四方に散開。斜面を降りていって隈無く探す。暫くして駐車場に戻ると、みんな少しは採っている。でも、わたしは手ぶら。M井嬢もハタケシメジかな?採っていて、道の直ぐ横で採ったとか曰わっている。『奥に行くよりも、直ぐ入ったくらいのところの方がいいみたいよ。』とのこと。「ほぉ〜、そおかね。」・・・

 場所を変えても同じ。採れている人は採れているけど、採れない人は採れない。あたりまえ。

すると、
ナオさん:『性格良くない人はキノコ採れないんだってさ・・・』、『自分だけ、自分だけって、人の居ない方、居ない方に行くんだよね〜、居るよねそういう人っ。』
素直に自分:「たしかにそうだわ。人の居るとこ好きじゃないし。」、「渓流釣り行ったって、人のこと出し抜こうとするしなあ・・・」、なんか実感。
ナオさん:『性格悪い人はキノコとか採れないって話、ホントだったりして・・・』
自分:「性格悪い奴はキノコ採れない伝説?」、「やっぱり俺性格悪いのかなあ・・・」

 因みに10月の裏キノコ教室でのこと。『ひとより先にいけっ!?』と唄いながら私の前をジグザグに歩いていったのは此のナオさんだ。

 

 一応名誉のために載せるけど、採れるときはこんな時もある。前回の裏キノコの時のもの。ショウゲンジ、ハナイグチ、アミタケ、アミハナイグチ、タマゴタケ、カバイロツルタケなどなど。やっぱりキノコ採りは場所かな〜。
photo by N.Fukase.

【またしても?】
 そして山を下っていって最後のチャンス。東側斜面で崩れた大きな岩がゴロゴロしている倒木が多いところ。可成りの急斜面と岩で非常に歩きにくい。みんなで散開して斜面を登っていく。時々、「ほっほ〜!!」と互いに声を掛け合いながら、居場所を確かめる。暫くすると尾根の向こう側とかに入って誰が何処にいるか解らなくなるが、呼び子を使って、互いの位置を確認するほど複雑な地形ではない。

 やがて、互いの姿が見えなくなり、下の方で、「あった〜!」などと声が聞こえているが、無視して倒木の様子などを見ながらガシガシと高度を上げていく。南の方の尾根を観ていると誰か居るので声を掛けると、E本さんと、其のまた向こうはアオちゃんだ。「採れたぁ〜?」、『全然で〜す。』
 てなもんで、辺りを観ながら気の済むまで高度を上げて見て回った。下の方の人は豆粒くらいに見える。ニガクリタケくらいはあったが食べられるのは無し。惨敗ね。E本さん、アオちゃんとも確認して諦めて降りることにする。岩で安定もままならない足場の悪い急斜面を樹を頼りに降りていく。

 降りていくとM屋さんとM井嬢と出会った。「ないねぇ。」、『でも、下の方だと採れていたわよ。』
M屋さん:『倒木が年数経ち過ぎちゃったね。』、『でも、またナラタケの大きい株を採れましたよ。』、『だから、言ったじゃないですかぁ。わたしの後についてくればいいのに〜。』

 は〜いはい。確かに仰る通りかも知れないけれど、人の後ろにくっついていくのって嫌なんだもんね。行列や渋滞なんて大っ嫌いだしぃ。お、人生もそうだっ! だから俺は貧乏なんだ。と、変なところで納得。全ては螺旋状、相似形に展開していく。人生も然り。別に構わんのよ。わたしの人生そんなもん。でも、楽しいことが次から次へとやってくる。

 結局、わたしは足下にあるのを教えて貰って採った三つと自力で採ったのが一つ。都合四つだけど、それが何か ま、よくあることなので慣れっこよ。

 

【えっ、もう終わり?】
 『じゃ、終わりにして戻りましょうか。』 たった四つしか採れていないわたしはさておいて、朝からキノコ採りしてホクホク顔の皆さんは、早く温泉に行こうよと、靴や地下足袋を履き替え帰り支度。「え〜っ、汗もかいてないよ(キノコも採れていないよ〜!)。」

 まずは帰り道、温泉の手前にあるM屋さんのご実家に車を寄せて、庭先でキノコの処理を済まさせていただいた。M屋さんの実家は、当地では美味しくて有名な食堂。有名人も来たりするらしい。元パティシエでコックだったM屋氏は、あちこち美味しいというフランス料理を食べ歩いたけれど、「結局、うちの母親が作るものが一番美味しかった。その味で自分の舌を育ててくれた母親に感謝している。」と言っていたそんな食堂である。でも、最近お母様は体調が悪くてお店をあまり開いていないらしい。残念だ。

 キノコを採ってきた後は、こうやって籠の中のものを全部出してみんなで同定しながら処理をする。沢山採ってきた人も少しだけの人も全部出す。懐に入れたモノも全部出す。その上で、直ぐに食べるものは調理に回し、残ったものをみんなで分かち合う。それが深瀬教室のやり方。インディオやイヌイットなどのネイティブの人達と同じだね。

【結構採れたじゃない】
 なんだかんだ、結構採れましたねーみなさん。ナラタケ(少な目に見えるけど実はこんもりと盛り上がっている)、クリタケ、ムキタケ、サクラシメジ、カヤタケ、ヌメリスギタケ、キヌメリガサ、ハタケシメジなどなど、まだ他にもあったよねー。みんなで手早く処理してしまう。

 そこへM屋氏のお父様。キノコ採りのオーソリティがお見えになったのでご挨拶。

お父さん:『よく採れたね。キノコは解ったかね・・・』
自分:「ハイ、M屋さんに教えて貰いました。足下にあるぞって・・・」
お父さん:『・・・・、足下がぁ、解らないんじゃダメだ〜。(^-^;; 』(笑)

 キノコの処理を終わらせてから、みんなで温泉に行く。土曜日で可成り混んではいたけれど、とても良いお湯なのでリフレッシュ! 再度、M屋さんの実家へ戻ってから、処理したキノコを積みM屋邸へ行こうとしたら、ご実家からけんちん汁を寸胴鍋で戴く。でかい鍋をA本車の後ろの席の足下に置き、一路M屋邸に向かう。途中、ビールや焼酎などなど飲み物を買い込んでから到着。
 さあ!これから屋根付きのところで宴会だ。そんな良い場所で、キノコ宴会なんてやったことがないのでワクワク。住宅街にメンバーが乗ってきたそれぞれの車が全部で5台も増えたのため、荷物下ろし、それから車を邪魔じゃないところに停めるのにちょっと時間が掛かった。それでも、宴会慣れしたメンバーだから部屋に入ったらドンドン準備が進む。
 キノコ&蕎麦の会。いつもの山の中と違って、打ちたての蕎麦がある。どんなことになるのでしょうか。

 

 あっ、その屋根の付いた宴会場と寝るところを提供してくれたM屋氏。因みに、数週間前の土曜日に、M屋氏とE本氏が二人で地元の山にコウタケ採りに行くから一緒に行かないかとわたくしめを誘ってくれた。でも、遊んでばかりいて貧乏なので偶には仕事しないとと、泣く泣く断ったんだよね。そしたら、当日PCの前で仕事だか遊びだかわからないことやっていたら、携帯が着信してM屋氏の名前を表示させているわけ。朝の10時頃だったかな。

M屋氏:『Tさん、凄いですよ〜! 45リッターザックに入れたポリバケツ、コウタケで満パイッ!入りきれなくてあふれているの〜。』、『それも自分だけじゃなくE本君も同じくらい!!!』、『一緒に来れば良かったのに〜。。。』ピッチが高くハイテンションのトーンで明るく電話をくれちゃったりして。
自分:「は〜い、はいっ・・・良かったねぇ。」

 わざわざ丁寧に大収穫の報告をリアルタイムで連絡くれて、行けなかったわたしを慰めてくれるM屋氏であった。いい人だったよね〜。

 ところで、キノコを採っているときの写真て、自分に余裕がないと数が少なくなるらしい。今回、他の人がキノコを採っているときの写真なんて1枚も撮れなかったわ。みなさんご勘弁。


此で、ええ〜んかい?

【宴会、えんかい、これでええ〜んかい?】
 さっ、屋根付き、壁付き、畳付き、の超居ごごちのいい場所での宴会だ。それも台所も水道も完備した宴会場! 我々はキャンプ場での宴会であっても、凄く便利だね〜、っと感動するメンバーばかり。それが今回は建物の中だ、ましてや重厚感あふれるカリンのテーブルに囲炉裏まで付いている。こりゃあ、ラクチンだ。
 ところが勢い余って、台所にいっぺんに何人も入ってしまい、そりゃあいくらなんでも無理だということで、一人一人交代で調理してつまみを出すことにした。いつもの深瀬教室の宴会だと、一人一人が一品を用意するお約束なので、その場で作る人もいれば用意して持ってくる人もいる。すると、折角手の込んだものをその場で作ったとしても、先に色々なものが並んで盛り上がってしまうので後出しは損なのだ。だから、普段はテントかタープ(ブルーシートというブランドね)を張ったらテーブル出して即宴会だ。そんな癖が付いているので、みんなやる気満々なんだよね。
 でも、今回はそんなこともなく、作って貰ったものを順番に賞味する。

 最初はA本氏のピータンサラダ。途中の買い物の時にピータンがあったので仕入れてあった。二皿ガツガツと頂く。ピータンと豆腐が入っている。
 M屋さんのお母様のけんちん汁。味噌仕立て、キノコ入りである。さすが美味しいねえ。コロナビールはライムを入れて飲む。これはナオさんの趣味ね。

 寒くもなく暗くもなく風も吹いているわけではないし、ヘッドランプも要らないこんな明るいところの宴会は落ち着くのか落ち着かないのか。ん〜???

「後日談:話は前後するが、本ページの他のところに書いたように、ナオさんミキさん夫妻がうちの嫁さんの蕎麦屋に来てくれた。その足で我が家にも来てくれて、真っ昼間に冷や酒お銚子二本を飲んでいってくれたのだ。嫁の店でも一杯ひっかけて来た後にだ。其の勢いで出た話し。『ピータン、スーパーで見付けて籠に入れて於いたんだよね。それで、M屋さんのところに着いて、台所でピータンサラダ作ろうとしたら、二人も立てないからA本さんに作って貰ったわけ。』とナオさん。つまり俺も料理をする気は有ったんだという事ね。はいはいっ、いいんですよ〜。此のページの造りだと如何にもナオさん何もしないで飲んで食べていた風に受け取れるけど、別にそれで良いじゃないですか。男全員が料理上手ばっかりだったらおかしいでしょー。ナオさんだって指切りそうになりながら長ネギ切っていたし・・・それ以外、飲んで喰って騒いでいたって、べつに男が廃る訳じゃあ無いですからね〜。そういえば、この間、家に来てくれたときも私がつまみの魚を焼いたり、アテを用意している間も、飲んで喰ってでかい声で話していたっけ・・・良いんですよ〜、お客さんなんですからねー。あ、そうそうこんな話しもしていたっけ・・・『前に山菜採り教室で、俺が天麩羅揚げたら、、、難しいんだよね天麩羅、、、それで深瀬さんに、ダメだこりゃって怒られて、REI子ちゃんのお母さんに代わって貰ったことあった。』ってナオさん。つまり料理をやる気はあるんだというアピールだ。でも、下手だから座って飲んで食べて騒いでいても良いんだという論法かなあ・・・誰も一々そんなこと言わないから堂々と座っていて良いんですよ〜。自分からそんな話し言うからこんなところに書かれちゃうんです。ナオさん意外といい人ね〜。」

 ナオさん:コウタケ大きいでしょー。コウタケの石付きのところを持って、コシコシと擦ると・・・
 ほうらビックリ!!! いつの間にかコウタケの高級天麩羅に変わっちゃうんですね〜。ほら召し上がれ。

 な〜んてことがあるわけもなく。A本氏がコウタケの天麩羅を用意してくれている。そのA本さんは、山菜キノコ採りイワナ釣りの達人だが料理も上手。あまりに上手なので、初めて来た受講生が、A本さんのお仕事なんですか?と聞くから、わたしが代わりに、「T芝食堂の店長です。」、と答えて上げる。受講生の方は、「やっぱりそうなんですか!」、と納得。そんなわざとらしい名前の食堂あるわけないっしょ。ホントは大手電器メーカの技術屋畑の管理職だ。

 家の中でもテントの中でも同じスタイル。台所だけでなく、飲んでいる場所でも使う道具類だからね。そのA本氏は、学生時代に自炊してから料理をやるようになったという。やっぱり学生は自炊しないとね。
 M屋さんが冷凍して於いたコウタケ。A本さんによると、天麩羅にするときに冷凍にしたのを戻したものの方が締まっていて美味しいと言っていたとM井嬢に後から聞いた。確かにそうかも知れないね。

 そして其のA本さん、上の写真のように調理の時のスタイルが山の時と変わらない。山で宴会やるときは、調理しながら延々と宴会をするので、直ぐに切ったり出来るように包丁をたすき掛けで下げているのだ。そしてあちこち移動して調理したり、飲み食いするので自分の使う箸は此またケースに入れてたすき掛けにしておく。其の箸が菜箸なのは調理に使うのは勿論だが、遠くのものを摘みやすいからなのは言うまでもない。みなさんそういう工夫は得意でそれぞれオリジナルな工夫をしていたりする。A本さんの山菜キノコ採りの現場でのスタイルをフィーチャーしているページもあるので、東京マタギ深瀬教室の山菜採り講習の風景も含めて、是非此方をご覧下さい。
東京マタギ、ナイフメーキング教室?`06/3:熱可塑性樹脂カイデックスを使ったシース(鞘)作り& 山菜キノコ採り教室の風景

 カヤタケ、ムラサキシメジ、クリタケ、ヌメリスギタケなど。
 これらの天麩羅はM屋さんが揚げてくれる。

 あとはイグチ類の颪和えだね。山では、いちいち自分の取り皿に移してなんてやらない。だって、料理の種類が多い上に、食器はコッフェルにマグカップなんてものが多いし、テーブルの上も食べ物や飲み物、コンロ、ランタンなど色々置いてあるから個々人が皿や器ばっかり置いていると邪魔なのよね。だから皿に盛った料理は、みんなに手渡ししていって回し食い。直箸でね。だから料理が載った皿や鍋が宴席をグルグルと回っているのが深瀬教室の風景。それは今晩も同じだった。
 他にもM屋さんのご実家で下さった鶏肉料理やソーセージ類も出て、アルコールも進んでいく。アオちゃんが持ってきてくれた焼酎美味しかった。ご馳走さん!  M屋さんも、木の実を漬けたお酒を色々作っていて、M井嬢はM屋氏作スモモ酒で顔を真っ赤にしていた。

 


毎度お決まり、刃物自慢の儀

【男の子の儀式】
 さあ、宴もたけなわ、盛り上がってくると必ず出るのが、それぞれが持っている刃物の話(自慢?)。大体、深瀬校長がJKG(ジャパンナイフギルド)のメンバーで毎度ナイフショーに出展しているナイフメーカーだし、S井氏だって以前はそうだった。そしてA本さんも、深瀬工房にて、奥さんを始め家族中のナイフや包丁を20本近く作っている。
 普通、山に入ったって狩りをやるのでなければそうそうナイフは使わない。木を処理するのには鉈や鋸の方が便利だったりするし、山菜キノコ採りは鋏の方が使い勝手が良かったりする。でも、料理をやるとなったらナイフが要るんだよね。そりゃあ、包丁があれば良いかも知れないけれど、そんな大きなものは要らないし鞘がなければ山では使い勝手が悪くて危ないだけだったりする。宴会しながら調理するんだから酔っぱらっていて、ついうっかりということもあるでしょ。

 なので、料理に使う刃物はヒルトより刃が出ている事が大事で、ナイフだったらホローグラインドの薄い刃付けの山包丁の様なものが便利だったりするわけ。じゃなければペティナイフね。でも、ペティナイフは薄くて料理には使いやすいけれど、先は尖りすぎていて危ないし、普通は持ち運びできる丈夫な鞘が無いからね。
 それに山では、やはりナイフ本来の使い方で使用することも多々あるから、この山包丁の様なそういう用途に特化した形のものが使いやすいよね。それにステンレス系のATS34だったら雨に降られても沢で泳いでも錆びにくいし。シース(鞘)は別ページに詳しく書いた熱可塑性樹脂のカイデックス。丈夫で加工しやすく、また革のシースの様に塩っ気が無いので鋼材を錆びさせる心配もない。

 調理に使うのだから錆びる炭素綱の刃物は沢登りには合わないよね。山奥で食料調達しながら遊んで調理をする要求から生まれた道具というわけね。尤も同じ沢屋や源流釣り師でも、あまり食に拘らない人には要らないもの。登山屋さんも同じ。フリーズドライやレトルト食品で如何に荷物を軽くするかが命題の方々には関係ない話。しかし、長期に亘って山の中で暮らすには、渓谷を渉ったり雨の中でも行動しても錆びにくいこういった刃物は有り難い。

 大抵そんな話から始まって、新しいナイフを持ってくる人が居たりするとみんなで撫で回してその評価をしたりする。そして毎回登場するのが、A本さんの山包丁の話。以前、福島の山奥で落として、やっと2年後に見つけたというナイフの話。
 「それが、これなんですよ〜。」とおもむろに出すA本氏。翌年も探しに行って見付からず、そしてまた次の年に行ってやっと見つけたというもの。該当する場所は其処しかないと何度も見に行ったけど無かったというナイフ。それが、落ち葉に埋もれていて2年。鹿の角、サンバーストの柄も腐らず、そして山包丁の材ATS34の刃も錆びずに見付かったという奇跡。其の話をすると、みんなから「おお〜、凄い!」とお決まりの喝采を受ける。毎年毎回なんどでも受ける。居るメンバーは少しずつ違うけど、またまた受ける。これが毎回のお決まり。儀式なんですよ〜。
 だって、毎回酔っぱらった宴のたけなわに登場する話なので、その時にグッと盛り上がり、そして翌朝にはリセットされているから、何回やっても何時も新鮮なのね。ねー、素敵な話でしょー?

 んで、M井嬢、『大体、刃物自慢が始まると、いつも1時間くらいキリが付かないわよね。』、『ほんと、男の人って子供みたいよね』。はいはい、そーなんです、幾つになっても子供なんですよ。とは言っても、深瀬教室に来る女性陣も山包丁を持っている人は多い。それだけ、調理する機会は多いし、山で調理するのに便利なんだよね。

※A本氏は、其方方面に行ったときに山に何回も探しに入ったらしい。それでも見付からなかったんだよね。それで、この間改めて尋ねたら、『必ず見付かるというイメイジはあった。』そうなんだ。そう、イメイジできることは必ず実現する。そのイメイジ、ヴィジョンを持てるかどうか、また持ち続けられるかどうかが人生の未来に於ける結果を表すからね。あとは行動するかどうかが人生の分岐点。出来ない理由ばかり考える人、一般社会の常識に囚われていて固定された観念から抜け出せない人は、其の選択の時点で既に楽しい未来を捨てている。

M井嬢が貰ったカケスの羽根。綺麗だねえ。
M屋さんの包丁ケース。

 で、お約束通り出ましたねえ。今回は家の中なので何時もと違うのが出ました。元コックのM屋氏の包丁。それもケースごと出てきました。良い出刃も入っていました。これで、一頻り盛り上がりましたよ。M屋さんも宴会のツボを心得ているじゃないですかー。

 

【長ネギは空中切りね】
 そうしたら、わたしも出さないわけにはいかないでしょう。今回も群馬万場、刀鍛冶の系譜の天野鍛冶屋鍛造のペティナイフ+深瀬校長作のシース付きなんてのは持って行っていましたけど、今夜はお蕎麦を食べるので、更にネギ切り用に家で使っている和包丁も持っていっていた。これは数年前の結婚の際に、わたしの鍛冶屋の師匠の小山氏が祝いに嫁にプレゼントしてくれたものです。でも、勿体ないので、がさつな嫁さんにはあまり使わせていない。
 それでは、此はどーですかと、その包丁を出す。

 M屋氏の山包丁。A本さんと同じく自分で作ったそうだ。グリップの赤と口金の真鍮の色が素敵だ。M屋さん結構、色にもうるさいのね。
 ナオさんが長ネギの空中切り初体験。見てて怖かったので台所に避難。親指の爪とか第一関節のところを何度か削れば上手になりますよ。

 そして、長ネギの空中切りのレクチャー。先ずデモンストレーションをお見せする。わたくしの蕎麦は上品なものなので、薬味も同様にしたい。なので糸のように細く切ったネギをお出しするのである。噛むとジャリジャリと音がするような薬味はありえない。シャリシャリ〜っと噛む音さえもお上品な薬味なのよね〜〜〜。
 そもそも、ネギをまな板の上で切らなければならないくらいに切れ味が悪い包丁を使っていると、ネギから汁が出てしまって味が悪くなるというのは定説。それにまな板の上じゃあ細く切るのにも刃の勢いが付かないしね。沢山のネギを刻むのには手でもって切った方が効率がいい。

 この長ネギの空中切りは浪人生の時に近所の親しかった酒屋の次男のあんちゃんが蕎麦屋を始めたので、当初住み込みで手伝ったことがあり、その時からやっている技だ。当時は何本も片手に持ってネギ切っていたけどね。ということは、もうさーてぃいやーず以上のネギ切り歴史があるわけ? でも其の割には大したこと無いかもね。
 エッ、ネギ切りの機械? わたしは使ったことも見たことも無いけれど、嫁が言うには機械は一本ずつ切るので、上手い人だったら手に何本も持って切った方が全然早いとのこと。大体ネギも空中切り出来ないレベルの蕎麦屋だったら、其の味は推して知るべしかもね(なにえらそーに....と、、、言うよりね、嫁さんの蕎麦屋のオトッツァンの話を聞いていると、今の時代、へたな商売人よりも素人の方がよく知っているし、また実際に出来る人も多いと言うこと。但し商売として日々続けられるかは別の話ね.)。
 それで、皆さんでネギの空中切りに挑戦。

当然、M屋氏もできるのでM井嬢にレクチャ。
???

 この薄刃の包丁、兎に角よく切れるので、刃物好きのみなさんもビックリ。『おお〜!』と受けていた。でも、酔っぱらって刃物を扱うのは気を付けないとね。この時も、山包丁で誰かが軽く指に筋つけていたっけ。そんなことやっているから、わたしは直ぐ横のPCを立ち上げて貰い、酔っぱらって自分の指先を落とし損ない、アロンアルファでなんとか指が短くならずに済んだというページ(やっぱり、切り傷にはアロンアルファでしょ!)を披露した。

 向こう側が今回の刃物自慢用の包丁。手前は持っていかなかった鰺切り。両方とも小山氏作。
 右側が口金の部分。普通、此の部分は安いものはプラスティック。高いものでも水牛の角。銅の鎚目の付いた口金なんて無い。

 上の写真は、わたくしめの鍛冶屋の師匠である小山氏作の件の包丁である。小山氏は鉈や和包丁だけでなくナイフも作るが、本職は銅の加工業なのでこんな口金も作ってくれるんだよね。こういった薄刃の包丁類は鍛冶屋にとっても難しい部類のもの。小山氏の包丁は良く切れて刃が長持ちする。
 上の写真の鰺切りは、火造りして打ち上げたものを、刃身と柄だけ頂いてきて、刃は全部自分で研ぎ上げ形も作り、刃も付けたもの。中子も真っ赤に焼いて、柄の中に差し込んだ。そうすることによって柄の木が炭化して、中子が錆びにくくなるからね(包丁は濡れによって中子が錆びていきダメになる)。

 そんなことで、今回の刃物自慢は、これから食べる蕎麦の薬味、ねぎ切りを実際に行ったため実践的でみんな満足・・・?


そろそろ、蕎麦を食べようよっ!

 飲んで食べて刃物自慢や面白い話をしていたら、もう12時近くになってしまった。「もうお腹一杯でしょ?」と聞くわたし。「要らないよねえ・・」としつこい。

【旨いの基準】
 というのも、ちょっと怯んでしまっていたんだよね。それは、飲みながらの話。
M屋氏:『ホント、子供の時に喰った蕎麦が一番旨かったっすよ。』
自分:「そうなんだー。なんでかな?」
M屋氏:『やっぱり、地元で採れた蕎麦を臼で挽いてたからかなあ・・・』、『いま、蕎麦喰っても旨いと思わないですもん。粉悪いのかな。』
自分:「・・・・・・」 サーッと血が引いたね。不味い! こんなやつだったんだ。
 そして、A本さんはA本さんで、蕎麦打ちやっていたとか今日になって白状するしね。その上、M屋氏は、昔地元の蕎麦を粉にしたのを食べていた味にうるさい元コックだという.....なんで今頃言うかなあ? 食べる前にそんなこと言われたら、少し物事を知っている人間だったら引くでしょ普通。わたしなんか基本的に気が弱くて謙虚だからね。

 例えば、前述のわたしの鍛冶の師匠小山氏は、麺類にうるさくてウドンは自分で打つ。昔ながらの武蔵野ウドンが好きなんだよね。そのアニキもあちこちから粉取り寄せてウドンを打つ。武蔵野一帯は昔からウドン喰いの土地だから、古い家はみんな自前でウドンを打つ土地柄なのね。それで、小山氏は蕎麦も好きで地方に行ってもあちこちで食べている。
 その小山氏が、昔あるとき群馬の知り合いの家に寄ったら、家のお婆さんが、蕎麦を打ったばかりだから食って行きなせえ、と御馳走してくれたというわけ。また、その蕎麦が滅茶苦茶旨かったと言うんだよね。いまだにそんな旨い蕎麦を食べたことが無いという。それがその後のお付き合いで、詳しく聞いたところ、そば粉と割粉(小麦粉)が五五だという。同割りね。それで美味しかったと言うんだからビックリ。ただ、其のそば粉も自家栽培の玄蕎麦を臼で挽いたものだったそうだ。だとしたら小麦だってそうさね。群馬だからね(色々話を聞くと蕎麦屋でも5:5とか6:4位の比率で出しているところも少なからず有るらしいしね。但し普通の出前蕎麦屋ね。それから出前蕎麦屋のつけ汁は薄目にするんだそうだ。何故ならそういう蕎麦は配達中に伸びるため、つゆを吸い易くなっているので、濃いと塩っ辛く感じるかららしい)。

 尤もウドン食いの小山氏だからと言えるかもしれないけれど、蕎麦にも結構うるさいからね〜。小山氏は六十歳も半ばだけど、仲間内で食べることが好きな人と、噂の店とかに付き合いで一緒に行っているらしい。ところが、雑誌とかTVで流行っているといった店に入って旨かったことがないという。
 つまり、昔からその土地で丹精して百姓が作った蕎麦や小麦を製粉してから短期間保存の粉で作った麺類を食べていた人間だったら知っている本当の美味しさと、今の商売優先で有名になってもてはやされた店のものとは比べられないということを強く言うんだよね。スタートの基準が違うってことだわな。それを宣伝に載せられているだけなのに、知ったか振りして偉そうに旨い!って言うバカが多いんだよ、と口の悪い小山師匠はぼろくそに言う。
 でも、そう言っちゃあお終いよ! ってのは、それが今の社会が作り上げた文化なんだよね。今の爺さん婆さん大人達が、質の悪いものを受け容れてしまったため。便利や簡単ばかりに重きが置かれ、お金や物優先で拡張してきた結果、質の高いものが失われて哲学も理念も誇りもなく、社会の基準が低くなっちゃったわけ。それが生きる根本の食の部分までも貶めたのは誰の責任?

 食のレベルが低くなれば、当然感覚も鈍くなり、頭もまともに働かなければ、直感なんてものもスポイルする。斯くして社会は粗っぽくなり、隷属的な意識レベルの低い、刹那的で享楽的で暴力的な方向に堕ちていく人間が増えている。これを文化の崩壊というわけだけど、その責任は誰にあると思っているのかな。自分達の家族だけ守ればいいんじゃないんだぜ。周りの人間が不幸で辛い人生歩んでいたら自分達も影響受けるんだよ。ねっ。
 農家、食品製造業、飲食店、主婦等が見て見ぬ振りして便利簡単を優先してきた結果だ。化学調味料や添加物、白砂糖など、そういった食べ物は危ないぞと警告されていたのをさんじゅうすう年前の十代の時には知っていたので自分はあまり使わなかった。しかし、多くの家庭では気にしていなかったから、まともな精神状態じゃない人が増えた、今の世の中になったのであろう。・・・閑話休題・・・

 何れにしても、その土地の美味しい玄蕎麦から石臼で温度を上げず(静電気も起こさずに)に挽いたものを時間を置かずに早めに打って食べたら絶対に美味しいに決まっている。そういった食べ方は普通の商売屋(この場合、蕎麦屋ね)、通常の流通では有り得ないんだよね〜(我々が食える金額の、そして近くのという条件で)。小山氏は蕎麦も茹で上げた後の締めで冷やしすぎたら香も何も解らなくなってしまうと言って、やたらキンキンに冷やす蕎麦屋のことを認めない。小山さんだけじゃ無いけれど、私の周りにいる腕の良い職人さん達も、食に対しても色々注文があるもんで勉強させて貰っている(腕の良い職人は仕事の仕方や質に工夫するのが当たり前なので、食べ物屋に入っても、そこの店の人間がどんな意図を持って仕事をしているのか見抜くという意味)。

 その様な話を散々何度も何度も聞かされていたので、M屋さんの様に“地元で採れた蕎麦を臼で挽いてた”その蕎麦の味が身に付いた人が、自分の隣りに居たのでビビッたのもご理解いただけるかと思う。それにしても、別に蕎麦喰う直前に言わなくたっていいじゃんねえ・・・
 でも、ま、今更ジタバタしてもね・・・

マスターッ、、、おあいそ!!!
じゃ、お蕎麦を食べてからお終いに・・・

【キノコ堪能したから、そろそろ蕎麦ちょうだい!】
 ほーですか。蕎麦喰いますか。(^-^;; じゃあ、そろそろやりますかね。脅かされた後、開き直ってお蕎麦を召し上がっていただく準備を粛々と行う。

 茹でるための鍋も家庭用としてはでかいものを持ってきたけれど、それでも手打ちの蕎麦を沢山茹でるのにはちょっと厳しい。いっぺんに沢山の蕎麦を入れるとお湯の温度が下がりすぎる。乾麺と違って、そんな状態でダラダラと茹でていては、蕎麦が不味くなってしまう。手打ちの生蕎麦は投入して沸き立って蕎麦が浮いてきたらもう充分だ。如何に短時間で茹で上げるかがポイントなのかもね。だから蕎麦が多いときは、沸いてくるまで蓋を閉めて温度が逃げないようにする。
 そして茹で上がったら、自分の場合は三段階で洗って冷やして締める(家庭の台所だからね)。それを水切って笊に入れて出すんだけど、一遍に沢山は無理なので何回も茹でるために蕎麦を出すのに忙しい。蕎麦茹でるのはタイミングが勝負だからね。

自分:「ねえ、写真撮るからカメラに向かって、旨〜い!とかやってよ!」
みんな:『食べるの忙しいからダメ!×××』               

みんな:『薬味のネギ無いよ〜!』
自分:「茹でるの忙しいから自分達で切ってね〜!」

 あんなに山盛りに切っていたのにそんなに薬味使ったのか。蕎麦は、三回か四回か茹でたけど、多分残ったお蕎麦の量から考えると、打った蕎麦の重さで1700g位食べていたみたいだ。多めに盛る蕎麦屋基準で、せいろ13枚くらい分かな。違うかも知れないけれど・・・自分はあまり食べなかったし。残っていたのを味見でちょこっと食べただけ。だとすると、飲んで喰った後の夜中に、一人当たりせいろ2枚ずつ位食べたことになるわけ?

 さあ、お蕎麦を食べた後は、蕎麦焼酎だ。それもスペシャルなドローッと濃いそば湯で割ったもの。蕎麦を茹でたお湯の上澄みを殆ど捨てて、最後の最後の残ったそば粉の濃いところで割った焼酎はまた格別。この濃いそば湯なんて普通に飲んだら火傷する。口に含んだ後に、他の普通の熱い飲み物のようには温度が下がらないんだよね。
 旨い!

“M井嬢後日談”
M井嬢:『あんなに急いでお蕎麦を食べたの初めてだった〜。』
自分:「なんで?競争だったの。」
M井嬢:『そうなのよ〜。みんな何も喋らないで凄い勢いで食べているんだもの。』、『やっと笊三枚目くらいで落ち着いてきたのよね。』

“M屋氏から後日戴いたメイル抜粋”
>Tさん、お蕎麦とっても美味しかったです、朝早くから蕎麦打ち大変だったと思います、自論になりますが、食べ物を美味しく頂く時には感動が無ければいけないと思います・・・。
>感動しましたよ、とっても美味しかったです。

 良かった良かった! 他の方々もみんな喜んでくれていたけれど、当日はどの位美味しいと思って貰えたかが良く解らないままだったのだ。皆さん美味しかったの一言で、あとはお腹が一杯になったら寝ちゃった人が多かったしね。

 

【性格悪い奴の手打ち蕎麦は旨い?】
 でも、わたしが打つ嫁の蕎麦屋の粉を使った、それは更科でも挽きぐるみでも十割でもない普通の二八蕎麦だけど、やっぱり美味しいんだと結論。
 もっとも、取り寄せのそば粉で打った蕎麦と、店のそば粉で打った蕎麦などを取り混ぜて友達とかに出して食べて貰っていたので、それぞれにみな美味しいんだけど、粉の違いで(十割、二八なども含めて)ほんと蕎麦のタイプと味それぞれで全然異なるというのも解っていた。その美味しい蕎麦の中で、何故か嫁さんの店の普通のそば粉で打った手打ち蕎麦が食べた後の“旨かったぁ!”という感覚が一番残る感じだったのだ。
 他のページにも書いた友達の、天然酵母国産小麦でパンを焼く酵母使いの魔女みたいな友達とか、石窯焼きのパンを焼く無農薬無化学肥料栽培の百姓仲間なんかもわたしの打つ蕎麦は大のお気に入りなので、まあやっぱりそこそこは美味しいかなとは思っていたわけ。

 それを、今回更に自然からの戴きものである、採り立ての山菜やキノコ、イワナの刺身などを美味しく食べているナチュラルな舌をもった深瀬教室の仲間達に食べて貰って、自分の蕎麦のレベルが再度確認出来たのは良かった。
 そういう方々に美味しいといって戴けるのは有り難いことだからね。

 だったら、また機会があったら蕎麦出そうかな〜。だって、今回来られなかった方達も居られるしね〜。本会終了後に全員のメイルが飛び交っていたけど、わたしも自分のメイルに下記のように書いたしね〜。今度はご賞味戴かなくちゃ。

>もっとも、当日来られない方の事を想い、一生懸命蕎麦打ちをしましたし。
>(^-^;; (あ〜、性格悪っ...笑)

 あの蕎麦好き調理奉行のT原氏が来られなくなってしまい、とても残念なので蕎麦打ちに一層力が入ってしまったというわけ。ん〜、今度があると良いね? って。

 そんなこんなで、キノコ&蕎麦の会の夜は更けていって、年輩の順にシュラフに潜っていったのである。

 若者のE本氏。ピアスの孔はタバコくらい通りますよ、というので実演して貰った。便利ジャン! 昔はよく耳にタバコ挟んでいるオッサンいたけれど、いまの若い子は孔に通しておけば落とさないしいいよね。
 明け方近くにみんなの朝食の準備をしなくてはと、鶏肉を処理しているM屋氏。さすが元コック。手さばきは凄かったですね。昨日は夜勤明けで寝てないのに偉いよね。ちょこっと横になっていたと思ったら起きてきてこれだもの。

 大抵深瀬教室では、講習前の晩は23時頃集合して、3時、4時頃まで飲んでから翌朝早くから行動開始というパターン。そんなタフなみなさんだけど、今回は早めに寝てしまった。E本氏は夜勤続きで30時間以上寝ていなかったので夜のうちに自宅まで帰ったし。

 M井嬢は2時くらいまで起きていて、囲炉裏で色々な香草を焼いて遊んでいた。それはスマッジングと言うんだよね。インディアンの人達が邪気を祓ったりするのにやるんだもんね。其のM井嬢の仕事はガーデンデザイナーで庭の設計を生業としている。だから植物好きみたいね。なんかフランスにも2年くらい行っていたらしい。なもんで何事もセンスいいよね。
 それで、わたしと話が合うのは、以前、退行催眠やってもらったら前世はインディアンだったときのヴィジョンが見えたとかそんな話。だから、鳥の羽とかスマッジングとか似合うんじゃないの。そしてキノコね。マジックマッシュルーム、今度どーですか。ベニテングダケ!いけまっせ。

 結局、片づけしたり、M屋氏は朝食の仕込みをしながら4時頃まで起きていて、最後に二人で、M屋氏が用意してくれた夜明けのケンチンウドンを食ってから寝た。

 そうそう、そのM屋氏、ただいま人生のパートナー募集中。誰かいい人とご縁が出来ると良いですね。本人的には、“古着屋のTシャツみたいな男”だそう。それは、“いくらプレミアの付いたTシャツでもナカナカ売れません。”って言うことらしいのですが・・・なかなかポイントをついた例えかも。高く売れるとよいね。

 


当然、朝食もキノコづくし?

【朝から元気!】
 あああぁぁぁ〜、みんな早いんだよね。早く寝た人達は。7時台に起きてきていた。わたしは8時頃までゴロゴロ。前の晩もあまり寝ていなかったのでちょっと元気が出なかった。
 でも全員起きて、片づけから朝食の支度モードに入ってしまったので仕方なく起床。ほんとは、朝はキノコの天麩羅を温かい蕎麦にと思って、多めの蕎麦つゆや二番出汁を嫁さんの店から分けて貰ってきたんだけど、夕べのうちにM屋氏が朝は違うのでもいい? と、いうことだったので朝食はお任せ。ボーっとしていた。

 朝の光が射し込む台所で働く男。偉いね〜美しいねえ。りっぱだねえ。
 アオちゃんもよく動くこと。M屋氏と二人、元調理師コンビね。なんか良い画だね。

 わたしゃもともと朝食は日頃殆ど食べないので今回も全然食べたくない。その上、さっき寝る前に夜明けのケンチンウドン食べちゃったからね。なので味見くらいしか食べられなかった。ちょっと残念。とても美味しかったもんね。
 コウタケの炊き込みご飯はお塩でさっぱり味付け。M屋氏は、コウタケの戻し汁も使ってお醤油も使えば良かったと独り反省。でも、A本氏もその方が香りも良いしと同意。わたしはとても美味しかったんだけどね。そうすると更に美味しくなるんだ。みんな色々な調理をして食べているのでとても勉強なります! うちの嫁も連れてきてやりたいんだけどね。

ナオさん:『蕎麦屋とキノコ採りとどっちが大事だと思っているんだ〜!』
自分:「キノコですかぁ〜??? じゃ、来年は店畳んで、キノコ採りに参加できるようにしましょうかね...」

 おぉ〜、エプロンをした女性がいると、なにかまたひと味ちがうもんだね。いつもの深瀬教室と違う風景。ちょと違和感が。
 A本さん、フライングスタート! 夕べあんなに食べたのに、朝はもうお腹空いていたんだって。

 なんだか、一家団欒の風景みたい。お爺ちゃん、夫婦、そしてその息子さん、、なんちゃって・・・え、誰が誰? 冗談冗談。

 焼きジャケもあり、明け方M屋氏が下拵えしていたクリタケが入った鶏肉のトマトソース煮もたっぷりあった。
 コウタケの炊き込みご飯、けんちん汁、アカモミタケのオムレツだ。

 あと、けんちん汁には、カヤタケ、ムキタケ、ナメコが入っていた。朝からキノコ尽くしの豪華朝食だった。凄いよね。

 

【食器に拘り無く】
 ところで、皆さん気が付かれました? 山やキャンプやる人には直ぐ解りますよね。なーんと、食器がキャンプ用のプラスティックのもの。家の中でまでこれ使うかってモノですねー。ナオさんが出してくれたんだけど(みんなクーラボックスなど食糧や食器などをいつもの教室を同じように持ち込んでいるからねえ)、自分達は全然違和感ないのよね。もう、キノコ菌に可成りやられちゃっているかも・・・箸は流石にM屋氏が、家のを使ってよ、ってことで普通の箸を使わせて戴いたけどさ。これで相変わらずみんなで菜箸使っていたらね。あ〜、みんなおっかしいね〜! (^-^)

 


じゃ、また来春の山菜で!!!

【半年後か一年後にまた。じゃ!】
 お食事の後は、片づけをサササーッとして、細かいところはM屋さんにお任せをする(大抵は其の後も結構片づけや掃除があるんだよね:宴会が多い家主談)。それから昨日のキノコをみんなで分けさせて貰ってお土産を確保。それぞれ時間差で帰路に着く。今度、お会いするのは、来春の山菜の時かな、それとも夏以降のキノコ採りだろうか。あとは沢登りや源流遡行で会う人達も居ることでしょう。さて、ホントに忘年会やるの?それとも新年会かな〜?

 ナオさんは町田のモンベルに行くと言うし、アオちゃんも用事があるみたい。そして、わたしはM屋家から割と近い鍛冶屋の小山師匠のところに行くので、A本さんとM井嬢を誘って一緒に行く。鍛冶屋の小山師匠のところは金属加工業だし色々工夫した道具とか集めた材料類が沢山あってA本氏には可成り面白かったみたいだ。あと、M井嬢も大学の授業で鍛金もやったとのことで、銅パイプで高周波用の水冷電磁コイルを作っている小山さんの道具類は面白かったみたいだね。小山さんも鍛金を本格的にやりたくて道具を揃えているくらいだし、遊びで銅を叩いて作ったものもある。

 M井嬢も、自身の仕事に関する一般市販の庭のフェンスについても、デザインがシンプルなものが少ないため、気に入った形のものを自分で溶接をして作れたら良いとか考えているらしい。んー、やっぱり深瀬教室に来る人達は、男性だけでなく女性陣も、ものの観点が違ったり指向が創造的だったりして面白い。ナイフも自分で作ると面白いので是非チャレンジすると良いと思うんだけどね。

ああ、キノコ三昧!、そして、せいろは二枚でしたっ!

 その後、社会に戻っていった我々は、後日みんなで楽しかったねお礼メイルがメンバー間で飛び交い楽しかった想いを交換し合った。勿論、来られなかった方々にもCcしてあったので、同じく来られなかったS井氏も、『今頃は、みんな楽しんでいるだろうなと思っていましたが、やっぱり楽しかったんですね。その様子が目に浮かんでいましたよ(-_-#)。』と、気持の籠もったレスポンスを下さった。

 しかし、キノコ&蕎麦の会が行われた週末にかけて招かれざる客に襲われて参加できなくなって裏裏恨めしいメイルを下さったT原氏・・・その後メイルなどのレスポンスはないんです。寂しいなあ。じゃあ、ええ〜い!!!こんなページでどーですかぁ? 来年の教室まで此のページで楽しんでくださ〜い。

え?性格悪い奴は何時までもキノコ採れるようにならないって...聞こえないよ〜)by Recycler `07/11


 こんな薪で焚く鋳物の竈も持っておりますので、冷たい水が沢山ある場所だったら屋外でもお蕎麦をご賞味いただける可能性が。ただし、わたくしが車で行けるときだけですね。いつかそんな日が来ると良いなあ。

【蕎麦打ちに関しての考察+α】
  以上、ネチネチとジマンシーしてきた様な気がする?が、本ページの根本的な意図を汲んでいただければ幸いだ。つまりど素人だろうがなんだろうが、基本を抑えて蕎麦が打てて、茹でと締めが手早く出来れば、あとは粉さえ良ければ絶対に旨いということ。お蕎麦の味って有名店かどうかとか金額の多寡とは関係ないという話。田舎の名もないような普通のお蕎麦屋さんが有名店より美味しかったりするということもあるらしい。
 其の蕎麦打ちに際して、水の質が美味しくて更に蕎麦打ちに合っている質の水かどうかも大事。そして打つ人間の、良き気(愛かな?逆に変なエゴのプライドが入ったものを食べると胃が重たくなるからね)が入っていること。蕎麦を打つ人や出す人達が疲弊して気(生体エネルギー?)が枯れていると、確かに味は美味しいんだけど、食べた後の感動まで及ばない。頂いた後に元気が出る程ではないってことがある。

 以上の条件を整えれば素人でも美味しいものを作れると言うこと。そしてキノコ採り山菜採りもそうだけど、自分の手で採って(作って)処理(調理)したものは基本的に、素材の生命力をそのまま分け与えてくれるということ。M屋氏の仰られる感動とか、それから元気っていうものを与えてくれる食べ物が良いよね。素材の生命力(精)や調理に携わった人のエネルギー(気)を分けて貰い、自分自身のエネルギーを高められる飲食物がね。
 キノコや山菜もそうなんだけど、山から採ってきてその場で処理して食べると、ほんと美味しいよね。そして単に美味しいだけでなく、感動する、元気が出る。生命力を分けて貰っているという感じを実感。だから、食事を頂いて感動がないと、それは生命維持の為だけの餌となる。そういう食事ばかりしていたら精神が貧しくなって当たり前でしょ。

 だから、お金で物事を済ますのではなくて、自分の身体と手を使って、食べ物や道具類などなどを生み出す基本を忘れないようにしましょうよ、ということである。何処其処の店が美味しいとか、お取り寄せの何々が美味しいなんてことを自慢したり情報交換したりするのが街場の一般的社会だが、金がなかったら自分達は何を生み出し、他人に何を与え差し出すことが出来るのかという話。そういったことを、地に足が付いていない、虚構の世界に生きていると言う。
 下手でもヘボでも良い、今の自分が何を差し出せるかと言うこと、そしてその大したことのない自分を、現状は現状でさておいて、今少し推しだしてレベルを上げていき自分自身に自信が持てるようになるかと言うことだね

 それは、他と比較してどうこうではなくて、自分の内と比較して少しずつでも良いから進歩することが出来るかどうか。つまり、自分自身を自分の手の内に置いて自分でコントロールしているかどうかと言うのが大事なんだよね。じゃないと、自分の人生なのに、コントロール権がいつも他人(社会や組織、家族)の手の内にあることになってしまう。質が低い粗い生き方をしている人達の輪から抜け出そうとしても何時までも抜け出られないのだ。それ以前にそういった状態であることさえも気づかない。
 そういう人に限って、他人を批判したり政治や事件に文句を言ったり、なにかと不満の材料を探しているんだよね。これはお金や財産、家や土地を持っているとか、地位や権威などを持っているとか言うこととは別の話。どんな境遇であれ、自分自身の内と相対しているのではなく、自分の外の価値観に対して一喜一憂しているような芯の無いメンタリティだと、流れが良いときには確かにハッピーかも知れないけれど、逆風が吹いて自分自身思うようにならなくなったときが脆いからね。

 

【キノコ採り、山菜採りは人柄が大事(笑)】
 そもそも、そういった種類の人達には同レベルの同質の人間か、もしくは同レベルのまるきり反対の人間しか寄ってこないから、大抵は何かしらのトラブルを起こす。つまり常に不満を持っている種類の人には、結局不満ばかりの人生が付きまとうって訳。そして、其れは単に自分の内面が現実化しただけなのに、それがこの世の普遍的な真実だと思い込んでしまうわけね。他人も同じ境遇や考え方だと思うような幼稚な精神のままで、何時まで経っても魂が進歩できず人生の巾も狭いままで固定されがち。
 ところが、他の意識レベルの人達では、楽しい想いを持った人は楽しい人と縁が出来、そして楽しい出来事が多い人生がどんどん展開していくのにね。つまり、此は、“縁”の問題ということ。楽しい想いを持った人は、楽しい人、楽しいことに縁が出来、不満や不安、文句や要求ばかりの想いを持った人は、そういった“縁”が展開する。不思議と出会ったり、それ以前に家族や友達などの人生上の登場人物が、自分自身の想いの鏡になる質の人だったり、また、其のネガティブな想いを実現してくれる相手になる人であったり、そしてそういったトラブル自体に巻き込まれるような縁が出来るということ。
 その因果関係に気づけるかどうかは、自分自身を騙して自己肯定するような、自分は常に正しいと思い込んでいるエゴが強い精神性かどうかにある。つまり素直かどうかと言う心の問題ね。

 だから真実ってのは、それぞれの意識レベルと質に於いて確かに現実の様に思えるのであるけれど、それは深い部分の意識と行動を変えさえすれば、幾らでも現実や縁を変換することが可能であるし、伴って現実とか真実といわれるものも変わると言うこと。この世は多元的です。
 天国も地獄も同時に自分の中に存在している。それらの何れを選んで実現するかどうかは、その個々人次第。繕った口先のレベルではなく、心の状態、奥深くに押し込まれた感情の在り方が、発信する質によって縁を展開し、その人自身の現実を創り上げている。それを自由に選びたければ、まずは自分が変わると言うこと。ただし、自分のエゴの思い通りということではなくて、エゴ(自我意識)を超えた普遍的自己に同調すればということです。自分自身の隠された感情や、歪んだ意識下を先ず認識してから癒し解放しながらね。

 お釈迦様が体現した縁起の法も、イエスキリストの教えも、その他の先達が仰っていることも、市井の中に埋もれているけれど悟っている老賢者達もみ〜んな同じ意味のことを言っている。それはこの世の法則であり、人間の心の力、意識エネルギーの法則だからね。
 そういった因果関係の展開、自分の心、感情、意識下(言語外の意識)との間に法則が見えない人というのは、依存心が強かったり自己責任意識が無かったりして、意識的に自分の人生を生きていない人であることの証明。心の目の分解能(リゾリューション)の粗い、自分自身を客観的に観察できないという状態であり、心の訓練、魂を磨くことを自らに与えてこなかった人々でしょう。つまり社会に対して隷属的に生きてきた魂と言うことになってしまう。

 それは社会的な評価で立派かどうかとは別の次元の話。心の訓練、魂を磨くというのはそう言うレベルの話とは違うんだよね。だって、今の世の中の事件とか、身の回りの人の言動と行動をよく見ていれば解るものね。いわゆる社会的地位や物質的成功者が、人格者であるということとリンクしないことがバレてしまった時代ね。インチキが通じないということ。また、そんな新聞沙汰レベルでなくとも、自分自身を誤魔化してきた人は、其の歪みが増幅して出やすい時代になってしまったと言うこと。立て前と本音が違う人達が、自らの内側を強制的に観させられてしまうエネルギーが強くなっているんだよね。西洋占星術では、今のアクエリアスの時代は水晶に象徴されるようにクリスタルの質(ジェネレーター:増幅器)の時代といわれている。良いことも悪いことも増幅してしまうということ、そして透き通っていて誰にでもお見通しという質ね。
 だから自分達の周りにも、頭がおかしくなっているような、精神状態のバランスが狂ってしまっている人達が増えてきているはず。口で言うこととやっていることがドンドン違ってきているような人達ね。そういう人は、自分自身を誤魔化し騙しながら魂を傷つけてきた人達なんだよね。口では人格者っぽい事を言うけれど、心の内では違うことを考えている人ね(自分自身を観察出来ない人は、そう言ったことさえも自覚できない。自分を騙すロジックを頑なに作り上げてしまっているからね)。其の心の歪みのエネルギーが、外(社会)に向かわなければ、自らに向かっていき、病気になるか事故を起こすかになるわけ。

 そういう人が多ければ、社会が荒れるのは道理でしょう。そういう人が増えたから世の中が悪くなっていることも理解できるでしょう。誰が悪い、政治家が悪いというのは表面的な話で、実は自分達の心のレベルが低いから、自分達の本音を大切にしてこなかったから、其れが社会の現実に表出しているわけだよね。

 だったら、先ずは自分が変わればよいわけでしょ。そして楽しい仲間、楽しい現実を創り出していくこと。それが伝播していけば、気づく心を持った人達のネットワークが広がっていくのではないだろうかと思う。今の時代はインターネットもあるから余計に便利かも知れないけれど、そんなもの無くったって、人間の意識の底は繋がっているから、テレパシックにシンクロしていって、不思議な出合いや不思議な縁というものが展開する。そう言ったことは、楽しい意識の流れに乗った人達はみんな体験している。少なくとも、わたくしめの仲間や友人達、そして自分の仕事のお客さん達は、そんな人達が多い。

 こういうことは特別なことではなく日常的に我々普通の人達に起こるし、昔は宗教などで、“神の恩寵”とか“奇跡”とか言っていたことが、今の時代は普通に起きているみたいなんだよね。それだけ、心が開かれた人が多いんだと思う。社会の一方で、粗く堕ちていく魂を持った人が居るかと思うと、その反対のような魂が磨かれた人達が凄く増えていると感じる。そう言う流れの中で、どの様な質の生き方をしたいかどうかは自分次第、あなた達次第と言うことでしょ。少なくとも我々は、聖人君子じゃないけれども、楽しい事が多いのは事実。もっと光あれ! 磨かれてもっと楽しい人達が増えれば社会も明るくなるでしょうね。 

 深瀬教室のみんなは、多分そんなこと一々考えてはいないし、また、そんな小難しいことを考える必要もないと思うね、こういった素直な心根の人達はね。やっぱりなんだかんだ言っても人柄だよね〜。そう表向きの顔じゃなくて、自分自身でも認識しがたい性根の部分ね。人生が思うようにならなくなったときに噴き出してくる本音の部分ね。良い人ぶっていたって、言動や行動の端々に人柄って滲み出るしね。その上、自分のものと思っている、其れは、キノコや山菜の収穫物?、お金や財産、体面や権威、自我が作り上げた考え方、そしてちっちゃいプライドなどなど、を失うような極限?(笑)の出来事に追い込まれたときに、その人の本質、本音の部分が出るもんね。余裕があるときは良い格好出来るものだから、厳しい状況の時に初めてどんな人間なのかって質が見えて来るものね。もしかして、山菜キノコ採り、釣りってのは、少ない中から狩るものだから極限状態?本音の世界?(^-^)

 そう言えば、何年も前に今回来られなかったT原氏がキノコ採りの時に言っていたなあ。『キノコ採りとかしていると人柄って解るんだよね...』って。散会後にA本氏とM井嬢と一緒に行った、鍛冶の小山氏が二人が帰った後に言っていた。『キノコ採りの人達ってみんなあんな感じなのかよ?』、『Sさんが連れてくる大学の先生達と全然違うな。』、『キノコ採る奴って人が良いのかよ。俺の友達もキノコ採れたってゴッソリ持ってくる奴居るけど、まあ親切だよな。キノコくれるからってわけじゃないけど、自分だけという人間じゃないし穏やかで人がいいわ。』

 そのSさんってのは友達だから、どんな大学の先生を連れていったのかはちょっと想像が付きそうだけど、多分深瀬教室の面々とは人間の種類は違うだろね。自分も昔の仕事では、研究者とか大学の先生相手だったから、高名な大先生、有名な先生達がお客様だったこともあるので、そういった方々の其のメンタリティは想像付くしね。でも、同じ研究職でもお客さんの中に、某通信会社研究所の上級職の人が居たけど、その方は私生活ではキノコ採りをやるのでお付き合いしやすかったからなあ。
 もしかしてキノコ菌て人を素直にさせる何かがあるかも。えっ、逆? 素直な人がキノコ採りやるんだって? それも一概に言えないよなあ・・・

 もっとも、我々街場の人間がみんなで行うキノコ採りと、自然に恵まれた田舎の人達(山持ちだったり共有林だったり、はたまた他県のあちこちにまで出張する)が行うキノコ採りでは、一緒くたに考えられないしね。大体、普通はキノコが出ている場所なんて教えないものね。ところが我々仲間内だとキノコの発育状況などを其の都度メイルで回して下さるS井氏も居られるし、みんなで楽しく採りに行っている。
 だからなのか、行方不明者、滑落事故などのこわ〜いことも一切無いものね。沢やる人が殆どだから、崖から岩場から滑りやすい泥の斜面などの処理は当たり前なのと、声を掛け合い、また離れた場合にも随時呼び子で常に互い確認しあう様な基本的な事が当たり前に行われているからね。そして自分だけ自分だけという、他の人や、また大自然から分離した意識下を持った人も少ない(笑)から、大体に於いて運がいいんだよね。楽しく明るく軽い気持でやっているからさ。

 そういう意識状態や行動原理と逆の人達が行う行動をシミュレーションしてみれば、その結果がどんなパターンを持っているか予測できるでしょ。心が他者や動植物、地球と共振しにくい凝り固まった意識だと、大自然が発する変化の信号なんて気づきにくいしね。自分の心の状態が全てに反映されるわけね。人の縁もそうだけど、危険な場所に縁が出来てしまうかどうかもね。
 全ては自己責任、自分の意識の顕れでしかないし、そして、そういった中での魂の学びがそれぞれに於いて必要だから起きることなんでしょうけどね。でも、独りでキノコ採り行って遭難とか行方不明なんて嫌だよね。みんなに何言われるか解らないし、それじゃあ潜在性格丸出しじゃんねえ。
 うちの近くの山も、結構険しいところや崩れやすいところが多いので気を付けてキノコ採りやりましょ。つい夢中になっちゃいますからね。でも、装備類は何かあったときの為に細引きのロープ類を含めてちょこっとした山にはいるときでもちゃんと持って行っているし。

 街場の生活でも仕事でも、そしてこういった遊びに於いても、自分自身が、明るく軽く、楽しい意識状態であるかどうかを客観的に観ることが出来る能力ってのも大事なことだと思いますよ。
 重たい暗いものを抱えているんだったら、解消解放した方が色々なところで幸せになれるのでは。今の時代、物理的にも太陽の黒点活動が盛んになっていて、日射しが今まで経験したことが無いくらいに強いですからね。この光は浄化の機能を持っているように感じている人が割と多いみたい。心の中にも光を沢山受け容れましょう。

 スミマセンね〜、うちのサイトのページって、こういう能書き言いたいが為に食い物を題材に(擬似餌?)を流しておびき寄せているんよ。。。あっ、たま網がない!たま網が〜。手元に置いて於かなくちゃあ・・・

 

【沢屋の生活術は万能】
 また、もう一つ大事なのは、今回のメンバー皆の接点である沢屋の生活術は、ミニマムの装備のみで山奥を渉猟し、且つ楽しく美味しく暮らすノウハウの宝庫に思えるからだ。マタギは狩猟を本分とした深山の知恵者だが、沢屋は、世帯道具を背負って移動していくサンカ(と云われる漂泊の人々)に近いものがある様に思える。
 その上、滝や崖を登り下降する技術もあり、山中や川での事故者をレスキューする技術もある。また雪渓処理からビヴァークのノウハウもある。人によっては雪山からアイスクライミング、狩猟もやっている。そして激流をザイル徒渉し湖を泳ぎ渉る、テントなんか無くともタープやブルーシートでテン場(寝泊まりするところ)も作れる。必要とあらば、山の中の樹や枝、針葉樹の葉や笹などでも小屋掛け出来る。なんといっても大増水した渓谷の崖でお座りビヴァークで夜を明かす人達だ。
 食材も、山菜、キノコ、木の実、川の魚、海の魚などなど自然の中から調達する智慧と知識とノウハウを持っている。その上、バラエティに富んだ美味しい料理を楽しく作る。此の沢での旨い食べ物を喰うってのは、昔から源流遡行をやっていた深瀬校長をはじめ先輩先達方々みなさんの得意技ね。山で食料調達が出来るっていうのは、それだけで山奥に入っていく意味合いとスタンス、そして装備そのものが変わってしまうしね。

 なにか事が起こって現在の都市機能が一切止まったとしても、大地震で家屋が一切無くなったとしても、道が寸断されたとしても、川が激流と化したとしても、大雨が降り続いたとしても(沢屋の装備は濡れたり泳いだりすることが前提だからね)、その様な状況の中で最も臨機応変に対応が可能なのが沢屋という種類の人間かも知れない。自分も少しで良いからそんな力を身に付けられたらと憧れてお近づきになったわけ。
 その上、深瀬教室のメンバーは、深瀬校長の明るく楽しく冗談ばっかりのメンタリティと、若干のいい加減さを含めた心の余裕を教え込まれているからね(とは言っても、料理の火加減とかタイミングはうるさいよ〜。それから礼儀ね。この間なんか料理屋でお茶を注ぐのに急須を左手の逆手に持って注いだら、「それは熊の逆手のなんたらだ。チャンと右手でもって蓋を押さえて入れなきゃねっ」、とピシッと叱られてしまった...)。

 

【沢屋の精神性:沢登りや、山菜キノコ採りでの事故を回避する心の向き】
 そんな沢屋のメンタリティと技術をもった人達は、何時災害が来るか解らない此の時代に於いて、例えそんな状況にならなくとも、また日常生活に埋もれてしまったとしても、どんな状況にも対応できるという自信が、自らの精神性を高めてくれるのではないかと思う。

 そういったこととは反対の、街の便利生活やお金に踊らされ、実際の意味でも地(大地)に足がつかない人達の脆弱な精神と欺瞞に満ちたロジックは、右脳と左脳、理性と感情、立て前と本心のギャップをどんどん広げ、自分自身さえ気が付かない衝動を自らの意識下に抱え込み、自分自身さえコントロールできなくなって自己崩壊を起こしているのが見て取れる。

 そういったアンバランスな精神、アンビバレントな自己を持った人間は山の中では通じないからね。そういう意識下の歪みを持っている人は、必ず事故る、怪我をする、トラブる。これは街場の人生でも同様。人前には出さなくとも、心や感情に鬱屈したものがあり、口が批判的だったりすると、必ず其の質がその人の人生上の問題として顕れるものなのだ。
 当サイト内の他のページには、こういった内容について詳しく書いているが、心理学で言う自己処罰という自分自身の無意識的行動がある。自分自身の、良心に対して責め苛まれるような事をしてしまった場合、無意識の内に自分自身傷つけるような行動を起こしてしまう事を言う。わざとでは無いのだけれど、失敗したり頓珍漢な行動をして怪我をするとか痛い目に遭うようなアクションを起こしてしまうなど、自分自身を傷つける行為を無意識的に行ってしまうと言うものだ。此と同様の事を右脳左脳の研究をした脳生理学においても、右手が行っている行動を左手が邪魔をするといった様な、自分自身の意識的行為(やろうとしたことね)を、無意識(言語外意識:右脳意識?)が否定して邪魔をするという観察研究結果がある。
※脳の手術で脳梁を切り離した場合に、人格が二つ現れる。右脳は左半分の身体を司り、左脳は右半分の身体を司る。健常な場合には左右の脳で情報の行き来があるから、こういった現象は起きにくいが、時として心がパニックになった状態、乱れた状態の時には、往々にしてこういった現象が起こっていることを理解している人も多いかも知れない。料理の時に包丁で切るとか、木工作業中に釘を押さえている片方の手を打つなどに於いても、場合によっては単純なミスではなく心の乱れが表出している場合がある。自分は昔、可成り激しい和太鼓を長い期間行っていたが、メンバーの中には、何故か毎度反対側の親指だけ強く叩いてしまうと言う癖が抜けない人が居たりした。怪我や事故、ミスが多いという種類の人が居る。それは単純にオペレーションミス(操作間違い)ということではなくて、どこか意識の乱れが強いものを抱え込んでいるんだよね。また、事故や事件現場に居合わせて巻き込まれてしまう。これは偶然ではなくて、自分自身の心の奥の歪みと、その又奥の人生上のプログラムから来る。ネガティブなシンクロニシティ(synchronicity、意味のある偶然、共時性)を事故と言います。縁の問題ね。そして其の縁を発動させてしまう、その人の深い部分での意識(因縁、カルマ)が問題であるわけ

 また、ネガティブなことばかりに注目していると、自分自身の身体の上、また人生上に具現化してしまうのが人間の意識の力であるから、他人を批判したり、攻撃したり悪口を言っていたり、また実際に傷つけたりすると、それは全部自分自身に還ってきて自分がそのものを体験することになる。此処に上げた精神活動は、仏教で言う修羅界の質を顕わしている。それが重度になると地獄界と言うことになるのだろうか。修羅は争いや諍い、競争の世界である。他人を裁き、自らも裁かれる。例え社会的に有意義な活動をしていたり人々に貢献をしていたとしても、感情、意識下にこういった偏向性があると、質の高い活動を行いながらも争いや競争が起き、心ざわめく出来事が巡ってくると言うことになる。自分自身のそういった攻撃性に反応してくれる同じ質の人間や出来事を惹き付けてしまうというわけね。または、相手の意識の奥にしまい込まれている批判的だったり攻撃的だったりする部分を呼び起こしてしまうという。
 縁が引き起こす結果。因・縁・果・報。転生の中で魂が引き継ぐ、ものの見方、価値観、情動、行動パターン、執着の対象など個々人の偏った心癖、偏向性をカルマ(業)といい、そういったカルマ、つまり魂の方向性と質と勢いを作り出す情報(プログラム)を因縁というのね。

 今の時代は時間のスパンが短いから、全部自分自身が自分の行為(感情や潜在的な意図を伴った)と結果の因果関係を認識できるくらいに素早く現実化している。だから、自分の行為や感情(意識下)をしっかりと手綱をもってコントロールしないとならないわけ。だから、危険な遊び、チャレンジが伴うことは、そういった不満を抱えている人とか他者に対して攻撃的な人、批判的な人とは、パートナーを組まない方が安全かも知れないね。

 先に書いたことと重複するが、山菜キノコ採りとか、狩猟とか、岩登りとか沢登りとか、山奥でのサバイバルとか、こういったことの幾つかに関して、素晴らしい才能を持った方々というのは沢山おられる(自衛隊では訓練として行われているようである)。また、此等の全てに於いて常人ならざる能力を持った方も居られるだろう。でも、深瀬教室の素晴らしいところは、楽しくて明るいことにある(つまり、感情や心に歪みが少ないって事ね)。それもメンバーの多くの人がね。

 ものの考え方が後ろ向きだったり、他者に対してやたら批判的だったり、自分の力を奢っていたりすると、結局そういった感情の部分、未消化の無意識下の意識は必ず現実化する。本心から願っていることを行っているのでなかったり、行為を心底楽しんでいなかったり、未来のヴィジョンが自発的に持てて居らずに、動機が他動的で義務的であったり、また、他者との比較や競争に於いて自らの力の証明であったり、自分自身の内側に未消化の不満や感情が鬱屈した状態があったりすると、その行動の結果、必ず何らかのミスを起こすか、なにか不運の巡り合わせが起こったりして、自分自身の内に持てる負のエネルギーは必ず自らの人生に現象として還ってくるからね。

 それが、例え他人に起因するものであっても、その現場に自分自身が居合わせること自体がその顕れだし、また他人とのコミュニケーションに於いての行き違いが生じることもそうである。そして人間関係での摩擦も、それも全て自らの心の状態の鏡だね。つまり、先に書いた“縁”というものによって、引き付けられた現象ね。
 此の点について確かに双方とも鏡の状態とは言えるが、往々にして其の人の周りで起きる出来事の巡り合わせが良くない場合には、そちら側の人に解決すべく問題点があるケースが多い事も申し添える。これは、前述の、他人と共同作業を行っていく場合に於いてのパートナー選びにも関連する。何かを成し遂げようとする場合、意識や感情の流れが滞る相手、また作業や仕事、そして出来事のの流れ、巡り合わせが悪い人はこういった深いレベルの意識や、心の状態(感情)に未消化の部分、未熟な部分があり得るので、そういった観点からパートナーとするかどうかの判断方法も持って於いて損はないであろう。

 しかしながら、この深瀬教室では、校長は当たり前だが、メンバーの多くのみんなが、自分自身の頭で考え(自立、自己確立)、自分の手でもって目の前の事柄を成し遂げようとする姿勢(自己責任)、工夫したり智慧を絞ったりして問題や難関を突破しようとする(沢登りなんて時々刻々其の連続だからね)心の向きを持っているのが好ましい。出来ない理由、やらない原因を探すのではなく、チャレンジする心と、明るく楽しんでしまう雰囲気が身に染みついているんだと思われる。

 そういった素養が、宴会とか料理にも質として出る。また宴会やっていたって、いわゆる愚痴や批判的な話って出ないしね。何をどうするかとか知識や智慧の話、あとは、冗談、ジョーク、駄洒落ばっかり。おっと、ちょっと?の自慢話もあるよ。
 そんな話ばかりだから他人の悪口とか批判とか、誰が悪い、社会が悪いだの人のせいにするような話は殆ど出ない。だから、一緒にいて本当に楽ね。つまらない意味での精神的ストレスが少ないから。

 自分自身が差し出すものが戻って来るもの(例え心や感情に押し込んでいても...結局は、身体や人生上の出来事として顕れる)。どんな理由であれ、自分の心の状態や口にしたことは、結局は自分に還ってくる。例え相手が悪かろうがだ。そういう質の相手に縁が出来ること自体、その人の本音の部分、表向きとは違う本性の質と呼応している。口で幾ら美しいことを言っていたって、その人の周りに起きることを見ていれば、そのオブラートに隠された本質が見えるものだ。そして、例え相手が悪い人間と一般的に言われている人であっても、此方側に同調する質を持っていなかったら、逆に悪いと言われている人であっても良い部分のみでお付き合いできるような事さえある。

 だから、世間的評価で、“あの人は良い人”などと評判がよい人でも、人生波風多く、事故や怪我や病気などが多かったら、意識の深い部分、感情の部分に歪んだものを持っている可能性が高い。恨み辛みが多いとか、妬み嫉みの心を持っているとか、または自分自身を大事にしていない(自分を受け容れてることや、自信を作り上げることをしてこなかった卑下が強い意識)とか、逆に驕っているとか、自分自身を幾ら誤魔化して自己肯定(人間は自分自身を騙します)しようが、全て表面上の問題ではなく内面の問題、魂のレベルの問題である。それが表出しているだけ。全部、自分自身の心の在り方と発信しているエネルギーの問題。その葛藤(仏教で言うと渇愛:タンハー)が、ネガティブな人の縁や事件や事故、病気を引き付けたり引き起こしたりする元ね。

 それが例え貰い事故の様なものであったとしても、其のタイミングで其の現場に居合わせること自体が自分自身の質を顕わしている。良い意味でも悪い意味でも縁が出来るということは、自らの内に共振するものを持っているということを顕わしている。表面上笑っていたって、心から楽しんでいなければ、その人について回る現象は楽しくないことになってしまうのは仕方がないこと。文句言いの性格の人には、不満がついて廻る人生になるし、当然波長が合わない人は離れて行くから益々満たされない人生になり、不満と文句のループに陥ってしまう。その様に全て自分自身が元。だから現象から顧みれば、自己責任という言葉の意味も理解できるであろう。

 故に、自分自身の心根が奥底から変わることが出来たら、人生の色々な展開が変わってきて楽しいものになっていくものなのね。先ず自分が変わることが大事というのはそういうこと。
 そういう自分自身が変わるということをせずに、他人にばかり要求している幼稚なレベルの意識って言うのは、依存心が強かったり自己確立出来ていなかったりして、他人や社会に寄りかかることばかり考えていて(他人を利用するということ)、そして家族や組織や自治体や国が、自分の要求を満たしてくれないと不満ばかり述べているわけ。
 自分が何かを差し出す側ではなく、貰うこととか認められること(他者のエネルギーを吸い取っている)に意識の焦点があっているというのは、自分自身の足で生きていないということ、自分自身を弱いもの低いものに固定してしまっていて、一歩踏み出していないということね。勇気をもって一歩踏み出せば道は開けるし、自分自身の判断と決意と工夫によって道を切り開いていけば、それが自信になって更に道が広がるし、楽しさも拡がっていく。

 だから日常の言動とか、雰囲気とかが明るくて楽しいことが、結果、巡り合わせの良さや、危機回避の閃き(リスクマネージメント)に繋がったりするわけね。運の素ですね。これは、日常に於いてもビジネスに於いても同じであるが、特に、沢登りとか、そういったエキストリーム的な危険を伴う遊びというのは、精神的な余裕や楽しさが根本に無いと、何処かで破綻する可能性が強く出てしまうであろうこと。
 勿論のこと、危険な作業を行うときは真剣だから厳しいのは当たり前。そういった事を乗り越えている実力あっての楽しさだよね。ただの仲良しグループじゃない仲間。そして、厳しい中にも楽しさ盛り沢山なリーダーである校長。実力と共に人を引っ張っていく心の力とオーラを持っているし、其の実績も高い。
 こういったことが、何十年も多くの人を一般的には危険なところに連れて行っていても深刻な事故が起きたことのない深瀬教室の精神的素養なのだと思う。

 自分は、人の意識と文化の在り方とか意識科学などに特に興味あるのだが、大自然の中で縦横無尽に跋渉する沢登り(源流釣り、山菜キノコ採り)をする人達の精神の中に、欺瞞とか虚構が入り込む余地のない世界を観て、改めて身体を使った上での智慧や閃きの大切さを感じる。そこにテクノロジーとか物質に囚われない原初的な生命力を感じる。
 地に足が付いているというのは楽しいね。美味しいものを山や川や海から頂いてきて、大地で作物を作り、山の木を燃料として調理するなどなど。其の掛け替えのない美味しさとか有り難さとかとともに、どんなことがあっても生きていけるという自信。それは大地と自然があってのこと。机上の自然保護論だけでは解らない実感と得心。みんなで楽しく山に入りましょ。

 

【沢登りと世の中の渉り方は相似的?】

 なんで、こんなによいしょみたいな内容を書くかというと、世の中、中高年を中心にレベルの低い登山事故が多いからね。何か根本が変? 地形図も読めない人達がパックツアーで登山とかね。装備もろくに持たないとかリーダーもあやふやで危険な山域まで登ってしまうとか。それもこれも、日本人の依存心の強さ、自己責任のなさに帰依する部分が大きいように見えるね。今の日本人で、自分達でも認識できないくらい幼稚な精神レベルの人多いしね。いい年寄りまでもだぜ。

 だいたい、日本では、町中の標識や電車の中での案内放送など手取り足取り余計な親切が多く、景観を壊したり騒音が多かったりする。そういうのが当たり前という人種が、山道にやたらに案内板を設置する。其れに依存して地形図などを見ないで歩いていると、案内板が壊れていたり、無くなっていたり、向きが変わっていたときに道に迷い危険な方へ入っていってしまったりするしね。グループに於いて、登山に当たり前の行為である登山道も確認することもせず、そしていま何処にいるのかも知ろうとしないで、誰かに寄りかかってゾロゾロとアヒルの行列のように山登りするメンタリティは、事故や遭難が起こっても当然の要素だらけだものね。事が起こらないのが不思議なくらいの状況である。これは、登山に象徴されるような日本国民の精神性ね。国や自治体に依存して自助努力もせずにゾロゾロとくっついているだけ。物事は全て相似的だから、心の中もやることも何処に於いても同じというわけ。

 だから国自体が他国に依存して隷属的な状態な訳でしょ。構成する国民一人一人の意識レベルと相似的であるのね。此は幾ら屁理屈言って否定したり、自己肯定的な理由を並べ立てようとも、意識科学的な切り口から観たら、当に其の通り。一人一人の心の状態を反映している現象。そうは言っても、其の一人一人心の状態もコロコロと変わるわけだけど、総じて其の傾向が出やすいという意味です。だから心、そして感情のマネージメントが必要であり、そこからくる行動パターンの転換が必須。そう言ったことが実感でき無ければ、自己責任の下に意識的に人生を送っていない意識の質が、ご自身の人生を覆っていると言えるのではないでしょうか。そしてまた、関係する仲間や家族、そして国全体の質にも個々人の意識状態は強く影響しているんでしょう。

 だからこそ、自分の心の在り方に責任を持つ必要があるわけですね。例え行動に移さなくとも、心の奥から発せられる意識エネルギーは、良くも悪くも他人に対して影響を与えている。だから今回の会の様に、また深瀬教室の様に、気持に余裕がある楽しい人達だと良き連鎖の輪が出来るのかも知れない。

 そうは言っても、沢屋さん全てが自立的で明るいというわけでもないし、人間的な特質に於いてレベルが高いとかいうことではないでしょうけれど、取り敢えず自分に縁があった深瀬教室でお付き合いさせていただく人達には、自助努力とか自立精神とか自己責任とか、そういった話をわざわざしなくても良いような方が多いように見受けられる。大体、一緒に行動していても話をしていてもほんと楽なんだよね。
 それも当たり前で、沢登りという危険を伴う遊びの技術レベルや応用技術を学ぼうとかレベルを上げようと言う人達の集まりだし、命が掛かっている厳しい状況を、自らの智慧と技術に於いて切り抜けようとする人達だしね。その上、山菜を採ったりキノコを採ったり(此だって毒の物があるので危険と背中合わせだからね)、魚を釣ったりして、深山の中での生活術を楽しく身に付けようという人達同士が長い付き合いになっているのだから・・・
 ま、大層偉そうな内容になってしまったけれど、此等の件は深瀬教室の宣伝というわけではなく、一つのサンプルとして提示しているわけなのでご了承賜れれば幸甚です。

 さて、沢登りの技術書やルートブックなどは随分と増えたが、1990年頃に出た深瀬校長の「渓流跋渉術」とか吉川栄一さんの「沢登り」入門とガイドなどの本の様に、経験者の想いとかロマンとかが書かれた本が無くなってしまったのは寂しいね。あとは、柏瀬祐之さんの「山を遊びつくせ」かな。何れも著者の想いが籠もったワクワクさせてくれる内容のもの。
 此等の本を読んで憧れた世界に少しだけ足を踏み入れた似非アウトドアズマン、似非エコロジストレベルの自分だが、以上のように教えていただける人達が周りにいるのが有り難い。こういった世界に於いて部分部分ではもっと凄い人達が世の中にはいっぱいいるだろうけれど、こういった食にもこだわりを持った危機回避能力の高い沢屋さん達は、もっともっと沢山日本中に増えたら良いよね。
 大体、里山だと人が山に入らなくなると山自体が荒れちゃうし、奥山なんかは、信じられないことに違法伐採を林野庁主導で行っていて、ブナ林などの原生林が荒らされちゃうからね。※此の件は、会津のブナの原生林保護にも関連して原生林の違法伐採への反対運動をしている方々(奥只見町役場他)の観察会に行って来たので別ページを立ち上げて報告します。

 以上、キノコ採りと、蕎麦打ちに関連して、話をさらに膨らませてしまった感があるが、此の件に関して、なんらの意図があるわけでもなく自分の利益があるわけでもない。何かの政治的信条でもなければ宗教的教条でもないし、ましてや食堂や蕎麦屋の宣伝でもない。ただ、好きな深瀬教室とそのメンバー受講生達の宣伝?はあるかも。だからといって深瀬教室(東京マタギのアウトドア教室)に誘うものではないつもりだ。

 申し上げたいのは、今の世の中の渉り方である。模すれば現代は奔流、つまり渓谷の強い流れのような荒れ狂う流れの様であり、其処を徒渉して向こう側の山菜やキノコが沢山ある楽園に辿り着くためには、其れ相応の意識レベルと心の向きをしっかりと定めないと要らぬリスクを背負ってしまうということを自覚して欲しいと言うことである。
 感情を制御し、心をマネージメントし、口を慎みむこと。口を開いたときには、楽しいこと、成し遂げるための工夫、“無私”の思いやりと気遣い(裏に損得勘定の意図が含まれている人は幾らでもいるんだけどね)、自己を確立し、自分の責任においてものごとを為していく姿勢などなどを身に付けて、道を進んでいけば自ずと未来が開けるであろうことはこの世の法則のようである。

 此は、書くと当たり前のことなんだけど、其れがなかなか出来ない。頭の中が整理できないのは心がノイズだらけだからだ。自らの思い込みや、間違った信念、誤努力の結果における現実認識などにしがみついていたり、見栄やプライド体面などを手放すことが出来ないからだ。
 つまり心理学用語である“社会的自我(エゴの仮面)”というものばかり鍛えちゃったわけね。自分の内に向かわず、外(社会)に価値観を置いているものだから、如何に社会に適合しようかと言うことばかり頭にあって、社会的に評価を受けるために一生懸命だったわけ。其れが良きものであれ悪しきものであれ、自分の手に入れたものを捨てることや手放すことが出来ないんだよね。みんな欲かきだからね。そういったものを捨てることから気づきが始まるんだけどさ・・・

 荒れ狂うような奔流や濁流であっても、木の葉とか木の枝の様な軽いものは、流れの中に沈み込むことなく上を流れていく。軽いものは荒れ狂う河の中にも沈まないものね。また、ぶつかっても自らの重さで自身を傷つけることが少ない。相似的に人の心も同じだよね。軽く、柔軟で、そして明るい心は、現代社会の混沌の流れの奥に沈み込むことなく、上手い流れに乗って目的のところへ辿り着くことが出来るであろう。

 そんな偉そうなことを自分がわざわざ書かなくとも、自分が末席に加えていただいている激流を徒渉し壁をよじ登って尾根に辿り着く沢登りを行っている深瀬教室の面々は、当たり前のように身に付けられている様子なのである(だと良いね...)。また、此処に書いたような法則が、小難しいことを言わなくたって自然と身に付いたり感じたりする事って大事だよね。昔は大自然の中でギリギリの安定しない生活をしていたから、そういった法則が実感として感じられていたのだと思う。だから言い伝えや、格言として伝わってきたんだろうね。今の時代はお金やテクノロジーによって、そういった本質的なことが見えなくなっている上に、いつの間にか破壊的な事が浸透してしまって、社会自体が何時崩壊してもおかしくない時代になってしまったのが現状でしょ。

 だから気づいた人達から生き方を変えていかなければならないし、それは今まで通りの生き方では何もならないわけね。そして、その前に、心のマネージメントや意識の歪みを取り去って癒すことが大事なんだわ。それには、こういった楽しいパワーを持っている人達は大事だものね。頭だけで考えていたって何も変わらないから今の時代になってしまったんだからね。歳とったら偉くなるとか、人格者になるとか言うことも有り得ないし。今の年寄り達の多くがまともだったら、今のような世の中になっているわけがないでしょ。日本の伝統文化の“知識”を引き継いでいる人は多く居ても、“智慧”とか“霊格”を引き継いでいる年寄りって本当に少ないからね。勿論、それでも尊敬できる立派な方々も少なからず居られるのでそんな方とお会いできたときは本当に嬉しい。ただ、所詮魂のレベルに関することだから、若くったって子供だって素晴らしい魂を持っている人達が多い。そういう人達同士で、虚構や欺瞞の世界でない大自然の有り難さが解る機会が出来て、そういう場を提供できたらいいよねえ。

 多分、おそらく、メイビー(校長の口癖ね)、そんなグループは他にも沢山あると思う。その中で、自分に縁のある、己の波長にあった人達に出会い、自らが属する社会の中、地域の中で、そういった姿勢の生き様を通すことで、心ある人達と良いご縁(シンクロニシティ:synchronicity、意味のある偶然、恩寵)のネットワークを拡げて行かれる方が増えれば増えるほど幸せな人が多くなっていくと思う。荒れた世の中だからこそ、そういったご縁のネットワークを大切にして育てていきましょうね。

 その様なわけで、キノコ採りのイベントを主題にそんなメッセージを織り込んでしまった。ご登場の皆さんご勘弁ね。わたくしめの個人的メッセージと、深瀬教室及び其の面々とは何ら関わりはございません。でも、M屋さんの、ありがとうメイルに書かれていたように、みんな素敵な人達だと思いますよ。そして、其の母体の深瀬教室は当然ね。楽しくシンクロしていることが多いよねえ。なので、諸々の条件が合えば、みんなが喜んでくれる蕎麦打ち、またやりますからね。お楽しみに。感謝!!! H.T拝

 

【番外のさらに番外:心のパワーによる現実化のコントロールについて】
 うちの此のWebサイトも10年以上一貫してそんなメッセージを色々なテーマに織り込んで発信してきているわけだけど、自分達自身多少は進歩できているのかどうか・・・でも、プライベートも仕事でも、楽しい人達と様々なシンクロを楽しめているのは事実。それは、お金を介在しなくとも(少ないお金でも)美味しいものが食べられたり、必要なもの欲しいものの質の良いものが不思議と(格安&只で)手に入ったりして、面白いくらいに充実していたりするわけね。但し、うちの場合、収入は非常に不安定で社会一般からいったらとんでも無いレベルなんだけど、不思議なくらいに巡り合わせが良く、また周りの方々に助けられて楽しく充実した生活を送れている。感謝感謝だよね。
 此のページの題材になっている深瀬教室と其の面々の方々には、まいど楽しい想い、美味しい想いをさせて頂いている。巡り合わせが良いんだよね。このWebサイトを立ち上げた10年くらい前にご縁を得て岩登りから沢登りについて教えて貰ったのがお付き合いの始まりだった。高所恐怖症だし泳げないという人間が何故かそんなことを始めてしまい、戸惑いながらもどんどんはまっていき、今では一丁前に沢登りについて語るようになってしまっちまった(相変わらず口ほどに実力は伴わないけどね)。

 人生の上で進む方向が見えなくなるってことは良くあることだけど(わたしだけ?)、自分の進んでいる方向が進むべき道なのかどうか、手掛けていることが今やるべき事なのかどうかを見極める術として、どれだけ物事がスムーズに流れるか、人や物との出合いがあるかどうかと言うことが一つの指標になることが往々にしてあった。巡り合わせが良くないと言うことは様々な要因があるであろうけれど、それ自体がメッセージだったりする。向かおうとする方向は良いけれど未だタイミングではなかったりもすることもあるしね。其のタイミングというのも、周りに対して時期ではないということもあるけれど、自分自身の中でまだ消化しなければならないことが有って準備が足りないことだったり、またはカルマ的に滅罪してマイナスのエネルギーを昇華させなければならないテーマが未消化だったりする。

 そう言う意味では、わたしの人生に於いて沢登りと深瀬教室は絶妙のタイミングに出会い、そして頭だけではなく実践的な技術と、その精神的な部分について体験を通して学び、大きな糧となっている。その上、山菜とキノコね。山や自然に対する理解も少し踏み込めるようになってきた。今となっては此が用意された流れという感が強い。本当に有り難いことだ。

 さて、此処で(進んでいる方向が)正しいとか正しくないと言った判断の仕方をしていないことに気づいていただいけると嬉しいんだけど。。。前項に於いて精神論を展開したので、ついでに其の続きも書かせて貰ってしまおう。どうせ、このサイトは個人的な思想を好き勝手に各テーマに盛り込んで書いてしまうんだから。それにしても、凄いでしょ? キノコと蕎麦、そして沢登りをテーマに、此処まで精神論を展開するなんて・・・バカですね〜。でも、危険な遊びである沢登りに於いて、携わる方々の精神状態、思考傾向に於いては危険なことを現実化してしまう可能性があるので、意識と現実化の関連を少し書いておきたい。また、それは人生に於いても大事なことなので何かご参考になればと言うことで稚拙ながら説明させていただければと思う。

 さて、何が正しくて正しくないと言うような二元的なものの考え方をしていると、精妙なレベルの物事の捉え方や、自分の奥深くから来るメッセージ、人の口を通して語られる諭しを受け取ることが出来なくなる。自分自身に満足していない人、自分自身の魂を磨いてこなかった種類の人達は、自分自身のやるかたない不満を、他人に向けて、正しいとか正しくない、敵味方、善とか悪などのレッテルを貼って裁きたがるものだ。もしくは宗教の書き物を自分勝手な低次の解釈をして、それによって他人を判断したがる。または、自分自身に向かって、悪いことをしてしまったなどと自らを裁く。

 正しいとか正しく無いなんて事は本当に解るものなのだろうか。他のページにも書いたのだが、昔オウム真理教の数々の事件があったとき、ある日、電車に乗っていたら、乗り込んできた主婦の人達が電車の中の中吊りにあった、オウム真理教の幹部が刺されて亡くなった記事が載っている雑誌の広告を観て、「刺されて死んだんだ、他の連中もみんな殺されてしまえばいいのよね。」という内容の話をしていた。其処には、オウムの人間と同じ波長の心根がある。邪魔なものは抹殺してしまえばよいという悪魔の心。同根だよね。実際に手を下すか下さないかの違いだけ。

 本人は正義を考えているつもりなのかも知れないけれど、実は正義の皮を被っているだけの悪魔の心根と同質ということ。正義という言葉を利用して自己肯定のための美しい事を言おうが、結局は人を裁いて自分自身の鬱憤を晴らしたい、不満をぶつける対象にしたいだけ。昔から宗教が行っている行為、神の名を利用して、自分達の教義や教会の都合に合わないものを悪の手先とか悪魔などとして抹殺しようとするが、其の実、そういった裁きとか排除しようとする心こそが悪魔そのものであるという逆説的な真理。
 宗教をやっている人の中には、自己責任の意識や自立という心にほど遠く、良いことが有れば神様仏様のお陰、悪いことがあると、サタンだとか成仏していない先祖だとか祟りだとか、とかく自分以外のせいにしてしまうのを見受ける。そして、神や仏の名を使って、他人の事をとやかく言ったり、諭したりするんだけど、自分で体験して解釈出来た智慧で言っていないから、単に人を裁いたり優越感を持ったりするためにやっているとしか思えない。自分達の考え方と合わなければ、途端に裁いてオミットするからね。本当に他人の幸せを考えているとは思えないから。
 わたしも色々な宗教の人達と突っ込んだ話をしたことが可成りあって、こちらはオーバーオール、様々な宗教の教義や成り立ちを勉強しているから最後は同じところを目指していると考え、方法論の違いだけと認識しているわけ。ところが話を突っ込んでいくと、其の宗教にはまった人達が、自分達だけが正しいという話になってくるので行き違いが生じるわけ。

 そして、其のエゴの強い裁く心根の話とかで、その人自身の中身をあからさまになるような話になると顔付きがサ〜ッと変わるね。今まで、丁寧な話し方をしていたのが、恐ろしい顔付きになって人格が変わる(噴き出す?)のが良く解るから。だから、自分達は選ばれているとか勘違いの選民意識が強かったり、裁きの心が強かったりして、自分達の言うことを聞く人間は仲間だけど、それ以外を排斥したり非難したりする心が強いんだよね。
 自立した人とか自己責任意識が高い人は、考え方や価値観の異なる人も、相手は相手として尊重して、自分は違う道を創り上げて行くんだけど、依存心の強い人って言うのは、自分と同じ考えでないと自分が受け容れられていないと思うせいか、他人に対して同じ価値観や考え方を強制するんだよね。金太郎飴作りが大好きなわけ。解るでしょ、日本人の特質ね。だから日本人は自己責任意識が薄く、依存心が強いと言うわけ。それが、今の国の問題の大元であり、外交上の在り方と相似的なわけです。全部、根は同じ。だから一人一人がそう言った意識傾向を変えなければ、自分達も幸せにならないし国も良くならないと、当サイトの各ページにそんなことばかり書いているわけね。

 さて、その一般人の主婦の生活を覗くことは適わないから実際のところは解らないけれど、同じようにそういう心が活発に働いていると言うことは、他人を裁く心、排斥する心が強いわけで、そういった心根を持っている人の行動パターンというのは、生活の中に於いて自分の価値観に合わないものに対して、殺すことまではしないものの、裁きと排除の行動を起こしやすいことは充分にあり得る。
 例えば、子供の失敗などに対しても、悪いとか良いとかの二元的な価値観で判断して叱る様な短絡的なパターンになって仕舞いがち。そして、他人を裁く価値観を子供の心に深くプログラムしていることになる(そういった人の子供達が、虐めを行ったり、ホームレスの人達を成敗すると言って殺してしまったりするような鬱屈した精神状態になることも充分予想できるであろう。原因無くして子供達がそういった行動をする訳がなく、殆どは家庭の問題、親の意識レベルを反映しているだけだからね)。あとは、よく聞く話だけれど、主婦同士の嫌がらせとか虐めね。凄いらしいよね。もっとも、それを表向きに堂々とやるか、エレガントに気づかれないようにやるか、または実行しないかは、その人のセンスや能力だけど、何れにしても裁きの心を持っている人は仮面の下にはそういう想いが隠されているわけね。

 そして、その心の想いは現実的に実行されなくても、心の奥に持っていたら、知らず知らずの内にそういった質のエネルギーを発信しているということになってしまう。TVでの事件報道に対して、いまに罰が当たるとか、前出の主婦と同じ様な文句言っている人って多いもんね。其の時点で、正義の使者になったつもりで犯罪を犯した人間を裁いているわけでしょ(どこかの国と同じじゃない?本音は資源が欲しいだけなんだけど、必要以上に敵国に悪いイメイジを作り上げて戦争を行う理由を作ったりしてね...)。
 そりゃあ、因果は巡って結局そう言った結果になるかも知れないけれど、問題はそう言うことではなくて、自分自身の心の中イメイジの中にそういうヴィジョンを描いてしまうことにあるわけ。
 ネガティブなイメイジを考えた人、裁きの心を発動した人の問題として、その人自身にその否定的なエネルギーが還ってきてしまうということ。自分自身の人生に似たようなことを実現してしまうことが恐ろしいところなんだよね。

 それは、そういった意識を持って心の奥で発信していたらその攻撃的で否定的な質に同調する相手に伝わってしまうわけ。言葉や態度に出さなくてもね。そして機が熟すと、その想いを実現してしまうような相手と縁が出来てしまうことになる。つまり、相手を裁き糾弾するようになる出来事なのか、それとも逆に出て、自分自身が裁かれ非難されるような出来事かも知れない。もしくは其のレベルが重たいと実際に事件や事故に巻き込まれると言うことになる。心の深い部分でイメイジしていることが現実化されてしまうわけね。
 それは、誰のせいでもない、自分自身の感情と想いとヴィジョンを実現しているだけなのだが。そしてまた、そんな想い(感情から漏れる)を増長させていると、悪魔的なエネルギーに憑依されて本当にそちら側に引きずり込まれるんだよね。そういったネガティブエネルギーに取り込まれてしまったら自分でコントロール効かなくなってしまうからね。

 その悪魔的なネガティブな存在というのは、人間の否定的な想念、不安感、恐怖感がエネルギー源だとも言う。多くの人がそんな状態だから世の中がどんどんおかしくなっているのも解るだろう。だからこういった意識を持っている人が多くなっていることが、ちょっとしたことでも常識では考えられないような陰惨な事件にまでに発展してしまうことが増えているその理由ね。
 自分自身の想い(感情)を客観的に観る訓練が出来ていないから、また裁きの心、排斥の心が強いから、頭の中で現実とは違う認識をして、事実じゃないのに、相手は自分のことをこう思っているとか、この間言ったことを恨んで仕返しをしているんだとか想像し、出来事を勝手に組み合わせて統合してしまい、被害者的な妄念、妄想に取り憑かれてしまう。事実とは全く異なる現実を自分の頭の中に創り上げてしまうような自体になってしまう。
 すると違う次元に渦巻くネガティブな暗いエネルギーに憑依されちゃうんだよね。そして衝動的な行動に出てしまうと言う。実際、他人が本当にその人のことをそんな風に評価しているとか考えているとか解らないのに、事実を確認もしない内に妄想が膨らんでドンドン暗い方に堕ちて行ってしまうわけ。皆さんそんな風に落ち込んだことはありませんか。結構危険な兆候ですよ。それを亡者の状態と言います。あの世で成仏していない亡者とチャネリングしているのと同じ。物理次元に生きている我々は、現実の世界、相手の真意を論理的に考え、チャンと事実関係を確認しましょうね。大人としては。

 さて、説明が冗長になった感があるが、そういった質に陥らないための意識の使い方の話。下記は、当サイトの別ページに昔書いたもので、バイクのレース時に於いて事故が起きそうになったときの回避方法のものである。

 話は変わるが、自分の前で転倒車が居た場合には、 何時までもそれを観ていたらダメなんですぜ。人間の意識下、身体反応っていうのは、観た方に引き寄せられていく(ネガティブでもポジティブでもイメイジ力の結果)ものなので、瞬間的に現状認識を済ませたら対象物(転倒車というネガティブな障害)から眼を外して、自分が逃げる道(進む道)に意識をフォーカスして(イメイジして)最低限のリスクで乗り越えられる様に観る対象を変えないといけないわけ。じゃないと不思議と、怖いと思う対象(この場合、目前の転倒車)に向かっていってしまうものなのである。
 これは交通事故にも当て嵌まるし、マクロに観れば人生での(無)意識上の選択行動パターンでも同様。

 我々の潜在意識、つまり日頃認識できない言語外の意識、それは感情であったり、右脳意識と言われる言語を介してではなく映像・ヴィジョンを通して思考する意識のことだが、その機能の大きな特長として、自分にとって良いものとか悪いものと言う判断はせずに、兎に角イメイジしたことを実現してしまう力をもったものとされている。
 だから上記のような、パニック的なことが起こったとき、現状を認識した後には、そのこと自体は捨てて、創造的なことのみに意識の焦点を当て続けることが大事なのである。
 もうちょっと、卑近な例を出してみると、我々が自転車に乗り始めたばかりの頃、フラフラとバランスが採れずに乗っていたときに、進行方向に電信柱とか穴が見えたとしよう。それを恐れを持って意識しすぎると、必ずその障害物に向かって自転車が進んでしまう。何故か引き寄せられてしまうのだ。
 それがやがて運転に慣れ、自在に自転車を操れるようになると、心に余裕が出来るためにイメイジをコントロールできるようになる。だから行きたい方向に進めるようになるのね。
 ところが、急に人が飛び出してきたり、車が目の前から現れたりすると、その時は気持がパニックになってしまい、今まで余裕だった心の状態から一変して、その突然現れた怖いものを見据えたり、ぶつかった結果の恐ろしい状態をイメイジしてしまう。そうすると、自転車の乗り始めの頃と同じ、障害物に向かって行ってしまうという現象を引き起こしてしまうのである。これは四輪車でもなんでもそういうもの。
 人間のイメイジ力と、身体反応の関係ね。そしてこれは人生の上でも同じ事。人前でスピーチするのにも、言っちゃいけない言葉などを意識しすぎると、何故か逆に口をついて出てしまったりして。そして、そんな単純な例ばかりでなく、長い人生のゆっくりした物事の生起の上でも同様に、嫌だ嫌だと思っていることに限って実現してしまうようなことが多い。それは、イメイジを使って思考する潜在意識に対してプログラムを繰り返しているからなんだよね。

 実際、世の中は色々なことが起きるし、事実は事実としてあるから、そのネガティブなことから目を背けていては、現実的な危機回避もできないし問題解決もできない。しかしながら、まだ起きてもいないことや 、自分自身に直接関係ないことで、心を沸き立てて、ネガティブなことに対して口騒がしく批判することは、実際がどうであれ、自分自身の潜在意識にネガティブなことをプログラムしている行為以外の何物でもない。

 だったらどうするのか?上記では、“障害から眼を外して”と書いてあるが、最近になって手に入れたとても有意義な本があるので、その中から要約を抜粋してみたい。ロシアの元量子物理学者のヴァジム・ゼランド氏の著書で、“リアリティ・トランサーフィン”「振り子の法則」徳間書店刊という本だ。此の監修をしている、“ほおじろえいいち氏”は以前から実に良い本ばかり訳したり監修したりしている。大分昔の知り合いだった人なんだけど良い仕事をされているので嬉しいよね。此の本は、物理学者の人が書いたので物理学用語を使っている為に少し取っつきにくいが、内容は意識科学の法則について非常に分かり易く、また振り子を例に挙げながら上手な例えを使っているので目が覚める想いがする本である。

 その本の中に、人生に於いて好ましくないこと受け容れたくないことがある場合、“敬遠すること(訳注:自分の人生に入り込むことを許可するものの、猛然と逃れようとすること)ではなく、無視すること(訳注:何も反応を示さないこと、ある状態に陥らないこと)である。”と書かれている。つまり自分の意識の中に入れないと言うことだよね。現状を認識したら、あとはそれらの情報を捨ててしまって、良きことのみを実現するように心の向きを持っていくということ。

 正しくこういうことなんだよね。その上で、自分自身が実現したいことや為したいことのみに集中していくと言うことなんです。沢登りなんて全く其の通りであって、危険な個所が次から次へと現れるわけ。それに対して心を動揺させていたら切り無いものね。その上、先のイメイジの力の法則によれば、ネガティブな方に引っ張られちゃうでしょ。う〜ん、もしかすると沢登りは心の良い訓練になっているのかも。
 だから、“明るく”、“楽しい”人達は、当たり前のように此の法則を実践している事になるわけなんだね。

 ところが、正しいとか正しくないとか“価値判断”いちいち加える思考方法を持った人達、または自分にとって損とか得とか“計算する”タイプの人達にとって、目の前に起きている好ましくない出来事を“意識を逸らして無視する”ってことは至難の業みたいね。エゴの思考方法にも通じる左脳的(デジタル的な計算思考方法)な意識が強い人々にとって、“自分の考え方”で“価値判断”した結果で、“どの様に行動するか”というのが“正しい”ことだと思っているように見える。つまり理由がなかったり利益がなかったりすると行動出来ないタイプの人達だから、常に“価値判断”したいのかも。だから正しいとか正しくないとか他人に対しても裁きたがるんじゃないのかな。

 しかしながら実際の話として、正しいとか正しくないというのは、一概に解らないものだと思う。例えば、それぞれの人間の魂の成長にとっては、他人から観たら否定的なことだったり間違っていることかも知れないけれど、その人にとっては正しくないことが必要な経験だったりする場合があるので、人生の一時点を観ただけでは判断できなかったりする。極端な話、時には病気になることだって、その人の魂の成長にとって必要かも知れない。そして更に、その周りの人や家族にとって、誰かが病気になることが必要であり、互いの心の成長に必要な場合もある。
 そう言ったことと同時に、例えネガティブなことであっても、それは過去世からのカルマの解消という側面もあるかもしれないので、他人の基準で良いとか悪いとか言えない場合が幾らでもある。あなたにとって正しくない、都合の悪い仕打ちをされたとしても、それはあなた自身が、過去に冒してきたことを単に今回はやり返されているだけかも知れないのだ。自分自身の心の中に、裁く心や攻撃的な特質、批判的な精神が微塵もなくて、その上で他人から理不尽な扱いをしょっちゅう受けるようであれば、それは、過去に自分自身が冒してきた他人に対して行ってきた行為の報いとしか考えられない。その場合には、ひたすら懺悔した上で、世の中や人のために陰徳を積む、陰で奉仕する行為で補填していくしかない。

 さて、そういったことから、正しいとか正しくないと言った価値判断をするような思考方法に固執しているよりも、自分が何を成し遂げたいのか、やりたいことに集中したり、また明るく楽しい心を持って日々を過ごしていけるように、自身の感情と環境を整える方がよっぽど大事なことと言えよう。

 そして、この内容のテーマである、“自分の進んでいる方向が進むべき道なのかどうか”ということに関して言えば、スムーズに物事が流れていくかが一つの指標になるということを申し上げたけれど、その人の人生に於いて、不思議な巡り合わせ、シンクロニシティ(恩寵、奇跡、共時性、意味のある偶然)がどの位起こるかどうかと言うのも一つの指標になるであろう。幾ら口で素晴らしいことを言ったとしても、巡り合わせが悪かったり、何時もつまづくような事ばかりが起きていては心の中身に問題があることを指し示していることになる。もしくは過去世に為してきた行為の結果、そういった現象が起きているということだ。何れにしても自分自身が決めたこと、自分自身の状態の鏡であり結果である。

 だからこそ、明るく楽しいという精神性は大事な徳目と言うことになる。これも簡単そうなことなんだけど以外と現実はそうじゃないんだよね。不思議だね〜。明るく軽く楽しくなるというのは、頭で考えて成れる状態では無いから、意識の根本的な切り替えが必要であり、人生に対する視点そのものが違うしね。だから、変換していく上で、自分自身の感情や言語外の意識、意識下と言われる部分や身体意識(身体の反応)を客観的に観察出来ないと、理屈とか考え方とかで「こうあらねばならない」って、力ずくでやっていたら、直ぐにギブアップしちゃうんですよ。

 大体、明るく楽しいという精神は、軽い気持から来るよね。其の軽い気持というのは、心が歪んでいては有り得ないでしょ。相手や周りの出来事を裁く心、損得勘定での付き合い、此の人間は付き合って自分の為になるかならないか、自分がやっていることが相手に喜んで貰えるか貰えないかという、何時も判断をする心癖ね。つまり計算。頭で考えていると言うこと。こういう人達って、そもそも会話の流れがスムーズで無かったり、話のピントがずれていたり、何か噛み合わない気分が残ったりする。結局、裏の意図があるから(本人が気が付くか気が付かないかは別としてね:心癖というのはそういうもの)本音で話が出来なかったりするからなんだけどね。

 概してそういうタイプの人達、頭で常に判断しようと言う人達は、直感や身体反応が働きにくい状態に陥って居るみたいね。ビックリしたのはうちの嫁さん。ま、連れ合いとしては言い難いんだけど、嫁さんこういうタイプなんだわ。それで、嫁さんが運転していた時に危ない状況があって、「危ない!停まれっ。」と緊急停止を促したわけ、そうしたら直ぐにブレーキを踏むわけでもなく、周りの状況を見たりミラーで確認したりして、自分で納得してから停まろうとするわけね。直ぐに反応出来ないんだよね。
 こういうパニック対応だけでなく、一事が万事こういった事が多く、何かに付け自分(エゴ)が出る。自分という想いや、その意図が強く、全部頭で納得しないと出来ないから、人間関係のリレーションや、物事の習得、生活の中での共同作業などに於いてスムーズに事が運ばなかったりする。全部は挙げきれないので一部を言うと、台所の片づけなどでもしょっちゅうガシャンガシャンと何かやらかしている。ものを倒したり落としたり壊したりだ。空間把握とか時系列上の因果関係とか、物理的なベクトルの力関係とかを直感的に把握できないみたいね。物事一つに集中すると他も見えなくなるし。
 聞いていると子供の時にも木から落ちたとか高いところから落ちて頭を散々打っているとか言うし、まあパーにはなっていないんだけど(笑)、いわゆる右脳と左脳の働きのバランスが凄く悪い状態になっている。直感的映像的空間・時間把握能力と、論理的計算的分析的能力とで、この後者の方に偏りすぎているのね。その上、目先のことしか考えないのと

 人間の身体的反応とかパニック時の瞬間動作ってのは、この両方がバランス良く、且つ高度に働かないとならないわけ。またこういった脳の働きが高度に機能していると普通の人以上の能力を発揮する。わたしの30年来付き合いのある能力開発研究者、セミナー指導者(大手企業にも採り入れられている)の成果を見ていても本当にビックリする。自分でもやったことがあるけれど、そういう世界ってあるんだよね。そして、心の状態にも影響があるのか、その人の5人も居る子供達は全員良い子ばかりで、その上、能力が凄く高い。勉強ばかりでなく身体能力もね。

 

 今の教育制度自体がおかしくて(自分の親は教員だったから其処から鑑みてもね)、ものを覚えるとか論理的に分析するといった事ばかりに偏った左脳偏重教育であるのは心ある人達の憂うところで有るんだけど、相変わらず社会的に優位に立とうという競争社会から抜け出せないから、其の歪みが子供達に来ているわけ。その教育は、自分達の世代はまだ緩かったけど、嫁さんくらい(30歳代)には可成り効果を発揮していたみたいで、其の年代の人達と付き合うと思考方法の違いを可成り感じるしね。そして、頭で考えることに偏重しているから、俊敏な身体反応が出来なかったりするので、変な怪我やミスが多い様にも見受けられる。勿論、育った環境や、本人の素質もあるから、バランスの良い子も沢山いるんだけど、それでも育つ中でプログラムされてきたことは人生に大きく影響を与えていることは否めないだろうね。だって、おかしな事件が多すぎるでしょ。

 そして、その脳の働きと心の働きは、やはりリンクしているものの様である。心が弛まないと先ずは頭の働きも高度に働くわけがないしね。だから心に染み込んだ偏りの強いプログラム、それは成長過程でのトラウマとか、経験とか家庭独自の偏った雰囲気とか、またはカルマとかを解消、再プログラムし直すことが大事なわけ。
 今の世の中が末期症状になってみんな精神のバランスを崩したりして社会的に問題になっているから、そう言ったことが深く研究されてきて、心理療法とかカウンセリングとか、退行催眠とかによって色々な研究成果が出て、心と脳の関係などについて詳しく理解できるようになってきたんだよね。病気という症状まで発展しないものの、それ以前の状態で生活している人は多いけど、それでもそれは人生上の問題、トラブルの元になっていったりするので、自分自身でそういう心の偏向性に気づいた方が、精神生活をマネージメント出来るし、ひいては自分自身の人生をコントロール出来ることになる。
 ましてや、沢登りなどの瞬間的身体反応や、直感などが必要なエキストリーム的な遊びに関しては、結果良く長期に楽しむためにこういった偏りは出来るだけ無くしていった方が幸せね。

 それには、自分自身を観察して、心の奥の偏り、意識の偏向性を認識したら、今度はそうなった原因を追体験して、其の原因となったものを癒して解放しないと。その癒すという事に関しても原因が個々別個だから此処で触れることの出来ないものだけど、そもそも心の偏りトラウマなどは人間関係に起因することが多いから、そのトラブルの元になった相手の人を赦す、また自分自身を赦すということが大事だよね。自分自身の失敗とかでトラウマになったものなら原因は分かっているから対処しやすいけれど、人間関係の摩擦ってのは自分だけのことじゃないからね。その原因を見つけるのも大変だけど、この赦すってのも大変だしね。これは自分自身に想像力が無いとなかなか難しい。自分自分の頭だけじゃあ他人の事は解らない。だから先に書いたように、自分自分とか裏に意図を持っている人と話をしても、話が頓珍漢になってしまうわけ。つまり、相手のことを理解しようと言う事じゃなく、自分の考え方を押し付けるだけの精神性だったりするから、話が噛み合わないと言う現象になってしまうからね。
 それは恋愛だってそうでしょ。恋愛も相手が何を考えているのだろうと想像して、自分のエゴを超えたところに波長を合わせるから、他人である相手のことが理解できたり、自分の心の巾を拡げることが出来るわけだしね。其の行為の基本は想像力を働かせるところにあるわけ。

 この想像力は、人生に於いても先ず一番大事な部分であるし、沢登りなどに於いては常に働かせて居るもの。どのルートを採るか、彼処のアプローチはこう処理してなどと、まずは想像しなければチャレンジできないからね。そして此の沢の先の方はどうなっているかとか常に想像しているし。
 つまり右脳を常に活性化させ、そして分析して判断を行っているわけ。右脳と左脳、そして身体意識まで常に活性化させているんだよね。山菜キノコ採りも、其処までシビアじゃないけれど想像力は働かせているし、観ている映像を分析しているからね。結構、脳の訓練になっているんじゃないかな。

 そして、心の掃除、心の偏向性の補正について。カウンセリングを受けるほど深刻にバランスを崩していないんだったら、日常の中で自分なりのやり方を見つけて欲しいけど、基本的には日常の当たり前のこと、家の掃除や、人間関係、仕事などを少しずつでもいいからレベルを上げること、当たり前のことを当たり前に出来るという自分に仕上げていくこと、そして自信を一つ一つ身に付けていくことから始まるしね。そうやって一つ一つの問題解決をしてハードルを超えていかないと、何かトラブルが起きたときの方法論や心の使い方が身に付かないじゃない。だから日常の当たり前のことをしっかりとこなすことから身について行くのね。
 こういう当たり前のことを当たり前にやっていない人ほどバランスを崩して居るみたい。前に少年監察官の人と話す機会があったんだけど、問題がある子の家というのは、必ず片付いていなくて家中ゴミだらけのような家なんだそうだ。家の状態と住む人の心の中というのは相似的だからね。

 だから当たり前のことを当たり前のように出来るというのも一つの能力なわけ。不徳を積んでいると当たり前のことが出来ないからね。努力しなければいけないときに、頭では解っているけれど実行に移せない。悶々としているだけ。いざ行おうとすると、事故に遭う、怪我をする、人間関係がトラブる。此は不徳。不運な状態。
 でも、宗教や開運などに走る前に、当たり前のことを当たり前にやる方が先決です。先ず自分が出来ることから始めること。それが掃除であったり片づけであったりする。身の周り、家の中、仕事場、家の近所などなどを掃除する。すると、頭の中も片付いてくる。考えがまとまってくる。心の整理も出来る。そして解決策や閃きが生まれてくる。自分の環境と自分の中身は相似的である。だから、当たり前のことを当たり前に少しずつでもやっていくことが肝要なわけね。

 そういうと、俺は仕事一筋で誰にも負けないくらいやってきたなんておかしな事を言う人が多いんだよ。高度成長経済の中での拡張指向に於いて、資源を食い潰し環境を破壊して、孫子の代から先までのものを台無しにしてしまった癖にね。それは物質的なものだけでなく精神的にもおかしくなってしまった人達を作り出す幇助をしてきたわけでしょ。社会に踊らされてね。年寄り達は、自分達は死んでいくから関係ないと思っている人も少なからず居られるようだけど、この酷い自然環境と、社会環境を背負って、人間的にお粗末な人達の中でストレスを抱えながら生きていくのは我々であり、其の孫子であるわけだよね。心がお粗末になるには其の理由が必ずあるし、原因を変えれば意識改革も可能なわけね。でも、受け身的な、そして被害射的な意識で無力感を囲って暗くなっているようじゃ無理じゃないですか。それは一つ一つの人生の選択に於いて、“逃げ”の心が有ったから、どんどん力を失ったわけね。それは自分の責任。またそういう人を助けられなかった社会の責任。

 つまり、その社会に踊らされることを選んだかどうかというところでも、人生に於いて岐路があり選択を積み重ねて、有る部分見ぬ振りして踊ったわけ。自分独りくらいが何したって大勢に影響ないやとか、みんなやっているからとか、食べなきゃどうするんだとか、幾らでも理由は付けられますわね。そういったことを自己欺瞞と言うんだけど、他人を非難するときには良く見えるそう言う状態も、自分自身のこととなると途端に見えなくなるんだわ。(笑)
 だから瞑想とか座禅という意識の飛躍を作り出す手法が必要だと思うんだけどね(他人は鏡。他の人に自分自身の偏向的な意識が投影されているだけ。現実に、その人が何かしらの悪い行いをしているとか欠点を持っているかどうかというよりも、自分自身の姿を映してくれているという場合が多い。何故なら、人間は自分自身の認識できる範囲、考えられる範囲でした現実を認識できないから。自分が経験した以上の事は理解できない。何か他人のことで気に食わないことがあるなら、自分自身の内にある欠点なのか其れとも犯してきた間違いを、其の他人も表現しているだけね)。
 また、自分の周りに、人生の問題や、こういった遊び上に於いてのチャレンジで、壁を如何に工夫して乗り切ってきたかという経験者が多いかどうかってのは大事だよね。こういう人達は自分で運を切り開いてきた人だから、考え方も価値観も違うし、そもそもエネルギッシュで明るい。単に人生一生懸命生きてきましたなんて言うのとは違う。

 さて、その一生懸命仕事をやったなんて言う人に、いわゆるワーカホリックが多い。つまり依存症ね。仕事依存症。何かに依存しないと精神状態が安定しない人。自己の存在を其処でしか確認できないと言う状態。オタクと同質の精神状態。
 何かに夢中になるのは悪いことではないし、しっかりと自分を持って向き合えば、自らを磨くことになる。でも、その対象が無くなったら精神のバランスが採れなくなるってのはおかしいでしょ。だから依存症というわけだけど、自分自身の価値観や生き方を作り上げなかったら当然そうなるよね。仕事でなければ子供、子供でなければ刺激物とかお酒とか、はたまた趣味? 其のどれかに偏って、そこに自己存在の意義を見つけようとすること自体、精神的に幼いという事ね。年齢とか関係ないね、年寄りでも幼稚(精神が若々しいと言う意味ではなく心が未熟という老人ね)な人は幼稚だし、子供でも精神レベルでは非常に高度な子供も沢山いる。

 子供や若い人は自我が固まっていないから変化は幾らでも可能だけど、歳とって自我が膠着してしまってからはなかなか変わることが出来くなってしまう。若い内から、自我を壊す作業、自分自身を観察できる内なる眼を鍛えておかなくちゃね。そして、自分の居場所を幾つも作っておくことね。好きなもの、得意なもの、好ましい人間関係、自分が役に立てる場所などなど。一つに依存しないことが大事でしょ?

 依存心の強い人は、問題解決を自分自身で行う意志が全然無かったりするもんね。想像力を働かせて、絡み合った問題の糸口を探すように推論したり、現象の意味を統合して手だてを考え、手当する方向性を探ったりすることをしないみたいね。すると、生活の中で必需品が壊れたとしても、修理屋さんを呼ぶか、該当する機械を買い換えるだけのことしか考えられず、不具合の現象から推論して何処が悪いとか、または自分で何が出来るとかを考えないんだよね。
 他人にレスキューを頼む前に、自分で出来ることをやってみろよと思う。せめて原因の切り分け位してから他人に頼まないとね。そういうサポートの契約をしていればいいよ。お金で済ませて自分の時間を活用するというのはビジネスの世界では当然ある。でも、生活の中に於いて、そういう態度でいては何も身に着かないし、一生物事の解決方法も解らないままだろうね。年寄りから若い子までそういった質の人間が多いけれど、お金がなかったり、世の中がひっくり返ったときってどうやって問題解決して行くんだろうか。そういう人に対して援助するのも相当に虚しいように思えてしまうのはわたしのレベルが可成り低いのだろうかと思ってしまうけど、どうなんだろう。

 最近特にだと思うけど、今の子供達は堕ちていく魂を持った子もいるけれど、今の大人達が及びが付かないくらい霊格が違うって言うくらい魂のレベルが高い子供って凄く増えているんだよね。本当に頭が下がるくらい。其処にも時代の変革を感じる。それは知識が増えたからとか、世の中に様々な情報が溢れているからと言うのとは違う。幾ら情報を知っていたって、其れを有益に統合して使役する智慧と人格がなかったら只の知識でしかないからね。人生を創造している力なんかにはなりはしない。魂のレベルが違うみたい。魂は輪廻転生するから若い魂、古い魂など有るらしいしね。今生の年齢とは別の次元の質のこと。

 それ以前に多くの人が、どんなに自分は苦労したかという苦労自慢をするけれど、間違った方向に苦労したってなんの実にもならないし誤努力して勘違いして他人との摩擦や軋轢を残すのが精々。本当に苦労して乗り越えてきた人って、そんな話自体しないし、顔付きも雰囲気も磨かれたものが滲み出ているもんね。また、そういう人の話って為になるんだよね。未来への指針となるから。
 ところが、単に苦労したと騒ぐ人は心の向きが何処か違っていて、実は社会性や智慧や、そして自分自身を省みる力がない故に、単に周りと上手く行かず要らない悶着を起こしているだけだったり、または閃きや危険な信号を察知する直感が働かないから、飛んでもない目に遭っているだけだったりする。そんな苦労話なんて、逆鏡には成れ到底参考にはならない。

 例えば、身体のトレーニングに於いて、例えばウェイトを持ち上げて筋力を付ける運動を繰り返すのでも、何処の筋肉を鍛えるのか、肩なのか上腕筋なのかを意識することによって筋肉のつく場所が異なるという。
 同様に、人生において壁やトラブルが顕れたときに、それに対し、自分自身を磨くのか、其れとも被害者的に受けとめて愚痴や文句を言って苦労としてしまうのかでは結果が全然違うことは言うまでもない。それが何年も何十年も積み重なって人生を歩んで行くんだから、心根の在り方によって、同じ年月を過ごしてきたって全然人格形成が異なってしまって当たり前なわけね。

 その依存ってのは、当サイトの一つのテーマである、自己確立、自己責任、自給自足とか助け合いのネットワーク、シェアなどの意識レベルとは対局のものであるんだよね。依存が強い人は他人にばかり要求が多いし、自分の意図と合わないと直ぐに敵対的になる。臍曲げる、拗ねる。普通の対話が出来ないわけ。反対意見に合うと、全人格を否定されたと“感情”の部分が受けとめてしまうみたい。感情のマネージメントを鍛えてこなかったから心に余裕が無いんだよね。また、左脳的な論理的な思考も鍛えてなかったりする。状況を客観的に把握出来ない自己中心的なちっちゃい心を育ててしまった結果ね。だから他人とのリレーションが上手く行かず、他人に対して否定的だったり攻撃的になるのでは。

 ところが、高度で精妙な持続的助け合いというのは、自分の都合の良いように助けて貰おうというのとは違うからね。何時も自分が中心でチヤホヤされるなんて状況はあるわけないでしょ。我々みんなそんなに、周りの人に大事にされるほど大した人間であるわけないしね。人間としてまだまだ修行中な訳じゃないですか。魂の成長の上で、自分の行ってきた負の行為、そこから染みついている心の偏りを正さないことには、他人との気持ちの良いリレーションなんて有り得ないから。エゴの意識、自我ばかり強くて損得勘定や裁きを行うような意識では、明るく楽しい人間関係なんて成り立つはずないでしょ。有り得ないもんね。それじゃあ、無私の助け合いなんて出来ないでしょ。
 どだい、この沢登りの様な極限の状態にしょっちゅうなるような遊びに於いては、先ずは一緒に行動するのは無理ね。先に書いたように身体反応が違ってきてしまうし、パニック的なときに他人との中での絶妙なリレーションが採れるわけないもの。

 頭ばかりで考えていて行動しない人間というのは人生踏み外すこと多いかもね。頭で損得勘定している人もそうね。目先の得ばかりを考えていると、時系列上から見ると、結局は其の目先の得を吐き出す結果になったりしてね。事故とか病気やトラブルとか失敗で結局はお金が流れ出てしまうという結果に。お金を稼ぐ意図が、自分達を守るためというものだと、まずイメイジするのがネガティブな事、未来に起きるかもしれない不幸に対処するためのものな訳でしょ。そこで意識が行っていることは、先ずネガティブな“好ましくないことをイメイジする”ことね。それをだからこうして保険掛けておこうとかお金を貯めておこうとか方法を考えるわけだものね。先ずネガティブな事柄を自分の中にプログラムしているのと同じ事。だから、結果的に此の好ましくないことを引き寄せてしまうわけ。

 神様に罰せられないようにとか、悪いことしないようにとか、そんな信条で生きている人も同じ類ね。先にも書いたように、人の意識の力というのは物凄く強くて、まずイメイジしたことを実現してしまうからね。なんども同じ様なことを書くけど、例えば悪いことしないようにしようなんて考えていたら、まず其の悪いって事がイメイジに浮かぶでしょー。それが実現してしまうって事ね。気を付けよう気を付けようなんて思っていると失敗してしまうのと同じ。仮に上手くやったとしても凄く疲れてしまったりして。それは意識の使い方が間違っているだけ。

 あれしちゃダメ、これしちゃダメとかやっていると、結局それを実現してしまうわけ。もしくは胃に孔が開いたり、神経病になったりね。だから、想いの持って行き方は、ああしようこうしよう、あれがやりたい此がやりたいなんだよね。その為には、こういったネガティブなことは排除して、、、とリスクマネージメントすることは必要だけど、其れが済んだらそのネガティブなイメイジは捨ててしまって、あとは身体が動くまま閃くままに行動していくことが大事(沢登りなんて正しく其の心の訓練だよね。じゃなかったらあんな不安定な危ないところは突破できないって)。そしてやることを出来る限りやって運を天に任すって位じゃないとね。

 人生の選択を迫られるときに於いて、ちゃんと分析的に頭を使ってロジカルに考えることは必要だし、良いことだけど、それに頼りすぎるなということね。直感とか閃きとか身体感覚とか、そういった事をもっと大事にしないと、またとないチャンスを逃したり、逆に危機回避が出来なかったりするわけさ。人間も当然本来は、そういった高い能力はあるんだけど、今のロボットのような生活が身に染みてしまっていると、そんな感覚を閉塞させたり、また出てきても無視しちゃったりするからね。そういう感覚って凄く大事なんだけど、頭優先だったり損得勘定(見栄やプライドもね)が強い人は心のノイズが多いから、どれが本当の感覚なのかが解らなくなっちゃうんだよね〜。
 例えば、階段を下りていて、其の途中でいきなり頭で考え始めちゃう事ってありませんか? 次は右足を出すんだったっけ・・・なんて、頭で思考が始まっちゃうと、途端に身体がおかしくなって階段を転げそうになることが。。。身体に任せておけば良いのに、途中で頭で考え始めると途端に訳が分からなくなってしまう状態。人生の流れも相似的で、頭で偏って考えている人って無駄な苦労が多いように見受けられるしね。

 ただ、言えるのは、こういった身体感覚や直感も、その人の心の状態、人生の意図によって、よく働く働かないなどと共に、感覚や、得た情報そのものに本人の因縁のバイアスが掛かってしまい、つまり色眼鏡というかノイズというかねじ曲げというか、そういったことがありがちなので、その人の心根、本音というものが先ず大事なんですわ。
 お金や面子などの損得勘定ばかり気になったり、人の気持ちばかり窺っていたりして、心の奥に葛藤が強い人は、自分自身の妄想で情報をねじ曲げて受け取ったり、変な感覚の方をピックアップしてしまったりするわけ。心の質が低く、ネガティブな感情を多い人は、質の低い神や霊的存在と波長が合ってしまうから、破壊的な衝動やヴィジョンに突き動かされてしまうんだよね。亡者の状態ね。だから自分自身の心や感情の流れを、客観的に観察する眼を作ること、そして解放していくことが大事なんだわ。心の奥深く、感情の部分に葛藤が多い人は、意識がアンビバレントだからね。良い意味での直感が働かないのも、葛藤の多寡にも関係するでしょうね。だから、その人の心の状態、そして其のバックグラウンドなどに注目してしまうわけもご理解いただけるでしょ。

 その点、深瀬教室は大したものだと思うのですが如何でしょう。こういったことの事例として、危険を伴う沢登りに於いて事故らしい事故のない深瀬教室の明るく楽しい精神性をもとに書いてみたのだが、ちょっとしつこかったかな。ま、ちょっと買い被って大袈裟に書いているところもあると思いますけど、総じてこういった要素はおおいに関係していると言うことでご理解下さい。

 自分は、野山で遊びはしたけれども、一応街場に育ち、やがて仕事はテクノロジーの先端分野に関わったりしたものだから、逆にこの様なことに憧れているということもあるかも知れない。けれども、やはり哲学や理念に基づかない人々の依存心を満足させるだけの力尽くのテクノロジーに対しては強く疑念を持ってしまう訳ね。
 まずは、人の心の質が高く、且つ自立したものであることが社会を間違った方向に導かない大事な要素であること、そして大自然あっての人間の営みが豊かで安定したものとなることを改めて感じる。そして様々なテクノロジーが進歩したとしても、自然の中で大地に足を着けながら暮らすのが一番幸せなことと理解できるからね。

 その自然の中というのも、田畑や里山で農的に暮らすこともそうだが、山奥に分け入り激流や滝を越えて山を渡り歩くというのも如何だろうか。他人が作った道である登山道を歩くのではなく、道無き山域に分け入って全身の感覚を総動員して自ら進むところを決めていくという行為をされてみては。原初のままのエリアに入って行くことで見える大自然の営みもある、恵みもある。その中で安全に自由に楽しむには沢登りの基礎技術が身に着いていることが大事であり、自らの世界をさらに拡げる手段にも思えるのだけれど如何?

 ただ、そういった危ういところも少なからずある遊びに於いては、此処に書いたように軽やかで明るい葛藤の少ない精神性を持っていないと、自らを危険に曝してしまうことになりかねないであろう。こういった事は単に技術とか道具だけではないのだよ。それだったら、今の破壊的なテクノロジーに頼るのと同じ精神性でしょ。その様な訳で、何事も先ずは人柄ね〜(笑)。

以上

 

「深瀬信夫のアウトドア教室」:東京マタギのオフィシャルサイト。最初、鍋奉行のT原氏がこのHP、東京マタギのファンサイトとしてページを作った。其れを元に、近年はマタギもテクノロジーを採り入れご自身でもって情報発信出来るようになったので、HPの内容を更新して更に充実させている。ページの中の教室レポートは、我々が「表」と言っている正式な講習会のレポート。深瀬校長と仲間内と紹介者のみで行うものは「裏」教室ね。そして、今回は、忙しい校長抜きで親しい仲間だけで行った「裏々」教室のレポート。一般の受講者の方はこの東京マタギのオフィシャルサイト記載の各「表」教室にご参加下さい。

東京マタギ、深瀬信夫の『アウトドア教室』山岳渓流ガイド2008年予定表:仲間が作っているページ。キノコ採り裏教室のレポートなどなどがリンクされている。許可を得てインデックスページでなく直にページリンク。

当サイト内の東京マタギ関連ページ(昔は、上記のように深瀬校長がHPを作れなかったので、周りの人達がそれぞれ作ってフォローしていた。それで当方でも作っていた各ページ:下記リンクから関連のみピックアップ)
東京マタギ深瀬工房製ナイフ、山包丁:当ページの前編。日頃お世話になっている深瀬校長のナイフの紹介
2000年5月某日某所、東京マタギの沢登り講習会の前夜 :講習会の前夜に必ず執り行われる儀式
山岳渓流ガイド:東京マタギの講習会:沢登り講習会の風景
東京マタギ、ナイフメーキング教室?`06/3:熱可塑性樹脂カイデックスを使ったシース(鞘)作り& 山菜キノコ採り教室の風景

kinoko&soba V-3.3


・日本の智慧:鍛冶屋さんに日本古来の鍛造法でナイフを作って貰ったへ戻る
・【考察とお願い】
・【番外編】にわか鍛冶ワークショップ
・【更に番外編】フイゴで炭を熾し、炭焼きバーベキュー

・ある日の小山製作所`01/2
・手打ち鉈他、造林用の良い道具類を手に入れる`01/2---刃物は使ってなんぼ。使わなければ良さは解らない
・フイゴに呼ばれて`01/2---鍛冶の神に見込まれてしまったのだろうか。欲しかった鞴の上物が格安で!
・中古道具屋・砥石屋さん巡り`01/3---少ない投資で充実した設備。新品? 要らんやろう。。。丹念に探せば出物があるある
・火造り遊び`01/6---長野からMちゃんが鍛造ナイフを造りに来た。オイ、止せよ、アブねえなあ。ナイフ振り回すな.....って。(^^;;
・新しく出来たナイフの仕上がりを調べるために、自分の指で試したバカな奴の話。恥ずかしいので知り合いだけにと思っていたけれど、此の切った指の修理方法は結構有効なことが経時変化で解ったので、敢えて恥を忍んで公開。やっぱり、切り傷にはアロンアルファでしょ!--`01/11/14
・東京マタギ深瀬工房製ナイフ、山包丁:まいどお世話になっている深瀬校長のナイフの紹介ページを作ってしまった。沢屋さんにはピッタリよ。
・刀鍛冶のところにお邪魔してきた'02/秋
・特別貴重刀剣認定書付き、太刀姿日本刀譲ります:日刀保の認定書付き、博物館クラスのもの“備後國住正広”。知人に依頼されたものをWebサイトにもアップします。ご縁のある方に。`03/7/5
・家にある道具で口金を火造り?---古く使い込んでボロボロになった鉈や鎌も、柄と口金を新しくすれば元通りに活躍できる。その口金を作るには?
・肥後の守の使い易い点?---家の近所の金物屋さんに寄ったら肥後の守で竹とんぼを作っていた。切り出し小刀などより意外と使い易い肥後の守の形状とは???って、大したことではないのだけど取り敢えず書いてみました。(^-^;;--`04/12/5
・東京マタギ、ナイフメーキング教室?`06/3:熱可塑性樹脂カイデックスを使ったシース(鞘)作り& 山菜キノコ採り教室の風景
・小さいけれど本物。ミニ沼田鉈「鍛冶屋の誇りが籠もっている鉈?」`06/8---“趣味のミニ鉈”とは書いてありますけれど
・裏々キノコ教室:性格悪い奴はキノコ採れないぞ伝説`07/11---東京マタギ深瀬教室の仲間とのキノコ&蕎麦の会
・東京マタギ深瀬教室の仲間とのキノコ&蕎麦の会 `07/11/20---裏々キノコ教室:性格悪い奴はキノコ採れない伝説。楽しい仲間とのキノコ採りの風景と、少しばかり美味しく出来るようになった蕎麦打ちのプチ自慢。性格悪い奴ほど能書きが多い!!!って、、、誰のこと?
・CT110ハンターカブのその後---整備と部品交換。たかがCT、されどCT。足(たる)を知れと言われても...
・新規格以前の四駆軽トラのお薦め---其の二 ---スピリチュアル軽トラ-ライフ。良い“足”を手に入れたら---`05/1
・“山仕事の道具と技術、智慧は、自給と自衛の基本”(社)全国林業改良普及協会刊 森と暮らすNo.2「ノウハウ図解山仕事の道具」(`08/6/10発行)のお薦め-----自給自足、半農半X、田舎暮らし、農的生活指向の方々に必須? 自然と共に暮らそうと思ったら山と木々があってこそ。本書は、山主や林家向けの入門編の本だが、山の作業と道具に関わることから安全管理まで全てを網羅している。当サイト管理者も、鍛冶屋の智慧や、道具類の修理修復、熱可塑性樹脂カイデックスを使った鉈や道具類の鞘(シース)作りのページを70頁ほど書かせて貰った。実践的な智慧が籠もった本なのでお薦めする。---`08/6/11
・騙された渓(メタボリック沢登り)ぎょうじゃにんにくぎょうざはどうじゃ?の巻 2008年7月:沢には原初の汚されていない美しい風景があり、そして美味しいものが沢山ある。天気にも恵まれ、楽しい仲間たちと行けば、それは天国さ。それにしても荷物重てぇなあ。一泊なのになんでこんな荷物背負ってるんだろ。足下が良きゃいいけど、ちょっと滑ったら滑落だぜ。俺等なんか勘違いしていないかなー。
・Room full of mirrorsへ戻る