遠近・複眼メガネ


  日本人街から東洋人街へ

第十四回 絵と文 長尾みのる
日本人街から東洋人街へ

 二十世紀半ばの戦後、私のアメリカ第一歩は「カラード」(有色人種)扱いの日本人としてだった。
が、同じ複合民族国家のブラジルにその差別はなかった。

 世界中の人で成り立っているブラジルだ。アメリカも合衆国だが、半世紀前のそのころにはカラード差別があった。

 当時のサンパウロには、五万の日系人がいたが、敗戦国ニッポンの惨めさや引け目なんて微塵も感じられなかった。戦時中は敵国だったブラジルに辛い思いで暮らしたというのに、私が着いた当時でも、「日本は勝った」とする"勝ち組"が多数いて、「いや、負けたのだ」という"負け組"と争っている日系人社会だったのにはたまげてしまった。

 戦争が遠い祖国をさらに遠く切り離し、勝敗さえもわからなくしたようだ。

 その隔離は在伯日本人製の日本品も産んだ。仏壇や神棚、碁、将棋、麻雀牌とか割り箸、和食器、茶器…-と、何でも作った。

 当時、サンパウロの貧弱なコンデ街に日本人街はあった。日本人がうろうろし、たまり場になってできた澱みの街だ。

 日本書籍店の「太陽堂」とか、和菓子、乾物、沢庵などの日本食品店「西中」や、小料理「日の出」といった日本がそこにあった。

 書籍店では勝ち組用に戦前の尋常小学校の国定教科書が、負け組用には戦後の教科書が並べてあった。

 日語新聞も、パウリスタ、南米時事、昭和、日伯毎日、ブラジル中外、サンパウロ新聞、そして週刊報知、サンパウロマガジンなどの雑誌もあり、そのための女流作家もいた。
 やがて、祖国の発展とともに、日本人街は日系人街へ、東洋人街へと進化した。


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