遠近・複眼メガネ


  異国の日本めし屋

第七回 絵と文 長尾みのる
異国の日本めしや

 いま、世界中に日本料理屋があり、繁盛しているようだ。が、それは祖国ニッポンの栄枯盛衰を見せる処でもある。

 かつて日本が貧しかったころ、異国の日本めし屋での食事はわびしく、店内は日系人たちの澱みという沈んだ界囲気だった。

  戦後、日系人が極端に少なかったヨーロッパに、たった一軒の日本料理屋があった。パリの「ぼたん屋」だ。パリ市内を一日中歩いても日本人に出会うのが珍しかったころだ。出会えたとしても、ほとんどが貧乏な留学生や芸術家や学者だった。

 店主は、戦前に日本の客船で働いていたという日本人だが、マダムがフランス人なので、営業許可もとれたのだろう。未だ日本からの観光客は皆無の時代だ。やがて日本国繁栄とともに、ぼたん屋の席も日本人が占めるようになった。

 料理だが、味噌、醤油、酒などすべて店主の苦心工夫の手作りなのには驚かされた。夫妻には子がなく、郷里の長野から養子に来たばかりの少年、芦部功君がいた。

「日本酒も自家製で、はっきり言えないけど、ワインとか米を使って、ここの地下室で造ってるよ……米も野菜も小豆なんかもパリ近郊のフランス人農家に作らせて……」  と、パリで日本料理修業中の彼が言った。

 サンパウロの場合も、割り箸から日本酒などすべてがブラジル産で、仏壇や神棚までがそうだったが、戦時に祖国から取り残された数十万の日系移民たちの苦心の智恵だった。

 やがて、パリの「ぼたん屋」はなくなり、あの少年がオペラ座近くに日本料理店「たから」を開いていた。
日本の発展はパリの日本料理屋も増やし、日本人だらけにもした。


遠近・複眼メガネ Nagao Minorumailto
[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12]
[13][14][15][16][17][18][19][20][21][22]

 
[ハッピーエンドレス][NAGAOの絵][国際俳句ロシア語句会]