小学一年生になって最初の名誉は、初めて描いた図画が教室の後ろの黒板に張り出されたことだった。そのクレヨン画は、我が家のラッパのラジオだ。
大人の男子優先時代だったから、主な番組は、浪曲をトップに、講談、落語の順。支那事変(日中戦争)をきっかけに定時ニュースも始まった。それでも当時の子どもたちはラジオを聴くのが楽しみだった。
「えー、お古い講談で御勘弁を願っておきます、相変わらずの神田三陽……」とか、のちに古典落語といわれる文化になった難しい噺を子どもたちは覚え、口真似した。ませた流行歌などは子どもらも同時に蓄音機で聞き覚え、盛んに歌い、映像なき音の世界で空想力が育った。
やがて太平洋戦争のころには、『前線へ送る夕べ』というような番組や、「ニッポンノミナサマ、コチラハ、イタリアホーソーキョク……ガーガーザーザー……」と、ほとんど聞き取れない同盟国からの国際放送などにも心奪われ、聴き入ったものだ。その大戦争も、天皇の玉音放送で終わった。
敗戦後に造られた新しい貨客船で太平洋を渡るや、憧れのアメリカ大陸が見えるころ、船内のスピーカーから妙な託りの日本語放送が流れ、仰天!「美味しいアンパンあります……」と、ロスの日系商店がスポンサーだった。
「ラジオ・クルツーラ・アルテスチカ……」で始まったのはサンパウロの日系放送、そこで買った饅頭を食いつつ聴き、望郷に溜息した。
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