遠近・複眼メガネ


  テレビジョンはじまる

第十二回 絵と文 長尾みのる
まあ! 外は雪。寒そうよ

 昭和初期、テレビジョンという不思議な仕掛けを映画で見た。題名は忘れたが、可愛い名子役の中村メイ子ちゃんと、徳川夢声という元・無声映画弁士の俳優扮する博士との共演で、その博士がついにテレビジョンを発明し、メイ子ちゃんをパラパラチラチラながら写し出すことに大成功! という映画だった。
 その受像場面たるや、工場なみに複雅で大袈裟な科学的設備の凄い仕掛けだった。映画館から出ても、そんなの本当にあったらいいなあ! と子供心に大興奮したものだ。
 実際は、昭和三年末にブラウン管受像は神田電気学校で公開実験に成功しているが、一般の人は空想科学小説的にテレビジョンを新聞で知っただけだ。やっと、映画がオール・トーキーになる前年のことで、その方が驚きの実現なのだった。
 昭和五年に「天覧テレビジョン実験」があっても実用には遠く、子供には紙芝居、大人は映画・演劇・ラジオの時代が続いたのだ。
 「日本橋の三越百貨店でテレビジョンを観せてくれるぞ、無料だ!」。小学生の私は友達と心躍らせ京橋の家から駆けて行った。高島屋で展示した翌年、昭和十五年四月のことだ。
 息弾ませ、催しもの会場に着くと、たった十二分の映像なのに、その回数ときたらほんの僅かだし大人たちで大混雑。大きな縦型の箱が、大人の頭上越しにチラと見えただけ。当時のブラウン管は長過ぎたので縦に箱の中。映像は上部の小さな鏡の反射で観る方式で、見える見えないは居場所次第だった。
 『夕餉前』という日本初のテレビ・ホームドラマなのに、あっという間の実験電波放送だった。その一年後には太平洋戦争勃発! テレビジョンなんぞ贅沢な夢と消え失せた、やがて戦後の一九五一年、NHKテレビ実験放送が再び三越の会場に野球実況を中継した。
 これからはテレビの時代かなあ?と、その二年後、私は舞台美術家を諦め、日本を脱出し、異国の家庭にはテレビがあり…驚いた。
 ま、何となくテレビが映っている今日このごろ。


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