遠近・複眼メガネ


  喫茶店事情変われど…

第十一回 絵と文 長尾みのる
喫茶店事情変われど

「喫茶去」つまり、何はともあれ「ま、茶でも飲んでいきなされ」という禅の一境地は、仏教哲学渡来とともに日本人の身についた心の日常生活語だ。
 それは、他人にも自分にも通じる心の言葉で、喜怒哀楽、その都度「ま、茶でも……」と言えば安心の好都合な生活語なのだ。
 「カウヒン」は幕末の遣未使節団が初めて喫したコーヒーのことだが、日本人の喫茶去の心は紅茶・煎茶の何であれ変わらない。の何であれ変わらない。
で、巷のどこにも喫茶店はあり、それなりの文化も繁栄した。が、その日本でのピークは一九八一年 だった。時代遅れで懐かしい旧式の喫茶店では、慌ただしい世紀未の人々は落ち着いて時を過ごせなくなってきた。
 が、新世紀に移り変わるや、その新時代なりに明 るい高能率の喫茶店が繁盛し始めた。
 「茶色い喫茶店のコーヒーは美味い……」と書いた作家がいたのは、二十世紀中期のこと。
 ちなみに、茶色とは黄緑に近いお茶の色だったはずが、いつのころからかコーヒー・ココアのような赤土色になってしまったのも妙。
 近ごろは焦げ茶色の囲いの中の薄暗い喫茶店に入るには妙な勇気がいる。店内の、コーヒー啜る無気力な常連の視線も冷ややかだ。
 アメリカ的明るさの空間に、新世紀の喫茶店は大繁盛なのだ。すべて新感覚かと思えば、流行りのエスプレッソ・スタイルなど、半世紀前に流行したものだ。そのころの日本は敗戦後の貧しさ、そんな味を知る余裕なんぞなかった。大豆など原料にした代用コーヒーから、やっと本物のコーヒーを、クラッシック音楽など聴きながら静かに飲む平和を取り戻したころだった。戦後復興期だ。ギャバジンの初めての背広を着て喫茶店に入ると「オレは大人になった」と、ポマードの髪を撫であげ、遅れた青春に満足したものだ。


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