山の雑記帳4

 交通費がこれでは堪らん  1998.05.02 記

 ゴールデンウィーク中の登山事故  1998.05.09 記

 登山の目的・楽しみ  1998.05.12 記

 失敗!失敗!失敗!  1998.05.18 記

 歩 く こ と  1998.05.26 記

 出 張 先 に て  1998.05.30 記

 富士山を求めて  1998.06.02 記


富士山を求めて  1998.6.02 記

昨日(6月1日)は良い天気だったため、朝の通勤途上、薄ぼんやりではあるが久々に丹沢山系の姿を眺めることができた。

向かって一番左にある大山(オオヤマ)の斜面から一気に立ち上がり、そこから右へと山の塊(カタマリ)が伸びているのだが、 途中所々で高く飛び出ている山々はお馴染みの塔ノ岳、丹沢山、蛭ヶ岳などである。

実は、この大山の後ろには富士山があるのだが、私が毎朝通勤途上で山を眺める場所からはほとんど大山に隠されてしまっていて見えず、 冬などに大山の頂上の後ろに白い頂がわずかに見える程度なのである。

これが、わずか1キロほど南に進むと、大山の左に富士山の左斜面と頂きが現れ始め、 さらに2キロ南へ進めば、 完全に富士山の美しい姿を捉えることができるので、 何となく損をしたような気になっている。

大山富士隠山(フジカクシヤマ)というわけだが、私を初め多くの日本人は富士山が好きなので、 富士山を毎日眺めていたいと思う人は多いに違いない。

私が小さかった頃は(在 三鷹市)、 家の周りに多くの畑や空き地が残っていて、 ずうっと遠くまで見渡せたことから富士山の姿をいつでも見ることができたような気がするし、 事実富士見通りという地名がそばにあったことからも推して知るべしである。

この幼い頃に富士山をいつも眺めていたということが、 山に登り始めてからあらゆる山の頂で富士山を探し求めてしまうという私の癖に繋がっているのではないかと思うが、 そう言う意味で九州宮崎に単身赴任中は、 頂上で富士山の姿を見ることができずに寂しい思いをしたものである。

確か、カシミールという山岳展望ソフトでは、 富士山を視認できる範囲を割り出せるようになっていたと思うが、 不確かな記憶を呼び起こせば、 東北地方は那須岳、北陸は妙高山、関西は大峰山(八経ヶ岳)などが山頂で富士山を認めることができる山の限界点だったような気がする。

無論、これは理論から割り出されたものであるし、天候、気温、時刻等あらゆる条件に恵まれた場合のみ可能なのであろうが、 私の場合は剱岳から眺めた富士山が最も遠距離から望んだものであろう。

いつも山の頂上で富士山の姿を追い求める私だが、 これまで登った百名山の頂上(あるいはその周辺)で、 富士山の姿に驚かされたり感銘を受けたりしたのは、雪の大菩薩嶺からのもの、金峰山頂上での夜明けに見たもの、 そして夜明けの北岳山荘前から見たものである。

この他の山でも、頂上及びその周辺から富士山が認められると嬉しかったものであるが、実際の富士山となると話が違ってくる。

五合目までは一般の登山と変わらず、また昔の富士山登山の名残があって結構楽しいものであったが、 五合目の樹林帯を抜けてからは、 荒涼とした火山礫の道をひたすら登ることになり、 最早登山を楽しむというよりは登りきることだけが目的に変わる、修行の道となるからである。

前に、山岳紀行作家の石井光造氏
「山歩きの目的は頂上に立つことだと思う人が多い。
本当は、どこをどのように歩き、 どんな風物に出会ったかという過程が重要である。
だから、頂上に行けなくても目的は達する。 山頂に行けたら、いい結果がついてきただけ、ということになる。」

という意見につまらぬケチをつけたことがあるが(山の雑記帳:「登山の目的・楽しみ」) この富士山はとりわけ 「途中で引き返してしまうのは虚しく、 その過程を楽しむことでそれで良しとはできない山」 のように思われる。

途中の色々な苦しいことを、後に楽しみに変えることができるのは頂上に達した場合だけという類の山のような気がするし、 まさに宗教的な意味合いの強い、苦難を乗り越えた後にこそ極楽浄土があるといった、 登り切ることだけが目的のようにならざるを得ない山のような気がしないでもない (登る前はそう思わなくても、一旦登り始めたらそう思うようになる)

やはり、富士山は登るのを楽しむ山ではなく、 眺めて楽しむ山のような気がするし、 従って今後も頂上で思いがけない富士山の姿に出会うことを楽しみの一つとしながら、 山登りを続けて行きたいと思う。



●出 張 先 に て  1998.05.29 記

5月27日(水)、28日(木)の2日間で長崎、宮崎へ出張してきた。

3年前に単身赴任先である宮崎を離れて以来の久しぶりの九州だったので、 懐かしい人たちに再会できるということが大きな楽しみだったのだが、さらに欲を言えば、 土曜日に出張日をくっつけて、登山解禁となった雲仙普賢岳に登りたかったところである。

しかし、自分のプライベートの都合を優先する訳にはいかず、また既に梅雨の気配が出始めていて天候も不安定のようだったので、 今回は残念ながらあきらめた次第である。

ところで、出張を利用して登山させてもらうということは、 山に登るための往復の交通費を会社が出してくれるということと同じことで、これ程「美味しい」ことはないのであるが、 私の場合仕事内容からいってそのような機会がなかなか得られないでいる。

実績はと言えば、8年前に霧島山開聞岳に、そして7年前に九重山に登らせてもらったくらいで、それもその後宮崎への単身赴任という、 登山に関してだけ言えばもっと大きなメリットを享受する機会を与えられたので、出張利用の登山実績もやや色褪せてしまった気がする。

しかし、初めて霧島山のクレーター群の中を歩いた時は、自分が横浜から遙か遠い九州のこの地にいることが夢のようで、 さらに会社の費用で来ていることがその嬉しさを倍加させてくれたような気がする。

但し、背広を着ていながら登山用のザックを持って出張先を訪れたので(無論、 お客様ではなく会社の出先)、先方には異様に映ったことであろう。

少ない出張の機会の中で、過去には台湾へ行ったことが何回かあったのだが、土日を間に挟んだ出張もあったにもかかわらず、 さすがに異国の地で単独で山に登る気は起きなかった。

余談だが、台湾と言えば、玉山(ユイサン=日本が統治していた時代はニイタカヤマ)で、その高さは4,000m近くあるのだが、 台湾では外国人が3,000m峰に登るには許可が必要な上、さらに現地のガイドを付けることを義務づけられているらしいので、 もし登るのであれば、登山ツアーに入り込んだ方が良いようである。

出張を利用すると言えば、昔、金峰山で羨ましい人に会ったことがある。

その方はコンサルタントをしておられる方で、職業柄全国各地を巡ることが多いことからその機会を利用して各地の山に登っておられるとのことだった。 無論費用はコンサルタントの招聘側が持つことになるわけだから本当に羨ましい限りである(もっとも、 引く手あまたのコンサルタントになるために大変な努力をせねばならないが・・・)

今回逃した雲仙普賢岳登山は又の機会に狙うつもりであるが、 今回の出張で山に関する収穫と言えば、 夕方長崎から宮崎へと移動する飛行機の窓から霧島山群を眺めることができたということであろう。

韓国岳(カラクニダケ)新燃岳(シンモエダケ)の大きな火口が目を引いたが、それよりもそれらの山を従えるようにして後ろに鎮座している高千穂峰の姿は、 何か格の違いを見せているようであった。

頂上からの鋭角な三角錐のスロープが途中で止まって、両端とも一旦盛り上がり、 再び急角度で落ちていくその姿は、「山」という象形文字の起源はこの山にあるのではないかと思わせ、 また見ようによってはロングスカートの両端を持ち上げたご婦人のようにも見え、ひときわ目を引くものであった。

また、宮崎空港に着陸する間際には、宮崎時代に体調維持のトレーニング場として何回も登った双石山が、 例の如くゴジラの背中のような姿をみせてくれて、懐かしさで一杯になった。

九州にいた当時は、2,000m以下の山しかないことを嘆き、名だたる高い山はほぼ登ってしまったような気になっていたのだが、 こうして宮崎へ向かう上空から重畳した山々を眺めると、登り残した名山が沢山あるのではという思いが湧いてくる。

再び九州へ赴任するのはもう勘弁願いたいが、たまの出張を利用して、九州にある未踏の山や懐かしい山々にチャレンジ(および再チャレンジ)したいものである。



●歩 く こ と  1998.05.26 記

以下は、些か自慢めいていてそれが鼻につくかも知れませんがご容赦下さい。

この頃月1回の山行のペースが守れているので嬉しい限りだが、 それにしてもこの歳になるまで私はどれ位の距離を歩いて来たのだろうか。

こういう何でも科学する世の中だから、 人の一生における平均歩行距離というものをはじき出した人がいるに違いないが、 恐らく私は同世代平均の2倍近くの距離を歩いているのではないかと思う。

過去を振り返ってみると、歩くのはもともと好きだったというよりも苦にならなかったようで、 ローカルな話で恐縮であるが、 かつて私が三鷹市深大寺(有名な調布市深大寺とは違う)に住んでいた頃は、 買い物に行った吉祥寺から自宅までよく歩いて帰ってきたものである (どの位の距離かは分かりませんが、 結構時間がかかった覚えがある)

小学校、中学校も当時の自宅からおよそ1.5キロほどの距離があったのを毎日歩いて通っていたし、 高校・大学の時は、 路線バスを使わずに中央線の武蔵境駅までおよそ20分程の距離を歩いていたのである(私の足で20分程であったから2キロ近くはあったのではないだろうか) 但し、これは決して家計を助けようなどという立派な理由からではなく、満員バスがイヤだったからである。

そう言えば、高校は中央線国立駅(クニタチ。国分寺と立川の間なのでこの名が付いた)にあったのだが、 駅から高校まで1.2キロ位の距離を歩いていたし(ほとんどの人が歩いていたので自慢にもならないが...) 帰りは武蔵境駅から自宅まで歩くことはもちろんのこと、時としてもっと距離のある武蔵小金井駅で降りて、 そこから歩いて帰ったことも多々あった。

逆に会社に入ってからは、独身寮から会社まで歩いても大した距離ではないのに通勤には車を使っていたのだが、 これは業後すぐに車で遊びに行けるという便利さが魅力だったからのようだ。

それでも、休日には結構歩き回っており、当時は山登りはしなかったものの、 日光や周辺の観光地を歩き回っていた覚えがある。

この最初の配属先である栃木県小山市から三鷹の自宅に戻ってきてからは、 さすがに朝は武蔵境駅までバスを使うようになったが、 帰りはやはり駅から自宅まで歩くようにしていたし、 結婚してからは、新居から駅までの距離が1キロ強ある中をやはり歩き、 また赤坂の会社へはバスや地下鉄を使わずに、 新橋駅から歩いていた。

そして、その後現在の家に引っ越しをし、また通勤先も変わって今日に至っているのだが、 今も自宅から瀬谷駅まで約1キロ強の距離を朝晩早足で歩いている。

無論、通勤に止まらず、休日に一人で出かける時は歩き中心だし、また出張先でも歩けるときは極力歩くようにしていて、 3年ほど前台湾に出張に行った時などは、 台北市内の観光地のほとんどを徒歩で制覇してしまい、現地の人にもあきれられる始末であった。

そしてこれに加えて、山歩きがあるのだから、その総歩行距離数は相当なものになろう。

山に登る場合でもなるべく時間の許す限りロングコースを選ぶようにしているし、さらに、 時々よせばいいのに何か狂ったように相当の距離を歩いてしまうことがある。

すぐに思い出せるものだけでも、大菩薩嶺下山後に裂石の登山口から塩山駅まで歩いてしまったとか、 霧島山をえびの高原から縦走して最後に高千穂河原から高千穂峰を往復した後、霧島神宮まで歩いてしまったとか、 八ヶ岳でも赤岳、横岳、硫黄岳に登頂後、美濃戸口へ下りればいいものをわざわざ本沢温泉経由ミドリ池経由稲子湯まで歩いたとか、 浅間山では浅間山荘(赤軍派の事件があった「あさま山荘」とは違う)へ下山後、そこから小諸駅まで歩いてしまったとか、 他人が見たら何と物好きなと思われるようなことを結構やっている。

わずかの金を惜しんで歩いた場合もなきにしもあらずであるが、やはり歩くことがそれ程苦痛にならないので、 時間が許せば歩く方を選んでしまうのである。

歩くと言えば、私の知人の中には土日毎に東海道を歩き続けている人が何人かいるが、 実は私も山へ行く時間以外に余裕(無論時間とともに、資金的にも)があれば、 そのようなことをやっても面白いなと考えている。

しかし、歩くこと、特に早足は、ジョギングよりも身体への負担がなく、健康によいと言われているらしいが、 一生の間にあまりに長い間歩き続けて、身体が金属疲労を起こすことはないのだろうか?

無論、私くらいのレベルの歩きではまだまだ大丈夫という気がするが、人間は四つ足から直立して2本足で歩くようになったけれど、 必ずしも直立歩行が身体に合っているわけでもないという話も聞いたことがある。

直立歩行は、腰に負担がくるのかもしれないし、また私のように猫背の場合は、もっと身体に無理をさせているのかもしれない。

ともあれ、歩くのが億劫だと思うようになってしまったらお終いだと思っているし、歩行困難になるような事故や病気になってしまうことを考えると、 今歩けることをもっと喜びたいと思うわけで、身体が元気でいる限りは山に登ること、そして歩くことを続けていきたいと思っている。



●失敗!失敗!失敗!  1998.05.18 記

五月(サツキ)晴れという言葉があるにも拘わらず5月は雨が意外と多い。

このところの土日もぐずついた天候が多かったことから、今月はもしかしたら山行ゼロになるかもしれないという危惧を抱いていたところ、 週間天気予報では雨とされていた16日の土曜日が、前日の天気予報では「晴れのち曇り」という予報に変わっており、 これは逃すまじと急遽山へ行くことにした。

とはいえ、急なことなので行き先に迷ってしまったのだが、まず第一に思いついたのが尾瀬の至仏山であった。

その理由は、まだ登っていない百名山の一つであり、しかも車での日帰りが可能だからである。

行くにあたって車規制と残雪の状況が心配だったので、早速インターネットにて情報収集してみたところ、 5月16日は車規制外の日であったものの、何と残雪期における植生保護の観点から5月11日から6月30日までの間は、 鳩待峠−至仏山−山の鼻の登山ルートは閉鎖されていることが分かったのである。

その理由は、残雪により登山道が不明確となることによって、登山者による植生への踏み込みが懸念されるためとのことであったが、 もっともなことであると納得して仕方なく次の候補を考えることにした。

そして次に思いついたのが安達太良山で、この山は前回登ったときに途中の沼ノ平で迷ってしまって時間を大きくロスし、 頂上に達した時には雨が降ってきてしまい、頂上での自分の写真をとっていない唯一の山だからである。

早速、以前この山の雑記帳で紹介した「特選 日帰り百名山」に記載した交通ルートを使うべく、 現地のバス会社に問い合わせをしたところ、東北本線二本松駅と登山口の奥岳間を結ぶバスは残念ながら16日の土曜日は運行されておらず、 17日の日曜日だけ運行されるとのことであった。

2つの山に振られることになり、ガックリしつつ次の候補を考えようと思ったのだが、 天気予報を見ると福島地方は快晴のマークになっており、それならやはり安達太良山に登ろうと考え、 車で行ってみることにした。

横浜瀬谷から安達太良山までの距離は300キロ近くあるので何となく不安はあったものの、 この夏に南アルプスへ向かう場合でも同じ位の距離を運転する必要があることから、 その予行練習と思って思い切って行くことにしたのである。

翌日は、朝4時には家を出るつもりであったのだが、例の如く寝床からすぐには出られず、 結局家を出発したのが4時30分になっていた(これがこの日の失敗の第一要因である)

東北道に入るには、昔は首都高速を高島平で下り国道17号を進んで、途中から栗橋方面へ進み、 久喜ICから入っていたのだが、もう東京外環道ができたのでそれを使おうと、 ろくな下調べもせずに慣れないことをしたのがこの日の失敗の第二要因であった。

湾岸線から中央環状線を進めば良かったのだが、昔の感覚で首都高速5号池袋線を進んでしまい、 しかも高島平を過ぎて美女木JCTでの道の選択を誤り、そのまま関越自動車道のある大泉IC方面に進んでしまったのである(不確かだが、 東北自動車道川口JCTへとつながる道はまだ未完成で、東北道へ行くには一旦下りねばならなかったらしい)

高速道路というのは一つ見落とすと取り返しがつかなくなる場合が多く、また道ばたに止まって地図を確かめることもできず、 結局成り行きで関越自動車道へ行かざるを得なくなってしまったというわけである。

出発時間が遅かったこともあり、また安達太良山までの長い時間のドライブに若干腰が引けていたこともあって、 「まあ関越自動車道沿いの山でも良いや」と自分に言い聞かせながら関越道を進んだ。

とはいうものの、ガソリン補給も兼ねて立ち寄ったパーキングエリアで、どの山に登ろうか思案したのだが、 道を間違えたショックは結構大きかったようで、もう家に引き返そうかとも思ったりして、 何と40分もそこで費やしてしまった。

結局、持っていた「マイカー登山・ベスト周遊コース(東京周辺)」(山と渓谷社)の中から表妙義を選んで、 上信越道松井田妙義ICへと向かうことにしたのだが、選んだ山がこれまたベストチョイスではなかった(第三要因)。

ベストチョイスではないというのは、表妙義が良い山ではないという意味ではなく、自分の現在の心構えとその時に持っていた地図などのソフト類からみると、 表妙義は登って良い山ではなかったということである。

というのは、こうして最初からケチがついたその日の山行であったが、これだけでは済まなかったからである。

山自体は考えていた以上にハードな山で、「瓢箪から駒」という感じがして大変儲かった気になったのであるが、 実は登山道を途中で間違えてそこでも40分ばかりウロウロしてしまい、体力を大きく消耗してしまったのである。

そして、さらにはこのコースの最大の難所である鷹戻しのピークを越えて安心したのか、その後再び道を間違え、 結局最後まで縦走を果たすことができないということになってしまったのだ。

この詳細は近日中にアップする登山記録に記すが、妙義神社から出発して大ノ字−白雲山−大ノゾキ−天狗岳−相馬岳−堀切(ホッキリ:この後の岩峰の所で道を間違えた) −鷹戻し−東岳−金洞山−中ノ岳−中ノ岳神社−妙義神社という縦走の予定であったところを、 鷹戻しからの下降の後、再び道を間違えて第四石門近くの中間道へ下りてしまったのである。

    *:中間道:表妙義連峰の中腹を縫っている道で、妙義山の初心者向けコースである。

これもかなりショックであったのだが、実は途中の堀切(ホッキリ)付近で道に迷って山中をウロウロしたことでかなり体力を消耗しており、 道を間違えて人の声が聞こえる中間道に辿り着いた時には、内心ホッとしたところがあったのも事実であった。

まあ、とにかく朝から間違い続きの厄日のような日であったが、途中までしか縦走できなかった表妙義とは言え、 半端ではない岩登りの登下降を存分に味わうことができ、しかも事故もなく帰れたのだから文句は言えまい。

普段、事故云々と言っている私が、交通路についてちょっとした下調べをしなかったために道を間違え、 さらにそのためにろくな地図を持たずに表妙義に登ってしまったのは大いに反省しなければならない(ザックには、 先に述べた表妙義の紹介が2ページ程書いてある「マイカー登山」しか入っておらず、 後は全て安達太良山に関する地図、ガイドブック類であった)

やはり、山はそれ相当の準備(山の概要、ルートを頭に入れておく、それなりの地図を持っていく)が必要であることを痛感し、 大いに反省させられた1日でもあった。

無事下山でき、そして交通事故にも遭わずに家に帰れたことを、登る際にご挨拶させて戴いた妙義神社の神様に感謝します。



●登山の目的・楽しみ  1998.05.12 記

山岳紀行作家の石井光造氏が朝日新聞に連載していた「新アウトドア入門:山を歩く心」の第6回(最終回)に、 「山歩きの目的は頂上に立つことだと思う人が多い。 本当は、どこをどのように歩き、どんな風物に出会ったかという過程が重要である。 だから、頂上に行けなくても目的は達する。山頂に行けたら、いい結果がついてきただけ、ということになる。」 と述べられているが、本当にそうだろうか。

このことは多くの山に登り、達観の境地に入っておられるであろう石井氏だから言えることであり、 私自身は頂上に達することができなかったのならば山に登る目的を果たしたとは言えないと考えている。

私は苦しい山登りの途中で、登るのが苦しいからこの場所で止まってしまえたらどんなにか楽だろうと思えた時、 「それでも結局最後には、戻るか登るかして自分の足で始末をつけねばならないのだから、 それならば、苦しくとも頂上に登った方が良い。」といつも考えて、自分に鞭を入れるようにしている。

何のために苦しい思いをして自分は山に登るのかということを分析してみると、私にとってのキーワードは「達成感」ということになろう。

山にのめり込んだのは、サラリーマン生活の単調さに嫌気がさしており、また仕事における自分自身のポジション・役割の曖昧さ、 大勢で行う仕事ではなかなか得ることのできない達成感などに対して、何となく煮詰まっており、 日常の生活において言いようのない閉塞感を感じていた時に、心の張りとなる対象物を見つけることができたと感じたからである。

登山は、全て自力で登り切らねばならず、きついことはきついのだが、苦労した後頂上に立つことで得られる達成感と爽快感は格別で、 また途中の過程における予想外の自分の頑張りに新たなる自分を発見することもあるなど、 自己完結型で刺激に満ちていて楽しいスポーツだと思っている。

簡単に言えば、複雑すぎる日常社会ではなかなか得られない「達成感」を、 登山では自分の力だけで得ることができるところが堪らない魅力なのである。

従って、私の登山は頂上に登ることでのみ満足を得られるものであると言えるし、登り方はもはや単独で登ることしか考えられなくなってしまったし、 登山ルートも車などを使ってかなり高い所まで行って簡単に頂上に立つというような登山は、自分に対して後ろめたい気がするので極力避けるようになっているのである。

また、私は途中で出会う景観にも大いに楽しみを求めているし、 登る過程での苦労や何らかの困難さも楽しみの部類に入れても良いと考えており、 ピークハントだけを目指しているわけではないのであるが、しかしそういった山登りの過程を楽しむということも、 頂上に立つということを前提としているからこそなのだと思っている。

石井氏のことは良く知らないのであまり勝手な想像はできないが、石井氏も実際はその辺のことはよくご存知ながら、 敢えて逆説的な言い方をとることによって、百名山登頂が目標だなどと言ってピークハントだけが目的のような登山をしている人たちに対して警告を発しているのかもしれない。

また、長期の休みを取って遠路はるばるやってきたのだから、天候が悪かろうが、自分のコンディションが悪かろうが、 何が何でも登るぞといって危険を顧みない人たちに対しても、もっと肩の力を抜きなさいと言っているのかも知れない。


この「山を歩く心」の後半部分では、「物質的豊かさから離れ、不便な経験をすることで、 精神的な健康を取り戻せる」と述べておられるが、全くそれに異論はない。

自分一人だけで自然と向かい合うのだから、色々なことが起きよう。
しかし、それを楽しむという思考を持てば、山登りの楽しみは倍加するのである。

でも、「ああ、自然と向き合えて良かった」という他に、やはり頂上に立つ喜びを味わうというご褒美を求めても良いのではないだろうか。



●ゴールデンウィーク中の登山事故  1998.05.09 記

ここに書くことは、一つの新聞記事情報に基づいて私が勝手な想像をしているものであり、 事実を確かめたわけでもないので、事実誤認の可能性があります。
また、内容が故人を誹謗中傷しているようにとられたら申し訳なく思いますが、決してそのような意図で書いているのではないことをお断りしておきます。

ゴールデンウィーク中(4月25日から5月5日)に山に登った人たちは17万5千人と昨年に比べて増加しており、 そして山で遭難、死亡した人も21名に大幅に増加(前年は9名)したと、5月6日付の新聞夕刊に報じられていた。

死亡した方として千葉県の主婦(55歳)のことが書かれており、また上記統計外の5月6日には無職の男性(75歳)の死亡が伝えられていたが、 これらの記事は単なるニュースというだけではなく、何となく中高年の登山について考えさせられてしまうものであった。

このお二人の亡くなられた場所はと言えば、まだ多くの雪が残っているであろう北アルプス・奥穂高岳で、 その亡くなられた方の年齢と合わせて考えれば、どうしても読者は高齢者の無謀登山と考えてしまうのではないか、と思われるからである。

私もこの記事を読んだ時には、何でまたこのような高齢の方がこのような無謀登山をするのかと思って憤慨し、 一方で自分が冬山や残雪多き3,000m級の山には恐れ多くて行けないということから来る嫉妬のようなものを感じたのであるが、 実態はどうだったのだろう。

かなりの山のベテランで、冬山の経験も豊かである方も、新聞記事ではやはり会社員、無職の男性、 主婦としか紹介されず、75歳と高齢であるが体力や敏捷性は50歳代のそれを有していたとしても、 年齢が75歳であることは事実であり、記事にはそういった背景は表されはしないのであるから、 記事を読んで好意的な見方をする人はいないだろう。

さらに、記事を書いた新聞記者が中高年の登山ブームを少し批判的に見ており、そして自分の体力、 技術をわきまえない登山者がいることに対して問題意識を持っていたとして、 記事の中では亡くなられた方に対して批判めいたことは書けないため(年齢にあった登山をせよ など)、 読者に行間を読みとってもらうべく21人も亡くなられた方がいた中でわざわざこの55歳の主婦を挙げたのではないか、 とも考えてしまう(考えすぎでしょうが・・・)

本当のところは分からないのであるが、一般論から言えば、55歳はともかくやはり75歳という年齢に無理があったのではないかと考えるのは当然であろう。

実際、亡くなられた方が体力的にも技術的にも残雪期の奥穂高に登るには無理がある人たちであったかどうかは分からないが、 もし無理と思われる人たちであったのなら、どうしてそのような人が登ることが許されるのだろう(例え、 それなりの技術を有していて無理ではないと考えられる人たちだったとしても、昨日までの自分とは違うということを認識せねばならない年齢であろうに)

法律での規制があるわけではないので、許可もへったくれもないのであるが、やはり自己の体力、 技術、登山時期を考慮して登山の難易度を考え、自分でしっかり登る山を選別していかねばならないのだと思う。

己の技術や体力と相談することなしに、せっかく登るチャンスがあるのだからと飛びつくと、 事故に遭う確率は高くなるに決まっている。

中高年の登山事故が後を絶たなくなったり、また意図的かどうかは別として中高年の事故だけがクローズアップされると、 世論がまた色々なことを言い出すことが考えられる。
例えば、中学生のナイフ事件では本質の論議を避けてナイフの販売禁止といった方向に話が流れたように、 登山も年齢別に登る山を制限するとか、50歳以上は免許制にしようなどという馬鹿げたことが起こるかも知れない(冗談とは言えないかも・・・)

そんなことにならないように、山に登る人(特に中高年者)は普段から技術を学び、己を知り、そして一足飛びに高い山に登らず、 徐々に実績を積み上げていくようにして事故を起こさないように自重して欲しいものである。

私もそうだが、自分が事故に遭うなど全く想像できないし、こういった遭難事故の記事を読んでも、自分だけは別と考えてしまいがちだが、 自然を相手にしている限り人智を超えた事象が起こることは十分にありうるのであり、技術の未熟や不注意が事故につながることは十分に考えられるのである。

ただでさえ、若い人があまり山に登らなくなり、一方で中高年が流行病(ハヤリヤマイ)におかされたように山に登る今日、 中高年登山者が多くなった分だけ中高年登山者の事故も多くなるのは当たり前なのだが、 事実のとらまえ方を間違うと上述のようなことになりかねない。
それなら私も含めた中高年側としても、防げるものは防ぐようにしようではないか。

自分への戒めの意味も込めて、是非とも自重するようにお願いしたい。



●交通費がこれでは堪らん 1998.05.02 記

結局、ゴールデンウィークは福井県の荒島岳に登ってきた。

登山記録はいずれアップするとして、4月29日に横浜を発ってその日は越前大野に泊まり、翌日荒島岳に登ってから帰宅するという日程であったのだが、 イヤハヤ交通費が馬鹿にならないのには参った。

瀬谷から新横浜までが往復で920円、新横浜から米原経由で福井までの往復運賃および新幹線代・乗継特急料金合計で28,060円、福井から越前大野までのバス代が990円、 越前大野から登山出発駅である勝原(カドハラ)まで230円、下山駅の下唯野から福井までの交通費が820円と、 交通費だけで何と31,120円もかかったのである。

夜行バスで福井まで行くという手も考えたのだが、その場合だと福井からの越美北線(地元では九頭竜湖線と称していた)のダイヤの関係で、勝原に着くのが何と午前10時を過ぎてしまうのである。

私は山はできるだけ早朝に登るべきものだと思っているし、加えて荒島岳がそれ程高くない山であることを考えると、太陽が頭上に輝きだしてから登るのは結構夜行で来た身にはツラいものがあると思われ、 さらにその時刻では山は混んでいるだろうと考えて、夜行バスの案は止めてしまったのである。

しかし、荒島岳の山頂で会った方はもっと上手(ウワテ)を行く方法をとっておられ、千葉から夜間に車を飛ばして名古屋で車中の仮眠をとり、 今朝ほど麓に到着してここまで登ってきたと言うのである。

確かにこの方法は安上がりであろうが、いくら車が便利と思っている私とは言え、そこまで身体に無理をさせてまで登る気はしない。

結局、今回の交通費の金額は物理上やむを得ないということなのであるが、何となく損をした気がしてしようがない。

昨年の大台ヶ原や一昨年の大峰山ではもっと多くの費用がかかっているのであるから、 別にこれ位の出費は何の問題もないはずなのであるが、よく考えるに、根底にコストパフォーマンスの問題があるようである。

決して荒島岳が大した山ではないというのではないが、大台ヶ原における大杉谷の見事さに得た感激や、 大峰山のロングコースを歩き通したという充実感が今回の山行では得られず、物足りなさが残ったことが大きく影響していると思われる。

また、下山時のバスや電車の本数が全くと言っていい程なく、無人の下唯野駅で2時間も時間をつぶさねばならなかったことも不満の原因になっているのかもしれない。

山自体は堂々として、特に小荒島岳からみた荒島岳は見事であったのだが、3万円+宿泊費というコストと天秤にかけたら、 ややコストの方が重くなってしまうといったところであろうか。

この荒島岳を深田氏が選んだことに賛否両論あるようであるが、確かに荒島岳レベルの山であれば他にも沢山あることは否めない。

しかし、これは深田氏が選んだ百名山であって日本国民が投票で選んだものではないのだから、氏の思い入れがあって当たり前なのである。

そしてその百名山に登ることを目標にしてしまった私にとっては、登った山に対して文句を言う筋合いのものではないことは重々承知しているのだが、 とはいってもこれだけの費用をかけると心と懐が痛む。


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