登山NO.0062 大 峰 山( 八経ヶ岳:1,915m ) 1996.5.2-4登山


 一ノ垰付近から見た弥山・八経ヶ岳( 1996.5.3 )

【大峰山登山記録】

【大峰山登山データ】

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NO.62 大峰山登山記録

これまで登ってきた百名山は、縦走を別にすれば往復の時間を含めて多くても2日以内に1つの山を踏破できたが、 今回の大峰山はその山域の大きさから言って、 もっと多くの時間を要しそうであった。

その最高峰である八経ヶ岳や弥山だけを登ることにすれば時間は短縮できるものの、やはり折角大峰山に登るなら 大峰奥駆道を歩いて見たいし、 また女人禁制と言われる山上ヶ岳にも登りたいと考えたからである。

幸い私の会社はゴールデンウィークの期間中、連続9日間の休みとなっているので、子供達が学校に行き、 家族サービスの義務を負わなくても良い平日 (4月30日から5月2日の間) を極力利用しての山行にしようと計画したが、 山上ヶ岳の宿坊は5月3日からしか開かないということなので、 仕方なく5月2日に弥山小屋、 3日に山上ヶ岳宿坊にそれぞれ宿泊して、 5月4日に下山する計画に変更した。

また京都あるいは大阪まで夜行バスで行くということも考えたが、身体が楽なように前日宿泊をすることとし、5月1日、 雨がそぼ降る中を 新幹線にて京都経由橿原神宮に向かった。

橿原神宮に着いた頃には雨も上がっていたので、神宮に詣でて翌日からの天気と山行の無事を祈った。

翌朝、ホテルの窓から見た空は曇っており、テレビの天気予報も奈良県地方の降水確率50%と言っていたので、 少々ガックリしながら下市口へと向かったが、 電車が下市口に近づくにつれ、 日が射してくるようになり、 駅に降り立った時には 雨の心配は全くいらないような空模様になっていた。

駅前は既に登山客で賑わっており、バスに座れるかどうか心配したが、バスを1台臨時増発するとのことで それは杞憂に終わった。

バスが天川川合に着いたのは9時半で、登山道へ向かう途中の八百屋で水筒に水を入れさせてもらい、 その店の脇から吊橋を渡って暫く進み、 道標に従って山道に入った。
途中、 木々が切れ、 大峰の山々が見えるところが何箇所かあったが、 特徴ある山容ではあるものの、 その時は山の名をハッキリと同定することができなかった。

栃尾辻という所で道はT字路となり、左に行けば弥山であったが、そこから急な登りとなっていたために少し心がひるみ、 一旦休んで早い昼食をとることとした。
栃尾辻からはしばらく登りが続き、 途中から尾根伝いの登りも絡んできたが、 暫くすると湿地に出 (ここは如来池と呼ばれる池があるらしいのだが、 それらしいものは認められなかった) さらに暫く進むと弥山川の河原に突き当たり、 吊橋を渡ると素晴らしく明るい草の台地となった。
ここは狼平と呼ばれるところで、 水の流れは清く、 キャンプ場としては最適と思われるところである。

ここからまた樹林帯の中の登りとなったが、この辺から残雪が現れだし、所によってはかなり多く残っていて登山路を塞いでいたり、 雪が解けだして流れを作って歩きにくくなっていたりで、 かなり苦労させられた。

トウヒなどの原生林の中、やがてオレンジの大きなポリタンク ? の横を過ぎると、雪に半分埋もれた鳥居が現れ、 その先に弥山小屋が立っているのが見えた。
しかし、 小屋には寄らずまずは弥山頂上に行くことを優先し、 鳥居の所からV字ターンして、 暫く進むと小広いスペースがあり、 そこが弥山頂上であった。

頂上は木々に囲まれて展望は得られないものの、立派な祠の弥山神社が建ち、修行の山らしく祠の傍らには 錫杖のイミテーションが置かれていた (これはその後の多くの山に見られた)。

弥山小屋に戻り、ベンチに荷物を置いてから今度は八経ヶ岳を目指した。一旦弥山から下り、鞍部の古今宿から雪の多く残る道を登り返すと 八経ヶ岳頂上であり、 狭い頂上からは南の釈迦ヶ岳方面が良く見えた。

翌日は、 奥駆道を辿って山上ヶ岳に向かったが、 途中、行者還トンネル西口から登って来る多くの人たちとすれ違った。
しかし それもトンネル西口への分岐を過ぎるまでで、 その後は七曜岳までの間、 ほとんど人と会わない静かな山旅となった。

クマザサの生える一ノ垰 (タワ) から、道は角度を北に変え、それ程起伏のない道をほぼまっすぐ進むと行者還小屋のある 天川辻であったが、 ここでは休まずにさらに先にある水場まで進み、 岩から流れ出る冷たい水で喉を潤した。

この辺になると、朝方晴れていた空は曇りがちになり、また風も吹き出して何か胸騒ぎを覚えさせるような雰囲気が出始め、 そんな中縦走路からはずれて登った行者還岳は、 原生林に囲まれて静かであったものの、 木の陰から突然行者や天狗が現れそうな気配がして 何か落ち着かない気分であった。

縦走路に戻った後小さな登り下りを繰り返し、最後に鎖場をよじ登るとそこは七曜岳の頂上で、 そこからは行者還岳、 稲村ヶ岳、 大普賢岳などの山々の素晴らしい展望が得られ、 昼食にするにはもってこいの場所であった。 しかし、 残念ながら 岩場は和佐又方面から登ってきた登山者で占領されていたため、 あきらめて次の昼食場所を求めて先に進むこととした。

腹をすかしながらも、もう少し先、もう少し先と自分に言い聞かせて昼食場所を先延ばししながら歩き、 結局昼食をとったのは 大賢岳の頂上であった (12時15分前着)

縦走途中、木々の間から見た大普賢岳は大岸壁を有した堂々とした姿で、登るのがキツそうに見えたが、 七曜岳、 国見岳を越えての縦走路からは意外とあっさり登ることができた (頂上は木々に囲まれており、 展望を得ることはできなかった)。

大普賢岳から小普賢岳を過ぎ、原生林の中を緩やかに下っていくと脇ノ宿跡で、そこからまた緩やかに登ると女人結界門のある 阿弥陀ヶ森に着いた。
いよいよここから女性入山禁止の地域であるが、 この男女同権や雇用均等、 また労働基準法における女性に関する条項の変更が かまびすしく語られている今日、 このような場所があることが本当に不思議である (日本語とともに書かれていた英文には、 " 宗教上の理由で " とあった)

あまり起伏のない縦走路を淡々と進むと、小笹の宿で、そこには白装束の大人と子供達 (無論男)が弁当を食べていた。 恐らく、 今日の山上ヶ岳開山を目指して、 柏木から登ってきたのであろう。

そこから先もほぼ平坦な道が続いていたが、暫く登りが続くようになり始めて、登りついた先はもう大峰山寺であった。
寺にお参りした後、 寺の反対側を少し登るとそこが山上ヶ岳の頂上で、 そこにはこれだけの山であるのに 小さな標識が申し訳けなさそうに木からぶら下がっているだけであった (頂上着午後2時)

大展望が得られる日本岩を経由して、本日の宿舎である竹林院に急ぎ、登録を済ませると、カメラだけ持って西ノ覗、 鐘掛岩まで往復し、 修行の場所の一端を見せてもらった。

宿坊ではうれしいことに十畳程の部屋が私1人に割り当てられ、おまけに風呂まであり、もう感激ものであったが、 風呂は何か緑色のヌルヌルしたお湯で、 薬湯なのかもしれないが、 些か気持ち悪かった。
また、 5月とは言え宿坊の周りには雪が多く残っており、 夜は結構寒いため、 昔懐かしいレンタン火鉢が支給された。

翌日は、同宿していた講の人たちのリクエストもあって 5時からの食事となり、 早朝に出発することが可能になったため、 洞川を朝9時半のバスに乗るべく道を急いだ。

女人結界門を抜け、快調に飛ばして山上ヶ辻から稲村ヶ岳往復を行ったが、まず先に向かった大日山は、 立派な梯子が築かれて キレット状の所も安心して渡れるようになっており、 その頂上には、 大日如来をまつった立派な祠があった。

稲村ヶ岳の頂上には展望台があり、そこから1昨日以来歩いてきた山々を南から東、そして北へとぐるっと見渡すことができたが、 その距離に我ながら感心するとともに、 5月2日の登り始めには名前が分からなかった山々を、 ほぼ同定できるまでになっている自分が若干誇らしく思えた。

山上ヶ辻まで戻った後は、ひたすら山を下り、8時過ぎには洞川温泉に着くことができた。
温泉で汗を流し、 名物の豆腐を食べ、 バスにて下市口に向かった。


大 峰 山 登 山 デ ー タ

上記登山のデータ登山日:'96.5.1-4 天候:晴れ(2)単独行前日泊
登山路:天川川合−栃尾辻−狼平−弥山−弥山小屋−八経ヶ岳 −弥山小屋()−聖宝ノ宿跡−一ノ垰−天川辻−行者還岳−七曜岳−大普賢岳−小普賢岳 −女人結界門−小笹宿−大峯山寺−山上ヶ岳−日本岩−宿坊()−レンゲ峠−山上ヶ辻−大日山 −稲村ヶ岳−山上ヶ辻−法力峠−洞川
交通往路:瀬谷−(相鉄線)−横浜−(市営地下鉄)−新横浜−(東海道新幹線)− 京都−(近鉄京都線・橿原線)−橿原神宮前()−(近鉄吉野線)−下市口−(バス)−天川川合
交通復路:洞川−(バス)−下市口−(近鉄吉野線)−橿原神宮前− (近鉄橿原線・京都線)−京都−(東海道新幹線)−新横浜−(市営地下鉄)−横浜−(相鉄線)−瀬谷
その他:5月1日に橿原神宮泊。
翌2日に弥山、八経ヶ岳登山。2日は弥山小屋泊。
3日に大普賢岳、山上ヶ岳登山。宿坊泊。
4日に稲村ヶ岳登山。下山後帰宅。


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