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ユダヤ人街  50 05 21.32N,14 25 01.11E

 モルダウの流れにちょっと突き出しているこの一帯は、ユダヤ人街として、正にゲットーが形成されていましたが、当然洪水に悩まされたいたとか。確かに川が蛇行する外側は台地側で侵食される立場、内側は堆積地になるのですから洪水も自然の摂理なのです。そして19世紀末、プラハ政府はこの一帯の大改造に乗り出します。いわば造成して地盤を上げ、ブールバールを通す。お手本はオースマンのパリの大改造であるし、お隣のウィーンではリンクシュトラーセの建設が急ピッチで進んでいる、そんな時代でした。

 そしてこの一帯も道路は広くなり、呼応して建物は一新。でも手がつけられなかったのはユダヤ人教会や、墓地。結果、それらは嵩上げされることなく、今みれば地盤から沈んだようになっているのはそんな背景があるのですね。なるほど、旧市街とは全く違い、広く真っ直ぐな街路、整然と建つアパートエント。1階はエルメスだディオールだ、という店構えだし、アールヌーボー華やかし頃の建物が連なっています。でも今回の洪水には勝てなかった。嵩上げしてもその上を洪水がいっていました。店はすべて閉鎖、川縁のインターコンチも当然閉鎖(誰だこんな建物建てようとした奴は、そして許可した奴は)。カレル橋付近は発電機つけても何とかしようという根性があったけれど、ここは何もなし。確かに観光客がすぐに来る場所ではないけれど、避難してそれっきりなのでしょうか。さすがにもう復旧しているとは思いますが。

ピンカスシナゴグ。とにかくここも、ユダヤ人墓地も閉鎖されていましたから、この前を通っておしまい。ナチスに殺された8万人の名をプレートにしてあるというのは、やはり絶対に忘れないぞ、という証でしょう。でもこれだけではない。旧新シナゴグでは何と1389年時の虐殺の血痕をしっかり保存しているというのですから。
カレル橋 火薬塔 旧市街広場 ヴァーツラフ広場 ユダヤ人街

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