日歯連からの1億円ヤミ献金事件で起訴されていた村岡元官房長官に無罪判決。

 判決文はかなり異例のもので、取りようによっては「真犯人」の示唆を含み、かつ検察官の無論理性と隠れた政治性を指摘したもの。朝刊にある判決要旨の「結語」の部分を書き写しておく。

 従来、「政治と金」をめぐる疑惑が生じるたびに、政治家の姿が背後に見え隠れするにもかかわらず、その秘書だけが責任を取らされるかたちで幕引きがはかられてきたと思われる。その意味では、検察官が、いわば「聖域」とされてきた派閥の資金管理にメスを入れたばかりでなく、秘書の背後にいる政治家の責任を問おうとしたこと自体は、支持されるべきことと思われる。
 しかしながら、検察官がその立証の根幹に据えた穂川証言には多くの難点があっ到底信用できず、他に被告と滝川との共謀を認めるに足りる証拠も見当たらない。

 まさに井上薫などに言わせれば「司法のしゃべりすぎ」の好例かも知れぬが、検察官の性根を叩き直すためにはこれくらいのことは必要な時代になっているのかも知れない。

 前原が民主党の代表を辞任することにした由。いったいいままでのあがきはなんだったのか。(3/31/2006)

 アウトサイダーの立場から制度を改変するのは難しいことだ。それが大いなる既得権に関わることであれば、なおさらのこと。大島国連大使は27日、ドイツ・インド・ブラジルの国連大使を日本代表部に招き、安保理事会を21ヵ国に拡大するという日本の決議案の提出を断念することを伝えた由。以下、夕刊の解説記事。

 G4共同決議案の挫折のあと、国連安保理改革を巡る日本政府の戦略は何より、米国の支持を得ることにあった。だがその見通しも立たず、善後策を探らざるをえない状況に追い込まれ、米国頼みの戦略の限界を露呈した形だ。
 昨年のG4案は安保理の国の数を25としていたが、日本政府が今年に入って21カ国にする案をまとめたのも、常任理事国の数を増やすことに消極的な米国の理解を得ることにねらいを絞ったためだった。一方、ドイツなど3カ国に対しても「G4案では決議案が採択される見通しはない」と日本の考え方を説明し、協力を求めた。
 だが、各国がG4案にこだわる姿勢を崩さないため、政府も今月下旬、「G4案には賛成しないが、反対にも回らない」と一定の距離を置くことを決めた。
 政府は今後も米国の理解を得られる折衷案を検討する考えだが、その米国が常任理事国の増加自体に消極的な姿勢を続ける限り、事態を打開できる見通しはない。外務省幹部は29日、現在は案を出せる状況ではない」と語り、状況が厳しいことを認めた。

 ドイツはイランの原子力開発に関わる件で常任理事国5ヵ国に加わる形で「6ヵ国協議」に参加しているインドは先日のブッシュの訪問で事実上、その核保有をアメリカに承認された形になり、他の常任理事国4ヵ国も暗黙の承認を与えた。アメリカの顔色をうかがってチョロチョロしたあげくに自分からG4クラブからの脱会宣言をした日本。3ヵ国は内心嗤っているかもしれない。(3/29/2006)

 原子力安全保安院はきょう四国電力伊方原発三号機に対してプルサーマルの実施許可を出した。全国で六機目の由。ことしはチェルノブイリ原発事故から20周年にあたるため、その関連の報道がいくつかなされているが、きょうがそれにさかのぼること7年前のスリーマイル島事故の発生日だということを思い出す人がいったいどれほどいることか。

 原子力発電について話をすると多くの人がみごとに「目眩まし」にあい「洗脳」されていると分かる。目眩ましというのは「チェルノブイリ事故の深刻さの影にスリーマイル島事故が隠されている」ということ。そして洗脳というのは「危険なのはソ連型原発でアメリカ型原発は安全だ」というまことしやかな「お話し」のこと。

 スリーマイル島事故については運転員の操作ミスが軽微な事故を重大なものにしたという説明と、それでも安全装置が働いて結果的にはたいしたものではなく運転員の被曝線量は規定値以内にとどまったという説明で終わりにされている。はなはだしいのに至ってはスリーマイル島事故は原発がいかに安全であるかを逆に証明したなどという主張まである。日本の原発はアメリカ型だ。だから安全だとという論法。ではその論理に従うことにしよう。日本の原発がアメリカ型であるから「安全性」は「アメリカ型」だというなら、論理的にはその「危険性」も「アメリカ型」だということになる。

 スリーマイル島事故の背景をみると、経営に苦しむ原発会社が最新鋭の設備と自画自賛をする一方で2割以上ものコストダウンを狙って中古の部品を使用した箇所があり、そこにトラブルが頻発し運転員がこのプロセスの不具合と格闘しているときに異常が発生し対処を誤ったことが報告されている。つまりいかにもアメリカらしいことが事故の遠因になっているのだ。コストダウンに伴う安全性の軽視については日本の原発も「アメリカ型」であろうといえば、万人すべて納得しよう。

 ところでプルサーマルとはなにか。ひとことでいってウランにプルトニウムを混ぜたMOX燃料と呼ばれるものを使うということ。ウランを燃やすことが設計条件であった原子炉で設計「想定外」のMOX燃料を使うのだ、おそらく再設計同様の詳細な検討がなされたに違いないと誰しもが想像するが、不思議なことにそういうデータは公表されていないそうだ。それでは第三者がと名乗り出てもダメ、MOX燃料の構成比などの詳細データは旧ソ連並みの秘密主義に守られている。よほど経済性を尊重した「アメリカ型」の再設計検討がなされたのだろう。お金をかけない検討、公開できない検討、つまりは何もやっていないのではないか。つまりは「事後規制」ということ。「事後」とは何か。「チェルノブイリ後」ということだ。(3/28/2006)

 ザッピング中に見たフジテレビ、藤原正彦の「国家の品格」を取り上げていた。「自由と平等を疑え」というまとめフリップを見ていておとといの朝刊、経済欄の隅の小さな記事を思い出した。

「全頭検査を認めよ」/米牛肉加工会社農務省を提訴へ
 【ニューヨーク=渡辺知ニ】米国の牛肉加工会社が、米農務省を相手取って、BSE(牛海綿状脳症)対策として、自主的な牛の全頭検査を容認することを求める訴訟を起こす考えを22日明らかにした。日本への牛肉輸出再開を促すねらいだ。
 現状の対策で安全だとの主張が大勢を占める米業界内では異例の動きで、米農務省は国内外からの圧力にさらされることになる。
 提訴するのは、カンザス州の中堅加工会社クリークストーン・ファームズ。04年にも全頭検査の承認を農務省に求めて拒否されたことがある。
 米政府は全頭検査について「科学的根拠が薄い」などとして一貫して否定して観る。1社が始めると追随する動きが広がってコスト高となることを懸念する業界の意見も判断の背景だ。

 うちに配達される13版は上記のようになっているが、サイト掲載の記事は、訴訟を起こしたことを23日発表したこと、提訴理由を「全頭検査を求める顧客の声に耳を傾ける」と説明していること、すでに全頭検査のための施設をつくったが農務省が検査器具の販売を監督しているため全頭検査に必要な器具の提供を受けられない状況にあることなどの情報が付加されている。

 「自由」が売り物のはずのブッシュ政権の農務省が業者の「自由」を奪っているというのだから、なるほど藤原の言うとおり「自由」を疑ってみることも必要なようだ。(3/26/2006)

 PSEマーク騒動、いやになるほどいまのこの国を映している。〒マーク(なぜ〒を逆三角形や丸で囲ったマークだったかといえば、最初は逓信省電気試験所が安全検査をやっていたからだ)の根拠法であった「電気用品取締法」がPSEマークを規定した「電気用品安全法」に改称・改訂されたのは5年も前の話だ。「取締法」から「安全法」へ移行するのはおそらくアメリカから「非関税障壁」だとして電気用品検査制度を「事前規制型」から「事後規制型」に「構造改革」をするよう圧力がかかったからだろう。

 慣れ親しんだ法制全体をおおっているおおもとの思想を、何故、このように次々とアメリカ型に変えなければならないのか。そもそもそのような国の根幹、まさに「この国のかたち」に関わることをほとんどなんの説明もなく個別にバラバラと変更することを誰が意識的に是としたのか。この国の「似非保守主義者」たちよ、中国がいくら腹立たしくとも彼らによって国体はなんの影響も受けてはおらぬ、お前たちが腹を立てるべきことはここにあるぞ。

 マスコミもいま大騒ぎするくらいなら5年前にでも問題点を指摘すればよかったし、経産省もせめて一、二年前に広報活動をきめ細かく展開しておけばよかったのだ。年も改まってからの本格施行宣言ではふだん法令動向などに不案内な零細業者が驚くだろうくらいのことは十分予測できたはず。つまり、騒ぐ方も騒ぐ方なら、騒がれる方も騒がれる方だ。

 それでも経産省のことだから「毅然とした姿勢」で4月1日からの施行に入るものと思っていたら、とつぜん「中古電器販売、実質OK」ということになった。法律の改正かと思いきや、「ノーマーク品の販売を容認するものではなく、レンタルの形式だと理解する。後日、販売者が自主的に検査しPSEマークをつけるようにお願いする」というのだ。呆れた、心の底から呆れた、この国ははたして「法治国家」なのだろうか。(3/25/2006)

 朝刊に東京電力福島第二原発三号機の冷却配管のヒビを検査時点で見逃していたという記事。検査時には小さなヒビであって国の運転基準には触れないとして運転を継続していたものが、ヒビの評価手法が確立していないとする福島県の要求で再検査をしたところ、当該のヒビの近傍に全周にわたるヒビがのあることが分かったというもの。以下は推測。超音波によるブラインドチェックの誤差によるものかも知れない。「十分な基準で作られているんだから」という思い込みでスタート。検査アラームが出て、最初に見つけたヒビを「アッ、これだ」とばかりに障害部分と決めつけてしまう。そしてほんとうの障害箇所を見逃してしまうというのはありがちな話だ。別に緊張感を欠いた組織でなくともこういうことは起きうる、それが「人間らしい間違い」というものだ。

 夕刊には北陸電力志賀原発の運転差し止め請求に対し、金沢地裁が「電力会社の想定を超えた地震動によって原発事故が起こり、住民側が被曝する具体的な可能性がある」としてこれを認める判決を出したことが報ぜられている。耐震性に関する考慮が既に時代遅れであることは、去年8月16日の宮城沖地震(温水プールの屋根が落ちたあの地震だ)の際、東北電力女川原発の耐震加速度設計値(250Gal)を超え(251Gal)全台停止になったことで証明済み。女川原発の二号機はこの一月、三号機はつい先週、やっと稼働にこぎつけ試験運転に入ったばかり。この地震は宮城県沖を震源地とする地震の中では格別に大きいものではなかったにもかかわらず、「過去一万年の間に周辺で起きた最大の地震」という原子力保安基準をあっさり「クリア」してしまったのだから、裁判毎に国や電力会社が唱えるお題目がいかにいい加減なものかよく分かる。

 原発という火遊びが「確率」という保護エリアの中におさまってくれているうちはいい。世の中には自称、他称の「お利口さん」がたんといて、したり顔でエネルギー政策上とか、保安基準想定とか、いろいろの理屈を並べ立てて火遊びを続けることを言い募っている。単に「自然」というものに甘えているというだけなのだが、彼らにはそういう意識はまるでないだろう。あくまで自分は利口なんだと信じ込んでいる。では「想定外」の事態が発生し「火事ボウボウ」になったとき彼らはどうするのだろうか。きっと「顧左右而言他」ことになるさ。

 どの程度の死者が出て、どの程度の期間、どの程度の地域が汚染され、何代くらい生まれてくる子供に障碍が及ぶものか、おそらく誰も分からない。その時が来てはじめて人々は「火遊び」のほんとうの意味を思い知ることになる。

 お利口さんたちの面子が失われるときが訪れることは望まない。自分とその裔に災厄の降りかかるのを望む者はおるまい。いつまでも「確率」の檻の中にその災厄がとどまっていてくれることを祈るのみだ。(3/24/2006)

 きのう衆議院懲罰委員会で永田寿康が「メール偽装」騒ぎに関する弁明を行った。朝日、読売、サンケイがともにけさの社説でこれを取り上げている。一番鋭い指摘をしているのはサンケイだ。

一連の釈明で最大の疑問は、なぜ偽物と断定したのか、その根拠がいまだに明確に示されていないことにつきる。

 まことにその通りだ。永田も民主党も最初はそのメールが真実を語るメールだと信じたのだろう。だからこそ国会質問で取り上げたはずだ。いったい、いつ、どのような根拠で件のメールが偽物であると断定し、謝罪広告まで出すに至ったのか。まさか武部が否定したために、アッ、そうですかと引き下がったわけではあるまい。

 一般論でいえばいったん疑惑を持たれるとそれが根拠のない不当なものだと分からせることはなかなか難しいものだ。週刊新潮に代表されるようなイエロージャーナリズムがビジネスとして成立する(もっとも新潮社は最近この手の裁判に負け続けていて、社内にはいい加減にしろという声がある由)のはこのあたりの事情による。数々の冤罪を疑われる事件を想起すればもっとよく分かる。冤罪事件で無罪を勝ち取ったケースを見ると、ほとんどがアリバイなど自分の無罪を直接立証するか、検察側の有罪立証の根幹が虚偽のものであることを立証した場合に限られていることが分かる。じつに恐ろしいことだがこの国では検察の立証に区々たる反論をした程度では冤罪から逃れることはできない。きのうの仙台筋弛緩剤事件判決を見れば明らかだ。しかし濡れ衣を着せられたはずの武部と自民党が目立った反論をしたようには見えない。だとすれば、永田と民主党は「なぜ偽物と断定」せざるを得なかったのか、サンケイが指摘した疑問はごく当然のものだ。

 サンケイの社説にしては珍しく論理的だと拍手をして読み進んだが末尾でまたいつものように嗤うことなってしまった。

 前原誠司代表はこの問題以降、精彩を欠いている。対応が後手に回り、政権を任せられる政党かとの疑念を招いた。だが挽回策は偽メール問題の解明にこそあるのではないか。まず自らの指導力でメスを入れることだ。
 このハードルを乗り越え、次に前原流の外交、安全保障ビジョンをまとめる。時間はあまり残されていない。

 このひと月の対応を見れば前原誠司という男に外交やら安全保障を語る能力があるかどうかよく分かったではないか。中学レベルの問題にこれほどウロウロ・バタバタし「精彩を欠」くような人物が超大学級の外交・安全保障という問題について聴くに値する「ビジョン」がまとめられるわけがないだろう。やっぱりサンケイはどこまでいってもサンケイだねぇ。(3/23/2006)

 仙台筋弛緩剤事件の控訴審判決。二審も守被告を有罪として無期懲役を言い渡した。おおむね一審判決をそのまま敷衍したものというから、点滴を使ってのマスキュラックス投入、犯行から一週間以上も経ってからの採尿データ、・・・、これらの「不自然」に対する合理的な解釈はなかったとすると、ずいぶん杜撰な判決ということになる。

 例によって被害者家族の「被告は判決を真摯に受け止めて・・・」というコメントが流されている。犯罪被害者なりその家族とすれば当然のコメントだろう。現実に植物人間になった入院患者がいる。その家族にとってはそれが責任立証のしにくい医療過誤などではなく犯罪である方がある意味であきらめがつくのかもしれない。犯罪であったとすれば犯人はなんとしても挙げられなくてはならないし、有力な容疑者がいればそれが犯人であり、犯人には罪を償わせなければならない。この一連の流れの中にいくつもの論理的な仮定が隠れているとしても、そんな小さなことに拘るのは暇な奴に任せておいて、効率よく正義を実現しなければ世間が許さない。それがこの国の「常識」の相場というものだ。

 この事件にはそういうご都合主義の匂いがプンプンとする。守被告が一人の殺人と四人の殺人未遂の犯人で間違いないというのなら、なぜ検察官は死刑を求めないのか、なぜ裁判官は求刑が軽すぎるとして死刑にしないのか。彼らは守を百%クロと断ずる確信が持てないのではないか。だから無期という「逃げ」を打っているのだ。

 先日、最高裁司法研修所が行ったアンケート調査の結果が報じられた。その中に「殺人を犯した少年に対する量刑は、重くするか、軽くするか」というものがあった。興味を引いたのは、「重くする」・「やや重くする」と答えたのは一般市民の25.4%に対し、職業裁判官はゼロで「軽くする」・「やや軽くする」が90.7%だったこと。(アンケート回答者は全国8都市で無作為抽出した一般市民1,000人と刑事裁判を担当する地裁・高裁の全裁判官766人)

 時代の空気は、「世の中が甘いから不届き者が出てくるのだ」、「不届き至極な奴は縛り首にしてしまえ」この方向にある。多くの刑事担当裁判官は心の片隅でエモーショナルに重刑を求める市民裁判官、裁判員という名前らしいが、その登場を心待ちにしているのかも知れない。(3/22/2006)

 この時期、「サクラ、サク」とあれば、めでたい電文。気象庁が開花宣言をしたこの日、WBCで日本はキューバを10−6で下して初代チャンピオンになった。どこか敗者復活戦から勝ち上がったような気がしてしまうのがわずかな疵だが、アメリカが最後まで対決を避けるよう画策し続けた世界最強のキューバに審判の応援のような陰の支援を受けることなく勝ったのだから堂々たる優勝だ。

 おそらくマスコミ論調はイチロー賛辞に偏るだろう。しかしMVPになった松坂を別にすれば、優勝のもう一人の立役者は福留だ。準決勝の対韓国戦、押し気味ながらもジリジリするような0−0の均衡状態を破ったのは福留のツーランだった。化学反応は反応を持続するエネルギー値以上のエネルギーの山を超えなければ始まらない。いったんそれを超えるとその後は低くて済む。松中もイチローもこの山を超えることには貢献しなかった。7回表、代打に立った福留が悪い流れに変わる寸前で勝利の水を呼び込んだのだ。このツーランはこの試合の流れを決しただけではなく、決勝戦への伏流水ともなった。

 ほとんどの人がイチローに賛辞を送る。しかし三回も対戦することになった韓国との戦いを必要以上に厳しいものにしたのはイチローの場外乱闘のような発言だったと思う。「アジアのチームに向こう30年は日本とやりたくないと思わせるような勝ち方をしたい」。なにがどうでもイチローを誉めたい人たちは「自ら敵役を引き受けてチームメートの風よけになったのだ」などと論評していた。バカなことを言うものだ、あの発言の有無で気が軽くなった選手がいたというならお目にかかりたい。一人でやるスポーツならば、なにをどのように言おうと構わない。骨を拾うのは誰でもない自分自身。亀田兄弟のようなパフォーマンスはボクシングだから赦されるのだ。

 二次リーグでの対韓国戦、ファールフライをスタンドに上半身を入れてとろうとしたイチローが観客に押し戻されてファールフライを取り損ねたシーンを見た。イチローはかなりエキサイトし、なにごとか観客と言い合いをしているように見えた。メジャーの中継でイチローがジェスチャーを交えて不快を現したシーンを知らない。それがWBCを真剣に戦った故なのか、それともマリナーズの試合の観客はほとんどが白人で、今度はそこに黄色い韓国人がいたからなのか、いったいどちらなのだろう。「アジアのチームに」という言い回しがほんとうにあったのかどうか、答えはそのあたりにありそうだ。(3/21/2006)

 8時半頃ホテルを出る。今出川の交差点に着くのと同時に**(息子)が横断歩道を渡ってきた。9時少しまわったところで既にもう行列になっている。学部の卒業生だけで900名を超えるというのだから会場のチャペルは満杯。父兄は二階席。前後・左右ともに余裕はなく、膝は前のイスの背板、腿は隣の人と擦りあう感じ。賛美歌の合唱で始まり、学部から大学院の順に学位記の授与。学部も修士課程も総代は女性。博士課程は一人ということでやっと男。続いて八田学長の式辞、そして大谷総長の祝辞。式辞は2ドルの寄付者の話に始まり、同志社英学校と同志社大学それぞれの第一回の卒業式を回顧し、いま卒業を迎える者に伝統を語り、祝辞は真の個人主義とそれを支える自律の意識を語って十分聞かせるものだった。もちろんヒノマルもキミガヨもしゃしゃり出る幕などあろうはずもなくじつに清々しいものだった。(3/20/2006)

注)2ドルの寄付者の話・・・注をつける予定です。

 16日、訪韓した中曽根・福田などと会談した盧武鉉が「遊就館に行ってみたいと思ったが、周りの者に止められた。日本側が承知してくれれば行ってみたい」と発言したと伝えられることについて、「サンデーモーニング」で寺島実郎が「遊就館の話は日本のナショナリズムの実質をあぶり出そうという意図につながっているのではないか」と言っていた。

 靖国神社は戦死者を人質にとることによって大東亜侵略戦争を正当化しようというかなり突出した思想の市民権を強要している。それはある種の思想的なテロリズムだ。「心ならずも戦場に赴き国のために命を捧げた人々」と言われれば、多くの人々はそういう戦死者を否定することはできない。靖国神社にA級戦犯を合祀したのは、命令に従い従容として死地に赴いた兵卒へのごく自然な尊崇というオブラートの中に意図的に侵略を命じた責任者たちを包み込むことによって、侵略戦争をまるごと批判を寄せ付けぬ神棚に持ち上げようという試みだった。

 遊就館はそういう試みが可視化された場所だ。靖国神社を思想的テロリズムの道具にしようとする立場にとって遊就館は際どい賭けのタネだ。あくまで情緒的にしか世の中を見ることができぬ者は遊就館に涙して盲となるだろうし、冷静にものを見ることができる者は遊就館が見せるものをファクトとして見、あるいはかえってそのいかにもの謀みのカラクリを見通してしまうだろう。多かれ少なかれ我々はナショナリズムを隠し持っている。それがたやすく権力迎合に向かうものか、もっと深いところから国家を問い直すことに向かうものか、たかだか数十年で崩れてしまう思想か、もう少し長持ちする思想か、なるほど可視化されたナショナリズムというのは面白い存在かも知れない・・・。人混みを避けて訪れた泉湧寺の境内を歩きながら、そんなことを考えていた。(3/19/2006)

 8時半過ぎに家を出て、10時36分発のひかりで京都へ。穏やかな春の日。粉砂糖をかけたような富士山がよく見えた。浜松を過ぎるあたりから曇り始め、京都に着いたときは雨になっていた。チェックイン後、**(息子)のアパートへ。ホテルからは堀川通りをまっすぐ北へ。強い降りではないので街を楽しむつもりで歩いてみた。約三十分。そぼ降る雨にも関わらず自転車の通行が多い。風景も街の匂いも違うのだが、なぜか北京の街を思い出した。

 **(息子)の部屋は三階。どうにか隣家の屋根の上にはなっているものの、とにかく密着しているから見晴らしがいいとはいえない。それでも明るい部屋、布団を干すこともできたというから、まずまずの居住環境だったのだろう。**(家内)と三人で研究室に向う。西陣織関係の家が並ぶ中を約十五分。相国寺の門を過ぎ、なんとかいう院(相国寺の塔頭のひとつなのだろう)の向かいの木戸をくぐり大学の敷地に入った。「博遠館」の三階に**(息子)の研究室はあった。8人分のコーナーがあり、左の寄りつきが**(息子)、既に本や私品はアパートに持ち帰ったので書棚も机もガランとしている。つきあたりの窓からは相国寺の木々が見える。実験装置や測定器が林立する研究室とはえらい違いだ。

 いろいろお世話になった**さんのところの**ちゃんを招き四人で食事。六時前から八時頃まで。その後すぐ隣の喫茶店(オーナーは同志社の教授だった由)で談笑。九時をまわったところでホテルに帰ってきた。(3/18/2006)

 WBC、昨日韓国に1−2で負け、決勝トーナメント進出は絶望となった。返す返すも月曜日の対アメリカ戦の判定が残念というところで、残されたチャンスはアメリカがメキシコに2点以上の得点を与えて負けた場合のみ。とはいえ韓国と日本に負け続けているメキシコの戦いぶりから見てアメリカから2点を取ることはあっても勝つことはありそうになかった。

 しかし勝負事はほんとうにわからない。メキシコが2−1でアメリカを下したばかりか、メキシコが後攻かつアルファゲームだったため、アメリカの守備回数が8イニングちょうどで終わり1勝2敗で並んだ三ヵ国の順位はイニング単位の失点率で日・米・墨の順となり、日本が決勝トーナメントに進出することになってしまった。子供時代原っぱでやった野球、アウト・セーフでもめた後、再開して最初のプレイが吉と出たチームは必ず相手側に向かって唇をとがらせて言ったものだ、「セイギはカッツー」と。

 この試合、3回裏、先頭打者バレンズエラのあたりはライトポールを直撃した。ところが一塁塁審(あのデビッドソンだった)はこれにホームランの宣告をせずインプレーで流した。ポールに当たったボールはライトフィールド側に跳ね返り転々と転がった。ホームランと思ったのだろう打者はかなり減速しセカンドに到達、メキシコ側からはかなり強硬なアピールがあった。続く二人がピッチャーゴロ、三振と倒れた後、カントゥがセンター前にヒットして幻のホームランを打ったバレンズエラがホームを踏んだ。アメリカは4回表同点に追いついたが、メキシコは5回裏今度はホームラン崩れではない二塁打を足がかりに2点目をとり試合はそのまま最終回へ。9回表アメリカ最後の攻撃は1アウト後連続四球で1・2塁としたが最後はショートゴロ併殺でゲームセットになった。セカンドから転送されるボールは誰の眼にも打者走者よりは早く、あのデビッドソン塁審もアウトを宣告せざるを得なかった。「セイギのテッツイ」は正確にアメリカの脳天に下った。

 疑惑の判定後、アメリカが日本にサヨナラ勝ちをおさめたとき、朝鮮日報は「米国が世界の野球ファンを相手に厚顔無恥な詐欺劇を繰り広げた。実力では勝てないとでも思ったのだろうか」と書いた。そこにはソルトレークで韓国から金メダルを盗み取ったアメリカへの怒りがまじっていると思ったが、こうして二次リーグの試合結果を見てみるとアメリカには最初から相当の危機感があり、それは各国の記者にも見えていたのかも知れない。

 決勝トーナメントの最初の試合は二次リーグで相対した韓国戦だ。これは抽選で決まったわけではない。準決勝は最初から二次リーグの上位2チームで戦うことになっていたらしい。何をしても決勝戦に進みたかったアメリカは最後までカリブの強豪チーム(キューバ、ドミニカ)とは対戦したくなかった、と、そういうことなのだろう。狡猾にして、臆病で、卑怯な国、アメリカ雑衆国に「カンパイ」。(3/17/2006)

 プリムソルラインについて書いたところで恥ずかしい間違いを書きメールで指摘を受けた。そのやり取りの中でずいぶん昔に読んだ「ライト、ついてますか」を思い出しパラパラ読みした。さきおとといのことだった。この本の要点は「問題を的確に捉え設定することの方が解決するよりもはるかに難しい」ということ。以下はその見本のような話。

 安倍晋三官房長官、きょうの記者会見で「ウィニーを使わないようにしてくれ」と語った由。安倍の能力が低いことは先刻承知だったがこれほどとは思わなかった。情報漏洩騒ぎに一言したかったのは分からぬでもないが、ならば「パソコンをネットワークにつながないでくれ」とでもいえば、まだ満天下におのれの無知・無能を晒さずにすんだものを。

 ここでの問題は「管理の行き届かない状態でネットワークにパソコンをつなぎ、そこにデータを置いておくこと」だ。無防備なパソコンにデータを置きネットにつなげば「ウィニーを使わな」くたって不用意なデータ流出は起きる。分からないことは分かったような顔でしゃべらないことだ。安倍よ、いくらお前がバカでも「無難」という言葉ぐらいは知っているだろう、無知な領域については事務方が準備したものだけを読み上げておくこと、それが無難というものだ、憶えておくがいい。

 マスコミはこんなパープリンを次期総理として抜群の人気とさかんにはやしたてている。もっともWinnyの作成者を著作権保護法違反で起訴(包丁作る者は殺人幇助者か?)し、機密を預かる官庁が平然と他国で開発されたクローズドOSであるWindowsを使っている、そんな国だ、まあ安倍程度が総理として的確だと考える者が多いというのは少しも不思議ではないのかもしれぬ。溜息三斗。(3/16/2006)

 永田寿康と民主党が連名で載せた「『偽メール』に関する謝罪文」なるものが朝刊39面の広告欄に掲載されている。「広告」とは言い条、これは本来の広告ではない。この件に関する限り新聞を読むほどの者で広告された内容を知らぬ者は誰一人いないであろう。とすればこの広告はもっぱら名を連ねた永田と民主党に課せられた「罰」に相違ない。

 相応の裏付けもとらぬままに発信人も受信人も分からぬ一片のメールのみを根拠に公党の役職者を名指し、その類縁を含めて公然面罵したのであるから尋常でないことはたしかだ。しかし一方に大量破壊兵器があると称する情報をたやすく受け入れ、大枚のカネと防衛リソースを宗主国のいうがままに使い、これが事実の裏付けのない虚偽情報と露顕した後も未だその決定の謝罪も修正もせぬどころか、のんべんだらり駐留させ続けている政府とその与党の「罪」はどうなっているのか。

 怪しげなるフリーライターの虚言を信じ銀座あたりのネオン街では札付きとの噂が絶えぬ「武部某ご子息様」に容疑をかけた罪と、いずれはマッカーシー同様のいかものと知れるであろう某国大統領の虚言を信じ貴重なる国家予算を蕩尽し本来国の防衛に備えるべき人々を危険にさらしつつある罪。そのいずれが大事か。

 そうか、永田と民主党にはそのあたりを論議すべき場と時間を空費させた罪もあったか。それならそうと武部風情に謝るのではなく国民に謝ってもらいたいものだ。もっともその「国民」とやら、どこにいるのかとんと分からぬ。なにしろどれほどなめられても寂として声も出さない、お前らは腑抜けか。(3/15/2006)

 アメリカで3例目になるBSE牛が見つかった。報道発表では「歯の状態などから生後10年以上の高齢牛の可能性が高く」、肉骨粉飼料が規制された「97年以前に生まれたと見られる」としている。アメリカ農務省は「輸入再開問題についての日米協議には影響しない」としている由。そうだろうよ、BSE容疑牛が発見、検査にまわされたと報ぜられるやいなや、我が農水相は記者会見に臨み、大はやりの「毅然とした姿勢」で「協議には一切影響しない」と明言したくらいだもの。とんだ「毅然」もあったものだ。あの酔っぱらい大臣に王監督の爪の垢でも煎じて飲ませたいものだ。

 夕刊にはさらに続けてこんなことが書かれている。

 また、記者会見で同省のクリフォード主任獣医師は「米国のBSE発生率は非常に低い。検査は国際指針に沿って実施する」と延べ、04年6月から「一時的な措置」として対象頭数を拡大していたBSE検査を、縮小する可能性を示唆した。

 アメリカ農務省もお尻がこそばゆくておちおちしていられないのだろう。抜き取り数を維持し続ければ、いつなんどき「カナダ産でアメリカに来たのは最近」だとか「相当高齢の牛だから無関係だ」だとかいういい加減な申し開きができないシビア・ケースに遭遇しないとも限らないわけだから。

 きのう、きょうのニュースを見れば、「ホーム・タウン・デシジョン」や勝手な屁理屈による「ごまかし」はいまやアメリカ合衆国という国の文化になったことがよく分かる。(3/14/2006)

 夜のニュース、スポーツコーナーはWBC、日米戦の犠牲フライに関する「誤審」の話で持ちきり。

 3−3、タイスコアの8回表、1アウト3塁で岩村がセンターよりのレフトフライを打ち上げた。三塁ランナーの西岡はレフトの捕球を見るや猛然と本塁突入を試みた。返球は逸れ、ホームイン。すぐさまキャッチャーはランナーの離塁が捕球より早いとアピールした。フライの方向に走った三塁塁審をカバーした二塁塁審がセーフと判定。その後マルティネス監督がデビッドソン主審に抗議。主審はあっさりと判定を覆しランナーアウトでダブルプレイ、同点のまま8回表を終了。ビデオ映像では明らかに捕球後の離塁に見えるが、ひとつのカメラ映像の中にランナーとレフトが映っているわけではないから厳密にはなんともいいようがない。画像の同期などはいくらでも細工できる。この場合責任審判は主審、誤審もベースボールというゲームのひとつの要素だ。そのように見えたといわれればそれまでのこと、だから判定そのものには文句はない。

 アメリカには既にフェアプレイの精神は欠片も残されていない。スタンドの観衆の反応がじつに雄弁に現在のアメリカ人の精神のありようを見せていた。それよりなによりWBCという催しを取り仕切ったアメリカが自国が関わるゲームの審判にアメリカ人をあてていること、そのことが思い上がり、かつ腐りきったアメリカ精神をそのまま現している。あれがアメリカ合衆国の「いま」なのだ。

 試合後の王監督のコメントを夕刊から書き写しておく。「審判は4人が対等でなければいけない。一番近くにいる審判のコールを変えるなんてことは、私が長くやってきた日本の野球では、聞いたことがない」「野球のスタートした国であるアメリカで、こういうことがあってはいけないと、私は思う」。(3/13/2006)

 いつものように日曜日の楽しみ「書評欄」を一覧していてアレッと思った。書名は「日本を滅ぼす教育論議」、うんざりするような題名だなぁと思いつつ、書評を読み始めた。「役職に就いている間は公にできないことでも、辞めると自由にものがいえる。日本の組織ではよくあることだ。それだけに、立場を離れた直後の言葉には、その組織に染み渡った、通常表からは見えにくい特徴が織り込まれている。そういう視点から、元文部科学省課長の書いた本書を読むと・・・」、著者は文部官僚だったのかぁ、なんて名前だぁ?、と視線を転じて驚いた。「岡本薫著」、エッ、文科省の岡本薫なら、たしか一度講演を聴いたことがある。ちょっと、「らしく」なくて、文部省も捨てたもんじゃないと思ったっけ。日記をサーチしてみた。あった、2000年3月21日。間違いない岡本薫だ。

 書評はこんな風に締めくくられていた。

 それにしても、こういう分析能力のすぐれた官僚が早々と辞めてしまうのはどうしてか。著者の批判は、文科省内の論議にも向けられる。その指摘がもっともらしく見えるだけに、区別のできない論議がいまだ省内でも続いているのかと思えてしまう。もしかすると文科省の存在自体が、日本的論議を許してきたのかもしれない。いろいろな意味で読み応えのある本である。

 まあ分析能力が優れているのは官僚の常だから惜しむことではない。岡本薫がいいと思ったのは的確な事実把握を基礎に論理を組み立てているように見えたところだった。こういう人物がいずれ上層部に地位を占めるならば、戦後、農林省と並ぶバカ官庁として定見のない「ノー政」で悪名ばかりあげた文部省も少しはよくなるのではないかという期待を持ったものだったが。政策研究大学院大学の教授ということはもう役所には戻らないということなのだろうか。評者、苅谷剛彦の疑念にはまったく同感する。

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 空母艦載機の岩国基地への移転計画に関する住民投票、投票率が過半数を超えて成立した由。(3/12/2006)

 小泉が首相に就任し、ほどなく行われた都議選告示日の日記に、ヒトラーの「我が闘争」の一節を思いだしながら「小泉首相にそういう計算があったかどうかは知らない。しかし、気持ちの悪い暗合だ」と書いた。小泉のどこかには最初からヒトラー的なもの、ファシズム的なものを想像させるなにかがあったのだろう。

 切り抜いておいた8日朝刊「漂流する風景の中で」の辺見庸の「小泉時代とは」を読みながらそんなことを思った。

 辺見はかつて渡部昇一の如き似非論者が好んで引いた、王符の「潜夫論」中の言葉「一犬虚に吠ゆれば万犬実を伝ふ」こそ小泉執政下の五年を現していると書き始めている。そして「私の興味は『一犬』の正体や小泉純一郎という人物のいかんにあるのではなく、『万犬』すなわち群衆というものの危うい変わり身と『一犬』と『万犬』をつなぐメディアの功罪にある」とつなぎ、小泉政権がメデイアの応援を得て観客たる群衆をどのような『劇場』に誘ったかを書いている。「第一に、分かりやすいイメージや情緒が、迂遠ではあるけれど大切な論理を排除し、現在の出来事が記憶すべき過去(歴史)を塗りかえてしまうこと、第二に、あざとい政治劇を観る群衆から分析的思考力を奪い、歓呼の声や嘲笑を伝染させて、劇を喜ばない者たちにはシニズムを蔓延させたことであろう」と。この指摘はじつに的確な指摘だ。さっき都議選告示日の前後の日記を読み返しつつ、ずいぶん書き方が違っていることに気付いた。「劇を喜ばない」オレは確実にシニカルな書き方に変わってしまった。

 辺見がここで紹介したレジス・ドブレの言葉は痛烈だ。「いまや政治はショーかスポーツの様相を呈し、市民の政治参加はサポーターの応援合戦のようになりつつある」、「こうした社会はファシズムよりましというだけで、民主主義ではない」。辺見の疑いはさらに深い、「日本はほんとうにファシズムではないと断言できるのか」。

 大流行のブログを飛び歩いてみればその答はすぐに出る。もはや「ファシズム」という言葉自体、いささかのネガティブイメージもない。それが多数論理と感情論のもんじゃ焼き状態になって鉄板の上でチリチリしている。辺見が末尾に書いた「静思」など期待すべくもない。(3/11/2006)

 もし荒川静香が金メダルを取らなかったら、おそらく蒸し返されたであろう話。年齢制限でオリンピック出場を阻まれた浅田真央さえ出ていれば・・・というタラレバ論。今の実力で文句なしのチャンピオンは浅田真央。トリノに出れば金メダルは確実。去年暮れのグランプリファイルに優勝したとき、マスコミ論調は一色に染まった。「年齢制限ルールは根拠がない」に始まって、国際スケート連盟の会長がイタリア人だったことを絡めて「開催国イタリアの選手にメダルチャンスを与えるための陰謀」という感情論までが流布され、「ルールの特例措置」を望む主張が氾濫した。その流れは出場選手が決定するまで続いた。代表選手へのインタビューのとき、荒川は「浅田さんのことは訊かないでください」と多少気色ばむ調子で答えていたのを忘れない。

 6日から始まった世界ジュニア選手権、実力では金メダル間違いなしと信じたその浅田が連覇を果たせず二位に終わった。優勝したのは韓国のキム・ユナ(金妍児)。早いうちに「敗北」を体験したことは浅田にはよいことだったと思う。すべて塞翁が馬なのだ。聞けば、浅田とキムは同い年、浅田は9月25日生まれ、キムは9月5日生まれなのだそうだ。キムも同じ年齢制限によってトリノ出場は認められず、韓国内では日本同様の年齢制限ルール論議があった由。メダルが有望となるとルールを曲げるために様々の屁理屈が横行し始めるのはこの国も彼の国も変わらないということ。それがどの程度、浅ましい話かよく分かっただろう。マスコミそしてメダルナショナリズムに目が眩んだ連中は荒川の金メダルに救われたわけだ。彼らはそのことを意識しているだろうか。もっとも「反省」という言葉が大嫌いというのが彼らに共通する品性らしいから、天醜爛漫そんなことにはついぞ思い当たらないのかもしれないが。(3/10/2006)

 夕刊の「日々の非常口」、今週のはなしは「Plimsoll line」。19世紀のイギリス。トラファルガー海戦に勝利し、七つの海を支配下においた海運国イギリス。船主たちは海難保険の充実などもあって船舶と積み荷にはたっぷり保険をかけた上でなるべく効率よく運行させることに腐心した。ビナードはこう書いている。「ただし船主本人が乗り組むわけではない。船員たちが目的の港までどうにかたどり着けば、積み過ぎた荷は船主の儲けだ。もし海難に遭った場合は、保険屋が損害を補填して、船員たちが魚の餌となる」。

 そういう状況を見かねたサミュエル・プリムソルという人物が下院議員になり、業界団体の圧力と戦いながら「『我が国の船員たち』という本まで出し、八年かけてやっと『商船法』の可決に漕ぎ着」けた。1876年のことだった。積み荷の限界を示す「満載喫水線」表示の義務づけはこの法律で規定され、船の喫水がその線よりも下であったならその線が水面下に隠れて見えなかったなら積載オーバーであることが一目瞭然となるようにした。人々は彼の労苦を称え「Plimsoll line」と呼んだ。日本船主協会のサイトにある「海運雑学ゼミナール」によると、プリムソル・ラインには目盛りが打ってあり、そこに「付されたアルファベット記号は、上から順にTF=熱帯淡水、F=夏期淡水、T=熱帯、S=夏期、W=冬期、WNA=冬期北大西洋を意味する」由。これは航行海域の特性や季節条件により積載条件の適用を変えられるようにしたためとか。これから見ると冬場の北大西洋は相当条件の悪い海らしい。

 さてビナードのきょうの結びはこのようになっている。

 「規制緩和」という日本語は、なんとなく優しく響く。まるでその先に、いろいろいいことが待っているみたいな明るい雰囲気だ。しかし、親制が緩められた社会では、一般市民が危険にさらされ、犠牲になる実態もある。プリムソル氏の規制強化で、どれほどの人命が救われたことか。

§

 「緩和」と言えば、日銀が午後の金融政策決定会合でいわゆる量的緩和の解除を決めた。政府関係者のコメントとそれを語る顔つき、というより確信なくウロウロさせる目つきが面白かった。竹中の感情むき出しの「説明責任とはほど遠い」という言葉には嗤った。十数年も政府周辺にいて「経済」を担当しながら実体経済に対しては成り行き任せ以外何もできず、かたわらで利子所得の抜き取り詐欺に精出していたこそ泥はどこのどいつだ。「説明責任」はおろか、およそ「責任」など果たしたことがない奴がよくも言えたものだよ。(3/9/2006)

朱記部分を訂正します。

**さん、ご指摘とアドバイス、ありがとうございました。「ライト、ついてますか」という本のことを思い出しましたヨ。

 岩波ホールで「死者の書」を観る。もうずいぶん前、たしか角川文庫に折口信夫の作品集を順に刊行する企画があって予告では「死者の書」もそれに収められることになっていた。かなり長いこと楽しみにしていたのだが仕事に取り紛れるうちに忘れた。あとで中公文庫でも読めると教えられたが、その頃には関心が他に移っていてそのままになった因縁がある本だ。

 映画は冒頭で大津皇子に関わる系図や当麻寺の練供養会式の実写などをまじえ、物語の背景をかなり説明してしまう。人形アニメという手法の制約上なかなか長尺のものを作りにくい事情があったのかもしれないが、じっくりと原作のテンポで話を展開するという作り方はできなかったか、どうしてもそういう風に思う。

 いや、松岡正剛の「千夜千冊」には「本書を多くの者に薦めてきたのだが、その薦めに応じて『死者の書』に向かってくれた者の大半が、どうも話の筋がつかめず、しかも古代語が散りばめられすぎていて、なんだかよくわからなかったと言っていた」とあったくらいだから、それはやむを得ないことだったのかもしれない。それでも、やはり、「しかし・・・」と思ってしまう。これでは「死者の書」の「解説」としては成功して(現にこれから死者の書を読むときには今夜観たあの郎女・大津皇子・身狭乳母・語り部の媼のイメージがついて回るだろう)いても、川本喜八郎という作家の「作品」としての「死者の書」ではないのではないか、と。

 いやいや、川本は成功していた。古代のゆったりとした時間の流れを感得しながら観ているうちに、死者の寝覚めと入れ替わるように、二・三回、意識不明になったくらいだから。揺れる感想は、川本のたくらみか、単にちょっと寝不足なだけか、うーん。(3/8/2006)

 朝刊の社説タイトルは「空洞国会 民主党は萎縮するな」、夕刊には「『4点セット』自民が質問」の見出しで、こんな記事。

 自民党の片山虎之助参院幹事長は7日午前の参院予算委貞会で質問に立ち、耐震強度偽装問題などの「4点セット」を取り上げた。「送金メール」問題で追及の手が弱まる民主党にあてこするように4点セットにふれたが、政府の立場を確認するにとどまった。
 片山氏は「参院が『4点セット』を全く議論していないと言われるので」と前置きして、四つの問題にふれた。ライブドア事件に関しては、「最後に出るべき検察が最初に出た。証券取引等監視委員会などのチェックが商いのでは」と指摘。・・・(以下、略)

 メール騒動ですっかり借り猫状態の民主党はジャブさえ打てない萎縮ぶり。対するに余裕綽々の自民党という構図。獅子身中の虫という言葉があるが、こともあろうに脳中にbugがいる(Maehara seiji var. jiminという学名らしい)のだから動きが悪いのも当たり前。民主党はまずdebugすることから始めた方がいい。にわかに影の薄くなった党代表がさかんに口にした「お楽しみ」はそれからのこと。(3/7/2006)

注)var. というのは、学名をつけるときには、「〜の変種」という意味です(^^;)。

 「死者の書」はあさって観ることになったから、いつもの飲み会、行けば行けたのだが、見合わせた。出向、転職、組織改編、・・・、組織人最後のフェーズにつきものの波・風が同機・同期している。世間一般の水準で考えればそよ風のようなもの。それでもほんとうに痛ければ話になどしたくもないはずだが、メンバーに女性が加わってからことさら痛い痒いの会話がはやり始めたような気がする。宮沢明子がルービンシュタインと比較してホロビッツを「弾き終わってがっくりしたところを見せるようなところがイヤだ」と書いていたがあの感じだ。そういう話になったとき、まさか面と向かってそれを言うわけにもゆかない。かえって溜まってしまいそうで敬遠した。(3/6/2006)

 いま見てみたいもの、ヒトラーの若い頃の顔。

 昨夜の「ブロードキャスター」はかつての爆弾男楢崎弥之助へのインタビューや亡き大出俊などが政府自民党を立ち往生させた場面の記録映像をいくつか流していた。その中に若き日の小泉純一郎の顔が映っていた。その顔は、現在、日々、眼にしているわが宰相の顔とはまったく別の顔だった。

 顔といえばリンカーンの「自分の顔に責任を持たねばならない」という言葉が浮かぶ。ひたすら安穏に日々が過ぎることだけを第一義に念じている者にとってはいささか耳の痛い言葉だ。ただ有り難いことに自分の顔は長時間見続けるわけではない。だから、人は皆、自分の顔のことは忘れて、他人の顔を論評することができる、良い顔、悪い顔と。

 若き日の小泉の顔は「オペラ鑑賞が趣味」と聞けばスーッとそれが納得できる、まあ幾分は右顧左眄することが生業の要件となる政治屋に共通の、一種、疲れのような濁りはあるものの、パッと見には「育ちのいい貴族」の顔で通る。しかし、現在の顔は、そう、「政治の原理は敵を殺せの一語に尽きる」という埴谷雄高の言葉を瞬時に理解させる、そういう顔だ。(3/5/2006)

 午後、**(母)さんの病院へ。先週、**(次男)が見舞ったときのことなどを話すうちに、**(長男)との対比の話になる。どちらがいいとか悪いとかという話ではなく、**(次男)はゆっくり話を聞いてくれるのがいいという。「東京に決まってよかったね、独身寮に入るんだって? お父さんがその方がいいっていったって・・・、素直ねぇ、**(次男)は」。「素直」か・・・と、たまたまけさ見たBShiの「スポーツ大陸」の話をした。

 去年の秋に放送したものの再放送、タイトルは「二人のメダリスト〜マラソン 円谷と君原」。

 東京オリンピックを迎えマラソン競技には3人の出場枠があった。一人目は実業団で実績のあった君原、二人目は安定した実力を持っていた寺沢が選ばれ、円谷は滑り込みで選ばれた3人目の選手だった。番組は君原と円谷、対照的な二人について関係者のインタビューを交えて進めてゆく。二人は同い年、そしてニュージーランドなどでの強化合宿などを通じてかなり親しい間柄になっていたようだった。

 国民の期待は君原に集中していた。君原についたコーチはそれを受けて細かな指導をするが、期待という重圧に反発した君原はあえてコーチの指導を無視する姿勢をとる。君原にはかなり強い個性があった。第三の選手であった円谷は注目されることもなくある意味のびのびと調整することができたらしい。君原は8位、円谷はヒートリーとのトラック勝負に敗れ銅メダルになる。インタビューを受けた円谷は、劇的なトラックでの逆転の直後ということあるいは重圧を感ずることなくメダリストになった軽さから「メキシコでの雪辱」を語ってしまう。

 メキシコに近づくにつれ、円谷にはかつて君原にかかった重圧以上のものがかかるようになった。彼にとっては不幸なことが続いた。婚約を取り交わしながら上官から結婚を延ばすように言われ破談になる。その処置に異を唱えたコーチは懲罰人事により転勤を命ぜられ重要なアドバイザーを失う。さらに脊椎ヘルニアの手術なども重なり成績はふるわなかった。不幸には唯々諾々と従ってはならないのだが、円谷は性格的に良く言えば素直、悪く言えば弱かった。メキシコオリンピックを迎える年の正月、郷里から戻った円谷はおそらく戦後日本人が書いた遺書の中でいちばん哀切極まる遺書を残して自殺する。

 一方、君原は二度と重圧を受けぬためにレースに出ることを忌避していたが、走ることを捨てていたわけではなかった。結局、円谷の自殺が彼をメキシコオリンピックに向かわせることになる。メキシコのマラソンは厳しいレースだった。ローマ、東京と連覇を果たしたアベベが途中棄権をするほどに。君原は銀メダルを獲得する。

 「親にとっては素直な子供はいい子だよ。年長の者にとって素直な奴はいい奴だよ。会社にいても素直な部下というのはありがたいかもしれない。だけどねえ、けさのその番組を見てね、つくづくただ素直というだけではってね・・・」、「・・・、そうねぇ、難しことね」と**(母)さん。

 「沢木耕太郎って、知ってる?」、「知らない」、「ノンフィクションライターなんだけど、彼の本に円谷の遺書が載ってるんだ、あしたでも、持ってきてあげるよ」、「・・・そうして」。(3/4/2006)

 朝刊トップの写真。「歩み寄ってきた民主党前原代表(左)の肩に手をやる小泉首相=2日午後5時51分」、サブ見出し「攻守交代」。記事の文中には、

小泉首相 気を落とさずに頑張って下さい。
前原民主党代表 ご迷惑をおかけしました。

 与党の親玉に励まされる野党党首。前原よ、恥を知れ、恥を。それともお前は自民党の回し者か?

 三面にはブッシュがインドを訪問、インドの原子力開発に協力することで合意したという記事と並んで、去年夏のハリケーン「カトリーナ」の接近時に大統領はニューオーリンズの堤防に決壊の危険があることを事前に報告されていたというすっぱ抜き記事の話があるが、今夜はここまで。(3/3/2006)

 電車で見かけたNTTの広告。赤ん坊を抱いた女性の写真を背景に「この子たちは電話もインターネットも光じゃない世界なんか分からないんだろうな」というコピー。光ファイバを国土にこれだけ張り巡らせた国もないものだろう。かつてほとんどの人が想像もしなかったような技術インフラ。それを目の当たりにしていると、「この子たち」が現在の自分の年齢になったとき、その時の社会を確信をもって想像する自信は誰も持てないに違いない。

 ではこれほど社会の変化が加速してゆくとき、「この子たち」にどんなことを身につけさせたらよいのだろう。加速する欲望社会をあるがままのものとしてそれに器用に適応できる術を教えるのがよいのか、まだなお自然に帰れ、欲望社会に人間の充足はないとして見えない理想を追いかける姿勢を教えるのがよいのか。知命を過ぎ耳順に近づこうという歳になって、かえってますます自信が持てぬ状況になるとは想像もしなかった。

 もっとも技術が変えるものは社会の相貌に過ぎず、実のところ人間の心などなにひとつ変わるものではないのだといえば、そのような気がしないでもない。ただだんだんにその仕掛けは大がかりなものになって、たやすく書き割りの境も裏も見抜けぬほどになったことはたしかだ。(3/2/2006)

 他人のうちのネット環境整備に入れこんでいて紺屋の白袴になっていた。あちらは新しいマルチセッション対応ルータだったのでNTTの設定ツールを使って一発だったが、こちらはまずファームのバージョンアップから行わなくてはならない。買って3年。一回の更新では済まず、まず4.305へ更新をして、次に4.405へ更新と手間がかかる。BIOSの更新と同じでけっこう緊張を強いられる。

 やっとマルチセッションが可能になっても、その先の設定、特にルーティングアドレスの登録はサブネットマスク値の表記がルータのフォーマットと違うのでかなりめんどくさい。それでもどうにかマルチセッション機能を活かして切り替えを意識することなくインターネットとフレッツスクウェアに接続できるようにできた。

 世田谷あたりと違って競争相手がいないせいか、ここではだいたい70〜80メガくらいの速度が出る。いたずらにノートを寝床に持ち込んでアクセスしてみた。802.11b、かつ、一階と二階では木造住宅とはいってもさすがに6メガのハイビジョン映像は苦しい(ノートだからどちらにしてもフルハイビジョンにはならない)が3メガならば楽につながる。一日遅れの「毎日モーツアルト」をこれから寝る前の最後のアクセスにしよう。

 今晩はきのうオンエアされた「弦楽四重奏曲第13番KV173ニ短調」が見られる。ウィーンセットの最後の曲。後に続くハイドンセットの十年ほど前のものだが、この短調の曲は素晴らしい。腹這いになってタイプしていると腰を痛めそうなので今夜はこれで寝よう。(3/1/2006)

 先々週来の「メール偽装」の話。最初は「謀略」だと思った。しかしきのうからの報道を見聞きするうちにだんだんとアホらしくなってきた。なんと黒塗りされていた発信者と受信者欄のメールアドレスは同じもので、ネタを持ち込んだ当人のものだったというのだ。さらに嗤えるのは野田国対委員長が件の永田議員に「黒塗り部の発信者と受信者のアドレスは同じだというが・・・」と尋ねると、永田はびっくりしたような顔で「ほんとうですか」と言ったという話。他人を糾弾しようというときにその根拠となるメールの「from to」も確かめなかったわけか。東大卒大蔵省出身というから世間はさぞやと思うが、最低限のレベルもクリアしているわけではないらしい。

 と、まあ、そこまで知れてしまうと、どうしても気になることが残る。ちょうど一週間ほど前、前原代表は小泉首相との党首討論を前に「どうぞ、お楽しみに」を連発していた。いや、実際にはほんの一・二回そう言っただけだったのを各局のニュースがこぞってその部分を放映するうちにこちらが「連発」していると錯覚したのかもしれないが、あの挑発的な言葉の裏付けはなんだったのかということ。まさか「ガセネタであると告白しますからお楽しみに」というつもりだったわけではなかろう。

 もし前原が裏付けも何もなしにただひたすらに「キゼンとしてブレないリーダー」であることが重要だと思っているのなら、いっそのこと木像でも作って党代表にしておく方がいいだろう。木像ならいつもキゼンとしてブレない。ただし木像のモデルを前原にしてしまっては誰も「走らせる」ことはできまい。モデルにできる人物がいまの民主党内にはおらぬというならいっそ鶏にでもしておくがよい。木鶏ならば故事の通り。この皮肉、最近の無教養な政治屋どもには分かりにくいか?、いやその鶏にインフルエンザにかかったような風でも漂わせれば、余程算を乱して走るやも知れぬて、呵々。(2/28/2006)

蛇足注)ここではもうひとつ、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」を借りています。

 朝刊トップの見出し。「転機『4位五輪』 過去最多5種目」。ご丁寧に4位に関する表まである。書き写しておく。

種目 記録 3位との差
及川 佑 スピード男子500メートル 1分10秒56 0秒13
岡崎朋美 スピード女子500メートル 1分16秒92 0秒05
石野枝里子
大津広美
田畑真紀
スピード女子団体追い抜き
村主章枝 フィギュア女子 175.23点 6.21点
皆川賢太郎 アルペン男子回転 1分44秒18 0秒03

 スピード女子追い抜きの「記録」・「3位との差」の欄が「−」となっているのは大津が転倒したからだ。

 立派とはいわぬがこれでいいではないか。競った結果が僅差で4位、あるいはn位だった。それだけのことだ。どこでどのように税金が使われているのか知らないが、それなりに選んでオリンピックに送り出したのだったら、結果がどのようになろうと文句をいったり批判する筋合いはない。言いたいのなら送り出す前に言うべきだったろう。

 あえていうならマスコミの吹く笛にうっかり「メダルを取ってきます」みたいなことを言ったことが見苦しいだけの話。「言う者は知らず、知る者は言わず」だ。自分がどの程度の実力を持っているか知らなかったとしたら、それはその者にとっては恥ずかしいことかもしれぬ。だが同じように知らなかったのはお互い様。それをあれこれ言うとしたらかえって恥の上塗りになるだけのこと。(2/27/2006)

 おとといの夕方、**(次男)が帰ってきた。きのうの夜は友達との飲み会、きょうは**(母)さんのところ、あしたからは豊里に行くという。学生時代最後の休み。きのう、****(会社)から速達が来て、本社勤務になった由。ここから通うこともできるが、独身寮に入ることにするようだ。

 今度の土曜日には57歳になる。定年まであと3年。ひと月ほど前、自分用の勤務時間記録ファイルに2007年、2008年、2009年と3年分のシートを追加して、土日と祭日、年末年始の休みを除いて、出勤日の欄に「○」を入れ、countif関数を使って会社生活の残日数を勘定してみた。来年度と再来年度の夏休みなどは未定だから入れていないし、それより前に「悪いけど来月で」などと言われない保証もない。休暇もここ数年はいろいろなことがあって完全消化が続いているから、正味にすればおそらく700日を切ることになるだろう。適う限り安穏に最後のサラリーマン生活を終えられればいいなどという気持ちになってしまう。いまの仕事の関係でいえば***(伏せ字)***状況では説得だけでタイムアップしそうだ。タネを置いておくぐらいがせいぜいのところと思うことにしよう。

 **(長男)はトリプルA評価をとることに執念を燃やしているが、**(次男)はどうするのだろう。メーカーに入る文科系マンが何を期待されているかについてはおおよそ分かっているようだし、人嫌いではないからうまくやってゆけるだろう。それでもこういう時代だから「会社専門人間」・「仕事専門人間」のそれぞれについてぐらいは話しておいてやった方がいいだろうか。(2/26/2006)

 夕刊の「窓」欄に編集委員の惠村順一郎がこんなことを書いている。書き出しは「郵政民営化という亡霊に、とらわれ過ぎたのか。メール疑惑で高転びした民主党の前原代表を見ていて、そう感じた」となっており、前原が前の選挙の敗因を「小泉の気迫に負けた」と総括し、そこから「党首として、大事な問題での発言はブレてはいけない」ということを肝に銘じているのだろうと推測している。そしてそのことが今回の「メール偽装」において彼の足を取っていると断じている。

 民主党議員が国会で爆弾発言をした16日、前原氏はこう評価した。「なかなか確度の高い情報だ」
 その時はそう信じていたのだろう。そうでなければ、事前に報告を受けた際、再考を促したはずだからだ。
だがその後、メールの真贋が疑われる事実が次々と明らかになっても「信憑性が高い」と言い続けた。22日の党首討論では「確証を持っている」とまで言い切った。
 前原氏は思いを致したことがあるだろうか。発言にブレがないことは、国民の信頼を得るための手段のひとつに過ぎない。目的ではない、ということを。
 必要なら敢然と前言を翻し、ハンドルを切る勇気もまた、指導者には求められる。
 要は、政治を見通す見識と決断力なのだ。「ブレのなさ」それ自体にこだわる意味はない。

 的確な指摘だと思うが、問題はやはりそれ以前にある。少なくとも現在までに報ぜられている以上に説得的な補強情報が民主党の手の内にないのならば、あのメールを起点にして国会質問を組み立てるという考え方そのもののスジが悪いといわねばならない。どうしてもあのメールを使いたいとしたなら、抜かずの宝刀にするという使い方だってある。

 前原代表は防衛問題に一家言があるそうだ。だが今回露呈した程度の情報評価能力しか持ち合わせていないのならば、二度と安全保障・防衛問題などについて語るべきではない。松下政経塾の中では情報評価・分析などはそっちのけで床屋談義的な防衛論(この国にはそれ以上の防衛論はないのかもしれない)がまかり通っているのかもしれないが、こんなレベルで語られる安全保障・防衛論議など国民と国家が迷惑するだけのものだと知るべきだろう。

 一部週刊紙の見出しによると、今回のメールを民主党に持ち込んだ人物は曰く付きの「フリージャーナリスト」だという。民主党は彼にいくら情報料を支払ったのだろう。フリージャーナリストならそのネタを政党が支払うよりはるかに高額のギャラが出るはずのマスコミ向けに料理するのが自然だろう。わざわざ民主党に持ち込んだのはなぜなのかという裏はとったのだろうか? もしかして、件のフリージャーナリストのフトコロをうるおすのは自分たちが支払う謝礼ではなく、はるかに潤沢な資金を持つ敵(官邸?、自民党?)なのではないかと疑いもしなかったのだろうか?(2/25/2006)

 目覚ましラジオが荒川静香のトップを教えてくれた。それでもまだ床の中でもぞもぞしているうちに最後のスルツカヤの演技が始まった。下りてゆくと画面のスルツカヤは尻餅をついていた。・・・・・・・。荒川が金メダルになった。

> きょう電車の吊り広告で嗤った、週刊ナニだったか忘れたけど、「いっそなかったことにしたい
> トリノ」だって。思わず、一人毒づいたんだ、「お前らなんて、大嫌いだよ」って。

> 日本人がメダルとれないからってそこまで活字にするやからがいるんだ・・・
> 呆れて絶句しておりやす おやすみなさい!

 昨夜、最後のメール会話。武蔵野線の車内にぶら下がった広告を確かめた。週刊文春、タイトルは「なかったことにしようトリノ五輪」だった。なんだか間が抜けた風情で哀れに可笑しく揺れていた。

 文春の来週号は、「トリノ五輪」など「なかったことにして」紙面を組むのだろうか、それとも、「件の記事」など「なかったことにして」紙面を組むのだろうか。

 アテネオリンピックの折がポジティブなメダル狂騒曲ならこれはネガティブなメダル狂騒曲。「金」がすべての世の中、可笑しくもあり、可笑しくもなし。(2/24/2006)

 どのような政権も末期のレイムダック現象は避けられない。そんなところにいわゆる四点セット、「米国産牛肉」、「耐震偽装」、「ライブドア」、「官製談合」を抱えて通常国会入りした小泉自民丸、難航は必至のはずだった。本来ならばきょうの政倫審の伊藤公介などのニュースはトップに来て「風雨益々強かるべし」となるはずだったのが、先週来の「メール偽装」騒ぎで攻勢に出るはずの民主党に思わぬ弱点が生じ攻守の形成はまるで逆になっている。

 仕組まれたものであったのか、あるいは、常に流れる「怪情報」のひとつにパープリンのお坊ちゃん議員が引っかかっただけのことなのか、分明ではない。しかしこの騒動、小泉内閣と自民党にとってはじつにおいしい出来事だったことはたしか。推理小説では一番得をした奴が犯人だ。その伝でゆけばメール偽装の仕掛け人は政府か自民党関係者かもしれぬ。唯一それを疑わせるのは小泉のやけに早いそしてやけに自信満々な「ガセネタ」発言だった。

 連想するのは「七人の刑事」のあのシナリオ。取調中の容疑者、「もしオレが殺したというなら、居間の下にでも埋めたかな」などと供述する。同行させ件の箇所を掘り始めるとスコップの先に「あたり」。色めき立つ捜査陣。さらに掘り進むと、出てきたのは猫の死骸。思わず気の抜ける空気の中で高笑いする容疑者。そのとき刑事の一人がいう、「もう少し掘ってみろ」と。わずかに表情を変える容疑者。被害者の死体は猫の死骸の数十センチ下から出てきた。擬似的な事実を見せて真実を隠蔽する。それが犯人のたくらみだったのだ。

 猫の死骸に幻惑された人はそこで思考を止めてしまう。その下に死体が埋められている可能性にまで想像力が及ばない。秋の総選挙で「郵政民営化」だの、「改革を止めるな」だのといった言葉に幻惑されて小泉自民に投票した程度の人ならば、たやすく引っかかるに違いない。現に「小泉劇場」に踊らされたマスコミはまたまた「森」を見ずして「木」にとらわれた「ニュース」を次々と製造し始めている。(2/23/2006)

 あさ、居間に下りてほどなくフィギュアの村主の演技が始まった。NHK総合テレビは家を出る直前までニュース枠をすべてフィギュアの中継にあてた。女子フィギュアは注目の的だ。ノーメダルにどこか苛立っている現状で最後の期待がここに集中していることもあろう。しかしオリンピックの一競技中継に定時のニュース時間帯をすべて吹っ飛ばしてしまうというのは少しばかり異常な感じがする。

 **(家内)は「そうね、BSでやるとかね」といったがテレビを持つ全世帯がBSを見られるわけではないからそれも問題だろう。だがNHKにはもうひとつ教育テレビがある。高校野球は完全中継するためにふたつのチャネルを切り替えている。そうすればよいだけのことだ。

 たしかにうちはフィギュアの中継を追いかけたろう。しかし「百年一日」あさの定時ニュースは総合テレビがしっかりオンエアしている、と、そういう「安心感」のようなものの裏付けが欲しい。それがNHKの存在理由のひとつだろう。

 紅白などという番組の司会を誰がやろうがどうでもいいことだったから書くこともしなかったが、昨年暮れの紅白の司会にNHKは「みのもんた」を起用していた。新聞か週刊紙か忘れたが、「苦しい時のミノ頼み」という揶揄を見て嗤ったものだった。不祥事に続く受信料不払いの広がりにオロオロするあまり、最近のNHKはものごとの判断基準がおかしくなっている。大多数の関心事に自らを同調させることに夢中になり、ごく当たり前の軸をグラグラさせるようなことはやめてもらいたい。そうでなくとも、ひたすら「大衆」という「神」を崇めるつもりで、実体のない「大衆」を追い求めかえって「異常振動」を引き起こしているがごとき現在のこの国の状況はどこか気持ちが悪いものなのだから。

 堀江、宮内、岡本、中村の再逮捕に加えて、新たに財務経理担当取締役だった熊谷史人が逮捕された。一週間ほど間をおいた再逮捕も不思議だが、なぜ最初の逮捕の際、熊谷のみが逮捕されなかったのかということも不思議といえば不思議な話。(2/22/2006)

 朝刊の「政態拝見」というコラムに編集委員の星浩が民主党前代表の岡田克也のことばを取り上げて書いている。

 民放の調査研究誌のインタビューに、こう答えている。(TBSの新・調査情報))
 「(総選挙報道は)『小泉劇場』に乗っかり、お先棒を担いだ部分があった。メディアとして一線を越えたと考えている。特にテレビメディアの影響は大きかった。『刺客候補』に飛びついた結果、報道が偏っていたと思う」
 「私のスタイルをあえて変える必要はないと思った。『テレビ政治』という同じ土俵に乗って、小泉さんのように面白おかしくやったら、有権者の関心は引きつけたかもしれないが、政治全体が沈んでしまう」

 これを敗者のいいわけと受けとる者もいよう。そうかもしれない。

 総選挙で自民党は、ライブドアの堀江貴文前社長を事実上支援したが、岡田氏は堀江前社長と2度会って、民主党の公認・推薦を見送った。会談で堀江前社長は国民はバカだから、政策を説明してもしようがない」と話した。岡田氏は「真面目に政治に取り組む姿勢を感じ取れなかったそうだ。それがいまになって、岡田氏の「眼力」として評価されている。
 岡田氏は1月、パキスタンを訪問した。地震被災地で活動する日本のNGO(非政府組織)の表情を見たいと思っていたからだ。地震で親を失った多くの子どもたちを懸命に支援する日本の若者の姿を目の当たりにした。アフリカなども訪ねて、NGOを励ましたいという。
 各地の紛争に対し、自衛隊の派遣に頼るだけではなくNGOなど日本独自の非軍事協力はどこまで可能か。それを国際貢献の柱にできないか−−岡田氏は考えを巡らせている。
 岡田氏は、さらに重い問いを発する。
 日本人は、自らの戦争責任問題に正面から向き合わないできた。それが首相の靖国神社参拝をめぐる議論につながり、アジア諸国の日本不信の根にもなっている。戦争に突入し、止めることができなかった責任を政治が検証すべき時ではないか−−岡田氏は14日の予算委で追及したが、麻生外相らは「検証は考えていない」とかわした。
 国民の間でも、戦争責任を本格的に検証するという骨の折れる作業を歓迎する声は多くはないかもしれない。それでも、岡田氏は問題提起をやめない。
先に引用したインタビューの結びが、岡田氏らしかった。
 「政治家が真面目であることが問題のような言い方が世間にあるが、僕には理解できない。政治は真面目なものですよ」

 堀江のいうとおり国民はバカだ、といっても半分程度を占める連中の話だが。おちゃらけた小泉政治の「カイカク」のかけ声に手もなく騙されたのだから、それは動かし難い事実。そのバカを味方に勝ってなんぼ、負けて野党に甘んずる限りは真面目を活かすこともできないといえば、まことにその通り。(勝敗がすべて、商売がすべてというなら、それでいい。民主主義の世の中なれば、政治もビジネスと同じでいいと多数がいうなら是非もない)

 しかし年収一千万にも満たないのに「カイカク」を支持したバカどもだってそろそろ気がつくだろう、「カイカク」が自分たちをどのようにいたぶってくれるかに。それとも自分たちのその惨めさのカタルシスを国家に投影して、ヤスクニに詣で、バンザイ岬にレミングの行進をはじめるか。

 それにしても・・・だ、コイズミ、タケナカ、アベ、アソウ、・・・、どう見たって奴らがいかものであるくらいは分かろうものだ。この程度の政治屋にこの程度の国民。岡田の真面目さは当分報われないだろう。なにしろ世の中は「騙すが勝ち」の時代だもの。(2/21/2006)

 茨木のり子が亡くなった。朝刊によれば「死去していたことが、19日分かった」由。79歳。

 出勤前、本棚に「倚りかからず」を探す。すぐには見つからず「おんなのことば」を持って家を出た。電車の中でいくつかの有名なものを再読しつつ、次の玄関飾りは「さくら」に決めた。帰宅後、本棚に戻そうとして、けさはあれほど見つからなかった「倚りかからず」を見つけた。気がせいていたからか、呆けが進行しているのか、複雑な気持ちで取り出した。

 中に「お休みどころ」という作品がある。

むかしむかしの はるかかなた/女学校のかたわらに/一本の街道がのびていた/三河の国 今川村に通じるという/今川義元にゆかりの地

白っぽい街道すじに/<お休みどころ>という/色越せた煉瓦いろの幟がはためいていた/バス停に屋根をつけたぐらいの/ささやかな たたずまい/無人なのに/茶碗が数箇伏せられていて/夏は麦茶/冬は番茶の用意があるらしかった

あきんど 農夫 薬売り/重たい荷を背負ったひとびとに/ここで一休みして/のどをうるおし/さあ それから町にお入りなさい/と言っているようだった/誰が世話をしているのかもわからずに

自動販売機のそらぞらしさではなく/どこかに人の気配の漂う無人である/かつての宿場や遍路みちには/いまだに名残りをとどめている跡がある

「お休みどころ……やりたいのはこれかもしれない」

ぼんやり考えている十五歳の/セーラー服の私がいた

今はいたるところで椅子やベンチが取り払われ/坐るな とっとと歩けと言わんばかり
四十年前の ある晩秋/夜行で発って朝まだき/奈良駅についた/法隆寺へ行きたいのだが/まだバスも出ない

しかたなく/昨夜買った駅弁をもそもそ食べていると/その待合室に 駅長さんが近づいてきて/二、三の客にお茶をふるまってくれた

ゆるやかに流れていた時間

駅長さんの顔は忘れてしまったが/大きな薬缶と 制服と/注いでくれた熱い渋茶の味は/今でも思い出すことができる

 なんということもない、「詩」ではないといえなくもない。しかし自分が「一番きれいだったとき」を境にバタバタ、オロオロと変わりはじめたこの国の有様を彼女は書き留めずにおれなかったのだろう。

 思い出した。たぶん彼女が奈良駅でお茶をふるまわれてから10年くらいあとのことになる。前期試験終了後の休みに斑鳩を歩くことを思い立った。夜行の寝台急行「紀伊」は奈良を過ぎると王子まで各駅停車になる。法隆寺の駅に降りたのは朝6時頃だった。駅舎のベンチで時間をつぶしていたら、物売りに出るおばさんが「学生さん・・・」と声をかけてくれて魔法瓶のほうじ茶を注いでくれた。ただそれだけのこと。はるか昔のように思えるがいまこんな時代になるとずいぶんとやさしい空気がさほど時を隔てたわけではない最近まであったことに気付かされる。(2/20/2006)

 堀江貴文のとりあえずの訴因は証券取引法違反(偽計取引と風説の流布)、最終的な柱は粉飾決算(同法:有価証券報告書の虚偽記載)になるといわれている。とすると、この一週間の動きは不思議だ。

 「偽計取引」「風説の流布」容疑に関する拘置期限は13日に切れた。すぐにも再逮捕と考えられていたにもかかわらず地検は再逮捕しなかった。とうぜん堀江は東京地裁に保釈申請をした。16日のことだった。地裁は翌日これを却下した。そしてこの週末、新聞各紙は「来週前半にも粉飾決算容疑で再逮捕」と報じている。そのように事態は進むのだろうか。ならば、地検が切れ目なく再逮捕しなかった理由、そして地裁が現在の訴因程度のことで保釈請求を認めなかった理由はなんなのだろう。

 沖縄で不審死を遂げた野口のことなど疑わしいことは周辺にたくさんある。しかし地検はその先に進むつもりはないように見える。粉飾の内容を明らかにする過程で、投資組合の血液ないしはバイアスとして機能した怪しいカネの存在についてどの程度ふれられるかというくらいの期待しか持てないのだろうか。どこか釈然としない。

§

 スピードスケート、1000メートルのウォザースプーンは結局11位だった。(2/19/2006)

 民主党の永田寿康が衆議院予算委員会で、昨年の選挙直前8月26日、ライブドアの堀江貴文が武部勤の次男宛に3,000万を振り込むように社員に指示したというメールがあるが・・・と質問したのはおとといのこと。いかにもありそうな話だけに一気に火がついたのは当然なのだが、きのうの集中審議でも民主党は真実性を補強する材料を提示できなかった。インタビューを受けた永田は情報提供者に直接会ったわけではなく仲介者を通してのことだと答え、にわかに信憑性のグレードは下がってしまった。

 興味深いのは国会質問があった当日の記者会見で首相が「根拠のないことを公の場で民主党の議員が言うのはおかしい。ガセネタをもとに委員会で取り上げるのはおかしいと思う」と答えていたことだ。質問から半日と経たない時点で、首相が自信満々、逃げを打つ言葉を一切はさまず、「ガセネタ」という言葉を使うことができた「根拠」はいったいどこにあったのだろう。(2/18/2006)

 終日、一橋ホールで品質工学会のフォーラム。田口玄一が午後パネルインタビューで一時間ばかり語るというのに惹かれて参加。あさの表彰式スピーチ、少し言葉と言葉の間の間合いが長いのが気になった。はたして直後に体調を崩したとかでパネルインタビューはキャンセル、明確な思想のある田口の名調子が聴けなかったのは至極残念。田口玄一などは文化勲章が授けられて然るべきはずだが、旧制工業高校卒の学歴と逆説的で痛烈に権威を否定する姿勢が災いしているのかもしれぬ。

 昼食をとりに神保町あたりまで行き、ホールに戻る途中、矢口書店の外の本棚に岩波の日本思想大系が安く出ているのを見つけた。「近世科学思想」の上下二巻で1,800円。買ってしまった。さしあたって読むことはない。奥付を見ると1971年と1972年。欲しくて買えなかった本というのはくせ者だ。

 パネルディスカッションが終わったのは5時過ぎ。ホールを出たところへメール。予定していた岩波ホールの「死者の書」は別の日に見ることになり、思いついてノート用のメモリを買いに秋葉原へまわった。いつものように何軒かを物色しはじめて二巻本のずっしりした重みが効いてきた。急に予定を変えた報いか。腹立たしいが後の祭り。昨夜に続いて疲労困憊の帰宅。(2/17/2006)

 あさのNHKニュース、トリノオリンピックのコーナー、きのうは加藤と及川、きょうは岡崎と大菅が呼ばれていた。じつにお気の毒。会心のレースだったのなら別だ。そういうときなら、「訊いて」、「訊いて、なんでも訊いて」という選手も多かろう。だが悔しさを残しているレースが終わった夜、スタジオに呼ばれなければ、酒でも飲んで少し頭をしびれさせるくらいにして布団にもぐりこみたいのが本音だろう。独りで飲むか、あるいは心を許す友人かスタッフと飲むか、それはそれぞれのパーソナリティで違うとしても、当日の夜くらいはそういう気遣いをしてあげたっていいだろう。聞き手のインタビューアーが、この日この時でなければということを訊くというならまだしも、そんな技量のあるとも思えぬ素人アナウンサーなのだから、いつどこでも訊けるようなことを訊き、ただ時間をつぶしているだけだ。なぜそっとしておいてあげられないのか。

 このオリンピックの救いはアテネオリンピックと違ってメダル狂騒曲が不発で思いの外静かなこと。逆にいえばふだんへそ曲がりを気取っていたはずがてもなく「ハイになったアナウンサーのうわずった声とメダル、そしてヒノマルとキミガヨ狂詩曲に明け暮れる日々」を信じたりしていたわけだから我ながら嗤える。胸に手をおいて考えてみると、これはプロ野球のキャンプからシーズンに入ってゆく頃、ことしは実力伯仲どこが優勝するか分からない大混戦が繰り広げられると思いきやなんのいつもと変わらぬペナンレースではないかと思い知る、あれに似た感じだ。

 なぜそんな幻想を抱くか、考えてみれば簡単、いわゆる「キャンプレポート」でさんざん煽られるからに他ならない。スノーボードの演技終了後の選手の表情を見ていて思ったのはアメリカあたりの選手のごく普通が我が方の選手のベストなのではないかということ。キャンプレポート風のオリンピック直前情報などを見て「実力が出し切れていない、プレッシャーに弱いのではないか」などと思うのは大きな誤解なのかもしれぬ。

 今月初め、「スポーツ・イラストレーテッド」がメダル予想で日本のメダルは荒川と加藤の銅メダルふたつと報じているというニュースがあり、「バカにするな」といきり立っている番組やらネットの書き込みを見かけた。マスコミに煽られて夜郎自大になるのはことスポーツに限らずいまやこの国のお家芸だ。我が方の選手がメダルや入賞を云々するには息切れするくらいにベストプレイを連続して並べられなくてはならぬ程度の実力と分かればヒノマルとキミガヨなどうっちゃっておける。とたんにもっとずっと楽しくオリンピックが見られる、個々の競技はもともと面白いものなのだから。(2/15/2006)

 期待されたスピードスケート男子500メートル、世界記録をもっている加藤は6位だった。加藤の一レース前の選手が転倒し氷の補修があったことが影響した由。集中力の問題だけではなく、解説者の話ではシューズの問題もあるとか。選手はスタート時刻に合わせおおよそ10分程度前にシューズを履く。きっちりと調製された靴は長く履いていると痺れがくるらしい。だが、今回のような場合、補修にどれくらいかかるか分からないので脱いで待つわけにはゆかない。アンラッキーだった。

 ウォザースプーンのことが気になって順位表を確かめた。9位。清水の有力対抗だったウォザースプーンはソルトレークでスタート直後に転倒した。記憶にあったのはそのことよりは前後に読んだ紹介記事のこと。日記を繰ってみた。

 2年前、オランダのプロチーム「TVM」から誘われた。「一緒に、この2人も契約してくれないか?」と条件を出した。当時、伸び悩んでいた友人のマイケル・アイルランド(カナダ)とケーシー・フィッツランドルフ(米国)だった。3人になることで、自分の年俸が悪くなっても構わなかった。それよりも、2人がスケートを続ける環境を与える方を優先した。

 ケーシー・フィッツランドルフは前回金メダルを取った。マイケル・アイルランドは今回加藤に続く7位に入賞している。フィッツランドルフは今回12位だった。

 ウォザースプーンはワールドカップではダントツの成績を上げている。だから「美談」だけの選手ではない。しかしオリンピックのメダルはないらしい。1000メートルにも出るのだろうか。ひそかにウォザースプーンを応援している。(2/14/2006)

 ダウンヒル、選手の名前も、どこの国ということも意識せずに見る。フィニッシュ手前の最後のジャンプポイントを仰ぎ見る角度の映像が特にいい。白い雪、真っ青な空、そこに突然選手が飛び出して来る。シャリ・シャリ・シャリ・ズシャッという音。選手は画面の左端に消えてゆく。

 ・・・影たちが飛び去るナイフのように・・・空が残る真っ青な空が・・・、切れ切れの歌詞が浮かぶ、メロディーとともに。トワ・エ・モアの歌から札幌へ、想いが流れた。

 札幌にいた5年の間、あの町は好きな町ではなかった。豊平川の作った扇状地の上の町だから曇りがちの日が続いても山が背後に迫った小樽ほど気分を暗鬱にすることはない。しかし天候の悪い日が続き連絡船が欠航になると少年マガジンが発売日に出なくなる。同級生の使う「内地」という言葉に急に実感が増し、「地の果て」に来たような気がして東京に戻りたくなったりした。

 だが、雪の間の晴れの日、あれだけは別だった。雪が続く日々にぽっかりと空いたような日、そういう日、地上を覆う雪は眼が痛くなるほどにまぶしく、空の青さは際立ち、生きている歓びのようなものがこみ上げてくる。圧倒的な窓外の明るさは上からも下からもありとあらゆる方向から光を送ってくる。どうかすると部屋の天井の方が明るいくらいに。(2/13/2006)

 秋篠宮妃の懐妊と皇室典範の改正に関する各紙の社説を斜め読みして面白いことに気がついた。毎日・日経・東京の三紙には「国民の総意」の語があるが、朝日・読売・サンケイの三紙にはないということ。読売・サンケイが「国民の総意」を無視するのは分からないでもないが朝日がこれを忘れているのはいったいどうしたわけかと秘かに嗤った。

 昭和天皇の名前で出された俗にいう「人間宣言」にはこのようなくだりがある。「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ」。「爾等」など呼ばれたくない者にとってはどうでもいいことだが、ここに見る限り「皇室の(存続)の危機」は「男系か、女系か」などというところにはない。皇室の危機は「国民の総意」が那辺にあるか、その一点にかかっている。そして天皇の地位が憲法の規定に基づいている以上、その継承権に関する思想が憲法の基礎とする思想と大きく背馳するのは本来許容されるべきことではない。その意味では「男系のみを正統」とする考え方は間違っている。

 しかし一方に天皇というものに祭祀王としての性格が分かちがたく結びついていて、これが男性を前提としているものだということでもあれば、そのことは十分に議論しなければならないだろう。そしてその立論の中味によっては例外を認めることもにわかには否定できまい。ただ、そちらの方に無限の価値があるかのような均衡を欠いた主張は絶対に認められない。

 もし「皇室」とその係累だと任じている「旧」を含む「皇族」が「万世一系」だとか「男系継承」だとか「永きにわたる伝統祭祀」だとか「神武天皇につながるY染色体」だとかにこだわり、これを死守しなければ「天皇」という存在が立ちゆかないと主張するなら、自ら「国家機関」の付属物という「皇籍」を離脱し、己が一族の才覚で切り盛りをしてゆけばよいだけのことだ。「家人」がすべて合意ならば、私人がどのような「家」経営を行おうと他人は容喙できないのだから。しかし「皇室」にその気がないのなら「国民の総意」こそが唯一の「紐帯」だということになる。

 もとより天皇制などというものはただの約束事に過ぎない。だから制度としての天皇、制度としての皇位継承は、「国民の総意」を形成するために、いくつかの角度から十分な議論が必要なのだ。

 そしてその際には議論の行く末によって皇位継承権が発生する可能性のある人々には発言権がないことを明確にしておくべきだろう。理由は簡単だ。自分の利害に恬淡としていることが「貴種」の基本的な「資格」だからだ。貴種の資格を欠いたものが皇位継承者になりかねないためにその継承論議が歪められることは厳に避けねばならない。分かりやすく書けば、ヒゲの殿下やにわかに皇族に名乗りを上げたような乞食には黙っていていただくということだ。(2/12/2006)

 朝刊に一面にライブドア事件の「株取引と資金環流の仕組み」という図が載っている。大きく三本のカネの流れがある。ひとつは「マネーライフ」の買収に際してのもの、ひとつは「キューズネット」と「ロイヤル信販」の買収に際してのも、そしてみっつめが「ドクターハウリ」というタックスヘブンに設立されているダミー会社に関するものだ。

 不思議なのは記事の核心部にあたる「スイスに本拠を置く国際金融機関の関連法人が資金環流工作に深く関与」とあるふたつの法人「エバートンエクィティ」と「ドクターハウリ」への株とカネの収支が少なくともこの図では二社にとってはマイナスになっていること。つまり前者はライブドアマーケティングの株を預かり10億の利益を上げ、エイチ・エス証券に8億、スイスの上部会社に2億を上納している、後者は45億出資して26億の収入をあげているだけ。ライブドアが実質的に支配していた事業投資組合に「カネ」という血液を注入したのはいったい誰で、どのようなアウトプットを得たのだろう。どうもよく分からない。

 お昼過ぎに**(母)さんを迎えに行く。***さんと**さん(ご近所の方)に**(母)さんの相手をお願いして、新山手病院へ**(親戚)さんを見舞いにゆく。点滴に頼っているとのことだったが思いの外元気。いったん家に戻って布団などを積み、**(息子)をピックアップして新座へ。今晩は合宿。

 アナウンサーが「トリノオリンピック」というごとに「鳥のオリンピック」と聞こえてくる。またやたらにハイになったアナウンサーのうわずった声とメダル、そしてヒノマルとキミガヨ狂詩曲に明け暮れる日々が始まった。(2/11/2006)

 デポジット、Suica専用ゲートの設置など、なんとまああざといことをするものかと腹を立てながらも、いつまでも抵抗していることもならず、定期券をSuicaにして半月ほど経つ。精算機のお世話にならずに乗り越せるのも小銭のことや購入した切符のことを考えずに好きに乗り降りできるのはある種の快感だ。駅構内の立ち食い蕎麦やコンビニで財布を取り出さずにすむのも、どうということはないが便利には違いない。

 電車で見かけたモバイルSuicaの広告にはジグザグの節目ごとに「Talk」、「Mail」、「Talk」、「Thru」、「Talk」、・・・とあり、「一日のたいていのことはもうケータイにまかせちゃおうと思う」というコピーが書いてあった。なかなかうまいコマーシャルコピーだ。Edyもそうだが電子マネーは自他の経済行為に関する価値交換の道具という貨幣の本質を実感させてくれる。

 とするとすぐに想像するのは「ニセ金」の話。火曜日のニュースに女子高生ら数人がアルバイト先のスーパーでポイントカードを偽造、勝手にポイントを打ち込んで使っていたというのがあった。現金を盗むのには抵抗があっても電子マネーは盗んでいるという実感が希薄で抵抗がなかったのかもしれぬ。

 同じことはSuicaなりEdyのチャージ偽造にも通ずる。ニセコインなりニセ札を作るにはいくらデジタル機器が普及したとはいってもそれなりの技術なり「資本」投入が必要だしニセ金という現物を見なければならない。だがチャージの「偽造」などカラクリが分かる者にとっては赤子の手をひねるほど簡単かつ「ニセモノ」は眼にせずにすむ。余談だが死体を眼にしない人殺しはゲームのようなもので、だから指導者は大量殺人を命じて平然としていられる。

 件の女子高生たちは1億5,000万もの買い物額に相当するポイントを下町の商店街エリアの中で偽発行して露顕したらしいが、Suicaくらいの流通圏となれば「許容額」は相当のものになろう。そのあたりの防護策はどのように立てられているのだろうか。(2/10/2006)

 夕刊に「歩けぬ牛を食肉化 米、04〜05年に20頭」の見出し。内容としては共同電の配信でほとんどの地方紙に昨夜のうちに報ぜられたもの。(ほぼ24時間経過した夜11時現在、同じ共同通信の配信を受けているサンケイ新聞のサイトにはこの記事は載っていない、アメリカのお先棒新聞としては見えないか見たくないニュースなのかもしれぬ、呵々)。

 ニュースソースは2日にアメリカ農務省監査局が発表した報告書。その意味では先日書き写した記事の続き。新規の内容としては

 報告によると、検査した食肉処理施設12カ所のうち2カ所で、施設到着時の検査で正常と判定されながら、その後に歩行困難になった計29頭の牛が食用として処理されていた。このうち9頭は、けがなどの原因が確認されたが、20頭については原因が記録されていなかった。
 米農務省は米国で初のBSE感染牛が見つかった直後の04年1月、歩行困難な牛は一切、食用に回すことを禁止する規則を定めた。同時に当面の対応として、いったん正常と判定した後に歩行困難になった牛を食用に回す場合、BSEと無関係なけがなどが原因であることを証明するように担当の獣医師らに求める通達を出していた。
 報告はこのほか、国際基準では施設への到着時にすべての牛の状態を検査するよう求めているにもかかわらず、33の施設では数%の牛だけを対象とする「抜き取り方式」を採用していたと指摘した。

といったところ。注目したいのは「国際基準では施設への到着時にすべての牛の状態を検査するよう求めているにもかかわらず、33の施設では数%の牛だけを対象とする『抜き取り方式』を採用していた」という箇所。「国際基準に合致した科学的な検査」とアメリカが主張する中味はこの程度のことなのだ。これでもアメリカ産牛肉は絶対に安全だ・・・と、いうのか、彼の国は。「盗っ人猛々しい」というのは英語ではどのように言うのだろうか。

 我が宰相は「アメリカがきちんとやらなかった」と釈明したが、どんな頭脳構造だともともときちんとやっていない国がきちんとやるものと期待してしまうのか知りたいものだ。まさかクロフォード牧場で特製のBSE牛ステーキを喰わされて以来、わが宰相の頭がトロトロなんてこと・・・、あるかな?(2/9/2006)

 よく聞くとなんと「ご懐妊の『徴候』」ではないか。しかも号外まで出ながら宮内庁の発表は夜9時だった由。皇室典範の改正が政局になろうとする絶妙のタイミングだけに変な想像を招く。官房長官の立場とよって立つ支持勢力からの期待とに股裂き状態にあった安倍のうれしさを押し殺したようななんとも微妙な表情が印象的だった。

 今上へのある種の敬愛はあるが所詮「天皇制」は虫垂突起のようなものだと思っているから、その保存について格別の意見はない。ただそれに格別の思い入れがある人々がいる以上、天皇という存在に関する委細を尽くした論議は意識的にしておいた方がいい、そうしないと炎症など起こした折の処置を誤りかねないから。たとえば男系天皇論を主張する連中の中には「万世一系」だの「神武天皇」だのという作り事を紛れ込ませ、これらの虚構を既成事実化しようとする火事場泥棒同然の卑しい輩がいる。これらの詐欺師に天皇を語らせてはならない。妄説は伝統にはなり得ないし、そういうものに寄りかかった保守思想など人々の生活を支えることにはなんの役にも立たない。そういう邪宗は人々に牙をむくことがある、いつもというわけではないが。

 コイズミのあわてぶりと豹変のありさまも可笑しいが、小泉の進める皇室典範に改正に反対していた連中のなんとも浅薄な安堵の表情も可笑しい。論理的には今回の改正論議の契機となった「問題」がクリアされたわけではない。さしあたって問題としないでもよい可能性が開かれたというに過ぎない。ところが小泉はあげた看板を下ろすことを匂わせているし、改正反対派はまるで問題が解決したかのような顔つきと口ぶりでいる。塞翁が馬、凶事と思ったことが吉事に転じることがあれば、吉事と思ったことが思わぬ凶事へと転ずることがある。それがこの世界で起きることなのだ。

 慶事とあって口にするのが憚られるだけのことで、秋篠宮妃は現在39歳、相当の高齢出産になる。各種の危険が伴うことは考えておかねばならぬ。男児か女児か半々の確率と思うなどは早計、女児が生まれれば事態は振り出しに戻るわけだし、仮に男児が出生しても万々歳かどうかは分からぬ。高齢の夫婦の子供にはなにかが足りないという俗説が信じられているのには相応の理由があるに違いない。象徴といえども足りないものがあったとき、「国民の総意」はどのようにうつろうか、そのことぐらいは気にしておかねばなるまいに。

 虫垂突起説論者にとってはどうでもいいことだが、あれほど「皇室の危機」を口角泡を飛ばして論じたてた人々がそういうことも含めた皇位継承論議をしておこうと考えないのは、彼らの目配りがその程度の近視眼だからか。ありうる現実に足をすくわれることがないよう心がけるのが保守の叡智ではないのか。皇室に存在意義があるというのなら、それを確たるものにする智慧がはたらかなくてなんの「保守」か、嗤うべし。(2/8/2006)

 よその国の台所のことなどどうでもいいのだが・・・。夕刊にはブッシュが予算教書で2006年度の財政赤字が4,230億ドル、邦貨にして50兆円になるという見通しを明らかにしたというニュースが載っている。ところが昼頃に目にしたロイター電にはこんな記事だった。

 [ワシントン6日ロイター]米財務省は6日、ブッシュ大統領が発表した2007会計年度(2006年10月─2007年9月)の予算教書に盛り込まれた歳入案に関する報告書を公表。ブッシュ政権が打ち出した主な税制案が、数百億ドルの歳入減につながる、との見通しを示した。ただブッシュ政権は、長期的にみると歳入増に寄与すると主張している。
 米財務省の報告書によると、2008年末までの時限措置となっている配当・キャピタルゲイン(株式譲渡益)減税を恒久化すると、2008年に77億4,000万ドル(約9200億円)、2009年には370億2,000万ドルの負担が政府に生じる。
 配当・キャピタルゲイン減税の恒久化は、ブッシュ政権が掲げている2006年の政策目標の柱。しかし政権は、減税の維持ともうひとつの優先課題である2007会計年度からの連邦財政赤字削減の達成の両立に苦しむだろう、との声も聞かれる。
 ホワイトハウスは、今2006会計年度(2005年10月─2006年9月)は財政赤字の拡大を見込んでいる。財務省によると、2010年末に失効する最低税率引き下げ措置を延長すると、2011年に1,193億9,000万ドルの税収減となる。
 財務省の報告では減税延長が歳入減につながることが示されているが、ホワイトハウス高官らは、減税措置の延長による投資拡大が投資・経済成長を加速させ、その結果として国庫も潤うと主張。
 米財務省報道官はブリーフィングで、投資収益減税は経済成長を生み出すうえで不可欠な要素となってきたと述べた。

 一方でブッシュ政権は低所得者向けの公的医療保険などの経費を5年間で538億ドル削減する提案をしている。今年秋の中間選挙をひかえた議会は388億ドルの削減にとどめたそうだが。ずいぶんとまあ露骨なやり方だ。

 この国と違い彼の国ではかなりの階層が株所有・株取引をするそうだから、これをもって百%「金持ち優遇」というわけにはいかないのだろう、だがホワイトハウス高官の「減税措置の延長による投資拡大が投資・経済成長を加速させ、その結果として国庫も潤う」という話がそうとう眉唾であることは、彼の国ではエンロン、そしてこの国ではライブドアがかなりのところ証明してくれた。企業価値を生産するサービスに基づく純利益で測るのではなく、株式市場における「共同幻想」的な株価というものの総和で測るようになった以上、鉄火場に駆り出されるカモは多ければ多い方がよいに決まっている。

 彼の高官の狙いはふたつ。まず中途半端な「カネ」持ちから有り金を巻き上げること、次に絶対に損をしないディーラーの高額な所得を累進税の「悪弊」から防衛すること。つまり究極の「金持ち優遇」を実現することだ。コイズミやタケナカが涎を垂らして彼の国を羨み、ひたすらそれにこの国を近づけようとしているのは自分は賭場の胴元になるつもりだからに違いない。たかがギャング・アメリカの手代に過ぎないくせにと片腹痛いがチンピラなればこその忠勤と思えば得心がゆかぬでもない。

 秋篠宮妃が懐妊というニュース。三人目、経済的に苦労がないなら、妊娠は常に慶事。それにしてもまあなんというタイミングか。(2/7/2006)

 朝刊には金大中事件の事後処理に関する外交文書を韓国政府が公開したというニュース。公開されたのは民政学連事件なども含むもので全体で17,000ページ、うち金大中事件に関する部分は2,500ページを占める由。

 「日韓が協力して捜査継続する、中間報告を含めた捜査状況を日本に報告してくれ、今後の捜査で公権力の介入が判明すれば新たに問題提起する、駐日韓国大使館の金東雲一等書記官の捜査は逮捕や起訴も含むと理解する」(田中)、「それは必ずそうすることか、建前として一応、話をしておくことか」(金)、「建前だ、こちらの捜査は徐々に抑えてなくすつもりだ」(田中)、「朴正煕大統領もあなたの立場に配慮するので金大中事件は完全に忘れてほしい」(金)、「この問題は'パー'にしましょう」(田中)。金鍾泌首相と田中角栄首相のやり取りは生々しい。

 しかしその生々しさよりも相応の年限が過ぎれば公文書を積極的に公開する彼の国の政府の姿勢にある種の驚きを感ずる。たしかに盧武鉉政権の朴正煕軍事政権につながる現野党対抗策の一部という側面はあるのだろうが、一方で健全な民主主義のためには公文書の偏りのない公開は当然のこと。自民党の一党独裁型政治が続いているために、そういう当然に縁遠い国の者にしてみれば羨望を禁じ得ない。(2/6/2006)

 この一週間、東横インのあれこれに関する報道が相次いだ。ホリエモン同様、水に落ちた犬を徹底的に叩くのが最近のこの国の風潮。

 東横インがやっている程度のことは、いまのこの国でちょっとばかり勝ち組と目されている会社ならば、手と品が変わるだけでまったく同様のことをやっている。ことさらに「CSR」などということを言うこと自体、お偉いさんが指示・承認しなければ下っ端の判断では社会的責任を果たす行為などできないことを雄弁に語っている。従業員数が一定を越えれば、それなりの比率で身障者を雇用しなければならぬらしいが、その身障者にそれなりの配慮をしている会社がどれほどあるか。健常者と同様の職場環境で働かせて、うちは成果主義だと豪語し暗黙のプレッシャーをかける。「辞めます」のひとことがあれば秘かに喜んで聞こえよがしに「身障者は根性が足りない」と言う会社は珍しくない。

 飲食店に入っても、「特上」がお客様なら、「並」はただの客、サービスに差をつけるのは当たり前、なに、そのサービスだってどこに心がこもっているかと思えば、セットメニューのマニュアル通り、以上でもなければ以下でもない。

 同じ仕事でもうるさい客と怖い客には気を遣うが甘い客とチョロい客には手抜きをする。自ら経験した例が新座の家だ。東京ガスの工事ぶりには昨年から二度ほど驚かされた。まず「マイ通報」の配線ぶり、素人の造作そのもの。次に暖房工事の配管。ろくに建築図面もチェックしなかったらしく、一階から二階への配管を用意されたパイプスペースを使わずになんと和室の押し入れの片隅に堂々と立ち上げている。その仕上げたるや、大昔、町の電気屋がはじめてエアコンを取り付けたときのような不細工なもの。年寄り相手と見れば、天下の東京ガスの看板でこういう工事をやって平然としていたらしい。

 さらにろくな監視・管理もせずに月々の料金だけはちゃっかり銀行引き落とし、定期点検の連絡すらしてこないでおいてメンテナンス契約だからと小一万も請求してくる。いったいなにを「保守」しているかさっぱりわからない。そうさ、ばれなければ、不祥事として露顕しなければ、まさに「儲けたモン勝ち」だ。(2/4/2006)

 成田空港の検疫所で素人眼にも背骨付きと分かるアメリカ産の牛肉ブロックが抜き取り検査に引っかかって再び輸入禁止になってから二週間。この間、アメリカ当局から聞こえてきた典型的な言葉は謝罪の言葉ではなく「アメリカ国内向けならなんの問題もないものだ、日本人は過剰に神経質になっている」という愚痴そのものだった。その愚痴が「抗弁」としてどの程度のものであったか、夕刊にこんな記事が載った。

 【ワシントン=小陳勇一】米農務省監査局は2日、米国内で実施されている牛海綿状脳症(BSE)に関する検査や食肉処理についての監査報告を発表した。そのなかで、BSEの病原体がたまりやすい背骨などの「特定危険部位」について、「記録の不備で、きちんと除去されているかどうか判断できなかった」とずさんな処理を指摘した。特定危険部位の混入で米国産牛肉を再禁輸した後だけに、米国のBSE対策に対する日本の消費者の懸念が高まる可能性がある。
 今回の監査は、03年末に米国で初のBSE感染牛が見つかって以降の、政府などの対応全般の是非を調べるのが目的で、日本向けの輸出手続きを念頭に置いたものではない。
 報告は、「調査したほとんどの施設が特定危険部位の除去に関する適切な計画を持っておらず、農務省もその事実を必ずしも把握していなかった」と指摘した。また、米国が生後30カ月以上の牛肉の特定危険部位の除去を義務づけていることについても、「年齢判断の正確性を農務省の担当者が定期的に検査しているが、検査の頻度は確認できなかった」とした。
 こうしたことを受けて報告は農務省に対し、すべての食肉処理施設などを対象に、特定危険部位がきちんと除去されていることを証明するための評価を実行することなどを勧告。農務省も「今年9月までに実施する」としている。

 国の違いを問わず役人(じつは役人に限らず民間会社でも同じなのだが)というものはパーキンソンの法則に従うものだから、このアメリカ当局にとっていかにも不都合な報告がじつに微妙なタイミングで発表されたのは、ひょっとすると日米の牛肉摩擦を奇貨として省益をはかろうとする彼の国の役人の不埒な作戦かもしれない。それはさておき、さんざん聞かされた「アメリカ国内ではこれで安全」という「神話」には相当のウソがあるということを他ならぬ彼の国の当局者が自白したということ。

 我が政府は「アメリカ政府が約束してくれたとおりしなかったんだから、しょうがないでしょ」と言っていた。相手が「安晋」できる人間かどうか、どのように「安晋」を担保するのか、それをできないようではまるで「郵政民営化」だけで白紙委任してしまったどこぞの選挙民と同じではないか。そうか、その愚かな選挙民によって信認されたのがいまの我が政府であったか、ならばやむを得ぬか。(2/3/2006)

 二夜連続でBSHの「偉大なる旅人:鄭和」を見た。世界史の教科書にほとんど一行記事のようにして載っていた鄭和の南海遠征について、鄭和の生涯に関するドラマ、CGによる艦船・船団の再現映像、先年出版され主に欧米でベストセラーになった「1421 中国が新大陸を発見した年」のギャヴィン・メンジーズ、ずいぶん前になるが「When China Ruled the Seas」という本を出したルイーズ・リヴァシーズ、イスラム商業史の家島彦一教授、鄭和研究者の鄭明博士などをインタビューして構成したもの。

 鄭和は冊封制度の復活のために彼に遠征を命じた永楽帝の死後、宮廷内の宦官勢力と儒家勢力の権力争いに敗れ、その偉業の記録もことごとく廃棄されたため忘れ去られたかたちになっていた。番組では鄭和の艦隊はコロンブスに先駆けてアメリカ大陸に到達していたのみならず、マゼラン以前に世界周回も成し遂げていたというメンジーズの主張については可能性の指摘にとどめ、鄭和が交易した東南アジア、アラビア、アフリカなどの現地に確認できるその足跡を紹介していた。

 興味深い指摘は、もし中国が鄭和の業績を継承しアジア・アフリカの各地に勢力を残していたならば、ヨーロッパ諸国によるこの地域の植民地化はなかったか、少なくともその様相をかなり変えていたのではないかというところ。中国の冊封制度というのは中国流を押しつけることが少なく、冊封国は形式的に中国皇帝の臣下になるという心理的な鬱陶しさ以外には実害は少なく、むしろ交易上の利益の方が大きいものだったというから。(2/2/2006)

 イランの原子力開発に関わる件、国連安保理に付託されることになった。協議に関わったのは六ヵ国とのこと。パーレビ国王の放逐以来イランを仇敵と見ているアメリカ、イラン寄りと伝えられる中国・ロシア、イラン大統領にアフマディネジャドが就任してから警戒を強めているイギリス・フランス・ドイツという顔ぶれだ。こうして書き抜いてみて気がついた、現安保理常任理事国にドイツが加わっている。

 我が国だってイランには石油精製プラント建設の件があり主要当事国の一つであるはずだが、我が宰相と外相が靖国参拝について子供っぽい議論にうつつを抜かしているうち必然的に権利落ちし、一方、ドイツは常任理事国の器であることを着実かつごく自然に国際社会に認められてしまったものらしい。

 それはそうだろう。戦死者ではないA級戦犯を戦死者に紛れ込ませて秘かに東京裁判への意趣返しをはかろうという愚か者をいつまでも野放しにしている国と、すべてをナチスのせいにして心理的な逃亡を図ったという側面を否定しがたいとはしても、ニュルンベルク裁判を潔く受け入れ汚辱を剔抉して国際社会に復帰した国の差は大きい。

 人を殺しました、刑に服しました、ここまで同じ二人がいたとして、出獄してからなお「オレが殺したのは世の中がそうしむけたのだ」と愚痴る者と、「社会が課した償いは終ったが、残る人生のオレの努めは形を変えた贖罪」と行動で示す者、何れが信頼できるか、答えは自明だ。(2/1/2006)

 きのう衆議院予算委員会でアメリカ産牛肉の輸入再開と日本側の現地調査に関する答弁で右往左往した中川農水相、よほど首相筋からきつくネジを巻き上げられたらしくきょうはコイズミばりの強気でおしていた。酒乱でアル中の気があり、酔っていないのは一日二時間もないというウワサがもっぱらの昭一先生にとって、きのう、きょうと辛い日程だったに違いない。

 朝刊に見る限り、これもまた答弁書を作成する政府官僚のレベルダウンが関連しているようだ。

 中川農水相の答弁は、なぜ迷走したのか。輸入再開前に現地査察をするつもりだったが、その後の日米協議で再開後でもかまわないと判断を変えた。30日午後の衆院予算委員会で中川農水相は繰り返した。
 「輸入再開前の現地調査が必要」との答弁書を政府が閣議決定したのが昨年11月18日。その後、「方針を変更した」というのが中川氏の主張だ。では、再開前の現地査察は本当に「当初方針」だったのか。実は、それ以前に、日米両政府が輸入再開前の査察は実施しないことで合意していたことが分かっている。同年11月16日、京都で開かれた日米首相会談。朝日新聞社が入手した、政府内資料で、査察団派遣は輸入再開後と記されていた。資料が作られたのは食品安全委が米国産年間の安全性について国民から意見募集をしているさなかだった。12月12日の輸入再開決定や、その後の査察団派遣と国民への説明会開催など実際にとられた解禁への段取りが書き込まれている。
 こうした事実から浮かび上がるのは、答弁書決定後に方針を変更したのではなく、むしろ答弁書が当時の方針と、そもそも食い違っていたのではないかという疑いだ。実際、農水省関係者は30日、当時の方針と異なる内容の答弁書が閣議決定された理由について大急ぎで内部調査を始めた。確たる理由は農水省自身も説明できていない。とはいえ、閣議決定は重い。農水省幹部は「一度閣議決定した答弁書を『やっばり間違いでした』と言うわけにはいかない」。農水相答弁も答弁書が正しいことを前提にせざるを得ない。

 もちろん正式の閣議において決定されたとあらば、いかに答弁書に不始末があろうとその是非を云々する段階は過ぎている。それはそうとしてこの記者も人が悪い、「閣議決定は重い」などというのは小泉内閣にとっては悪い冗談そのもの。この内閣はアメリカ合衆国の信託統治領ニッポンの行政委員会に過ぎない。そんな「閣議」の決定など鴻毛にも及ばないことは気の利いた国民なら誰でも知っている。

 思えば、この内閣の閣僚はことあるたびに「毅然たる姿勢」と言ってきた。しかしどうやら最近「毅然」という言葉は東向きの時と西向きの時では正反対に意味が変わるという世にも不思議な言葉になったらしい。そうか、順応性に優れる我が官僚は政治家の「ギゼンたる姿勢」を読み取って、折々手抜きをしているとそういうことか、呵々。(1/31/2006)

 旭丘から下る坂道の途中の家から聞こえてきた曲に突然「音楽に慰められる」という実感を味わった。あれは晴れた秋の日のことだった。ともかくその日は家に帰るなりセパレート型ステレオ(そういう呼び名だった)の前に座り込んでクラシックのレコードを探した。**(父)さんはクラシックファンだったが、とにかく子供だいじの人だったから息子にあわせてLPはほとんどスクリーンミュージックやポップスばかり。だからクラシックはほとんどがドーナツ盤。中にアイネ・クライネがあった。それはやっと暮らしがそれなりになった下高井戸のアパートにいた頃に**(父)さんがはじめて買ってきたレコードだった。ドーナツ盤にはベートーベンの「ロマンス」やフェラーリの「マドンナの宝石」などがあった。なぜはるかにその日の気分に似合ったであろう「マドンナの宝石」間奏曲ではなかったのか分からないが、その日はアイネ・クライネばかりを繰り返し繰り返し聴いた。

 以来、モーツアルトはいつどんなときもかたわらにいてくれた。喜怒哀楽のすべての場面につきあってくれた。浮き立つような気分の時も、限りなく沈鬱な気分の時も、寄り添ってくれた。誰だったか「モーツアルトは神様が人間をからかうためによこされた悪魔」というようなことをいっていた。まことにその通り。

 ピリスの弾くピアノコンチェルト20番と21番を聴きながら帰ると、きょうの「時の墓碑銘」はサリエリのことば「すべての凡庸なる者たちよ、お前たちすべてを赦そう」だった。「アマデウス」のシナリオの科白らしい。これが実際のサリエリの気持ちをどこまで言い当てているのかどうか、それは分からない。しかしじつに的確なモーツアルト讃歌になっている。「二列目の人生」に生きる者には屈折した感慨を覚えざるを得ない言葉だが。(1/30/2006)

 自民党岐阜県連の前総務会長と前幹事長代理が自分たちの離党勧告処分に対する再審査請求をした由。あの9月の総選挙において党が公認しない候補を応援したという点では自分たちも武部幹事長や竹中大臣と同じではないかといういかにももっともな理屈。彼らにしてみれば自分たちは少なくとも自民党員である野田聖子を応援し、その後、役職を辞任して責任もとった。小泉を首魁とする党幹部は自民党員でもなく後に捕縛されるようないかがわしい者を応援したのだから幹部職を辞するのが当然。にもかかわらず我々は離党勧告までされている。これはいったいどうしたことか、とこういうわけだろう。党公認候補の存否を別にすれば、まことに筋目正しい主張。さあ、小泉・武部・竹中はどう答えることか。

 週末のニュースサマリのかなりの部分は自民党幹部のあたふたぶりになっている。双璧は武部幹事長と竹中総務相。

 おおむねスポットライトは武部。えんえんと流される武部の「堀江君は我が弟です息子です」という絶叫はこの国の「政治屋」がどの程度のものかをとくと見せている。頭の悪さを露呈するいいわけを繰り返して嗤いを誘い、みごとにコイズミの防波堤となっていると見ることもできなくはない。とすれば、よっ、幹事長、ごリッパ。

 一方、竹中の方はあまり繰り返されることはない。悪質度はあきらかにこちらの方が上だ。彼の最初のいいわけは「党本部の要請を受けて応援に行っただけだ」というものだった。これは将来郵政改革など中味のない空疎なものだったと露顕した際、同じ論法で「党本部が決めたことだから郵政改革を推進しただけだ」と遁辞を弄する可能性を示している。竹中は広島六区でどのような応援演説をぶったか。「小泉純一郎と堀江貴文とこの竹中平蔵がスクラムを組んで改革をやり遂げます」、「堀江君は小泉首相と同じ改革の担い手です」、軽輩にして悪党の竹中の戯言、如斯。

 ネット書き込みで見かけた中でいちばん痛烈だったものをひとつ。「ライブドアの財務諸表を見て、応援をやめようと思わなかったんでしょうかね。竹中さんって、経済学者なんでしょ?」。(1/29/2006)

 朝刊に「東大教授論文疑惑:手探り調査 灰色結着」の見出し。多比良和誠東大教授が「ネイチャー」に発表した論文についてRNA学会が疑問を指摘したのは去年の春頃だった。朝刊はクロとは書かずにグレイと見出ししているが、こう書いているのはざっと見たところ朝日新聞ぐらい。他紙は今週半ばから教授側から出された追試データの信憑性をベースにおおむねクロという論調になっている。

 その朝日の記事も「地道に努力している多くの科学者にとって、今回の事件は正視に堪えない異常なできごと」という平尾公彦研究課長のコメントで書き始め、「完全に疑惑をぬぐい去るには、一人で実験するのではなく、第三者と一緒に再現実験をすることが必要だと本人をかなり説得したが聞き入れてもらえなかった」というかなり奇異な多比良教授の言葉で結んでいる。どうやら実験は川崎広明助手が行い、彼が実験のみならずデータの記録管理まで行っており、そこに問題があるのだという「説明シナリオ」らしい。朝日の記事にはそのあたりの説明が一切ないので、この「シナリオ」の虚実については分からない。

 しかし「データが不備のようだから再度追試をして再提出しなさい」という温情溢れる調査委員会に満足なデータが提示できなかったとなると、やはり真っ黒と断ずるほかないような気がする。

 ESにかんする黄禹錫教授の捏造疑惑をとらえて大喜びの体だった嫌韓ブログを読んで「将来、恥をかかねばよいが」と書いたとき念頭にあったのはこの話だった。捏造の誘惑に駆られるのが特定の民族に限られないことなど普通に考えれば誰にでもわかることだ。色眼鏡族はかくして過つのだ、可哀想に。(1/28/2006)

 札幌に行くとき必ず泊まるのは東横インすすきの南と決めていた。ビジネスホテルとは思えないゆったり広い部屋でネット接続サポートもありで安い。その東横インが横浜市内に建設したホテルで昇降式駐車場と身障者用駐車場および客室を、当局の完成検査後に駐車スペースはロビーの喫煙コーナーそして身障者専用客室はリネン室などのユーティリティに改造し、新規開店しようとしていたというのが朝刊のトップ。東横インはあらかじめ完成検査後の改造図面も準備していたというから確信犯。身障者配慮条例やハートビル法(正式名称は「高齢者、身体障害者等が円滑に利用できる特定建築物の建築の促進に関する法律」の由)は偽善、利益追求には邪魔、そんなものは守っているふりだけすればよいのだという考え方らしい。どこぞの総理が掲げ、バカな選挙民がのせられた「カイカク」とやらに似ている。

 会見した西田憲正社長の口ぶりではこの「違法改造」はこの新規開店ホテルだけではないらしい。この社長の言葉を書き写しておく。これがこの時代の雰囲気だったのだと思い出すために。

 条例違反をしました。どうもすみません。正面が駐車場だとホテルとしての見てくれが悪い。報告を受けて僕も、まあいいだろう、とっちゃえと考えた。やったことは仕方がない。身障者用客室を造っても、年に1、2人しか来なくて、一般の人には使い勝手が悪い。うちのほかのホテルでもロッカーやリネン庫になっているのが現実だ。どんなちっちゃな条例違反でも、違反は違反だから、軽く考えてはいけない。時速60キロ制限の道を67〜68キロで走ってもまあいいかと思っていたのは事実。これからは60キロの道は60キロできっちりと走ると肝に銘じる。

 どこかあのアプレゲール犯罪の象徴として記録された科白、「オー、ミステーク」を思い出させる。あれは光クラブ事件の翌年のことだったそうだ。時代は変わっても人間は変わるようで変わらない。ちょっとだけズルをするかヤバイ橋を渡れば出し抜けると思えば、「やっちゃえ」と思う人間の存在率は変わらないということ。いや、ひょっとするとまっとうにやるという「常識」の規制をどんどん「緩和」してしまう風潮がまかり通っている分、当時よりはもっと下賤な人間が増えているのかもしれない。そうだよ、正直者はよりいっそう馬鹿を見るように改革したのがコイズミ・コウゾウ・カイカクなのだから。(1/27/2006)

 品質管理学会の新春講演会。場所は科学未来館、1時からということで直行・直帰にする。それでも早めに家を出て本屋を物色。**(母)さんに本でもと思ったところで考えが停まった。いったいどんなものが読みたいのか。想像がわかない。生んでくれた、育ててくれた、母。子供の頃からのことを思い起こしてみる。コーラスに通っていた、お茶をやっていた、詩吟をやっている、そういえば清瀬・ナントカ・クラブというスポーツ施設の会費は毎月引き落とされている、そういう区々たることは浮かぶのだが、では何に興味があって、どんな内面を持っているのかということになると、まるで他人同然なのだ。

 いい、どうせ、活字のみを追いかけるのは辛かろう。写真集のようなものがいいかもしれない。そう思ったが、猫は嫌いだったし、犬だって好きなわけではない。否定的なことはポツポツ思いつくが、これというものを知らない。やっと見つけたのは「空の名前」。これなら家にあったなと思い直して、何も買わずに店を出た。

 新春講演会、テーマは「製造業の国内回帰」。ふたつの講演のうちサンデンの副会長さんの方は退屈そのもので申し訳ないが熟睡してしまった。もうひとつのトヨタのレクサスに関する講演は非常に面白かった。いつも思うのはトヨタの「主査」(最近はチーフ・エンジニアというらしい)を務める技術者の視野の広さ、そして見識の高さだ。人事権を持たずに開発をまとめ上げるリーダーシップは本人のもつものばかりではなく、「技術に対する畏敬」のようなものがトヨタという会社に当たり前の感覚で存在しているからではないか。見識をみがく時間もなく追いまくられ志の低いライン職とプライドを傷つけられ斜に構えたスタッフ職という対比はトヨタにはないのだろうかなどと思いつつ、ため息をつきながら帰ってきた。(1/26/2006)

 きょうの参議院本会議で民主党のツルネン・マルティの質問に対し、わが宰相は「靖国参拝批判をしているのは中国、韓国の二国だけだ」と答弁した由。

 代表質問はあらかじめ質問内容を提出し、閣僚は官僚に作成させた答弁書を準備して臨むことになっていたはずだ。つまり閣僚がどれほどバカでも場合によっては臨御もある国会においてその愚かさを晒すことがないようにはしてあるのだ。しかし答弁書の作成にあたる役人までもが性能劣化し、わが宰相並みの知能レベルに退化していてはもはやそういう仕組みも悲しいことに役立たない。

 「国民党が大陸(中国)と反日で共同歩調をとっているとの報道は不本意だ。私は刺し身も大好きだ」。台湾の最大野党・国民党の馬英九主席(台北市長)は10日、台北駐在の日本人記者を集め、自らが反日主義者だとの見方を否定した。
 国民党は日中戦争で自らが果たした役割を強調するなど、反日傾向を強めているとの指摘がある。馬主席は「(国民党独裁時代の)白色テロや(中国の)天安門事件も法治、人権という同じ基準で批判している。日本だけを問題にしているわけではない」と語った。
 しかし「小泉純一郎首相が靖国神社に参拝するのは賛成しない」とクギを刺すのは忘れなかった。馬主席は現在、台湾政界で2008年に選出される次期総統の最有力候補と目されている。(台北=山田周平)

 これはわずか二週間ほど前の日経の記事だ。記憶によれば、昨年春に来日したシンガポールのリー・シェンロン首相も小泉や安倍と会談した際、いずれに対しても「靖国参拝にはアジアの国々でも反発がある」と言ったと報ぜられていた。陋巷の民でもこれくらいのことはすぐに思い出せる。刀筆の吏にもならぬ者に答弁書を任せてはならない。

 それにしても、ちょっと頭の弱い安倍は気に入らないことは憶えておれぬらしいから、シンガポールの宰相のことを忘れていてもそういうものかと思わぬでもないが、小泉もその程度か。それとも、靖国参拝批判というと中国と韓国しかクローズアップしようとしないマスコミに引きずられて視野狭窄に陥っている嫌中族・嫌韓族にひたすらチューニングすることによって支持率を上げようとでも思っているのだろうか。ひたすら愚か者に同調する宰相など見たくもないが、これも時代か。安っぽい時代だ。(1/25/2006)

 堀江貴文もライブドア(正確に書けばエッジ)も好きではない。きのうの逮捕など心の奥底の方に「ザマミロ」という気持ちがないわけではない。しかし先週からのこの報道は何なのか。昨夜オンエアされたいくつかの特番の視点の画一性は何なのか。小菅の拘置所に移送する車の中継映像にどんな意味があるというのか。多くの視聴者がその映像を注視している。もちろんその中にオレもいるのだが、一日の仕事を終えて帰宅したかなりの数の人々がそれを見ているという、その想像は唐丸籠の通過を十重二十重に見物し、時に囃し立て、捕吏に対しては従順に道をあける時代劇の情景に重なった。どこか薄気味悪く、なにより居心地の悪さがあった。

 けさ、いつものように会社のパソコンに火を入れてコーヒーをすすりながら始業までのひとときのインターネット散歩で「『正義』のコスト」(ふぉーりん・あとにーの憂鬱)という記事を見つけた。会社のシステムからの業務外の書き込みは禁止になっている。禁止の趣旨も分かっているし、なによりうちの地区の「情報管理者」だ。だが、きのうから感じていた違和感に対する的確な指摘を見つけたうれしさが上回って確信犯として「同感」のコメントを書き込んだ。

 この国では検察が動いたとなるともうその瞬間からサンケイから朝日までまるで当局のスポークスマンのようになってしまう。少なくともいま検察が明らかにしている嫌疑の内容であれば、身柄の拘束の必然性はないように思う。たしかにライブドアという会社の来歴、というよりは堀江貴文のビジネスの履歴に相当の疑問があることは間違いない。しかし経済事犯を(的確な表現を知らないのがもどかしいが)刑事事件のように扱って処断しようとするのは、法治国家としてヨチヨチ歩きの状態か、ある種の混乱期に限られる。今回の事件の核をなしている投資事業組合に対して報ぜられている程度の疑惑しかないとしたら、既に指摘されているようなことは本来その都度当該の監督官庁なり、組織によってアラームを出され、是正させられるべきことではなかったのか。

 幾人かの「識者」が「一罰百戒」という言葉を口にしている。彼らは「法治国家」というものをどのように理解しているのだろうか。彼らには自分の安穏は検察次第だなどという状態を恐ろしいと感ずる感覚がまるでないのだろうか。(1/24/2006)

 寒い朝、雪かきが行き届かなかった家の前の路面は一部凍結している。少しいつもよりもスピードを抑えて自転車を走らせる。こういう日は富士山が楽しみ。塗装工場跡にマンションが建って会社からは見られなくなり、通勤途上のビューポイントだけが頼り。国立駅の前後はもうだめ、武蔵野線は西国分寺駅の少し手前、中央線は多摩川の鉄橋上。

 武蔵野線が混んでいたため期待は中央線になった。電車に乗るときに二列に並んだ中央に若い女がスッと割り込んできた。仕方なくその女の後について乗り、進行左側のちょうど二人分ほど空いたつり革スペースをめざしたところで女が振り返った。「ジロリの女」。嫌な予感、自意識過剰女らしい。誰もあんたみたいな・・・けっこう美人だったが・・・女のケツを追っかけたいわけじゃねぇーよと心の中で毒づきながら進む。再度、こちらにジロリの視線。業腹だったが諦めた。ほんとうにいけ好かない女。

 よる、堀江貴文逮捕のニュース。強制捜査が先週の月曜のよる、そして一週間で一気に四人(堀江貴文社長、宮内亮治取締役、岡本文人取締役、中村長也ライブドアファイナンス社長)の逮捕。IT業界のスピードに検察も見倣ったものか。起訴、裁判もドッグイヤー業界らしい速戦即決主義になるとしたら、これはこれでいいことかもしれない。しかし容疑はあいかわらず「風説の流布」と「虚偽事実公表による株価のつり上げ」だけ。(1/23/2006)

 朝のBSで何年か前の朝ドラ「かりん」を再放送している。数週間くらい前、細川直美演ずる主人公千晶の友人あかり(つみきみほが演じている)が思いを寄せる学生高利貸しがヤクザから借りた資金を返還できずに自殺するくだりがあった。舞台は戦後の混乱期に設定されているから光クラブの山崎晃嗣をモデルにしたものと分かる。

 山崎が東大在学中に金融会社を設立し契約万能論の下に拝金主義的な言説で客集めをし一時時代の寵児となったことが、堀江貴文のキャリアとステータスにあまりにぴったりしていることが多くの人に連想を生むらしく、ここ数日、ネットのあちこちに「光クラブ」「山崎晃嗣」の話が見受けられる。

 山崎晃嗣は物価統制令違反、銀行法違反に問われ、逮捕されるが吏員を論駁し、処分保留で釈放された。だが動揺した出資者が取り付け騒ぎを起こし行き詰まり自殺した。その出資者の中に「かりん」に登場するようなヤクザがいたかどうかは知らない。一方、「ライブドア・ショック」の中に「ヤクザ」あるいは「闇金融」というキーワードを持ち込むと、「なにが違法なのか」と「地検のもくろみはどこにあるのか」ということがあっさりと了解できる。

 容疑の違法性の成否はマネーライフという会社の買収に際して組織された投資事業組合の動きにライブドアが直接関わっているかどうかにあるらしい。この投資事業組合を使うやり方はもっぱら那覇のカプセル・ホテルで不審死を遂げた野口英昭の創案によるものだという。もしこの投資事業組合に注入されたカネがライブドア(堀江)のものではなく、ライブドア(闇金融)という関数になっているとすれば、地検の強制捜査の動機も立件への見通しも理解可能なものになるからだ。(1/22/2006)

 朝起きると既に銀世界。この冬初めての積雪。**(家内)は**(家内の友人)さんからお誘いがあって歌舞伎を見に行った。この雪も気にしないパワー。しんと静かな部屋で中沢新一の「僕の叔父さん 網野善彦」を読む。なかなかいい本だ。

 きのう、輸入再開されたアメリカ産牛に背骨の部分が含まれているものが見つかり、政府は即日全面禁輸措置をとることにした由。アメリカには「毅然とした姿勢」を示すことができない小泉政権にしては拍手を送りたい「英断」。

 もっとも夕刊には「『全箱検査』望む声」との見出しでこんな記事。

 今回、米国の業者が輸出した41箱(約390キロ)は牛肉の部位が13種類あり、成田空港の農林水産省の動物検疫所は部位ごとに1箱ずつ計13箱を検査する予定だった。しかし、途中で脊柱が見つかったため、全箱を検査し3箱(約55キロ)での混入を確認した。
 輸入再開後、米国から輸入された牛肉は約1500トン。開封されない多くの箱に危険部位が紛れ込んだまま流通した可能性もある。ただ、農水省は「箱を開けないのは、すべての箱が同じ部位の場合で、抽出検査によって安全は確認できる」とし、今の検査方法で問題ないとの立場だ。

 輸入再開後の約1,500トンの中に抜き取りでは見つからなかったものが混入していた可能性は大いにありそうだ。なにしろ件の牛肉ブロックにはなんとまあ数カ所にアメリカ農務省の検印があるのだから。こうなると誤って混入したものではなく、「どの程度混ぜたら、ジャップが気がつくかどうかテストしてみよう。見つからなかったらそれを既成事実にして押しまくればいい」というような下心でもあったのではないかと疑いたくなる。

 いまのアメリカはかつてのアメリカではない。金儲けをファースト・ルールにしているような手合いが高比率を占める「『うそつき病』がはびこる」国だ。金儲けのためにズルをすることウソをつくことなど当たり前、「みんなそうなんだから正直にやるのはバカよ」、こういう国なのだ。だからエンロンが破綻し、ワールドコムがつぶれ、ありもしない大量破壊兵器を理由に他国に爆弾の雨を降らせるようなことを平然と行っているのだ。

 アメリカは自国産品が売れないと「ナントカ障壁」だと騒ぎ立てる。かつて日本で車が売れない現実に対して、彼らは日本の不公正な市場のせいだと主張した。同じような状況でドイツはどうしたか。右ハンドルの車を日本市場に持ち込んだ。それだけが理由ではない、信頼性だってアメリカ車は日本車はもちろんドイツ車の足元にも及ばなかった。ともかくドイツ車は売れた。その間、ドイツ政府が日本政府に政治的圧力をかけた事実はない。一事は万事を示している。(他のすべてのことを「不公正障壁」だの「構造問題」だのと主張するアメリカが車の左側通行について「グローバル・スタンダード」を主張しなかったのは不思議な気がするが、おそらくそれはアングロサクソンの兄弟国イギリスが車の左側通行で頑として譲らないからに相違ない。――なぜイギリスが車輌の左側通行で固定化したか? それは狭隘なロンドンに二輪馬車が普及した際に交通ルールが定まったからだ)

 それにしてもアメリカ産牛肉なるものの品質を閑却して価格に飛びつき、安かろう危なかろうの品物を商おうとした一部業者は大変な目にあったろう。大丈夫だ、彼の国は訴訟大国故、損害賠償の訴訟を起こせば、必ずや損失は取り返せるであろう。もっとも、そのために相応の弁護士費用を紅毛碧眼の詐欺師の親戚に払わねばならぬのは覚悟すべきであるが。それとも自己責任とつぶやいて泣き寝入りするか。(1/21/2006)

 風邪で休暇。終日、床の中。浅い睡眠の繰り返し。あいまにおととい買ってきた中沢新一の「僕の叔父さん 網野善彦」を読む。人は人を呼ぶ、善き人は善き人を、悪しき人は悪しき人を。

 「飛礫」の話と「アジール」の話が面白い。(1/20/2006)

 日経平均株価はきのう一時746円43銭下げ、終値でも464円77銭下げた15,341円18銭になった由。きょうは355円10銭戻して15,696円28銭になったというが、ライブドア株は依然値が付かない状態で、一部の証券会社は担保価値を認めないと宣言し始めた。朝刊には「奇策・新風、堀江流の功罪」という見出しで「ライブドア・ショック」という特集コラムが載っている。

 しかしどうもよく分からないという印象。容疑内容は「インサイダー取引」などではなく「虚偽内容の公表」と「偽計取引」ということになっている。しかし「isologue」「ふぉーりん・あとにーの憂鬱」などに見る限り好ましいやり方とはいえないが、さりとて議論の余地なく違法というものでもないようだ。一方、立花隆は「東京地検が捜査令状を取って、公然捜査に踏み切るのは、その前段階の予備調査、内偵で、これはモノになるとよほどの確信が持てた場合に限る」と書いている。いくらアメリカのような国になることが最近の我が政府の目標だとしても、まさか検察庁までが「ウン、大量破壊兵器があると思っておっぱじめたんだけど、ゴメン、なかったみたいね」などというブッシュ流のセンスで動くようになったとは思えない。なにかまだ公にされていない相当に堅い「犯罪容疑」があるのだろう。

 ただ夕刊にはちょっと変な記事が出ている。ライブドアの関連会社エイチ・エス証券の副社長が那覇市内のカプセルホテルで自殺したというもの。略歴は00年にライブドアの前身だったオン・ザ・エッヂに入社、同社の東証マザーズ上場に携わり、その後、ライブドアグループの投資会社の社長を経て、02年6月にエイチ・エス証券に転じた、というもの。記事には「18日午後2時半ごろ、非常ベルがなったため部屋に駆けつけたホテル従業員が、男性が手首から血を流してベッドに横たわっているのを発見した。近くに包丁が落ちていた。男性は病院に運ばれたが、約1時間後に死亡を確認。遺書はなかったという。同日午前11時ごろ、1人でチェックインした」という警察発表となぜか東京地検伊藤鉄男次席検事の談話が掲載されている。(1/19/2006)

 どうしてもこの話から書いておく。ヒューザーの小嶋、前回、参考人の際にはかけていなかったメガネを、きのう、証人として委員会に呼ばれたときにはかけていた。あれほどヤクザ調だった男がまるで借りネコに「ヒョウヘン」したその様には驚かされたが、あのメガネ、午前中、急遽都内の眼鏡屋で購入したものだという。「女の器量はメガネで三分下がるが、男の器量はメガネで三分上がる」とかいうから、小嶋についた弁護士さん、院外でもそんな忠告をしていたのかもしれない。

 月曜夕方、ライブドアに対する強制捜査が入って、ライブドア株はきのう発行株式の25%も売りに出た。それをうけてはじまったけさの東証はIT株のみならず、ここ半年一貫して上がり基調にあった他業種株までが巻き込まれる形で全面安となった。売りが売りを生むような展開で取引量が異常に膨らみ、処理システムの約定件数が設計上450万件となっていることから、東証は取引終了時刻の15時をまたずに14時40分で全取引を停止した由。

 集中処理システムを採用している関係上、ある意味では避けがたいこと。東京証券取引所はよほどシステムに暗い連中ばかりそろっているようだ。おそらく天下りやら出向できている連中が多い無責任体制なのだろう。しかし仮にそうだとしても、システムに対する要求仕様がどのようなものか、システム変更のドライブ要因がどのようなもので、どの程度の頻度で性能向上が要請されるのかをきちんとシステム設計者に伝えることができさえすれば、いまどきロードシェア型の分散システムの提案をしないSEなどいるはずがない。東証は未だに大艦巨砲、戦艦大和型の思考法のままらしい。(1/18/2006)

 耐震偽装問題に関する衆議院国土交通委員会の証人喚問があり、連続幼女誘拐殺害事件の宮崎勤被告への最高裁判決があり、そしてきのうから続くライブドア虚偽事実公表事件報道ありで、なかなか盛りだくさんの一日。

 耐震偽装問題で一躍名を馳せた「きっこの日記」には「安倍晋三って言えば、自民党のオカカエ放送局、NHKの職員を呼びつけて恫喝したことでもオナジミだけど、そう言えば、昨日のライブドア家宅捜索の第一報は、NHKだった。それも、家宅捜索が行なわれる2時間以上も前に、フライングの形で報じられた。本来、こう言った家宅捜索は、証拠隠滅の怖れがあるために、必ず極秘で行なわれるものだ。それなのに、何でNHKには、2時間以上も前に情報が流れたんだろう?誰が流したんだろう?‥‥なんて基本的なことは、あたしがワザワザ書かなくても、皆さんのご想像通りってワケだ」とあった。

 こんな憶測が書かれるのは、民主党の馬淵の質問に対して、ヒューザーの小嶋が安倍の政策秘書と面会して国交省への口利きなどの相談をしたと答えたからだ。証言拒否を繰り返す小嶋に馬淵はグランドステージ川崎大師の住民説明会で小嶋が「・・・親交のある国会議員に至るまで、石原慎太郎に至るまで、また安倍晋三ギインを通じて・・・国の責任だと・・・国交省の役人にきちんと言わせている」としゃべっている録音テープを持ち出した。

 つまらない人物ほど自分がいかに大物かを騙るために、有名人の名前を出したり、ことさらに呼び捨てにしたり、君付けでしゃべったりする。これなどはその好例のように聞こえるが、ちょっとだけ引っかかったことは「安倍晋三」といって一拍間をおくようにしてから小さく「ギイン」と言ったことだ。「官房長官」ではなく「議員」というところにミソがあるように思う。詐欺師なればこその「アタリ」の感覚があったに違いない。(正確には変な言葉遣いだが「安倍晋三の議員」と言っていた、おそらく「安倍晋三の議員秘書」と言いたかったのかもしれない、なにしろ安倍晋三は秘書には後ろ暗いことを含めて何でもさせる男だから)

 地震災害、水害などの被害家屋の住民に対して一貫して冷淡だった旧建設省、国交省が今回に関してはえらく早手回しに対応方針をリードしたものだ、少しは国もよくなったかと思った裏にはこういうからくりがあったかと鼻白む思い。逆に「こちらにはなんの責任もない」と国交省の提示するスキームによる解決を突っぱねた石原都知事の対応は先手を取られたための腹立ちだったかとこれも妙に納得。

 まあ安倍は詐欺師のお先棒を担いでカモたちに官邸見学をさせるような男だから、違法建築物件取引の片棒を担ぐくらいは朝飯前だろう、驚くほどのことではない。幹事長代理時代は「見学」程度の便宜だったが、官房長官になって「国税」を傾けるほどの便宜が図れるようになったとは重畳、重畳。

 宮崎勤に対する最高裁判決は「上告棄却」。なお二審判決を維持するに際し、精神鑑定の採否についての言及はわずか三行だった由。時間だけは十分にかけていながら、そのくせ効率優先がほの見える、いかにもこの時代に似合った判決だったようだ。(1/17/2006)

 終日、大崎で品質保証部会会議。帰りの電車の中でライブドアに東京地検特捜部の強制捜査のニュースを知った。よるのニュースはこれでもちきりだが、容疑内容がいまひとつよく分からない。会社買収時期の公表を操作したインサイダー取引ということか。

 夕刊の「思潮21」に寺島実郎が書いている。

 欧米社会でのパーティー・ジョークで何度となく聞かされた定番の話がある。「沈没した客船の救命ボートで、誰かが犠牲にならないと全員が死ぬという極限状況が生じた。英国人には、『あなたこそ紳士だ』というと粛然と飛び込んでいった。米国人には『あなたはヒーローになれる』というとガッツポーズで飛び込んだ。ドイツ人には『これはルールだ』というと納得した。日本人には『皆さんそうしてますよ』というと慌てて飛び込んだ」という小噺である。国民性をからかう笑い話なのだが、昨今、とても笑う気になれない。
 やがて歴史家が21世紀初頭の日本を総括する時が来れば、9・11後のブッシュのアメリカのサブシステムとして生きることを安易に選択した悲しむべき時代と位置付けるであろう。ブッシュ大統領自身が、「間違った情報に基づく戦争だった」と認めたイラク戦争への加担について、この国の指導者には心を痛めた省察がない。
 何故、間違った情報に基づく戦争に巻き込まれ、この国の青年を海外派兵という形で危険に晒す状況に踏潜込んだのか、為政者としての筋道だった誠実な思考が見えない。
 政府筋の談話として、「サダム・フセインは大量破壊兵器を過去に使用したのだから、開戦も正当だった」との説明をしていたが、国際社会の常識としてこれほど卑劣な姿勢はない。米国とは異なり、日本は最後までサダムの政権と正式の国交を続けていたわけで、その間、大量破壊兵器の使用や人権問題でイラクを批判して国交を断絶したわけでもない。後追い的に自己正当化し、ずる賢く「あいつは危険な奴だったから滅びて当然」と悪乗りしているわけで、その軽薄さは日本の品格を失わせている。
 改めて、イラク戦争に向かった局面で、この戦争を支持した日本のメディアの論説と知識人の発言を読み返し、その見解を支えた情報基盤の劣弱さと時代の空気に迎合するだけの世界観の浅さに慄然とさせられた。

 ここにいう政府筋の談話というのは安倍晋三が語ったものであり、小泉純一郎もブッシュが大量破壊兵器がなかったことを認めてからはこの理屈に乗り換えていたということを記録しておく。また、積極的、消極的を問わないとすればほとんどの新聞がイラク戦争を支持したのであったし、自衛隊のイラク派兵を熱烈に主張したのは読売新聞とサンケイ新聞両紙だったことも記録しておく。さらに、小泉純一郎同様の理屈で、現在、逃げ回っている知識人も枚挙にいとまがないが、開戦前に「原油価格が下がり石油消費国はこぞってアメリカに感謝するだろう」と自信満々のご託宣を述べた日高義樹と自衛隊の派兵前に「儲けるチャンスです」といちばん卑しい発言をした岡崎久彦の名前を記録しておく。

 さあ、百年、千年という単位で見た将来から振り返って、寺島が恥をかくか、日高、岡崎が恥をかくか。日高は少なくとも石油についてはなにをしゃべる気もしないだろう。その証拠に日高のブログの「資源・エネルギー」カテゴリーのノートはずっとゼロのままだ。(イラク開戦前の原油価格は1バレル28ドル前後、いまはなんと60ドルを超えている。たいしたご託宣だ)

 ほんとうに残念に思うのは、岡崎久彦が生き恥を晒し、満座の侮蔑のまなざしの中をコソコソと逃げ帰る場面が見られないことだ。(1/16/2006)

 幼女連続誘拐殺害事件の宮崎勤に対する最高裁判決が今週火曜日におりることになっている由。

 きのうの朝刊に吉岡忍がこんなことを書いていた。

 検察側は「幼女対象の事件はまれではないし、4人以上の殺害も絶無ではなく、死体の損壊もめずらしくない」と言い、被告の「性格的かたより」を考えれば、事件はありふれた「わいせつ事件」だと主張した。下級審の判断も、これを踏襲した。
 しかし、この認識は、こうした全部を1人でやってのけた人物はいない、という事実を隠している。また被告が自分や女性の肉体に極端な嫌悪感を抱き、勃起したこともなければ、性についてもまったく無知だったとの供述を、たぶん意識的に無視している。遺体からも彼の居室からも精液反応は検出されなかった。
 にもかかわらず、事件は起きた。この不気味な攻撃性はどこから生まれたのか。私は宮崎被告の精神のゆがみに、まとまりや安心感を失った社会の危うさ、攻撃性に歯止めをかけられない文化の弱さ、孤立した個人の身勝手と自暴自棄を読み取ってきたのだが(文春文庫「M/世界の、憂鬱な先端」参照)、長きにわたった公判のどこにも、宮崎事件がこの時代と社会が生んだ出来事だという視点は見当たらなかった。
 この欠落を作りだした精神鑑定の問題点を指摘しておかなければならない。この事件では「性格的かたよりはあるが、責任能力あり」という鑑定のほかに、「初期的精神分裂病(統合失調症)」と「乖離性同一性障害(多重人格)」を指摘する、全部で3種類の判断が出され、下級審は検察側が主張した「性格的かたより」論を採用した。
 全部で1300ページにおよぶ三つの鑑定書を読んで、その意気込み、手法、内容、論理的整合性がばらばらであることに、私は驚き、あきれた。率直に言えば、「性格的かたより」と判断した鑑定は被告の家族歴や生育歴を捜査資料から抜粋し、あとはつぎはぎと推論をかさねただけの杜撰な内容だった。「出来レース」と呼びたくなるような精神鑑定は、事件の意味をあいまいにし、政治や行政がその後に続発し、いまも各地で起きている不可解な犯罪を予防する対策づくりを遅らせることにしかならない。
 私は最高裁判決に注目している。それが司法のものの見方への信頼を失うようなものでないことを願っている。

 吉岡の願いは裏切られるだろう。既にこの国の裁判所は社会に衝撃を与えたトピックス的な事件に対してはカンガルー・コート以外ではあり得なくなっている。「出来レース」で流さなければ、「世間様」が承知をしないそういう社会になっているのだ。だから本来なら再発防止のために「真の原因」を問わなければならない場面でも、そんなものよりは「大衆的納得」が重視されなくてはならないようになっている。結果、吉岡の書くように、「いまも各地で起きている不可解な犯罪を予防する対策」などは誰も考えず、社会は「神の見えざる手」に任されている。それをじつに的確にかつ無責任に表現した言葉が「自己責任」という言葉なのだ。(1/15/2006)

 朝刊の「メディア」欄に「『ES細胞捏造』報道」が取り上げられている。

 最初に黄教授の「ES細胞疑惑」を取り上げたのはMBCというテレビ局だった由。韓国内の反発は凄まじく、MBCのホームページには「黄教授を殺すのか」調の書き込みが数万(ほんとうか?)も寄せられ、番組スポンサー製品のボイコットから他の番組のスポンサーへも「降りろ」という圧力の電話が殺到した由。

 火に油を注いだ盧武鉉大統領の「広告主まで降りるとは少しやりすぎだが、MBCにも脅迫じみた取材があったようだ」という書き込み(大統領府のホームページ)があり、呼応してニュース専門テレビYTNが「PD手帳(MBCの番組名)は米国でインタビュー相手を半ば脅し、高圧的な態度で答えを引き出した」と報じ、朝鮮日報は社説で「凶器と化したPD手帳、原因は放送局内部にある」書いたというからすごい。(YTNはその後、他ならぬ「黄教授側の意を受けて米国の研究チームに大金の運び役を務めていた」ことが露顕し、報道局幹部が辞任する騒ぎに発展したという、なにがどうなっているやら)

 いつぞやこの国に蔓延し、いまも潜在している「北朝鮮ヒステリー」などを想起すれば、MBCバッシングのあれこれについては容易に想像できる。ネタといきさつは変わっても狭隘なナショナリストの発想法と使用する言葉は嗤えることに万国共通だから・・・。「英雄を冒涜するおまえはなにものだ」、「我が国が誇るべき人を引きずり降ろしてなにが楽しい」から始まって、「MBCは反韓メディアだ」、「自虐メディアだ」、「国賊メディアだ」とかの罵声までも浴びせられたのだろう。

 火曜日の日記に書き写したブログを読み直してみると、ふたつの国のメンタリティは嫌韓族が言いつのるほどには違っていないということがよく分かる。なによりこの嫌韓君は可笑しいほどに彼の国の愛国ネットワーカーと似ている。

 彼の文章の「韓国」を「日本」に置き換えてみるとどうなるか。「都合の良い捏造事実を作り、日本こそ最高と信じきった国民の支持の下、国内では嘘でさえ真実と変わり、それを誇らしげに、かつ盲目的に国外に発表してしまう。この一種の狂信的な宗教とも思わせる光景は、歴史問題等、様々な場面で共通しています。これはもはや日本という国家が持つ特有の体質と言っても良い」。

 しかしこの文章は嫌韓君のオリジナルの文章に比べどこか据わりが悪い。日本に住む人間には嫌韓君のブログの論調が「国民の支持の下」という状況まではいっていないことも、「国内で」彼の書くことが「真実と変わ」るというには至っていないことも分かっているから。この国はまだそれほどひどくはないし、抑制もそれなりには効いていると思える。最近は風前の灯火という気もしないではないが。

 嫌韓君のオリジナルの文章の安定は、彼が与えているのではなく、あまたあるこの国の愚劣なブログにおいて口を極めて攻撃されている「自虐メディア」や「リベラルな人々」の存在によって与えられている。彼の記述の基礎を支えているのは皮肉なことに彼が国内で「敵」としている人たちの存在とおかげによっている。彼はそんなことは意識をしたこともないに違いない。子供とはそういう存在だ。

 ところで「『ES細胞捏造』報道」のような事件が起きたとき、我が嫌韓族はMBCのような報道を攻撃するのか、擁護するのか、どちらだろうか。答は既に出ている。「自虐」という形容詞で相手を攻撃することを彼らは繰り返してきたのだから。(1/14/2006)

 このところ秋の自民党総裁選(というよりは次期総理という語られ方がされているが)に関する話がしきりだ。総裁選レースについておもしろおかしく取り上げているワイドショーの如きニュース番組のことではない。小泉首相自身のことばだ。曰く「総裁選を国民参加型にしてくれ」、曰く「総裁は選挙で勝てる人でなくては」、曰く「靖国を総裁選の争点にすべきではない」。誰でもすぐにわかることは「首相は安倍がいいといっているのだな」ということだ。ではなぜ安倍晋三がいいのか。

 立花隆は小泉を「政治的人間」と判じた上で小泉が狙っているのは「院政」なのだと書いている。なるほど院政のためには宰相などできるだけ無能な方がいい。続に「麻垣康三」と呼ばれる中で誰がいちばん能無しかといえば間違いなく安倍晋三だろう。

 早過ぎる人事情報はたいがいガセと決まっている。その意味では早々とあがった晋三アドバルーンはあえて破裂させるためのものかもしれない。とするとダークホースと囁かれつつある竹中平蔵こそが小泉の意中の人である可能性も打ち消しがたい。もっともひたすら他人の業績を横取りすることでのし上がった竹中に小泉がどれほど信認をおいているか疑問ではあるが。

 議論の余地なく明らかなこと、それは我々の前には不毛な荒野しか開けていないらしいということだ。まあそれが「国民参加」の「選挙」で多くの国民が与えた白紙委任の結果なのだから是非もない。(1/13/2006)

 夕刊の二面、「窓」欄に高成田亨が三國陽夫の「黒字亡国」を引いて、ひたすらアメリカに収奪される日本というシナリオを書いている。「こうした先例が植民地時代のインドだったという。宗主国の英国民がインドからの輸入で生活を豊かにする一方、インドに支払われたポンドは英国に預金され、英国は経済成長を謳歌したが、インドは慢性的なデフレに苦しんだという」。

 三面には「ウォール街賞与一人1,440万円」という見出しで、彼の国の証券業界の昨年のボーナスが前年比15.5%増、計215億ドル(邦貨2兆4700億円)に達したというニュース。ゴールドマン・サックスのヘンリー・ボールソン最高経営責任者は3,800万ドル(44億円)を受け取った。なるほど意地汚いどこぞの学者上がりの大臣が涎を流して「オレもいつか」と羨むのも頷ける。

 四面、アーサー・ビナードは母国の母親からのクリスマス・プレゼントに同梱されていた写真に首をかしげた話を書いている。ニューヨークに住む彼の妹はこのようにコメントした由。「地方に住んでると、自然とそうなるの。だってほとんどファットフードしかないんだもの。同窓会なんかに出たら、たいへんヨ。会う人会う人、一人ずつ顔の輪郭をカロリーオフして、凝視しなくちゃならないんだから」。

 月曜日の「時流・自論」には大国アメリカの多様な顔を捉える試みの必要性が書かれてはいたが、猛威をふるうアメリカン・グローバリズムの相貌の醜さは否定できるものではない。(1/12/2006)

 ペルーと日本の二重国籍を器用に使い分けて、失政と涜職の責任から逃げ続けたフジモリ、ペルーの選挙管理委員会は春の大統領選挙への立候補届けを却下した。理由はフジモリが外遊中にFAXで辞職届を出し日本に逃げ込んだ年(2001年)にペルー国会が行った10年間公職追放決議。

 ちょっと旗色が悪くなると、もうひとつの国籍を使って外国に逃亡を図るような無責任な男を大統領にしておきたいと思う者は、彼の下ならば甘い汁が吸えると確信できるウジ虫のような連中か、よほどフジモリの背後のニッポンに幻想を抱いているアマちゃんたちに限られようから、ごく当然の裁定。

 目端の利く曽野綾子のことだからそろそろフジモリの部屋を掃除しているか。いや、フジモリがチリからペルーに引き渡され、いまのところは灰色といわれている大統領時代の「犯罪」について取り調べられることにでもなれば、せっかく準備万端整えても店賃収入を失うことになるかもしれぬ。彼女も内心考えているか、「賞味期限が切れて、そろそろ、棄て時かもしれないわね」、と。(1/11/2006)

 韓国の黄禹錫(ファン・ウソク)ソウル大教授が発表していた体細胞からクローン胚を作りES細胞を取り出す研究のすべてが捏造だったとする調査報告書がソウル大学調査委員会から発表された。

 ES細胞とは胚性幹細胞(Embryonic Stem cell)の略称。受精後に卵分割を続けて一定段階に達し、各専用臓器細胞へ分化していく過渡的な細胞のことらしい。幹細胞としてはCMにも登場する臍帯血から抽出するものや骨髄性幹細胞などがあるということだが、胚性は成り立ちからいっても「万能度」に期待が高いようだ。しかしものがものだけになかなか誰にでも手を出せるというものではなく、その意味で黄は理想的な環境の下で研究を続けていた。そしてそのことは同時に他の研究者にとっては追試がしにくいという点で捏造が見破りにくいものだったという。

 夕刊には

 作製された細胞は、実験の過程で、核が除去されずに残った卵子が自己分裂してクローン胚のように「突然変異」。そこから採取したES細胞である可能性が高いとした。
 調査委は、このES細胞が体細胞を提供した人のDNAと一致していないにもかかわらず論文で「一致した」としたことや、論文掲載の写真が協力病院の受精卵から作ったES細胞のものと判明したことから、論文捏造は「故意による」ものと断定した。
 ・・・(中略)・・・
 一方、昨年8月に公表された「世界初のクローン犬」についてはDNA分析などの結果、「体細胞クローンであることが確認された」とした。研究チームは一定の体細胞クローン技術は持っていることになる。

とある。黄には一連のプロセスが終了した時点で生成していたES細胞がクローン胚に見え、DNAの不一致は「瑕疵」に見えた。DNAの不一致は第三者から見れば決定的なことだが、頂上にいま一歩と思いこんでいる身にはいまいましい「疵」に過ぎない。黄は、トレースすれば簡単に結果は出る、それよりも時間が勝負だ、と、そう考えたのかもしれない。ドッグイヤー、ドッグレース、・・・、いまやすべてが競争の社会だ。出し抜いてなんぼというのが「グローバル・スタンダード」とすれば、黄に開いた陥穽は誰の足元にもある。

 この国の嫌韓族は喜色満面の体でここぞとばかりノーベル賞候補というだけで興奮する韓国社会を嗤っている。しかし「50年でノーベル賞30人」という目標をとくとくと語った政治家がこの国にもいたことは忘れているらしい。おめでたい連中だ。

 別のブログには「都合の良い捏造事実を作り、韓国こそ最高と信じきった国民の支持の下、国内では嘘でさえ真実と変わり、それを誇らしげに、かつ盲目的に国外に発表してしまう。この一種の狂信的な宗教とも思わせる光景は、歴史問題等、様々な場面で共通しています。これはもはや韓国という国家が持つ特有の体質と言っても良い」とあった。

 おそらく科学研究や開発の修羅場を知らず想像力も貧しいのだろう。だからこの国の研究者が同じ穴に落ちるかもしれぬという可能性に気付かず「韓国特有の体質」などと書いていられるのだ。将来、恥をかかねばよいが。(1/10/2006)

 きょうの「時の墓碑銘」は網野善彦。彼は一時都立高校で教鞭を執っていた由。見出しに取った言葉(「百姓=農民」ではない)ではなく、いちばん網野の業績に似合った証言。

 義理の甥、宗教学者の中沢新一は幼いころ網野から絵巻物の見方を教えられたという。「見てごらん。こういう絵の真ん中の部分には、世の中で偉いと思われている人々の姿が描いてある。(略)そんなものは気にしなくていいんだ。大事なのは、こういう隅っこに描かれている人々の姿なんだ。よく見てごらん。みんな一人一人違う顔をしているだろう」。これまで重要と思われてこなかった人たちだが「この人たちはとっても深い世界の奥のほうから、出てきているんだ」。(『僕の叔父さん網野善彦』集英社新書

 ちらりと紹介された網野の教え子の言葉もいい。「なぜ日本人は天皇制を消滅させることができなかったか」、そういう質問をしたのだという。そういう質問を引き出すような授業だった、そして、それを真っ正面から受けとめる教師だったということだろう。(1/9/2006)

 日本海側は記録的な大雪。「三八豪雪」というのがあったが、ことしはあれ以来かそれを超えるものらしい。去年同期会を開催した津南町の積雪は3メートル96というから二階屋でも埋もれかねない。

 サンデーモーニングで田中秀征は「年齢構成が高齢層に偏っているから、雪下ろしひとつをとっても簡単ではない」と言っていた。NHKのニュースによると、この冬の雪による死者は既に全国で63名に達している由。死者は圧倒的に70歳以上の老人、雪下ろし中の転落や雪の重さによる家屋の倒壊など、人手さえあれば防げたのではないかと思われるものが多い。

 近年一貫して温暖傾向が続いていたので虚をつかれたという側面もあるのだろうが、人口の偏在が事態をいっそう深刻化している。田中角栄という男の出発点は豪雪地帯のハンディキャップを政治の力でどのように解消するかという課題意識だったという。それほどに「雪」は大きな問題だったのだ。

 豪雪地帯における「雪」についての本に「北越雪譜」がある。いつか読もうとは思いつつ、まだ果たしていない。忘れないために、「風の文庫談義」からその一部を書き写しておく。

 この文庫本の巻末に付された益田勝実の「『北越雪譜』のこと」によると、牧之は最初、自分は素材提供者で、著者は有名文人、という条件の出版企画を山東京伝にもちこんだという。京伝が死ぬと、馬琴に依頼し、馬琴がぐずぐずしていつまでも出そうとしないうちに、京伝の弟の京山のほうから申し入れがあって、ようやく現行の形で板行にこぎつけた。当初の計画から刊行まで、実に四十年の歳月を経ているのである。
 こうまでして、牧之がこの著を世に送り出したがったのは、「日本第一の大雪なる越後の雪を記したる書」がまだないことを残念に思い、郷土の雪と、その中での人間の暮らしを、広く伝えたいと願ったからにほかならない。自分の文名をあげるつもりなら、京伝や馬琴にあのような悪条件を提示しなかったであろう。
 その思いは、ようやく所を得て一気に爆発しそうになる。それを抑えに抑えた凝縮度の高い文章が、この随筆集のいちばんの魅力になっているといってよろしかろう。初編巻之上の「雪意(ゆきもよひ)」の章などは、殊に名品というに足る文章である。
(前略)九月の末に至ば殺風肌を侵て冬枯の諸木葉を落し、天色霎々(せふせふ)として日の光を看ざる事連日是雪の意(もよほし)也。天気朦朧たる事数日にして遠近の高山に白を点じて雪を観せしむ。これを里言(さとことば)に嶽廻(たけまはり)といふ。又海ある所は海鳴り、山ふかき処は山なる、遠雷の如し。これを里言に胴鳴りといふ。これを見これを聞て、雪の遠からざるをしる。年の寒暖につれて時日はさだかならねど、たけまはり・どうなりは秋の彼岸前後にあり、毎年かくのごとし。
「毎年かくのごとし」という結びは何でもない語句のようだが、雪意という、豪雪との戦いの開始の合図をうけとる、雪国の人々の深い嘆息が、そこに聞こえるのである。このほか「往古より今年にいたるまで此雪此国に降ざる事なし」とか、「鳥獣は雪中食无をしりて雪浅き国へ去るもあれど一定ならず。雪中に籠り居て朝夕をなすものは人と熊と也」といった語句にも、同様の嘆息がこめられており、このように凝縮された思いは、その中で生きてきた人間でなければ、表出し得ないにちがいない。

 天下の闇将軍といわれた田中という人物のうちには、このような雪国の思いが火種となっていた。いまその田中派つぶしに熱中している小泉の胸中の火種とはどんなものなのだろうか。どうも衣食足りれば礼節は知るものの、燃えるような理想は身に付かなくなるもののようだ。ただそれはほんの少しの想像力が決定的に欠けているからではないかと思うが。(1/8/2006)

 暮れから正月にかけてたまりたまった新聞をまとめて斜め読み。

 元日の朝日新聞に木村剛が会長を務める日本振興銀行が彼自身を含む親族が経営する会社に融資をしていたという記事が載っていた。木村のブログ「ゴーログ」には既に4日に記事に対する木村の反論が書かれている。木村の反論はいやになるほど長々と書かれているが、内容はじつに単純なもので「依怙贔屓なんかしていないから、いいんだよ」ということだ。彼はこんな書き方をしている。

 まずは、「情実融資」か否かという議論に入る前に、一般のルールである「アームズ・レングス・ルール」について、ご説明する必要があります。「アームズ・レングス・ルール」というのは、関係者間の取引については、他のお客さまと同等のルールを適用しなければならない、というルールのことです。要するに、エコヒイキするなというルールです。

 元日の記事には「振興銀行は融資直前、設立時から担保として認めてこなかった非上場株の中で、自行株だけを認めるよう社内規則を変更していた」という指摘があったが、木村はこれについては反論も言及もしていない。「反論」にもルールがあるはずだが、しきりに自己責任と審査の厳格化を主張していた彼が自分にはルールを甘く適用するのは嗤える。人間とはこういう動物なのだ。

 「李下の冠、瓜田の履」という言葉が長く伝えられてきたのにはそれなりの意味がある。その考えに立てば、関係者間の取引については「他のお客さまと同等のルールを適用しなければならない」というのは適当ではない。「他のお客さまより厳しいルールを適用しなければならない」とするのが至当である。仮に木村の主張のようにイコール・ルールを適用するとしても、レフリーに「関係者」(木村本人)が加わってしまっては「イコール」でもなんでもなくなる。こんなこと子供だって分かる、「アッ、ゴーちゃん、それ、ズルーイ」だ。

 木村の品性もなかなかのものだが、ゴーログへのトラックバックをたどるともっといろいろ面白いものが見られる。朝日の記事の「裏読み」からはじまって「非難」まで。一部経済誌には既報の話を、元日、振興銀行がいちばん反論しにくい日程を狙って報じたのはトリッキーだという指摘はそうかなとも思うが、記事の棚卸しまたはお正月番組のひとつと思えば必ずしも意図的とも断ぜられない。

 そんな中でいちばん唖然としたのは「1億7000万ぐらい担保を取って貸して何が悪いの?」と書いたやつだ。貸し手である自行の株(しかもそれは非公開株)が通常の意味での担保価値を発揮できると思っているのかしらね。書き手の「主婦の生活感覚」はいいけれど、もう少し深く考えられないものか。おそらくこういう手合いが郵政民営化キャンペーンにのせられてホイホイと自民党に投票したのだろう。

 それにしても、「規制緩和」やら、「構造改革」やら、「自己責任」やら、「審査の厳格か」やら、いろいろの「新ルール」の体現者として「改革を止めるな」をキャッチフレーズに登場した新しいエスタブリッシュメントさんも、なんのことはない旧いエスタブリッシュメントさんたちとなんら変わらない行動様式、慎みがなくなった分だけ品性がより下品になったようだ。ちょうどアニマル・ファームで人間を追い出して後に居座ったブタちゃんたちのように。(1/7/2006)

注)「アニマル・ファーム」:あのジョージ・オーウェルの有名な小説のことです。"Beasts of England, beasts of Ireland 〜"と歌う、動物たちの歌が聞こえてきませんか(^^;)。

 見物渋滞という現象は「他人の不幸は蜜の味」ということの他に、「ああ、やっちゃってるよ、バカだなあ」ということにある種の快感があるからだろう。ほんとうに自分がリコウかどうかは別にして、いやほんとうに賢くはないからこそ、他人のバカぶりがリコウな自分を実感させ幸福な気分をもたらすのかもしれない。

 最近は幸せいっぱいの気分にしてくれるものに事欠かない。コイズミの一挙手一投足もそれなりに幸せにしてくれたけれど、もっぱら人気ナンバーワンといわれる安倍晋三などが宰相になれば、幸せはもう保証されたようなものだ。いくつか書かれたローマ帝国衰亡史の書き手たちは人間がどれほど愚かでありうるかを記述するために相応の努力をしなければならなかった。それに比べるといまこの国に生きる者たちはじつに恵まれている。ただ眼前に繰り広げられるこの国のありさまをじっと見ながら、思うところを書くだけで同じことができそうなのだから。

 森川信が演じていたおいちゃんのセリフ、「バカだね、ホントに、バカ」をつぶやきつつ、残り人生を楽しめるとはなんとラッキーなことか。(1/6/2006)

 出がけにイスラエル首相シャロン重体のニュース。パレスチナとの共存路線に転換、リクード内の頑迷な強硬派と対立し、「シャロン新党」を結成しても、ガザ撤退から着手した現実路線を発展させようとしていたわけで、アメリカ式の和平プランに望みをかけていた勢力をやきもきさせている。

 もともとはこのシャロンの挑発行為がイスラエルの不安定化を進め、テロ(とは書きたくない、パレスチナ側にとっては正統な「レジスタンス」だ)を激化させたことは事実で、晩年を迎えて自ら蒔いた災厄の種を刈ろうとしていたに過ぎないといえばそれまでのことだが。

 しかし地獄の一丁目できびすを返さねばならぬと思い直していたとすれば、それはそれで貴重な決断であったと評価せねばなるまい。イスラエル訪問の予定のあったコイズミ、地獄の一丁目で立ち止まる知恵を学ぶチャンスがなくなってしまったのは残念。もっとも聴く耳を持たぬ者には叡智の言葉はただの雑音にしか聞こえないものだが。(1/5/2006)

 初出勤。武蔵野線も中央線もガラガラとまではいかないまでもけっこう空いていた。豊田の駅に下りたときには、「ひょっとしてあしたからだったか」と不安になったくらい。

 出勤するまでは初出の日ぐらいは昔のように半日でもいいのになと思ってはいたものの、出てしまうとこれはこれで気持ちがいい。しっかりと夕方まで机にしがみついて初日、終了。

 世界一の規模になったメガバンク、三菱東京UFJ銀行にとってもきょうが初日。夜のニュースによれば振込トラブルが10件程度あった由。全体の口座数4千万口座にものぼるということだから、この程度で済んだということはもう特筆ものかもしれない。

 それにしても「三菱東京UFJ銀行」という名は長すぎる。「東京三菱銀行だったのに、どうして三菱東京UFJなの?」と**(家内)。たしかに。業種も時代も大きく違うが、「横河北辰電機」は数年を経ずして「横河電機」になった。この長たらしい名前の銀行が単に「三菱銀行」という名前になるのは何年後くらいだろう?(1/4/2006)

 箱根駅伝、往路順位は、順天堂大、駒澤大、中央大、山梨学院、日大。復路順位は、法政大、亜細亜大、日体大、東海大、城西大。きのう6位だった亜細亜大が優勝、以下の総合順位は、山梨学院、、順天堂大、駒大。中央は8位だった。亜細亜大の優勝は初。往路6位からの逆転優勝も初の由。駒沢の五連覇はならなかった。順天堂は8区でキャプテンが脱水症状を起こし、トップから一気に5位まで順位を下げたのがいたかった。

 昼食をとってから**(母)さんを病院に戻す。その間に**(家内)は掃除と撤収準備をし4時前に引き上げてきた。やはりかなり疲れた。それより少し**(家内)のご機嫌がななめ。(1/3/2006)

 漫画は読みやすい。立花隆の「天皇と東大」を持ってきたのだが、やはり読みやすい方から読むことになる。小林よしのりの「挑戦的平和論」、下巻はあっさり読み終わり、上巻へ。

 第1章で放り出そうかと思った。小林は自分への「批判」は批判ではなく「悪口」と「中傷」なのだという。その上でその悪口・中傷は自分が女にもてることに対する「男の嫉妬」なのだと小林は断ずる。この後の数ページは彼の若作りと血液型に関するまるで女性週刊誌の如き与太話が続く。たしかに彼に向けられる言葉は「批判」や「批評」ではなく「悪口」と「中傷」かもしれない。ただそれはおよそ彼の書くものが「批判」や「批評」の対象になるものと考えられていないからに過ぎない。なるほど「嫉妬」もあるかもしれない。それも単に有象無象の「豚のような大衆」の「呟き」をただそのまま漫画にする程度のことで大枚の印税を稼いでいることに対する嫉妬であって、彼が女にもてているかどうかなどほとんどの人は知りもしないし気にもしていない。小林は自分を誤解している、きっと。

 身銭を切って買った本ではない。嗤いながらも腹も立てずに読み進んだ。評価できるのは「第4章 イラク戦争の真実」と「第6章 福岡に玄洋社ありてアジアに臨む」だ。不思議に思うのは西郷南洲の道義に基づく外交の主張を評価する心と戦後補償問題や従軍慰安婦問題における主張の落差だ。

 戦後補償問題では毒ガス弾が「終戦時、支那大陸で日本軍が保有していたのは推定70万発だが中国側は200万発というあり得ない数字を挙げている」と書き、その前には「日本軍は敗戦とともに武器の所有権も管理責任も失っていた!」、「おそらく毒ガス弾は、連合国が没収した後に、処理に困って捨てたのだ。茨城のケースでは米軍が、中国のケースでは他ならぬ中国軍が遺棄したと考えられる」と書いている。(こんなもの批判や批評の対象になるわけがない)

 昔、ニフティで南京大虐殺論争が華々しかったとき、「30万人などという数字はウソ、したがって・・・」という書き込みに「あなたのお住まいの三笠市の人口は数千人ということですが、あなたを含めて三笠市のすべての住民が殺害されたとしたら、あなたはそんなことなんということもない事件だとおっしゃいますか」というコメントがつけられた。件の三笠市の住民は、以後、黙り込んでしまった。

 小林は他の章では国際法を遵守すべしと書いている。いうまでもないことだが毒ガス弾は国際法に違反している。現憲法を押しつけ憲法として否定する人々がよくあげるハーグ陸戦条約には毒ガスを禁止する条項があり大日本帝国もこの条約を早々と批准していた。仮に200万発が中国政府のウソだとしてもゼロでない限りは西郷南洲の「正義を国家よりも上に置く」という考えに立てば、これは小林の称揚する精神には大きく違背しよう。数量の多寡を語る前に道義の尊重はどうなっているのか。

 それはおくとしても、小林はもっと別のことに気付かなければならない。なぜ日本は「支那大陸」に毒ガス弾を保有していたかということだ。答えはひとつだ。中国に対しては実戦において毒ガスを使ったからだ。では他方の敵、米英に対して日本軍は毒ガスを使わなかったのか。この答えもひとつだ。使わなかった。なぜか。もし日本軍が毒ガスを使用したならば、米英はおそらく報復的に毒ガスを使用することが十分に想定されたが国民党軍にも共産軍にもその備えがなかったから。つまり「他ならぬ中国軍」には「遺棄」する毒ガス弾はなかった。それが論理的な答えだ。小林はそうとう頭が悪いようだ。

 武装解除に伴う管理責任解除については一部の新聞が取り上げてからバカどもが鬼の首でも取ったように流布している話のようだが、もともと毒ガス弾の配備は国際法違反の認識の下に軍機とされていた。つまりあるはずのない兵器だった以上、素直に「兵器引渡目録」などに記入されるはずもなかった。

 武装解除時に皇軍でもっとも顧慮が払われたことがなんであったかがうかがわれる歌を二首書き写しておこう。

敗戦を敵地に知るや兵等みな己の銃のご紋章削る(一ノ沢政男)

磨きあげし菊の紋章の光りたる銃をここに捨ててよきかと惑ふ(大屋正吉)

 敵に武装解除されることは「生きて虜囚の辱めを受けず」と教えられた兵士にとっては最大の恥辱であった。彼らに命ぜられたことは天皇陛下より賜った己の生命より大事な銃器についている菊の紋章を削り取ることだった。

 百歩譲って精緻にして完璧な「兵器引渡目録」があるというなら、小林は従軍慰安婦に関する章で自分が書いたように、そういう文書が存在し、内容に毒ガス弾の項目があること具体的な「証拠」で示し、その管理責任が明確に中国側に移っていたことを「証明」しなければならない。一方にだけ厳格なルールを要求するのはフェアな姿勢ではない。

 当時のことをほとんど何も知らず知ろうともしないくせに、あれこれと頭で考えて(そのくせたいした想像力も知能も持ち合わせていないのだから、つくづく嫌になってしまう)、ルール上、責任はこちらにはないなどと利いた風なことを主張するバカどもばかりがブログなどで自らの無能さを競い合っている様はまさに彼らのいう「平和ボケ」の最たるものだ。(1/2/2006)

 きのうまであれほど好天が続いていたのに、皮肉なことに新年になるや一転して曇りベースの天気。

 あさ**(息子)が来て全員で雑煮を祝う。**(母)さんは元気。この調子だと退院してもやれるかもしれない。

 **(息子)は修論の締め切りが迫っているとかで、最終、9時15分ののぞみで京都へ帰った。

 インターネット環境がないから、各社の社説を読み比べることも適わない。**(息子)が小林よしのりの「挑戦的平和論」を持ってきている。買ってまで読む気はしない本なのでいい機会とばかりに読んでみた。上下二巻になっていて、下巻は「第7章 天皇論と家族論」から始まる。話のマクラ、「雅子を大切にしたい、雅子の人格を尊重して、外交官のキャリアを活かす環境がほしい!」、皇太子が感嘆符つきで語ったかどうかは分からないが、その発言はよく憶えている。小林はテレビの前で「そう叫んでおられる。これはプライベートな訴えだ。『公』の存在が『私ごと』を発言している!」と叫ぶ。続いて「この事件をきっかけに皇室存続の危機が論じられるようになった。お世継ぎはどうなるのか? 将来、女性天皇も容認すべきか? その場合、皇統の男系主義を捨ててもいいのか?」と。これが小林の問題提起だ。(問題提起にもかかわらず、これらに対する確たる小林の回答はない)

 まず皇太子発言に対しての小林の違和感、この国に蔓延している風潮に対する彼の嫌悪感には同感する。ただ彼の言葉の端々には彼自身が嫌悪する「豚のような大衆」と寸分違わぬ愚かしさが露出していて微笑ましい。誰でも嗤えるものを二コマ分のセリフを書き写しておく。

 『わしズム』の執筆者で、保守を名乗る若手論客は、ちゃんと家庭を持っている。子供を育てている。高森明勅氏も、八木秀次氏も、潮匡人氏も・・・、さすがというか、大したものだ。
 一度、正月に八木氏の御宅に招かれたことがあるが、ちゃんとした美人の嫁がいて、おせちを出してくれ、子供たちが戯れていた。そこにろくでもない編集者どもが年賀に来ていて、酒飲んで潰れていたりするのだ。

 こんな具合だ。「ちゃんと」していることは個人の意識の問題だが、一見して「美人」であるかどうかは時にはどうにもならぬこともあろう。もとより細君の容貌の美醜と「ちゃんとした保守主義」とはなんの関係もない。八木の細君が「ちゃんとした美人」でなかったら小林はどう書いたのだろう(高森家と潮家に言及がないのは御両家の細君がとても美人とは言い難かったからか、呵々)と思いつつ、ただ「ああそうかい」と苦笑するのみ。

 閑話休題。小林は「祭祀王としての天皇の公務」という言葉を使っている。これは正しそうに見えるが根本的に間違っている。彼は現在の天皇と歴史的な天皇とを混同している。本来の天皇には「公務」などというものはない。天皇は祭祀王、米の祭祀王である。この章の終わり近く、小林は伊勢神宮の御饌殿をあげて蘊蓄のようなものをかたむけている。こんなに近くまで来ながら、なぜ彼は米作の祭祀王としての天皇に気付かないのだろう。米が食生活の中心から外れた現状において、その祭祀王としての天皇の存在がいかなる「伝統」を担いうるかという問いに答えることが怖いから気付かないふりをしているのか、それともやはりつまみ食い読書の毒が回ったせいなのか、いったいどちらなのだろう。(1/1/2006)

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