日経の朝刊にペルーのモンテシノスの逮捕移送に関する記事が載っている。彼は国家情報部なる秘密警察の顧問として隠し撮りした3万本にものぼるビデオテープを提出するなど、減刑を狙って「誠意ある告白」を行うと宣言、事件解明に全面協力する意向のようだ。曽野綾子邸に逼塞するフジモリ元大統領、心中おだやかではあるまい。(6/30/2001)

 ユーゴスラビアのミロシェビッチがハーグの国際戦犯法廷に引き渡されされたというニュース。大セルビア主義というナショナリズムの暴走が国際法廷で裁かれることに。

 久しぶりに「かたえくぼ」から。「空自機誤射」の題で「軍事費、福祉を直撃か」。(6/29/2001)

 連続幼女殺害事件の宮崎勤の控訴審判決も死刑。犯行もある意味でいまの社会が我々の理解しているものからは大きく変わってきつつあることを意識させる先駆けとなるようなものだったが、伝えられる拘置中の言動、三通りの精神鑑定、彼の親族のその後など、どこか居心地の悪さを強く意識させるものだ。(6/28/2001)

 夕刊に「眠りにつく御文庫」の見出し。御文庫というのは皇居内に作られた昭和天皇夫妻のための防空住宅である。有り体にいえば防空壕なのだが、「防空壕という名では、いかにも隠れて逃げるという感じだ。大元帥陛下のイメージがこわれるという配慮」から小倉庫次なる侍従職が命名したという。

 てもとの本(田中伸尚 「ドキュメント 昭和天皇 第二巻」)によれぱ、御文庫は1941年、昭和でいうと16年の4月12日に着工、日米開戦直後の12月28日に完成している。夕刊には1トン爆弾にも耐える構造とある。空襲が激化する1944年11月頃から本格的に住居として使用するようになったとも。

 時に空襲の状況を視察に出た天皇は、このほぼ完璧な防空壕を出て、帝都の惨状を見て回り、またこの防空壕に戻ったわけで、最高司令官として身柄の安全を図るのは当然とは思うものの、「ああ陛下はわたしたちのことを気にかけてくださる」と恐懼して迎えた国民の意識とは微妙なところですれ違っていたように思う。(6/27/2001)

 朝刊の「ポリティカにっぽん」に、早野透が「痛みを求める世論工作の今昔」というタイトルで、「構造改革なくして日本再生はあり得ない」と主張する小泉純一郎と対比する形で「金解禁なくして財界建て直しはない」とした浜口雄幸を紹介している。浜口は「全国1300万戸に『全国民に訴う』と題した自署いりのビラを配った」という。そのビラには「目前の小苦痛は、前途の光明のためにはしばらくこれを忍ぶ勇気がなければなりません」と書いてあったという。そしてこの内閣には小泉の祖父、又次郎が逓信大臣として初入閣していたとも。いや、両者の関係はもっと密なのだ。浜口についた愛称は「ライオン宰相」。小泉はいま「ライオンハート」を自称している。

 丸谷才一の本に、政治家はいいあだ名がついて漫画向きの顔ならば鬼に金棒なのだというくだりがあった。丸谷はこの条件を満たす政治家として吉田茂と浜口雄幸をあげていた。

 友人丸山鶴吉は浜口の人気を評して、「それはジャーナリズムの力でもあった。誰でもいう通り浜口氏のあの顔が人気をつくった。漫画的に描かれ易い顔だからである。・・・(略)・・・」と語つたといふ。・・・(略)・・・しかし、浜口が偉かったのは、民主主義的な政治家であり、かつ反軍国主義的だつたことである。その立場に至つて誠実に守らうとした。わたしは波多野さんの本でそのことを知り、軍人が威張つてゐた戦前の日本でこんなふうに頑張つたのはすごいと感心したのである。

――丸谷才一 「軽いつづら」――

 浜口は「財政の整理緊縮」と「国債総額の逓減」を断行。折悪しく世界大恐慌に見舞われ、のちに「暴風雨に窓を開けたに等しい」と評価される金解禁の失敗で不景気と失業の嵐を招いてしまう。そして東京駅で右翼に襲われ、「男子の本懐」という言葉を残して逝くことになる。(記憶では東京駅には浜口首相遭難の場所を示すプレートがあったはず、いまはどうなっているものか)

 対するライオンハート君は有事法制だ集団的自衛権だとタカにすり寄るマインドの持ち主のようだから、右翼に狙われることはなかろうが、骨太の改革が骨の重みの故に複雑骨折することくらいは用心してもらいたい。(6/26/2001)

 都議選の結果、自民党54−>53、共産党26−>15、公明党24−>23、民主党12−>22、生活者ネットワーク2−>6、社民党1−>0、諸派0−>1、無所属8−>7。投票率は9.28%アップして50.08%。マスコミ報道は「小泉人気が効果を発揮、自民党勝利」というトーン。しかし、90%を超える支持率といいながら、この程度かというのが実感。注目すべきは生活者ネットワークの躍進ではないかと思うが、なぜかここに焦点をあてた報道がないのが不思議。もっと可笑しかったのは、生活ネットは素通りなのに、立候補者ゼロの保守党の扇がインタヴューを受けていたこと。近頃のマスコミにはどうもバランス感覚というものがなくなってしまったようだ。それにしても滑らかに舌がまわることよ、扇千景センセ。巧言令色鮮矣仁。

 このほかにも、フジモリの片腕だったモンテシノスが逃亡先のベネズエラで逮捕されたことと、自衛隊機が島松演習場近くの福祉施設に演習用の機関砲弾188発を誤射したことなどのニュース。(6/25/2001)

 今晩のプロジェクトXは「広辞苑」だった。ふと思い出したのは、

 「広辞苑」の冒頭には、編者新村出の序文が四ページにわたって掲げられている。これをただのもったいぶった序文だと思ってはいけない。この序文を、ノートが原稿用紙に書き写してみる。但、歴史的かな遣いになおして。
 さて、何十行か書き写したところで、ふと気がつくだろう。おや、自分は、歴史的かな遣いになおしながら書き写しているはずだ、それなのに、現実には原文のまま何もなおさずに書き写している、と。そのとおり。「広辞苑」の序文は、歴史的かな遣いで書こうと現代かな遣いで書こうと、まったく同じになるように工夫された文章なのである。それは、新村出が現代かな遣いに疑問を持っていたからだ。

――呉智英 「読書家の新技術」――

という一節。(6/19/2001)

 朝刊にハンセン病国家賠償請求判決からの一連の動きに対する論説が載っていた。熊本大学教授の中川義朗の論説が目にとまった。控訴断念に際して政府が出した特別声明にある、国会の立法不作為認定は最高裁判例に反するという部分に対して、「だが、果たしてそうであろうか。立法の不作為責任は最高裁の基準では『一義的明白に違憲』という『特殊例外的場合』に適用され、地裁判決は、強制隔離を内容とする『らい予防法』がこれに当たると判示している。両者は矛盾しないというのが素直な解釈であろう」とした上で、「しかし、国家の役割は、国際化や規制緩和、地方分権、非営利組織(NPO)の法人化などにより一段と相対化している。国家の『無謬性』を否定し、立法の不作為や行政の活動によっても人権侵害が起こりうることを確認したハンセン病訴訟判決や、国や熊本県の国家賠償責任を認めた水俣病関西訴訟控訴審判決も、その流れに沿ったものといえる。立法や行政が誤りを犯すはずはないという考えを、もはや捨てるべき時である」と主張している。

 まったくそのとおりだ。自らの無謬性をことさらに主張する人がいれば、ほとんどの人は、その人を信用しない。自分の過ちを認めないということは、認めたくない過ちはまわりの誰かのせいにすることにつながる。つまり、安心してつきあえる人ではないからだ。

 人が組織に置き換わったところで事情が変わるはずもない。無謬性を誇る組織は敬遠した方がよい。最近の日本共産党の主張をきいていると、「なかなかいいことをいうじゃないか」と思うことが多い。しかし、共産党を信用しようとは思わない。なぜなら、共産党は無謬性を誇ってきた政党だから。(6/18/2001)

 都議選が告示。いつものように各党党首の第一声の情景がニュースで流れた。自民党小泉の映像だけが夕方のものだった。夕刊で確認すると、他党の党首はすべて9時から10時くらいまでに街頭演説をやっている。国会開会中のことだから、首相の日程は厳しいのかも知れぬ。しかし、小泉の第一声は昼でも午後でもない、夕方、6時過ぎ、新宿とのこと。思い出したのは、次の一節。

朝や日中は、ひとびとの意志の力は、もっとも強いエネルギーで、自分とことなる意志や意見によって強制される試みに反抗するようである。これに反し夕方には、より強い意志の支配的な力にたやすく屈服する。

――ヒトラー「我が闘争」――
フロム「自由からの逃走」から孫引き)

 フロムは指摘する。「ヒトラーは、演説者の優れた力によって聴衆の意志を破壊することが、プロパガンダの本質的要素であると述べている。(ヒトラーは)聴衆の肉体的疲労が暗示にかかるもっとも歓迎すべき条件であると認めている。一日のうちでいかなる時刻が政治的な大衆の集会にもっとも適しているか」、ヒトラーはそれが夕刻であると主張していたと。

 小泉首相にそういう計算があったかどうかは知らない。しかし、気持ちの悪い暗合だ。(6/15/2001)

 朝日夕刊の扱いはなぜか二面でかなり小さいのだが、日経夕刊には一面に「独、原発全廃へ協定 2020年メド 政府、電力業界と調印」の見出し。内容はドイツ政府が同国内の主要電力会社と現在稼働中の原発の運転期間を32年として、2020年までに全原発を閉鎖する協定を締結したというもの。政府はこの協定をベースに原子力法改正案を作成し、年内に議会にかける見通しともいう。

 野党は「世界でもっとも安全な原発が閉鎖されようとしている」と非難しているそうだ。知らないだけかも知れぬが、いろいろレポートされている世界の原発事故の中にドイツの事故の記憶はない。かなりきわどい事故を経験しているアメリカと日本が原子炉の寿命見積りを安易に50%延長して、延命を図っている事実とは好対照をなしている。これは謙虚さの相違と思えばよいのか。(6/12/2001)

 夕刊にはネパール地元紙の報道が紹介されている。

 ネパールの有力紙「デサンタル」が、前国王を検視した医師らの証言をもとに報道した。
 記事では@前国王の左側頭部から右側頭部にかけて短銃の銃弾が貫通しており、右利きだった前国王の「自殺説」は不自然A泥酔状態だったとされる前国王の体からアルコール分が検出されなかったB現場からライフル銃など4種類の銃器が発見され、犯人は複数だった可能性がある――などを指摘。

 はてさて奇怪な話。(6/11/2001)

 日曜日の書評欄は楽しみのひとつ。地の文などが紹介されていると、それだけを憶えてあたかも読んだかのような気分。

 けさの獲物は、チャーカム/シンプソン著「株主の力と責任」の書評。「『(市場は)良質のガバナンスを保証するための仕組みではない』と市場の限界を説き、『企業は悪者よりも愚か者の手にかかって衰亡する』と経営者監視の重点を指摘。『コーポレイト・ガバナンスの制度は、それを育んだ国の社会・経済・法制・政治的背景に照らして理解しなければならない』と他国への押しつけには禁欲的である」。

 もうひとつ、橋本治の「『わからない』という方法」もそそられる書評。こちらは買ってしまうだろう、新書だから。(6/10/2001)

 先日書いた「推理小説的疑問」、誰しも想像するということ以上に、一抹の信憑性があるのかも知れない。以下、5日の日経朝刊から。

 国民のいらだちの背景には、国王射殺事件のナゾの深さに加え、ギャネンドラ殿下の不人気がある。殿下が民主化に反対、貧困撲滅と経済発展に向けた中央集権的な「王政復古」を唱えるタカ派として知られるためだ。

 1990年に民主化を断行したビレンドラ前国王との間の政治路線の対立は、殿下が事件の糸を引いたとする「謀略説」を助長する一因になっている。

 謀略説を説得力のあるものにしているのは、前国王側は、王妃、犯人とされる皇太子(いったん王位を引き継いだがその後死亡)、その弟と妹の一家5人が全員死んでいるのに対し、新国王一家は、王妃も、その息子、娘、計4人すべて存命だという事実。(6/9/2001)

 夕刊から。見出し、「原子力学会2,600万円不明」。収支が合わないため、内部調査をしたところ、会計書類が改ざんされていることが判明した由。「昨年度の予算は約2億6,000万円。ほとんどは会員の会費だが、国からの補助金も一部あるという」。データの粉飾、改ざん、秘密化が珍しくない「業界」のことだから、驚くほどのことはないのかも知れぬ。(6/6/2001)

 日経朝刊の「地球回覧」というコラムが面白かった。「ドイツ名物のアウトバーンは、渋滞の光景が日本の高速道路と少し違う」。ノロノロ運転が始まってもアウトバーンでは焦燥感に襲われない、なぜなら、前方視界を遮るトラックが少ないから・・・。これが書き出し。

 「米国のIT革命は、企業の資材調達や在庫コストを圧縮した」。「ITを活用して企業が物流改革を進めるほど、実際には商品や部品をこまめに運ぶ仕事が増える」。記事はある日系部品メーカーの「欧州のライバル会社は顧客の要望に対する感度が鈍すぎますよ」という声を紹介する。臨時の発注があれば、その日のうちに届ける、「こんな芸当はドイツ企業にはまねができないでしょう」と得意げに語った営業マンは日本でよく見かける1トントラックに飛び乗った由。

 しかし、「地元企業はここまで在庫に神経質ではない」。「生鮮食料品の売り場で卵が売り切れの日もあれば、逆に余って腐っている時もある。ベンツの新車が欲しければ、三ヵ月は待つ覚悟がいる。気に入った家具を見つけても、新品の納品まで二ヵ月かかる」。「その背景にあるのは、品切れに文句を言わず、待つことをいとわない消費者が多数派を占めるという現実だ。日米に比べて欧州の消費者が遅れているという解釈は可能だろう」。「だが」とフランクフルトに駐在する記者は続ける、「すべての先進国の消費者が常に何かに駆り立てられるように商品を渇望している、と決めつけるのは早計だ」。

 ドイツのネット事業ベンチャーの株価が下がり続けている現実を紹介してから、記事は、「トラックが走り回らない都市の風景。それは日米とは異なる欧州の消費社会の一断面でもある。欧州版ニューエコノミーは、焦らない消費者自身が実現の壁になるかもしれない」と結んでいる。

 生鮮食料品に代表される商品群についてSCMは有効だろう。しかし、それが求められない場所もあるのだ。消費する欲望をあおれば、消費者を常に飢餓感の奴隷とすることができると考えるマーケティングだけが勝利をおさめるわけではあるまい。(6/5/2001)

 ペルー大統領選決選投票ではトレド候補が過半数を占めて当選。フジモリ政権の腐敗の徹底糾明を公約していることから、日本政府に対し身柄の引き渡しを要求してくるのではないかとの観測もあるらしい。経済援助の件もあるのであまり強行に要求することはないだろうというのが大方の予想。しかし、先月23日にはペルーの最高検がフジモリを殺人罪で起訴したというニュースもあったわけで、成り行きは興味津々。一方、夕刊には都内に滞在中の同氏に対して書面でインタヴューを求めたところ「ノーコメント」という回答が返ってきたとの報道も載っている。さて二重国籍者、フジモリを小泉政権がどのように扱うか、外務省と法務省には新たな宿題。

 もうひとつ、国王夫妻を射殺し、自殺を図った皇太子、死亡。いったん皇太子に移った王位は、こんどは前国王の弟、死んだ皇太子にとっては叔父に継承されるとのこと。結婚に反対されて激昂という説明と、自動小銃による9名の殺害という荒っぽさの取り合わせがどうもピンと来ない。最後に利益を得たものが真犯人という筋立ては推理小説にはよくあるのだが。(6/4/2001)

 ハンセン病関係のホームページをあちこち見ていて、先日のETV2001の番組中に名前の出ていた光田健輔が51年に癘医学に対する貢献で文化勲章を受章していることを知った。プロミンによる治癒状況などについて十分承知していながら、なお、隔離政策の続行を強く主張した長島愛生園の園長。文化勲章は患者たちを圧殺した功により与えられたものか。(6/3/2001)

 ネパールの王室で結婚に反対された皇太子が、国王夫婦と王族ら計9人を射殺し、自身も自殺を図って重体とのニュース。王位はこの皇太子が次ぐことが発表された由。はて、皇太子に殺人罪の適用はないのか、面妖な。それとも、ネパール王室は未だ「王殺し」の伝統を守っているのか。(6/2/2001)

 夜10時からBS1で「エネルギー革命をめざす男」と題する番組を見る。デンマーク工科大学のヨアン・ノアゴー教授へのインタヴューを中心に構成したもの。70年代半ばのオイルショックに際し、デンマーク政府は原子力発電を取り入れるエネルギー計画を立てた。しかし、79年、スリーマイル島の原発事故があり、反原発運動がおこる。それ以前から省エネに基づくエネルギープランを検討していた彼は「家庭とエネルギー」という本に原発を必要としない具体案を著した。この本は人口500万人のデンマークで1万部売れ、反原発の市民運動の理論的支えになった。広範な支持をもとに政府も彼を招き、83年に代替エネルギープランを策定、85年にデンマーク政府は原発不要を正式決定するに至る。番組は、こうした教授の履歴紹介に続いて、94年に刊行された「エネルギーを浪費しないヨーロッパ−持続可能な選択肢は何なのか」にしたがって、彼の考え方をひとつひとつ明らかにしてゆく。

 「いつまでも経済成長を続けるわけにはいかない、我々は物質的豊かさを求めるのにも限度があることを知らねばならない」、「テクノロジーに頼る以前に忘れてはならないことがある、贅沢を我慢することも時には必要なのだ」、「もしエネルギー消費量が三分の一ですむ冷蔵庫を開発しても、それを三台使ってしまったら何にもならない、技術の進歩と、ほどよい豊かさに満足すること、このふたつがあってはじめて環境を守りながら快適な生活ができるのだ」。話はこれだけにはとどまらない、働くこと、人生を楽しむこと、望まれる経済のあり方、・・・。あいまに、デンマークにおける省エネ活動の紹介、若者との意見交換(これは、若干、「交換」というよりは、彼の考え方を「教える」という感じがしないではなかったが)などが挟まれ、非常に面白かった。再放送を望みたい。(6/1/2001)

 日経の夕刊「ニュース複眼」というコラムに編集委員塩谷喜雄の署名入りで、刈羽村の住民投票に対する論説が載っている。コラムはこのニュースに対する女性コメンテーターの「住民の不安はもっともですよ、情報の公開を求めたら、データが捏造されていたんでしょ」という言葉を紹介して始まる。つまり、データ捏造は関電高浜原発向けのMOX燃料のことで東電刈羽村のものではない、この燃料を使用するそれぞれの原発の形式は加圧水型、沸騰水型と違っていて「MOX燃料という名前以外に、何の関連も共通性もない」と、くだんのコメンテーターの事実認識の誤りを正し、核不拡散の立場から保有プルトニウムを減らすためには「プルサーマルを実施しなければならないというのが大方の予想である」と微妙に書き手の責任を回避する表現をとりながら、「プルサーマルの意味と意義を納得のいくよう丁寧に説明すべきである」と結論している。

 知識不足による批判をたしなめながら、正確な事実認識の普及が問題を解決するという主張に読める。しかし、原発問題、プルサーマル問題は、国と電力会社の主張する事実だけを並べたてて、きちんと説明すれば片づくなどというのんきな事柄ではない。

 プルサーマルを考えるキーは、このコラムの中にも書かれている。ひとつは、東電がデータ公開を拒否したことであり、いまひとつは、ウランを燃やすことを想定して設計されている軽水炉でプルトニウムを燃やすことである。

 なぜ、東電は刈羽村原発向けのMOX燃料のデータ公開を拒否したのであろうか。MOX燃料にも「人権があってプライバシーを侵すから」などというのは悪い冗談。その理由はただひとつ「都合が悪いから」ということだろう。では、データを公開すると、どんな不都合があるのか?

 その理由は推測するしかない。MOX燃料の調達先であるベルゴニュークリア社(このコラムによる)が東電にデータを渡さないなどということは、燃やし方が最大の課題であるMOX燃料にとっては考えられない。さすれば、論理的に一番可能性が高いのは、データを公開すると軽水炉で燃やすことの危険性が暴露してしまうからということではないか。

 もともと、なにゆえ、プルトニウムにウランを混ぜるという迂遠なことをしなければならないのか、それを考えれば、プルサーマル計画の危険性がどこにあるのかは誰でもわかることなのだ。プルトニウムを軸に核燃料サイクルをまわすために必要な施設はふたつある。ひとつは高速増殖炉、もうひとつが再処理工場だ。既に高速増殖炉計画は世界的にうち捨てられた。正式に断念していないのは、現在ではこの国だけだ。もうひとつの要素、再処理工場でいまも稼働しているのはイギリスとフランスにしかないが、その閉鎖は時間の問題といわれている。それが六ヶ所村に数億のカネをかけて再処理施設を建設している理由に他ならない。

 それでは、核不拡散の建て前はどうするか。それは造作もないことだ。原発のウンコを再処理せずに放射性廃棄物として捨てること、そしてなるべく早く原子力発電をやめること、膨大な放射性廃棄物の山をどのようにするかという問題を別にすれば、これですむ。

 このコラムは、読者の無知をあてにする形で、あらゆる意味で破綻の道を歩んでいる核燃料サイクルをあたかも一人前に成り立つ計画であるかのように粉飾する提灯記事に過ぎない。(5/30/2001)

補注)プルサーマル計画とは、どのようなもので、どんな危険があるのかについて、是非とも、ここを参照してください。

 二夜連続のETV2001「ハンセン病訴訟・何が問われているのか」を見た。「近代国家には癘(らい)はない」これがこの国のハンセン病対策の根幹にあったものだ。いやしくも一等国である大日本帝国にあってはならないものだから、徹底的にその存在を抹殺しようとする。一等国という虚名を追わんがためには、同胞に対してさえこれほど酷薄な国であったのだから、近隣の諸国を蹂躙するなどは思えば当たり前の所業だったということがじつによくわかる。

 強制的に隔離をし、隔離をした施設の中で死にたえるのを待つ。帝国の夢が頓挫し、特効薬ができ、WHOがハンセン病に対する隔離策の無効を宣言しても、なお、隔離を続け、収容者には断種を迫り、妊娠した女には堕胎手術をなす。さらには優生保護の美名をたてて、それを法制化する。これらの事実が歴史であることを否定できる者はいない。

 歴史を「祖先の活躍と挫折の歩みをありのまま学び、それを国の物語や思い出として後世に語り継いでいくもの」だなどという愚昧の輩が、どのようにこれらの事実を粉飾するかみたいものだ。どのようにしたら、これほどの所業を「先人の叡智」と言い張り、「物語」や「美しき思い出」と言い張れるものか。(5/29/2001)

 刈羽村の住民投票結果は、次の通り。反対、1,925票、賛成1,533票、保留131票、無効16票。有権者数は4,090、投票総数は3,605。

 賛成派の土田智明なる人物のコメントを書いておく。「臨界事故などを例に、不安をあおる村外の人がいた。よくわからないテーマだけに危険だといわれ、反対に流れたのではないか。本当の民意か疑問だ。大きな目でエネルギー問題を考えねば地域エゴになってしまう」。よく聞いた言葉、手あかのつくほどよく聞いた言葉。まるで「危険」と思うのは無知であるが故とでも言いたげな言葉。しかし、プルサーマルが世界的に使われない技術になりつつある、それはなぜか。東電はMOX燃料のデータ公開要求をはねつけた、それはなぜか。その前には関電が調達したMOX燃料の製造データが捏造されていた、データの捏造などをせねばならぬ、それはなぜか。賛成派の人々がこうした疑問を持たずにいられる根拠はいったいなんなのだろう。

 なるほど反対派に「村外の人」がいるのは事実だ、しかし、賛成派にも「村外の人」がいるのもまた事実だ。反対派の運動資金はどこから出ているか、賛成派の運動資金はどこから出ているか。営利と対極にいる反対派の手弁当は誰しも納得する話。かたや賛成派の手弁当など想像するさえ難しいと思うは偏見か。営利企業がカネを出すからには、しっかりとしたヒモがついているのは世の常識。そのカネがしゃべらせている言葉と考えれば、まるで経産省の官僚か、電力会社の広報担当の言葉と聞き違えるほど、繰り返し繰り返し聞いた言葉が、地元賛成派の口から出ることになんの不思議もない。(5/28/2001)

 昨日、西武遊園地駅で「席を詰めてください」というひとことが原因で殴られた会社員、未明に亡くなったとのこと。先月の末にも、三軒茶屋駅で電車内のトラブルで殴られた会社員が死んでいる。些細なことに怒りをとどめることができないほど激昂してしまうというのは、心当たりがないわけではない。

 行き帰りの電車のなかで、なにかに腹を立てているのは、いつものことだ。もう膂力がないという自覚が行動にうつらない理由になっている。だから、もしその留め金が外れたら、反撃に対する恐怖感の故に、致命的な打撃を与えるまで相手を痛め続けることが自分にだってあるのではないかと、心の底では感じている。

 新潟県刈羽村の「プルサーマル計画是非」の住民投票、反対多数とのニュース速報。

 度重なる原子力関係施設の事故、事故調査のたびに明らかになる虚偽の報告の集積と杜撰な体制、専門性をたてに説明を忌避する不誠実な関係者、そして最終的には札束で黙らせる政治決着、・・・、原発のまわりにはこういうものしかないのだから、反対したくなる方がむしろ自然なのだ。(5/27/2001)

 23日の夕刊に載った永六輔の「小泉人気、野党は言葉を武器に」が面白かった。80%をはるかに超えて、一部の調査では90%も超えるという驚異的支持率の小泉人気の危うさを見事に指摘したものだったから。一躍有名になった「米百俵」挿話の底の浅さについて、永は、このように書いている。

 具体的に小泉首相の演説の中から「米百俵」のエピソードを題材にする。あのエピソードはあくまで結果であって、戊辰戦争当時、長岡藩が官軍と戦うため連射できるガットリング銃など軍備に金をつぎ込んだことを忘れている。長岡藩は戦いに敗れ、悲惨な状況を迎えたのである。「米百俵」を例にするなら、防衛費をそのまま教育費にまわしてこそ、「米百俵」なのである。

 これを読みながら、もう十年ほど前だろうか、巷にはやった「一杯のかけ蕎麦」を思い出した。いかにも単純な、物語にもならぬほどの一口挿話、そんなものに一気に「感動」してしまう薄っぺらな人間が満ちあふれている気味の悪さとともに。(5/26/2001)

 控訴期限が来て熊本地裁の判決が確定した。日経夕刊にこれに対して閣議決定された首相談話と政府声明が載っている。政府声明の方は23日の官房長官談話の「別記」と同じ内容。負けた厚生官僚の負け惜しみ、または、彼らを慰撫するために作られた印象を与える少しばかり奇異なものである。

 声明にはふたつのテイクノートがあげられている。@国会議員の立法不作為に対する責任は「故意に憲法に違反し」た場合に限られるというもの。A除斥期間の規定の適用がないという判断は民法の規定に反しているというもの。Aは素人にはにわかに判断し難い事柄だが、@はなんだかとても不思議な話に聞こえる。

 発表文のうち@の末尾をそのまま書き写そう。「このような判断は、司法が法令の違憲審査権を超えて国会議員の活動を過度に制約することとなり、前期判例に反しますので、国家賠償法の解釈として到底認めることができません」とある。

 はて、政府とは行政府のことではなかったか。立法府である国会が「不作為」という怠慢を指摘され、それに反論するなら分る。しかし、行政府が、立法府に対する裁定に対して、何故、これほどまでに「過度に」反応するのか、不自然ではないか。行政府、自らに対して下された「怠慢」という指摘に対する感情的な反発を、ただただ、ここに向けたのだろうか。仮にそうなら、木っ端役人どもの子供っぽさにあきれはてて、ものがいえぬ。(5/25/2001)

 新聞各紙の社説を読む。かつてこの問題を各紙がどのように扱っていたのかは知らない。しかし、今日は全紙が首相の決断を評価している。面白かったのは官房長官談話の中に別記された「立法不作為」と「除斥期間」についてふれる度合いに微妙な違いがあることと、判決には出てこない「医学界」や「マスコミ」や「国民」の責任への言及があるかないかといったところに各紙の微妙な差が出たこと。

 あいかわらず、バカさ加減を露呈して、嗤わせてくれたのがサンケイ新聞だった。その末尾を引く。

 ただし、政府が懸念するように、すべてを立法上の不作為として裁判に持ち込むようなことは許されない。控訴を断念した教訓を生かすには、国民の自覚と良識が求められる。

 今回の「教訓」を生かすために国民は「自覚と良識」を持って「すべてを立法上の不作為として裁判に持ち込む」ようなことは慎まなければならぬという「主張」。ずいぶん珍妙な論理だ。いったいサンケイ新聞は今回の「教訓」の中身をどのようなものととらえているのだろうか。

 原点に帰ってみよう。もともと、厚生省が怠慢でないか、国会が怠慢でないか、これらのどちらかひとつでもかなえられていたならば、この裁判はたぶんなかった。そして、当然のことながら、「厚生大臣の過失」も「国会議員の立法上の不作為」も指摘されることなどなかった。そう考えれば、「教訓」をどこに求めるべきかは、小学生にも分ろう。

 今回の最大の教訓は、医学的知見に基づいた隔離制度の見直しを怠り続けた行政の怠慢と、立法上の不作為が認定されるほどに事態を放置し続けた国会の怠慢、それぞれの怠慢を繰り返してはならないということにある。

 その上で国民に求めることがあるとすれば、それはどんなことだろうか。それについては東京新聞がその社説末尾に分りやすく書いている。

 とはいえ、前途は楽観できない。経済面では年金制度の創設、一時金の支給など政府の措置により相当程度の支援ができるにしても、偏見、差別の問題が残る。人間の内心の問題だけに政府の掛け声だけでは容易には解決しない恐れがある。

 偏見解消のための基本は、私たち一人ひとりが自らの責任を自覚することである。意識的にか無意識にかは別として、元患者らを白い目で見ていた事実を認めることから被害者・元患者らとの連帯が始まる。

 夜のテレビニュースで原告団の誰かが、このようなことを言っていた。「他の難病には家族の会というのが必ずある。ハンセン病には家族の会というのがないんです」。これがこの病気に対するこの国の状況をなによりも明確に現していると思う。

 見る眼で見れば、国民に「自覚と良識が求められる」のは、サンケイ新聞のいう所にではなく、まさに、東京新聞のいうここにあるということが見える。(5/24/2001)

注)バカさ加減の見本、サンケイ新聞の「主張」はここで全文が読めます。−−−>現在は読めません

 帰ってニュースを見てびっくり。ハンセン病国家賠償請求訴訟熊本地裁判決に対し、国は控訴しないことに決したというニュース。「異例の判断」ということを強調してはいるものの、「改革」を売り物とする看板を守ったことは事実で、先月の自民党総裁選に出た四人のなかで見る限り、まちがいなく小泉首相でなくてはなしえなかった決断だと思う。拍手を送りたい。

 ハンセン病訴訟原告団は時機に恵まれたと思う。この判決が当たり前のことを当たり前に判断できないあの「クズ森」が首相をしていた時に出ていれば、どうであったろう。戦いはまだまだ困難なものであったことは間違いない。やはり、少しでもましな宰相をいただいていたいものだ。

 しかし、気になったことがある。小泉首相の記者問答をうける形でなされた福田官房長官の会見シーン。官房長官は原稿をいささかぞんざいなしぐさで卓に投げ.るように置き、そしてスタートした。読み上げる際も、わずかな文節の区切りのまちがいが、読み手の気持ちと談話の内容が必ずしも寄り添っていないことを垣間見せる。そうしたすべてが、政府ないしは権力機構のなかで、「国民の人気取りに屈するのか、弱みを見せたらダメ、どこかで取り返してやるからな」という声が小さくないことを想像させた。それだけに、今日、この場面では、小泉首相に拍手。

 夕刊に、永六輔が「『米百俵』は軍備増強の結果、本音をユーモラスな話術で」という見出しで「小泉現象」とでも呼ぶべき昨今の状況をきっちり分析していた。是は是、非は非。

 でも、繰り返そう。よくぞまっとうな道を選択してくれた。再度、首相に、拍手。(5/23/2001)

 朝刊には東京高裁の判事が14歳の少女の買春容疑で逮捕されたという記事。

 時代はついにここまで来た。あらゆるものが商品化しつつあることに驚いたのは昔の話。商品化された「性」がラッピングされた「キャンディ」を買うこととまったく同様の感覚で、中身も問われずに、犯罪感覚もなく、売り買いされているという時代が訪れているのだ。(5/21/2001)

 水(16日)・金(18日)・土(19日)と日経は「曲がり角の米企業」というコラムで三人の著名な経営学者へのインタヴューを紹介した。印象的だったのは、三人の答えが一致して、現在のアメリカ経済減速の原因を、効率性のみを追求する経営の限界に求めていることだった。

 「カネがすべてという誤った考え方に立って」(ジェームズ・コリンズ)、「リストラと巨大合併により」(ゲーリー・ハメル)、「株主の求める短期的な利益の極大化を図ったが」(ピーター・ドラッカー)、「そういう手法はもはや耐用年数を超えた」。

 企業と経営者にとってカネは目標ではなく結果であり(これは?マークだが・・・)、経営の基本はイノベーションにあるのだから、それを推進する人材の確保がキーになる。ストックオプションによる人材囲い込みは、株価上昇が永遠には続かない以上限界があるだけでなく、オプションを得た企業幹部が借金をしてでも自社株を購入するという弊害も生んでいる。経営者が、株主、自分の投資に対する短期的利益しか期待しない株主を優先するとしたら、これからのイノベーションの担い手であるナレッジワーカー(ドラッカー)を逃し、かえって成長力を損なうだろう。

 「イノベーションを狭義の技術革新ととらえると担い手はエリート研究者ということになるが、かつてデミング博士が品質管理を全従業員の仕事と修正したように、イノベーションも従業員全員が担い手であり」(ハメル)、「従業員のやる気を引き出すのはカネではなく、明確な任務と能力に応じた適切な権限を与えることだ」(コリンズ)。「多様な人を共通の目標に向かって組織するのが経営であり、これは企業だけの独占物ではない」(ドラッカー)。

 さらにドラッカーは、人の能力をうまく引き出すということに注目して、「20世紀は企業の世紀と言われたが、これは間違いだ。あらゆる先進国経済で、学校や医療機関など非ビジネス部門が企業セクターより高い成長を示した。・・・(略)・・・企業が非営利組織から学べることは多いはずだ。」ともいっている。

 さて、リストラ・合併などにより、とりあえずの経営指標の改善を達成したこの国の企業で、萎縮した従業員の空気を変え、内発的なイノベーション意識を引き出すことに、どれだけの企業が取り組んでいるか、いや、その前にもう一度経営の原点に戻る課題意識をもつ経営トップはどれほどいることか。(5/20/2001)

 諏訪市の根津八紘医師が代理母による出産に成功。姉が妹に代理母を依頼し、出産後、依頼者夫婦は養子縁組する形式をとった由。現在、代理母を認めているのはアメリカとイギリスのみ。

 頭で考えたことに必ずしも体がついてゆかないのが人間だ。俗にいう十月十日の間、おなかにいて、つき合った感覚と記憶が、代理をつとめた母には抜きがたく残るだろう。生んだしるしに乳が張れば、赤ん坊を思い出しもしよう。それが人間だとすれば、姉妹という身近な関係がかえって仇となること、なきにしもあらず。

 やれることは何でもしてしまうということが、果たして人の幸せにつながることだろうか。(5/19/2001)

 先日のハンセン病国家賠償請求に対する熊本地裁判決に対し、国は福岡高裁に控訴する方針を固めたとのこと。しかも控訴してから隔離対象者全員に補償することを内容とする和解をすすめる意向というのだから嗤ってしまう。要するに国会・行政ともに責任有りとした判決を確定させるわけにはゆかない。自分たちの行ってきたことが間違っていたということは金輪際認めたくない、これが役人どもの気持ちなのだろう。なんとまあ恐ろしいまでの独善。

 小泉首相は先週の国会で、地域振興券の配布を例に旧郵政官僚を批判し、机をたたきながら、「このようなスジの通らぬことは、小泉内閣には通用しない」と言明した。

 この件で、国が控訴するか、しないか。小泉内閣の真贋は控訴期限である25日までに分る。注視しよう。(5/18/2001)

 先頃、京都議定書を離脱したアメリカは、スリーマイル島の事故以来新規の建設を見送っていた原発の建設を推進することにしたという。たんまり選挙資金の援助をしてくれた業界団体に報いるためならば、何でもやるというのがブッシュ政権のマナーであるらしい。

 團伊玖磨が訪問先の中国で亡くなった。有名なのは「パイプのけむり」だが、いまはお気に入りの「好きな歌、嫌いな歌」からひとつ書き写しておこう。

 音楽著作権使用料というものがある。・・・(略)・・・毎年3、6、9、12月に送られて来るその使用料によって、われわれ作曲家は生活の基礎を得ているわけだが、経済的理由からだけでなく、このとき送られてくる部厚な書類によって、自分のどの曲がどこでどのくらい演奏されているかを知ることができて、参考にもなるし、世の中の好みの移り変わりを知ることもできる。

 この20年ほど、ぼくの作曲のなかで、演奏回数のトップは、ずっと「ぞうさん」という小さな子供の歌に占められている。

 この小さな歌ができたのは、・・・(略:戦時中、食糧難と空襲時の危険防止のために上野動物園の鳥獣が殺された日、音楽学校に通っていた「ぼく」は葬式用の黒白の幕を動物園で見た、そして戦争が終って日本の子供たちの手紙に答えてインドから像が贈られることになった)・・・上野に再びゾウが来た。それはまたやってきた平和のうれしさを、あの黒白の幕の悲しい記憶を持っていたぼくに大きく感じさせた。・・・(略)・・・ぼくはそうした歳月の移りのなかでこの小さな歌が子供たちの心の中に、平和の中のひとつの小さなしじまとして生き続けていることを、そして小さな歌にも歴史が宿っていることを、作った人間としてとてもうれしく思っている。子供たちは、この歌をだれが作曲したなどとは一切知らないし、知らなくてよいのである。いわば読み人知らずのように、口から耳へ、耳から口へ伝わってゆくことこそ、歌の持つ大きなロマンなのだとぼくは思うからである。

 不思議なことに、ぼくの作った童謡のなかでは、この「ぞうさん」、同じまど・みちお作詞の白やぎさんから来た手紙を黒やぎさんが食べて、今度は黒やぎさんから来た手紙を白やぎさんが食べる「やぎさんゆうびん」、アリの行列を描いた「おつかいありさん」の三つがよく歌われている。みんな動物の歌であることが不思議だと思う。子供たちが動物を好きで、ぼくが動物を好きだからかも知れない。

團伊玖磨 「好きな歌、嫌いな歌」

 この本は、文部省唱歌から流行歌まで、自作曲も含めて取り上げ、「襟裳岬」をほめ、森進一をほめ、歌詞を評し、メロディーを論じ、佳歌、駄曲、自分の感じたままを縦横に述べて心地よい。

 團伊玖磨の思い出は、この童謡ばかりではなく、「花のまち」などの歌でも、ずっと我が胸にあたたかい記憶として残ることだろう。合掌。(5/17/2001)

 雅子妃懐妊の正式発表。まずは慶賀。つつがなく出産の日を迎えられることを祈るのみ。

 先日、懐妊のニュースが流れたベルギー王室のフィリップ皇太子と徳仁親王はともに41歳だが、マチルド妃は28歳であるのに対し雅子妃は37歳。高齢出産ということになる。

 夜の報道の中に「男子出産ならば、皇室にとって36年ぶり」などと、取りようによっては男児の出生が望ましいかのようなトーンがあった。女児では「雲が晴れない」という復古主義者どもの気持ちをあらわしているのかも知れないが、このようなことを言い立てるのは失礼な話。つまらぬ雑音をたてることなく、静かに待とう。「無事に生まれてくれれば、男でも、女でもいい」、皇室にあっても、夫婦の願いは我々と変わるはずがないのだから。(5/15/2001)

 海上自衛隊の3等海曹が覚醒剤中毒で隊内の医療施設に収容された。上司の2等海尉は所持していた覚醒剤と注射器を廃棄、警察への届け出はせず隊内で極秘に処理しようとしていたという。さらにこの3等海曹の前任地下関では複数の隊員が覚醒剤を使っている疑いがあるらしい。隠蔽しようとした体質も問題だが、怖いのはなんといっても自衛隊には、その職務上、武器が豊富にあるということ。

 ・・・という報道があった今朝、サンケイ新聞の社説欄には「防衛省昇格で指導力示せ」という見出しのもと、

・・・防衛庁は、今年一月の省庁再編でただひとつ「庁」のまま据え置かれた。国家存続の基本である安全保障に対する国民の関心を高め、国民の義務としての国防意識を深めるためにも、「防衛(国防)省」への昇格は急務といえる。防衛省昇格をテコに、構造改革の柱である行政改革の総仕上げへ、政治(内閣)のリーダーシップを発揮すべきである。・・・

というまことにノーテンキな「主張」が載っていた。

 可笑しいのは、この社説、全文を何度読んでも、「防衛庁」を「防衛省」にすると、何が、どのように、改革されて、行革の総仕上げになるのか、また、それが、どのような脈絡で、国民の安全保障に対する関心を高め、国防意識を深めることにつながるのか、どこにも書いていないのだ。論理のないこのような「主張」は、防衛庁に対する「おへつらい」なのか、それともサンケイ新聞購読者への「うけ」を狙った情緒的サービスなのか、真意を聞いてみたいものだ。(5/14/2001)

注)最悪のタイミングで、まぬけな主張、嗤えるサンケイ新聞の「主張」はここで読めます。−−−>現在は読めません

 新聞の片づけをしながら、一週間分をゆっくりと眺めてみる。これは金曜日(11日)朝刊の片隅の記事。

 ペルーのフジモリ大統領が昨年の9月に国庫から1500万ドル(約18億円)をモンテシノス国家情報部元顧問に与えた、とする元国防相の証言をリマの主要各紙が報道した。ガルシア法相は9日、「前大統領は公金横領容疑で刑事訴追されるべきだ」と表明した。
 ビデオで現金授受の現場を暴露された元顧問が、パナマに亡命を申請する代償として脅し取った「手切れ金」とみられるが、前大統領は公金にからむ容疑でも訴追される可能性が高まった。

 フジモリは今も曽野綾子邸にかくまわれているのだろうか。彼の所持金はいかほどで、曽野は滞在の謝礼金などをもらっているのだろうか、と、これは週刊新潮風のいささか品のない話。(5/13/2001)

 「痛みの伴う構造改革」というのがはやり言葉になっている。しかし、その痛みが去り快適な日々が訪れるグループの人々と、ずっ〜と痛み続けて痛みが恒常的感覚になってしまうグループの人々に分ける、それが「構造改革」のめざすものなのではないか。「構造改革」と「痛みの伴う」を連呼している人たちの顔ぶれをみると、どうも、そのようにしか思えなくなってくる。

 「新首相も知りたい、構造改革とは何か」を発句に、堀田力が朝刊のウィークエンドコラム「私の視点」で「構造改革の痛みの中身を示せ」と主張している。堀田はこれを政府に求めるのではなく、メディアに求めている。「注文の第一は、問題点の中身を明らかにするための情報を提供」すること、そして「注文の第二は、構造改革を進めてどんな社会にするのかにつき、読者の夢を引き出」すこと。「そこがわかれば、小泉純一郎さんを推した国民の声が、族議員の圧力を排して改革を断行することを可能にするであろう」と。

 そうかも知れない、かけ声だけは勇ましいが、なかなか中身が見えてこない小泉、自分の利益にだけは聡そうな(彼の言葉を借りると「がんばれる人が成果を上げられる」、じつは、「はしっこいヤツだけが鈍なヤツを利用して儲けられる」というのと同じ)竹中に「期待」という荷物だけ預けたのでは、「機会の平等のもとでフェアな競争を」という望ましい夢は実現できそうにもない気がする。(5/12/2001)

 ハンセン病患者に対する隔離政策の是非を問う国家賠償請求訴訟、国に総額18億2380万円の賠償命令判決。判決骨子は、@遅くとも60年以降において隔離政策の合理性はなくなったにもかかわらず厚生省は政策転換をしなかった、A隔離規定の違憲性が明白になったにもかかわらず立法上の措置がなされなかった、B違法行為と損害の内容を考えれば除斥期間の適用は不当、と濁りのない、見事な論理。(5/11/2001)

 朝刊から。ベルギー王室の皇太子夫婦に11月半ばを予定日に第一子が誕生とのニュース。彼の国は既に91年の憲法改正で王位継承者の男女同権を定めているため、女児誕生の場合は初の女王の可能性もある由。同様の問題を今からドタバタするこの国の愚。(5/9/2001)

 昨日の首相の所信表明演説に対する新聞各紙の社説をざっと眺めてみた。メニューはそこそこあるが、料理の内容についてはほとんど語られていないのだから、論評のしようもないというのが正直な所のはず。それでも80%を超える支持率の御利益はたいしたもので、おかしいくらいに好意的な筆致。

 夕刊には、韓国が我が国の歴史教科書に対し35箇所の修正要求文書を出してきた報道。特に扶桑社版に対しては「日本によって被害を受けた国を冒涜する加虐史観だ」としているという。「加虐史観」、どうも的確な表現とは思えないが、もととなった「自虐史観」という用語のできの悪さが伝染したと思えば合点が行く。(5/8/2001)

 帰りに池袋の本屋をのぞき、「栃木リンチ殺人事件」を購入。

 石橋署に限った話ではない。正和の両親は、宇都宮東署、宇都宮中央署、黒羽署管轄の須佐木駐在所のほか、県警本部の相談窓口にも足を運んでいる。・・・訴えは16回にものぼっている。しかし、警察は動かなかった。・・・ここは重要なので繰り返す。まず、職務怠慢な警察官はどこにでもいる。だが、警察官全員が怠慢なはずはない。・・・警察官の習性として住民の訴えをここまで放置することはあり得ない。にもかかわらず、警察現場はなぜか網羅的かつ統一的に機能を停止していた。

黒木昭雄 「栃木リンチ殺人事件−警察はなぜ動かなかったのか−」

 「栃木リンチ殺人事件」の「第2部 隠された真相」の部分を先に読む。被害者と犯人グループのうちの一人は日産栃木工場の従業員だった。栃木工場総務部は早くから事件を察知していたらしい。しかし、スキャンダル化を恐れ、従業員間の金銭トラブルという形で収拾する方向で警察に圧力をかけており、これが栃木県警の意図的な捜査サボタージュになったというのが、この本の主張だ。

 あのゴーン氏にはこういう話は伝わっているのだろうか。(5/7/2001)

 3年ぶりのホームページのメンテナンスが一段落して、ふと現実に戻るとなんとも不思議な事件が起きていた。

 金正日の長男とおぼしき人物、女性2人、子供1人の計4人が偽造旅券による不法入国をはかったとして入管当局に拘束され、二泊三日後に北京へ国外退去処分となったというのだ。

 徹頭徹尾、疑問符だらけの出来事。まず、男は金正男なのか、そして、不法入国の目的は何だったのか。これらは現在の政府発表の範囲では一切不明のまま。

 仮に男が金正男だとすると、いやしくも現在の最高権力者の息子。世襲制が国是らしい彼の国においては「皇太子」に相当する後継者。そんな人物が警護の者もつかず、簡単に国を出て海外漫遊ができるものだろうか、それが分らない。偽造パスポートを作るというのなら、あの東洋系の風貌だもの東南アジアのどこかの国にしておけば、はるかに怪しまれないものをわざわざ露見する可能性の高いドミニカのパスポートにするなんて、それも分らない。

 そもそも、彼らは密入国を成功させようとしていたのだろうか、それさえ、疑わしいではないか。

 疑わしいといえば、我が入管当局も、そして警察庁も、疑わしい。男のパスポートには過去2回、我が国に入国した記録があったという。その記録までもが偽造でないならば、前二回は何の疑念ももたれずにやすやすと入国されてしまったということなのか。今回に限ってそれを見破ったというのは、少しばかり理解しにくい。

 むしろ、過去2回は泳がせたと考える方が自然だろう。まんまと当局を欺いたと思わせておいて、その密入国者の行動から、隠れているものを洗い出すという公安お得意のやり方。しかし、そうだとすると、今回泳がせなかった理由は何なのか。報道されている事実を、そのまま、受け取るには疑問が多すぎる。

 たくさんの?マークを、一気に説明する仮説をひとつ。

 男は金正男の影武者。これ見よがしに行動し、入管、警察、・・・、いずれかにあえてつかまえられる。日本政府が金正男を拘束しているとして、外交カードの一枚に加えて攻勢に出るや否や、おりしも平壌訪問を終えたばかりのEU代表団の中からこんな証言が出る。「金正日氏から息子の金正男氏を紹介されましたよ、2日の日に、平壌で」と・・・。これが、北朝鮮の狙い。
 しかし、優秀な我が当局者は、「そんな手には、引っかからないぞ」と、あえて拘束し、満天下の監視の中を送還したと・・・。

 しかし、これじゃ、どこぞのできの悪い「危機管理政治小説」だ。(5/5/2001)

 小泉首相が初の記者会見で取り上げたのは、首相公選の一点に絞った憲法改正の提案だった。これが額面通りのものなのか、はたまた憲法改正に対する道を開こうとするものなのか、それは分らない。だが、首相公選制がそれほど望ましい制度だとは思わない。

 なるほど戦後の地方自治で直接選挙による首長の果たしてきた役割は大きい。しかし、首相の法律上の権限はさほど広くも大きくもない。首相公選の実をあげるためには様々の権限を付与し、実質的には「大統領」のようなものにする必要が出てくる。

 そのことは必然的に象徴天皇制に影響を及ぼす。もともと現在の天皇は法体系の中では虫垂突起のようなものだが、わずかに残った天皇の存在理由さえいっそう希薄なものにならざるを得ないだろう。

 そういう根本的な見直しをしなければならないほどの明確なメリットが「首相公選制」にはあるのだろうか。どうも一時の気の迷いか、他の改正項目の前座としか思えない。(4/27/2001)

 組閣のニュース。女性が5名、民間から3名、外務大臣に田中真紀子、経済財政相に竹中平蔵ということで、それなりに新味を盛り込んだイメージ。しかし、7人が留任していることを考えるとさほどのことでもない。竹中はマスコミに持ち上げられそうだが、既に小渕、森の両政権で経済戦略会議のメンバーとして入っていたわけだから、格別の材料は持ち合わせていないと見る方がいいだろう。

 それにしても田中真紀子が外務大臣とはちょっとした驚き。たしかに田中の話は分かりやすい。しかし、評価できるほどの見識というものは見えない。もっとも、扇千景が最初の懸念ほど危なっかしくなかったことを考慮すれば、それなりのはたらきはするのかも知れない。例の機密費問題あたりを、ちょうど菅直人がエイズ関係資料の公開を実現したように、再度掘り下げてくれればそれでもいい。

 さりながら、この内閣、見せかけに幻惑されるほどの輝きがあるわけではない。(4/26/2001)

 小泉の自民党総裁就任、変化を待望するうねりととるのか否か。前にも書いたように、今回の「有権者」は、まず、国会議員、そして県会議員と県連役員、党員だった。地方議員と県役員の頭にあったのは7月に予定されている参院選でどのように戦えるかということだったに違いない。彼らは別に変化など期待はしていない。しかし、負けるのは困るのだ。党員といい、党友といっても、おおかたは職域団体といわれる利権誘導の所属。そう考えてみれば、今度の選挙を支配したのは敗北の恐怖感であって、変化待望論などではなかったと見るのが妥当なところだろう。(4/25/2001)

 自民党の総裁選。都道府県で行う党員投票の結果、小泉が123票を獲得、橋本15票、亀井3票、麻生0票。圧倒的な差のため、国会議員による明日の投票も小泉で決定という見方。

 テレビのニュース番組では「国民の圧倒的支持で・・・」などといっている。ちょっと待て、投票したのは自民党員であって、それ以外は関係ないぞ。もっといえば、亀井が3票を獲得した広島の場合は、「有権者」は県会議員と県連役員・支部長で一般党員・党友には投票権がない(いかにも亀井のお膝元らしいではないか)。馬鹿なことをいうでない。(4/23/2001)

 自民党の総裁選は、小泉が各県連の予備選で順調に票を獲得。小泉が21票、亀井が3票、橋本・麻生はいまだ0。末端の党員を含む投票とはいえ、これほど、小泉に票が集まるとは思わなかったというのが正直な所。(4/21/2001)

 河島英五、肝臓疾患で逝く。土曜日、三波春夫が逝き、それはどうということはなかったが、こちらの方は身近な歌手として悼む気持ちが強い。「酒と泪と男と女」、沁みる歌。

 それから、ついでに「雅子妃、懐妊」というニュース。ひと言書いておくとすれば、市井の婦人は妊娠七週間で「できた、できた」と騒いだりしない。公務欠席の理由を取りざたされるのを避けたいという事情があるというのなら、さらに言おう。普通の女性はこのぐらいの時期で一切の仕事を放り出すこともできない。

 かつてのこの国では、出産の直前まで農作業に従事することが当然だと考えられていた。また、それくらいでなければ、たくましい子供は生まれないものだとさえ言われていた。

 そこまで言おうとは思わない。現代では母性の保護は当然のことである。しかし、はやばやとカゴの鳥生活に閉じこめようというのは、雅子さんにとっても鬱陶しかろう。なぜ、誰もこれほど当然のことをいわないのだろう。(4/16/2001)

 ダメ森が辞めることになり、自民党の総裁選。麻生・橋本・亀井・小泉の4人が立候補。派閥議員の数では橋本が圧倒的に有利なのだが、いろいろなことがあって、各県連にも3票が振り当てられることになりこの票がどう出るかが興味といえば興味。(4/12/2001)

 オランダ上院で安楽死法が可決。既に昨年の11月に下院を通過しているので、国レベルとしては世界ではじめて安楽死が合法化されたことになる。もちろん、本人の明確な意思表示、治療方法がないなどのいくつかの要件が確認されることが条件ではあるが、生命を絶つことも個人の判断の範囲ということになった。

 法がまた一歩倫理の領域から遠くなったということ。(4/11/2001)

 休暇。もともとは**へ行こうかという話だったのだが、土曜日にしてくれということで、ぽっかりと空いてしまって、BSのメジャー中継を見た。

 イチローの試合が終って、中継がオリオールズ−レッドソックス戦に切り替わった。野茂が8回までノーヒットノーランできているという。9回、ワンアウト後の打者のあたりはふらふらとあがったセンター前のフライ、「アチャー」と思った瞬間セカンドが斜めにダイビングしてキャッチ。年に何度見られるかというようなファインプレイだった。そして、最後の打者は力のないレフトフライ。

 野茂は7年目になるいまも中継で見る限りベンチの中に日本人がいるという感じがする。はやばやと普通の投手としてチームにとけ込んだ感じの長谷川、まったく違和感を感じさせない新庄などとは好対照だ。しかし、マウンドの野茂と駆け寄る野手が抱き合い歓喜する映像は、まぎれもなく野茂がメジャーリーガーとして自立していることを示していた。

 野茂としては、96年ドジャースにいた時、対ロッキーズ戦で達成して以来、二度目。両リーグでそれぞれノーヒットノーランを達成したのは、メジャー史上4人目。夕刊によると、サイ・ヤング、ジム・バニング、ノーラン・ライアンに続く快挙とのこと。(4/5/2001)

 朝刊のトップは教科書検定結果に関するもの。焦点となっていた「新しい歴史教科書をつくる会」の扶桑社版の中学歴史教科書もダントツの137箇所の修正(他7社は13〜35箇所)を行って合格した。新聞各紙の社説を通読してみた。サンケイ新聞は身内の出版社が問題の教科書を出している関係もあって、いつもに輪をかけた馬鹿げたことを書いている。その末尾をHPからコピーしてみよう。

歴史は、自然科学のような法則に支配されているわけではない。祖先の活躍と挫折の歩みをありのまま学び、それを国の物語や思い出として後世に語り継いでいくものである。国際化が進む時代であるからこそ、子供たちが日本の歴史と伝統文化を愛し、同時に外国の歴史と文化にも理解を示す豊かな心を育てる教育が必要なのである。

 「手前勝手な屁理屈」がこの新聞の身上だとしても、「歴史は物語や思い出である」というのはなかなか思いきったものだ。

 並べて読んだ中では毎日の社説が司馬遼太郎の言説を引いて、まじめに扶桑社版歴史教科書を正面から批判していたが、読みながら龍之介や朔太郎の皮肉めいた言葉が、チラチラ、頭をかすめた。

 愚か者には「馬鹿」と一喝する、これにしくはないのだ。(4/4/2001)

 イチロー、メジャーデビュー。その打席を記録しておこう。第一打席、セカンドゴロ。第二打席、ファーストゴロ。第三打席、空振り三振。第四打席、ピッチャーの左を抜くゴロのヒット。第五打席、ノーアウト一塁のランナーに対する送りバントが内野安打。5打数2安打、「打率4割」騒ぎの中身はこれだ。(4/3/2001)

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