セリーグはあした開幕する。パリーグは既に先週土曜に開幕し、きのうまでの間に各チーム5試合を行っている。だがテレビのニュースの扱いはいまひとつ。NHKのニュースに至っては、パリーグの試合よりメジャーリーグのオープン戦を先に取り上げている。イチローが何試合だか連続してヒットを打っているというということにどれほどのニュースバリューがあるのか(オープン戦の絶好調はシーズン入りしてからのスランプのタネ)納得がいかないが、それ以上に自国の公式戦を他国のオープン戦以下と位置づける「国営放送」とはいったいなんなんだという気がする。中国とか朝鮮とかいうと常軌を逸して興奮する連中もこういうことにはあまり騒がないのが不思議。頭の中のネジが何本か抜けているか、じつに深いところまでアメリカのマインドコントロールを受けているか、どちらかだろう。(3/31/2005)

 日曜日のシステムトラブルの原因が分かった。先週アップデートされたPestPatrolの定義ファイルがあるべきシステム定義情報をペストと誤判定し、それを削除してしまったのが原因。ユーザサポートメールで分かった。ネットジャパンのホームページにもメール内容と同じ情報が書かれていた。

 いわく、「・・・が検出されますが、誤検出であることが確認されました。このペストを削除しますと、Windowsの様々な設定情報が初期化されてしまいますので、検出された場合は削除を行わないようにお願いいたします・・・」だと。おいおい、システムを安全に保ちたくて購入してるんだよ、しっかりしてくれよ。教訓。レジストリがらみはやみくもに「削除」してはダメ、とりあえずは「隔離」ぐらいの処置にしておくこと。

 それにしてもホームページに具体的なレジストリキーまで公開して「誤検知」などと「告白」してしまったら、チェックアルゴリズムを推定されてしまいはせぬか。同じホームページには親会社の買収などあってサポートが変わることが告知されている。きっとこの機会にさしたる変更でもないもののアップデート費を徴収するのだろう。ユーザにとってみればいい迷惑。もうそろそろ棄て時かな。(3/30/2005)

 **(息子)は「安全保障に関する懸賞論文」の表彰で防衛庁。夕食会まである由。

 「今後の国際社会において防衛庁・自衛隊が果たすべき役割」という課題テーマで優秀賞。一読しての印象は「ニーズにあわせて書いた解説記事」。しからば長官賞を与えられた論文はどの程度のものかと思って防衛庁のサイトで検索してみたが、今年度のものはまだ未掲載。

 昨年度のものを読む限りでは、根幹に関わる部分に対する突っこんだ考察はなにひとつ行うことなく、既に独り歩きしているかなり胡散臭い概念の多くを所与のものの如く受け入れ、論理操作をしたものがそろっているようだ。(例えば「テロとの戦い」という言葉ひとつでもいいから、専門性の穴蔵に逃げ込まずに、それが具体的にはどのようなものかを端的に明示してくれないものか)

 読んでいるうちに思い浮かんだのは今晩のニュースにあったリチャード・ギアと我が宰相小泉のダンスの映像。たまたま読んだ論文だけのことかもしれないが、人口に膾炙している「らしい用語」を相手にフリフリダンスをしているだけ。パートナーの本質に踏み込んで真剣勝負のような踊りをする気持ちはさらからない。だから踊りが終ればそれで終わり。あとにはきれいさっぱり何も残らない。

 もっとも世の中の懸賞論文などというもののおおかたはその程度のものと相場は決まっているといってしまえば身も蓋もない話だが。(3/29/2005)

 政治の理想を語るものに「鼓腹撃壌」という言葉がある。腹つづみをうち、大地をうちながら、老人は歌った、「日出而作、日入而息、鑿井而飲、耕田而食、帝力于我何有哉」と。お天道様が出たら農作業にいそしみ、沈んだなら休息する、井戸を掘って水を飲み、田を耕して収穫を喰らう、王様の力など俺にはなんの関係もない。それと気付かせることなく民の生活を成り立たせること。古人はこれを政治の理想とした。老人はおそらく意識なく歌った。心から思うからこそ、なんの濁りもなく、自然に口をついて。

 今晩の「クローズアップ現代」、タイトルは「国旗国歌・卒業式で何が起きているか」。都立深川高校を舞台にした卒業式・君が代・日の丸狂騒曲。ネズミ男のような顔をした都の教育長はしきりに「指導要領」と繰り返す。つくづく「君が代」は不幸な歌だと思う。職務命令で強制しないと歌ってもらえないのだから。強制なくば発声されないようなものを「歌」というのか。この疑問に対する答えはおのずから明らかだ。「嫌がらせソング」たる色彩を強めている「君が代」の現状をみるにつけ、左右を問わず愛されているらしい「ラ・マルセイエーズ」が羨ましくなる。やはり歌の出自が違うからかもしれぬ。

 そういえば「撃壌歌」の挿話には前段があった。身をやつして街に出た聖帝、堯が最初に聴いたのは「立我烝民、莫匪爾極、不識不知、順帝之則」(僕らが無事に暮らせるのは王様のおかげ、僕らは知らず知らずのうちに王様の決めたことに従っています)という子供の歌だった。瞬時、相好を崩した堯、すぐに子供の歌にしてはできすぎていると疑い、さらに歩き、老人の歌に出会い、心から安んじてわずか三段しかない宮廷の階段をのぼった。

 この子供の歌はどこか半島の北半分を占める国で連呼される「将軍様を称える言葉」に似ている。はたまた命令し強制して歌わせ、それを己が忠節の証と園遊会で自慢する輩が跋扈する。その心の貧しさもどこか彼の北の国の事情に相似ている。民の内心を奪い取って、いったいなんの足しにする気かと思えば心ふたがる。

§

 風呂に入りながら思い出したこと。森達也の本に書かれていたことだ。今上は「君が代」を歌わないらしいという話。件のネズミ男の論理に従えば、公務においては今上にも歌っていただかねばならぬはず。その時、今上に「職務命令」を発するのは誰で、今上がそれに従わぬ時は、どのように処分するのだろうか。最後は深夜の一人嗤い。(3/28/2005)

 トラブルが起きたのはお昼頃だったようだ。**(父)さんの見舞いから帰ってシステムを立ち上げると、まず卓駆がライセンス番号を入力しろといってきた。タスクバーも下にある。そういえば、出かける前、システムを落とそうとしたとき、壁紙が消えていて、スタートメニューのアイコンも消えていた。さして気にとめずシステムをそのまま落としたのがいけなかった。

 エクセルを起動するとインストールCDを入れろといってきた。手裏剣はアカウントの設定ウィザードから始まり、ノートンユーティリティもCDのセットを要求してくる。システムの復元をはかったが復元できませんでしたを繰り返すばかり。ドライブのバックアップは入院前にとったものがラスト。その後手裏剣のアップデートとコンセプトサーチのインストールなどをしている関係上、そこまでは戻りたくない。仕方なしに現状からの修復をすることにしたが、設定を忘れてくれたソフトがごっそり。やっと修復を終えたら零時をまわってしまった。XPになってもWindowsの不安定さは根本的にはクリアされていないようだ。死ね、マイクロソフト。(3/27/2005)

 社会技術研究フォーラムのシナジー・セッションに参加。テーマは「社会技術研究と組織統治についてコンプライアンスの視点から」考えるというもの。以下、メモ的感想。

 吉森賢の報告。企業理念から統治に至る事項を概観したもの。具体例としてあげたメドトロニック社の例はおりしも「会社は誰のものか」ということが話題となっているだけに興味深かった。「卓越した顧客満足をいかに実現するか?」という課題に対する同社の答えは「従業員に目的意識と使命感を与えること」。バークボーンとなっている「株主価値極大化の真の欠陥は大部分の従業員に卓越した成果を達成しようとする意欲を起こさせない点にある」、「私企業が短期的な株主価値を向上するために行動することは魂を売ることと同じ」などという言葉はこれが本当にアメリカ企業かしらという驚き。

 岡本浩一の報告。JCO臨界事故から東電シュラウド事故、三菱自動車リコール隠しまでの事例に共通するのは「属人思考」をベースとする組織風土。「属人思考」というのは「人」志向が極めて強い考え方、例えば「誰が提案しているか、推進しているかを重視し、あの人が言うのだから間違いがない、あの人のいうことなら従うしかない」といった「人」情報に基づいた意思決定が主流になるような考え方をさす。岡本はその弱点として、「案件の細部の検討がおろそかになる」、「反対意見が言いにくい」、「意見の貸し借りが起こる」、「イエスマンが跋扈する」、「組織の現状に関する認識が甘くなる」、「無理な冒険、無理な努力が強いられる」など、また、こういう風土の典型的性格として、「忠誠心を重視する」、「上下関係において公私のけじめが甘い」、「鶴の一声が多い」、「些細なことにも詳細な報告を求める」、「偉業が協調される」、「犯人捜しが好き」などをあげる。古くは旧日本軍、それほどさかのぼらなくとも、そのいくつかは日常よく見かけることがら。

(冗漫につき、中略)

 冨浦梓は報告よりはセッションに入ってからの発言の方がはるかに生き生きとして面白かった。とくに「CSRを無視することによって削減した費用と損失に関する話など。プラスマイナスで損をしたのは雪印、日本ハム、得をしたのは東電、JR西日本だった。前者は消費者に選択権のある分野の企業で後者はない分野の企業だった」というあたり。結局のところ何らかの法的な措置がなくてはことは解決しないということ。(3/26/2005)

 午前中、三番町で個人情報保護分科会。施行まであと一週間前。どうにかここまでこぎつけた。午後、半休をとり、西洋美術館で開催中のラ・トゥール展を見に行った。

 パンフレットの冒頭にはお決まりといえばお決まりかもしれないけれど、それでも実現にこぎつけた担当者の熱い言葉が載っていた。

・・・豊富なコレクションを持つ欧米の美術館はともかく、極東の小さな一美術館が、最大級の国際的評価を受け、借り出せる作品が極めて限定されている作家の『個展』をすることは、ほとんど考えることができなかったのです。・・・(中略)・・・
 その原動力となったのがまさに、ラ・トゥールの真作をコレクションに持っている、という事実でした。ある作家の重要作品を収集に加え、それを核にして展覧会を開く・・・。展覧会開催に際してはこれ以上の説得的な理由は見当たりません。しかしこれは当たり前なようでいて、実はなかなか出会うことのできない展覧会の開催形態なのです。なぜなら、わが国の西洋美術品コレクションの大部分は、印象派やバルビゾン派、エコール・ド・パリを中心にした一部の近代作家に偏っているからです。多くの欧米の美術館では、展覧会はお互いの所蔵する作品を融通し合うことによって成立していますが、それは豊富な所蔵品の存在が大前提です。ですから、本来日本で欧米の古典美術の大展覧会を開くこと自体が、かなり無理のある力技なのです。

 口実にしたのは真作が世界的にも40点足らずという中で我が西洋美術館が入手した「聖トマス」。困難を予想した各国の美術館との交渉は、「嬉しいことに、多くの美術館がわれわれの趣旨に賛同してくれました。残念ながらアメリカの美術館の協力はあまり得られなかったものの、どの美術館にとっても貴重な筈のラ・トウール作品を、はるばるわが国に貸すことに同意してくれる所がかなりの数にのぼり」、企画は実現した。仮にフランスに住んでいても相当骨を折らねばならないことが一気に適ったのは、この国の自力がありがちなレベルを少し超えたところにまで至りつつある証左かもしれぬと、いささか胸を張るような気持ちで会場に入った。

 収穫は「荒野の洗礼者聖ヨハネ」と題する絵だった。一見してラ・トゥールの他の絵と違っているのはフレームの中に光源が描かれていないこと。道具立てについての話は書く必要もない。彼の絵は中心となる人物のまわりを静寂の世界が支配しているというものが多いが、これはもうそういう雰囲気からもさらに遠く隔絶している。フレームの外にある光に向き合っているのは邪気のない子羊であり、子羊に餌を与える故か、別に故があってか、光を背に受けるバプテスマのヨハネの顔は暗みの中に溶けている。きっと折々に思い出されるに違いない、そういう絵だった。(3/25/2005)

 最初並みの経済小説よりは面白いと思った。先週あたりはLBOなどという荒技の話もあって、経済小説よりはM&A周辺技術の教科書かなぁという気になっていた。しかしきょうの成り行きでまた抜群の経済小説に戻ってきた。

 きのう一敗地にまみれた感のあったフジサンケイグループ、起死回生の一手はソフトバンクだった。ニッポン放送、フジテレビ、ソフトバンクインベストメントの三社でブロードバンド分野のベンチャー企業に投資する新会社を興し、その目的のためにニッポン放送が持つフジテレビの株のうち既に大和証券SMBCに貸した分の残余をすべてソフトバンクインベストメントに議決権つきで貸し出すというもの。期限は5年間、しかも貸借関係は不可逆、つまりソフトバンクインベストメントはいつでも株の返却が可能であるのに対してニッポン放送側は返却の申し入れはできないという内容。

 おそらくその筋の専門家が知恵を絞って考えたのだろうから穴はないのだろう。ただそれはライブドアに対する防衛策としてであって、もしソフトバンクインベストメントが送り狼になった場合は想定されているのかしら。どうもフジサンケイグループの経営陣にはうっかりぽっかりの穴がそこここに開いていそうで、他人事ながら心配。(3/24/2005)

 高裁の決定もライブドアの差し止め請求を認めた。内容的には「緊急避難」措置の正統性に関する立証が不足しているというニュアンスが強かった地裁決定以上に峻烈な印象さえ与えるものだった。例えば、5−(2)−ア−(ウ)項にはこのような文言が書かれている。(ここで債務者とはニッポン放送、債権者とはライブドアをさす)

・・・(前略)・・・債務者が債権者の子会社となり、フジサンケイグループから離脱した場合に、債務者の取引先やフジサンケイグループ各社から取引を打ち切られるのは当然であり、そのような取引の打切りは独占禁止法違反に当たらないと主張する。
 しかしながら、債務者は、債権者が債務者の経営支配権を手中にした場合には、フジテレビ等から債務者やその子会社が取引を打ち切られ多大な損失を被ることを主張しており、このことは有力な取引先であるフジテレビ等は取引の相手方である債務者及びその子会社が自己以外に容易に新たな取引先を見い出せないような事情にあることを認識しつつ、取引の相手方の事業活動を困難に陥らせること以外の格別の理由もないのに、あえて取引を拒絶するような場合に該当することを自認していると同じようなものである。そうであれば、これらの行為は、独占禁止法及び不公正な取引方法の一般指定第二項に違反する不公正な取引行為に該当するおそれもある。・・・(中略)・・・
 そもそも、フジテレビが株式の公開買付けの期間中に、公開買付けがその所期の目的を達することができず、敵対的買収者に株式買収競争において敗れそうな状況にあるとき、公開買付価格を上回っている株式時価を引き下げるような債務者の企業価値についてのマイナス情報を流して、公開買付けに有利な株式市場の価格状況を作り出すことは、証券取引法159条に違反するとまでいわないとしても、公開買付けを実行する者として公正を疑われるような行動といわなければならない。

 ニッポン放送は最高裁への不服申し立ては行わないと発表した。それは申込期日はきょう、払込期日をあしたにひかえて、もはや実効的な意味がなくなったこともあるのだろうが、相応の時日があったとしても裁判所にこうまで書かれて、なお上訴したかどうか。

 それにしてもフジサンケイグループの姿勢は少し異常だった。先年「チーズはどこに消えた」という本がベストセラーになったことがあった。「変化を恐れてはならない。変化を恐れて自分の殻に閉じこもらずに積極的に新しいチーズを求める気持ちがないといずれいまあるチーズも失ってしまう」というような寓意を語ったもので、従業員に対するビジネス教育の教科書としてもてはやす声もあった。ニッポン放送の従業員もフジテレビの従業員もあの本を読まされなかったのだろうか。同じフジサンケイグループの出版社である扶桑社から出ていたベストセラー本だったのに。紺屋の白袴か。

 あえて書けば、ニッポン放送の従業員はもちろんフジサンケイグループの各社の従業員は神経質になることなどない。一ユーザとして、ライブドアの前身、オン・ザ・エッジとやり取りした経験に従えば、おそらくライブドアとフジサンケイグループ各社の間に隔たりはない。金儲け優先、たいしてカネを落とさない顧客には極めて冷淡、問い合せに対して慇懃無礼、これらの特性は君たちにとってはおなじみのものだろう。ライブドアがどのように君たちと関わるようになろうと君たちが変わる必要はない。いままで通りうわべは大衆に媚びながら腹の底では見下して衆愚統御を続けられるさ。きょうのホリエモンのバカ丁寧な会見を見れば分かったろう、フジテレビのそれと同じではないか。(3/23/2005)

 けさ配信された日経BPメール朝刊に、日経ビジネス掲載の「ライブドア騒動の陰で潜行するメディア進出、楽天がフジサンケイに接近」という記事の紹介が載っていた。

 その端緒は昨年秋、M&Aコンサルティング(村上ファンド)代表の村上世彰からの話だった。
 「うちの持っているニッポン放送株を全部引き取らないか」
 三木谷は村上の申し出を受け、すぐフジテレビジョン会長、日枝久に面会を申し込む。敵対的買収の画策などと思われたくなかったことと、フジテレビ側の感触を確かめるためだった。
 日枝は知らせてくれたことに感謝しつつも、ニッポン放送株問題は、フジサンケイグループ内で解決できると回答。そして楽天側が望んだ業務提携についても「ぜひ進めたい」と応じ、両者の交渉はプロ野球問題で一時中断したものの、継続されていた。
 その関係が一層密になったのは、ライブドアによる29%を超えるニッポン放送株の大量保有が発表された直後だった。フジテレビ側と楽天はライブドアの発表の2日後、今年2月10日から実務者同士が接触していた。
 「大変なことになっちゃうんじゃないですか」
 楽天側の心配をよそにフジテレビ側は事態を楽観しているようだった。
 「ライブドアの案件はそんなに切迫した問題ではないんじゃないですか」

 こういう話だとすると、フジテレビ側が頑なにライブドアからの話し合い要請を拒否し続けた経緯も理解できないではない。楽天はあとから来たわけではなかったのか。とすれば、いくつかの裏読みは完全に外れたことになる。(ところで、誰しも茶々を入れたくなろう、「楽天的だったフジテレビ」と

 だがこの記事を額面通りに読めるかとなると、少しばかり疑問が残らないではない。先週報ぜられた村上グループの大量株保有報告書に関するニュースでは村上は「ニッポン放送株を全部」処分したわけではなかった。さらに投資家セミナーの場で彼は6月のニッポン放送株主総会に出ることを予告している。村上は去年の株主総会において亀淵に発言を遮られたことをかなり根に持って執念を燃やしているという報道も一部にあり、これとあえて3.44%の株を手許に残したという事実は符合している。

 それに対し日経ビジネスの記事は説明としてはうまくできているものの、記事を裏付ける傍証に乏しい。もともと記事は楽天の放送メディアに対する関心を伝えるものとして書かれており、正面から楽天・村上・フジテレビの動きを取り上げたものではなく話のマクラとしてのエピソードというスタイルをとっており、なんとなく後付説明の匂いがしないでもない。さて、真実は・・・。(3/22/2005)

 ホームページの更新をしてから**(父)さんを訪問。

 病室ではなく、廊下の突き当たりのコーナー、テレビで相撲中継をやっている。**(父)さんを含めて数名が同じように車イスに座って見ているのだが、取組みに集中しているわけではない。ぼんやりと眺めている感じ。一人だけ、テレビではなく、けっこう力のある視線でこちらを見ている。見つめられているような気がして、ちょっとイスを移してみる。視線の向け先は変わらない。べつに注視されていたわけではないようだ。**(父)さんはどうも転院してからは元気がない。まわりがほとんど同じ年代、同じ境遇の人ばかりになってしまったことが原因なのだろうか。

 なんとかコミュニケーションをとりたいと思うのか、いろいろのことを言うのがかえって痛ましい感じ。少しいたたまれない気持ちで、「ラジオがいいかな、それとも音楽か何かがいい?」と訊く。「・・・(ややあってから)、音楽」、「CDなんかだと掛け替えたりするのが面倒だから、そのまま聴けるのがいいかな?」、iPODシャッフルのようなものを思い浮かべながら訊いてみる。「どんなのがいいかな、歌?」、「ドボルジャークの・・・」、内心(エッ?!)と思いながら、「クラシックがいいの?」、「カルメンの・・・」、「うち、オペラはあんまりないんだよね」(そんなこと言っても会話が成り立つわけではないのだが・・・)。

 小一時間の滞在。だが病院を出るときには疲れがべっとりと被さってくるようだった。(3/21/2005)

 モモの質問にマイスター・ホラは答えた、「彼らは人間の時間をぬすんで生きている。・・・人間というものは、ひとりひとりがそれぞれの自分の時間を持っている。そしてこの時間は、ほんとうにじぶんのものであるあいだだけ、生きた時間でいられるんだよ」と。

 けさの天声人語を読みながら、エンデの「モモ」の一節を思いだしていた。書き出しはレストランで同席した外国人青年の描写から始まる。起承転結はこうだ。

【起】 「青年は割りばしでご飯を少しずつつまみ、カレーに浸してゆっくりと口に運んでいる。皿のそばに、みそ汁もあった。」
【承】 「短い人生。みんな同じ。急ぎすぎて失敗するより、ゆっくり生きた方がいい」、「私たちはスピードに束縛され、誰もが同じウイルスに感染している。私たちの慣習を狂わせ、家庭内にまで入り込み、『ファーストフード』を食することを強いる『ファーストライフ』というウイルスに」というスローフード運動の話。
【転】 「ファストフードの国からは、ライス国務長官が来日し、牛肉の輸入再開を訴えた」。「日本の検討のプロセスは信じられないほど遅い」というアメリカないしはそれを代弁する人の言葉の紹介。
【結】 「カレーライスを食べ終えてそそくさと席を立ったが、青年の皿には、まだたっぷりと残っていた。」と、天声人語子はファーストフードカルチャー圏にいるらしい。

 ファストフードこそアメリカンライフの象徴なのだろう。アメリカ的生活といえば、それがグローバルスタンダードだというのが定説。しかしファストライフとは、時間泥棒に盗ませるだけ自分の時間を盗ませて、いつも「時間がない」、「遅いぞ」、「そんなにとろとろしていると競争に負けてしまうぞ」、・・・、「(だから)ファストフードはすばらしい」、・・・、そうやって、自分の心をすり減らしながら、常に人を出し抜くことを考えて、短い人生をよりいっそうせわしなく生きる、そういう生活スタイルに他ならない。だから、見るがいい、ミス・ライスの顔と目つきを。あんな下品な面構えとあんな凶悪な目つきが巷間に満ちあふれるような、そんな社会のどこが理想なものか。(3/20/2005)

 最悪の睡眠だった。きのうは日中の移動が多かったせいかもしれない、もろに花粉を吸い込んだものらしい。鼻がつまり、喉がひりついて目が覚めた。居間におりてきて、サイダーを飲んだが、くしゃみと鼻水が止まらない。どうにも眠れずに未整理の新聞を読むともなく読んでいたら、江間章子の訃報にゆきあたった。「夏の思い出」が一番有名なのだろうが、「花のまち」も棄てがたい佳作だった。作曲は團伊玖磨。この曲は團自身にとっても想い出の曲だったようだ。彼の「好きな歌・嫌いな歌」にはこんなくだりがある。

 戦争が終わって暫くの間は、東京目黒の碑文谷の奥に住んでいた。生垣で区切られた隣は野田さんというお宅で、そこのお嬢さんはNHKに勤めているという話だった。或る日、生垣の木戸が開いて、可愛いお嬢さんが訪ねて来て、
「作曲の勉強をしていらっしゃると伺ったのでお訪ねしたのですが、NHKの婦人の時間のためにこの詩に作曲していただけませんか」
 と言った。
 詩は江間章子さんのもので、題は「花のまち」としてあった。
 東京はその当時空襲の惨禍と戦後の混乱で、文字通り瓦礫と闇市に填が濛々としていて、とても「花のまち」どころでは無かった。お隣のお嬢さんは、こういう時ですからこそ、夢のある歌が必要だと思うのです。今に、自分達の街にも花の咲く時が来るという夢と希望を持つ事は大切ですわ、と言った。
 江間さんと逢って相談をした上で、作曲はすぐに出来てNHKから全国に送られ、やがてその歌はNHKの午前十一時十五分から四十五分迄の「メロディーに乗せて」という婦人番組のテーマ音楽となり、番組の前後に二回宛、十一年間日本中に流れる事となった。
・・・(中略)・・・
 この歌を聞くとお腹が空くわ、と言う何人もの中年の女性に逢った事がある。戦後の空腹時代に、お昼に食べるものが無くて因っていた時に、時間帯の関係でいつもこの歌がラジオから流れて来たので、パブロフの条件反射のように、この歌のメロディーを聞くとお腹が空くのだそうである。
 三十年後、今日本の街々には美しい花が咲く季節が訪れている。
 桜も、チューリップも、ヒヤシンスも、方々に美しく咲いて、春が一杯だ。

 冒頭の「七色の、谷を、越えて」という部分の旋律が良くて、好きな歌だった。いや、いまも好きではあるのだけれど、花粉症になってから「春」という季節は、諸手を挙げて歓迎し、気分を高揚させるだけの季節ではなくなってしまった。でもやはり口ずさんでしまう、「花のまち」はじつにいい曲だ。

 ・・・輪になって、輪になって、かけていったよ、春よ春よと、かけていったよ・・・。(3/19/2005)

「花のまち」のリンクは、直接、この曲、関係の頁になっていますが、これが収録されているサイトがとても素敵なので、ご紹介します。「二木紘三のMIDI歌声喫茶」です。

 各紙がすべて社説に「竹島の日」問題を取り上げている。いつもの如く嗤えたのはサンケイの「主張」だった。きょうの社説はサンケイにしては珍しく理路整然としている。表題は「竹島の日:なぜ韓国は提訴に乗らぬ」、論旨は「国際司法裁判所の判決にしたがって決着をつけよう」というもの。一読、穏当といえば至極穏当なもの。これがサンケイや読売以外の社説なら、小さく「理性がわたしに教えたものは畢竟理性の無力だった」と呟いて新聞を置くところだ。

 なぜサンケイが主張すると嗤うか。それは「都合のいいときだけ、国連を持ち出すんだね」と思うからだ。国際司法裁判所は国連の主要機関のひとつだ。一昨年イラク戦争を急ぐアメリカが国連を時代遅れの機関と見なす発言を繰り返したときサンケイはどのように主張したか。アメリカの口まねをしたのではなかったか。国連が時代遅れの機関ならば、それに属する国際司法裁判所も時代遅れの機関ではないのか。

 もうひとつ書いておこう。仮に韓国が同意して国際司法裁判所の判断が示され日本の領土と認められたとして、日本の領有はどのようにして保証されるのか。サンケイも「国際司法裁判所の判決に絶対的な拘束力はないにしても」と書いているではないか。国連の安全保障理事会の決定ならば武力を行使しても決定を実現するプロセスは許容されている。しかし国際司法裁判所の決定にはそのような保証事項はない。サンケイが時代遅れで無力といった安保理事会決定よりも、サンケイが主張する国際司法裁判所決定の方がさらに無力(先ほどの呟きはここに由来する)なのだ。それかあらぬか、先年、サンケイと同じようにアメリカの口まねをした読売の社説は国際司法裁判所についてはひとことも触れていない。

 イソップのコウモリが嫌われるのには理由がある。サンケイ新聞社説子はコウモリだ。

 サンケイはさらに「竹島は江戸時代から伯耆藩の漁民が幕府から拝領し、実効支配してきた」と書いているが、おそらくそのような史料は韓国側にもたんとあることだろう。どちらが歴史上先かなどという史料争いを始めたら日本は勝てるわけがない。なぜなら文字で記録することは大陸から教わったのだから。先例争いは先に文字を獲得していた方が圧倒的に有利であることに留意しておいた方がいい。

 サンケイ新聞社説子には想像力が欠けている。まるでどこぞのサル面の大統領と同じで、なりは人間でも知能はエテ公なみなのかもしれぬ、可哀想に。

 では竹島はどうするか。共有管理以外に真に現実的な解決策があろうとは思えない。(3/17/2005)

 いつものメンバー(マイナス**)で飲み会。名目は「快気祝い」なるも単なる名目は明らか。帰宅、12時少し過ぎ。

 見損ねたニュースをインターネットで見ていたら、島根県議会の「竹島の日条例」可決に抗議文を血書しようとした韓国国会議員がカッターナイフを取り上げられるシーンがあった。「ほう」と思った。

 この国の右翼屋さんたちは、「南京大虐殺なんかマボロシだ」とか、「日本が統治したおかげで近代化が促進された」とか街頭では大声でがなり立てるが、南京あるいは京城まで出向いてアピールしたという話はとんと聞かない。肝心の相手方のところで正々堂々主張をすることこそ意味のあることだろうに、したくないのか、できないか、内弁慶もいいところ。

 彼の国の議員さんは直接本丸まで乗り込んで、そのうえ血書までしようというのだから、なかなかどうしてたいしたものだ。もっとも彼の国にこの国のような安全性が確保されているかどうか、それについては分からないから、我が右翼屋さんたちを「臆病者」とまでいう気はないけれど。

 ライブドアによる差し止め請求の異議申し立てに対し地裁は却下決定。ニッポン放送は高裁へ抗告。(3/16/2005)

 フジテレビが年間配当をこれまでの1,200円から一気に5,000円にアップした由。そういえば今月初めあの新日鉄がこれも一気に3円50銭もアップして5円にしたというニュースが伝えられていた。

 森嶋通夫の「なぜ日本は没落するか」の一節にこんな挿話があった。LSEに寄付されたカネの扱いをめぐってイギリスと日本の理事の意見が対立する。イギリス側は「土地のような危険なものに投資するなんて」と言うのに対し、日本側は「株のような危険なものに投資するなんて」と言ったというのだ。

 株に対する我々の不信感は根強い。企業収益はなかなか配当には向わず内部留保される傾向が強いため、株は株価の上下による利益以外は儲からないもの、つまり博打同等のものと見なされてきた。だから政府が預金にさまざまの嫌がらせをして、カネを株市場へ誘導してもなかなか思うようにならない。だが配当がこれほどあるものとなれば相当の預金が株式市場に流れる込むようになるかもしれない。ホリエモン・ショックは、いかがわしい感じがぬぐえないタケナカなんぞの猫なで声の勧誘より、はるかに強力な株式PRを引き出したのではないか、と思うと可笑しくてならぬ。(3/15/2005)

 きょうもライブドア対フジテレビ。といってもその裾野について二件。

 ひとつはポニーキャニオンの扱いについて。午前中ニッポン放送の亀淵社長が保有するポニーキャニオン株をフジテレビに売却することを検討していると発言し、午後になってポニーキャニオンがフジテレビを引受先とする第三者割当増資を検討中とのニュース。どうもフジサンケイグループの中は司令塔不在で右往左往しているような印象。

 もうひとつ。株主が東電に対してフジテレビTOBに応じた取締役に損害賠償を求めるよう催告書を送付した。損害額は1億円。受け取った東電は「内容を拝見した上で、真摯に対応したい」との談話を発表した由。これを聞いて「財界のおつきあい」程度の感覚でTOBに応じた何社かの役員は首をすくめているに違いない。彼らをサポートするスタッフはなんとかクリアしてみせるだろうが、そのために蕩尽される人的・時間的リソースはバカにはならない。時代感覚のずれた役員はもはや余分な仕事を作るだけの「お荷物」になっているのだが、こういう手合いに限って自分を「たいした人物」のように思っているから処置なしなのだ。

 最後に、地裁決定文の欠番について、きょう、日経サイトを参照してみたら、「(エ)小括」は「(ウ)小括」に訂正されていた。どうやらこれも日経のインプットミスだったようだ。(3/14/2005)

 「新宿を通りかかったらさ、右翼の街宣車がウジャウジャ来てて、堀江批判をがなり立ててたよ」と**(息子)のレポート。右翼屋さんにとって見ると、フジサンケイグループさまに弓引くような奴はみんな国賊なのかもしれぬ。もっとも彼らがどこまでそう信じているのかは分かったものではない。職業右翼はカネをくれる者には尻尾を振るクセが骨の髄から染みついている。なんでもカネで買えると豪語する堀江がカネを出せば奴らは日枝批判をがなり立て始めるだろう。もっともコストパフォーマンスの悪い右翼屋さんに堀江がカネを出すかどうかは疑問だが。

 きのうネット証券会社が開催したセミナーの講演で村上世彰は「なかなかお目にかかることはないと思いますが6月にチャンスがあります。ニッポン放送の株主総会です。いまの株価ならば63,000円で私の話が聴けます」と言った由。ということは村上ファンドはまだなにがしかのニッポン放送株を保有しており、株主総会での出番を策しているということだ。この件に関する限り、当分の間、退屈することはなさそうだ。

 新聞のテレビ欄の「EZ!TV」には「ニッポン放送新株差し止め・・・今後の行方」とある。やっとフジテレビもこのネタを取り上げることにしたようだ。興味津々、さあ、風呂に入って、番組に備えようか。

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 「EZ!TV」はなんということもない平凡なものだった。あまりにも平凡なものだったことが逆に疑問を生んだ。この程度のものさえ一月以上ものあいだオンエアできなかったのはなぜだろう、そういう疑問だ。

 おりしもフジテレビは堀江をレギュラーに迎える番組の制作も進んでいた由。「面白くなければテレビじゃない」を標榜するフジならば、時の人ホリエモン、まさにグッド・タイミング、番組内で堀江にしゃべらせたり、お茶にするなどいくらでも「面白がる」ことはできたはず(ライブドアとの提携が企業価値を損ねるという傍証をそのままお茶の間に見せつければ火はとっくに消えていたかもしれない)。しかしフジテレビだけではなくフジサンケイグループは頭の先から尻尾まで凍り付いてしまっていた。まるで銃を突きつけられて、「Freeze !!」と命ぜられたかのように。

 考えつく答、それは「フジサンケイグループの急所をつかれたから」。フジサンケイグループの両輪は、エンターテイメントのフジテレビとイデオロギーのサンケイ新聞。ともに知的ないしは経済的に不自由な人々(「体の不自由な人々」という表現と同じ)を誑かして自民党に代表される政治勢力に盲従させることを責務としている。

 ライブドアがニッポン放送株35%取得を電撃的に発表した翌週、月曜日に発売された「AERA2月21日号」に「堀江のフジサンケイ支配:産経新聞は経済専門、SPA!・サンスポ優遇でエンタメ全開/マネーマジックの真相」という記事が載った。見出しで知れるように堀江はじつに的確にフシサンケイグループのキンタマを掴んで見せた。痛いところをついていたこと、そして朝日の週刊紙に載ったことがフジサンケイグループの冷静さを奪ったのかもしれない。

 堀江が意図してそうしたのかどうかは分からない。もし巧んでそうしたというなら絶句する他はない。冷静さを失ったためにフジサンケイグループは致命的な硬直モードに入ってしまった。堀江が繰り返し「敵対的な買収ではない、提携について話をしたい」と言い続けたのに対し、フジサンケイグループ側は一切の話し合いを拒絶して地裁決定を迎え、第一ラウンドは圧倒的にライブドアにポイントを稼がせることになった。

 フジサンケイグループは財界や既成政治権力がまだ自分たちを評価しており高裁ではその力が発揮されると考えているのかもしれない。だがいまの財界は必ずしもかつて鹿内信隆を評価したほどにフジサンケイグループの存在価値を評価していないという可能性についてもまた考慮しておくべきかもしれない。(3/13〜14深夜/2005)

 日経朝刊の12面に仮処分決定の内容が載っている。昨夜の疑問点を当たってみたが、朝日新聞掲載のものよりは詳しいものの「全文」ではない。しかも「3−(2)−ウ−(ア)−b」については、「略」の断りなく、前後の文章をつなげて掲載していた。「抜粋」とか「要約」と名乗ってもらえば、そのように読むからいい。しかし随所に「略」などとふりながらの内容掲載であるとこちらは「資料」として扱いたくなるではないか。

 どのように日経が編集したかを下記に記録しておく。対象部は昨日の箇所。

(略:債務者の従業員らが債権者が支配株主となることに反対を表明しているところ(乙56、57)、放送事業者において、人的ネットワークや各種特殊技能を用いて番組の企画制作や営業に当たる従業員は、極めて重要な役割を担う利害関係者といわなければならない。しかし、)債権者が債務者の従業員らに対し、これまで自らの事業計画を説明したことはなく、債務者の従業員らが反対しているのは債権者代表者の発言を捉えてのことであること、債務者はこれまで数多くの企業を買収してきたが、買収に伴って従業員らを解雇したことはなく、買収後直ちに雇用条件の見直しを進めたことはないこと(甲29、甲75)を考慮すると、債務者が債権者の子会社となった場合に、債権者が従業員らと十分な協議を行うとともに、真摯な経営努力を続けたとしても、債務者の従業員らの大量流出が生じることが明らかであるとはいえない。

 下線部は「略」と断った部分、また呼び出し資料番号は煩雑なだけだから明示しなくとも問題はない。しかし消し線を施した部分(朱記部)については断りなく文言が略されている。これでは資料的な価値は零になる。いや、「編集してあるもの」をあたかも「編集していないもの」と思わせる点で価値はマイナスにさえなってしまう。日経といえばそれなりと思っていただけに、がっかりさせられた。

 朝刊記事では解決されず、どうしても気になって、**(父)さんのところへ行く前に、日経に電話をしてきのうの疑問をぶつけてみた。じつに電話は3回も「お待ち下さい」と「担当セクション」間を引き継がれ、それぞれの答を総合すると、@「債権者の誤記では?」は「誤記」、どうやら日経のインプットミス(夜になって、件の頁を再確認したら既にしっかり「債権者」に訂正されていた)らしい、A「ウ項の脱落について」、地裁プリントが既にイ項→エ項に飛んでいるものらしい、B「この手のことは仮処分決定などの文書ではよくあることなのか?」という多少引っかけの質問には「分からない」という慎重かつ当然の返事(これはいい加減な推測をいわないという点では評価できる。経験的に言って、こういう引っかけの質問に手もなく転ぶのは「サンケイ新聞」)だった。

 フジテレビの日枝会長は未明になって恒例の門前会見を行い「私自身が会う気はないが担当役員は前から会うと言っている。株主価値が高まるのなら提携はやぶさかではない」と述べた由。これをとらえてフジテレビ側も軟化するのではないかと観測している向きもあるようだが、仮処分決定から半日以内、しかもわざわざ「未明」に行ったことを考慮するならば、「意図」があると考えるのが自然だろう。

 地裁決定には「あなた方、食わず嫌いなんじゃないの」、「その努力をした上で、やっぱり緊急避難が必要だと言ったら、どう」というようなニュアンスがチラチラしているように思えた。日枝の「緊急会見」は次なる高裁での争いのための布石かもしれない。

 新株予約権の申込期間は3月23日。その日までに示された裁判所の一番新しい判断が有効ということならば、時間的にはライブドア有利かもしれない。地裁の論理の延長上で闘われるとすれば、フジサンケイグループには反論資料の準備が相当の負担となるだろうし、地裁が二週間以上かけて構築した論理を高裁が一週間足らずで根本から覆すためにはやはり相当の時間を要するだろうから。

 とすると、時間外取引に関わる場面での違法性がなんといっても「緊急避難」論としては組み立てやすそうだから一番手軽な戦場になるのではないか、と、素人の予想。(3/12/2005)

 残業規制日。PCの電源を落とす前に「新聞各紙」というタブを叩いた。「ライブドアの差し止め請求を認める」という見出しが飛び込んできた。「純粋法律論ならライブドア、感情論ならフジテレビ」(「感情論」という言葉はぴったりではない。「諸般の事情」から「理」を立てないくらいの意味)、でも、この国の裁判所はとかくに大きいものの肩を持つ・・・、と思ってきたから少し意外な感じがした。

 ニュース映像を見ながら、「一時的とはいえ、敗北の弁は亀淵かぁ、サラリーマン社長は大変だね」などと思いつつ、おそらくは、顔色を変え、口角泡を飛ばす議論をしているであろう日枝会長の姿を想像。いや、いまこの時間忙しくしているのは法務スタッフ、会長は仮眠中か。

 ニュース23まで見終えてから日経のサイトに仮処分決定の全文が掲載されているのを見つけて読む。長い文書を画面で読むのは骨が折れる。こういうものを読むのははじめてだから、そう思うのかもしれないが、両者の主張を要約して、「・・・とまでは言えない」という理屈で結論。二週間以上もかけたものの割にはずいぶん平板なものという印象。**(弟)がいれば「こういうもんなの?」と聞きたいところだ。

 一箇所、誤記ではないかと思うところがあるので、記録しておく。
    「3.被保全権利の存否について」
      「(2)本件新株予約権発行が不公正発行といえるかどうかについて」
        「ウ.企業価値の毀損のおそれについて」
          「(ア)債務者が債権者の子会社となることによる損失」
            「b.人的資産の毀損」
に関する文言の一部。(こうしてインデントをきっちりつけないと、どういう文脈の中でいま自分がどこを読んでいるかが分からなくなってしまう。これは裁判所から渡される文書ではどうなっているのだろう。プロはそんなことをしなくとも、たちどころに理解できるものなのだろうか)

 債務者の従業員らが債権者が支配株主となることに反対を表明しているところ(乙56、57)、放送事業者において、人的ネットワークや各種特殊技能を用いて番組の企画制作や営業に当たる従業員は、極めて重要な役割を担う利害関係者といわなければならない。しかし、債権者が債務者の従業員らに対し、これまで自らの事業計画を説明したことはなく、債務者の従業員らが反対しているのは債権者代表者の発言を捉えてのことであること、債務者はこれまで数多くの企業を買収してきたが、買収に伴って従業員らを解雇したことはなく、買収後直ちに雇用条件の見直しを進めたことはないこと(甲29、甲75)を考慮すると、債務者が債権者の子会社となった場合に、債権者が従業員らと十分な協議を行うとともに、真摯な経営努力を続けたとしても、債務者の従業員らの大量流出が生じることが明らかであるとはいえない。

 ここで「債務者」とはニッポン放送であり、「債権者」とはライブドアのこと。朱記部はどう考えても「債権者」でなくてはならないはず。地裁の文書は電子データで渡されるのかしらん、それとも紙を入手した日経のインプットミスなのかしらん。

 他にも、この「3−(2)−ウ」節の中で(ウ)項は脱落し、「(イ)債務者が債権者の子会社となることによる収益の向上」の後には「(エ)小括」が続いている。単純な間違いなのか、(ウ)項はあるものが掲載されていないのか、もともとあったものが削除された名残なのか、重箱の隅が気になる。

 ざっと全文に目を通すと、読み方によっては、「フジサンケイグループさん、『緊急避難措置』の必要性の立証が十分ではないですよ」というようにも読める。上に引いた部分にも「債権者が債務者の従業員らに対し、これまで自らの事業計画を説明したことはなく、債務者の従業員らが反対しているのは債権者代表者の発言を捉えてのことである」というくだりがあるし、証券取引法違反に関する検討には「本件新株予約権の発行を正当化する特段の事情があったとまでは認めるに足りる疎明はない」という書き方も素人には素直な断じ方とは受け取りにくい。ということは、ここをポイントに第2ラウンドに進んだ場合、判断が覆る可能性はまだあるのではないか。この争い、まだまだ十分に楽しめそうだ。それにしても、けっこう楽しい知的ゲームの世界。「男は理科系」などと思いこまずにこういう方面に進むのも面白かったかもしれない。(3/11/2005)

 朝日新聞−NHK−安倍晋三のさわぎがあったとき、TBSラジオの「アクセス」でこんな「意見」を聴いた。「公共放送であるNHKの番組内容について事前に国会議員が説明を受けるのは当然だ、国会議員は国民が選んだ選良なのだから」。そのとき志位和夫が放送前にNHKの番組内容について教えろと主張してもこの人は「当然だ」というのかしらと思いつつ、いまどき「国会議員は選良だ」などとはいったいどういう感覚をしているのかと嗤ったものだった。あの彼もさすがにきょうのニュースを聴けば己が不明に恥じ入るのではないか。

 そのニュースとは東京四区(たしか石原慎太郎の選挙区だった)選出の自民党代議士、中西一善が強制わいせつの現行犯として逮捕されたというもの。路上で女性に抱きつき服に手を入れ胸を掴んだというのがその犯行。そして呼び込みの女性と誤解したというのがその釈明。犯行もひどいが釈明もまたお粗末だと呆れていたら、この事件の感想を求められた同選挙区の中年女性、「中西さん、酔ってたんでしょ、そんな夜中に道ばたに立っている女も女よね」(被害者の名誉のために記録しておくと、件の女性は連れだって歩いていた男性が携帯電話に出る際に少し離れた、その刹那に被害にあった由)とのたもうた。なるほど、こういうセンスの「選挙民」が選挙した、このレベルの「選良」なら、お粗末極まりないのも「道理」と苦笑しながら独り合点。

 そういえば、いつぞや西村眞悟代議士はふんぞり返って「強姦してもなんにも罰せられんのやったら、オレらみんな強姦魔になってるやん」と言っていた。つまり、中西は酒に酔えば、西村は刑法がなければ、女にしたい放題は当然というのが選良サマと彼らの支持者の平均的感覚らしい。

 別に中西の所属が自民党だから書いているのではない。西村は、当時、自由党、いまは民主党にいる。党派の別を超えたこういう感覚の政治屋さんたち、それを「選良」だと呼び、彼らの所業を「当然」と弁護する連中と同じ空気を吸っていることがたまらなく嫌だ。(3/10/2005)

 きのうあたりから花粉の飛散量が本格的になってきたらしい。きのうの朝は喉がヒリつく程度だったのが、夕方には眼が痒くなり、けさはうちを出て百メーターも行かないうちに目がショボショボし始めた。一月の半ばからエバステルを飲んできているせいか、まだ鼻には来ていない、時間の問題かもしれないが・・・。

 朝のラジオで森田正光が富士山頂の湿度の話をしていた。先月と先々月の月間平均湿度が例年の値に比べてなんと20%も高いというのだ。例年この時期の湿度は大体50〜60%程度であるのが今年はなんと80%に達しているという話。異常気象か?

 そうではないと、森田はいう。月平均値が20%も一気に上がるなどということは異常気象ではなく、単純に観測装置が壊れているか、設置状態が何らかの原因でおかしくなっているからだ。これが彼の結論だ。富士山頂の観測所は昨年の10月をもって廃止され無人化された。無人化するために湿度計は二重化されたが、現在、片方は故障停止しシングルになっているとのこと。その「正常系」が送信してきている値がおかしいというのだ。正常系の湿度計に何が起こっているのかは分からない。

 半年前、森田は有人観測の必要性と観測信頼度・持続的観測の重要性を力説していた。彼の憤りは理解できる。経費削減の浅知恵が数十年以上も蓄積してきた観測データの価値を毀損しようとしている。人間と動物をわけるものは獲得した智慧を次世代に伝え蓄積できるか否か、そこにある。一代の都合と浅知恵で積み重ねの努力を棄ててしまうというのはまさに人間の動物化だ。我々が住むこの国でいま起きていることは文化の軽視、サルの帝国への退化なのだ。(3/9/2005)

 さすがに経済紙だけのことはある。会社に着いてすぐアクセスした日経のサイトにはフジテレビのTOBが36.47%の株式を獲得して成功した記事が載せられていた。公式発表の1時間半ほど前。

 三分の一を超えるかどうかがポイントと見ていた。その理由は取締役の解任は特別決議事項だから。だが毎日新聞で「ニッポン放送の現経営陣は全員今年が改選期」と知って思わず嗤ってしまった。つまり特別決議によらねば馘首にできない取締役はいなかったのだ。

 なんのことはない、毎日が書いているようにライブドアが過半数の株を取得すれば、ニッポン放送の取締役は「フルーツ・バスケット」されてしまうのだ。いやフルーツ・バスケットならばはみ出すのは一人だが、現取締役は一人として座れないということもありうる。なんとまあお粗末、なんとまあ無防備、なんとまあバカさ加減丸出しであることか。さすがにフジサンケイグループだけのことはある。

 夜のニュースは軒並み「第一幕はフジテレビの勝利」と伝えているけれど、少なくとも第一幕の帰趨は東京地裁の決定まで決しないことがはっきりしたというぐらいが正しいのではないか。(3/8/2005)

 バグダッドでアメリカ軍から銃撃を受けたイタリアの女性記者、ジュリアーナ・スグレナが帰国後のインタビューで、銃撃を受けたのは検問所ではなかったこと、車は通常の速度で走行していたこと、アメリカ軍には空港に向うことを通告してあり、現に空港にはアメリカの係官も迎えに出ていたことなど、何から何までアメリカ軍の公式発表と180度異なることを答えた由。「数カ所の検問所を通過後、空港まで700メートルの検問所ではない場所で、突然投光器を向けられ銃弾の雨が降ってきた」というのが彼女の言葉。車の運転をしていた情報機関員の証言もほぼ同じで、イタリアの検察は「故意による殺人容疑」の捜査を開始したとも報ぜられている。

 去年の4月、今井・高遠・郡山が解放された日、彼らの移送をアメリカ軍が担当すると聞いて「危ないな」と思ったことを思い出した。あの時この国の政府は悪辣極まるマスコミ操縦を行い、下賤な「国民」を煽り立てることによって彼らの帰国を「祝った」のだった。アメリカは、いかにベルルスコーニ・与党連合といえども、コイズミ・自民公明連合ほど自国の品格を貶めることはするまい(それはそうだ、あれはイヌ以下の所業だった)と踏んだ。だから彼女を「死体」で帰国させたかったのかもしれない。

 アメリカに「悪意」を見過ぎているとは思わない。そのことは夜のニュースでも分かる。同じイラクでブルガリア兵がアメリカ軍の銃撃で死亡したことが報ぜられた。アメリカ軍の発表は今回も同じ、「誤射」だそうだ。「悪気はなかったんだ、間違っただけだ」。これがアメリカ軍の常套句だ。どうだろう、ブルガリア兵もアメリカ兵を一人か二人、誤射を装って射殺してみたら。そのときアメリカがどのように反応するものか知りたいものだ。(3/7/2005)

 12時からのテレビ朝日「スクランブル」で鹿内宏明が昨年大和証券SMBCに売却したニッポン放送株の返却を求めていると知った。理由は大和証券SMBCが「フジテレビが公開買い付けを行うことを知りながら告げなかった」こととか。鹿内家の保有していた株は発行株式の8%、二百数十万株にもなるから、もし鹿内家が当時の市場価格で手放したとすれば、TOB価格との差額が仮に千円として二十数億円、ちょっとひとこと言いたくなるのも無理はない。いや、鹿内の放逐は現経営陣によるクーデターだった。×マークをつけられた彼としては一矢報いる好機と思ったのかもしれない。女婿にも関わらず宏明は、ある種の性格において、あの信隆によく似ている由。

 磯崎哲也のブログによれば、鹿内の株はすんなり売られたものではなく「信託受益権」を売る(議決権を留保するため?)という「譲渡の方法としては極めてヤヤコシイことをしている」らしい。フジテレビがTOBによりどれだけの株式を取得したかはあしたの夜にも判明するだろうが8%という数字はけっして小さくはない。もしこの8%に議決権がないなどということにでもなると・・・、本当にこの騒動、下手な経済小説よりははるかに面白い。(3/6/2005)

 フジテレビによるTOB期限は来週月曜。朝刊にはニッポン放送株を保有する各社の対応をまとめたものが載っている。目を引くのはトヨタ自動車。10万株を保有するトヨタはTOBにもライブドアの買い付けにも応じないことを明言した由。

 きのうの終値とTOB価格には一株550円の差がある。10万株だと5,500万円にもなる。電通のように直接の利害関係がある会社ならいざ知らず、それ以外の会社にとっては簡単に応じられない金額だ。まとまった量の株があればあるほど単なる心情論でTOBに走るわけにはゆかない。うっかりすれば株主代表訴訟で関係役員は損害を補填させられかねないのだから。

 バグダッドで武装勢力から解放された女性記者が乗った車に対してアメリカ軍が発砲。同乗のイタリアの情報機関員が死亡、同じく情報機関員の運転手と女性記者が負傷したというニュース。アメリカ軍の発表によると「検問所へ向かって猛スピードで走ってきた車両を制止しようとして警告したが止まらなかったためエンジンを狙って撃った」とのこと。2年ほど前、ナジャフで女性と子供7人を殺した時も、アメリカ軍は同じようないいわけをしたっけ。兵士の練度が低いのか、それとも極度の緊張が続く中で正常な判断力が働かなくなるほどに兵士が追いつめられているのか。

 孫子に「勇怯勢也」という言葉がある。勇敢になるか、臆病になるか、それを分けるものは戦いの勢いだというのだ。GIジョーが臆病である理由を孫子は教えてくれている。(3/5/2005)

 きのう、ニッポン放送社員が「現経営陣の意思に賛同し、ライブドアの経営参画に反対する」という声明を出した由。声明文は労働組合がない(さすがフジサンケイグループ!!)ため50年の歴史で初めて「社員総会」なるものを開き、「役員以外の全社員238人中177人が出席。40人の委任状を加えた計217人が全会一致で」(読売新聞による)賛成したという。ここで誰でもが気になるのは238−217=21名が、社内ではどのような職責の人(「不参加」が当然の職種・職位)なのか、それとも217名の社員から既に奇異の目で見られている人たちなのか、ということだろう。

 それにしても、労働組合のような意見集約手順を持たなかった会社で、自発的にストンと177名もが集まってたった30分足らずで合意するなどということは「いかにも」という気がする。仮処分に関する状勢は、テレビに登場する識者のコメントや新聞の解説記事を総合すれば、純粋法律論ならライブドア、感情論ならフジテレビ、これに尽きている。つまりフジテレビ側としては、@時間外取引における株取得の不当さ(現行法では「違法」ではない)を指摘、それからの「緊急避難」であると主張すること、A「企業価値」の防衛という情状論を陳弁するほかない。情状論は材料が多い方がいい。「社員声明」はそのひとつになるだろう。

 ニッポン放送の社員が自分たちの仕事について心底きっちりと考えるなら「時はいま」ではない。もともと「従業員は考えるな、唯々諾々とついてこい」というのが鹿内信隆以来の社風、組合嫌いのフジサンケイグループ従業員の心得のはず。成り行きをみていればよいのだ、「時」はこれから訪れるのだから。フジテレビが防衛するならそれでもよし、さすがにこんどは組合も認めるだろうし、迂闊なトップへの建言もありになるだろう。よしやライブドアが乗り込んでくるなら堀江流のやり方を見定めてからでも遅くはない。強烈なトップダウンには慣れっこだ。見極めた上で「これはダメだ」というなら、あのサーチ&サーチ社の従業員のようにすればいいのだ。いずれにしてもいままで眠らせてきた主体性を発揮するのは「いま」ではなかろう。それとも社命に駆り立てられてのことか、ならば是非もないが。

 朝刊には西武グループ各社のことがいろいろ書かれている。フジサンケイと西武グループはいろいろなところで微妙に重なり合っている。小さい会社が大きい会社を株支配していることや、かなり大時代的なイデオロギーの残滓が残っていること。そういえばコクドにも労働組合はなかった。堤義明を評する従業員の声も載っている。「堤会長を見かけたら逃げた、粗相があってはいけないのでパッと後ろを向いて走ったものだ」という言葉さえある。

 30年以上、サラリーマンをしてきた。だからよく分かる、いかにもな声明文に賛同する従業員の心も、重石がとれた開放感にいささか大げさな物言いをしてしまう従業員の心も。(3/4/2005)

 

 ほぼ入院前に夢見たような生活サイクルが確立したのは月曜の半ばから。以下、その記録。

 6時に室内灯が一斉点灯され、「きょうは3月2日、水曜日です。順次ご様子を伺いに参ります」というアナウンスが流れる。ここはフロアの一番端の病室なので看護士(どうもなじめない呼称)が来るのは7時をまわる。いつもの6時半まではそのまま横になってウトウトを続ける。「森本毅郎スタンバイ」のアナウンスとともに起き、ベッドをリクライニングシート状にして番組を聴く。用便を済ませ体温を測っておく。ニュースのコーナーが終る頃、看護士が来て血圧を測り軽く問診をする。いつもなら国立から立川あたりを走る電車で聴く「日本全国八時です」というコーナーになる頃、朝食が来る。入院してからはナチュラル・ハイジーンは中止、用意の朝食をとる。

 朝食後、歯磨きと洗面。シュンカーのウーロン茶をすすりながら本を読む。9時半前後に「ただいまより外科の回診を行います。外科の患者様は部屋でお待ち下さい」のアナウンスが流れるので、ベッドをフラットに戻し横になって回診を待つ。回診が終ったら、またリクライニングシート状にして読書。11時半になったらTBS→テレビ朝日→NHKとニュースを連続でみる。NHKニュースにかかる頃に昼食。その日の状況で(といってもこれはきのうくらいからのことだが)ザッピングなどする。

 2時から3時くらいの間に**(家内)がきのうの夕刊とけさの朝刊を持ってくる。6時過ぎの夕食までは**(家内)と話をしたり、新聞や本を読む。6時少し前にテレビをつけてクローズアップ現代までみて、そのあたりで日録を手書きノートして、また本を手に取るが、おとといあたりから携帯メールを始めてしまったので、必ずしも集中できない。(もしも携帯メールがあったなら、堀辰雄の一群の小説だとか、トマス・マンの「魔の山」などはずいぶん違う小説になっていたかもしれないなどと妄想して「片えくぼ」)

 8時に面会者お引き取りのアナウンス、9時に「消灯時間です。テレビ、電灯を消して下さい」というアナウンスがあって一部を除いて消灯。もっとも皆が素直に読書灯を消したりテレビを切るわけではないから、こちらも9時半ぐらいまでは本を読み続ける。お手洗いに行ってからベッドをフラットにし10時からのニュースをみる。ニュース10と報道ステーションをザッピングしてからニュース23に流れ、たまに12チャンネルにしたりなどしてから11時半前には就寝。

 あしたはもう退院。抜糸、即、退院と思っていたのはこちらの早とちりで、病院側はあさっての退院というスケジュールだったらしい。**(息子)はあしたにあわせて休暇をとったし、あさっては雪の予報。ということであしたの退院の可否を訊いてもらった。OKの返事はもらったが雪の予報さえなければ、もう一日いたいところ。

 同室の**さんは日本画家。展覧会を開いたときのパンフレットを見せていただいた。いくつか目を引くものがあって、どこに隠れた人がいるものか分からぬとあらためて知る。(3/2/2005)

 予報では午前晴、午後から曇の予定が。朝のうち雲がかかったもののお昼ぐらいから晴れ上がり**(家内)が帰る頃までいい天気が続いた。

 昨夜「葬られた夏−追跡下山事件」を読了。「てっぺん野郎−本人も知らなかった石原慎太郎」を読み始める。
一日遅れで**(家内)が持ってくる夕刊にこんな記事があった。

・・・(前略)・・・最低の映画や俳優を選ぶ第25回ゴールデン・ラズベリー賞が26日、ロサンゼルスで発表され、最悪男優賞にマイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画 「撃氏911」で痛烈に批判されたブッシュ米大統領が選ばれた。ラムズフエルド国防長官とライス国務長官もそれぞれ、最悪助演男優賞、同女優賞に当選。大統領と国務長官は最悪共演賞にも選ばれるなど、ブッシュ政権が主要部門を「独占」した形だ。・・・(後略)・・・

 受賞理由は記事によれば「自然体のまま醜態をさらした」演技とか。自然体で演技するというのはやさしいことではない。また醜態をさらすことが演技の域に達するということも、できそうでいて簡単にできることではなく、天賦の才能なくしては難しいだろう。ジョージ、ドナルド、コンドリーサに共通する資質は「自己の利益にのみ忠実で、かつ他者の批判など眼中にない」という、通常、幼児から少年期に顕著に見られる自己陶酔型の精神構造。これがこの稀有の演技をもたらしたものであろう。まさに神の生んだ奇跡だったかもしれない。呵々。(3/1/2005)

 かばい寝をするせいだろう朝は体の節々が痛い。下腹部も痛みがひどく歩くのはすり足状態。朝食のトレイを下げに廊下に出たところで向こうから来たおばあさんに「大丈夫? 持ってってあげようか?」などと言われる始末。

 隣の**さんはきょう手術。奥さんと息子さんが来ている。病室にいて面白いと思うのは手術前などの家族との会話。どの家族も交しておきたい気持ちの核心にさほどの違いはないはずなのに、それぞれの家族毎に交わされる言葉にはずいぶん違いがある。その家庭ごとの何やらの違いが端々に現れている。ことさらにもしもの時の話をする夫をなんでも大げさに言うんだからといなす妻。息子も同じように父の言葉を受け止めている。でも一抹の不安を振り払うことはできない。無言もまた雄弁な言葉。聞こえてくる話では手術は4時間から5時間くらいかかるもののようだ。うまくゆくことを祈る。

 昼のテレビ。デーブ・スペクターがやけにリキを入れてホリエモン批判をしている。要は「ラジオにITをからませてどんな展望が見えるのか提示していない」ということ。それはそうかもしれぬ、デーブだけではない誰もが言っていることだから、それはそれなりに正しかろう。しかしかりに堀江にグッドアイデアがあったとしてもメイクするかしないかも不明な段階で着想を明らかにするなど、迂闊極まるフジテレビのトップどもでもやらないだろう。メイクしない場合は着想をタダ取りされてしまうから。堀江は少なくとも、昨年、三木谷にそれをされて、今度ばかりは前の轍を踏むまいと思っているだろう。デーブよ、おまえも虚業で食っているのだからそのくらいを理解してやれなくてはウソだろう。出演している江本孟紀も恵俊彰もさかんにライブドアを揶揄しているが、おそらくフジテレビの出演機会を失いたくないからの発言。タレント乞食としてはこれも当然。ただそれにしても言っていることがペラペラと薄く奥行きがない。まるで書割のようだ。美しからぬタレントの舞台裏がそのまま見えて無惨。

 夜、**さんと**さんが見舞いに来る。小一時間も話をして帰った。なかなか、会社の引力圏から抜けるわけにはゆかないと実感。(2/28/2005)

 あいかわらず痛みは去らない。熟睡できないから昼間でも横になると寝てしまう。まるでミルクのみ人形だ。当日と翌日ぐらいで三日目くらいからは本が読めると思ったは浅はかの夜は更けゆく。

 それでも町田の叔母が帰った(叔母は見舞いに来たのか?、それとも**(家内)とおしゃべりに来たのか?)ぐらいから少し楽になってきて、「葬られた夏」を読み進む。あしたぐらいには切れそうなので、ノンフィクション系の積ん読本の記憶を辿り、佐野眞一の「てっぺん野郎」を頼む。(2/27/2005)

 手術は麻酔をかける時間を含めて1時間半くらいだった。腰部麻酔はきのうの夕方にはさめた。ずいぶん長いこと伸ばしている左足が膝を立てたままと意識され、右足がさわるものが自分の左足に思えないという奇妙な感覚を味わった。

 食事はけさの朝食から。全がゆ。9時過ぎには点滴を外し、気持ちの悪いカテーテルもとれた。しかし起き上がるのはもちろん、寝返りをうつのも大変。とても本を読む気にはならない。

 午後、集中治療室から病室に戻る。窓側が空いたのでそちらに変えてもらった。

 **(母)さんは朝霞台病院から、**(家内)と**(下の息子)、近くであったとかで**(上の息子)と一緒に来る。

 **(家内)が持参した一日遅れの朝刊に面白い記事を見つけた。見出しは「他局の報道『狂想曲的』フジ社長が批判」。こんな記事だ。

 フジテレビジョンの村上光一社長は24日の定例記者会見で、ライブドアによるニッポン放送株の取得を巡る他の民放各局の報道について「あまりにも、ちょっと狂想曲的。ニュースはただおもしろおかしくやればいいのではない」と批判した。もっともフジ自身が娯楽路線をとってきただけに「自省を込めて」とも前置きした。
 村上社長は「(他の民放の)報道番組を見ていると、あまりにもちゃらちゃらして『えーっ』と思う例が頻発していた。いかがなものか。(ライブドアに)テレビは公共の電波だと言っている時期だからこそ、きちっとやらなければいけない」と強調した。NHKが連日この問題を大きく報じていることには「思うところはあるが(話すのは)やめておく」と述べた。

 「ジセイ?、イカガナモノカ?、NHKニハ言イタイコトモ言エネェ?、ため息が出るぜ。なんだ、ずいぶんつまらないエンターテイナーだったんだな」と大衆は嗤っているぞ。大衆に嗤われたフジテレビなんぞ、どこに存在価値がある。「企業価値」が「毀損」するぜ。バカはバカに徹して、この騒動、いつものフジ流で「おもしろおかしく」料理してみせりゃ、面目を施せたんじゃねぇかい。つまらねぇハンパ野郎だなぁ、情けねぇぜ。(2/26/2005)

 朝の「スタンバイ」の世論調査。テーマは「ライブドア対フジテレビ、あなたはどちらを応援しますか」というもの。結果、LD支持65%、FTV支持26%。面白い数字。大衆は特別決議にあと少しのところまでライブドア支持なのだ。それほどに「時代閉塞」感が充満しているということ。しかしライブドアに名前を変える前の「エッジ」という会社の感触は、けっして、新しくも、ユーザーサイドでも、なかった。かりにライブドアが100%勝利をおさめたとしても、あの感じのままだとすれば、大衆の応援が報われるようなことはないだろう。

 そのコーナーの前でコメンテーターの伊藤洋一は新株予約権に関する係争がいままでなかっただけに非常に興味があるとしながらも、「延長したTOB終了の3月7日までの間に両社和解ということも十分考えられる」と言っていた。そのように事態が推移すれば、いまの「ワクワク」感はたちどころに煙となる。

 それはそれとして楽しめるものは楽しめるうちに楽しむことにしよう・・・。きのう、入院前にプリントアウトしてきた磯崎ブログ。磯崎哲也はフジテレビ有利という意見。整理するとこんな話。

  1. アメリカの場合、今回のような判断は「ユノカル基準」に従う
  2. ユノカル基準は
     a 脅威が存在する
     b 対抗措置が「排除的」または「抑圧的」でない
  3. フジテレビは2−aについてはクリア、2−bについても
     a ライブドアの提案が株主利益に合致するものならば、それを聞くつもりはある
     b だからこそ、今回の措置は「消却」の可能性を含む撤回可能なものにしてある
    と主張することによりクリアできる
  4. その上でフジテレビは「ライブドアは時間外取引という現行法の盲点をついた大量取得を行い、買い増しを続けている。株主に冷静な判断ができる状況を作り出すためのスキームだ」と抗弁できるのではないか

 一応の論理性は成り立つ。しかし一方に一株の価値を2.44分の1にする(一万円札の購買力が突然4,100円になってしまうということ)という「脅し」を用いてライブドアのギブアップまたは既存株主の絶望感を誘い、彼らが諦めた瞬間「何もなかったこと」(一円もフジテレビが出費しないこともあり:消却)にさえできるこの宣言の「狡さ」・「いかがわしさ」は天下一品。それにしても「予約権」というこの手口、じつによく考えられているように思える。

 手術は午後1時15分から。すでに手術用のポンチョのようなものを着て準備は万端。(2/25/2005)

 2時少し前に病院到着。入院手続き後、病室へ。213号室。「13?」などと思いながら案内されたのは3対3の六人部屋の真ん中のベッド。最初のセレモニーは「剃毛」。(これはSM小説の専売用語かと思っていたが看護婦さんが堂々と言うからには医学用語なのか)。香山リカみたいな感じの看護婦さん。突然「ナチ・チャコ金曜パック」を思い出した。幸いなことに香山リカは好みでないので危惧するような現象は起きずにすんだ。いったい誰似だったらアブなくなるかなぁなどと考える余裕。そのあとは手術前の説明と確認があって入浴。あがって5時半。もう腹がへってくる。よる9時以降は飲食禁止。

 持ち込んだ木田元の「ハイデガー拾い読み」を第三回まで読む。なかなか集中しない。どうもこの手の本は病院にはむかないのかもしれない。諸永裕司の「葬られた夏−追跡下山事件」に切替える。

 フジテレビがTOB期限を3月2日から7日に変更。なるほどきのうのニッポン放送の発表の裏には現在の市場株価とTOB買付け額とのギャップを狭める目的があった(現実にきょうのニッポン放送株は520円下げて6,280円になった由)ということか。先だってTOBの目標を下げ、こんどは期間を延長、大企業のはずのフジテレビ、ケチなだけではなく肝っ玉も小さいようだ。ケチと言えば、ニッポン放送の発行する予約権をフルに行使すると約2,800億。フジテレビの資本金と年間売り上げはどれくらいなのだろうか。インターネット環境がないというのは不便だ。ライブドア対フジテレビ戦が佳境にはいるときにネットが使えないなんて・・・。

 きょう最後のニュース、ライブドアが差し止め請求を東京地裁に提訴した由。(2/24/2005)

3/3の追記

・フジテレビの資本金:1,062億(2004年3月)(2003年3月では597億)
・フジテレビの売上高:単体3,580億,連結4,559億
注)「ナチ・チャコ・金曜パック」

 TBSラジオの深夜放送DJといえば、「ニッサン・パック・イン・ミュージック」。月曜深夜から金曜深夜までの中で一番人気があったのが「ナチ・チャコ・金曜パック」でした。(「金曜パック」で記憶しているのですが、放送時間は木曜日25時からだったと思います)

 病院のベッドで突然思い出したのは、この中の「お題拝借コーナー」に寄せられたエピソード。登場人物は、投稿した男子高校生、美人の看護婦さん、シチュエーションは虫垂炎手術準備。あとは容易に想像できるでしょうから、省略します。

 深夜放送DJといえば、TBSラジオが「パックインミュージック」、文化放送が「セイ・ヤング」(レモンちゃんこと落合恵子とか、いまは亡き土居まさるなど)、ニッポン放送が「オール・ナイト・ニッポン」。いま、焦点の人、ニッポン放送社長の亀淵氏もこの番組を担当してました。同僚の斎藤安弘と組んでカメ&アンコー「水虫の歌」などのシングルを出していました。

 ライブドア対フジテレビ攻防戦、息をもつかせぬ展開は並みの経済小説以上の出来。

 終業間際、ひととおり入院中の留守番体制についてあちこちに依頼メールを出し終わってから、日経のサイトを覗くとわずか二行だが「!!」という記事が載っていた。

 ニッポン放送は23日、同日開催の取締役会でフジテレビジョンに新株予約権を発行することを決議したと発表した。

 ニッポン放送・フジテレビが打ち出した対抗策は、けさの読売サイトに載っていた「ポイズン・ピル」らしい。その「現状」という説明欄には「会社の権限で、株式を与えることはできない」と書いてあった。とすると、現発行株数の1.4倍もの新規発行をフジテレビに限定し、しかも「予約権」という形式で与えることに違法性はないのだろうか。

 NHK10時のニュースで有働アナが「こういう方法があるのならなぜ最初からやらなかったのか」と担当記者に問いかけた。至極もっともな質問。けさの日経社説は「TOBの条件変更は株価に影響を及ぼす恐れが強く、証取法は買い付け価格や株式数などの下方修正を禁じている」と書き、フジテレビの過半数取得からクォーター取得への目標変更の「違法性」を指摘していたくらいだから、この手があるのなら、なぜ最初からそうしなかったのか、25%取得はクリアしただの、33%超取得を目指すだのというきのうまでのコメントにはどんな意味があったのか、・・・フジサンケイグループへの不信は尽きない。

 それにしても、日本への投資を訴えるコマーシャルを打ちながら外資によるメディア支配は間接的であっても許さないとか、効率的な企業再編を口にしながらいざ新興勢力が株支配で割り込みをはかると身に付かない企業価値などということばを使ってでも排除しようとするこのウロウロぶりは、どこか、実力主義・成果主義を強く主張しながら、発明者の功績を持ち出されるととたんに個人の働きは会社の環境があってこそだなどと言い出す可笑しさにどこか似ているような気がする。(2/23/2005)

ニッポン放送が発表した「第三者割当による新株予約権発行のお知らせ」はここにあります。

 あいかわらず、ニッポン放送をめぐる話題が面白い。いくつかのポイントのうち「ライブドアが取得した株は誰が手放したものかと?」という疑問について、サンケイ新聞と日経ビジネスが興味深い記事を、けさ、相次いでサイトに掲載した。

 サンケイは「ニッポン放送株 村上ファンド売却か 証券関係者指摘」という見出しで、8日の時間外取引でライブドアが取得した株の大半は村上ファンドの保有株だったと報じた。これに対して、日経BPサイトには「大和のお粗末、リーマンの貪欲、ライブドアのニッポン放送株取得」という見出しで、村上ファンドはまだニッポン放送株を持っていると報じた。

 サンケイが「計624万株の大半について、証券関係者には『これだけの株式を取りまとめることは村上ファンド以外に考えられない』との指摘が出ている」と書いているのに対し、日経ビジネスは

 ライブドアが2月8日にニッポン放送株の35%取得を発表した後、沈黙を守ってきた大株主がいる。ニッポン放送株の約19%を持つ村上世彰M&Aコンサルティング代表だ。その村上氏が日経ビジネスの取材に応じた。ライブドアに保有株を売却したかという本誌の問いに、村上氏は「ファイリング(大量保有についての変更報告書)を見れば分かる。(ファイリングをしなければならない大量の株式売却は)ない」と否定した。村上氏によれば、堀江貴文社長は以前から「売る気はありますか」と打診していたという。だが村上氏は「僕はファンドマネジャー。常に高い値段を提示してもらえれば、検討します」と答えるにとどめ、売却に応じなかったと主張する。

と書いている。サンケイの記事にある「証券関係者」が実在するかどうかはサンケイ記者のみぞ知る話。それに比べれば、保有状況の変更に関するペーパーが出ていないのが事実なら、日経の記事の方が信頼できそうだ。

 もっとも日経ビジネスの記事の力点はそこにはない。見出し通り、フジテレビのTOBをサポートしている大和証券SMBCのお粗末ぶりと、ライブドアへの資金提供者であるリーマンブラザーズの水際立ったお膳立てのみごとさが中心になっている。(あえていえば、堀江からの預かり株の売却というリーマンの動きに幻惑されて、「リーマンもライブドアをつぶしてしまっては本も子もなくするのだ」という厳然たる事実を忘れ気味なのがこの記事の疵。おそらくリーマンにはライブドアの株価が一定値まで下がった後、反発すると確信できる材料があるのだろう)

 サンケイのサイトは、夜になって、「ニッポン放送株、フジが30%超を確保へ」という見出しで、「サンケイビルなどのグループ企業や金融機関、機関投資家、広告会社などの株主がTOBに同意する意思を示し」た結果、「30%超を確保できる見通しになったことが22日、分かった」という記事を掲載した。しかし、フジサンケイグループ企業はともかくとして、一株あたり数百円から千円近くも安いTOB価格に「協力」する金融機関や機関投資家が存在するというのは、どこか、けさほどの記事の「証券関係者」の存在に似て、多少、不思議な感じがする。(安い方に売却するというのは一種の背任行為なのだから。もっともこの国の機関投資家が必ずしも受益者全体の利益を図らないのは「東京スタイル」の時にも見られたことではあるけれど)

 記事は続けて「フジは今後、ニッポン放送の主要株主に対し、TOBに応じるよう要請を続け、株主総会で新株発行や合併などの重要事項に拒否権を持つことができる33%超取得を目指す構えだ」と書いている。これについてはきのう書いた通りいまさら25%超では安泰ではないからその先をめざすというのはいかにも行き当たりばったりという印象。(2/22/2005)

 ライブドアがニッポン放送株の40%以上を取得といい、フジテレビは会長がTOBによる25%の株取得を楽観しているといっている。沈黙の重みに耐えられない者は負けというのが世の定法であるとすれば、口数の多い堀江の方が不利な状況にあるというここ数日の「空気」は正しかろう。

 ただその判定条件が、ライブドアがニッポン放送株を50%超取得したとしても、フジテレビが25%を確保すればライブドアのもくろみであるフジテレビへの介入は阻止できるからだ、というのでは少しばかり頭が固すぎるだろう。

 まず第一に、フジテレビが本当にライブドアに一指も触れさせまいとするなら25%ではなく、三分の一超をめざすべきだ。なぜなら増資が議決されれば、いったん確保した25%超の地位による「議決権拒絶」は崩されてしまうから。つまり第三者割当増資を誰の助けも借りずに阻止できるだけの株保有こそ「安泰」の最低条件のはず。例によってフジサンケイグループは財界応援団を信頼して(その精一杯のアピールがサンケイ新聞18日の社説と考えてもよい)現実を甘くとらえているらしい。

 しかしここまでの話は、ある意味で、木を見て森を見ない類の話。

 ニッポン放送だけを手に入れても、フジテレビに手を伸ばすことができなければ、ライブドアの負けだとマスコミがいうから、そうだろうなぁと思いこんでいるだけのこと。テレビメディアはフジテレビだけではない。日本テレビはラジオ日本を持っているがカバーエリアが狭く食い足りない思いをしているかもしれない。テレビ朝日あるいはテレビ東京がラジオメディアとの補完にある種の魅力を覚えていないともいいきれない。別にフジテレビにこだわらなければならない理由はないのだ。おまけにニッポン放送にはポニーキャニオンという会社がセットになっている。柔軟な頭を持つ者ならば「森」の設定方法はいくらでも思いつく。

 とすれば、ポイントは残り10%超のニッポン放送株取得の資力がライブドアにあるかどうかと、ライブドア自身の株の価値の減損がどこまで続くかに絞られる、という見方も成り立つのだ。(2/21/2005)

 週末のニュースサマリーでサンケイが怒り狂っている社説があると知って見に行った。

 反応の鈍いやつを揶揄する表現に「蛍光灯」というのがあったが、サンケイ新聞は「蛍光灯」よりも鈍い。足を踏まれてからかれこれ半月も経ついまになって、「なんだとう!!」などと怒ってみたところで滑稽なだけだ。(「今週号のAERAに・・・」というのかもしれぬが、その可能性を具体的に指摘されるまで気がつかなかったというのは、フジテレビのおっとりしたTOBに一脈通じている、要は、「うっかり者」、というよりは「ウスノロ」なのだ)

 いちばん嗤える言い種は「同時に路線の否定は大型コラム『正論』の百八十人におよぶ執筆陣にたいする冒涜(ぼうとく)でもある」というくだり(「大型コラム」だとか「百八十人におよぶ」だとかいう野暮ったい枕詞がいかにも子供っぽくて嗤わせる)。清浦雷作のような人非人まで動員した「正論メンバー」などにどんな権威があるというのだ。「ヤクザ路線の否定はヤクザ様に対する冒涜だ」というのに似ていて、バカバカしさ、ここに極まる。

 ここ数日、あちらこちらで「電波は公共のものだ」という言い方をよく聞く。気の利いた書き方だと思ったのだろう、サンケイ社説もそのようなことを書いている。しかし「電波」は自然現象に付けた名前に過ぎない。電波を使って報道するなら、その報道という機能が「公共のもの」なのだ。

 資本に関しては資本の論理のままでもけっこう。ただしメディアは「公共のもの」であるが故に、資本の論理の介入からは守られているべきであり、独立性が保証されなければならない。その意味において「公共のものだ」というのでなければ、利いた風に「電波というのは公共財であ」るなどと書いても意味をなさない。サンケイ新聞は一貫して一部財界と自民党の御用新聞であったではないか。だからこそ清浦雷作という極めつきの学匪を「正論メンバー」に加えて「正論(いったいどこがどんな正論なんだか)」を書かせていたのだろう。「資本の論理」で水俣病患者を蹴散らしたのは誰だったかを思い出すならば、サンケイづれが堀江某などにお説教するなど片腹痛い。

 社説の末尾のことば、「それだけの資格があるのかどうか、静かに自らに問うてほしい」は、熨斗をつけてサンケイ新聞社説子にお返ししたい。まさに「Physician, heal thyself.」だ。(2/20/2005)

 朝刊トップは「堤氏、4000万株売却を指示」の見出し。上場廃止ライン問題をクリアするために、去年8月、コクド及びその関連企業幹部名義を偽装し保有していた株を売却するよう、堤義明から具体的な指示があったという記事。

 夕方になって、西武鉄道の前社長、小柳皓正が自宅寝室で首つり自殺したというニュースが入った。小柳は株保有率に関する虚偽記載の件で今月初めからきのうまで連続十日間の任意取り調べを東京地検特捜部から受けていた由。この手の事件ではよくある「自殺」。本当に自殺なのだろうか。(2/19/2005)

 朝刊の経済欄。FRB(アメリカ連邦準備制度理事会)の度重なる利上げにもかかわらず、長期金利が低下を続けていることについて、グリーンスパンが上院銀行委員会で、いくつかの仮設をあげ、そのいずれをも否定し、「その意味するものを的確に判断するにはもう少し時間がかかる」と証言したということが報ぜられている。あげられた仮設は三つ。

 @「一部のアナリストたちは、金利の下落は、経済成長に対する市場参加者の見方が悲観的になったことを示しているのかもしれないと心配している。しかし、この解釈は株価の上昇などとかみ合わない」

 A「外国の中央銀行による米国債の大量購入も金利低下の要因として指摘されてきた。しかし、金利の低下は海外でも進んでおり、米国内だけの要因で説明することには慎重でなければならない」

 B「グローバリゼーションの広がりが多くの国で物価.上昇を好ましい水準に抑え、インフレ期待を押し下げていることは疑いない。しかし、過去9カ月問の長期金利低下の原因を、徐々に進むグローバリゼーションに求めるのは難しい」

 さてどの「仮設・反証セット」が疑わしいか。きょうのところは@だ。NY株価にはかなりの「根拠なき熱狂」が混ざっていると思う故。(2/18/2005)

 夕刊に「心の風景」という欄がある。週の前半、月曜から水曜までの三回で一テーマ。最近のテーマでは徳島にあったドイツ兵捕虜収容所の話などが面白かった。

 今週は松平盟子が与謝野晶子を取り上げていた。月曜日は「晶子の中年意識」というタイトルで、こんな歌を紹介していた。

浦島がやうやく老をさとりたるその日の海の白波ぞ立つ

 火曜日には「恋をうたいながら」と題して、彼女が評論も物したこと、その評論は相当に手厳しい、普通に考えられている与謝野晶子のイメージとはかなり離れたものであることを伝えた上で、詩をふたつあげている。ひとつを書き写しておく。

堅苦しく、うはべの律義のみを喜ぶ国、
しかも、かるはずみなる移り気の国、
支那人ほどの根気なくて、浅く利己主義なる国、
亜米利加の富なくて、亜米利加化する国、
疑惑と戦慄とを感ぜざる国、
男みな背を屈めて宿命論者となりゆく国、
めでたく、うら安く、万万歳の国。

 高村光太郎、いや、金子光晴を思わせる詩だ。松岡正剛が「千夜千冊」に「当時、門人大半が鉄幹を『先生』と呼び、晶子のことを『奥さん』と呼んでいたのに、ひとり大學だけは晶子を『先生』と呼びつづけたことである。これはなかなかの炯眼だ」と「月下の一群」のところで書いていたが、それはこのあたりのことをさしていたものかとはじめて納得した。

 そしてきのうは「鉄幹の心境」。煌めくほどの才女の夫君の話。埋め合わせのような感じがしてしまったのは男のひがみ。(2/17/2005)

ここで、高村光太郎は、「根付の国」を、金子光晴は、「おっとせい」を、思い浮かべています。

ただ、金子光晴については「絶望の精神史」などに少し思いを広げて・・・。

さらに、ここで、「大學」とあるのは、堀口大學のことです。

 去年10月のロシアの批准を受けて、97年以来たなざらし状態にあった京都議定書がきょう発効した。二酸化炭素による地球温暖化というシナリオは厳密な意味ではまだ確実とは言い難いところがあるのは事実だが、人工的なものがもたらす自然の均衡に対する脅威の蓋然性を完全に否定できない以上、「自制」の仕組みを動かすことは人類の智慧でなくてはならない。

 例によって「智慧」とか「叡智」というものから一番遠くにいるサル男を大統領にしているならず者国家「アメリカ」が、当初、合意しておきながらこれを拒否しているのは彼らの蛮族性を如実に表わしていて怪しむことではない。

 全世界のエネルギー消費の三分の一を蕩尽する彼らが「アメリカ経済が競争力を失うことを防止する」と主張してこの議定書に加わらないなら、逆に加わらないことによって得られる彼らの「利益」を相殺するようなペナルティを課すことが必要だ。

 たとえばこの議定書に加わるすべての国がアメリカのすべての産品に当初彼らが約束した二酸化炭素削減率である7%をベースとする課徴金をかける。まず初年度は7パーセントでいい。議定書を受け入れないならば、その翌年にはアメリカの法令によくある懲罰的な意味を込めて7の倍の14パーセント、それでも受け入れないなら、その次の年には3倍の21パーセントの課徴金をかけ、サル男の主張するという「効果」とやらをチャラにして、奴らを「公正な競争の場」に引き戻す。これこそ「正義」というものだ。

 たしかに、現代では、経済活動はすでに国境を越えている。「アメリカ産品」をどのように定義すべきかという問題はあろう。また昨年来の「牛丼騒ぎ」に見られるように「アメリカ産品」への制限が深刻な国内的影響に繋がることもあるかもしれない。しかし農産物を手始めにできるものから対象にしてゆけばよい。アメリカ産品を、順次、別の調達先に変えてゆけばよい。大いに危惧されながら、アメリカ人が勝手な理屈で世界中に押しつけている遺伝子組み換え品や濃厚な農薬づけ食品など、潜在的な脅威が避けられるなら、一石二鳥にも三鳥にもなる。

 自分勝手なアメリカ人を叩き直してやるためにはこの程度の罰を与えることが不可欠。アメリカの比率を段階的に落とし、アメリカの権益を合法的に可能な限り無効化し、世界中が「without U.S.A」と歌い始めれば、独善的で生意気なアメリカ人というならず者も「礼儀」を思い出すかもしれない。(2/16/2005)

 IPAからの帰り、少し早かったので国会図書館へまわった。先週の原武史の「『くだらない』『無茶苦茶とはこの事』。当時の入江の日記には、皇后を罵倒しているとも受け取れる言葉が散見される」という記述を原典で確かめたいと思ったからだ。しかし朝日新聞社刊のハードカバー版の方も文庫版と一字一句変わるところはなかった。どうやら日記の記載のまま刊行されているわけではないようだ。

 久しぶりの国会図書館はずいぶん利用しやすくなっていた。あらかじめ調べておいたとおり、閲覧は夜7時まで。即日渡しのコピーも6時まで受け付けてくれる。以前は当日渡しはたしか3時半くらいで締め切り、半日ぐらいかけるつもりがないととても行けなかった。

 世の中悪くなるばかりではない、格段のサービス向上は嬉しい。入館カードを端末に置き申請図書を検索。画面で選択ボタンをクリックするだけであとはカウンター前のイスで待つだけ。コピーもカードをセットして端末操作をすると書名などの事項が記入済みの申込書がプリントアウトされるから、コピー頁だけを手書きして栞をはさんで受付に出せばOK。

 出庫の待ち時間やコピーの待ち時間は昔と変わらないが、図書カードを手検索して申請書に転記する手間やコピー申込書に同じことを何度も書く手間がかからない。まさにナショナル・ダイエット・ライブラリーの名に恥じない。本当に世の中悪くなることばかりではない。これで出庫時間さえ10分程度に短縮されたら何も言うことはないのだが。

 出庫までの手持ちぶさたを端末でまぎらわせた。明治年間の図書を電子化しつつあるというので、ためしに北一輝の「国体論及び純正社会主義」をサーチしてみた。全部を読むことができる。しかも、ざっと見たところ伏せ字なしで。みすずの全集を買わずとも明治39年の刊行当時の原本が自宅で読めるわけだ。嬉しくなって、次に志賀重昂の「日本風景論」を検索してみた。岩波文庫で買い損ねたまま品切れになり悔しい思いをしているものが読める。またまた言うことなし。(2/14/2005)

 日曜日の夜10時はフジテレビのEZTVを見る。8チャンネルは女・子供とミーハーのために「へー」を提供している「白痴化チャンネル」と思っているからふだんは近寄らないが、この番組は森本毅郎が担当しているので例外。きのう朝のNHKの週間ニュースから始まって週末のニュースショーは軒並みライブドア−ニッポン放送−フジテレビを取り上げていたが、ライブドアの「ラ」の字も出てこなかった。通常柔らかアタマで通っているはずのフジテレビも、ことが自分のことばかりは例外らしい。

 ライブドアのもくろみについては評論家の中でも見方はバラバラ。背後に外資がついていることを指摘して利ざや稼ぎという人もいれば、売り抜け利益を稼ぐには半年以上保有しなければならずリスクが大きいことからやはり額面通りメディア参入を狙っているのだという人もいる。いずれもその意見を聞いた当座はそうなのだろうと思わせるが、いずれにも軍配は上げがたい。

 ポイントは「ライブドアが取得した株は誰が手放したものかと?」ではないかと思う。もしその大半が村上世彰グループから出たものだとすると、少数特定者による75%占有には届かないから東証上場は維持され、フジテレビの逆襲の半分は無効になる。逆に取得先が村上ではないとするとキャスティングボードは村上が握っていることになる。もし村上がライブドアと組めばその瞬間にニッポン放送の経営権はライブドアが握り、増資などによりフジテレビの25%超保有作戦は失敗することになる。

 サンケイ新聞がどのような株支配関係にあるのか分からないが、サンケイの「非科学的」論説委員どもも首筋に寒いものを感じているかもしれぬ。もしトップに右翼イデオロギーにぜんぜん理解のない者が来たらどうしよう、と。NHK−朝日論争の折は「編集権の独立」なんぞ視野の中には入っていなかったようだが、いずれ「編集権の独立」がいかに貴重なものか思い当たるに違いない。想像力の足りないイデオローグなどせいぜいそんなものだ、呵々。(2/13/2005)

 **(母)さんと**(家内)と三人で**(父)さんの見舞い。昨日が誕生日だったので、ミニケーキを買ってから出かけた。病室にはいるとベッドはカラ。車イスに乗せられてお手洗いに立ったらしい。ひどく調子がいいようなのでナースステーション近くのレストコーナーでミニケーキにろうそくを立てて「ハッピー・バースデー」を歌う。ベッド脇に誕生日カードがあった「給食班」から。救急病院のわりにとにかく細かいところまで行き届いた病院。

 きょうの「会話」。「ハノイ、いまのホーチミンさ、終戦をきいて、ハイフォンまで移動してね」、きょうは終戦の時の話らしい、ホーチミンは昔のサイゴンのこと、ハイフォンはハノイのそばだから、「いまのホーチミン」というのは勘違い、ハノイで終戦、ハイフォンから撤退というのが本当のところなのだろう、「浦賀に帰ってきたんだ」、「浦賀?」、「そうだ、浦賀だ、・・・そうしたら、出発地のハイフォンでコレラが発生したという連絡が入って、着いたんだが上陸できないんだ」、「ふーん」、「日本に着いてるのにさ、船に留め置きさ」、おそらくコレラの潜伏期間が過ぎるまでに船内から患者が発生するかどうかをみたのだろう、「岸壁には、看護婦さんたちが、並んでる。こちらは、みんな総出で、日本だ、日本の女だ・・・」、・・・とここで、ちょっと言葉を呑み込む、ちょっと下品と思ったのかもしれない。「目の前に日本の街があるのに、あがれないんだ」、・・・、**(父)さんの話は続く。

 ふと竹山道雄の「磯」を思い出した。記憶の浜辺に打ち上げられる「破片」のことだ。

 われわれのもっている記憶の世界もまた、海のように柔かくふかく果しのない塊である。その面は荒れていることもありしずかに燦いていることもあるが、その底にはかずかぎりのない雑多なものが混沌としてゆらゆらと揺れながら、いくつもの層をなしてひそんでいる。その中にはうつくしい貝殻もあり、畸形の生物もあり、獣の屍もあれば、これから生れる卵もある。われわれはみなこの記憶の海をどこか見えないところに持っていて、それが昼も夜も潮騒の音をたてている。眠っているときには、深い層の中からさまざまのものがたちのぼってきて、思いもかけぬイメージを描きだすが、あとになってそれを捉えることはもうできない。醒めているときも、われらの念裏には、連絡のない回想がちらちらとかすめて過ぎる。しかし、それもふたたび記憶の底に沈んでしまうと、もうとりだすことができない。それを継ぎ合せて一つのものに復元することはむつかしい。うちあげられる青磁のかけらは、このような断片的な思い出に似ている。われわれは自分の記憶の海の磯に立って、その測りがたい蒼い大きな塊の中に、何が沈んでいるかもよく知ることができない。ただ時あってうちあげられるものを手にとって、そのふしぎなうつくしさをなつかしむし、嵐の日などには磯一面にさらけだされたものを見て、そのすさまじさにわれみずから愕然とするのである・・・。
竹山道雄 「磯」 (「見て・感じて・考える」所収)

(2/12/2005)

 朝寝して8時半過ぎの起床。テレビのスイッチをいれると「夢の美術館」をやっていた。暮れにBSで放映したものらしい。飽きさせない構成でお昼までの3時間半と午後の2時間すべてを見た。対象となったのはルーブル。モナリザからルーブルのエントランスになっているガラスのピラミッド(これが作品というのには抵抗もあるが)までの百点を選んで人気投票も並行してやっていた。

 ラ・トゥールの「大工ヨセフ」が選ばれていた。この絵を知って好きになったのはいつの頃だったろう。暗がりで作業をする老人に近い大工、向かいに位置する少年は優しい微笑みをたたえ、父の手もとを照らすためろうそくをかざしている。題名に聖ヨセフとあるからには、老人はマリアの夫であり、少年はイエス・キリスト。そうしてみると、少年の左手は風から炎を守っているというよりは祈りの手に近く、少年のまなざしの先は父であるはずの人を通り過ぎているようにも見える。あくまで静かでしかし暖かい。

 けっして口には出さないけれど、自分をヨセフになぞらえる疑念を一度も抱かない男はいないだろう。そして「そうだとしても、まあいいだろう」と小さくつぶやいて男は仕事に戻ってゆく。そうつぶやかせる充足感が本物なのか偽りなのかは分からない、永久に。この絵はその瞬間をみごとに定着している。

 投票したがベスト5には入らなかった。一位から順に、コローの「モルトフォンテーヌ」、フェルメールの「レースを編む女」と「天文学者」、四位に彫像「サモトラケのニケ」、ダビンチの「モナリザ」。フェルメールが2点もベスト5に入っているのだから繊細な光の絵画に対する嗜好はあるようだ。やはり「聖父子」のドラマになじみがないせいか。でももう少し人気が出てもおかしくない絵だと思うが。(2/11/2005)

 午前中が***の個人情報保護WG、午後が分科会WG。終日、個人情報保護。三番町でのWGの方は6時過ぎまでかかり、日朝戦のテレビ観戦は後半もかなりまわってからになってしまった。家に着いたときがちょうど同点に追いつかれたとき。押していることは押しているのだが、なかなかゴールには結びつかない。ロスタイムに入っても1−1、引分け勝ち点1を覚悟したとき、大黒のシュートが決まった。際どい勝利だった。「北朝鮮チームは"なでしこジャパン"よりも弱い」と見出ししていた週刊誌があったが、どうやら根拠なしのサンケイ風「非科学的」な話だったようだ。

 サンケイといえば、ライブドアがニッポン放送の株を35%取得と発表してちょっとした騒ぎ。

 先月、フジテレビが公開買付け(TOB:Takeover Bid)でニッポン放送株の50%超取得を発表したとき、なんだかずいぶん無防備な感じがしたものだ。鹿内信隆の権力掌握の残滓である「ニッポン放送−フジテレビの持ち合い株の逆転現象」がクローズアップされたのは、去年の夏、「東京スタイル配当論争」で名を売った村上世彰の投資グループがニッポン放送の筆頭株主になったと報ぜられたときだった。あまりにも時間が経ってからの公開買付け、このスキに乗ずる奴はいないのかなと。

 はたして乗ずる奴はいた、しかしそれがライブドアの堀江とは。「さすが」というべきか、それとも「いったいどこにおまえの軸足はあるのだ」というべきか。(2/9/2005)

このニュースを256倍とはいいませんが、数倍くらいは面白く楽しむために「株式保有率とその実質的意味」を表にまとめたものがこれです。

 最近、とくにこの数日、フィッシングと呼ばれる詐欺が話題になっている。きのうはUFJカードの会員があわせて150万ばかりの被害にあったというニュースが報ぜられた。"phishing"というのは"sophisticate"と"fishing"からの造語なのだという。

 けさの主要紙の社説を読み比べて「サンケイ新聞はフィッシング新聞だな」と嗤った。朝日と毎日を除いて、読売・日経・東京・サンケイの4紙が「もんじゅ改造」をテーマにあげている。日経と東京がもんじゅに懐疑的であるのに対して、読売とサンケイは積極的だ。

 ほとんど破綻した技術である高速増殖炉だけに支持の論陣を張るのは難しい。読売の社説にはその「苦心」が手に取るように読めてなかなか面白い。

 多彩なタイプの高速炉が検討されているが、「もんじゅ」は商業発電をも目指し、技術的に最も進んでいる。フランスなどは研究参加を望んでいる。ウラン資源はまだ豊富なだけに、当面は軽水炉の利用や改良に比重を置く国が多い。だが、中国やインドのように、将来のエネルギー確保のため、高速増殖炉の開発を加速している国々もある。研究開発に「もんじゅ」を徹底的に活用し、将来の実用化に生かせるような体制を一歩一歩、築きたい。

 少しでも事情を知る者ならば、どのセンテンスを読んでも、腹を抱えて笑い出すことだろう。「フランスなどは研究参加を望んでいる」というくだりなど、吹き出したツバキでディスプレイを汚してしまった。高速増殖炉の実用化に向けて最先端を走っていたのはフランスだ。実験炉ラプソディー、原型炉フェニックス、実証炉スーパーフェニックスと、商業炉に向けて着々と建設を進めたのはフランスだけだった。もんじゅは未だ原型炉に過ぎない。もしフランスが研究参加を望んでいるとしたら事故のリスクは外国(日本)持ちでデータが入手できることに魅力があるからだろう。まさに「バカ」と「ハサミ」は使いよう、フランスのホンネはこんなところだろう。

 それでも読売の社説はまだしも誠実といえないでもない。注意深く読むならば、「ああ、もんじゅに将来はないのだな」ということがうすうす分かるように書いてあるから。サンケイの社説になるとこれはもうバカが一人前の顔をして講釈をたれている様にあきれ果てる。その最後の部分はこうなっている。

 また実験炉ではあるが同じ方式の「常陽」(茨城県大洗町)は昭和五十二年四月の臨界以来大きなトラブルもなく正常に運転されている。高速増殖炉の実用化は難しいとか、開発の意義が薄れたなどという非科学的な評論家の言に惑わされることなく、開発は冷静に進めるべきだ。

 常陽の熱出力は設計値で100メガワット、もんじゅは714メガワットだ。フランスが放棄した実証炉スーパーフェニックスは3000メガワットだった。常陽には発電機さえない。ただMOX燃料を燃やしてナトリウム媒体で熱を取りだし大気中に放出しているだけ。プラントの規模もシステム構成パーツ数も格段に違う。実験炉である常陽のトラブルが少ないことは、原型炉であるもんじゅのトラブルが少ないことを保証しないし、その根拠にもなり得ない。だからこその実験炉であり原型炉なのだ。そんなことも分からないバカが、よくもまあ、「非科学的な評論家の言」などと書けるものだ。

 他人を「非科学的」とののしるなら、せめて自分は「科学的」に考えるべきだ。アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、イタリア、これらの国の高速増殖炉計画はすべて頓挫している。もう40年も前から高速増殖炉の事故の9割以上は熱媒体に利用しているナトリウムがからんだものだ。これほど繰り返し事故原因になっているナトリウムをこりもせずに使うのはなぜか。それは「高速」ということと「増殖」ということに関係している。ウランからプルトニウムを作りだして燃え続けるためには、高速な中性子を確保しなければならず、必然的に炉からの熱の取り出しを熱効率のよいナトリウムにせざるを得ない。では「ナトリウム」という隘路を迂回する妙策は見つけたのか、否だ。先進各国が挑戦し退けられた道に新しい工夫を持って臨んでいるのか、否だ。

 このあたりのことをざっと調べれば、もんじゅ計画が愚直に特攻攻撃をかけ続けるだけのものであることが誰の目にも見えてくる。「決めたことだからやめない」というバカな公共工事そのものだ。この姿勢こそが「非科学的」を体現している。「非科学的」なのはもんじゅに批判的な「評論家」ではない、サンケイ社説子ご本人がいちばん「非科学的」なのだ。

 なぜ、サンケイ社説はこんなバカなことを書くのか。それはおそらく読者を誤導するのがサンケイ新聞の発行目的だからだ。サンケイ新聞はフィッシング新聞なのだ。いまは亡きミッチーこと渡辺美智雄の「失言」にこんなのがあった。「毛針に引っかかるような魚は頭が悪い」、ここまでならどうということはなかった、「野党に投票する選挙民は毛針に引っかかる魚だ」と続けてさんざんに批判された。ミッチーの「筆法」にしたがえば、サンケイ新聞は毛針。サンケイ購読者は毛針に引っかかった・・・。可哀想に。(2/8/2005)

 「皇室典範に関する有識者会議」なるものが首相の私的諮問機関として設置されてから、そこここで「女帝論」に関する論議が聞こえるようになってきている。じつに素朴な肯定論から根拠なしの否定論までいろいろだが、夕刊の原武史による「宮中祭祀はどうするか:女性天皇は行えない新嘗祭」は、「女性天皇」に関するひとつの盲点を指摘したものとして貴重。

 原は入江相政日記のある日の記述から説き起こしている。1970年5月30日のこと。侍従長だった入江は皇后に呼ばれ、「国がいろいろおかしいので、お祭りをしっかりしないといけない」といわれた。彼は「お上は大事なお方だから、お祭りも大事だが、お祭りのためにお体に障ると大変」と答えた。つまり宮中の祭祀を綿密に行うと体の負担が大きいので、天皇とも相談し入江は代拝を増やすなど簡素化をしていたらしい。それに対し皇后は「それでは私がお祭りをやろうか」と言った。以下は原の文章。

 全く予期せぬ発言に、入江は色を失った。「くだらない」「無茶苦茶とはこの事」。当時の入江の日記には、皇后を罵倒しているとも受け取れる言葉が散見される。
 なぜこのとき、入江は皇后の発言にこれほど激しく反応したのか。天皇の負担を減らそうとする入江の考え方を、皇后が理解できなかったというだけでは、おそらく理由を説明したことになるまい。

 宮中祭祀には女性が代行することができないものがある。原はその中の最大のものとして新嘗祭をあげている。

 新嘗祭は、最も重要な宮中祭祀であり、天皇の代替わりの際に行われる大嘗祭は、即位して最初の新嘗祭に相当する。秋に収穫した穀物を皇祖神に供えてともに食べるこの祭祀では、穀霊が女性とされる。宗教学者の村上垂良は、「穀霊は、一般に生産する力、生殖する力をそなえた女性の霊格とされるから、新嘗祭の祭司をつとめることをもっとも重要な宗教的権能とする天皇は、終始、男帝を原則とし、女帝は例外的な存在にとどまったのであろう」(『天皇の祭祀』)と指摘している。

 その上でほとんどの宮中祭祀が明治になって発明されたのだから、現代における祭祀の組み替えもいいかもしれないと書きつつ、女性天皇論議の基本的論点をあげ尽くせと原は結んでいる。

 赤坂憲雄によるまでもなく天皇はイネの祭祀王であって、おそらくそれ以上でもそれ以下でもない。赤坂はかつて「象徴天皇という物語」の末尾に稲作農業の行く末を一方に対置しながら、「かぎりなく"ただの人間"に近づいてゆく天皇の、わたしたちと変わらぬ等身大の姿が、いま、くっきりと像を結び始めたところだ」と書いた。それは正しい指摘なのだろう。ただ、そういうものとはまったく別に、折口信夫が提示して見せた「真床覆衾」説の濃密で一種エロティックなイメージをなにか捨てがたいもののように思う気持ちが一方にあることも事実なのだ。(もっとも折口説は最近はたんなる面白い話以上には評価されていないらしいが)

 見えた限りの女帝反対論は血統が女系に移ることを問題視するものばかりで、天皇家の祭祀に踏み込んだものはなかったような気がする。この国の自称「保守主義者さん」たちのバックヤードがどれほど狭く、かつお粗末なものか、彼らの「伝統」理解がどの程度のものか、苦笑いするばかりだ。(2/7/2005)

 金曜日、ビッグサイトでSLAに関するセミナーから帰ってから、熱を出した。きのうはひたすら寝た。かなり長いことぐっすり寝た感じで目が覚めても、せいぜい3時間程度ということの繰り返し。しかし風邪で終日床の中にいたのはずいぶん久しぶりのこと。

 熱にうなされる頭の中で、JIS対応を主眼にするか、法対応を主眼にするか(注)などと、そればかりがリフレインすることが我ながら可笑しかった。案外仕事のことに囚われているのだなぁと。寝ていると楽なのだが、起きあがると左の鼠径部の盛り上がりがいちだんと大きくなっているのが分かる。法施行にあわせた体制の滑り出しまでは頑張ろうと思ったが、そんなことはいっていられないかもしれない。

 まだ一度も入院体験がない。**(弟)は病院とは縁が切れなかった。一度入院してみたいものだと思っていた。ただ生涯で「最初の入院」が退院なしの「最初で最期の入院」というのは嫌だなぁとも。入院、翌日手術、抜糸まで数日、計一週間というのはいかにも手頃でいい。術後はひたすら待つだけのはずだから、ゆっくり本が読めるのではないか。何を持ち込もうか。ミステリーを一冊と、そうだ子安の「漢字論」なんかもいい。あした、病院に行ってスケジュールを決めよう。(2/6/2005)

注)個人情報保護法対応のこと。ここでJISとはJIS15001のことです。

2/3の日記は、将来、公開する予定ですが、
関係する事項について、自分なりの整理がつくまでは、非公開とします。

 ネパールのギャネンドラ国王が全閣僚を解任し、非常事態を宣言。民主化を進めてきた前国王がいささか不思議な事件(皇太子が宮廷内で銃を乱射、ビレンドラ国王他を射殺し、自らも自殺した。ギャネンドラがどのようにして乱射事件から逃れたのかは不明のまま)で殺害され王位が転がり込んだ現国王は絶対王制志向が強く、ことある毎に衝突した議会を強制解散し、ついに内閣制というオブラートも捨て去ったらしい。こういう国こそ反民主国家の最たるものではないのか、石油がからまない国には興味がないのかな、エッ?、ウソつきブッシュさんよ。(2/2/2005)

 元大阪高検公安部長三井環に対する一審判決。起訴内容三件のうち、@マンション購入時の登録税の軽減を策して住む予定がないのに住むとして届け出た件、A暴力団員から接待を受けた件、B暴力団員の前科調書を職員に命じて不当に取り寄せた件をすべて有罪とし、懲役1年8ヵ月、追徴金22万円あまりの実刑を言い渡した。起訴事実の中で唯一無罪としたのはAとしてあげられた中のデートクラブ女性による接待という部分。

 この事件が注目を集めたのは、三井が検察庁の調査活動費という名目の不正な裏金の実態を内部告発しようとしていた人物であり、まさに彼が鳥越俊太郎の取材を受けるその当日の逮捕であったから。三井は実名で取材に応ずる前から、匿名で「検察の黒いカネ」について情報を流し、この実名インタビューに続いては国会での証言も予定していた由。もしそれが実現していたならば、警察に続いて検察も相当のダメージを受けたであろうことは想像に難くない。

 唯一無罪とされた部分の判決理由が雄弁に事態の全貌を語っている。なぜ女性の接待の嫌疑は阻却されたか。「関わった暴力団員がワイロの斡旋をした時間帯に別場所にいたことが判明したから」、これがその理由だ。このことは皮肉な想像を生む。

 検察当局はどのようにしてでも三井を黙らせたかった。@は比較的よくある「節税策」で微罪にしかならない。Bもこれだけではなかなか立件できないしインパクトも弱い。検察当局にとって安心して取引できる相手は「闇社会」しかなかった。「持ちつ持たれつでんな」、暴力団のトップは莞爾として微笑んだかもしれぬ。いくつも作ったシナリオの中の「オンナに汚い」という一番俗世間受けする強力なシナリオだけが組員の振り付け以外にデート嬢との組み合わせを作らねばならず、急場のことでうまくでっち上げることができなかったのではないのか。もしこの想像が当たらずとも遠からずだとしたら、断罪されるべきは「暴力団の接待を受けた三井」ではなく、「暴力団の力を借りて自らの不正を隠蔽した検察当局」ということになる。皮肉な想像とはこれ。

 本件の裁判長の名前を後日のために記録しておこう。宮崎英一という。陪席判事の名前も記録しておきたいところだが、どの新聞にも記載がないのは残念。判決文に「調査活動費の不正流用問題は社会的に重大な問題であり、検察幹部として自ら関与したという被告の供述は軽視できないものであって、その問題の糾明が必要なことは明らかである」という異例のコメントを付したとしても、けっして宮崎裁判長と二名の陪席判事の「罪」は軽くはない。

 ところで、将来このような「事件」があったならば、それは「裁判員制度」の適用対象になるのだろうか。はなはだ興味深いことだ。(2/1/2005)

 先週から、時々、股間に痛みを覚えて、健康管理センターの紹介にしたがって、西八王子にある病院に行った。診断は「脱腸」。

 脱腸、いかにも音が悪い。身体上の不具合はどれも幾分の恥ずかしさをともなっているものだが、「脱腸」は群を抜いている。ひどく恥ずかしい感じでとても枕詞なしには話せない、・・・だろう。

 「腹壁の穴から腸が出たり入ったりするんですね、根本的な治療は手術しかありません。すぐにとか、そういうものじゃないです。手術は嫌だからやらないという方もいます、本人さん次第です」、「放っておくこともできますが、出たままで元に戻らなくなることがあって、カントンというんですが、出た部分が腐ってくると猛烈に痛みます・・・」。(いま、確かめた。「嵌頓」と書くようだ)

 説明内容からする限り、どこにも恥ずかしいところはない。しかしどこか音が汚い。まるで「平成」のようだ。重症の「嵌頓」の方がまだしも音がいい。広辞苑には「ヘルニア」とある。外来語を使いたくなる気持ちがよく分かる。

 五十を超えてから、眼の中に蛾が飛び(飛蚊症)、左肩は痛み(五十肩)、腰には爆弾を抱え(ギックリ腰)、そして今度は「脱腸」だ。「ダッチョウ・クラブ」と揶揄してから、**(家内)、「人間って五十歳くらいで逝くのがちょうどいいのよ」、かなり真顔で言う。そう、その通りかもしれない。これで来月になれば花粉症が来る。今年は去年の30倍の飛散量だという。ユーツ。(1/31/2005)

 一週間のサマリーニュースを見ていると、海老沢の会長辞任、顧問就任、就任辞退と、NHK、というよりは海老沢ばかりがクローズアップされている。**(家内)は海老沢は顔で損をしているという。そうだろう。おととい小沢遼子は「いったい、海老沢さんって、どんな悪いことをしたの」といっていた。いったん「空気」がこのようになってしまうと、もう、顧問を委嘱することさえもが大罪のようになってしまうのが可笑しい。たしかに悪い奴には違いないのだろうが、海老沢の悪事程度のことならば、おおよそこの国の会社のトップには大なり小なりあることではないか。そんな気さえする。

 それほどNHK改革というのなら、郵政の民営化よりも先にNHKを民営化したらどうだ。聴取料を法律で義務づけるのではなく、スカパーやWOWOWのようにすればいい。いくつかのNHK特集のためなら、うちは料金を払う。そうすれば事業予算の国会承認だとか、政治家の介入あるいはその対策として制作番組の内容を事前説明するなどというおよそジャーナリズムとはいえないような妄言妄説は出てくるはずもなくなるではないか。(1/30/2005)

 **(父)さんの見舞い。リハビリを始めた由。以下、切れ切れの会話。

 「リハビリ、きょうもやったの?」、「ウン」、(横で**(母)さんが首を横に振る。木曜と金曜と聞いているらしい)、「どう、辛い?」、「ウン」、「疲れる?」、「ウン」、「どれくらい、やるの?」、「・・・一時間くらいだ」、・・・、「・・・自衛隊が帰ってくるんだ」、「エッ?」、「自衛隊、海上自衛隊が帰ってくる」、「どこから?」、「海上自衛隊だ、イラクじゃなくて、・・・、スマトラから」、「ああ、暮れに地震があったからね。どこで聞いたの?」、「・・・」、・・・、「稚内か、小樽に着くらしい」、「エエーッ」、「稚内かな」。

 話がとっちらかっている。稚内や小樽というのは育ったところだから出てくる地名なのだろう。住んでいたところの話になった。「札幌?」、「何年、いたっけ?」、「・・・」、(考えているようなのだが、出てこない)、「5年間だったね。ボクが中学2年から高校卒業まで。長かったよね、ホラ、出向したから」、「そうだ、出向した」、「なんて会社だった?」、「・・・」、「なんの会社?」、「・・・」、(ヒントを出す)、「農機具を作ってたよね」、「そうだ」、「最後は・・・」、「つぶした」、「そうだったよね、ホクノー」、「整理しにいったんだ」。詳しい経緯は知らない。しかし従業員からは「あんたは、うちを整理するために来たんだろ」と責められ、悩んでいたことはちらりと聞いたことがあった。

 こういうことになって甦る記憶が、こんなことというのは、どうとらえたらいいのか
と思いながら帰ってきた。(1/29/2005)

 寝坊して「スタンバイ」の楽しみにしている小沢遼子のコーナーが武蔵野線のトンネルの中になってしまった。切れ切れの音声で、「訪問した会社で社長さんと挨拶がすんで別室へ移動するとき『社長がお通りになるから・・・』などというのが聞こえるとなんかすごく嫌な感じがする・・・別に訪問者のオレをさしおいてなどということじゃなくて・・・なんか内向きのセンスでやっている会社だなぁと思わせちゃうところがさ・・・」と森本毅郎がしゃべるのが聞こえた。

 きのうの三菱重工の品質改善事例発表会のことを思い出した。まさに「それ」だった。事例発表は納入業者、主催のMHIの品質部門にとっては平生、納入業者を指導する立場というのは分かる。だとしても、自社の部長には敬語を使いまくり、発表者へはいっこうに顧慮を払う気ぶりもないというのは、いくら納入業者ばかりの発表の場だとしてもお粗末だった。三菱自動車は実質的に重工のコントロールを受けることになるようだが、重工自体があのようなセンスでいるとしたら、コンシューマーに向き合った姿勢を取ることは至難の業に違いない。(1/28/2005)

 週刊新潮の広告、朝刊に復帰。週刊新潮と、先週は沈黙した週刊文春の広告見出しを書き写しておく。

【週刊新潮】
  "劣勢"朝日が出せない「爆弾テープ」と"優勢"NHKが脅える「2・26事件の呪縛」
【週刊文春】
  NHKも朝日も絶対報じないそれぞれの恥部
  「大特集『負けるのはどっち?』」というのが吹き出しでつけてある

 おとといNHKの海老沢会長辞任ニュースがあって以来、いまやクローズアップされるのはNHKだけになってしまった感があるが、きょう現在で言えば、文春の遠慮がちな「大特集」のタイトルにある「負けるのはどっち?」というのが正直なところだろう。

 朝日の記者が取材に際してICレコーダー(いまどき「テープ」なんか使うか)を使ったことは容易に想像できる。取材時の録音は、テープかデジタルデータかは別にして、あるのだろう。そして、おそらく、その内容はNHKがウソをついていることを示すものなのだろう。もし、そうだとすると、こういうことになる。番組を改変したことは争えない事実だ。その意味ではNHKは安倍晋三に「強姦」されていた。ただ政治的圧力に屈したというのではいかにも外聞が悪い。どうするか。「強姦」は親告罪だから被害者が「和姦」であると主張すれば「犯罪はなかったことになる」。NHKは面子を維持するために自発的に大人の対応をしたのだというシナリオを作った。

 NHKが公開質問状に「去年8月に明らかになった、御社記者が起こした『無断録音テープ流出問題』についての御社見解によれば、『取材内容の録音は相手の了解を得るのが原則であり、取材相手との信頼関係を損なうことがあってはならない』としています。御社記者は、松尾元放送総局長に取材した際に録音する許可を得ていませんでしたので、仮に録音テープがあるのであれば、御社見解に照らした場合、取材倫理に反する行為にあたると考えますがいかがでしょうか」と書いたのは、朝日新聞の急所を突き、牽制をはかったものだろう。朝日は自らの「取材倫理」が実質的には守られていない「きれいごと」に過ぎないことを晒さない限り、これに反論できない立場に追い込まれた。

 こう推測してみれば、週刊文春のいう「それぞれの恥部」というのはじつに的確な表現だ。

 一見、新潮の書くように「優勢な」NHKではあるが、忘れてならないことがある。ニュースソースの秘匿は報道機関の生命線だが、NHKはそのニュースソースに当たる人物を自ら露出させた。ニュースソース秘匿の義務から朝日は既に解放されている。これは「録音内容」開示についての朝日の反応ポテンシャルを低くしている可能性がある。NHKの「牽制」は場合によっては空振りになるかもしれない。

 NHKは回答期限なしの公開質問状で動きを止めた。朝日は通告書の末尾に「誠意ある回答がない場合は法的処置を取」ると書き10日以内の期限(今月31日ということになる)をつけた。これで終ってしまうのかもしれないが、できるなら、NHKか朝日か、いずれかが、裁判所に持ち込んでもらいたいものだ。そうなれば安倍の「強姦」があったのかなかったのかも明白になるのだから。

 それにしても嗤えるのは安倍晋三だ。ここぞとばかり繰り返し朝日新聞に公開質問状を出している。「録音内容」が開示されることはないと確信してのことなのだろうが、そのさまは、ワンワン、キャンキャン、よく吠えるイヌを連想させる。そういうイヌはおおむね臆病だ。臆病なイヌは吠えたてた相手が遠ざかるとますます大きく吠える。逆に近づくととたんに逃げ腰になるくせに。

 NHKが百%自分を支えていると安倍は思っているのか。NHKが、まず松尾武自身を露出させ、18項目もの質問項目を並べたて、そのひとつひとつにいささか手の内を明かしすぎるような書き方をしていることを少し不思議に思わないのか。あれはあきらかに聡明な第三者ならば、何が起きたかが分かるように事実とヒントを並べたものだ。練達の政治家なら当然、仮にその見習いだとしても、それくらいはたちどころに見抜けなくてはならない。それができないなら、外交はもちろん、内政もできない。せいぜい、公共工事の斡旋で口銭を稼いだり、詐欺師の片棒を担ぐぐらいのことしかできない。そうか、いまのままということか、呵々。(1/27/2005)

 二、三週間前に**(弟)の遺品のノートのディスプレイ部が壊れた。パソコンなんてと言っていた**(家内)だが、一度使い始めると、メールは携帯で間に合わせるとしても、インターネットが使えないのは堪えるらしい。日曜日にノジマで下見して候補を決めた。どうしてもVAIOにするという。おととい価格コムで店選びをして注文。今晩届いた。こういう使われ方をするのだから量販店も苦戦するわけだ。

 「キミ、作る人、ボク、食べる人」というCMが批判の集中砲火を浴びたことがあったが、線も何もつながずに「インターネット、つながらないの」という**(家内)のことだから「アナタ、セットする人、アタシ、使う人」と相場は決まっている。

 VAIOはほとんどスイッチオンで使えるようになっているが無線LANのセットは必要。IOデータのサイトからドライバーをダウンロード。「最新」のはずが、なんのことはない、商品切替え時がラストのアップデートタイミングらしく、タイムスタンプはもう2年くらい前のもの。SP2対応については特段の記事がないところを見ると問題ないのだろうが、設定画面の仕様が微妙に違う。それが原因かつながらない。諦めてハブに直接接続することにした。

 OSのアップデートなどはあっさり終った。問題はVAIO専用ソフトのアップデート。総量が200メガ以上もあるくせにソニーのサイトは線が細いようで0.5〜0.6 MBPS程度で、はかがゆかない。カッコばかりつけて本当の意味のサービスに知恵もカネも回さないらしい。この貧弱なサーバー環境を見る限りソニーの収益力低下は当然の結果か、などとつぶやきながら、ダウンロード画面をいまも注視中。(1/26/2005)

 朝刊のオピニオン欄、「政態拝見」に政治部の曽我豪が小泉首相の三人称話法について書いている。

 ・・・(前略)・・・そう考えると、符丁が合う変化がある。仮想敵・自民党との勝負に力を込めるとき、首相は自分のことをコイズミ、あるいは小泉内閣などと、三人称で呼ぶことが多いのだ。例えば発足直後の01年夏の参院選。「自民党がやれないことをやるのが、コイズミだ」「自民党がコイズミを選んだ。自民党も変わった」 02年1月にあった自民党大会でも、「小泉政権は、国民の期待に応えて、今年も改革を進めたい」。そんなフレーズが何度も繰り返された。自分を三人称で呼ぶことで首相が示したかったのは、旧体制の破壊者、つまり、挑戦者の姿なのだろう。それが国民の喝采を浴びたのだった。

 「だが・・・」と曽我は続ける。変人宰相コイズミも退任後の評価を欲しがる時期になり、自民党や官僚の手助けが必要になってきた。

 「コイズミを選ぶか、民主党か」と呼びかけた昨年夏の参院選のあと、三人称話法はぱったりと影を潜めた。注目して聞いたのだが、今月18日の自民党大会も「自民党は一部の地域、団体を代表する政党ではない」といった調子である。首相が語る言葉の主語は「自民党」が多くて、「コイズミ」は一度も登場しなかった。

 ここで曽我はいったん話を転ずる。そして政治的リーダーが三人称を用いる心理についてニクソンの回想録から出色の部分を紹介している。

 ところで、権力者の三人称には前例があるらしい。ニクソン元米大統領は、回想録『指導者とは』のなかで、ドゴール元仏大統領がしばしば、シーザーやマッカーサーのように、自分を指すのに三人称を用いた話を紹介している。「これ以外にドゴールに選択の余地はない」といった表現を好んだという。そして、ドゴールが三人称を使い始めた理由について本人の弁をこう引用する。
 フランス解放の闘士だった第2次世界大戦のさなか、「ドゴール!」を連呼する人波の中を歩きながら、「自分が実際よりはるかに大きい伝説的存在になった」と感じた。
 「あの日から私はドゴール将軍と呼ばれる男を意識せずには生きていけなくなった。ドゴール将軍にふさわしくないと思い返し、やりたいことを思いとどまったのも一再でなかった」

 ここから浮かぶのは、国民の心をつかむため、あるべき自分を演技する権力者の姿だけではない。時にその自分に現実の自分が動かされる姿も同時にみえてくる。

 曽我は再びコイズミのことに戻って「三人称話法が復活するのを、もう1回見てみたいような気もする」と結んでいるが、読んだ印象としては結語は蛇足。(1/25/2005)

 風呂の中で「アクセス」を聴いた。きょうのテーマは「あなたは、小中学校の『総合学習の時間』を見直すことに賛成?反対?」というもの。先週の中山文科相の「授業時間数が減っている中で学力があがるわけがない、ゆとり教育への転換で生まれた総合学習の時間を削減し、国語や算数など主要科目に振り返る必要がある」とかいう「発言」を受けての話らしい。

 まずカチンと来るのは10年になるかならぬうちにこういう論議が出てくるようなそんな浅い判断で教育政策を云々していることの軽さと愚かさだ。振り回される子供はいい迷惑。

 そもそも「学力低下」と「総合学習の要否」とは論理的にはまったく別のことではないか。中山文科相は東大・大蔵省組、頭はいいはずだが、自民党などというところに長くいて、教育問題といえばバカのひとつ覚えで日の丸掲揚・君が代斉唱しか思い浮かべぬ連中と交われば、日をおかずして論理的思考能力は鈍磨するのか。(1/24/2005)

 サンケイの社説を面白く読んだ。見出しは「小林会長宅事件 言論封じ込めは許されぬ」。富士ゼロックス会長の小林陽太郎宅に火炎瓶が置かれたり、銃弾が郵送された事件に関するものだ。サンケイ社説はこう書いている。

 すべてが同一グループか団体か個人の犯行なのかは分からない。しかし、小泉純一郎首相の靖国神社参拝を強く支持する過激な個人か団体が、小林氏の発言を封じ込めようと、嫌がらせをエスカレートさせているとみるのが自然であろう。今回の事件は言論を封圧するための悪質なテロ事件といえる。自分と意見、思想が違うからといって、相手の自宅に拳銃を発射したり、実弾を郵送するという事件は後を絶たない。言論の自由が保障されてこそ民主主義社会は成立する。不平や不満があれば、堂々と言論で渡り合えばよい。卑劣な言論封じ込めは許されない。

 愚かなことを書き連ねることを常とするサンケイ新聞社説にしては珍しくまっとうな社説だ。論旨と主張に異論はない。サンケイには、できるならことなら、バカはバカなりの思考能力でよいから、「卑劣な言論封じ込め」には批判的な姿勢をいかなる場合にも貫いてもらいたいものだ。

 バカはバカなりとはどういうことか。ちょっとだけ頭をめぐらせるならば、なぜ火炎瓶は投げ込まずに「置かれた」のか、なぜ銃弾は撃ち込まずに「郵送された」のか、分かるだろうに。サンケイ社説子にはそのような洞察力もない。哀れなものだ。この犯行の下手人が狙っているのは「カネ」だ。「職業としての右翼」、右翼屋さんという手合いはこれを商売しているというのは常識の範疇。

 それにしても、サンケイがどこまでこの「社説」を身に付いたものとして書いたものか、その心中を察すると可笑しくなる。かつて教科書問題を取り上げたとき、サンケイは「正論」に、

 かつて朝日は銃弾を撃ち込まれ、その後暫くは大人しくしていたようだが、昨今の朝日の傍若無人とも思える偏向紙面を見ると、まだお灸が足りないようだ。

という言説を掲載してふんぞり返っていた。つまり、サンケイは「言論封じ込めもテロも当然のもの」と主張していたではないか。朝日記者なら銃弾を撃ち込まれて当然で、財界首脳ならば銃弾を郵送することもならないというのかしらね。さすが、サンケイ、見上げた心がけだ。(1/23/2005)

 NHKの番組改編問題に関する件。NHK、朝日新聞、双方が互いに訂正・謝罪を求めるという展開になっている。キーポイントは、改変がNHKの自主によるものなのか、なにがしか政治家の口入れがあったからだったのかというだけのこと、番組に改変があったことそのものについてはNHKも朝日も争ってはいない。水掛け論モードになった以上、「水掛け」作業をいくら見物したところでラチは明かぬ。争点になっていない「番組改変がどのように為されたか」を整理してみれば、おおよその推測はできるはず。

 NHKのホームページに件の番組の「制作経緯」が出ている。それをまとめると下表のようになる。



12
11月21日 シリーズの企画提案が番組制作局部長会で承認。
制作を委託。
12月8日〜12日 東京で「女性国際戦犯法廷」開催される。
DJ(ドキュメンタリージャパン)が取材。


13
1月19日 教養番組部長のDJ版1回目試写。
大幅な手直しを、DJに指示。
1月24日 教養番組部長のDJ版2回目試写。
手直し足りず。編集作業をNHK側で引き取る。
1月26日 総局長粗編試写、協議。
「女性法廷」に批判的な意見もインタビューして入れることを決定。
1月28日 午後、追加インタビュー取材。
1月29日 未明にNHK第1次版編集VTRが出来る。(44分)
(注:右欄朱記部はNHKサイトではここに書かれている) 総局長と総合企画室担当局長らが安倍氏と面会。
夕方NHK第1次版の総局長初試写。試写後、協議。
深夜、再度試写。43分になる。
1月30日 総局長、番制局長、教養部長で協議。
さらに編集して40分にする。
夜、放送。

 この表はNHKホームページ掲載の表を一箇所だけ直してある。文言は一切手を入れずに、朱記した「総局長と総合企画室担当局長らが安倍氏と面会」という一文だけを外部の動きとして別カラムにわけた。

 こう書いてみると、何のことはない、NHK掲載のデータだけで、ことの真相は丸見えだ。安倍との面会前に44分でフィックスしたものが、安倍との会見を終えた総局長の閲覧後に、番組は43分版に改変され、放送当日さらにバタバタと40分版に再改変されているのだから。これに安倍の「存在感」と「影響力」がなかったなどと言ったら、安倍はただのホーケーボーヤ(法経?包茎?)だということになる。いくら成蹊大出のボンクラでも、そりゃ失礼というものだ。ねぇ、晋三クン。(1/22/2005)

 ブッシュの就任式があり、その演説が報ぜられた。この演説のみを取り上げるならば「偉大なる独善」ということになろうが、ブッシュや彼を利用するアメリカ企業がその「独善」を押しつける先は彼らのinterest(この言葉は「関心」・「興味」・「利益」・「利子」というここで使いたい言葉、すべてを包含するじつにぴったりの言葉だ)が関わる地域・国だけだ。「盗人にも三分の理」という。ふつうの盗人はそれをこそこそと弁ずるが、羞恥心を持ち合わせないブッシュはその「三分の理」を弁じ立てているだけのこと。世界中の人々にはとっくに見えている。彼らの「お商売」のために役立つ場所のみが、彼らの「独善」の押し売り先であること。そして、彼らの卑しい野心をデコレーションしているのが、「自由」だの、「民主主義」だということが。

 就任演説の中でいちばん嗤えるフレーズを書いておく。後世の歴史家はブッシュという人物の卑しさを示す言葉として繰り返し引用することになるだろう。「アメリカは我々のやり方を押しつけたりはしない。独自の意見を見つけ、独自の自由を獲得し、独自の道を歩んでもらうことに手を差しのべるのが目標だ」と、きたもんだ。絶句するほどのウソ。この言葉には暗黙の条件がついている、その「独自の意見」がブッシュや彼を利用する連中が「受け入れられるものである限り」・・・と、いう。(1/21/2005)

 週刊紙はほとんど買わない。週刊紙のおおよそを知るのは新聞広告と電車の中づり広告と決めている。それで十分間に合ってしまうのがいまの週刊紙の水準だ。けさの朝日朝刊には毎週木曜日掲載の文春・新潮のうち週刊新潮の広告がなかった。

 読売のサイトで経緯が分かった。新潮がNHK番組改変問題に関する記事に「『魔女狩り』大虚報」という見出しをつけ広告をくみ上げたのに対して、朝日の広報部が「広告内容が虚偽、かつ朝日新聞を意図的に誹謗中傷する文言だったので掲載を見合わせた」由。

 ものごとをヒステリックに騒ぎ立てるのは悪事が露見したときや図星を突かれたときが多いもの。きのう、きょうあたりのNHKニュースにはその匂いがするから、きっとNHKの方がウソをついているのだと思っていた。しかし朝日もたかが週刊新潮づれの広告に神経をとがらせているところを見ると、逆に朝日の方がウソをついているのかなと思い直した。もちろんこのニュースを伝えた読売が去年して見せた、広告掲載料はいただきながら、自社にとって都合の悪いところには墨塗りをするという商道徳にもとるようなやり方よりははるかにましではあるけれど。

 それにしても、この絶好の朝日叩きのチャンスに興奮しているのが新潮とサンケイばかりで、ともにノリそうなご同業の文春と読売が沈黙しているのはなぜだろう。(1/20/2005)

 横幹連合のシンポジウム二日目。午前が第二部「横幹科学技術の展望」、午後が第三部「横幹科学技術の振興」とパネルディスカッション。午前は日立マクセル桑原洋の「産業界からの期待」、午後は新日鉄ソリューション岩橋良雄の「企業における横幹型人材の育成」が面白かった。何の彼の言っても、結局は勤め人、気取って書けば「企業人」ということかと苦笑。

 桑原の「センスのよい人は美しい設計をする。使われる社会的背景について理解があり行き届いているから機能が練られており使う場面、点検する場面、あらゆる場面で分かりやすい。そういう美しい設計を個人に依存せずに実現するのが横幹科学技術。しかし横幹科学技術とその実活用の間にもよくいわれる死の谷(田口メソッドやエレベータの地震センサの例をあげていた)がある」という話はまったくその通り。

 岩橋があげた現在の企業教育における問題は「現場感覚の喪失と開発スキルの空洞化」、「業績評価制度の行き過ぎによる長期的視点の欠如」など。たしか柳田邦男が書いていたエピソードにこんなものがあった。記者になりたての新人が「例年に比べて今日は暑いのか」と問い合せようとするのを叱る話、「自分で外に出て暑いかどうか感じてみてからにしろ」と。横幹型科学技術そのものはこの性向に陥らない保証機能は持っていない。現場からますます隔たる傾向はこのムーブメントだけでは止められない。

 あと印象に残ったのは理化学研究所の木村英紀の講演の中にあった「細分化は自然に進むが、統合化は意識的に進めない限り進まない」という言葉。「学」に限った話ではない。あらゆる「組織」に共通することでもある。(1/19/2005)

 事務局の都合で個人情報保護ワーキングが来週に延期になったので、横幹連合・学術会議共催のシンポジウムを初日のきょうから聴講。きょうは第一部「横幹科学技術の可能性」。文科省学術政策局長の有本建男。どうせ若手の下僚が用意したものではあろうが、しっかり聞かせてしまうだけの内容はある。

 繰り返されるのは「科学技術の責務の転換」ということだ。「知識のための科学」から「社会のための科学」へ。「知識の生産と継承」から「知識の活用と制御」へ。「知識のための大学」から「社会の中の、社会のための大学」へ。カネを出す側からすればアウトプットを重視するのは当然のことだ。しかし当然のことを強く主張するからには、語られないけれども当然のことが忘れられずにあるかどうかが心配になる。それは「智慧」の存在だ。自分の「カネ」のような口ぶりで話したりするものだから、にわかに智慧の有無が心配になった。・・・有本は続けた、キャッチアップに終始した20世紀から、我が国は、今世紀、フロントランナーにならなければならないのだ、と。そのための条件として「広い裾野を持ち、分厚い中堅でこれを支え、高いピークを築くのだ」、と。

 太宰治の「富嶽百景」の冒頭を思い出した。「低い。裾のひろがっている割に、低い。あれくらいの裾を持っている山ならば、少くとも、もう一・五倍、高くなければいけない」と太宰は書いた。しかし、もそっと高くなくてはいけないほどの裾野を持ちながら、あの高さで悠揚迫らざる姿を見せていることこそ富士を愛する理由だ。こせこせと卑しくないということはそういうことだ。(1/18/2005)

 阪神淡路大震災から10年。回顧モード一色の中から「記憶を風化させるな」という声ばかりが聞こえてくる。それはまことにその通りだが、いま現在まで引きずっている事実をそのままに問題として解決しようとしない限り、なんの意味もないだろう。たったひとつだけあげれば、大震災があろうとなかろうと、一人暮らしの老人の孤独死は悲惨な問題で、神戸の独居老人だけの問題ではない。この国にとってはそういう視点の方がはるかに有効だということ。

 去年の中越地震と阪神淡路の地震の規模はほぼ同じらしい。被害者の数がこれほど違い被災者の境遇がこれほど違うのは何故か。詳しいことは知らない。そこにはこの国の現実の「問題」がどういうものであるのかが露出している。

 震災の被害者はお気の毒だ。だが震災の故に支援が必要なのではなく、直面している境遇の故に支援を計画すべきだという視点を持たない限り、「お気の毒」はその裏に「そういう厄災が我が身に降りかからずにすんでよかった」という気持ちが隠れているだけ、「記憶を風化させるな」という標語はなんの役にも立たないに違いない。数百万もの「死者」と数千万もの「被災者」を出した「記憶」を風化させ、半世紀もたたぬうちに「平和」をボケの証拠とあざ笑う者がこれほど多くなったことを見れば、たかだか数千の「死者」と数万の「被災者」の記憶など永続きするはずもないではないか。(1/17/2005)

 モア、フーリエ、ベラミーのような主要なユートピア思想家たちが、ユートピア、つまり理想の楽園として描いていた社会は、私有財産を否定し、全員にきつい縛りを加える規則だらけの社会であり、その分良くまとまった小さな共同体であることが多いということだ。そこでは個人が前景に出てくることはない。むしろ個人の存在が、共同体に多少とも融和しているような社会こそが楽園なのだ、と多くのユートピア思想家たちは考えた。

 金森修の「ひとりぼっちのユートピア」(朝刊「時流自論」)はこんな書き出しになっている。

 現代世界は、もはやユートピア像を想像しにくい世界、良い世界とはどんなものなのかを思い描くことさえできない世界なのかもしれない。他方、無念なことに、ユートピアの反対のディストピアの方は、いま現在、迫力のある実在感を伴ってわれわれの心に迫ってくる。・・・(中略)・・・ユートピアは想像することさえ難しいのに、ディストピアの影はちらほらと見え隠れする世界。われわれはこんな時代に生きているのだ・・・(中略)・・・。個人が共同体に溶け込んだような社会は、むしろ弊害や欠点が多いということが分かってきたいま、なにか違うタイプのユートピア、個人の情念や自律性を大切にしてくれるユートピアを構想することはできないものか。・・・(中略)・・・われわれ人問というものは、存在の奥底で他人とつながっているところがある。言語は個人では完結しないし、性的にも、友愛的にも、人は自分のなかに欠如を抱え込み、それを埋めようと必死になっている。・・・(中略)・・・だから、自由や自律性を大切にする社会構想のなかに、解体の兆候を見て取る必要はない。むしろ、今までのユートピア思想が駄目だったのは、結局、一人ひとりの人間をどこかないがしろにしているところがあったからだ、とはっきり自覚した方が良い。

 そうだ、その通りだ。

 世間様の言いなりになったり、人任せで流されたりという場面を少しでも減らし、自分が本当は何を美しいと思うのか、自分が本当は何をしたいのかを絶えず自問しながら生活していけるような社会、そしてその気持ちを何とか生かせるような基盤を整えた社会。そんな社会を皆でつくり上げていくべきではないだろうか。まだボーっとでしかないとはいえ、私がぼんやりと夢想しているのは、各個人が最大限の自律性を保ち、自由に生き、同時に、他者の自由を可能な限り侵害しないような社会−いわば「ひとりぼっちのユートピア」なのだ。

 しかし世の中には人のあがりをかすめること、そしてその効率を可能な限りよいものにしようという強欲な連中がいる。彼らの欲望がユートピア社会の持つ自律的な制御の枠組みに入れられるならば、「どこにもない場所」はすぐさま現実の世界の中に現出するだろう。それが適うまでの間は「ひとりぼっちのユートピア」は「見ぬ世の人を友とする」世界にのみある。(1/16/2005)

 今週火曜日、青色発光ダイオードの発明対価に関する訴訟が和解した。東京高裁での和解額は6億857万円、これに遅延損害2億3,534万円を加えて、8億4,391万円の由。一年ほど前、東京地裁が認定した発明対価は604億円だった。原告が請求した対価が200億円だったため、これが満額そのまま認められたことで話題になった。下世話な計算をすれば、一審認定の100分の1、一審判決の30分の1以下になったことになる。マスコミの論点はおおむね「法外な一審判決額」と「妥当な和解額」の間をチョロチョロするだけのものになっている。

 会社が上げた利益の半分に発明者の権利を認めるのは過大ではないか、そう思う。ひとりのアイデアだけで発明ができたわけでも、その発明ですぐさま利益が上がったわけでもない、製造・品管・営業、数多くの社員との協働があってのことだ、そう思う。極端な話、朝、机を拭いてくれて、課にただひとつの花瓶に露草のような折々の名もない花を活けてくれる(そんな子はもういつの間にか死に絶えてしまったけれど)庶務の女性だって貢献をしているのだとそう思いなす会社生活を送ってきた。だからオレは心からそう思うさ。

 だが、財界があげて今回の特許訴訟と一審判決の不当を同様の口ぶりで批判するのを聞くと笑いがこみ上げてくる。さかんに「成果主義」を主張していたのはどこのどなただったか、と。目に見える成果、計数できる成果だけを申告させ、そういう自己主張のできない者を「無能」のハンコを捺してリストラしてきた、その同じ口でよくもまあ中村修二を批判できたものだ。あれほどの成果をあげたならば数十億をポンと支払うのが「成果主義」ではないのか。

 被告になった日亜化学という会社がどのような会社か、その一面を伝えるものが去年の「月刊現代」4月号に載っていた。書いたのは日亜化学創業者の長男でいまはその会社を退いている小川雅照。よくある創業家内のお家争いがからんでいるようだから、記述内容をそのまま信じるわけにはゆかないが、現在の経営トップ(創業者の長女に迎えた婿養子が現在の社長)の体質はかなり陰湿なものらしい。

 中村裁判の判決が出た直後、中村氏の恩師である徳島大学の多田修名誉教授が「これ(青色発光ダイオードの開発)は故小川信雄会長の功績が半分ある」旨の発言をされていました。これは父を知る人なら誰しも思うことで、・・・(中略)・・・その包容力や寛容さが従業員を引っ張る魅力になっていましたから、中村氏も父の会社にいてくれたものと思います。中村氏の著書『怒りのブレイクスルー』にあるような、日亜化学のあの排他性は、断じて父のものではありません。・・・(中略)・・・経団連にせよ経済評論家にせよ、200億円という額に気が動転し、中村氏がさも拝金主義者のような論評をしておりますが、彼はそんな人物ではありません。そんな人物を明治男で質素倹約の父が入社させるはずもありません。この問題の源は経営者の質や倫理観の問題です。・・・(中略)・・・誰しも思うことですが、なぜ中村氏が古巣の日亜化学を辞めたのでしょうか。裁判になってしまった今では、報奨金が少なかったことに中村氏が不満を持ったからだ、ということになっているようですが、実際はその逆でありましょう。最初に中村氏が会社を辞めたくなるような不満を募らせる原因が社内にあって、その後少ない報奨金を理由に辞したものと私は考えます。

小川雅照「日亜化学敗訴の恥を創業家としてあえて晒す」月刊現代2004年4月号から

 小川が書きたかったのは私怨だったかもしれない。しかしそれは何を看板にあげようと、いつまで経っても脱皮も離陸もできないこの国のマネジメント状況とさして変わらないということが可笑しくてならない。(1/15/2005)

 花子は太郎に強姦された。強姦罪は親告罪なので花子が告訴しない限り太郎が起訴されることはない。親告罪だもんなぁ・・・とつぶやきながら、NHKニュースを見ていた。ニュースのたびに、「安倍氏に呼び出されたわけではない」、「説明はNHKが自主的に行った」、「中川氏に説明したのは番組前日ではない」、「朝日新聞の報道は事実を歪曲しているので訂正と謝罪を求める」とNHKは繰り返していた。自分に関わるニュースというのは報じる方もやりにくい。NHKニュースのアナウンスは花子が「わたしは強姦されていません」、「わたしが強姦されたなんてウソです」と大声で叫んでいるかのように聞こえた。

 長井暁なるNHKプロデューサーの会見において、安倍・中川から圧力があったという部分は伝聞と表現しているから複数の論拠がなくては誰の眼にも明白とは言えない。しかし放送日の前日に異例の局長試写があり、番組内容の変更指示に基づいて放送当日に特定部分のカットがなされ、44分の放送時間が40分に短縮されたということは明確な事実だ。で、NHKでは、放送前日の夜、幹部が試写を行い指示をして、放送当日オンエア直前までに全体時間の約一割に相当する時間を短縮、変更することなど珍しくもないよくあることことなのだろうか。

 下品なアナロジーにこだわるならば、少なくとも「姦淫」はあったのだ。それが安倍晋三の主張するように「和姦」であったのか、朝日新聞が伝えたような「強姦」であったのかは、いまのところ、第三者が判断できる材料がそろっていないということだ。

 強姦罪を親告罪にしているのは被害者の意思に反して事実が公になり被害者の利益が損なわれることがないようにという考え方に基づく。時として犯人が被害者を圧倒的に支配できる関係にある場合、被害者が泣き寝入りせざるをえないようにしむける可能性はここに発生する。

 そういえば名誉毀損罪も親告罪だ。「強姦」ではなかったというのなら、朝日新聞に謝罪を求めるなどという手ぬるいことではNHKの名誉は十分に回復できない。「放送直前の番組改編など当協会においては随時当然のこととして行われている」。それを「あたかも政治家からの圧力を受けて恣意的に行ったかのように報じたのは事実と異なり、真摯に番組製作にあたっている番組プロデューサーと当協会の名誉を著しく傷つけた」と告訴しなくては、受信料を支払う一般視聴者に対して面目がたつまい。

 その時、NHKは件の改変を指示した局長の行為の正統性についてもあわせて調査し、見解を発表し、必要なら然るべき厳正な処分をしなければならないはずだが、それができないのがNHKなのだろう。(1/14/2005)

 きのうの朝刊で報ぜられたETV特集「女性国際戦犯法廷」問題で安倍晋三が「報道ステーション」に出演した。面白かったのは「単に公正中立性な報道を求めただけ」と主張する一方で、件の国際戦犯法廷の主催者が元朝日新聞記者の松田やよりだとか、検事に北朝鮮の工作員が2人入っているとか、一連の行為の最終責任は昭和天皇にあるとかいう内容であったとか、「単に・・・」というわりにはずいぶん立ち入ったことまで熱を入れて話し、なんだか「弁明」をしているかのような感じだったこと。

 不思議なのは安倍が事前に番組内容をどのようにして知り、それに偏向があると判断し得たかだが、それについてはどうせなんちゃらかんちゃら右翼のチンピラどもが精一杯の御注進に及んでのこと、腐敗臭プンプンたるものでこちらの品性まで下落するから問うまい。しかし、もし安倍の言うように、女性国際戦犯法廷が弁護士を欠いて審理を進めたとすれば、教育テレビのETV特集にチャンネルを合わせるほどの視聴者ならば、安倍が指摘できる程度の偏りについては十分承知しながら見ることができる。「公正」だの「中立」だのということを安倍程度のレベルの政治屋に判断してもらわなくともよい。余計なお世話なのだ。

 冒頭、安倍は「わたしの名誉のために」と切り出した。おまえに「名誉」なんぞあるか、嗤った。

 去年の秋だったろうか。「グランドキャピタル」という会社が出資法違反で摘発された。その会社のマルチ商法パンフレットには安倍晋三の名前が印刷されていた。逮捕された矢吹寿雄が主催するパーティで安倍晋三は「お若くして健康食品ビジネスで成功された」と矢吹を持ち上げた。出席者たちは安倍の講演を聴き記念撮影などをし、後日、安倍の秘書の案内でなんと首相官邸まで案内してもらった。すっかり信用した出席者の多くがこの会社の詐欺商法に引っかかった。詐欺師の共犯を務めるような政治屋の「名誉」なるものがどんなものかと思って嗤ったのだ。

 安倍にはNHKの放送内容にあれこれ注文を付けることより、首相官邸見学を看板にして、詐欺師の片棒を担ぐようなチマチマしたカネ稼ぎを自粛してもらう方がどれほど世の中のためになるか、そちらの方に思いを致してもらいたいものだ。(1/13/2005)

 **(家内)は**さん(義父)の見舞に9時少し前の「はやて」に乗るために先に家を出た。午前中、個人情報保護のワーキングでどうしても抜けられない。午後、半休を取る。新座で**(母)さんを乗せて病院へ。

 ちょうど**(息子)も来ていて、いっしょにICUに入る。意識はあるようだがほとんど会話はできない。話題によってはうなずいたりするから、こちらの話が分からないわけではないらしい。先生の話では以前から軽い脳梗塞があったのでないかという。入院手続きを取ったが、ある程度安定するまではICUに置くとのこと。もう、元に戻ることはないのかもしれない。

 **(母)さんのケアの方が必要と思い、同じく半休にした**(息子)と三人で平林寺前の「たけ山」で鴨スキを食べたり、ルポでコーヒーを飲んだりする。**(息子)の存在がなんともありがたい。つくづくそう思った。

 核家族時代の「家」は孤立している。夫婦の寿命が「家」の寿命そのものだ。新座の家はもう終末を迎えようとしている。我々の家も似たようなものだ。ある意味、「斜陽」なのだ。**さん(かつての上司)のところや**さん(かつての上司)のところのことを思った。子供がいない家はどうなのだろう。こうした心細さ、胸が塞がるような思いをそのまま二人で引き受けなければならないのだろうか。

 きのうかおとといの新聞に載っていた野田聖子の話を思い出した。子供ができない夫婦の願いに、できる限り国も法制度も応えるべきだという話が起点だった。不妊治療や代理出産に対してはずっと批判的だった。基本的な考えはいまも変わらないし、これからも変わらない。しかし、こんな事態を子供がいない夫婦はどのように迎えるのだろうと思うと、彼らの願いをむげに退ける、そういうことはできないなと、**(息子)のどでかい背中を頼もしく見つつ、心からそう思って帰ってきた。

 ・・・と、ここまで書いたら、どっと疲れが噴出してきた。ちょっと気になるニュースが朝刊に載っているがあしたにしよう。(1/12/2005)

 けさ、深夜に**(父)さんが救急車で朝霞台中央病院に搬送された。**(母)さんは我々が**さん(義父)の見舞に豊里に行っているものと思い込んでいて、家の電話ではなく携帯の方に連絡を何回か入れたらしい。こちらは夕方になって携帯の留守電サービスで知った。

 詳しいことは担当医が「息子さんと一緒に説明したい」と言っている由。ICUにいるものの、すぐにどうこうということはなく、今夜はもう**(母)さんも新座に戻っているということなので、あした、見舞に行くことにする。(1/11/2005)

 傲慢にも「ボケ」とは無縁だと思ってきた。だが懐かしさに新座の本棚から持ってきたランダウ=リフシッツの「力学」に挟まっていた解析力学の試験用紙とレポートの下書きと思われる紙を見て愕然とした。憶えがないことには驚かないが内容がぜんぜん分からないことに愕然とした。書かれている字は自分の字だ。なのに書いている内容がまったく分からない。「分からなさにも程度があるだろう」と自分を叱りたいほどに分からない。既にボケは始まっている。

 小半日ほどかけてラグランジアンの意味について記憶をたぐった。思い出したわけでも分かったわけでもないが、どうにか試験の第2問の設問の狙いがどういうものかがおほろげながらに分かったつもりになったとき、夕飯になった。

 仕事はもちろん、生活上からも分からないことに気付くようなものでないこと、また、それによる痛痒も感じないことだから、笑っていられる。しかしこういう「忘却」が少しずつ少しずつ範囲を広げていると考えるなら、まさしくボケはもう始まっているのだ。(1/10/2005)

 **(母)さんの傘寿のお祝い。食事会の予定が**(父)さんが外出に不安があるということで新座に行くことにした。

 茶の間にはいると相撲中継からこちらに向き直って、「朝青龍が負けて、魁皇が優勝したよ」と言う。「きょう、初日でしょ。先場所のこと?」というと、いや「朝青龍が負けちゃってね。・・・魁皇が優勝さ」と繰り返す。

 持参した「花びら餅」でお茶。すると「いや、息子がね、こたつが壊れていたのを直してくれたのさ」。**(母)さんが「直してくれたのは仁則、ご本人さんよ」とこちらを指さすが、分かっているのかいないのか。なんだか急に来てしまったらしい。「いい息子でね、これが」。いや、そう面と向かって褒められるのも悪くはないけど・・・、やっぱり、こそばゆい。

 「子供たちも楽しい子ばかりでね・・・」。「うちの子? **(弟)のとこの子?」。「**(弟)は死んだろう」。「ウン、**・**(うちの息子たち)のこと? それともあのおチビちゃんたち?」。・・・しばらく、声がない。「これ、あげるよ。どうもきょうは腹が空いてない」と、つまんでいた寿司をこちらによこす。ウニも、イクラも、トロも、手つけず。「アッ、ごちそうさま」。もうほとんど散文の世界。

 駅前のパン屋のあんパンが焼き上がる時間を見計らって**(家内)が猪口や茶碗を片づけようとすると、「片づけはわたしやるから、いいから。話することってほとんどないから、時間いっぱい相手して」と**(母)さん。なるほど、この状態では夫婦の会話もなかなかなのかもしれない。

 「少し、口げんかぐらいするのがいいんじゃない」。「ウン、そういう話も聞いたけど、ちょっと自信なくすみたいだから」。以前はけっこう激しく小林千登勢の旦那の名前がどうだとか、仲人をした方の娘さんが結婚したとかまだだとか、そういうことで記憶争いをしていたのだが、どうやらもう**(母)さんの敵ではなくなってしまったらしい。

 フム、うちはどちらが先に恍惚の域に達するのだろう。先に惚けた方が勝ちかもしれない。(1/9/2005)

 一昨日から朝刊に掲載された「新年日本の皆さま」、上・中・下をまとめ読み。

 上、塩野七生、中、安藤忠雄、下、矢作俊彦。塩野は指摘も提言も平凡、安藤は指摘は的確だと思うが分析が常識的。その意味では矢作が一番刺激的だった。以下、安藤の言葉から思ったこと。

 冒頭、安藤の話は「(日本人は)貧乏だが、高貴だ」(ポール・クローデルなるフランスの詩人がバレリーに語ったと伝える司馬遼太郎の言葉)というところから始まる。しかしいまの日本は「モノはあふれているが、創造力がなく、誇りを失って」おり、人々は思考停止に陥っている。

 その原因を安藤はこんな風に分析する。「明治になって日本は、信じられない勢いで近代化を成し遂げ」た。「その下地には、勤勉を美徳とし、労働が生活の中心だったことに加えて、江戸時代から歌舞伎や文楽、浮世絵などが大衆に浸透したり、四季の移ろいを愛でたりするような民度の高さがあ」った。敗戦後、「日本人は米国型消費文明にあこがれ、60年代の池田内閣による所得倍増計画、70年代初頭の田中角栄元首相の日本列島改造論に至るころまで、ひたすら働いた」、「だが、物質的な豊かさを手に入れ、世界の経済大国になった日本人は、『カネさえあれば豊かになれる』と思いこみ、祖先が大切にしてきた精神文化や自然環境、伝統を犠牲にしました。それこそ我々を支えてきた社会的遺伝子であったのに」。そしていまや「個人の責任を放棄し、思考停止に至った」と。

 前段に異論はない。しかし豊かさを求めて社会的な美質を棄てたというのは社会の決定であって、けっして個人の決定ではなかったのではないか。吉川弘の「ケインズ−時代と経済学−」の末尾にこんなことが書いてあった。

 彼は次のようにも書いた。「経済問題の解決は、人類にとってさして困難なことではない。もし私に任せてもらえるなら、私が解決してみせましょう。」真の問題は、物質的「豊かさ」に関わる問題が解決した後に、人類は一体何をすればよいのか、ということだ。ケインズはこう考えたのである。・・・(中略)・・・先進国では大きな戦争が無ければ半世紀後に貧困の問題はほぼ解決するだろう。しかし有史以来物質的な「豊かさ」を向上させるために営々として労働に勤しんできた人類は、ここに至って目標を失うことになる。ケインズは富裕階級に蔓延している倦怠を例に挙げながら、これこそが人類を待ち受けている未来の姿なのかもしれない、と指摘する。
 物質的「豊かさ」を実現した後の倦怠と退嬰に代わるものがあるとすればそれは何か。ケインズの頭の中にはっきりと描かれていたヴィジョンは、「書物」と「芸術」であった。芸術協会(美術や音楽など芸術活動を財政的に支援することを目的とする財団)設立に際してケインズが行ったラジオ・トークは、先のエセーより遥かに明るい内容である。彼は、長い間ごく少数の人にしか享受されえなかった芸術が、二十世紀中葉に至って遂に全てのイギリス人に解放されることを情熱的に語っている。

 平和を通じてもたらされた豊かさをどのように享受するかという問題は、けっしてこの国のいまに限った問題ではなかった。ある程度の豊かさを達成した後の個人が、豊かさをめざした目的と意思をどこに持っていたか、あるいはそういうものを明確に持ちえたかということが問題なのだ。

 安藤が指摘する「民度の高さ」は間違いなく元和偃武から幕末に至る二百数十年に及ぶ戦乱のない時代が作り上げたものだった。それが冒頭の言葉「貧乏だが、高貴だ」の背景だ。

 だがいまこの国のかなりの人々はたった50年で平和に飽きてしまったようだ。だから「書物」と「芸術」(これはたんなるサンプルとしての例示に過ぎないのだが)から遠い者ほど、しきりに平和の悪口を言い始めたのだ。平和の配当である「豊かさ」からどのような収穫を期するかについての想像力がわかないから「平和ボケ」などというバカバカしい「ボケ」をかましている・・・、という、この皮肉。

 「貧乏だが、高貴だ」という評価のあった人々の末裔は、いまや、「カネがないわけではないのに、どこか卑しい」という「フツーの人々」をめざして、中味のない憲法改正談義や強権国家論などを声高に論じている。土台のない社屋がどのようにしたら建つものか不思議でならないが、これがいまや多数派だとするなら是非もないことだ。(1/8/2005)

 年が明けてから偽札のニュースを聞かない日はない。既に北海道から鹿児島まで、千枚近いニセ一万円札が発見されている。主に初詣の境内の出店や社務所で綿菓子やら破魔矢、お守りを買うのに使われている由。二、三日前のニュースで、インタビューされた神主とおぼしき人が「偽札でお守りを買っても御利益はない」というようなことを真顔で言っているのを見て、吹き出してしまった。彼の心配は賽銭箱の中味までニセ札が侵蝕していることなのかもしれない。

 ところで、買い物にニセ札を使うことが犯罪である理屈は分かるが、賽銭にニセ札を使うことはどうなのだろう。法律はおそらく犯罪であるとするだろう。それは法的強制力の主体が、贋札の製造を自らの権威に対する挑戦と解し、珍しく感情的であるからに他ならない。

 では、神もまた贋札を罪とするのだろうか。贋札を嫌うのは、神の名を騙ってこれを生業にしている「贋の神」どもの個人的な事情ではないのか。まさか、神が人間どもに限って流通する極めて生々しい価値の証しなどに、人間どもと同様の価値を認めることはあるまい。

 ニセ札使いどもよ、作ったニセ札はすべて神社・仏閣の賽銭箱に投げ入れるがいい。神主や坊主どもは怒り狂うかもしれないが、カミとホトケがホンマモンの神と仏ならば、その行為は必ずや許される。(1/7/2005)

 ブッシュという男と彼の政権がどの程度のセンスの持ち主かを如実に表わす記事が朝刊に載っている。

 スマトラ沖大地震・津波の被害救援をめぐって6日に開かれる緊急首脳会議を前に、米国と欧州連合(EU)の間で、どのような国際的枠組みで進めるかに関し、考え方の違いが鮮明になっている。米国が日本、インド、オーストラリアなどと主導する「コア(中核)グループ」構想を掲げるのに対して、EUは国連中心の救援を重視する。・・・(中略)・・・
 「中核グループ」構想は地震・津波発生3日後の12月29日、ブッシュ米大統領が自ら公表した。当初の4カ国に加え、3日にはカナダとオランダの参加も決まり計6カ国となっている。「効率的な支援活動を目指す」(米政府当局者)のが狙いで、パウエル国務長官が早速、関係各国の外相と協議を始めた。米国がこうしたタイミングで構想を打ち出した背景には、同国が救援に不熱心だという国際的な批判があった。大統領がテレビカメラの前に立って救援を表明したのが地震発生の3日後と出遅れたうえ、当初表明した救援額が1500万ドルだったことには米国内でも「大統領就任式に使う金額の半分以下」(米ニューヨーク・タイムズ紙)などと批判が渦巻いた。
 ブッシュ大統領は「批判は間違いだし、情報不足だ」と巻き返しに懸命だ。31日には救援額空拳に3億5千万ドルに増額。さらに空母打撃部隊を含む1万人以上の米軍部隊を被災地域に派遣し、積極的な貢献をアピールしている。
 これに対しEU議長国ルクセンブルクのディパルトロメオ保健相は1日、ジュネーブで「(中核グループより)大きく、誰にも開かれている連合がすでにある」と述べ、米国の構想を批判するとともに、国連への救援努力の結集を訴えた。「これだけ大規模かつ長期的な災害救援をグローバルに調整できるのは国連しかない」(EU人道援助局)との考えからだ。
 米国の中核グループ構想の背後には、国連に対するブッシュ政権の不信感も見え隠れする。イラク戦争に突き進む際、米国は国際社会のまとめ役として「国連」ではなく、「有志連合」を選んだ。欧州メディアの多くは、今回の中核グループ構想を災害救援にも有志連合方式を導入することで米国が再び「国連はずし」を画策していると受け止める。

 いったい、ブッシュは、どんな批判が「間違い」で、どんな情報が「不足」していたというのだろう。自らの就任式にかけるカネの半額にも満たない1500万ドルはたんなる「手付け金」で、最初から3億5千万ドル出すつもりだったとでもいうのかな。

 それにしても突出して少ない額(早々と支援を発表したファイザー製薬などは1000万ドルと自社医薬品2500万ドル)を提示しながら、それでも活動の主導権を握ろうという根性(金は出さない、口は出す)が嗤える。おそらくまたブッシュ自信やチェイニーやラムズフェルドが役員を務める企業で仕事を請け負うことを考えているのだろう。どこまでも、さもしい連中だ。アメリカという国も墜ちるところまで堕ちたものだ。

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 夕刊には「コアグループ解消:批判に配慮の米:国連と対立回避」の見出し。ブッシュの「ビジネス」は頓挫したようだ、さぞ悔しかろう。

 そんなことより興味を持ったのは以下のくだり。

 「コアグループ」は、ブッシュ米大統領が提唱し、12月29日に発足した。同高官(注:外務省)によると、町村外相の自宅にこの日、パウエル国務長官から直接電話があったという。被災国に近く、すぐに救援部隊を派遣できる国という基準で日本、オーストラリア、インドが選ばれた。インドは被災国でもあるが、スリランカに救援組織を派遣するなど、南アジアの中核として欠かせない国との判断があったという。

 アメリカは中国には最初から声をかけなかったようだ。ひとつには中国の対応が格段に早かったこともあるのだろうが、東南アジアでの覇権争いを意識した姿勢の現われだろう。しかし未だに中印は仲が悪いと考えているとしたら、これはお嗤い。(1/6/2005)

 911直後にスリーマイル島(TMI)原発へのテロ攻撃の情報があった。これに関するアメリカ原子力規制委員会(NRC)の内部資料にもとづく記事がけさの朝刊に載った。

 内部資料はA4判で135頁。それによると、01年10月17日午後5時21分、ある政府機関からメリーランド州にあるNRC本部警備部門に電子メールが届いた。「17日11時、TMIの1号炉にテロ攻撃の可能性がある。米国人の犯人が原発内部に侵入し、原子炉用の冷却設備を破壊。外からは中型の飛行機が突っ込む」。・・・(中略)・・・当日は原子炉を停止させ、核燃料を交換する日だった。原子炉容器のふたが開いているため、いつもより攻撃に弱いこの日を選んでいるうえ、79年の事故で知名度が高いTMIをねらっていることなどから、NRCは「信頼性は高い」と判断した。「従来の偽情報とは違う、紛れもない脅威だと結論づけた」と資料には記されている。NRCは、米連邦捜査局(FBI)や米連邦航空局(FAA)、ペンシルベニア州緊急事態管理庁、TMIを運転する企業に相次いで連絡した。

 記事には、このあと、報告書に記載された問題点のいくつかが続く。こういう内部資料が数年を経ずして情報公開法に基づいて開示されることはすばらしいことだと思う。

 おそらく、この国では、まずこういう記録が作成されるかどうかが怪しく、なおかつ問題点の検討がなされるかどうかはさらに怪しく、かりにそれらがあったとしても公開されるということになると、たぶん絶望的だと思う。

 だいたい「安全だ」などというくせに、わざわざ人里離れた場所、しかも選んで仮想敵国が存在する側の海岸に原発を並べて建設するような国なのだから。(1/5/2005)

 仕事始めなのだがあらかじめ休暇申請をしていたこともあり、予定通りとして、新座のこたつ修理のための機材を池袋で買いそろえて新座に向う。袋コードであることと伝わった熱によるものか一部被覆がボロボロになっていて少し修理に手間取る。

 夕刊に小泉首相の年頭会見の要旨が載っている。夜のニュースに見る限り郵政民営化ばかりに思えたが、その他にも「北朝鮮問題」、「憲法改正」、「靖国神社参拝」と並んでいる。その中にごくごく短く「スマトラ沖地震」が述べられている。「要旨」なので実際の言及がどの程度あったのかは分からないが「関係諸国の被害に対して最大限の復興支援をしたい」程度の話なら中学生でもできる。課題は丸投げ、スピーチ原稿は棒読みのジュンチャンにはなんの工夫も頭に浮かばなかった。そして原稿は仕事の速い優等生官僚が12月26日前に早々と用意してしまった。これが真相だろう。

 そんな宰相を戴く我々はどうしたらよいか。方策は限られている。すべての厄災が「予定」通りに起きることを祈るばかり・・・、ということだ。

 **さん(義父)、**病院に入院。心不全の由。(1/4/2005)

 きのうの続き。読売社説でいちばん嗤えるのは、【改正すべき教育基本法】のくだりだ。何故教育基本法が改正されるべきかという根拠として、社説子があげたのは「愛国心の否定」と「伝統の尊重の否定」の二点である。「否定」という強い言葉を使う以上は、教育基本法の第何条にこれらを否定する文言があるのか、読売は指摘しなければならない。不思議なことに、我が家の小六法では、ついに「教育基本法」の前文、そして第1条から第11条までのどこにも、そのような文言は見あたらなかった。

 こう書くと、教育基本法の改正論者はどういうわけか、しらふから酩酊状態にある連中が多いから、「愛国心や伝統の尊重と書かずに個人の尊厳と書くからいけない」などということを言いそうだが、「太郎が好きだ」と公言することは「次郎が嫌いだ」ということを意味するわけではない。どうしてもというなら他の文言には一切手を入れずに、嫉妬深い「愛国心」と「伝統の尊重」を第8条と第2条にでも追記すればよかろう。それとも、そもそも読売は「個人の尊厳を重ん」ずることそのものが嫌い、「真理と平和を希求する人間」が嫌い、「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化」が嫌いなのかしらん。嫌いだからこそ、先の文言を追加するのではなく、現在の教育基本法をすべて書き直すことを主張しているのだろうか。

 読売新聞の読者が、現在の教育基本法を心から憎み、「奴隷的な扱いを受けることが好きで、不正と戦争を心から愛しており、偏頗で無個性の文化こそ理想である」と考えそれを望む人々であるなら、読売読者は新しい「教育宣言」を熱烈に歓迎し、父母、兄弟、朋友に読売新聞の購読を奨めてくれることだろう。読売よ、心配することはない、さあ、宣言しよう、「我らが読売とその購読者の心からの望みは、奴隷と不正と戦争と無個性である」と。

 残りの見出しは【「平等」偏重から転換を】と【経済規模縮小の危機】。「平等主義」の否定は最近のトレンドだ。社会全体が慢心し、少なからぬ人もまた慢心している証左であろう。

 前世紀前半、世界経済はある行き詰まりを見せた。さらに資本主義対社会主義という対立軸も露わになった。その過程でまず硬直した資本主義国が戦争による解決に走り、結果、自滅した。それから数十年を経て社会主義計画経済も破綻した。生き残ったのがアダム・スミス型の自由放任(またの名を市場原理)資本主義と思っている人もいるようだが、資本主義国を救ったのはケインズ型の修正資本主義だった。「修正」の意味内容は「有効需要のコントロール」である。

 ケインズは当時の最大課題だった失業問題について、それまでの大方の経済学者の素朴な説明、曰く「賃金が高すぎるから」、曰く「衰退産業から成長産業に労働者が転職するときの一次的な状況」、曰く「失業保険制度が労働者を甘やかしている」などなど、いまでも形を変えてよく耳にする思いつき的なミクロの説明をいくら積み上げても問題を根本から解決することできないとして「有効需要の原理」に基づく財政出動を主張した。有名な「蜂の寓話」を借りて語られた「貯蓄性向の拡大こそが不景気を深刻にする」という逆説はいまも生きている。

 読売社説はなんの分析もなしに経済規模の縮小予測を消費税率アップの主張に結びつけている。可笑しいのは消費税率アップの主張の根拠として「平等偏重主義の是正」をあげていることだ。消費税こそ「税負担の公平性」における悪しき平等主義の王様ともいうべき存在であるのに。(100万円の軽自動車も1000万円の超高級車も消費税率は同じ、これこそ是正すべき平等主義ではないのか?)

 そして消費税率の一律アップこそ、将来不安の心理を煽りかえって貯蓄性向を高め、まず消費需要の減少から企業の投資需要(このふたつの「需要」の縮小こそが読売が見出しに掲げた「経済規模の縮小」に他ならない、そのことを知っていて書いているのだろうか?)を押し下げ、もって税収の基盤を損なうという悪い経済サイクルへの案内人だということを忘れている。

 ここまで経済に関する知見を欠いた社説を掲げられるのは世の中を知らぬからか、それとも読売社説子にとってもともと経済のことなどどうでもいいのかもしれぬ。だからこれほど脳天気な経済論議(?)を開陳できるのだ。サンケイの社説子にも共通することだが、彼らが語っているのは、単に「戦後民主主義をつぶせ」という感情的なイデオロギーに過ぎない。良きにつけ悪しきにつけ、過去半世紀の時間をすっ飛ばすような「保守主義」など、「保守主義」の名に値しない。そういうものはただの「復古主義」だ。(1/2/2005)

 朝刊一面に並んだ記事は、「西武鉄道株の虚偽記載問題」、「奈良の女児殺害事件の続報」、「スマトラ沖地震・津波」、そして「昨日の雪による交通混乱」だった。元日を特別の日と思うのはたしかに子供じみているかもしれないが、それにしてもなんとまあ「元日、早々」であることか。

 せめて社説くらいはと思って主要紙の社説を読んでみた。各紙とも元日らしく過去に立脚した未来の構築を論ずる点は同じ。対照的だったのは毎日と東京が「民主主義を活かす」ことを基本に据えたのに対し、読売が「民主主義を否定することから始めよ」としていることだ。さすがに読売も民主主義を真っ向否定することはできにくかったものと見えて「戦後民主主義」を否定するのだと書いている。民主主義が嫌いならば「民主主義なんか大嫌いだ」と素直に書けばいいのにその勇気はないらしい。

 なぜその勇気が持てないか。読売の社説子がどれほど自己を見つめる眼を持っているかは分からないが、その理由は明らかだ。読売には論理がなく、現実を背後まで見通す分析能力がないために、事実に振り回され、透徹した意見が持てずに右往左往するばかりで、自らの主張に自信が持てないからだ。

 読売の社説には五つの小見出しがついている。最初の【新たな歴史的激動期】。「情報技術(IT)革命の進展を伴いつつ、世界経済も急速な構造的変動のただ中にある」という部分の前段以外に異論はない。ただ、いまだに「IT革命」などという幽霊をいまだに信じているらしいことが、読売社説子のITコンプレックスの根深さを連想させて嗤える。(IT革命などないことは既に実証済み)

 続く【「戦後民主主義」の残滓】と【改正すべき教育基本法】を虚心に読んで、読売が「アメリカに対してどのように向き合うべきである」と主張しているかを理解しようとすると軽い眩暈を覚える。「GHQ」が主語になっている部分の読売のスタンスは明らかに「反アメリカ」である。ところが、そういう文章の中に「米国は現在、世界的な規模でいわゆるトランスフォーメーション、米軍再編に着手している」から「日米協力・相互補完関係を展望すれば、集団的自衛権を行使する様々なケースを想定せざるを得ない」という文章が突然入り込んでくる。この部分の読売のスタンスは明らかに「アメリカ盲従」である。読売購読者でこの社説を読む人(けっして多くはないだろうが)は混乱しないのだろうか。

 書かずもがなのことだが、「戦後民主主義(を生んだアメリカの占領統治)の残滓」については詳細に検討し必要な見直しをしなければならないという主張はまったく正しい。と、同時にその延長線に自動的に載せられた安保体制から昨年のイラク派兵に至る永年の政府の政策も根本から問い直す必要がある。中途半端なところで見直しを打ち止めにするのは論理的に根拠がない。

 アメリカの世界戦略に唯々諾々と従うのは、与えられた「民主主義」をそのまま放置すること以上に問題が大きい。プライオリティの付け方に関する基本的なセンスを欠く人間を会社では「使えない奴」という。読売社説子はどうやら「使えない奴」の最右翼にいると断言してよいようだ、呵々。(1/1/2005)

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