「一つのチームが、孤独な叛乱を最後まで貫こうとしている。役割遵守を前提に守備的布陣を敷く組織的フットボールに背を向け、プレーヤー一人一人の個性と直感力の発露をのびのびと肯定する攻撃的なブラジル」、日経朝刊で今福龍太は「フットボールの快楽」と題して、こう書き始めていた。

 ドイツ対ブラジルの決勝戦は、一見、彼の言うとおりに見えた。ボールを支配し続けたのはドイツだったにもかかわらず、真にゴールを脅かしたのは圧倒的にブラジルだったという点で。ドイツが十数回に及ぶコーナーキックの機会を一度として活かせなかったのに対し、ブラジルはあのパーフェクトキーパー、カーンのミスに乗じて先取点、そしてため息をつかせたプレイで二点目をあげた。

 しかし、「ドイツの試合は退屈」という「常識」によりかかった「勝負にこだわった選手の個性を抑圧する組織的チームプレイが本来のボールゲームの面白さを奪った」などという紋切り型の主張を認めようとは思わない。

 ブラジルの二点目。あれはロナウド独りの個人技によってあげられたものではない。後方からのパスが出たときそれはリバウドの球に見えた。しかしリバウドはこれをスルー、ロナウドが蹴り込んだ。瞬時のことだったがリバウドはオトリ役を務め、それにつられたカーンはわずかに遅れてロナウドのシュートへ飛び込むことになってしまった。明日の新聞の見出しは圧倒的に「ロナウド」だろう。そしてスポットライトのあたるところしか見ない者は、今福がいう「選手個人の個性を尊重した攻撃的で面白いサッカー賛美」に拍手を送り、「個性を抑圧した組織的チームプレイ」を「つまらぬもの」と批判してひそかに日々の鬱憤を晴らすに違いない。この時代にあっては、組織の歯車として自らの個性を犠牲にし、砂を噛むような日々を送っている人の方が多いのだから。

 だが、ここ一カ月のあいだ続けられたサッカーの最高峰ともいうべき試合で、組織的チームプレイに支えられていない個人技オンリーの得点例をあげてみろといわれれば、いったいいくつのゴールをあげられるだろう。精妙に組み立てられた組織プレイの美しさが、際どい幸運に支えられて奇跡的にゴールに結実する快感、これこそがこの大会で見たものだった。今日、ドイツはその組み立てにわずかに齟齬をきたし、ブラジルはそれを成立させることができた。それだけが勝敗を分けたのだ。

 もし、どうしても「組織的チームプレイ」が大嫌いで、「プレーヤー一人一人の個性と直感力の発露」なるものだけを純粋にみたいのなら、始まったばかりのウィンブルドンをみたらいい。しかし、そこでも「勝負にこだわった」ある種の「抑圧」なしに勝利をかち取る選手を見るのは難しかろうが。

 多くの人は今晩見たはずだ、こんな小理屈がバカバカしく思えるものを。試合後、ゴールポストにもたれかかり、やがてずるずると腰を落としたカーンの姿。あれこそ、人生になにがしかの悔いを持たずにはいられない圧倒的多数の人々の心象風景と呼応し、誰もが知っているにもかかわらずけっして口にしようとはしない類の共感を呼ぶ映像だった。(6/30/2002)

 朝刊に沢木耕太郎「トルシエと日本代表」が載っている。昨日・今日で上下二回。

 沢木のトルシエ評はかなり手厳しい。「そもそもトルシエは多くの矛盾を抱えた、ある意味で未成熟な人間だった。そのことは選手たちにもすぐにわかった。急にカッとなり、暴言を吐くようなことは珍しくなかった」。「かつて日本の代表監督を務めたハンス・オフトは優れた指導者だったが、危機的な状況に見舞われると目を閉じてしまうようなところがあったという。トルシエにもそれと似た『小心さ』があった。彼が怒鳴り散らすときはパニックに陥っているときだ、という共通認識が選手たちの間にもあったくらいだ」。

 98年に代表監督に就任したトルシエの幸運は「小野や稲本をはじめとする『黄金世代』と呼ばれる若手の有望選手が豊富に手に入ったこと」であったが同時に問題も抱えていた。その問題とは「中田英寿」の存在だったという。「中田がイタリアでつぶされてしまえば問題はなかった。日本に戻ってきた中田を使うかどうかはトルシエの自由だった。しかし、中田のイタリアでの成功によって、代表チームにいるときはその存在の大きさを、いないときはその存在を常に意識しなくてはならなくなった。トルシエは中田の扱いをどうするかに神経を使わざるをえなくなる。そして、いくつかの矛盾した言動をとることになった」。

 一方の中田はどうか。「中田は一貫してトルシエを嫌っていたと思われる。顔を真っ赤にして怒り狂ったかと思えば、次の瞬間には近くにすり寄ってきてつまらない冗談を言う。一時はこのトルシエの二面性を監督としての意識的な戦略かと思ったこともあったが、単に抑制のきかない感情家が恣意的な振る舞いをしているだけだということがわかった失望は大きかった」。しかし、中田はワールドカップにあたって覚悟を決めるようになる。トルシエが監督するチームであろうがなかろうが、「日本代表というチームの中で一定の役割を『演じる』ことを引き受けようとしたのだ。それがどのような契機で、なぜだったのかは、いずれ彼自身の口から明らかにされるだろう。少なくとも、彼が『チームリーダー』を演じることを引き受けたとき、二つの日本代表が一つになる契機が生まれたのだ。トルシエはそれに救われた」。

 沢木は日本が一次リーグを突破できた最大のポイントはベルギー戦の鈴木の同点ゴールにあったと書く。「点を取られた2分後のゴールだったことが、日本代表が不安に陥ることを防いだ」。「鈴木の同点ゴールで1点という以上の大きなものを手に入れた。それは、自分たちが戦えるのだという自信である。優れた技量を持っていた日本代表にとって、結果を出すために必要なものは『核』と『自信』だった」。「核」は中田であり、「自信」が同点ゴールだった。そのファンダメンタルの上に日本は対ロシア、対チュニジアと勝ち進むことができた。

 では、なぜ決勝トーナメントの初戦で敗退することになったか。「トルコが強いことはブラジルとの初戦ですでに明らかだった。しかし、だからといって、勝てない相手ではなかった。日本と同じように優れた中盤を持っているが、絶対的な破壊力を持ったチームではなかったからだ」。ならば、何故。沢木は「敗北の大きな理由はトルシエの『ゆらぎ』にあったと私には思える」と書く。「丁半博打に、勝ち続けているときは賭けている目を変えるなという鉄則がある。サッカーの世界にも似たような言い方があると聞いている。だが、トルシエは『目』を動かしてしまった。それにはいくつか理由があったのだろう」。「だが、間違いなくそれは、日本代表が自分たちに抱きかけていたセルフイメージを突き崩すことにつながった。経験のないフォーメーションは選手たちを不安にした」。

 「試合に臨んだ監督にとって最も重要なことは、選手たちに持てる力を十分に発揮させてやることだ。もしその監督が優れているなら、持てる力以上のものを発揮させてやれるかもしれない。だが、それには、選手たちの力を冷静に見極めながら、どこかで彼らを深く信じる心を持っていなくてはならない。恐らく、韓国の監督のヒディンクには、トルシエよりはるかに信じる能力があったのだ」。あとは平凡だから書かない。しかし、「(トルシエが)4年、苦楽を共にした選手たちを信じきれる監督であったなら」と慨嘆する沢木に、まだサッカーを見始めてまもない身としては、同意したい気持ちだ。

 お昼頃、朝鮮半島西側沿岸で北朝鮮と韓国の警備艇が交戦し、韓国側に4人の死者が出たというニュース。三位決定戦当日のできごとだけにいろいろな想像をさせるが、たぶん偶発的なものだろう。その証拠に金大中大統領はあした予定通りファイナルマッチ観戦のため訪日する。

 夜の韓国対トルコの三位決定戦は3−2でトルコが韓国を下した。開始早々、わずか11秒でトルコが先制。韓国がいったんFKから追いつくもののトルコが立て続けに得点し3−1で前半を終了。後半も一進一退が続き、終了まぎわのロスタイムにシュートを決め食い下がりはしたもののそのまま終わった。開始前の戦死者に対する黙祷がエアポケットになり、韓国は出だしでこけたまま立ち直れなかった、そんな印象の試合だった。

 しかし、試合よりも印象深かったのは、韓国の敗北直後に観客席に広げられた巨大なトルコ国旗だった。韓国のサポーターは懐の深いところを見せた。そして、フィールドの両国の選手は混じり合って肩を組みスタンドに歩み寄り深々と観客に礼をした。ワールドカップの中継はせいぜいフランス大会からしか見ていない。だが、このような光景が常套的なものでないことは知っている。それはわがことのようにうれしい光景だったと、書いておこう。(6/29/2002)

 夕刊にはサミットのニュース。反グローバリズムNGOの抗議に恐れをなしてカルガリーに近いカナナスキスなる山間の僻地を開催場所に選んだこと自体が、サミットのマンネリ化と単なるセレモニー化を表している。おりしも昨日、ニューヨーク株はワールドコムの不正会計処理露見がトリガーとなって一時9,000ドルを割り、911以後の最安値を更新した。アメリカの政治はとっくに三流になっているが、どこかの国同様、政治の三流化と踵を接して経済も実態は粉飾決算で整形した三流資本主義になっているということがわかった。

 ブッシュはワールドコムの不正に激怒して徹底的な調査を指示したという。政権内に汚職関係者がいたためエンロンスキャンダルに対してはきちんとした手が打てなかったブッシュだが、ワールドコムからは袖の下をもらっていなかったから出して当然の指示を出せた、ただそれだけのことなのだろう。いずれにしても短期の株価つりあげのみを経営目標にするような現在の米企業経営層の近視眼を治さない限り、この手の経済不祥事は増加することはあっても減少することはあるまい。アメリカには、もはや、フェアプレイの精神はかけらも残っていない。(6/27/2002)

 オウムの新実智光に死刑の一審判決。松本と地下鉄の両サリン事件の実行にかかわったほか、坂本弁護士一家の殺害、信徒のリンチ殺害に関与したことが明白である以上当然の判決。以下、夕刊記事の一部。

 「一殺多生。(事件の被害者は)最大多数の幸福のためのやむを得ぬ犠牲である」「グルの指示であれば人を殺すことに喜びを感ずることが出来るのが、私の理想の境地である」
 被告が社会に挑戦するかのようにあえてこうした言葉を並べたのは、犯行に荷担したのは「教祖」の心理操作に操られたからだとか、「教祖」の指示・命令には従うしかなかったと主張する、他の被告信徒たちとは自分は違う、「衆生の幸福」のためだという強い自負からだった。
 被告が自分を文字通りの「確信犯」だと称するのは、そのことを正直に語る方がいっそ潔いと考えたからに違いない。
 だから被告は、自分がかかわった事件の26人にも及ぶ犠牲者に対して、「すべては因果応報」「シヴァ大神のおぼしめし」などと言い放つことが出来たのだった。
 しかし、そうした被告について、私が同時に思うのは、「確信」という名の我執に陥った者が、自分の本当の姿にいつまでも気づかないでいることの痛ましさである。

 この記事は降幡賢一の署名になっている。降幡はオウムの裁判を一貫して取材、「オウム裁判と日本人」という著書もある。この記事における彼の指摘は正しい。しかし、宗教というものは(宗教に限った話ではないが)まさにこの「確信」に支えられてこそのものなのだ。麻原彰晃、いまでは本名の松本智津夫で呼ばれている男の俗物性はいろいろに伝えられたから、降幡のいう「痛ましさ」にはほとんどの人が同意するだろう。だが松本が俗物であることは必ずしも新実の「確信」が偽物であることを意味しているわけではない。早々と「回心」した林郁夫と対比して、新実智光にある種の誠実さを見るのは、へそ曲がり人間ばかりではないだろう。

 準決勝第二戦、ブラジル−トルコ戦は、1−0でブラジル。(6/26/2002)

 なんやかんやですぐには帰れず、韓国−ドイツ戦のキックオフ直前の帰宅。

 トーナメントに入ってからは各チームとも試合運びが慎重になり、この試合もスタンドの熱さに引き比べれば少し重い感じの展開だった。ボールのキープがチェンジするごとに「ワーワー」という声援から「ウーウー」というブーイングに、あるいはその逆に瞬時に切り替わる。決勝進出を願うスタンドの韓国サポーターは疲れを知らない。しかし、選手は中二日のせいもあってか精彩を欠いた。数少ない韓国のシュートは狼男のような相貌のキーパー、カーンの好守にあいすべて阻止された。今夜は旧暦15日、満月だ。韓国にとっては日が悪かったかもしれない。後半半ば過ぎにバラックがノイビルから受けたパスをシュート、いったんキーパーがセーブしたボールを再度蹴り込んで決勝点をあげた。

 決勝は逃したものの韓国での最終戦、三・四位決定戦に駒を進めるわけだから、韓国にとってはこの結果でよかったのかもしれない。瞬時静まったスタンドからすぐに沸き起こった拍手と歓声は「受容できる敗戦」を表すもののように聞こえた。(6/25/2002)

 朝刊の「私の視点:特集・鈴木宗男議員逮捕」。魚住昭の「国策捜査」はここ数年の検察庁の捜査にガス抜きを狙った恣意性が感じられるとしたもので少しばかり恐ろしい指摘だが、もう少し納得のゆく例証が欲しかった。対角線に配置された早坂茂三と川田悦子が、それぞれに政治にはカネがかかるとしながら、対照的な結論を出していて面白かった。

 早坂は「先兵だった鈴木の失脚で停滞する日露外交を心配する」という表現でかすかに鈴木を擁護しておいて、「マスコミが小さな良心、小さな正義の笛を吹けば、世間体もあり、みんなぞろぞろついてくる。しかし、建前と本音は別だろう」、「世の中はギブ・アンド・テイクだ。指導者の条件などおかまいなく、鈴木氏はカネがほしい。業者は欲得のソロバンずくで利用できる男にカネを出すだろう」、「要るカネは要る」とまあ名調子。

 対する川田は「当選後のインタヴューで次の選挙のことは考えないでやるといいブーイングを浴びた」ことから書き起こして、カネがかかることをのべるが、「楽ではないがこれでいいのだと思えるようになってきた。お金を集めようとすれば、集まることをしなくてはならない」が、「それが変質の始まり」、「それに謝礼をしなければ協力してもらえない人は結局力にならないと思えてきた」、「任期中にひたすら再選をめざすことに専念し、首尾よく再選できれば、自信は大きくなる」、「回数を重ねればそれは確信になり、やがて何をやっても許されるという勘違いも生まれてくるのではないか」、「その議員を頼もしいと見る人たちがいれば、さらに拍車をかけることになる。鈴木氏には権力を握った者の恍惚感もあったに違いない」と推測している。

 川田の言葉を一年生議員の青っぽさといえば、その通りに違いない。一方、長くあの角栄の下で働いた早坂には現実がよく見えている。文章のリズムはいいし、なるほど身の回りにいる奴はこんな奴らばかりだから説得力もある。しかし、これが現実だとふんぞり返ってみても、十年一日こんなことを繰り返すばかりでは、さすがにそろそろ人間として恥ずかしくはあるまいか。

 最近どうも役立たぬ学になりつつある経済学の不振の原因は「人間は欲得ずくでしか動かない」という前提を固定的に考えすぎているという話がある。また、非倫理的な企業経営は短期的利益は生んでも長期的には損失が大きいという反省も出てきている。そういう視点に立つと川田の「金を払わねば得られぬ協力は力にならぬ」という言葉に恥ずかしい場面から脱する手がかりがあるように思える。(6/23/2002)

 3時半からの韓国−スペイン戦、光州からの中継を見る。光州は地域対立が消えない韓国の中でも特に排他性が強い地域としてかつて光州事件のあったところ。スタジアムには金大中大統領の姿もあった。次男の逮捕の翌日とはいえ、彼の出身地が舞台でベスト4進出がかかった試合となれば、やはり直接観戦したかったのだろう。

 前後半、延長の前後半を通じて点が入らず0−0のままPK戦に。韓国先攻で韓国の4人目までがPKを決めた後、ホアキンのキックを李がセーブ。続く洪が冷静に決めて韓国が勝った。PK戦に入るまでに3回これはどうかなと思う判定があり、それがことごとく韓国に利したという事実があったとしても、そのことは何ら韓国の勝利を傷つけるものではない。そして、この試合は、またしても、沢木が引いた線上にのる試合になった。

 日本のサポーターは比較的クールにトルコ戦の敗戦を受け入れ、韓国を応援するモードに入った。少なくとも昨日までは。しかし、スペインを下した韓国を見てどうか。そして、可能性は低いと思うが、韓国が次の対ドイツ戦にも勝利して、横浜に乗り込んで来るようなことになっても、アジア代表として初の決勝進出をこだわりなく祝い、かつ応援できるだろうか。もっというなら、その時も「感動をありがとう」などという薄っぺらな諦念が、多くの日本人の心の中にちゃんと座っていられるかどうか。

 欧米人に負けることは許容できても、アジア人とりわけ韓国や中国に後れをとることは許容できないというメンタリティを持つ日本人は多い。この傾向は明治以降にしか眼が届かない右翼マインドの人たちに強い。彼らは韓国や中国を風下に見ることによって自分の優越性を確認しているからだ。漱石は「西洋人はややともすると御世辞に志那人は嫌いだが日本人は好だといふ。これを聞き嬉しがるは世話になつた隣の悪口を面白いと思つて自分方が景気がよいといふ御世辞を有難がる軽薄な根性なり」と書いたが、この癖から自由になっていない日本人は存外多い。とすると、韓国の勝利と躍進をどのていど本音で受け入れられるものか、興味津々で見てゆくことにしよう。(6/22/2002)

 定時後は**さんの歓迎会を八王子で。終わったのが8時半過ぎで、ラジオでドイツ−アメリカ戦を聞きながら帰ってきた。幸運で勝ち上がったアメリカだったが、やはりドイツの堅守を破ることはできずゼロ敗。アメリカ嫌いとしては重畳の一語だ。

 アメリカ本国ではベスト8進出にもかかわらずニュースの扱いは極端に低いという。サッカーという競技がワールドスタンダードであることを不明にして長く知らなかった。アメリカンスタンダードをグローバルスタンダードと誤解していたことが大きな理由だ。アメリカはまだアメリカンスタンダードの中でスヤスヤと眠っているようだ。この試合でもドイツチームがずらり180センチ以上のメンバーをそろえて高いディフェンスの壁を作っていたのに対し、アメリカチームにはそれに拮抗する身長のメンバーは数名弱。体格に優れた有望なスポーツマンはサッカーより別の競技を選ぶことが多いかららしい。

 だが、時代は変わるだろう。ヒスパニック系住民のアメリカ社会に占める割合が大きくなれば、やがてワールドカップの会場にあの耳障りなUSAコールが傍若無人に響き渡る時が来るかもしれない。できることならその頃までにはアメリカンローカルスタンダードをグローバルスタンダードと取り違える愚かさや子供っぽい独善性を克服していてもらいたいものだが。(6/21/2002)

 田中真紀子に対して自民党の党紀委員会は党員資格の2年間停止処分とすることに決定した由。理由は秘書給与疑惑の調査に対して再三の資料提出要請を無視したことと4月に行われた参院補欠選挙に際して党公認候補を応援しなかったことの二点。秘書給与疑惑については「当委員会のミッションではないから、それについてはふれない」のだそうだ。

 自民党は「党の要請に対して忠実であるかどうか」は重視するが、「公認を得て当選した議員が国法を犯すことそのもの」には極めて無頓着な政党だということだ。これが鈴木宗男、中村喜四郎、中島洋次郎、藤波孝生、新井将敬、・・・など、「綺羅星」のごとき汚職議員を「輩出」してきた所以だろう。(6/20/2002)

 先月31日の開幕から毎日あった試合が今日からは二日おきの開催スケジュールになる。日本が負けたせいばかりではなく、祭りのあとの空虚感のようなものが少し漂い始めた。

 朝刊に沢木耕太郎が「苦しみなきクールな日本、地獄を味わった熱い韓国」というレポートを書いていた。書き出しはこうだ。「実は私にはよくわからないのだ」。沢木は書く。日本と韓国は二勝一分、まったく同じ成績で一次リーグを通過した。しかし、両チームのたどってきた道は違う。日本はベルギー戦を引き分け勝ち点1で滑り出してロシアに勝ち、最終戦のチュニジアには2点差以上で負けなければOKという順境をつねに韓国より先に歩いた。これに対し韓国は初戦のポーランドに勝つ上々のスタートをきりながら勝てるはずのアメリカに先制され辛うじて引き分け、最終戦決勝トーナメント進出に必死になるポルトガルと戦うことになってしまった。結果的にはポルトガルをくだして通過はしたものの道は決して平坦なものではなかった。沢木は続ける。

 私がわからないというのはここからである。日本は第一戦のベルギー戦以外、ほとんど苦しむことなく勝ってきた。逆に韓国は第一戦を除けば、苦しみの果ての引き分けと勝利だった。このことが決勝トーナメントに進んだ二つのチームにどのような意味を持つかということだ。
 一次リーグにおける日本の三試合を見て、私に印象的だったのは日本の「クール」さだった。選手たちも、試合そのものも、勝利のあとの喜びの表現さえ、クールに感じられる。それは、韓国の選手たちや試合から受ける「ホット」な感じとは実に対照的なものである。日本のクールさはクレバーさに近い。だが、そのクールさ、クレバーさには、一度も地獄を見たことのない脆弱さもあるような気がする。少なくとも、一次リーグの三試合では、その「地獄」に遭遇できなかった。しかし、韓国はそれに似た瞬間を何度か味わうことがあったように思う。
 苦しみながら勝ち抜いたチームが本当に強いのか、危なげなく勝ってきたチームに底知れない力があるのか。そこには私がスポーツにおいて知りたいと思う問いのひとつがある。

 沢木はこの原稿を日本−トルコ戦が始まる直前の宮城スタジアムで書いたという。昨日の二つの試合は沢木の引いた線上にみごとにプロットされることになったといえる。(6/19/2002)

 日本−トルコ戦は3時半のキックオフ。きょうも半休は取れずデスクワーク。10分おきくらいに朝日の速報サイトにアクセス。前半、早々と一点を入れられ、結局そのままタイムアップ。テキストで経過を読むだけなので、よけいにイライラがつのる感じだった。

 帰宅後、韓国−イタリア戦の中継を見る。壮絶な戦いだった。前半にイタリアが入れた一点を韓国が追いかける形。後半ももう残り数分というところで韓国は追いついた。延長前半の中頃にトッティがシミュレーションで一発退場になりイタリアに暗雲がただよう。消耗したイタリアとしてはPK戦に持ち込むのが精一杯かというところで、延長後半12分、安が決勝ゴールを決めた。

 **(家内)は男前軍団イタリアが負けてがっかり。**(息子)は「この戦いじゃ、文句つけられないしょ。韓国、強いよ」という。ともにどこか不完全燃焼のような戦いぶりだった日本チームの敗戦がいまひとつしっくり来ていない様子。(6/18/2002)

 鈴木宗男の逮捕手続きが始まった。帯広の製材会社「やまりん」の盗伐による制裁処分絡みで、500万円を受け取って林野庁に圧力をかけたという容疑らしい。地検から地裁、内閣と逮捕許諾請求がまわって、持ち回り閣議で決定された。逮捕は明後日になるらしい。

 昨日だかに収録した筑紫哲也の宗男インタヴューをニュース23で見た。鈴木は500万ではなく400万だとか、カネの趣旨は官房副長官就任祝いだったとか、長官室では適当でないというので議員会館で受け取ったとか、しかも後で返したとか、例の調子で政治献金であることを強調する釈明を滔々とのべていた。しかし、政治献金ならば、なぜ返却したりしたのかという質問には、きちんと答えることができなかった。

 一月、NPO問題で鈴木の名前が出てから、あっというまの半年。自民党を離党したころから、既にこの日が予想できたとすれば、もう相当に準備もリハーサルもできただろう。ただ、あまりに多くのネタがありすぎて、鈴木自身もそのすべてに準備ができたかどうか、案外、素朴な質問には絶句する場面もあろう。作った説明、飾った説明は、そういうところから綻んでゆくものなのだ。

 そう、鈴木の先代にあたる新井将敬は許諾請求が議決されるその日に自殺した。山口敏夫はそのまま逮捕され有罪が確定し服役中だ。鈴木はどちらを選ぶのだろうか。拓大卒の歩く恫喝男に自殺は似合わない。とすれば、山口敏夫の仲間入りか、それもいいだろう。(6/17/2002)

 朝日朝刊の一面にアメリカの対テロ作戦支援として派遣された海上自衛隊の艦艇がアメリカ海軍の統制指揮下に入ることを容認していたというニュース。米海軍司令官から派遣された海自の艦艇は独自に行動するのか米海軍に統合されて活動するのかを問われた派遣メンバーが「作戦指揮統制は独自に維持するが、戦術指揮統制は米海軍方面軍に委ねることは可能、ただしこのことを政治的に公言することはできないので配慮してくれ」と答えたというのだ。

 朝日は「海幕の現場独走」と見出しをつけ米海軍への説明の状況から「確信犯的行為」としているが、現場を責めるべき問題ではない。批判すべき問題は派遣に際して当然決定しておくべき基本的なことを何も明確にせずに、まるでただのおつきあいのような感覚で漫然と軍隊を送り出し、現場指揮官にやむを得ざる決定を押しつけているシビリアン側の無為と無責任にある。

 もっとも例のリスト問題に関する内部調査発表に際して、与党幹事長などに「指揮権」を委ねている現在のこの国の状況では、およそ軍隊という暴力装置を自覚的に運用することなどできないのが実態なのだろうが。(6/16/2002)

 日経朝刊の「海外論調」というコラム、「相次ぐ米企業不祥事」というタイトル。エンロンの他にも高級絵画購入で多額の消費税を脱税したタイコ・インターナショナルの乱脈経営をあげたうえで、ウォールストリート・ジャーナルの社説(4日)、フィナンシャル・タイムズの社説(8日)、クリスチャン・サイエンス・モニターの社説(11日)を紹介している。順に書き写しておく。

 株式ブーム時に投資家たちは企業の行動を無条件に黙認してきたが、その誤りのツケを彼らは払わされており、現在、懐疑主義に転じている。・・・(略)・・・(企業への)信頼低下は現在の景気回復過程に現れたパラドクスの一因でもある。国内総生産が上昇しているのに、株式相場が下落する現象はバブル崩壊後の過去二年ほとんど起きなかったことだ。(WJ紙)
 1990年代に大企業の経営者たちの倫理的行動放棄を会計検査は見逃した。エンロンの経営破綻は企業の新たな不道徳性を示した最初の企業不祥事だ。株主のための監視役であるべき会計事務所のアーサー・アンダーセンがそれにかかわっていたことは、米企業の信頼性に不透明さを加えた。・・・(略)・・・すべての投資家たちはバブルの崩壊から教訓を得なければならない。企業にとっても投資家の信頼こそむやみに浪費されてはならない財産。非倫理的な大企業の経営は利益を生むかもしれないが長続きはしない。(FT紙)
 取締役会に独立性を持たせ、莫大な報酬を要求する最高経営責任者の英雄的概念を排除し、業績下落の際でも一時解雇はしないと約束して労働者の忠誠心を回復させる。さらに企業と長期につきあえる株主を育成し、会計事務所を選ばせる。労働者、株主、顧客が必ずしも欲得ずくで行動するものではないことを認識することだ。(CSM紙)

 当たり前といえば当たり前の指摘で何をいまさらという気がするが、信頼感と安定感が失われた前のめりの経済環境の中では、あらためてこんなことを確認しなければならないのだろう。ひたすらアメリカングローバリズムの幻影に強迫観念といわれのない劣等感を抱いているこの国の政財界人には、彼の国のこのような実態を正確に認識してほしいものだ。

 ところでニューヨーク株式市場の先日来の下落ぶりに右往左往している東京市場関係者は「国内総生産が上昇しているのに、株式相場が下落する現象」をどのように分析しているのか、それも少しばかり興味のある。彼らには、ただの一喜一憂ではなく、この指摘を含めて、もっといろいろな要因を深く見る力があるかしら。(6/15/2002)

 対チュニジア戦は、2−0で勝利。森島のシュートと中田英寿のヘッドだった。韓国もポルトガルに1−0で勝ち、開催国としてそろって一次リーグを突破できた。

 ベスト16は次の通り。A(デンマーク、セネガル)、E(ドイツ、アイルランド)、B(スペイン、パラグアイ)、F(スウェーデン、イングランド)、C(ブラジル、トルコ)、G(メキシコ、イタリア)、D(韓国、アメリカ)、H(日本、ベルギー)。三戦全勝はスペイン、ブラジル。二勝一分はデンマーク、ドイツ、メキシコ、韓国、日本。一勝二分はセネガル、アイルランド、スウェーデン、イングランド、ベルギー。一勝一敗一分はパラグアイ、トルコ、イタリア、アメリカ。得失点差ゼロはパラグアイ、得失点差マイナスという例外中の例外はアメリカ。(6/14/2002)

 「統帥権干犯」などという言葉が浮んだせいで、つい右翼マインドの論調はいかがかと思い、読売とサンケイの社説をアクセスしてみた。

 読売の社説はさすがに押さえるべき点は押さえていて破綻がない。読みかつ考えるにたる論説だ。しかし、サンケイの主張ときたら・・・。リスト事件を「騒ぎ過ぎ」に矮小化しようという、なんともいじましい書きぶり。まずこれが笑える。わけても一番笑ったのは、「そもそも、軍事情報の開示請求者がどういう人であるかを調査するのは、ことの性質上、当然といえる」というくだりだ。

 この事件がクローズアップされてすぐの頃、こんなニュースがあった。民事訴訟の原告側弁護士がある部隊の会計情報の公開を求めたことを、庁内の公開窓口担当が被告である陸自の一佐に知らせていたというのだ。その民事訴訟は一佐が飲み屋の女性に「店を利用してやるから」と関係をせまり訴えられたというものだった。原告側はその店の飲食費が公費支出されているとすれば不正な地位利用に当たると考え会計情報の公開を求めたらしい。(「隊で店を使ってやるから、オレと寝ろ」などという輩が一佐というのだから陸上自衛隊もたいしたものだ)

 サンケイ新聞の論説委員にしたがえば、あれもこれも「軍事情報」なのだろう。なるほど飲食店への公費支払額をみれば、関係の部隊の指揮官がどのていどのmoralを持ち、その指揮官に率いられた部隊のmoraleがどのレベルにあるかも推測できるかもれしない。とすれば、これも立派な「軍事情報」たりうると強弁すればできぬことはない。

 百歩譲って、開示先をマークしなければならぬほどの「軍事情報」を公開しているとしたら、防衛庁は間抜けを地でゆくバカ組織かあるいはとんでもない反戦官庁ということになる。ならば、サンケイが何をおいても批判しなければならないのは、「防衛庁が軍事情報を公開している」というまさにその一点でなくてはスジが通らないではないか。

 まことに軍事半可通のサンケイ新聞らしい自家撞着で、ここまでくると「嗤い」の対象ではなく、まさに「お笑い」の対象。新聞界の吉本、サンケイ珍聞、万歳。(6/12/2002)

 防衛庁は毎年、「防衛白書」を発刊し、サンケイ新聞がいうところの「軍事情報」を公開しています。(防衛庁のホームページでは、現在、平成12年度版と13年度版を公開しており、そのまま読むこともできます
 ところで、サンケイ新聞の主張にしたがえば、公刊されている「防衛白書」を購入した人やホームページにアクセスした人も、すべて「軍事情報」に関心を持つ特別な人であるから、「どういう人であるか調査しなくてはならない」ことになるはずですが、そんなバカなことってありますかしらね?
 サンケイ新聞の主張の珍妙さは、このことだけで、おわかりになるでしょう。

 ***終了後、席に戻ると、**さんが「フランス、一次リーグ敗退です」。なんと、デンマークに0−2。この大会、フランスはついに一勝もできないどころか、一得点もあげられずに終わったということ。雑務整理に手間取って、帰ったときにはドイツ−カメルーン戦が始まっていた。結果は2−0。ドイツは安定している。いかにもドイツ人という面付きのキーパー、カーンがいい。

 ニュースは防衛庁調査報告のドタバタ。与党幹事長からの横やりで本来発表予定であった約40ページの正規版を隠し4ページの超短縮版を報告書として発表したのだが、事前に与党議員の一部に正規版が渡され野党にその存在が漏れていたため大騒ぎになった。これは防衛庁のお粗末なのか、それとも「与党幹事長」なる連中のお粗末なのか。

 防衛庁の指揮権は、本来、内閣総理大臣そして防衛庁長官にあるはず。それが一介の政党役員にあるかの如き話は、世が世であれば立派な「統帥権干犯」問題だ。こういう話が大好きなはずの右翼屋さん、ここは一丁、騒ぎ立ててはいかがか。(6/11/2002)

 気温は高めなのだが、昨日に比べて湿度が低いせいかさわやかな感じの日中だった。8時半のキックオフに備えて早めに風呂に入りテレビの前に。

 ロシアは意外にスローな立上がり、ひやりとする場面も何回かあったが、前半は受けて立つ感じで必ずしも積極的に攻めてこないという印象だった。後半に入って少し目を離したとき稲本がゴールを決めた。

 これで勝てるとは思わなかった。負ける危険性から一歩遠のいたと思っただけだった。はたして日本のゴールから数分して、ロシアの反撃。シュート。奥行がつかめないテレビの画面ではゴールネットの揺れる様が「あーあ、同点」と思わせた。しかし、それはサイドネットの外側へのものだった。

 「守るな、攻めろ」。選手もベンチもその姿勢だった。だから、あまり時間の経過が長くは感じられなかった。中田のシュートがクロスバーにはじかれた。そして大歓声を受けて中山が交替で入ってきた。しかし、期待ほどの冴えがない。逆につまらないファールをおかすは、パスには一歩遅れるはが続く。中山が足を引っ張るのではないかと懸念さえした。そこからが長かった。

 ロスタイム2分の掲示。マックス3分を見込んで時計を見た。「いい、ここまで来れば、最悪でドローは確保した」、まるでタイガースファンの心境だななどと思いながら、画面を注視した。

 国際映像なのか、それともフジテレビのカメラなのか、この試合の中継カメラにはイライラさせられた。意味もなくプレースされたボールのアップを長映ししたり、インプレイ中に頻繁にスタンドのサポーターを映す。どのようにボールが回っているのか、突然中断する映像にはイライラさせられた。試合終了の瞬間もカメラが映していたのはベンチの稲本だった。彼のガッツポーズで試合が終ったことを知った。その時、ボールがどちらのコントロールにあったのか、テレビ視聴者にはついに分からなかった。

 ともかく、勝った。かつて我が国は日露戦争に勝利して帝国主義国の仲間入りを果たした。そして、きょう、ワールドカップの日露の戦いを制して世界のサッカー界に日本の存在を主張できるに至った。と考えるとある種の運命めいたものを感ずる。日露戦争もじつは辛勝であった。しかし、幸運に助けられた日本海海戦の完全勝利の故にこの国は時をおかずに慢心と思考停止に陥り、数十年を経ずして高転びに転んだ。サッカーの勝利がそれほどの仇となることはあるまいと思いつつも、慢心が習い性の民族ゆえ多少の心配此れあり。(6/9/2002)

 最近の永田町の小話から。「詰まるところ、辞めるか、衆院の解散か、内閣の改造しかない」というのだ。これだけでは面白くもなんともないが、辞める(Y)、解散(K)、改造(K)と韻を踏んでいるといわれれば、片えくぼ。

 既に加藤紘一が辞職し、山崎拓も女性問題(日本版プロヒューモ事件の可能性あり?)でレイムダックの現実から見れば、一番ありそうなKは「改造のK」だろう。

 日経夕刊には「NY株続落」のニュース。「7日のニューヨーク株式市場はダウ工業株三十種平均が続落、前日比34ドル97セント安の9,589ドル67セントで取引を終えた。1月29日の年初来安値9,618ドルを下回り、昨年11月以来ほぼ7か月ぶりの安値」の由。ちょいと気になる動き。(6/8/2002)

 朝のラジオで小沢遼子が怒っているのを聞き、帰ってから朝刊をもう一度ひっくり返してみた。朝日の4面の隅に小さな記事が載っていた。(日経の朝夕刊には該当記事なし)

 「児童扶養手当:給付水準見直し、きょう閣議決定」の見出し。「低所得の母子家庭に支給する児童扶養手当」の施行令を改正しこの8月1日から実施するということ。内容は「月額4万2千円の手当てを満額受け取れる年収の上限を現行の204万8千円未満から130万円未満に引き下げ」、「一部支給される世帯の範囲を年収300万円未満から365万円未満まで広げ、年収が1万円増えると手当てが年額約2千円減る」ようにするというもの。記事にはこれしか書いていないが、小沢の話によれば、たとえば離婚して養育費を受け取っている場合、養育費はこの年収基準算出に含むことになるのだそうだ。

 一方、夜のニュースでは首相が経済財政諮問会議で、税制改革について経済活力の重視のために「実効税率を下げ課税範囲を拡大する」といういわゆる「広く薄い税負担」の実現を検討するように支持したことが伝えられた。そしてその中には赤字企業に対する外形標準課税の導入が入っているらしい。

 竹中経済財政担当相の得意のセリフは「努力した人が報われる社会の実現を」というもの。口当たりのいい言葉だ。しかし、これらのことに見る限り、この内閣が実行しようとしていることはこういうことだ。まず、努力をした人(法人)の定義。努力をした人とは所得が高い人(法人)のことをいう。努力をしなかった人とは所得の低い人(法人)のことをいう。その上で、まず、努力をしなかった人(=低所得の母子家庭)に対する手当ては削減する。そして、課税は「薄く広く」の理念にしたがって、努力をした人(=高所得の人と法人)には税率を現在より下げ、努力をしなかった人(=低所得の人と法人)には税率を現在より上げるか、従来免税であったなら新規に課税する。

 これが小泉内閣の政策のエッセンスだ。「努力した人が報われる社会」とは、なんのことはない「金持ちを優遇する社会」の別の言い方に過ぎない。

 しかし、政策を私している人々が忘れていることがひとつある。それは低所得層の存在なくしては高所得層は存在することができないという実に平凡な事実だ。(6/7/2002)

 例のごとくサンケイ抄が嗤えた。テーマは「防衛庁リスト問題」。こんな書き方だ。「物事を見る視点には『虫の目』と『鳥の目』があるというのが小欄の持論」とするサンケイ抄子は、まず、「『虫の目』とは、情報公開法に基づいて防衛庁の情報開示を求めた個人の権利や福祉を尊重しようという視点である」とした上で、これらは民主主義の基本だからきちんと守られなければならず、その点で「プライバシーに対する認識や情報管理のずさんさは厳しく批判されていいだろう」と書く。

 うむ、その通りと思いながらよみ進むと、「しかしちょっと待って下さい」と来た。サンケイ抄子には「いいわけ」調に転ずるとき、このように文体に突然「丁寧表現」が入るという特徴がある。かつて「(営業不振の東京地区では)夕刊を止めます」という営業路線転換のいいわけをしたときも、サンケイ抄はそのような文体のウロウロぶりを見せたことがあった。

 で、ちょっと待ってあげて、その先を読むと、「物事の見方にはもう一つ『鳥の目』が必要なのだ。この場合『鳥の目』とは空の高みから見て、日本という国家の平和と安全を守るという視点である。防衛庁にはいうまでもなく国防の情報が集中しており、国民の生命、財産およびこの美しい国土を守る重大な責務がある」として、虫の目、鳥の目のどちらが大切かではなく、そのバランス感覚が重要だといい、最後を次のように締めくくっている。

 ところがそのバランスが大きく崩れているというほかない。「虫の目」を重視するあまり、「鳥の目」が曇ってきている。大事なのはいたずらに防衛庁をたたくのではなく、この情報官庁からなぜ"情報"が漏れたかの分析だろう。日本はその意味でもいま危機にある。

 「なでふことなき人」が偉そうにしゃべると、得てしてこのような決定的な論理的能力不足を晒してしまうものだ。

 まず、「内部の情報がなぜ漏れたか」というのは正確ではない。「防衛庁が必要以上の情報公開請求者リストを作っていた」ということは「内部の情報」というほどのものではなく「内部の状況」に過ぎない。さらに、本質的な問題は、「告げ口をしたやつがいることはけしからん」などという下卑たレベルの話ではなく、防衛庁という官庁が情報公開を定めた法律の精神を尊重しようという「遵法意識」を持っていない(マキャベリふうにいえば、「持っているふり」すらしていない)ということにある。

 サンケイ新聞の読者お便りコーナーにメールを出そう。「サンケイ抄子殿、ビタミンAが不足していらっしゃるようなので、ニンジン、カボチャ、ブルーベリーなどをどうぞ」と。そう、サンケイ抄子の目は高みから見る「鳥の目」ではなく、少し暗くなるとものが見えなくなる「鳥目」に違いないから。(6/5/2002)

 日本対ベルギー戦。2−2の引き分け。勝ち点1。フランス大会では3戦全敗だったから、はじめての勝ち点。しかし、喜びも中くらいなりおらが春。というのは勝てた試合、あるいは勝っていた試合という印象が拭えないから。こだわっているのは稲本のまぼろしの三点目だ。事前にファールをおかしていたから以降のプレイは無効ということらしいが、納得がゆかない。他にも昨日のブラジル−トルコ戦でブラジルがもらったPKによく似たシーンがあった。要するに判定のレベルが一定しないという不満だ。

 なぜだ、と思いつつ、続けて釜山で行われた韓国−ポーランド戦を見た。スタンドは韓国サポーターの赤いTシャツで埋め尽くされていた。キムチを連想させる赤一色。応援の手拍子は日本と変わらないのだが、大きく違うことは不満な判定に対するブーイングのすごさだ。会場がひとつになり腹の底から絞り出すような声を発する。威圧感がある。審判の判定のひとつひとつをあげつらうことを当然とは思わないが、しかし、疑わしい判定がなされるたびに「本当にそうなのかい」と念を押すことは悪いとは思わない。釜山のスタジアムの地鳴りのようなブーイングを聞くうちに、彼の国の観衆のサッカー理解度は日本よりも上なのではないかと思った。そして韓国は2−0で一足お先にワールドカップでの初勝利をものにした。

 できれば我がチームにもホームで試合する有利さを実感させてやりたい。と、ほんのちょっとファナティックなナショナリストになった。(6/4/2002)

 先週の時点で海幕三佐の個人的な行為としていた防衛庁の「請求者リスト」は、陸幕・空幕・内局のそれぞれで作成されイントラに掲示・回覧されていたことが判明した。統幕を除く各組織にまったく偶然に海幕三佐と同様のことを「個人的に」思いついた窓口担当者がいたとは驚きだ。本来あまり相互に連絡のよくない防衛庁の各組織が申し合わせたように同じことをしていたとしたら、論理的な可能性はふたつしか考えられない。ひとつは防衛庁のかなり高いレベルからの統一的命令に基づいて行っていた。もうひとつはこの行為を必然とする何らかの客観的環境・理由があるということだ。防衛庁は前者を否定している。では各組織にこの行為を強いた客観的環境・理由とはなんなのだろうか。

 いったいどのような理由でリストを作成し、何を目的に掲示・回覧していたのか。それが分からない。単に、情報公開制度はこのように利用されていますという「啓蒙」情報だったのか、それとも、こういう連中がこういう情報を嗅ぎ回っているから注意しろという「警告」情報だったのか。さっぱり分からない。どうも防衛庁には抜きがたい被害者意識とその裏返したる民間侮蔑意識があるようだ。そうだとすると、防衛庁の持つミッションの達成は危うい。侮蔑するものを守ることは難しかろうから。「国民の生活と財産を守る」ことが防衛庁の表向きのミッションであるはずだが、「国民のプライバシー」が守るべき中に入っていないというのは時代遅れも甚だしい。もっとも有事三法が国民の保護を後回しにして有事における自衛隊のフリーハンドに関してのみ熱心に規定していることを見ても、これが防衛庁を含む現在の政府の「常識」なのかもしれぬ。

 ところでこれと同時並行的に福田官房長官の「非核政策転換発言」騒ぎが大きくなっている。野党はここぞと官房長官の罷免を要求しているが、オリジナルの発言は「何か起こったら国際情勢や国民が『核を持つべきだ』ということになるかもしれない」というものだったというから、これで首を取るのは難しかろう。しかし、それにしても、だ。「なぜ、いま、よりによって、この時に」こんな発言が出たのか。政府・与党の中にも、同様の声がある由。

 どうもこれは福田の策略のような気がしてならない。慎重居士、福田の意外な「失言」の意図は、「核アレルギー」を逆手にとってわざわざ騒ぎ立て同時に起きている「リスト問題」という大問題から注意をそらそう、そこにあるのではないか。(6/3/2002)

 にわかファンになったわけではないが、昨日から中継される試合はすべて見ている。それにしてもサッカーというのは点の入らないゲームだ。そのくせちょいと油断をして目を離したときに限って「ゴール、ゴール、ゴール」の絶叫。瞬時に攻守が入れ替わり形勢が逆転する。スタティックな待ち伏せは許されていない。少しだけ面白さが分かってきた。

 数日前の日経のコラムにアメリカ代表監督の言葉が載っていた。「わたしは中南米では非常に有名だが、米国ではサッカーファン以外だれもわたしのことを知らないんだ」、アメリカ人は「一番好き」なのでワールドカップで優勝でもしない限り、サッカーがアメリカ国民の関心を引くことはないと言っていた。

 しかし、アメリカ人がサッカーに熱心でないのは「一番好き」のせいだけではないだろう。なかなか点が入らないこのまだるい感じがきっと彼らには耐えられないのだ。バスケットボールを見よ、一試合で三桁の点数が入ることも珍しくない。バレーボールでさえラリーポイント制に変えないと気がすまないというハイライト主義。手っ取り早く言えば、たいして頭を使わないミーちゃんハーちゃんの興味をつなげられるようにしなくてはアメリカでは人気スポーツにはなれないのだろう。果てしのない「大衆迎合」こそがアメリカの本質だ。

 サッカーをもっと点数の入るゲームにするためにゴールを大きくしようという提案があると聞いたことがある。FIFAは既に十分権威主義に染まっているようだが、見せ物に堕したオリンピックの勧進元IOCほどに腐らないことを切に祈りたい。(6/2/2002)

 けさの日経の「春秋」の書き出しはこうだ。「W杯開幕の日にぶつけるとはムーディーズも人が悪い」。そう、ムーディーズが日本国債の格付けをAa3からA2に二段階引き下げたのだ。一つ格上のA1にはチリ・ハンガリー・チェコ・ボツワナ、同格にはギリシャ・イスラエル・ポーランド・南アフリカとなっているから、心理的なショックは大きい。

 しかし、あわせて流れた塩川財務相のコメントの方がショックだった。「商売だからいろいろ言う。それでも円高じゃないか」。たしかに上げたり下げたりで存在感を誇示する商売であるという指摘はその通りだろう。しかし、「円高」という認識はお粗末だ。正確にいえば、「円高」ではなく、「ドル安」、ドルの独歩安というのが真相だろう。おいおい、財務相がこのていどの事実認識で大丈夫なのかい、と。(6/1/2002)

 何度でも同じ間違いを繰り返す人がいたら、世間では、そういう人をバカと呼ぶ。

 情報請求者リスト問題、来週始めを目処に調査をするというのだが、小泉内閣はよほどバカばかりがそろっているものらしい。問題発生官庁自身の内部調査に委ねた場合、真実は何一つ明らかにできないということは、既に瀋陽総領事館事件で証明済みなのではなかったか。内部調査の発表後にまたぞろボロボロと「じつは」ということが出てきたらどうするのだろう。それとも防衛庁は秘密保持がきちんとできているから、そのようなことは絶対に起きないという自信でもあるのだろうか。

 いずれにしてもこの内閣はおバカさんばかり、本当の意味の「改革」など何一つする気もなければ、できもしないということだけは明らかになった。(5/30/2002)

 防衛庁海上幕僚監部情報公開室の三佐が情報公開請求をした人々の身元調査リストを作成し、上司や中央調査隊へ渡していたことが発覚。リストの中には「反戦自衛官」、「反基地運動の象徴」などの思想・信条・日常活動にわたる記載があるとのこと。

 すぐに思い出したのは山上たつひこの「光る風」。あのマンガは大地震による混乱に乗じて右翼勢力が自衛隊と結託して批判分子を検束してゆくところから始まっていたように記憶する。ここ数年の東京都の防災訓練のメニューを見ると既に石原慎太郎にはそういう構想があるように思える。今回のリストはそういう機会があれば役立てようと考えてのものなのかも知れぬ。

 防衛庁はこの三佐を懲戒免職にするべきだ。これは決して酷な話ではない。例えば、調達品に関して賄賂の約束があれば、その担当者は収賄罪に問われ、とうぜん懲戒免職されることになる。実際に金品の収受があったかどうかは問題にはならない。なぜ、約束だけで実際にカネを受け取らなくても収賄罪になるのか。それは公の職務が賄賂で曲げられたという疑念を抱かせたこと自体が社会的公正に対する重大な危機になるという考えによる。

 今回の事態もおなじ理屈が成り立つ。この三佐の行為は情報公開制度そのものに対する深刻な疑念を社会に与えた。つまり制度そのものが機能しないようにはたらきかけた重大な妨害行為なのだ。おそらく防衛庁の組織的関与の有無が大いに論議されるであろう。組織関与があったなら関係者全員を、確認できなかった場合はこの三佐だけでも懲戒免職にしなければならない。あってはならない薄汚い仕事に手を染めた人間を公の組織に残しておくことは許されない。

 防衛庁の対処の仕方、マスコミの論調、この国がこの事件をどのように処理するか、それによってこの国の社会の成熟度がわかることになる。(5/29/2002)

 夕刊に「印パ核戦争なら1200万人死ぬ」の見出し。米国防総省が「両国の軍備のほか最近の天候なども加味して分析し、予想される被害を先週末までにまとめた」という。それによると、両国であわせて、900〜1200万人が死亡、200〜700万人が負傷するとのこと。それぞれの核保有数はインドが数十個、パキスタンが20〜30個ではないかという。

 高橋克彦の小説にインドの叙事詩「マハーバーラタ」には核戦争を彷彿とさせる叙述があるとあったのを思い出した。こんなくだりがあるという。

 あらゆる武器を用いても、これら三つの都市には効果がなかった。そこで高速の強力なヴィマナで飛んでいた雷電をあやつる者クルスは、三つの都市に向けて神々すら恐れを抱き、大きな痛みを感じる武器を投下した。太陽が一万個集まったほどの明るい、煙と火がからみ合った光り輝く柱がそそり立った。それは未知の武器、鉄の石矢、死を告げる巨大な使者だった。三つの都市の住民は、ひとり残らず灰と化すまで焼き尽くされた。死骸は、だれのものとも見分けがつかなかった。
――高橋克彦「竜の柩」から――

 マハーバーラタ原典にはどのていどの書き方がされているのだろう。それはそれとして、ひょっとすると、ずっと昔に人類は核兵器を持ち、それを使った戦いで記憶を失うほどの惨禍を引き起こしていたのではないか。それがこのような神話の中にかすかに残されているのではないか、そんな妄想が浮んで来た。(5/28/2002)

 パキスタンが連日のミサイル実験をしている。実験しているミサイルはインド全域を射程に収めることができ、かつ核弾頭を搭載可能なものというから、「パキスタン国内向けの実験」として静観を装っているインド政府も内心は穏やかでないに違いない。カシミールでは両国の小競り合いが続いており、朝刊には昨日だけで「19人死亡」という見出しも出ている。

 インド−パキスタンはこのカシミールの帰属問題で既に三度の戦争を経験しているのだという。だが、それらはいずれも両国が核兵器を保有する前のことだった。イギリスが外相(明日)をアメリカが国務副長官(6/6)を派遣するのは「危険な火遊び」に枠をはめようとしてのことなのだろう。しかし、どちらも国内には己が政府の「弱腰」を難じて相手を「叩きつぶせ」と叫ぶナショナリストたちを抱えている。そんな中で「政府当局の都合と虚栄心から、彼らは戦争への意志を固める」(萩原朔太郎)ということは、可能性としては否定できない。

 やったらよいだろう。インドもパキスタンも国内のナショナリストたちの気のすむように、撃ち合い、殺し合い、そして核爆弾をそれぞれの憎むべき敵の頭上で炸裂させたらいい。そうすれば許すべからざる異教徒を排除でき、理解し合うことなどあり得ない異民族を抹殺でき、ナショナリストたちが夢に見た異教徒と異民族のいない「理想の楽園」が現出するはずなのだから。

 人類は広島と長崎を経験して半世紀を経た。残念なことに人間は忘れやすい動物なので、最近は核兵器のもたらす惨状というものの記憶がとみに薄れつつあるようだ。愚かな二国が核戦争をやってくれれば、人類は「核の記憶」をリフレッシュすることができる。記憶が鮮明なうちは各国のナショナリストどもも少しは非寛容の愚かさを知るだろう。サンキュー・ベリー・マッチだ。(5/27/2002)

 瀋陽総領事館事件について。冷静に考えてみると、中国側の「侵害」はふたつの場面に分かれている。ひとつがビデオで再三再四流れた女性2人と幼児1人の捕捉にかかわる場面、もうひとつが領事館内から男性2人を連行した場面だ。

 まず前者については中国側の主張する日本領事館員の同意はあり得ない。なぜなら同意を与える人物はその場にいなかったのだから。しかし、逆に領事館関係者がそこにいなかったが故に、不審者の侵入を門扉から数メートルの範囲まで施設内に立ち入っても阻止しようとしたのだといわれれば、その善意を疑うことも難しく、「条約違反の侵害行為だ謝れ」と騒ぎ立てるほどのこととは思えない。

 問題は後者だ。まずビデオや写真には領事館建て屋まで入っていった男性2人を追いかけた武装警察官の映像がないので、いったいどのように領事館員の同意をとりつけたのか、あるいはとりつける暇などなかったのか、そのあたり事情はまったく分からない。

 しかし、外務省の調査報告書にある「その直後、5、6名の武装警察官が、総領事館敷地内に日本側の同意を得ることなく立ち入り、同じく総領事館事務所方向に向かった。副領事は、武装警察官が背後から総領事館敷地内に入ってきたことに気づいていなかった」とか、「副領事は、総領事館正面玄関から中に入り、玄関ホール左手の査証待合室に入ってすぐのところで2名の男性が長いすに座っているのを確認した。その瞬間、5、6名の武装警察官が副領事の横をすり抜け、2名の男性を後ろ手に押さえ、連行していった。2名の男性は、武装警察官に拘束される際、抵抗したり、暴れたりはしておらず、また、男性のうち1名は自ら行くと中国語で述べた」とか、「武装警察官は、副領事が言葉を発する間もなく、総領事館正門外へ男性2名を連行し、正門脇の武装警察詰め所に押し込めた」ということは、領事館建て屋から正門門扉までが40メートルもあることを考えあわせれば、バカバカしくて信じることはできない。(ここにある「男性のうち1名は自ら行くと中国語で述べた」という事実の真偽は京城に落ち着いた亡命家族によっていずれ明らかになることだろう)

 日本は真実を管理して書き換えてしまうことが、中国に比べれば、しにくい国だ。「自虐的だ」などという感情的な言葉を浴びせかけて官製の調査報告書を押し通そうとする総理大臣もいるが、それは愚かなことだと批判する自由がこの国にはまだある。そういう国では嘘は嘘としてばれやすい。そしていったん嘘であることが露見すると、その証言はまとめてすべて嘘ではないかと疑われがちだ。5〜6人もの男が自分の背後に走り寄るのに気付かないとか、けっして素直に引き立てられたはずがない人物を連行する場にあって一言の言葉を発する時間もなかったなどと申し立てる人を信用することはできない。同意を与えたか与えなかったか、そのことは伝えられている事実からは判断できない。しかし、身びいきしたいとは思っても、納得のゆく説明ひとつできない証言をする人間の「同意を与えたことはない」という言葉だけを信用するのは難しい。

 これが冷静に考えると達する結論なのだ。結果、論理性を持った人はどうも日本の負けだと思い黙り込み、感情的な人は外交施設に立ち入った事実は動かし難いという一点にしがみついて中国の野郎けしからんとがなりたてるのだ。(5/26/2002)

 朝、久しぶりに**(息子)と話す。指導教官の**先生はおもしろい人とか。

 例えば、アメリカは米西戦争以来、主にスペインの植民地を手に入れてきた。キューバ、プエルトリコ、フィリピン、グアムなどだ。さらにスペインの影響力を完全に排除し、中南米に対する潜在的覇権を獲得するに至る。しかし、最近起きているのはそのスペイン勢力の逆襲なのだという。それはヒスパニック系の存在。彼らは既にカリフォルニアやフロリダなどの大州でスペイン語を準公用語化させるに至っており、やがて政治勢力の上でも実質的な力を持つに至るだろう、と、こんな話がポンポン出るらしい。ウム、楽しそう。(5/25/2002)

 議員会館の鈴木宗男事務所、会館近くの事務所、自宅を地検特捜部が家宅捜査。容疑は政治資金の虚偽報告。夜のニュースによると、一部に私的流用の疑いがある由。

鈴木が大丈夫だといっている根拠はこれだったのかもしれぬ。つまり、加藤紘一も私的流用があったが不起訴処分になった、おれも同じだと。

 これでも自民党は辞職勧告決議案の上程すら阻むのかしらね。まあ、同じ穴のむじな、鈴木がやっていることは自分がやっていることと同じという連中がよほど多いのだろう。(5/24/2002)

 朝刊の「記者は考える」欄。「瀋陽事件 感情的すぎる論議」という見出しでこんな話が載っている。

・・・駆け込んだ5人を中国側が連行したことに、「日本の主権が侵害された」という指摘もあがっている。だが、国際社会のルールに照らして考えると、これらの主張のいくつかはあまりに情緒的、感情的ではないか。
 国際法の専門家によると、事件を「主権侵害とまではいえない」というのが結論だ。
 しかし、大使館や領事館は自国の領域や領土ではない。あくまでも外交、領事活動のために認められた権利の舞台である。かつてのような「治外法権」は存在していない。そこでは受け入れ国(中国)が「管轄権を行使しない」ということなのだ。
 国家主権とは「国家が他の支配権力から独立している」ことで、統治権や領域権を持っていることだろう。だが、領事施設には主権は及んでいない。外交施設の「不可侵権」を「国家主権」に置き換えて論じるのは乱暴すぎる。

 「主権」なのか、「不可侵権」なのか、そういえば、NHKのニュースは「不可侵権」という言葉を使っていたような気がする。

 ということで各紙の今朝の社説を一覧してみた。朝日と日経の社説には「主権」の語は一度も出てこない。毎日の社説には本文中に一回「主権」の語が見える。面白いのは読売と東京だ。いずれも見出しと本文に一回ずつ「主権」の語があるのだが、読売の本文と東京の見出しはカッコを施してあり、なんとなく「いわゆる、主権」というニュアンスを出している。サンケイは見出しに一回、本文には三回「主権」を繰り返していていかにも頭の悪いテキ屋が憶えたての用語をここを先途とうれしそうに使っているような感じでなんとも微笑ましい。(5/23/2002)

 久しぶりによく晴れ上がった好天。昼休み、いつものように新聞各紙のホームページをアクセスしてみた。最新ニュースはフィリピン外務省が総領事館駆け込み一家の一次出国先を引き受け、今日中にもマニラ経由京城へ移送の予定というものだった。

 そしてそのそばにはこの事件と一連の外務相問題の集中審議の記事。それによると、小泉首相は「現時点では早期解決に全力を尽くしている」と答え、川口外相は「人道問題を現時点で最優先に考える。日中関係の大局を踏まえ、冷静に協議を行うことが重要だ」と答弁していたらしい。首相・外相が「早期解決」だの「人道問題」だのの言葉遊びをしていたまさにその頃、関係国はその内容を詰め切り、実行に移すところにきていたわけだ。

 ニュースを見ると、首相は「現在中国政府と交渉中なのでその内容は一切言わない」と答えている。「交渉中なので言わない」という言葉はどこか不自然な感じがする。普通の日本語では「交渉中なので言えない」というのが自然だ。では、なぜこんな言葉遣いになったのか。「言えない」という言い方があまりに真実を表しすぎていたがために、かえってそう表現できなかったのではないかという気がしてくる。つまり、上記の関係国の中に日本は含まれていなかった、その無念さが首相の「交渉中なので言わない」という少し不自然な言葉遣いにつながったのではないか。

 もうひとつ。東京新聞の朝刊には「NGO代表『瀋陽で起きるかも』 首相周辺、情報を放置 駆け込み2日前」という見出しでこんな記事が載っていた。瀋陽の事件の直前に首相の周辺が北朝鮮の難民を支援している日本のNGO代表を招き、北京で相次いでいる北朝鮮住民の各国大使館への駆け込み事件の背景説明などを求めた。これに対し、NGO代表は瀋陽の日本総領事館で今起きてもおかしくないと警告していたという。

 このNGOは、「救え!北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク」(RENK)。同NGO代表の李英和・関西大助教授によると、首相周辺から四月末、北朝鮮住民の各国大使館への駆け込みについて「話を聞きたい」と要請があり、侵入連行事件が起きる二日前の五月六日、一時間にわたって、駆け込みが増えている背景などを電話で説明。その際、「日本の大使館も(駆け込みが)あるか」と尋ねられたという。
 これに対し、李助教授は「北京の日本大使館だけに目を奪われていてはいけない。瀋陽は難民が多い吉林省に隣接している。こうしている間に、(瀋陽の日本総領事館で駆け込み事件が)起きるかもしれない」と警告。そのうえで、「警備を固めても住民は自殺覚悟でやってくる。決して追い返してはいけない」と指摘した。
これを聞いた首相周辺は、「承りました」「参考にします」などと答えたという。

 うっかりぽっかりは大使館や外務省だけの問題ではなく、総理の足下の状況でもあったということ。これだけの情報が手許にありながら事件の発生を許し、その緊急性を見落とし、漫然と本省メンバーだけで瀋陽の総領事館調査をさせたのだから、総理官邸サイドの昼行灯ぶりもなかなかたいしたものだ。

 首相が夜の会見で「日本の主張を中国が理解してくれた」などと精一杯我田引水しているさまは、この内閣ができることは所詮こんな程度のことなのだということをじつに雄弁に語っていた。(5/22/2002)

 京都議定書が衆院で批准承認された。京都議定書の最大の問題は最大のCO2排出国であるアメリカが離脱したことだといわれている。昨日から下関で開かれている国際捕鯨委員会で鯨保護を主張し、「環境保護国」のふりをしているアメリカの振る舞いは「滑稽」の一語に尽きる。

 ではこのアメリカをどのように扱うべきか。議定書批准国は結束して身勝手なアメリカにペナルティを課すのがよいだろう。例えば、環境補償分を関税率に上乗せすることなどは効果的ではないか。議定書を蹴飛ばすことでアメリカが確保したつもりの国際競争力を批准国が一致した環境補償課税措置でゼロかマイナスにしてやるのだ。

 アメリカでもいくつかの企業は排出削減をビジネスチャンスととらえて積極的に取り組んでいるところもある。そういう企業に対しては減免措置を取ることによりアメリカの産業界を動かすことでもよいかもしれない。愚かな子供には体罰で臨む方がよい場合もある。クラッカーを喉につまらせるようなあまりおつむのよくない「オドナ」には言ってきかせても無駄、横っ面を張るか、穴ッペタを叩くのが一番だ。(5/21/2002)

 風呂で「アクセス」を聞いていた。ホットニュース、「田中知事が河野義行さんを県公安委員に任命」の由。月曜「アクセス」には当の田中康夫が出演中、「河野さんは沈着冷静で多面的にものを考えられる人」と言っていた。受け狙い、そういう側面は否定できない。しかし、同じ受け狙いでも慎太郎よりははるかに内実のある受け狙い。クリーンヒットだと思う。

 94年6月28日の朝、目覚ましの電子音とともに聞いた「森本猛郎スタンバイ」のニュースはまだ鮮明に憶えている。松本の住宅街でガス事故のようなものが発生、複数の死者が出ている。そんな内容だった。数日して原因がサリンであること、第一通報者が怪しいということが報道された。決定的だったのは「調合を間違えた」と言っていたという「証言」だった。犯人は河野、そう思った。

 河野はすぐに弁護士を依頼。**(家内)にこんなふうに言ったことも憶えている、「少し手際がよすぎるんじゃない、普通の人はなかなかすぐに弁護士をつけなきゃなんて思わないよね」と。当時、彼が取った当然の処置自体が、逆に、容疑を濃くするもの、不明にして、そんな印象すら抱いていた。

 しかし、河野は「普通の人」ではなかった。まず、警察の予断に満ちた取り調べに毅然と対処し、言うべきことを言い、とるべき措置をきっちりととって最悪の事態を回避した。事件発生から9ヵ月のち地下鉄サリン事件が発生し、ようやく容疑の霧が完全に晴れることになる。それまでとその後の彼の活動を見ると田中の言う「沈着冷静な人」・「多面的にものを考えられる人」という評価は誰しも肯けるところ。

 長野県警は自らが推薦した可もなく不可もない県財界人を選ばずに、田中が河野義行を選任し県議会の同意を取ろうしていることを苦々しく思っているかもしれない。しかし、県警はある意味で彼に救われたのだということを認めなければならない。彼が見込み捜査に屈していたならば、県警は翌年大恥をかくことになったのだから。

 河野には是非とも公安委員の職にその経験と見識を活かしてもらいたいものだと思う。(5/20/2002)

 対米テロが計画されていると米国マスコミが最近さかんに伝えている。自由の女神像が標的だとか、ブルックリン橋が危ないとか、ハリウッド映画の延長からぬけていないのが可笑しい。

 どうせニュースソースはブッシュ政権なのだろう。半月程前から一部に「ブッシュは911を知りながらその発生を座視した」という報道がなされている。今回のテロ予告報道は人々が「911の真相」に向けた眼をそらすための新たな「めくらまし作戦」なのだ。それはフロリダのインチキで大統領の座を盗み取ったジョージ・ブッシュが不安定な大統領の座を確保するために行った「めくらまし戦争」とまったく同じ発想のものだ。

 ここ半月の報道は「911の兆候をキャッチしながらなんの対策を取らなかった」というもの。この点について、つい数日前、あの凶悪なご面相のライス補佐官がしぶしぶその事実を認めた。しかし、真実はその程度のことではないようだ。田中宇は早くからいくつかの根拠を上げて「ブッシュはわざと911を防がなかった」といっていた。

 合衆国民を含めて世界中の平凡な人々は、ビンラディンとブッシュ政権は対立したポジションに立っていると思っている。だがひょっとすると、ビンラディンはブッシュの仲間、ブッシュ政権の下で今一度の夢を追おうとしているCIAの仲間なのかもしれない。その程度の可能性は頭に止めておく方がよい。(5/19/2002)

 腹が立っている。朝刊のこの記事を読んだからだ。

 小泉首相は17日、中国・瀋陽総領事館事件直後に副領事が中国側に電話をかけていたことなどを明らかにした民主党の現地調査について、「日本側の非をあげつらって『日本がダメだダメだ』というのは、あまりにも自虐主義じゃないか。中国といま大事な交渉をしている。そういう立場も考えてもらわないと。中国がそんなにいいんですかね。(日本は中国に)抗議してるんですよ。よく考えていただきたい」と激しく批判した。首相官邸で記者団に答えた。

 中国の官憲が総領事館の敷地のみならず建て屋内に入ったことは疑いのない事実だ。それがウィーン条約に違反する主権侵害行為であることも承知している。日本人だものそれが快いはずはない。だから中国には抗議しなくてはならないと強く思っている。

 しかし、その抗議はきちんとした調査に基づく確かな事実認定に支えられていなくてはならないと、多くの国民は考えている。中国が嫌い、共産主義が嫌いというだけでがなりたてる右翼屋さんと、多くの国民が違っているのはそこだ。

 外務省は週はじめに調査報告書を発表した。週半ばにいたって、その報告書に警備担当副領事が亡命希望者から渡された手紙を読まずに返したという事実が漏れていることが分かった。そして、昨日は、査証担当の副領事が事後に遼寧省外事弁公室に電話をしている事実が漏れていることが分かった。さらに、けさの読売のホームページは、先日来焦点のあたっている二人の副領事の他に会計担当の外務省職員が一連の状況を目撃していながらそのまま二階の自分の職場に戻ったことが民主党の調査で新たに判明したと報じている。

 これらがポロポロと出てくるたびに外務省は、本省の担当課長が勝手な判断で報告しなかったとか、調査報告書をまとめる時点では当該の副領事からその事実が聴取できていなかったとか、いずれにしても「単に事件があった」と通報した程度の内容だったとか、子供でもしないようなぶざまな釈明をしている。

 日本政府は中国政府とのやり取りを何をベースに行っているのだろう。外務省が公表した調査報告書だとしたら、基本事項がこれほど揺さぶられ、これほど信頼感に欠けるものによりかかることはもはやできない。外務省の責任回避を目的とした弁明的な調査報告書など捨て去るべきだ。民主党の調査の方がはるかに押さえるべき筋を押さえているように見える。

 ところが首相はそれを「自虐的」だという。バカを言ってはいけない。正確な事実認定をせずに不十分な調査結果に基づいて、メンツにだけこだわった交渉を行っていることこそ、「自涜的」な行為だと知るべきだ。それが改められない首相など、即刻、職を辞すべきだ。

 それにしても、なんと愚かな宰相をいただいていることか、ああ、腹が立つ。(5/18/2002)

 日経朝刊に小さんの追悼記事が載っている。その「評伝」の中から。

 小さん師匠は寄席の世界で育った最後の芸人だ。以後、世に出た落語家はテレビやラジオで売り出した。お客と真剣勝負する姿を人気落語家の春風亭小朝さんが語ったことがある。
 所は大阪。東京と違い、笑い優先。なまじのことでは聞くもんかという観客で埋まる客席は騒々しいばかり。そこへ上がった小さん師匠は淡々としゃべり始め、いつしかざわついていた客席をピタリと抑えてしまった。その場を目撃していた小朝さんは「本当にすごかった」と振り返る。

 死者をおくるヨイショ記事かもしれぬ。しかし、すぐに思い出すのは、居眠りを始めた客がいるのが気に入らないから帰るぞとすごんで、主催者にその客をつまみ出させた談志のことだ。芸で客を引き込むか、芸で客を居眠りに誘い、眠ったのが悪いと言って追い出すか、これは比較にはならない。

 談志は小さんの弟子だった。破門された直接の理由は分からないが、当然の成り行きだったのだろう。(5/17/2002)

 3時から****と共催の講演、畑村洋太郎(工学院大教授)の「失敗学のすすめ」。これが無茶苦茶に面白かった。

 大体こんな話。企業、組織、ビジネス、多くのものが、萌芽期、発展期、成熟期を経て衰退期へ至る。成熟のピークはスタートから30年程度経過したときに訪れる。スタート時に発揮される「注意深さ」は時間の経過とともに徐々に失われ、30年くらい経った時点で最低になる。萌芽期から発展期には「オレがオレが」という精神で組織ミッションをはみ出すように仕事はなされるが、成熟期に至る頃には組織分担がしっかり規定されて機能するようになり、成熟期のピークあたりから衰退期には「うちの分担部はこれ、それをはみ出して仕事をするのは間違い」という精神がはびこり、次第にその間に隙間を生ずるようになる。情報は上から下には伝わるが、下から上には伝わりにくく、ピラミッド構造の組織では隣接組織には伝わらない。したがって他部署の失敗はなかなか伝わらない。・・・などなど。いちいちが、思い当たることばかりだ。

 ・・・(勤める会社の組織談義:非公開)・・・

 明治政府がひととおりの体制を固めたのが1870年代半ば、30年を経て1905年が日露戦争勝利、これで日本は世界の一等国の仲間入りをした。それから30年後、1935年といえば満州での軍事行動がやがて日中戦争へ至る前夜の時期だ。軍人の慢心はとうに始まっていたが、まだ泥沼という意識はなかった。そして衰退期に入り、無謀な戦争に突入してゆく。

 そして戦後。経済白書が冒頭に「もはや戦後ではない」と新生経済日本のスタートを宣言したのは1956年のことだった。それから30年目の1986年、日本は前年のプラザ合意で円高を当然のものと受け取るほどに自信にあふれていた。バブル経済の前夜、つまり忍び寄る「慢心病」は財界人の共通の病気になりつつあった。

 多少のこじつけはあるものの成熟のピークに達するまでの「30年説」、これはぴったり近現代のこの国のプロセスを言い当てている。

 柳家小さんが亡くなった。長屋噺は、その風貌にぴったりとはまって、座るだけで八つぁんと熊さんが目前に現出するのだった。そういえば226事件の反乱軍の兵卒だった体験もあったはず。(5/16/2002)

 阿南大使発言が報道されて大騒ぎをしている。伝えられる大使発言は次のようなもの。

脱北者(北朝鮮脱出者)は中国へ不法入国しているものが多いが、館内に入った以上は人道的見地から保護し、第三国への移動など適切に対処する必要がある。他方、テロへの対処からも警戒を一層厳重にすべきことは当然で、不審者が大使館敷地に許可なく侵入しようとする場合は阻止し、門外で事情聴取すべきだ。

 これは朝日から引いたものだが、不思議なことに阿南の発言をそのまま伝える記事は他紙にはほとんどない。「亡命者は追い返せ」という見出し的文章だけがそこここに踊っている。その言葉に煽られると「なんとまあ、とんでもないことをいうものだ」となるが、もし、この朝日の伝えるとおりの言葉とすれば、他国の大使だって自らの館員にこの程度の話をしているものと思われる。問題があるとすれば、その言葉が受け取られる客観的条件、つまり、平生、大使がどのように他のことがらを語っているか、そのことがバイアスとなって今回の訓示が妙に増幅されるようなことがなかったかどうか、その一点にある。

 沖縄が日本に復帰してちょうど30年になるのだそうだ。しかし、「復帰」というからにはアメリカに「帰属」した起点がある。形式的にはその起点はサンフランシスコ講和会議によって日本が占領から解放される際に沖縄が日本から切り離されたその時であるように見えるが、もちろんその日突然「切り離され」る決定がなされたわけではない。

 切り離しが決定されたそのおおもとには、昭和天皇の「沖縄メッセージ」と呼ばれているものが存在している。手っ取り早く書けば、昭和天皇が「日本の安全のために沖縄を米国に差し出します」とアメリカに持ちかけたこと、これが「沖縄復帰30年」、「沖縄は米軍基地の島」の「日本側の原点」なのだ。天皇がこの提案を寺崎英成からマッカーサーの政治顧問シーボルトを通じて持ちかけたのは1947年9月20日のことだ。日本国憲法はその年の5月3日には施行に入っていたから、このような「沖縄の人身御供案」を提案する権限は既に「象徴」となった天皇にはなかったわけで、見方によれば裕仁の天皇としての資格に関わる重大な越権行為であった。

 昭和天皇は狡い人であった。72年に沖縄が日本に戻ってきてから89年に没するまで、彼には十数年の時間があったにもかかわらず彼は沖縄を訪問することはなかった。全国各地をまめに訪問しながら沖縄の土を踏むことはついになかった。沖縄を訪れ「本土の安全」のために沖縄の人々に過大な忍従を強いたことを謝罪することはなかった。しかし、そのことは、日本国民だけでも数百万に及ぶ人々を犠牲にした戦争の開戦の詔書に署名捺印しながら、ついにその責任を取らなかったことを考えあわせれば、ある意味で当然の振る舞いであったのだろう。昭和天皇はそういう狡い人であった。

 思えば、沖縄にとって、日本とは何だった、そして何なのだろう。沖縄は琉球のままであった方がはるかに幸せであったかもしれない、裕仁に代表される狡い日本人にいいように利用されるよりは。(5/15/2002)

 鈴木宗男の外務省秘書といわれた佐藤優とこれに協力した前島陽、二人の外務省職員が地検特捜部に逮捕された。容疑はイスラエルで開かれた学会に学者や自分たちが参加する費用三千数百万を例の「支援委員会」に不正に肩代わりさせたというもの。一連の鈴木宗男疑惑の捜査の一環ということらしいが、必要な活動経費の予算確保がなかったための便法であったとすれば、違法といえば違法なのかもしれないが、どこか「別件逮捕」的な匂いがしないでもない。

 よい仕事をしながら、理不尽な理由で報われない人物の鬱屈、そのジリジリする気持ちがどのようなものかは十分理解できる。形ばかりの仕事に終始している外務省の中にあって本当に価値のある仕事をしているにも関わらず、ノンキャリであるが故にその仕事も能力も評価されなかった、幾人かのジャーナリストが佐藤優のそういうプロフィールを伝えている。そうだとすれば、彼が鈴木宗男と出会ってはじめて日の当たる思いがしそこに希望を託したことは想像に難くない。

 惜しむべき人材をつまらぬことで失わなければよいが。鈴木憎しとは思うものの、なんだか少し捜査が本道を踏み外しているように感ずるのはそのせいだ。(5/14/2002)

 ワールドカップ参加チームのトップをきってコスタリカ代表が来日。最近読んだ本からそのコスタリカの話をひとつ。

 日本の他にもう一つ平和憲法を持っている国がコスタ・リカだというのは有名です。コスタ・リカの憲法も同じように軍事力を持たないと規定しているのですが、その成立の事情は日本の平和憲法とまったく違う。コスタ・リカは誰かを侵略して、戦争に負けて反省したという歴史がないのです。小さな国だから隣国を侵略するはずがない。だから中南米の政治文化の文脈のなかでそれを読み取らなくてはなりません。つまり、軍部を作ればすぐに軍事クーデタを起こし独裁政権を作る。中南米の歴史はその繰り返しでした。だからコスタ・リカの人たちは軍部を作らないと決心した。作ったら国民をいじめるに決まっている。政府の国民に対する暴力を制限するための平和憲法を作ったのです。

――ダグラス・ラミス「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか」――

 ラミスはこの部分のすぐ前にメキシコの軍隊の話を書いている。「メキシコはなぜ軍隊を持っているか?」、メキシコが接しているのは北のアメリカ合衆国、南のグアテマラだ。メキシコの軍隊は世界最強のUSAと闘うものではない。そしてはるかに小国であるグアテマラと闘うものでもない、その意味では「メキシコの軍隊は何の役にも立たない」。「ではなぜ軍隊があるのか」。メキシコの軍隊はメキシコ人自身と戦争しており、メキシコ人(例えばメキシコが自国民としているチアパス州の先住民)を殺すためにあるのだ、と。

 旧日本軍は、沖縄戦で、誰を守ったか?

 「皇軍」は沖縄の県民を守らなかった。逆にいくつかの場面では、ガマにこもった沖縄県民を「軍協力」を名目にガマから追い出すために、直接、間接に、県民を殺しさえした。軍隊が国民を守るものではないということは頭に止めておくべきことなのだが、それを知らずに有事三法を感情的に支持しているバカ者がたくさんいる、嗤うべし。(5/13/2002)

 10時半からのフジテレビ「EZTV」を見る。南京警察の「メディア・コップ」の活躍をえがいたものが面白かった。「メディア・コップ」というのは警察が自分たちの活動をPRするために設置した専門のテレビ番組作成チームのこと。身分は警察官なのだが、犯罪捜査・取り締まりの現場をビデオ取材し、放送局から通常のテレビ番組として放送する。官側のハートで作られた番組を民側の放送局がそのままオンエアするという神経は理解しがたいが、そういう国なのだということだ。

 メインシーンは観光客を狙った強盗団の摘発だった。出張で中国と行き来したのは84年から86年のことだった。その頃は少なくとも普通の「外国人」にとっては中国は非常に安全な国だった。(外国人が立ち入れない場所が歴然とあったのだから、ある意味では当たり前のことだったとは思うけれど・・・)

 ホテルでモノを捨てるには工夫が必要だった。朝、自室を出るとき捨てた電池や鉛筆は、夕方帰ると必ず机の上に戻っていた。本当に捨てるためには「不要」と書いた袋に入れなくては捨てられなかった。また、タクシーの運転手は無愛想ではあったが、お釣りをゴマかすなど一切なかった。

 84年から86年というのは中国が経済的に立ち上がる比較的始まりの時期だったのではないかと思う。はじめて行ったときおみやげに買ったウーロン茶は粗末な印刷の箱にパンパンに詰まっていて非常にお買い得だった。しかし、2年を経ずしてそのウーロン茶箱は洗練されたものになったが、しっかりと「上げ底」がされ見かけのわりに内容量は激減していた。「経済発展」というのはこういうことなのだと実感したものだった。

 そして、いま、中国の大都市はもう欧米並に油断のできない危険な街頭になったようだ。めざましい経済発展は、つまるところ、犯罪の普及・凶悪化と手に手を取って進むものらしい。(5/12/2002)

 今朝のニュース。中国外務省は、@日本の副領事の同意を得て領事館に入り建物内にした二人を拘束した、Aその後、領事が(副領事ではない)中国側から状況を聞き五人の連行に同意し、警官に謝意を表した、B五人は身分不明で領事館に危害を加える可能性があったのでウィーン条約にある領事館の安全確保義務に従って立ち入ったものだ、C98年5月に駐日中国大使館で状況が逆で同様のことがあった、などと発表したという。

 さすがにうまく説明を作るものだ。しかし、建物まで入った男二人を追いかけた中国側の警官(制服の警官がこれを追いかけたのだろうが、その映像がビデオにあったかどうかは定かではない)はいったいいつ、どのようにして、「副領事」に連絡し、施設内までの追跡の「同意」を得たのだろう。副領事が出てきたのは女二人をようやっと門扉の外に押し出した頃だったというのに。また、当日瀋陽にいなかったはずの領事が「説明を聞いた」のは、いつだったのだろう。中国側の説明にはいくつか疑問がある。

 だが一方、警官の帽子を拾い集めて渡したあのシーンは中国政府の主張する「同意」と「謝意」にぴったりと符合する。客観的に見るならば、領事館は「人権」などどうでもよく、厄介者を掃除してくれた中国警察に「謝々」をいう、こちらの方がいかにもありそうな感じさえしてこないでもない。とすると、相手が「中国」ということで、ここを先途、「主権侵害だ」と一気にトーンを上げた連中、不思議なことにふだんは「人権嫌い」が多いのだが、そんな連中など大恥をかくことになる。

 それにしても、さほど時を置かずに数年前の事例まで添えて公式発表をし、インターネットにもアピールした中国政府の素早さに比べて、我が政府は未だに情報が混乱し、やっと調査メンバーが現地入りしたところというのだから情けない。

 韓国マスコミには、「事実上、日本側の了解の下で連行されたのではないか」とし、連行を黙認しつつ表面で中国に抗議する「二重プレー」の可能性があると指摘するものがあるという。日本政府は「中国の陳謝と現状回復」を求めてはいるが、中国がすんなりと五人の引き渡しをしてきたら、かえって困ってしまうだろう。なにしろ、我が国は政治亡命を認めないという先進国には珍しい「原則」を未だに堅持しているのだから。だから韓国マスコミの見方をひねくれたものとばかりは言えない。ああ、情けない。(5/11/2002)

 朝のラジオで小沢遼子が怒っていた。こんな話。「一番悪いのは中国よ。それはそうとして、あの領事館の人はなに?」、「こちらでは有事法制なんてやって、自衛隊の人が来て水をくれ、食料をくれといったとき、断ったら罰しようなんて話してるじゃない。そういうときなら水はあげますって、食事だってあげますよ、なにも法律で強制されなくたってさ」、「でもね、あんな人たちになら、頼まれたって、罰せられたってあげたくなんかないわよ」、よほど頭にきたものとみえて外務省の役人と自衛隊員と一緒くたにしていた。

 だが外交の延長に軍事があるとしたら、小沢の話もそんなに筋の悪い話ではない。瀋陽の総領事館で起きたことは、ある意味で「有事」なのだ。一番起きる確率の高い「有事」なのだ。ほとんど「杞憂」に等しい「有事」を最優先し基本事項を無視した検討を進めていながら、はるかに確率の高い「有事」についてなんの備えもできていない。その可笑しさよ。

 外交を立て直さずに軍事にのみ眼をやる、これは一種の「倒錯」だ。この「倒錯」現象にいったいどれほどの人が気付いているか。この「倒錯」は「自虐」よりも恐ろしいのだが。(5/10/2002)

 起き抜けのTBSラジオ「スタンバイ」で瀋陽の日本総領事館に亡命目的で駆け込んだ北朝鮮の男女5人(うち一人は女児)を中国警察官が領事館敷地に入った上で拘束したというニュースを聞いた。外交に関する取り決めを踏みにじる行為。これに対して中国は「国際的反テロ取り締まりに合致する行為」と言っている由。思わず嗤った、911このかた国家の不法行為は「反テロ」を理由にすれば何でも通るようになったなァと。

 と、ここまでは中国政府の尊大さに腹を立てていた。しかし・・・。

 夜のニュースでその状況をビデオ映像で見た。こんな内容だ。先頭を切った男2人は首尾よく門を通過し画面左手奥の方向へ駆けて行く。続く女2人(一人は女児をおぶっているように見えた)も門は通過し敷地内には入ったものの背後から警官に取り押さえられ、前に回った警官から外に押し戻されてしまう。もみ合ううちに母親から引き離されたのか女児がぽつんと立って泣いているのが見える。そこに領事館員とおぼしき男が3名、画面左手から現れるのだが、通用門のところでもみ合っている女と警官を制止するでもなければ、泣いている女児を抱き上げるでもない。そしてなんと敷地内に転がっている警官の帽子を一つ二つと拾い上げて、まとめてこれを警官に渡すではないか。目を疑う光景。

 他国の大使館・領事館に勝手に立ち入る中国の警官の不法は許し難い。が、しかしだ。それを門前で見ている野次馬と変わらぬ傍観者的態度で眺め、これを咎めるばかりかご丁寧にも帽子を拾って返してあげる。これではまるで国際条約に違反している警官の行動をまるごと容認しているに等しい。

 我が国は政治的亡命を認めていない。難民の受け入れ数も極端に少ない。ひょっとすると、領事館員の頭にあったのは「うっかり亡命者を受け入れてしまうと面倒なことになる」ということだったのかもしれぬ。だから、「厄介者を引き取ってくれてありがとう、お巡りさん、ハイ、帽子」という所作が出てしまった。そう考えると、「ここは中国官憲が立ち入る場所ではないッ」という一喝が出てこなかったことの説明がつく。(5/9/2002)

 フランスの大統領選挙の結果。シラクが82パーセントの得票を得て再選。ルペンは第一回投票の得票に80万票ほどを上積みし500万票程度に止まった由。

 サッカーナショナルチームのスター、ジダンがルペン候補不支持を声明するなど、かなり大がかりな反ルペンキャンペーンがあったらしい。これに対しルペンは「ジダンはアルジェリア移民の子、奴は金持ちになったから犯罪に手を染めないのさ」と反論(?)したという。いかにも右翼らしい発想だ。

 ルペンが頼りにしていたのは、フランスにおけるプアホワイト層だったのだろう。経済的に貧しく、頭も悪く、持てるプライドといえば自分の「血」だけという連中が極右勢力の担い手になるという事情は、フランスでも変わらないものとみえる。(5/6/2002)

 2日の24時、あるいは3日の0時、朝日新聞神戸支局襲撃事件の時効が完成した。

 ちょうど一年ほど前の今頃サンケイ新聞の看板雑誌「正論」を立ち読みしたことがあった。そこにこんな一文があった。

かつて朝日は銃弾を撃ち込まれ、その後暫くは大人しくしてゐたやうだが、昨今の朝日の傍若無人とも思へる偏向紙面を見ると、まだお灸がたりないやうだ。

 筆者は中村粲。サンケイ肝いりの「新しい歴史教科書」を持ち上げた記事の中、朝日の報道姿勢を攻撃するくだりで書いたもの。いかにも感情的な書きぶりにサンケイグループの並々ならぬ入れ込み具合が見て取れて、その暴力団的な口調の下品さを嗤ったものだった。

 こんな文章を意図的に書かせたか、それとも中村某なる大学教授(いったいどこの大学だ)が自主的に書いたものを平然と掲載したか、そのどちらかだから、サンケイ新聞は「テロ容認派」なのだと思っていた。しかし、911の同時多発テロ以降は他のマスコミと同様、テロを批判する論説を書き始めて、こちらは多少混乱したものだった。

 結局のところ、サンケイ新聞とその編集者は、自分を批判するものをテロの標的にするぶんにはテロを容認し、自分に関わりがない場合にはごく常識的なテロ批判者に豹変する、そういう考え方らしい。なに「赤報隊」と同じ体質の卑怯なならず者だと知れた、それだけのことだが。(5/4/2002)

 憲法記念日。一昨日の朝日の夕刊に載った大塚英志の「『戦後史』すら与えられた国で」は生真面目すぎて面白みがなかったが、この国のダメさ加減を痛烈に指摘したものだった。

 書き出しはこうだ。「以前、ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』が話題になった時、ぼくはこの本の書評を書くことを求められ、一度引き受けたもののとうとう書かなかったことがある。一読して感じた生理的ともいえる不快さを払拭できなかったからだ」。その生理的な嫌悪感はどこから発したものか?

 大塚は続けて書いている。「ぼくが感じた嫌悪はだから同書の欠点に対してではなく、戦後史さえも『彼ら』に書かれてしまった自分たち自身への深い忸怩に他ならない。・・・(略)・・・『戦後史』さえも与えられなくてはならなかったこの国は、そもそも『自主憲法』を口にする資格さえないのではないかとぼくには思えるのだ」。

 なにより印象的だったのはそこに紹介された会話。例の911への政府対応について、小泉首相、山崎自民党幹事長、中曽根元首相で交わされたもの。

山  崎 「総理は憲法前文の精神を踏まえたいと言っている」
中曽根 「前文のどこか」
小  泉 「『国際社会において名誉ある地位を占めたい』のくだりだ」
中曽根 「そこではない。『自国のことのみに専念して他国を無視してはならない』のくだりだ」

 どのようなやりとりの中にこのセリフがはさまれていたのか興味深いが、ここには現行憲法がどのように理解されているかが鮮やかに現れている。(それにしても小泉という男の「底」の浅さよ、かくのごとき宰相をいただく不幸よ)

 保守論壇では長い間、若者たちが悲しむべき犯罪を起こす度にそれは日本国憲法下の「自由」や「平等」がもたらした弊害だと語られてきた。それは一例に過ぎないが、今日の日本が抱える問題の多くが、日本国憲法の抱える不備の問題として自明の如く語られている現状がある。しかし本当の理由は戦後を通じてぼくたちが憲法をただの空洞の言説としてしか生きてこなかったことに、つまり憲法を勝者の本音など無視してその「理念」に忠実に正面から生きてこなかったことにこそ実はあるのではないか。
 たがら未だ一冊の『敗北を抱きしめて』を書き得てないぼくたち戦後日本を生きた者たちがなすべきなのは、まず戦後を通してぼくたちが日本国憲法をいかに生き、あるいは生き損なったかの検証ではないのか。その手続きなしには護憲も改憲も決して語り得るはずはないのだ。

 憲法記念日に寄せたヨイショ記事と思えばおおむね首肯しうる内容。しかし、憲法はそれほどのものかという気もする。憲法は根本法にすぎない。そして法律は人々の「マナー」や「人生観」まで変える力は持っていないのだから。

 従来の保守主義者たちの改憲の主張は、まるで郵便ポストが赤いのも電信柱が高いのもみんな憲法が悪い式のバカバカしいものが多かった。憲法をどういじったところで少年犯罪は減少しない。政治腐敗はなくならない。なぜなら、少年犯罪も政治腐敗も、そして検察官や官僚のモラル低下も、憲法が定める制度の枠組みの矛盾から発生しているのでないからだ。それはカネがすべてだったり、オレがオレがの心根が招いているものだからだ。

 これとはまったく別の次元のこととして、たしかに現行憲法には時代の変化に対応すべきいくつかの課題がある。しかし、それは現在の条文を変更するようなものではなく、現在の条文にないものを補うことによって対処すべきたぐいの課題だ。その点で「改憲」は現行の条文に修正条項を加える形で行われるのが望ましい。ちょうど合衆国憲法のように。それが正しい保守主義からの憲法改正アプローチというものだ。(5/3/2002)

 貴乃花、来月6日の横綱総見には出るとのこと。去年の夏場所、膝を痛めながら優勝決定戦で武蔵丸を下して優勝を決めたとき、就任したばかりの小泉首相は自身興奮冷めやらぬていで、「痛みに耐えてよくがんばった。感動した。おめでとう」と叫んで総理大臣杯を渡した。かなりの国民はストレートに自分の感情を表す新首相に共感を覚えたと思う。その気持ちは「この人は今までの総理とは何か違う」という期待につながりもした。

 しかし、貴乃花の負傷は簡単なものではなかった。次の名古屋場所から数えて連続5場所を休場し、この夏場所の出場もまだ明らかではない。あの優勝決定戦は感動的ではあったが、こうして一年ものあいだ休場が続くとその感動は霧消してしまうのだ。

 感動の主は、あれからほどなく、「痛みの伴う構造改革」を主張しはじめた。「痛み」については十分PRされたからほとんどすべての人が知るところとなったが、「改革」の対象となる「構造」がどのようなもので、「痛みに耐えてがんばった」結果がどのようなことになるのか、いまだによく分からない。いや、恣意的に妥協したり、妙に突っ張ってみせたり、実行されることがバラバラなので理解のしようがないのだ。ひょっとすると、国民は、貴乃花以上に、長期間継続する痛みを味わい続けるばかりか、貴乃花同様、下手をすれば今までの生活から引退しなくてはならないのかもしれない。

 多くの国民が欲しいものは瞬間的な「感動」などではない。平凡ではあっても一定のレベルを維持した日々の安定した生活なのだ。どうも自分の言葉に酔って大声でがなりたてるような人間について行くのは心配なことこの上ない。(4/27/2002)

 辻元清美、参考人質疑があった由。帰ったときにはニュースが終わっていて映像は見られず。「証言」は党の関与を否定し、すべて自分でかぶったものだったらしい。あれが「社民党のシステム」だったことはほぼ間違いないとは思うが、一方に原よう子のような例があることを考えあわせると、ひょっとすると辻元の「使えるものは使ったらいいがな」という関西人らしいセンスが招いたことだったような気もする。(4/25/2002)

 朝刊のやくみつるの時事マンガが面白い。絵は神妙な顔をして神主の後ろを歩く小泉首相。タイトルは「・・・て言うか、8月に総理大臣でいられる保証はないし・・・」。そうかもしれない。発足から一年、みごとなパフォーマンスで高い支持率を獲得しながら、株価は下落の一途、失業率その他の指標も芳しいものは見当たらず、ほとんど成果らしい成果を上げられないでいるのだから・・・。

 フランスの大統領選挙。シラク現大統領とジョスパン現首相との一騎討ちになるものと思われていたのが、日曜日の第一回投票でなんと極右政党のルペンなる男が第二位に滑り込んでしまい、フランスは大騒ぎらしい。マスコミから流れるいかにもという説明は、EUという共同化に対する不安とナショナリズムの擡頭というもの。もう一方に、ユーロへの切り替えなどある種のグローバル化をそつなく進めてきたジョスパンがすんなり勝つのを快く思わぬオールド左翼がとりあえず第二回投票までは他の左翼候補に投票するか棄権したからという説明もある。現状の真の姿をどちらの説明が言い当てているものかは、5月5日の第二回投票においてルペンがどれほどの得票数を得るかによって分かるだろう。ルペンが今回の数字に絶対数として何票積み上げられるものか。可能性は低いと思うが、民主主義は正気を失いやすい制度だ。思えば、ヒトラーもルンペンからのし上がったのだ。(4/23/2002)

 夕刊トップは「高検公安部長を逮捕」。大阪高検の公安部長、三井環が競売物件の購入時の登録免許税を軽くするために居住の事実を偽ったという容疑。これだけなら検事の職にあることを別にすれば、ありがちな話かもしれない。ただ、その証明に暴力団の協力を得ているとなると尋常な話ではなくなる。それだけではない。この公安部長、検察内部の調査活動費の不正使用について内部告発をし、近々、実名での証言をすることが予定されていたというので、その口を封ずるための逮捕ではないかという話も出ている。

 調査活動費の不正使用は機密費問題にも似て、検察として絶対に現れては困ることであろうから、そのために微罪に暴力団絡みという胡椒を利かせているようにもみえるし、自らの犯罪が露見しそうになったがために流行りの内部告発という防衛線を張ったようにもみえる。いずれにしても、この国の権力構造のそこここが腐敗し、たまらぬ匂いを発しつつあるということだけは確か。(4/22/2002)

 いつものように「サンデー・モーニング」を見ていたら、「小泉首相が靖国参拝」という速報が入った。インタヴューを受けた首相は「靖国参拝は年に一度。8月15日には行かぬ」と答えた由。

 坪内雄三の「靖国」には文庫に収録されるときに「文庫版『靖国』の『あとがき』に代えて」という一文が追補された。その中で坪内は、

ちょうどこの新原稿を執筆している今、小泉純一郎新総理の靖国神社公式参拝発言が一部メディアを賑わしている。小泉新総理に私は提案したい。良い機会だから今こそ、総理大臣の公式参拝を、八月十五日ではなく、春秋の例大祭の時に戻したらどうだろう。公式参拝を批判するメディアには、こう言い返してやれば良い。靖国神社には太平洋戦争で命を落とした「御霊」だけでなく、明治維新以来、日本の近代化のための数々の戦いで命を落とした「御霊」がまつられている。私は太平洋戦争の戦死者だけを特権化するつもりはないから、あえて八月十五日ではなく春秋の例大祭に公式参拝する。そういう私を批判するあなた方は、日本の近代化そのものを批判するだけの覚悟はあるのか。・・・と。こういう発言をしたらメディアはどう反応するだろう。そして中国政府はどのようないちゃもんをつけてくるだろう。

と書いている。この「あとがき」のはじめに坪内は総理大臣による公式参拝の歴史を紹介している。それによると、戦後の総理大臣の公式参拝はGHQ占領下の1951年吉田茂によるものが最初で、佐藤栄作も田中角栄も参拝していた。ただ、それはすべて8月15日ではなく春秋の例大祭の日だったということを明らかにしている。それが「春秋の例大祭の時に戻したらどうだろう」というくだりの根拠だ。

 「日本の近代化そのものを批判する覚悟」などという薄っぺらなタンカにたじろぐ「一部メディア」などさほど多いとは思えぬが、完璧を期すなら坪内は次のように書くべきだった。「公式参拝を秋の例大祭、10月21日にすべきだ」と。10月21日は4月21日より格段に「良い」のだ。指摘されたメリットにさらに「国際反戦デー」と「学徒出陣壮行式記念日」を加えられる。つまり、靖国参拝にグローバルな反戦に対するスコープとことによると左翼陣営のサポートさえ期待しうるのだから。

 もっとも「中国政府のいちゃもん」という程度の現実感覚の坪内には、そのような視野は期し難かったとは思うが・・・。(中国政府の発言が日本に向けられただけのものでないことぐらいは理解してやれないものだろうか。天動説にとらわれるのだよね、視野狭窄症患者ほど)(4/21/2002)

 この一月の間に議員辞職をした者が二人いる。ひとりは辻元清美、実際には勤務しない政策秘書に支払われた公金を流用し自らの事務所のスタッフ給与に転用していた「詐欺行為」。もうひとりは加藤紘一、公設秘書だった男の口利きビジネス関与と政治資金の私的流用などが露見し「斡旋収賄」に対する灰色疑惑と「政治資金規制法違反」。

 朝日新聞が行ったアンケート結果が朝刊に載っている。それによると国会議員の4人に1人が公設秘書に親族をつけ、公設秘書の17%が党や議員に正式給与の一部ないし全部を寄付している。また、公設秘書のうち36人が兼職している。親族の秘書であっても、政策秘書の場合は看板に見合う仕事ができ、勤務実態があるならば、一概に否定すべきものでもないのかもしれぬ。しかし、先日話題になった自民党栗原議員の長男のように地方の診療所勤務医を兼職している場合など、辻元のケースといかほど違うというのだろうか。そういえば小泉純一郎の政策秘書は姉とのことだが、彼女は博士号を持っているのだろうか、それとも司法試験に合格しているのだろうか、もしくは政策秘書試験に合格しているのだろうか、それともバツイチの弟の世話を永年務めてきただけのキャリアなのか、大いに興味のわくところだ。

 ジャン・バルジャンは飢えに泣く姉の子供にためにパンを盗んで投獄された。盗みは悪事である。悪事を犯したものは処断されて当然である。そこで辻元と加藤だ。そして昨日議長を辞任しまだ参議院議員ではある井上裕だ。いずれが社会に対する罪が大きいか。ジャン・バルジャンはパンを盗んだ、辻元は公金を詐取した、これは事実だ。しかし、加藤も井上も密室での犯罪故に罪状明白とはいえぬ。栗原も、小泉も実質的には辻元と変わらぬことをしながら、形式的には合法と強弁し、誰も「詐欺行為」とはいわぬ。こうして人々の「公正さ」という概念は蝕まれてゆくのだ。(4/20/2002)

 パウエル長官のパレスチナ−イスラエル停戦仲介は不調。いまのアメリカにイスラエルを説得するための基本的なロジックがない以上、当然の結末だったかもしれぬ。イスラエルに対する経済制裁と資金提供ルートの遮断だけが外側から成しうる唯一の衝突回避策だと思うが、紛争がより深刻化し周辺アラブ諸国が石油戦略を発動するなどのドラスティックな動きでもとらぬ限り、このようなことはできないだろう。とすると、当分の間、痛ましいことではあるが、さらに多くの血を流してもらう他はない。いずれか一方だけでも永遠に得られない平安を心の底から渇望するようになるまで殺し合いなさい、沈黙するヤハウェもアラーもそれをお望みなのでしょう、きっと。(4/18/2002)

 治に居て乱を忘れず。法治国家である以上、想定される「乱」にどのように対処するかを取り決めておくことは必要なことだ。その点では「有事三法」の上程は悪いことではあるまい。しかし、伝えられる概要を一覧して嗤った。起きうる可能性が高いことへの対処を後回しにし、最大の協力者へどのように周知せしめるかという基本中の基本を「これから考える」という信じ難い間抜けぶりが誰の目にも明らかだったから。

 我が領土内での外国軍との戦闘は想像しにくい。しかし、「三法」はどうやらそれを主役に想定している。一方、「テロ」と「不審船」は想像のたやすい「緊急事態」であるにも関わらず、その対処規定はどこにも書いていない。新規法案として提示された「武力攻撃事態法」の最終章、第24条に「必要な施策を講ずるものとする」という「そりゃそうだろうよ」と言いたくなるような文言があり、これが「テロ」「不審船」対応条文として読むのだという。可能性として最も低いことがもっぱら取り上げられて、可能性として高いことが閑却されている。このバランス感覚の珍妙さよ。

 さらに。自衛隊法改正案に列挙した「一般法令を無視するぞ」という宣言を適用するにあたって不可欠なはずの国民に対する広報、説明手続きが何ひとつ取り決められていないことも、自衛隊に「でかい面」をさせたいということばかり考えているようで腹立たしい。軍隊は国民を守りはしないのだということは前の戦争で立証ずみだ。軍隊にでかい面をさせることこそ亡国の始まりなのだ。

 その昔、桐生悠々は信毎新聞に「関東防空大演習を嗤う」と題する論説を書き、「敵機を帝都の空に迎え撃つ」想定の可笑しさを指摘し「皇軍」の愚かな頭脳構造を批判した。この「有事三法」にも似たような「お間抜けぶり」が見える。それは根底から積み上げた論理がないから生ずるものに違いない。

 どうしてこのように不完全なものがあたふたと上程されたか。それを説明する論理はふたつしかない。小泉が幼稚な「軍事オタク」で、土台も柱もなく、唐突に「武力攻撃」を受けた場合のことしか考えられずに検討をはじめた故か、あるいは小泉が「アメリカの属国の首相」として、宗主国の判定した「戦争事態」に無条件に協力することのみを優先した故か。小泉が情緒過剰のうつけ者なのか、ブッシュの忠犬ジュンコーなのか、いまはよくわかない。(4/17/2002)

注)桐生悠々「関東防空大演習を嗤う」は、Avan’sInnのここに全文が掲載されています。
  トップページはhttp://members.jcom.home.ne.jp/avan1/です。

 ふだんは買ってみようかと思ったこともない週刊誌だが今週は気をひく見出しが散見。「小泉姉1400万政策秘書」(週刊ポスト)、「小泉実弟口利きビジネスの灰色度」(サンデー毎日)、・・・。「疑惑の銃弾」はついに首相にまでいきついたらしい。

 「ちょっとでも目立つ奴は全部洗って見ろ」、これが合い言葉なのだろうか。スピード違反をしたことがない者はひとりとておるまい。トラの威を借る近親者が一族に現れぬことも期し難い。もっとも、本人のコミットメントが明白ならば、それは見過ごすわけにはいくまいが。(4/16/2002)

 加藤紘一が官房長官をしていた当時の官房機密費に関する資料を共産党が公表。かなり実名が書かれているらしく興味深いが、費目と金額は聞いてあきれる内容。議員に対する背広代6人分で180万、靴券470万、国会対策らしい支出として公明党(当時は野党)260万、・・・、パーティ券は与野党を問わず合計3028万、なんやかんやでトータルは1億4386万にもなる。

 夜のニュースはどの局も判で押したように「もし、この資料が確かなものだとしたら」といっているのが可笑しい。もっと可笑しいのは餞別をもらったのではと尋ねられた首相、いつも余裕綽々の慇懃無礼官房長官、カネなり背広なりを受け取ったとされる議員がこれも判で押したかのごとく「そんな出所も分からない資料に書かれたことなど」と眼をウロウロさせながらいきりたっていること。

 そういえば、今週火曜の日経朝刊には「『質疑にも礼儀』と反論 『政界のプリンス』プライドにじむ」という見出しでこんな囲み記事が載っていた。

 加藤氏が色をなして反論したのは中塚一宏議員(自由)に「官房長官になって機密費に触れ、金権体質が身についたのでは」と質問された時。加藤氏は「質疑には礼儀があるのでは」と反論、「政界のプリンス」と呼ばれたプライドをのぞかせた。

 こうしてみると中塚一宏なる代議士の質問は急所を突いていたことになる。人間、本当のことをズバリと指摘されると、反応は決まっているものとみえる。(4/12/2002)

 鎌田慧が夕刊に書いている。「ジャーナリストに『反骨』を冠するのは、形容矛盾のような気がしてならなかった。『反骨でないジャーナリスト』など、はたして存在しうるのかどうか」と。そして、あの桐生悠々の言葉が続く。「私は言いたいことを言っているのではない。言わねばならないことを言っているのだ」。

 いま、言論は「自由」らしい。しかし、その「自由な」状況はいったいどのようなものか。911の後のアメリカ、「自由」の国の「不自由」な状況の可笑しさを嗤うのはたやすい。しかし、似たような話は足下にある。文藝春秋の最新号の広告から拾っておこう。こんな見出しだ。「大特集 政治四流、経済三流、外交五流」、「辻元清美は政策秘書を貶めた」、「『秘書』が倒した加藤紘一と土井社民」、「小泉・真紀子・辻元『主婦の世論』」、「『不審船』放置するなら倒閣だ」、「不況脱出には二十年かかる」、いやはや、おもちゃ箱をひっくり返したような「言論の自由」だ。そう、「自由は山巓の空気に似ている」。まことに、「どちらも弱いものには堪えない」という点で。

 文春は文春の嗤う「ポピュリズム」の紙面を作って恥じないのか。文春に欠けているのは「言わねばならぬこと」の軽重、順位をつける「叡智」だ。批判せねばならぬことはたんとあろう。しかし、そのすべてを並べてどうするのだ、愚か者め。

 安東次男が亡くなった。彼の声に耳をすませていた時期があった。紛争の前も後も、彼の書くものは変わらず読み続けた。往時の安東なら、このとろけるような状況を、どのように語ったろうか。(4/10/2002)

 加藤紘一、議員辞職。昨日の参考人招致の場でのべたもの。朝刊には新たに実母の口座に政治資金を振り込んでいた事実が報ぜられている。彼にとって政治資金の私的流用はごく当然の話、「私宅といっても記者諸君と会談する場所、加藤が政治家として働くために飲み食いする生活費は立派な政治資金だ」。そういう理屈だったに相違ない。(4/9/2002)

 フジテレビ、11時からの「EZ・TV」でパレスチナ現地レポートを見た。イスラエル政府が行っている「パレスチナ過激派に対する警察行動」という主張がまったくの嘘であることを映像が示している。イスラエル軍が行っているのは「テロに対する報復」などという線はとっくに超えて、「テロ掃討を口実にした侵略」そのものだ。パレスチナ人を殺すことが彼らの目的なのだ。「狡猾なユダヤ人」というイメージは世界の人々の眼前によみがえりつつある。どうかすると「だから、ユダヤ人を根絶やしにしておけばよかったのだ」というヒトラーの哄笑さえ聞こえてきそうだ。

 事態を収拾するために一番効果的な措置はおそらく一つしかない。経済制裁とイスラエルに対するあらゆる送金の停止だ。いろいろな形で表裏両面からイスラエルの軍事行動を支えている資金を断つこと、これだけが少なくとも現在より事態を悪化させない唯一の方法だろう。これによりイスラエルの経済を崩壊させ、パレスチナ側とまったくイコールの状態にすること。そうしてはじめてイスラエルの大多数を占める鈍重な国民も「自爆テロ」に走る「隣人」を理解できるだろう。(4/7/2002)

 夕刊の文化欄に「開戦時、日本に高い暗号解読力」という一文。筆者は神戸大助教授、蓑原俊洋。

 第二次大戦頃の日本の暗号解読力は欧米に比べて格段に低いものだったというのが従来からの説。ところが、最近、アメリカの国立公文書館、日本の外務省外交史料館などで、当時の日本政府が実際に暗号解読した諸外国の文書が見つかり、けっして欧米に見劣りするものではなかったことが分かったという。

 新たな歴史発見は、また新たな歴史解釈を求める。日本による暗号解読も、太平洋戦争に至る開戦決定過程の従来の解釈に、重大な修正を余儀なくした。その一つが、外交電報の解読により、日本は知らなかったとされる米国の対日融和案の内容を、実は知っていたという事実である。米国が一時検討したこの「暫定協定案(modus vivendi)」は、原則論に固執する従来の米国の態度を軟化させ、日本に対する資産凍結と石油禁輸の解除、北部仏印の進駐を認めるなど、日本の乙案に対して大きく歩み寄るものであった。東郷外相がそれを知ったとき、日米交渉の妥結を予感し、希望を大きく膨らませたことであろう。実際、彼は、米国から譲歩案が示されれば全ての軍事作戦を中止し、対案を出して日米交渉を継続させるという確約を東条首相より得ていた。
 歴史の女神は微笑んでくれなかった。日本に最終的に提出されたハル・ノートには、暫定協定案の影も形もなく、東郷外相の期待は無残にも打ち砕かれた。これによって「眼もくらむばかり失望に撃たれた」という東郷外相の大げさな表現がはじめて理解可能となる。ハル・ノートを読んだ東郷外相が、「米国は日本との戦争をすでに決意した」と理解した理由も容易に分かる。

 つまり、アメリカの外交暗号の解読から融和案があることを知り、これに期待をかけていたがためにハルノートの衝撃が大きくなり、かえって冷静な判断を遠ざけてしまったというのだ。なかなか興味深い話。(4/5/2002)

 タイガースの連勝が止まらない。今日勝てば開幕五連勝64年ぶりなどと騒ぐから、そういうことをいう頃には負けるものと思っていたが、延長11回の表、押し出しで決勝点を上げ勝ってしまった。そろそろ神がかりモードに入ったのかもしれぬ。

 星野という監督は評価していない。基本的に仰木監督と同じ、マスコミ受けはするが、監督としては「焼き畑農業タイプ」、つまりその時のリソースをすべて使い尽くして、後を育てないまま他所に移動する。直後にチームを引き継ぐ監督はゼロからチームを作らなくてはならない。そういうタイプだと思っている。しかし、星野が引き受けたタイガースは「焼くもの」さえないような状況だったはず。ということは、星野、今度ばかりは名監督の道へ歩み始めたのか?

 どうだろう、タイガースというチームは、遠藤周作の「沈黙」の主人公がいう「不毛の沼地」だと思うが。(4/4/2002)

 朝刊トップは「内閣不支持が逆転44%」の見出し。朝日がこの土日に行った電話世論調査で、小泉内閣支持が40%、不支持が44%になったというもの。昨日の朝刊に「小泉バブル」という言葉があったが、どうやらお化けのような支持率もやっとまともなところに落ち着きつつあるらしい。40%の支持に見合う内容を持っているのかどうかは大いに疑問だが。

 それよりも気にすべきは、4面、昨日から始まった「日米同盟展望」第2回、前駐日大使トーマス・フォーリーへのインタヴュー記事の内容だ。大戦中の米軍捕虜グループの中に補償を求める動きがあることは高濱賛の本で知っていたが、今年は中間選挙がらみでかなり感情的な主張が一部に上がり始めているらしい。フォーリーはイギリスでの例を挙げて、日米間の条約で解決済みであるという公式の状況を守るためには、アメリカ政府が個人補償をすることを検討すべきだとしているが、このような冷静な意見は少数派だという。

 対日戦捕虜の問題などは星条旗に熱狂する現在のアメリカでは格好の材料になるだろう。既に筋の通らない鉄鋼製品セーフガードを強行したのは中間選挙を考慮してのことであった。多少おかしなことでも、票になるのなら、呑みこんでしまうというのがアメリカンデモクラシーというものだ。

 夕刊掲載の五百旗頭真「ナショナリズム考」をあわせ読みながら、こんな想像をした。アメリカのエモーショナルなナショナリストどもはきっとこういうのだ、「日本を見ろ、いまだに、南京大虐殺をなかったとか、マボロシだとかいって、誤りを認めようとしていないぞ」、「今回補償を求めている我が老兵はその日本軍の不当な捕虜虐待の中で血の涙を流したのだ。彼らの日本政府に対する補償、強制労働させられた日本企業に対する補償要求は当然だ」、「そのことによって、反省しない日本人と日本政府に正義というものを教えてやるのだ」。

 アメリカの「ゴーマニスト」は、日本の「ゴーマニスト」たちの言説を利用し、まるで日本人のすべてが小林某のような歴史修正主義者であるかのように主張して、アメリカ版ゴーマニズム宣言をする。ふだんならば、こんな愚かな主張など笑殺されるものだが、きっとそうではないのだろう。それは、「ゴーマニズム宣言」などが、この自信喪失状態の中でかなり広範囲に受け入れられているという、この日本の状況を見れば、たちどころに了解できることだ。(4/3/2002)

 みずほ銀行初日のトラブルについて、朝のラジオでコメンテータがこんなことをいっていた。「三行の合併に関する記者発表の時、うちの社からは経済記者の他にIT担当記者も出た。システムの統合についてはどのようにしますかという質問をしたところ、雛壇に居並ぶ関係者の中に答えられる人はいなかった。そういうセンスなんですよ」と。初日のシステム障害は起こるべくして起きたのかもしれぬ。(4/2/2002)

 イスラエルのシャロン首相が「対テロ戦争」を宣言し、ヨルダン川西岸のパレスチナ自治地区に軍事侵攻。アメリカにならっているつもりなのかもしれぬが、テロを誘発したものが明確に見えるという点で911と同列に主張できるものではない。

 おととしの秋、当時リクードの党首だったシャロンがエルサレムにあるイスラムのアルアクサモスクに強行立ち入りをしたことこそが今回のインティファーダの引き金になった。たしかにその場所はユダヤ教の神殿があったと伝えられる場所でイスラエルにとっても縁のある場所であった。しかし、武装した護衛を引き連れて、公人がこれ見よがしに立ち入って当然ということはない。なぜか、右翼人はひっそりと個人で行動するより、大げさに騒ぎ立て衆目監視の中で派手に振る舞うことが好きなようだが、彼の行動がパレスチナ人を挑発する政治的行為であったことは、おそらくイスラエルの人々も認めるところだ。一連の自爆「テロ」はシャロンが買った喧嘩にほかならない。

 自爆「テロ」と軍事「テロ」の応酬はシャロンが望み企んだことだった。しかし、シャロンがそこから自分にとって都合のよいことばかりを引き出せると考えているとしたら、きっとあてが外れるだろう。いくら、ブッシュ政権が無能でもこれほど拡大した事態を放置できるほど内向きではいられないはずだから。(4/1/2002)

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