万景峰号、新潟港に入港。職業右翼のあんちゃんたち以外はもうお出迎えもなかった由。テレビカメラが出ないとなると家族会も救う会も冷淡なもの。スポットライトを浴びない舞台にはのらないということか、それとも動員手当がなくなったのか。

 そうだね、「お手当」が出そうな仕事は来るべき総選挙の立候補者に「拉致をテロと認めるかどうか」と「北朝鮮の経済制裁に賛成するかどうか」のアンケートを出してその結果を家族会と救う会の「権威」で公表するということのようだから。このアイデア、いかにも家族会らしい自閉症的な発想ではあるが、妙に思想調査的な匂いがして安倍晋三の影がちらつく。魔女狩りはこのようにして始まるものか?

 ホークス、優勝。マリンズに3−0と先行するも、3−6と逆転。先にライオンズがブルーウェーブに負けて優勝が決まって、やっと気が楽になったか一挙に7点とって逆転。しかし、最終回に4点返され、終ってみれば8回のだめ押し点3点が役立った試合。なんとか「勝って胴上げ」の形は整えたが、どうも押さえがピリッとしないのがシリーズに向けての不安材料。(9/30/2003)

 失われた十年ということがいわれて久しい。その一方で「日本はちょっと自信を失っているだけだ」という声があり、その根拠としてあげられてきたのが「ものづくりの技術」だった。つまり、この国はものを作らせたら、まだまだ捨てたものではないどころか世界の中でも一流だということ。多くの人がそう思ってきたし、多くのことに懐疑的な自分でさえこのことを疑ったことはなかった。

 しかし、昨日発生した出光苫小牧精油所のナフサタンク火災、あるいは、この1ヶ月間に相次いだ火災、新日鉄名古屋製鉄所の一酸化炭素タンク爆発、ブリヂストン栃木工場の火災など、頻発する事故、火災を見ていると、ひょっとすると自分を含めて多くの人々はこの国が直面しているほんとうの現実を見損なっているのではないかと思いはじめた。

 いずれもが施設を撤去、再建せざるを得ないほどの災害になっている。ものづくりの基盤である工場施設の安全管理そのものに変調をきたしているのでなければ、このように徹底的に施設が失われるような火災は起きるものではない。それぞれの事故に対して各社のトップは「人員削減は機械化で補われており安全性を軽視してはいない」とか、あるいは「施設の耐用年数は十分あり、不適切な老朽施設であるわけではない」と説明している。(新日鉄社長の会見など)

 ある側面だけを取り上げるならば、それはその通りなのだろう。しかし、長いこと使用されてきた施設が安全に機能するためには、その施設の「常態」について知っている人が長年の経験に基づいた適切なメンテナンスを施す、それが絶対条件となる。いろいろな運転状況において機器・施設が見せる「表情」を正確に読み取れるような熟練が必要なのだ。電流計の針の振れ方、機器が発する異音、金槌で行うサウンジングの反響音、施設のあるロケーションでのみ発生する匂い、気温・湿度とそれらの機器・施設との関係は保守員独自の感覚となっていることがあろう。そういう仕事をしている人々は、いま、どのように処遇されているのだろうか。まだ、職場にいて地道な日々の繰り返し作業についているのだろうか。それとも生産性の低いムダな職種として既に切り捨てられてしまったのだろうか。さいわいにまだ馘にならずにそういう業務についているとしても彼の後継者はいるだろうか。

 若い人がそういう職務を黙々とこなしている人にあこがれることはないだろう、と、そう思う。なぜなら、大きな事故でも起きない限り、こうした地道な業務などクローズアップされることはなく、彼らがその仕事を完璧にこなせばこなすほどに彼らの仕事が評価されるチャンスは限りなく小さくなってゆくのだから。おれがおれがの「成果主義」がもてはやされる時代にあっては、「成果」の見えない業務は「会社に対する犯罪的行為」であり、そういう見えない職務にたずさわり黙々とそれを行う人は「ウスノロ」だとか「月給ドロボー」などといわれる、そういう世の中になってしまったのだから。

 ものづくりの頂点を支えているのは、メンテナンス業務に限らず、こうした一見「成果」を評価しにくい無数の業務の裾野だ。したがって、こういう基礎がガタガタの状況だとしたら、「ものづくりの技術」による日本再建など画餅に等しい。(9/29/2003)

 原をめぐるドタバタ劇を望見して、にわかに王の評価をあげたことと、一方にここまで来ればホークスにも早いところ優勝を決めてもらい、松中などをシリーズに向けて休ませてやりたいものだなどと思い、6時、BSのホークス−バッファローズ戦にかじりついた。(昼間のファイターズ−ライオンズ戦でライオンズが9回に2点差をひっくり返して勝ってしまったため、ホークスが自力で勝たなければ、きょうの優勝はなくなってしまった)

 寺原は上々の滑り出しに見えた。初回は、ピッチャーゴロ、ショートゴロ、センターフライ、2回も、ローズを三振、吉岡をレフトフライ、あっという間にツーアウトを取った。ところがここから三遊間のヒット、フォアボール、タイムリーツーベースで、あっという間に先取点。ランナー、2、3塁というところで連続フォアボールで押し出し。ここで尾花コーチがマウンドへ。交代と思ったら続投。続く水口のところで立て続けに二つボールを投げたところでたまりかねて出てきた王が交代を告げるが、コーチが出たあと一人の打者は消化しなくてはならないルールにより交代は認められず、タイムリーを浴びて計4点。その裏ホークスも同じようにツーアウトランナーなしから3点を入れ、これはと思わせたものの、直後の3回表に追加点を許してからは、リズムに乗ることなくズルズルと本拠地胴上げを逃してしまった。

 これで最短の優勝は明後日。このあと、ホークスが4連敗、ライオンズが4連勝すれば、ライオンズにも優勝の目がないわけではない。それも悪くはない。だが、ちょっと評価がバブリーな星野タイガースに「野球がほんとうに強いというのはどういうことをいうのか」を見せてやるためには打力のホークスの方がいいかなという気がしている。(9/28/2003)

 小泉新政権の支持率調査結果が出ている。朝毎読の順に59%、65%、63%となっている。いずれも改造前の先月の値よりは10%くらいあがっており、これに対する各紙の解説は「安倍晋三幹事長」の受けがいいからというところで奇妙に一致している。いったい安倍晋三にどんな実績があるというのだろう。

 ニュースコメントは揃いも揃って拉致問題に対する取り組みをあげているが、

  1. 金正日に拉致問題を認めさせたのは安倍だったのか、答えは否
  2. 生存を認めた五人の帰国が適ったのは安倍のはたらきか、答えは否
  3. オンスケジュールであったはずの帰国者家族の帰還は実現したか、答えは否

 「否」ばかりではないか。北朝鮮に帰国者家族の帰還を促すために安倍はなにをしたか。去年10月末のクアラルンプールでの日朝交渉に「強硬突破」の一点張りで臨み、次善の方策も用意しなかった虚け者は誰か、安倍晋三、その人ではないか。

 テルはみごとに息子の頭上のリンゴを射抜いた。約束通りに息子の手を引き、背を向けるテルをゲスラーは呼び止める。「テル、みごとだった。だが、おまえ、リンゴを射る矢の他にもう一本、矢を手挟んだが、なんのためじゃ」。テルは答える、「もし、誤って息子を殺めた時には、この矢で、おまえを射るつもりだった」と。誰もが知っているシラーの「ウィリアム・テル」の一場面だ。

 国家犯罪の犠牲者を救うための交渉に「二の矢」の備えもなく臨み、成果が上がらないとなると「だって北朝鮮が悪いんだもん」を繰り返すマヌケなお坊ちゃまを評価し、その空っぽの頭脳に期待するということ自体、この国の状況がどれほど絶望的なものかを如実に表わしている。(9/27/2003)

 原監督辞任のニュース。週刊新潮「来期は江川情報が駆けめぐる奇っ怪な巨人・原おろし」、週刊文春「原監督に辞任を決意させた渡辺オーナーの暴言」というのが昨日の朝刊の広告だった。カネのかかる取材はしない、うわさ話だけを作文して紙面を創っていると陰口される新潮らしさ爆発、正解は「来期は江川」ではなく「来期は堀内」。

 それにしても監督就任一年目でリーグ優勝にとどまらず日本一にまでなりながら、翌年優勝を逃したら詰腹とはすごい。「たいしたことじゃない、グループ内の人事異動だ」と渡辺。優良企業の自意識は強烈なようだが、外から見ればコップの中の権力闘争、それも暴君の覚えばかりを気にするような茶坊主争いにしか見えぬところが読売グループのあいもかわらぬ滑稽さ。

 滑稽といえば、昨日の都議会質疑で「さらってみたら年寄りだったから、その場で殺したんだろう」と得々と当て推量を開陳した石原慎太郎、きょうは一転して「配慮に欠けるものと反省している。被害者の方々を心ならずも傷つけてしまったことは痛恨の極み」と陳謝した由。(このニュース、読売は報じているが、サンケイは報じていないところが面白い現象)

 年寄り、とくに老婆に対する慎太郎の本心は、いつだったか週刊誌の取材に対し、「女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄」、「きんさん、ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害」、「文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババァ」などと語って訴えられていることでも明らか。

 年寄り、わけても「ババァなんぞ生きている価値がない」と石原自身が思っているからこそ、北朝鮮工作員もそう考えたに違いないという当て推量ができるのだ。この思考プロセスは田中均に対する「爆弾を仕掛けられて当然」という発言とその構造においてなんら変わるところはない。然るに、一方では傲然と「なにが悪い」とそっくりかえり、自分が想定する大衆の怒りを買うと見るや、もう一方では手の裏を返して土下座せんばかりに謝る。石原慎太郎という男のオポチュニストぶりがじつによく現れていて、これもまた滑稽極まりない話。(9/26/2003)

 ニュース23に竹中平蔵が出ていた。筑紫哲也との一問一答を見ながら「こいつ、いいわけだけは天下一品だな」とつくづく思う。

 小渕内閣の時の経済戦略会議に加わってから、かれこれ5年。会議の一委員からスタートして、いまや経済財政と金融という二つの部門を担当する大臣にまでのしあがったわけだが、彼の「出世」とこの国の経済状況はもののみごとに反比例した。堺屋太一は竹中を「所詮、委員程度の人で意見を言うのがせいぜい。政策を立案することはもちろんリードする力はもともとない」と酷評していたが、その指摘の正しさはこの5年間が証明した。

 5年の間に竹中があちこちで「食言」したことを吐き出させてつなぐとこんな話になる。「構造的に古くなった業種は積極的につぶすことが必要。それにより仕事を失った人たちを新しい産業が引き受けることにより日本経済の構造改革は成就します。その期待の新しい産業がIT産業です」、ざっとこんなところだ。これ以上でも以下でもない。ところで竹中期待の星、IT産業はどうなったか。ITバブルとして雲散霧消してしまったのは周知の事実。

 はたして竹中は「IT産業救世主論」にどのていど論理的な裏付けと見通しを持っていたのだろうか。80年代不調だったアメリカは90年代になって一転活況を取り戻した。その好調を支えたのがITを駆使した「従来業種」(新興業種ではない)の合理化だといわれ、インターネットビジネスなるもののごく一部に「成功例」と思わせるものがあった。おそらく竹中の「IT産業救世主論」は「同じことはこの日本でも起きるはず」という「信仰」だったのだろう。

 ひたすらアメリカだけを眺め、その表層に浮かぶ「うたかた」を中味のあるものとして拝み、祈り、真似ることだけで、環境も基礎も違う国の経済が持ち直すならば、こんな幸せなことはない。「うたかた」に字をあてると「泡沫」と書く。「泡沫」とは「バブル」のこと。「バブル」の中味は、誰でも知っていることだが、中空だ。

 最近の竹中は新しい産業については語らない。語れないのか、懲りたのか、どちらかだろう。かわりに力説しているのが、「自ら汗をながす人を支援する。そういう人に投資意欲を発揮してもらうことによって、ニュービジネスを創りだしてもらう」ということだ。おおかた自分に創造力を発揮する知恵がこれっぽっちもないことを骨の髄から実感したから、他人に期待するということ。自らの限界を知ったのなら、早く身を引いて欲しい。経済音痴の小泉にはタケナカのニセモノぶりを見抜く眼はないのだから。

 そうか小泉もバブルか。タケナカ・コイズミ、bubble gum brothers、どうりでカラ人気ばかりが高いわけだ。(9/24/2003)

 台風一過の晴天とはならず、曇ベース。午後になって陽がわずかにさす天気。涼しいは通り越して瞬時に季節が変わったような感じ。

 昨日の安倍「幹事長」の続き、どんなサプライズが待っているかと思いきや、精一杯若作りしてみました、派閥のバランスもとれてます程度の組閣。そうそう鳩は出せぬものらしい。各派閥から若手を一本釣りして子飼いの手下にしようというつもりなのかしら、ヒトラー・ユーゲントの発想。ちょっとばかり年齢に無理があるが。

 小泉を自民党らしくないとか新しいとか言う者がいる。きっと鼻が悪いのだろう。彼が使っている手法はどれも自民党の「伝統」そのもの。違いはカネでつらずにエサでつっているだけのこと。この匂い、自民党固有の臭さ、そのものだろうに。

 一番嗤えたのは、キム・テラン、こと、麻生太郎。皮肉っぽく歪めた口元に難がある太郎チャン、エサにつられて、なんともいい顔をしていた。満面の笑みにトレードマークの口元の歪みが跡形もなく消えている。人のいいお坊ちゃんに見えてしまうんだから可笑しい。

 もっと笑ったのは**(息子)の話。小池百合子を評して「こいつなんか、おおもとは日本新党で、次が新進党、そして自由党から保守党行って、いまは自民党。行ってないのは公明党に共産党ぐらい、あと社民党かあ。イソップのコウモリだって鳥と獣の間を行ったり来たりしただけだぜ」。ガチガチの保守主義者ならば「貞女、二夫にまみえず」と吐き捨てるところだが、古すぎてこんな言葉は知らないらしい。

 まあ日本新党を政治家の入り口にしたところに小池の不幸も限界もあるのだろう。タレントヅラを貸してこの世界に入ってきた小池ではそのへんの事情は際立たないが、同じ日本新党からのドリフト組、茂木敏充あたりを見れば、よりはっきりする。もともと第一志望は自民党、地盤も看板も鞄もないが故にアナ狙いで日本新党を選択、ひたすら権力志向を発揮して自民党にすり寄り初志を貫徹するが、二世・三世の壁は厚く悶々とした思いの毎日。そこにつけ込む小泉。

 驚くほどの着眼ではない。なぜなら小泉自身が彼らと同様の場所に立っているのだから。頭は軽くとも毛並みと見てくれのいい安倍を抱き込んだところはその現れ。小泉の限界と弱点もまたそこにあるということだ。(9/22/2003)

 昨夜録画しておいたNHKスペシャル「阪神を変えた男・星野仙一」と、6時半からのTBSのZONE「闘将星野監督が阪神優勝の苦闘を語る」を見た。

 野村が「ワシと星野監督の違いは政治力や」とぼやいているとかいう週刊誌広告を見かけた。野村の自己弁護はともかくとして星野の真骨頂がグランドよりグランド外にあることは事実。はたして二つの番組はじつに平凡な星野賛歌といった体のものだった。あえていえばZONEの方が若干面白く見ることができた。それはNHKスペシャルが終始今年のタイガースを対象にしていたのに対して、ZONEは、一昨年の暮れ、星野がタイガースの監督を引き受けたところから始め、去年のオープン戦における「星野流意識改革」をクローズアップして取り上げていたからだ。

 どちらの番組も星野の胸にマイクをつけたり、ベンチにマイクをセットして、その声とベンチの空気を収録している。その内容を聞くと星野流意識改革といっても目新しいことはなにもないことがわかる。「覇気を示せ、声を出せ」ということと、「その場で叱る、その場で褒める」ということばかりだから。むしろ星野流なのは、この監督が常に試合にだけ集中しているわけではなく、自己PRにも余念がないナルシシストだということかもしれない。

 二つの番組とも4月11日のジャイアンツ・タイガース第一回戦を取り上げていた。9回ツーアウト、2ストライクノーボールと追い込んだ吉野を、突然、藤川に代え、その藤川が仁志にセンター前のタイムリー、後藤に同点ホームランを打たれたあの試合だ。NHK特集は引分けに終ったあの試合の夜、宿舎で開かれたミーティングで星野が選手に詫びたことを取り上げていた、選手が監督への信頼を高めた象徴的なできごととして。ものごとの理非曲直を明らかにすることが指揮官の責務とすれば、謝ったことは当然だ。往々にしてうやむやにされがちなことを明確にしたという非凡さを認めてもよい。

 だが、ここでプロ野球ファンが知りたいことは、おそらく、フォアボールを出したあとも続投させた吉野が2−0と追い込んだところで藤川にスイッチした理由そのものだ。両番組ともそれには答えもしなければ疑念すら持たなかったようだ。どちらの番組も単なるシャンシャン番組にしかならなかったのは、こういうごく当然の疑問に突っこんでゆく姿勢がなかったからだ。

 星野は健康上の理由から来年も監督を続けるかどうか微妙らしい。もし、彼が来年もタイガースの指揮をとるとしたら、この追求されなかった「ミス」がどのように克服されるかが、来年も優勝を争えるかどうかを決める鍵になるだろう。最低、最悪の状態から、普通の状態に引き上げることはさほど難しいことではない。難しいのは一般的には普通の状態を長く安定的に維持することであり、星野仙一という男にはなにより自己を過剰に演出したくなるその誘惑を退けることだろう。

 星野には今期限りの勇退を勧めたい。そうすれば、おおかたのぼんやりファンには美しい「星野伝説」を残すことができるだろうから。(9/21/2003)

 ライオンズの伊東勤が引退の発表。伊原が退任して伊東が監督になる由。

 ここ数年、気になって仕方がないことがある。いわゆる首脳陣がほとんど生え抜きの選手で占められていることだ。思いつくだけでも、松沼兄弟、清水、河田、笘篠、田辺とあげられる。これはかつてのスワローズ、マリンズ(マリンズの場合はいまでも)に見られた万年Bクラス球団の特質だ。

 ライオンズは92年に日本一になって以来、その後5度シリーズに駒を進めながらすべて敗退している。十年で5回のリーグ優勝は4回のジャイアンツを上回るとはいえ、チーム全体が斜陽化の一途をたどっている印象は否めない。

 捕手というポジションは9つのポジションで、唯一、常に攻撃側から自チームを見ている。そのポジションにおいて伊東は間違いなく名選手であった。監督として必要な目は養われているだろう。しかし、斜陽モードに入っているかつての常勝チームを再建することは、かなりのキャリアを持った監督にも容易なことではない。目で見て知っていることをゲームの中で現実化するために、観客からは見えないところで監督がなすべき仕事は多い。伊東にはそのプロセスを学ばせるためのワンクッションのキャリアを積ませてやりたい。(9/19/2003)

 昨日午前、家族会は会合を開いて政府から示された方針を会として了承することを決めた。政府方針とは、@帰国者5人の家族の帰国を国交正常化交渉の条件とする、A国交正常化交渉と並行して他の拉致被害者の問題を取り上げる、B経済支援などは国交正常化実現後とする、というような内容らしい。

 一年もかかってこんな「方針」というのは普通に考えれば「バカじゃないか」という話だが、それはおそらく「北朝鮮の事情を伝える」というだけでバッシングの対象になってしまうという異様な国内のムードに政府でさえうっかり動けなくなったことが原因だった。

 あの魔女狩りの引き金を引いたのは家族会だ。家族会はまず帰国者への報道機関の取材を厳重に管理した。その網を破った取材活動に対しては「利敵行為」のレッテルを貼り、家族会自身が検閲した情報のみを流した。そのやり方は官製情報が絶対で自分たちが認めない情報はすべて「敵の策動」と決めつける北朝鮮のやり口と瓜二つ。自由を看板にしている国の不自由は、不自由が当然の国の不自由よりもタチが悪い。そのことは911後のアメリカに見るとおりだ。

 ここに来て、やっと、いくら国内で日本人を対象にした魔女狩りを続け、狂犬に向かって遠くから吠えたところで、事態は何一つ進展しないというバカバカしいほど当たり前の事実を、家族会や救う会も認めざるを得なくなったということ。それが@に現れているのだろうが、これを伝える読売の記事に面白いくだりがある。「両会(注:家族会と救う会のこと)は当初、政府方針を『評価する』との統一見解をまとめる予定だった。しかし、この日開かれた会合で、これまでの政府の姿勢などから『信頼できない』とする家族の声が続出し、政府に対して厳しい表現となった」。

 14日のTBS「報道特集」によれば、@からBの政府方針は今月5日に家族会に説明、了承の打診があった。それが「方針の評価」という表現に変わり、それすらすんなりとは決まらなかったということは、家族会内部の魔女狩り派が完全には政府方針を納得していないということを意味していると思われる。蓮池透のような拉致問題をメシのタネにしている「プロ」は別格として、一年の空費を目の前にしながら、なおも@、Aと順番に処理をしてゆくことに反発があるというのはどういうことだろうか。

 家族会メンバーの立場は一様ではない。帰国できた5人の親族、北が拉致の事実を認めた上で死んだと伝えてきた家族、そして拉致された疑いはあるものの政府リストにないために北のコメントの対象になっていない人の家族、それぞれ境遇も違えば、解決の困難さにも大きな違いがある。すべての拉致問題が一日も早く同時決着されることは理想だが、北も認めている比較的簡単で早期解決の可能性の高い事例から順に解決してゆくことこそ現実的な唯一の道だ。いま現在、帰ってきた5人の北に残した家族の存在は、家族会内部の「辛さ」の共有に役立っている。そのバランスが崩れても組織が持つかどうか。家族会が@・Aの政府方針を素直に了承できなかった事情はおそらくこのあたりにある。

 家族会は、最終目的を達するまでその結束を維持するためにお互いを拘束しあう形をとるのか、運命の違いを妬むことなく許容しあう形をとるのか、いずれが可能かはメンバー個々人の人間的器量に依存している。蓮池透が事務局長でいられるところをみると、見通しはけっして明るくはないだろう。家族会は最初の曲がり角にさしかかっているのかもしれない。(9/18/2003)

 朝刊に「米大統領、再選へ赤信号」の見出し。数字が出ている箇所を中心に書き留めておく。「5月1日の戦闘終結宣言以降の米兵の死者は15日現在で158人(宣言までの戦闘期間中の死者は135人)」、「イラク・アフガニスタンの戦闘・復興経費として議会に提出した補正予算は870億ドル」、「来月から始まる2004会計年度の財政赤字は4800億ドルで二年連続過去最大規模の赤字になる見込」、「ワシントンポストとABCが実施した世論調査では、死者数については55パーセントが容認できない、戦費の追加補正予算には61パーセントが反対すると回答している」、「ギャラップの支持率調査では9月上旬52パーセントに下落、これは911によるファナティックな支持率上昇がある直前の51パーセントの支持率に戻った」。

 ブッシュはまず京都議定書を蹴飛ばすところで世界中の良識派の支持を失った。続けてイラクに対する強引な開戦で旧西側先進国のほとんどの国民と半分以上の政府の支持を失った。そしていま戦争となると熱狂するちょっとパープリンのアメリカ国民の半分までの支持を失おうとしている。

 ブッシュはなにを達成できただろう。経済はクリントン政権から引き継いだ時の好調さをすべて吐き出し、いくつかの巨大企業の粉飾決算騒ぎを招き、収支とんとんまで改善した国家財政は度重なる無用な戦費支出のためにレーガンの頃よりさらに深く沈みこみ、ヨーロッパに住む人々の三分の二までをアメリカ嫌いにし、いまや「アメリカは偉大な国家ではなく尊大な国家だ」という評価を定着させてしまった。まことにもってめざましい業績といえる。石原慎太郎流の筆法によれば、「爆弾を仕掛けられて当然」の大統領ということになろう、呵々。(9/17/2003)

 宅配会社「軽急便」の名古屋支店にこの会社と契約していた運転手が押し入り、ガソリンらしいものを撒いて社員を人質に取り立てこもる事件。人質7人を解放した直後に爆発が起き、犯人と人質として残された支店長、そして事務所入り口に詰めていた警察官の3人が亡くなった。

 犯人は7月から今月までの給料の支払いを求めていたという。伝えられる犯人のプロフィールは「無口で人当たりはよくないが真面目な人」で一貫している。軽急便という会社は配送車輌も運転手も一切保有せず、応募してきた運転手に自社のロゴを描いた車をローン購入させ、請負仕事をまわすという一種のフランチャイズ制をとる会社らしい。軽急便がほんとうに配送業者としての売り上げをメインにしていたのか、あるいはよく見かける「パソコンを購入すれば、翌日から自宅で月数十万の収入」式の詐欺まがい車輌斡旋の売り上げをメインにしていたのか、詳しいことはわからない。いずれにしても前宣伝ほどの収入がなかったことが犯人を追いつめたのだろう。

 ふと思い出したのは一昨年の武富士弘前支店強盗殺人事件のことだ。あの犯人もたしか高収入があると聞いて始めた軽トラ宅配がうまくゆかず生活が苦しくなったことを犯行の動機といっていたはず。同じ石に躓いた二人がともにガソリンを撒くという手口の犯罪に走ったということは単なる偶然なのだろうが気味の悪い暗合。

 あえて書いておこう。これも「規制緩和」による「構造改革」の成果だ、と。そしてこの事件は構造改革が決して「額に汗して働く人に酬いる」のではなく「額に汗して働く人を食い物にする人に酬いる」ために推進されていることを如実に表わしている、と。(9/16/2003)

 タイガース優勝。引き分けをはさんで5連敗、ロードに出ると不思議なことにからきし勝てなくなるタイガースが甲子園に戻ってカープに劇的な逆転サヨナラ勝ちを演じ、遅れて始まったベイスターズ・スワローズ戦でスワローズが負けてやっとこさ優勝が決まった。始めから終りまでベイスターズに助けてもらって優勝したように見えるところが可笑しい。

 ベーシックの時代に作っていまも使っている自作ソフトは「プロ野球勝敗記録・表示」だけになってしまったが、この16ビットバージョンを作った年が85年、タイガースが優勝した年だった。勝敗のグラフ表示データがあるのはこの年からだ。その年のタイガースは74勝49敗7引分け、貯金25、勝率6割2厘、二位のカープとは7ゲーム差だった。完全優勝ではなかった。カープに11勝15敗と負け越しているからだ。貯金はホエールズ11、スワローズ10、ドラゴンズ7というBクラスで終った3チームにほぼ均等に稼がせてもらっている。

 きょう現在のタイガースは81勝45敗2引分け、貯金36、勝率6割4分3厘、二位のスワローズとはじつに14ゲームもの大差をつけている。文句のつけようがない優勝に見える。しかし、今回も完全優勝ではない。星野監督のお里、ドラゴンズ戦があと1ゲームを残して13勝14敗の成績だから。そして貯金。なんといっても22勝6敗のベイスターズと16勝6敗1引分けのジャイアンツの貢献が大きい。この2チームから稼いだ26という貯金は前回優勝のそれを上回っている。

 プロどうしが年間28試合戦ってヒト桁しか勝てず、相手に20勝以上もさせるというのはやはり異常なのではないか・・・と思ったら、去年のベイスターズはジャイアンツに21勝、一昨年のタイガースはカープに20勝もさせている。タイガース・ジャイアンツ戦はあと5試合ある。ジャイアンツはここのところ8連敗中。週末から来週にかけて連続してカードが組まれているから、タイガースの対ジャイアンツ20勝も実現するかもしれない。

 さて道頓堀川では恒例の飛び込みが始まったようだ。マスコミは「汚い」とか「危険」とかいいながら逆に煽っている感さえある。バカバカしいドートンボリ・ダイブをやめさせる方法はひとつしかない。タイガースがもう少し頻繁に優勝することだ。とても難しいことではあろうが。(9/15/2003)

 読書欄の「いつもそばに本が」は先週から上野千鶴子。ちょいと気になる部分。

 社会学者とは、人間の想像より現実のほうがもっと豊かだ、と思うひとびとのことである。現実より想像のほうが豊かだ、と思うひとは、作家に向いている。想像力は残念ながら、ひとの身の丈を超えない。反対に、まさか、と思うようなことは、きっと事実だろう、と考えることにしている。

 まったくその通りかもしれない。しかし、想像力の補助がなくては豊かな現実を豊かなものとしてみることは適わない。また、しっかりした観察がなくしては豊かな現実はその像さえ結ばないだろう。問題は想像力と観察、主観と客観の折り合いがどのようにつけられるか、だ。

 わたしは今でもぼうだいな量の本を読むが、ひとに会ったり、現場を踏んだりするのも、それに劣らず好きである。本からはわたしが得たいと思っている情報しか得られないが、経験からは、わたしが予想もしない贈りものが、向こうからやってくるからである。

 じつにうまい文章で、瞬時、来るべき定年の後、どのような知的戦略を立てるべきか、考えておかねばならぬと思ってしまった。(9/14/2003)

 東京都の銀行税訴訟が最高裁判決の前に和解する見通しだという。伝えられる和解内容は、税率を現行の3%から一気に0.9パーセントに下げた上、この税率に計算し直した際の過去の過徴税額2,221億円とその額の期間利息123億円を返還するというもの。かろうじてメンツが保てそうになった形勢を見て、オポチュニスト石原は「国も外形標準課税を取り入れることになった。その引き金はおれが引いた」と、あちこちでふれまわっている由。

 世の中には「オレがやった」を連発する手合いがいる。数が多いわけではないが、そういう奴に限ってやたらに声が大きい。声が大きいからよく目立つ。だから世の中「オレが」人間ばかりかと錯覚することすらある。経験からすると本当に仕事の形を作り細部まで仕上げた功労者は「オレがやった」とは言わない。まさに「知る者は言わず、言う者は知らず」なのだ。

 ヤッターマン慎太郎に聞きたいものだ。「国が取り入れる外形標準課税は、大手銀行だけを選択し課税するものですか」と。

 石原の手口は決まっている。その時点で大衆的非難を浴びているものを際立たせておいてそれを狙い撃ちするのだ。銀行税問題は悪役を公的資金注入を受けてのうのうとしている大手銀行に設定した。今週の騒ぎも悪役を外交の寝業師たる田中均に設定した。その上で烏合の衆とも言うべき、ものを考えない大衆をバックに安全な場所から石礫を投げるのだ。いじめの現場には必ずいじめをとり仕切るリーダーがいるものだ。卑怯な男だよ、石原慎太郎は。(9/13/2003)

 昼前に工場を出た。暑い。今頃になって夏の盛りのような日が続く。蝉時雨、研修所裏の木立のあいまを通り過ぎる時、その蝉時雨を浴びた。まさに浴びるような鳴き声のスコールだった。

 8月に羽化した蝉は可哀想だった。地中に7年、やっと地上に出てきたら、ゴメン、ことしは冷夏なの、エッ、そんなぁ・・・、身の不幸を恨むうち、7日ばかりで命を終えた。「生まれた時が悪いのか、それともおれが悪いのか、・・・」そんな流行歌があったっけ。

 月曜日に亡くなったレニ・リーフェンシュタールは「ナチのもとでの映画製作は恥じるとしても、その時代に生きたことを恥じることはできない」と言ったそうだ。蝉も人間も生まれる時を選ぶことはできない。一人で時代を作ることもできない。

 夏の終りのいまごろに遅れて羽化した蝉は本来ならば身の不幸を嘆くはず。それがこうして予定通りの暑さを楽しんでいる。なにがどのように幸いするか、神の意図はとうていはかりがたい。(9/12/2003)

 2年がたった。あのとき予想したことも、あの後半月の間に予想したことも、そのまま現実になった。アメリカは「報復」という過ちを犯し、テロという「犯罪」に「戦争」で応じ、どさくさに紛らわせてイラクへの筋の通らぬ攻撃に踏み切り、「戦線」は拡大したにも関わらず、テロの撲滅という「戦果」は露ほどもあがらなかった。けさの新聞に面白い話が載っている。(ここで開戦といっているのはイラク戦争の開戦のこと)

 英王立国際問題研究所のマイ・ヤマニ研究員は開戦の直前、ある会合でネオコンの総帥格リチャード・パール米国防政策諮問委員長(当時)と激論を交わした。冒頭でヤマニ氏は「最新ニュースがあります。ビンラディン氏が妊娠し、米軍が産婆役を買って出ました」と発言した。

 おつむの悪いパールはこれを悪いジョークと取ったのかもしれないが、このジョークはブッシュの戦闘終結宣言後から今日に至るまでのイラクの状況を恐ろしいほど的確にいいあてた予言となった。

 世界貿易センターの構造上の脆さは犯人たちにもくろみをはるかに超えた「戦果」をもたらした。

 そしてブッシュ政権の度し難い愚かさも犯人たちにもくろみをはるかに超える「戦果」を捧げつつある。

 あの日の日記の末尾、"till time and times are done"はイェーツの詩から引いた。その詩の末尾はこんなものだ。

And pluck till time and times are done
The silver apples of the moon,
The golden apples of the sun.

 グリム童話の中に恐ろしい寓意を読み取ることがはやったことがあった。同じようにするならば、「月の銀の林檎」はテロの直接の犠牲者、「太陽の金の林檎」は何になるのだろうか?(9/11/2003)

 石原慎太郎が亀井静香の応援演説で、外務省の田中均審議官自宅に爆発物が仕掛けられた件を取り上げて、「北朝鮮のいいなりになるような役人の自宅に爆弾を仕掛けられたのは当然のこと」とぶち上げた由。マスコミは石原がまたやってくれたとばかりに飛びついているが、こういう語り口は別に石原がはじめてのことではない。

 「正論」というのはサンケイ新聞ご自慢の「オピニオン雑誌」だが、この雑誌にはたびたびこうした「右翼によるテロは正しい」という「正論」が登場するらしい。サンケイごときの「オピニオン」など自信をなくした時の気付け薬にしか役立たないからあまり手に取ることはないが、いつだったかなじみのない私立大学のこれもとんと見かけぬ名前の教授を名乗る男が「朝日新聞の偏向紙面は目に余る、赤報隊によるお灸がまた必要だ」などと書いていたのを見かけたことがある。「ふーん、サンケイ新聞はテロ容認新聞なんだ」とあらためてそのいい加減な論理にヤクザ新聞の真骨頂を見た気がしたものだ。

 はらわたが千切れるほど不正、それが尋常の手段ではただされぬとの思いがあれば「正義」(じつはこれがくせ者なのだが)の鉄槌をという理屈、闇雲に否定はできぬ。誤りなく狙った相手のみを仕留めるものなら、人間の世の中のこと、あってはならぬことながら、いたしかたない。それでも爆弾によるテロは許容範囲をはるかに超える。刺客には刺客の美学があるべきだ。いや、そんなことよりなにより、狙う相手に相応の理由がなくてはならぬ。テロを容認するとしても、これは欠くべからざる条件だろう。

 昨年の日朝首脳会談で北朝鮮は拉致事件を認め彼らの側からの解決案を提示してきた。国家犯罪をすんなりと認めることは平時では通常あり得ない。ましてあのような体制の国のこと異例中の異例事であることは誰しも認めることだろう。ところで、これを実現したのはいったい誰か。開かずの扉をこじ開けたのは田中均とそのスタッフだったのではないか。それが分からぬ者に政治を語る資格などありはしない。

 石原は役人が政治家をつんぼ桟敷において勝手な交渉をすると論難したようだが、外交はそういう下位のレベルからの接触を積み上げて成果を築くものだ。そんなこともわからずによくもまあ、国会議員が勤まったものだ。国民は石原に俸給を盗まれたに等しい。美濃部と争って一敗地に塗れた都知事選出馬などのブランク期間を除いて68年から95年まで彼は国会議員であった。その間、北朝鮮や拉致問題に関して政治家として何一つしようともしなかったくせに「政治家を差し置いて」などとは片腹痛い。

 ところで、石原慎太郎、自らを「爆弾を仕掛けられて当然」とつけねらう輩が出てきた場合には、彼らの標的になってもやむなしという覚悟はできているのだろうか。それとも、所詮、自分はもの書き、口舌の徒故、そんな覚悟はできておらぬと逃げるのか。言葉がブーメランのように帰ることを忘れているとすれば、もはやもの書きの資格すら失ったということになるが。(9/10/2003)

 野中広務が今期限りで引退すると記者会見。「最後の情熱と志を反小泉の戦いに出し尽くす」ためと言ったらしいが、小泉は「辞める人の言うことを聞く人はいない」と冷笑した由。たしかに道義を説き諫死した者を干し肉にして喰らうというのが権力闘争の世界、それほどの野蛮は昔の話としても無力の者のまわりには誰も寄りつかないのは世の習い。

 反小泉の戦法について、野中がここ数ヵ月言ってきた「秘策で奇策」とはこの程度のことだったのかと嗤いたくなるが、おそらく刀折れ、矢尽きたということなのだろう。豪腕の策士といわれているが、自己の体験に根ざした責務、果たすべき責務、を持った人であったことは間違いない。

 思い出すのは、数年前、沖縄特措法の改正だったか、本会議場における演説で「この審議が大政翼賛会とならぬようお願いしたい」と少し裏返ったような甲高い声を上げ、用意した原稿用紙を興奮のためぶるぶると震わせながら降壇したシーンだ。野中がただの利権屋ならば、あんな格好の悪いことはしない。この男には血が通い、背骨がきちんと通っていると実感したことを憶えている。

 そういう気骨のある政治家が寂しく舞台を降りた日として記憶しておくことにしよう。(9/9/2003)

 自民党総裁選の告示。立候補は小泉純一郎、藤井孝男、亀井静香、高村正彦の4名。藤井孝男は**(家内)にいわせると浅香美津代のそっくりのブロマイド候補者、亀井静香はただひたすらに自分が想定する愚民たちにアジテーションするだけ、たしかに高村はそれなりのことはしゃべれるのだがスタティックな理屈から活きた世界に通用する政策への変換がうまくできるかどうかということになると少し線が細いかなという感じ。対する小泉は勝ったつもりでいるのだろう、自らのスタイルに酔っている。

 この中から選べというのだから自民党員も辛かろうが、これを苦しい選択だと考えるほどのセンスを持っていれば自民党員でいるはずがない。となれば、露わになるのは、ノーなし(自民党員)がノーなし(小泉)を選び、そのノーなし(小泉)をノーなし(ワンフレーズ・ポリティシアン)と承知しつつ甘受せざるを得ない、我々の不幸な状況だけだ。

 投票日は来週の土曜日の由。二週間もの間、この不毛な黄色い風土をこれでもかこれでもかと、鼻先に突きつけられるかと思うと、いささかユーツになる。(9/8/2003)

 東京電力のテレビコマーシャルを見た。節電の協力に感謝するという内容。その最後のフレーズでこう言う、「私たちはこの夏を決して忘れません」と。

 東京電力はとんでもない勘違いをしている。東電が会社として「忘れないこと」を誓うべきなのは、「この夏の節電協力」なのではなく、「原子力発電における事故隠しとデータの改竄などの一連の犯罪的行為を組織的に行ったという事実そのもの」でなくてはならない。なぜ節電キャンペーンを行い、主要需要家に操業調整を依頼せざるを得なかったかの根本原因こそ、忘れてはならない事実そのものだ。そこを美しい言葉の中に韜晦するコマーシャルを平然と流し、ことの本質をごまかそうとしている限り、東電はまた「組織犯罪」を繰り返すだろう。

 もっともそれは彼らが原子力発電という未完成で片端な技術をいかにもちゃんとした一人前の技術であるかのように取り扱うためには避けがたいことではあるのだが。(9/7/2003)

 天声人語から。

 看板にこう書かれていた。「この看板に石を投げないでください」。何のための看板なのかと笑ってしまうか、じっと考え込むか。冗談のようでもあるし、看板とは何かを根源的に問いかけているようにも見える。ある英国作家の経験である。▼変な看板やポスター、注意書きなどを集めた英国の本が手元にある。・・・(中略)・・・▼自民党の看板を決める総裁選にあてはまりそうな文句もある。たとえば、入り口に「選ばれた人のためのディスコ/だれでも歓迎」。小泉改革を「踏み絵」に支持者をしぼる構えを見せながら、実際は抵抗勢力からの支持も喜んで受け入れる「だれでも歓迎」である。▼睡眠薬の注意書きには「警告/眠気を催すかもしれません」。これは「警告/改革するかもしれません」と言い換えられようか。子ども向けのスーパーマンの衣装に「警告/この衣装で飛ぶことはできません」。これは「警告/支持を装っても総選挙の当選は保証できません」と。▼小泉首相の心境を推察すれば、「この看板に石を投げないでください」か。

 これだけで十分嗤えるが、「警告」のところをこんな風に書き直したら、よりコイズミ風になるだろう。「警告/党をぶっ壊すかもしれません」。さらにユーザー向けには「警告/この改革であなたの生活がよくなることはありません」。

 多くの国民は「構造改革」が自分たちの国をよくし、自分たちの生活をよくしてくれるものだと期待している。それはかつて池田勇人が「所得倍増」といった時、多くの国民が自らの所得が倍増すると誤解したことに似ている。しかし、たったひとつだが、とんでもなく大きく違うことがある。所得倍増計画は経済規模の倍増計画であったから個々人の所得をも意図せずに自動的に増加させたが、いま行われつつある構造改革はあらゆる社会の仕組みを競争の勝者にのみ有利にすること目的としているから、必然的に競争の勝者以外の階層は生活水準の低下が約束されている。そしてそれは「敗者」に限られた話ではない。勝者でも敗者でもないグレーゾーンも含まれる。だから「勝者以外」なのだ。

 もはや高率の経済成長が望めなくなった状況下で一定以上の階層にのみかつての所得の伸びを保証するために下を削り上を遇する制度を整備すること、それがコイズミの「構造改革」なのだ。「働いた者、汗をかいた者が報われる制度」という言葉を聞いて「自分が報われる制度」だと思ってもいい。ただし自分の年収が2,000万を超えているならばの話だ。つまり、同じように汗をかいたとしても、額に汗して働くような人たちは報われるグループには入っていない。タケナカならこういうだろう。「肉体労働など誰でもできることでしょ。もっと知的生産性の高い、他人にはできないことで汗をかかなきゃ働いたことにはなりませんよ、バカですね、あなたも」と。

 年収が1,000万たらずでコイズミを支持している人はある意味で「立派な人たち」だ。自分にとって不利なことであっても世のため人のためならば「痛みを甘受しよう」というのだから。もっともコイズミとかタケナカという男は世のため人のためなどということはこれっぽっちも考えておらず、ひたすら自分を含むごく一部の連中の利益のみを考えているのだから、ひたすら「痛みに耐えている」立派な人々は食い物にされるだけのことだが。(9/6/2003)

 第一報は、31日午後3時50分頃、沖縄市の廃材置き場で不発弾が爆発、自衛官が一人死んだというものだった。ところが死んだ自衛官の自宅から拳銃、自動小銃はおろか、対戦車ロケット弾とその発射装置までが出てきたというのだから大騒ぎ。

 単なる兵器オタクにしては対戦車ロケット弾というのはちょっと度を超しているような気がするが、自衛隊にはこの種の変なマニアがいるものらしい。それよりも少し気になるのは、いったいこれらの兵器を死んだ自衛官はどこからどの程度の価格で入手していたかということ。

 先週の田中宇のメールニュースには「戦闘で使われていないのに、格納庫に入っているはずの兵器がどこかに行ってしまったというケースも多く、56機の飛行機、32両の戦車などが『行方不明』になっている」という話が載っていた。客観的に見てアメリカ軍の士気と練度は低下している。その上モラルまでが低下して、上から下まで階級に応じた装備の横流しが広範に発生しているとしたら、かなり怖い話だ。(9/5/2003)

 先週終った6ヵ国協議について。おおむねあんなものだというコメントとまったく意味がなかったというコメントの二つが対立している。瀬戸際状況を創り出しては有利な条件を引き出そうとする北朝鮮との駆け引き、関係国が言いたいことを言いあうというはじめの一歩なのだからあんなものという理屈も、事態の進展に関して方向性も出なかったし、次回も決められなかったではないか、なんの意味もなかったという理屈も、どちらももっともらしく聞こえる。

 明らかなことが一つだけある。アメリカには新たな武力行使をするにたるだけの財政的余裕がないということだ。他国の財布をあてにするよりないのだが、その財布はイラク問題のためにも頼りたい。危機の演出のためにはそれだけの「呼び水」が必要になるけれど、ブッシュ政権はその費用すら支出できないていたらく。あるかないかわからない大量破壊兵器を理由に開戦したアメリカが、天下堂々核兵器の保有を広言している国を相手に一転して戦端を開かないというのは世にも不思議な話だが、それは石油利権のないところには、どうしても今ひとつ乗れない性根の卑しさと思えば合点がゆく。

 いずれにしても眼前の現実は「カネがない」ことに尽きる。したがってネオコンがどう画策しようとも、さしあたってアメリカは外交でいかざるを得ないし、「軍事的優位」という飛車を支えるための組み駒がない状況での外交である以上、どれほどブッシュが不愉快であろうと中国に采配をふるってもらわざるを得ないのだ。本来なら中国ではなく日本がはじめて大役を任される可能性もあったのかもしれない。日本がそういうはたらきができれば、ブッシュとしては中国よりは日本に任せたかったことだろう。ところが愚か者たちが拉致問題というヒステリーにとりつかれ、これにバカな国民がこぞって付和雷同、玄人の苦労を台無しにして、なんのことはないいつもの金魚のフンのような外交を繰り返すことになってしまった。安倍晋三などは素人感覚外交の代表格のような存在だが、その彼が次の組閣では外務大臣に擬せられているという。どこまでこの国は墜ちてゆくことやら。

 折しも先週入港し、鉦や太鼓の大騒ぎで迎え送った万景峰号がきょうまたやって来た。岸壁にはヒステリー患者が雁首並べてお出迎え。ご苦労なことではあるが、あれはなにを目的にしているものか。いくら騒いでもカエルの面にションベンの国が相手では空しかろうに。とすれば国内向けのパフォーマンス。官房機密費あたりから動員手当でも出るのか、ヒステリーのこれ以上の感染を狙ってのことか。(9/4/2003)

 午後、市ヶ谷の日水協へ。帰り池袋を出るころ、川越あたりで激しい雷雨とのことだった。途中で東進する雷雲とすれ違い、秋津に着いたころにはピークを過ぎており20分程度雨宿りをするだけですんだ。

 都内に入った雷雲は凄まじい雷と豪雨で山手線を止めるやら、議事堂に落雷し中央尖塔の御影石をはねとばすやら、大暴れをしたらしい。帰宅中のかなりの人が影響を受けた由。

 議事堂への落雷、菅公の祟りといわれた清涼殿への落雷を連想させる。はて、誰が誰に祟っているのだろうか。(9/3/2003)

 プリウスのフルモデルチェンジ。リッター35.5キロの燃費も魅力だが、2000ccなみの加速性能に惹かれる。下り坂から上り坂に切りかわった時、いまのプリウスはレスポンスが悪い。アクセルをちょっと余分に踏み込む感じが必要なのだ。瞬発的な力が欲しい時もちょっと頼りない。車間を意識的に取り急発進も急加速もしない方だからさほど不満には思っていないのだが、それでももう少し運転する側の意識と車の応答に密着性が欲しいとは思っていた。

 ナビパッケージをつけるとなんと自動的に車庫入れ、縦列駐車をしてくれるらしい。プリウスのサイトの映像を見ていたら**(家内)が歓声を上げた。うちのような変則的なところでどの程度まで自動でできるのか少し疑問はあるが、やはり気になる機能ではある。待たずに試乗できるようになったら一度行ってみよう。

 県知事選の結果。当選、上田清司、773,583票。以下、嶋津昭、442,704票、浜田卓二郎、204,505票。板東真理子、200,595。自民党筋、官僚筋は、徹底して嫌われた選挙。投票率はなんと35.80%。

 もうひとつ、チャールズ・ブロンソン、肺炎で死去。享年、81歳。トマトを踏みつぶしたような顔といわれながら圧倒的存在感。「ウーン、マンダム」のコマーシャルはその一時代前の「テカテカベタベタしない、MG5」よりさらに映像だけに語らせた記憶に残るものだった。(9/1/2003)

 イラク中部のナジャフのモスクに爆弾テロ。シーア派イスラム革命最高評議会(SCIRI)の指導者ハキーム師をはじめ100名近い死者が出た由。SCIRIは米英暫定占領当局に協力的だったことなどからフセイン政権の残党による犯行という見方が伝えられているが、それほど単純なものではないような気がする。

 先週のデメロ特別代表といい、今回のハキーム師といい、彼らの暗殺を計算した上の犯行とすれば、執務室の在室状況あるいは出発の車止めへの到着時間をかなり正確に把握していること、そして周辺警備にあたっているはずの米英軍の監視網をたやすく突破していることなど、内部から手引きする者あるいは警備状況をリークする者の存在を疑わせる。(8/30/2003)

 2年前の池田小学校児童殺傷事件の犯人宅間守に死刑判決。開廷直後に宅間は発言の機会を要求し、裁判長の静止にしたがわなかったため退廷、本人不在で死刑判決が読み上げられた由。異例といえば異例なのだが、確信犯としての強固な意志が揺るがなかったとすれば、許容の論議とは別に理解できない話ではない。かえってニュースに登場する被害者の親御さんの発言の方に違和感を覚えたのは我がへそ曲がりの故か。

 なんの咎もないのに幼い命を奪われた子供たちのことを考えると涙が出てくる。いつものように送り出した子供、その子供が帰ってこない。なににも代え難く思えるその笑い顔、はしゃぐ声、寝顔、語り合う楽しみなど、後の親不孝の先払いをしてくれるかのような可愛いさかりの子供、安らぎや気力や慰めを与えてくれるもの。なんの予告もなくそれが永遠に奪われてしまった喪失感と悲しみがいかばかりのものか・・・、そう思っても涙が出てくる。

 ただ、だからといって、自分たちには当然なにがしかの権利があるというように聞こえる物言いや、宅間への憎しみという原点からほとんど一歩も動いていないかのような話しぶりには引っかかりを覚える。深い悲しみは成熟した人間には権利意識や憎悪というものよりもっと別のものを生むはずだ。失った子供のことだけではない、不条理な厄災の意味、同様の不幸が再び誰かにふりかからないための思慮、そういうものにつながるのではないか。それが社会的人間というものだろう。

 情緒的で子供っぽい発言ばかりを集め、安易なお涙ちょうだいワイドショーに終始するマスコミが、偏った編集をしているのかもしれない。しかし、その偏った編集意図に応える発言があればこそ、薄っぺらなニュースショーを作ることができる。オンエアされた被害者家族の言葉には、どこかに、自分の側からしか社会を見なかった宅間守という男のメンタリティーに通底したものがある。

 通り魔事件は繰り返し繰り返し発生してきた。暮らし向きやら、学歴やらのコンプレックスを直接的、間接的原因とする不条理犯罪は、競争原理を最優先に、機会平等に対する配慮すら捨て去り、富める者の手前勝手な論理をまかり通らせようとするいまの社会的風潮にあっては、増加することはあっても減少することはあるまい。競争の結果ですべてを測ろうとする限り、敗者は勝者よりも常に多い。膨大な敗者の群れの中には必ず劣等感と被害者意識と強烈な反抗精神を持つ第二、第三の宅間が存在する。

 宅間を「人間のクズ」と呼び、「死刑判決を聞く勇気もない弱虫」と呼び、その宅間が死刑になったとしても、池田小事件という固有名称を持つ事件が忘れっぽい世間において一応のケリがついたというだけ。不条理犯罪の心理的要因をのぞくという知恵を発揮せず、死刑という人工的な因果応報に止まる限り、うち続く宅間的犯罪は防ぎ得ぬ。そのことを訴えるのは被害家族をおいてないであろうに。(8/28/2003)

 万景峰号が停泊していた中央埠頭から600メートルほど離れた朱鷺メッセのコンベンションセンターと佐渡へ渡る客船ターミナルとを結ぶ空中通路の一部が50メートル近くに渡って落下する事故。

 昨日、万景峰号の安全対策を嗤ったばかりだが、足下にも同じような体質の陥穽があったとは。まさに「人を呪わば穴二つ」とはこのことかもしれぬ。

 宮崎学が「現在の日本に満ちあふれる北朝鮮に対する反発感情は、日本が北朝鮮と同質になる危険性をはらんでいるのである。極論すれば、自分たちにとって気に食わぬ者は抹殺すべし。北朝鮮批判への熱狂に異を唱えること自体が異端視される」と書いていた。まさか穴二つは要るまいとは思うものの、小泉だとか安倍などのバカ面、そして去年からこちらのこの国の中で繰り広げられた「魔女狩り」を思い浮かべてみれば、ちょっとお祈りでもしなければならぬかという気になってくる。(8/27/2003)

宮崎学ホームページの正面玄関はここです。

 昨日、入港した北朝鮮の万景峰号に対し国交省は徹底した安全検査を実施した。扇国交相が「懸念」していた「船舶自動識別装置」や「高速救助艇」などのメイン装備は装備されていた。大臣自らが事前に試験問題のヤマを教えてさしあげただけの効果はあった。それでもなおというかやはりというか、五項目の是正命令が出たということは、北に未だ「安全思想」がとんと身に付いていないことの証左だろう。北朝鮮という国は一般人の命を軽く考えているのだ。そのことは、かつて自らの国民の命を一銭五厘と値踏みし、そう広言して憚らなかった数十年前のこの国が歩いた道を、彼の国が半世紀遅れて歩み直していると思えば合点がゆく話だ。

 それはそれとして、一方で、万景峰号は現在のこの国のポピュリズムをあぶり出した。

 万景峰号を入港させたくないというヒステリー患者がいる。このヒステリーは治療されないばかりか、いっそう煽り立てられる傾向にあるから、いまやヒステリーでない者の方が少数派のような感さえ呈している。さりながら国際貿易港として「開港」の看板を上げている以上、入港拒否はできない。それでもなんとかストレスを加えて「敵」を抑制しようとして考えだしたのが船舶安全性検査(Port State Controlという由)だ。いまや懐かしい言葉になってしまった「遵法闘争」という趣か。

 この「遵法闘争」のウィークポイントは入港しない限りPSCが実施できないというところにある。つまりPSCは本質的に入港阻止の切り札にはなり得ない。PSCを厳格に実施してストレスを与えるのはいいのだが、不具合が発見されれば今度は是正されるまで出航させられなくなってしまう。入ってきて欲しくないためにとる措置が、一刻も早く追い出したい気持ちを制限してしまうのだ。

 昨日の夜のニュースで、五項目の是正命令を報じながら、あわせてどのように「是正処置」を「回答」すればよいのかを報じているのを聞いて腹を抱えて嗤った。ISO9000を代表に最近は様々な認証審査が行われているが、審査結果と同時にどのように回答すれば「是正処置」になるのかが教えられるなど聞いたことがない。きっと国交省も必死なのだ。二晩も三晩も、いや例の古タイヤを満載して立ち往生した貨物船同様のことが新潟埠頭で繰り広げられたら、ヒステリー患者とそれを煽り立てて飯の種にしているマスコミは発狂して支離滅裂なことを言い出しかねない。

 ちょっと考えてみれば、ミサイルの部品にしろ、軍事物資にしろ、覚醒剤にしろ、万景峰号にかけられた容疑は、北朝鮮と日本を結ぶすべての船舶にかけられるべきものとわかる。北朝鮮船籍の艦船、あるいは直行便に限定される話ではない。それを万景峰号に限定して騒ぎ立てること自体が衆愚現象に固有の匂いをプンプンとさせている。

 ポピュリズムに右往左往する様を見ていると、こちらまで軽い眩暈を覚えるほどだ。(8/26/2003)

 大邱で開催されたばかりのユニバーシアード大会会場周辺で「金正日が死ねば北の同胞は生きる」などの看板を上げてアピール活動をしていた韓国の市民団体に北朝鮮の「報道関係者」が殴りかかる騒動があった由。

 北朝鮮は、この大会への参加そのものも、ソウルで反北朝鮮団体が金正日の肖像画と北朝鮮国旗を焼き捨てた事件をとりあげ、直前にキャンセルするしないのドタバタ劇があったばかり。盧武鉉大統領が「国旗の焼き捨てなどの行為は遺憾」という表明をして収めたのはつい先週末のことだ。

 北朝鮮選手団はまたまた即時帰国をちらつかせて韓国主催者の「謝罪」を求めているという。

 自らの主義と異なる人々あるいは自分たちに批判的な意見表明をする人々に殴りかかったり、闇から襲うことを当然のことと考える人々は、この国にも右翼をはじめとしてかつてのオウムなど一部には見ることができるが、少なくとも「報道」の看板を掲げた者がこのような行動に出るのは理解しがたい。

 彼の国では「報道関係者」とは政府の役人そのもので反政府的主張を見るやパブロフのイヌのように襲いかかるよう「条件付け」がされているのかもしれぬ。嗤うべし、鎖国の国の偏頗な習性を。(8/25/2003)

 高校野球、きょうが決勝戦。宮城−東北高校vs茨城−常総学園。2回裏に東北が二塁打の三連発で2点を先制するが、4回表常総はピッチャーの頭越えのラッキーヒットと二塁打でワンアウト二、三塁とし、高く弾む三塁ゴロで一点、ふらふらと上がったフライがレフト線ぎりぎりに入る二塁打で同点、右中間のクリーン三塁打で勝ち越した。ツキは常総に回ってしまった。

 東北も7回裏にヒットとデッドボール、フォアボールでツーアウト満塁と責め立てた。続く横田は痛烈なライナーを打つが、惜しくもショート正面で逸機。直後の8回表に常総にだめ押しの一点が入って終った。優勝旗はまたも白河の関を超えることはなかった。(8/23/2003)

 BSで「2001年宇宙の旅」を見た。はじめて見た時、もっとも印象的だったシーン、凶器として使った獣骨を類人猿が天高く放り投げるとそれがスペースシャトルにかわる、あのシーンは何度見ても鮮やか。よく言われるような「難解」という印象は、最初からなかった。アーサー・C・クラークがシナリオを書いていて、「ツァラトゥストラ」で始まれば、ある程度の想像はできる。なにより、当時、クラークの「幼年期の終り」もニーチェの「ツァラトゥストラ」も読んでからそれほど時間がたっていなかった。だから、筋立てはばれているに等しかったのだ。

 それでも第4部にあたる「木星と無限の彼方」はまるでわからなかった。まず、最初、あの「サイケデリック」な――なんと懐かしい言葉だ――空間の流れを、木星を取り巻く有機ガスと理解してしまい、最後のシーン、宇宙空間に浮かぶ胎児を見て、こんちくしょうと舌打ちをして、別日にもう一度見に行かなければならなかったのが、けちの付き始めだったかもしれない。

 きょうも意気込んで見たわりには、結局、よくわからかった。疑問が多すぎる。やたら「清潔で照明のよい」ことだけが際立ったさして変哲のない部屋の意味も、シンメトリーに配置された彫刻や絵画にどのような意味が込められているのか、宇宙服を着たボーマンが見る老人はボーマン自身なのか、食卓から落としたグラスを拾うボーマンが見るベッドの上の老人はボーマン自身なのか、そもそもこの意識の流れに込められた意味はなんなのか、・・・。

 それにしても冒頭の類人猿たち、ブッシュとラムズフェルドにそっくり。(8/22/2003)

 なぜ、高校時代に、「ツァラトゥストラかく語りき」などを読んでいたかというと、中央公論社の「世界の名著」という全集の配本が始まったのが、ちょうどその頃で、その第一回配本が「ニーチェ」だったからです。
 で、なぜ、平凡な高校生が「世界の名著」などというものに関心をもったかというと、この企画の宣伝カタログに登場した女性が、知性にあふれる容貌であるにもかかわらず、ものすごく色っぽかったのです。ワインカラーのスーツに身を包み、「世界の名著」を軽く胸に当てて、微笑む、モナリザの微笑のように、・・・ハァ、でした。
 それは「2001年宇宙の旅」の公開のおそらく二、三年前のことだったと思います。

 日本時間の一昨日21時半頃にバグダッド市内に設けられた国連現地本部が爆弾テロに遭い、デメロ特別代表を含む死者24名、重軽傷者は百名を超える惨事があった。新聞もテレビも「爆弾テロ」と呼び、犯行声明は出ていないもののイスラム原理主義テロリストの仕業ではないかと伝えている。おそらくその見方は正しいのだろう。

 そうだとすると、ブッシュ政権がイラク「戦争」によって達成した「成果」は、「イスラム原理主義テロリスト勢力にイラクという新たな『培地』を提供したこと」という、まことにもって皮肉な結果につながったということになる。

 ブッシュとその一派は「イラクの大量破壊兵器がテロリストの手に渡る前にこれを阻止する」ということをイラク「戦争」の名目にした。その時点で、大量破壊兵器の隠匿に関する専門家の見解は分かれたが、フセインとテロリストの関係についての意見は広範な専門家の中でおおむね一致していた。それは「フセインのイスラム教に対する姿勢は徹底した世俗主義であって、原理主義的なテロリスト集団とは水と油の関係にある。両者がアメリカ憎しの一点で結びつく状況にはほど遠い」ということだった。

 アメリカは得意とする遠くから撃ったり落とすだけの臆病者の戦いには予定通り勝利した。だが石油泥棒の本性を露骨にし、治安をなおざりにした結果、イラク市民の支持も世界各国の人々の支持も得るには至らなかった。そして、いま、アメリカの意図とは逆に、フセインがのぞかれた「真空」部分をイスラム原理主義テロリストが埋めてしまったのだとしたら、これは嗤うに嗤えぬ話。

 しかし、もうひとつの論理的可能性はまだ捨てることができない。それはこの「犯行」がアメリカ軍ないしはアメリカの諜報機関により実行された可能性だ。アメリカは国連の手は借りたい、しかし、国連が主役になるのは困るのだ。石油盗賊団のボスの立場を守りきるのでなければ、この「戦争」の賭け金は回収できないからだ。国連を便利に使うための脅し、動機としては十分だ。

 一般的にはこれで国連がイラクから手を引くことになれば、アメリカとして痛手は大きいと考えられているようだが国連がすべての事業から撤退することはありえない。イラク国内を避けてヨルダンや近隣諸国に拠をおいてイラク国内への活動を行うようになれば、国連の及び腰と現地で体を張るアメリカのコントラストはクローズアップされる。アメリカは主導権を確保できるわけだ。

 それでもアメリカほどの国がそんな卑劣なことをするだろうかという疑問はある。数年前に「平気でうそをつく人たち」という本が話題になった。その本には平気でうそをつく人たちの共通的プロフィールとして、@自分には欠点がないと思いこんでいる、A異常に意志が強い、B罪悪感や自責の念に耐えることを絶対に拒否する、C他人に善人だと思われることを強く望む、などがあげてあった。アメリカの今日までの所業を見るがいい。アメリカ合衆国こそ、「平気でうそをつく国」ナンバーワンだ。

 ブッシュ一味が間抜けでテロリストに新たな拠点を提供したのか、それとも彼らの陰謀に世界が誑かされているのか、いや、まったく思いもかけぬ舞台裏が別にあるのか、いまはわからない。しかし、いずれ真相は自ずと現れてくるものだ。(8/21/2003)

 けさのラジオで、先週来のMSブラスタ騒ぎに対して住基ネットの親玉格の「地方自治情報センター」はなんの対策もとっておらず、一部自治体からの問い合せに「先月発表のマイクロソフトのパッチは確認中なのでまだあてるな」とか、「対策ソフトは21日以降に配布するから、それまで待て」などと回答しているというニュースを聞いた。

 今月の初め、住基ネットからの離脱という結論をまとめた長野県の審議会メンバーと総務省側推進メンバーとの「対決」があった。長野県のホームページには当日のやりとりのテープ起こしの記録が掲載されている。それを読むと、総務省の主張は「住基ネットが自治体庁内LANやインターネットに接続されていても、ファイヤーウォールがあり、常に最新のパッチをあてることにしているからセキュリティーにはなんの問題もない」ということに要約される。

 ところが、毎日の昨日の記事によれば、総務省自治行政局市町村課長の井上源三は「基本的には、ファイアーウォールがあるので、住基ネットを経由して他の自治体にウイルス感染する可能性はない」と答えている由。嗤うより先に絶句する話だ。

 公開されたパッチの評価に一ヶ月以上かけ、お盆明けに被害発生が想定されていたウィルス対策をターゲット日から数日間も放置して、なんの危機感も持っていない。ファイヤーウォールが有効に機能するためには、どういう条件が必要か、彼らはなにもわかっていないと断じてよい。そんな「総務省バカ課長」や「痴呆自治情報センター」が号令してはじめて動く各自治体担当の集合体に、全システムのセキュリティーの維持などできるはずはない。

 誰もがこのまま突っこめば手ひどい結果になるとわかりながらやめられずに突っ込んでゆくさまは、かつての戦争によく似た構図だ。戦争の結果は目に見える死傷者、降伏・敗戦という現実として厳然と現れた。しかし、井上源三を含む高級官僚はタカをくくっているのだろう、愚民のプライバシーなど尊重するに値しないし、大量に洩れてもその事実を隠蔽することなどたやすいことだと。住基ネットの本格運用は来週には始まる。(8/20/2003)

長野県審議会 vs 総務省&御用学者 討論会
総務省側資料
長野県側資料
討論内容テープ起こし  その1 その2

 バグダッドでロイター通信のカメラマンがアメリカ軍兵士に射殺された。アメリカ軍の説明は殺されたマゼン・ダナカメラマンのテレビカメラを対戦者ロケット砲に誤認したためというもの。

 アメリカ陸軍兵士の練度が低いものか、敵意に囲まれた中での極度の緊張による精神的疲労か、それともうるさい報道関係者は殺してもよいという命令でも出ているのか、いずれにしても最高指揮官もお粗末ならば、兵士もお粗末極まりない。

 数日前にアメリカ軍は4月8日のパレスチナホテル砲撃に関する調査結果を「正常のもの、問題なし、関係者処分はしない」としたことが伝えられていた。あのときの砲撃も陸軍砲兵隊、犠牲者はロイター通信だった。これは偶然か。

 不思議なことがある。アメリカ軍に射殺されるのはすべてアメリカ以外のメディアの非アメリカ人メンバーだ。これは、練度の低さが原因というよりは、潜在的にでもせよ、意図的なものがあると疑うにたるデータだ。たまには、アメリカ人ジャーナリストを射殺しろ、Bloody U・S・Army。

 東証、終値、10,032円97銭。昨年8月26日以来の1万円台回復。どの程度の実力値か、少し疑問。(8/18/2003)

 ニューヨークを含む北米東部地域の大停電。5000万人が影響、火災発生により心臓麻痺を起こし死亡が一人の由。夏の暑い時期、冷房なしの状況では停電が原因のベビーブームはない、かな。

 原因はまだよくわからないらしい。「規制緩和」と「市場原理」による競争が最も重要な社会基盤を「骨粗鬆症」にした結果、些細な打撃で複雑骨折が起きてしまったということのようだ。

 アメリカを敵視するテロリストさんにアドバイス。彼らの浅薄な文明のウィークポイントをちょっとひとつきするだけで、彼らが「高度の文明」とうぬぼれているものは意外な脆さを露呈して瓦解する。荒っぽい実力行使など不要、ちょいと知恵を絞りさえすれば、アメリカを転ばせることなどたやすいことなのかもしれませんよ。(8/16/2003)

 昨夜、神楽の話で盛り上がった**さんの案内で石巻のサン・ファン・パークへ行く。支倉常長がスペインをめざして太平洋を渡った際の船「サン・ファン・バウティスタ号」を現尺で再現、これを中心に慶長遣欧使節の事績を説明した展示が中心。遺物などの古いものはほとんどない。それでも彼らが喜望峰周りではなくメキシコ経由のルートをとったことなどはほとんど知らなかったし、なによりバウティスタ号の建造自体、自艦を失い何とかして帰国したいスペイン人ビスカイーノ、日本での布教の実績をアピールし出世を考えていたらしい宣教師ソテロ、海外交易により経済基盤を強化したい伊達政宗、三者三様、同床異夢の産物だったということも知らなかった。

 出国から帰国まで約7年の常長の辛苦、努力にもかかわらずスペインと交易は適わなかった。訪欧中にキリスト教禁教令が出たことが大きかったのかもしれないが、目的を達するための幅広い、厚みのある展開に無頓着な日本人の外交下手はいまに始まったことではないらしい。もっとも外国の事情がよくわからぬ往時なら無理からぬこと。だがこれほど各国の事情が明らかになっても、なおひとつの国の尻についてチョロチョロするものを「同盟」と呼び、それに盲従することを「外交」と称している。嗤うべし。(8/15/2003)

 **(家内)をウィング・ガーデンに送る車の中で、国連イラク支援団(UNAMI)設立に関し、アメリカが従来の姿勢を改めて賛成に回るというニュースを聞いた。ネグロ・ポンテ米国連大使は「アナン事務総長の要請によるもの」などというコメントを発表したとか。なんとまあ図々しい物言いよ。「国連などいらぬ」といったのはどこの誰だった。ラムズフェルド、ウォルフォウィッツはまだ生きているかい、それとも、もう死んだのかい。四の五の制限をつけても国連に出てきてもらいたいというのはなぜだ。

 田中宇が治安を維持するために占領軍はどれほどの兵力を必要とするかという試算を紹介していた。それによると、第二次大戦後のドイツの場合、被占領側の人口千人あたり連合軍の兵士は2人だった。被占領側に反感が根強くゲリラ的な抵抗があるとこの人数では足りない。アメリカがドミニカを占領したときは千人あたり6人を派兵した。北アイルランドの場合、イギリスは少ないときで10人、多いときには20人の兵が配置されたという。ブッシュの「戦闘終結宣言」以降、既に数十名の兵士が「戦死」している現在のイラクがこれらのケースのどれに近いか。田中はこう書いている。「この治安の悪さは北アイルランドの状態に近く、1000人あたり10から20人の兵力が必要だと思われる。イラクの人口は2300万人だから、23万から46万人の兵力が必要だということになる」。

 ところが「実際にイラクにいる米英軍の総数は約16万人で、1000人あたり約7人しかいない」。圧倒的に「人手不足」なのだ。不足する兵が数万人なのか、最悪時の北アイランドとして40万人なのか、いずれにしてもアメリカにとって兵力の充足は焦眉の急なのだ。来月9000人を派兵する予定のポーランドの場合、ポーランドが自ら派兵費用をまかなうのはわずか1500人に過ぎず、残りの費用はアメリカ持ちなのだという。現在イラクに派兵している国の多くは旧東欧圏のような経済基盤の弱い国が多い。イラク戦争戦費であっぷあっぷのアメリカにとっては、ひも付き派兵の国などいくつあっても本心としては有難迷惑なのだ。忠犬ジュンイチローが差し出す我が自衛隊の到着が待たれる所以だ。なにしろ自衛隊はアゴ・アシを自分でまかなってくれるのだから。

 インドには袖にされ、ロシア、パキスタン、タブーのはずのトルコにまで声をかけて、それぞれに「国連が中心でなくては」とお断りを喰って面子は丸つぶれ。鉄面皮のブッシュ故、つぶれた面子など気にもなるまいが、フトコロ事情が寒いのはどうにもしのげないものとみえる。けっしてアナンの顔を立てたわけではない、それがUNAMI設立決議の承認の舞台裏だ。英語には「どの面下げて」という言い回しはないのだろうか。(8/14/2003)

 「僕のこと、好き?」と尋ねるのが少年モーツアルトの口癖だったと何かの本で読んだ。「ね、愛してる?」というのが子供ならば可愛いかもしれない。しかし、れっきとした大人のせりふではない。こういうバカなせりふに憧れたり、この言葉に用心がはたらかぬ手合いが徐々に増えてきているのは、きっとハリウッド映画が猖獗をきわめているからに相違ない。それでもまだこれくらいのことならば、おかれた状況によっては悪くはないかもしれぬ。しかし、「あなたはわたしのことを愛さなければいけないのよ」などといわれたら、これはもう尋常ならざる話。こんな奴とは一刻も早く手を切らなければ災厄が降りかかることは必定。逃げるのが賢明。これが大人のチエだ。

 朝刊の教育基本法改正に反対ないしは慎重な意見書が全国264議会で可決されているという記事を読んだ。「One for all, all for one」という言葉は美しい。そこには往還があるからだ。「愛国心」という言葉は押しつけがましいだけ。きっと下心があるからだろう。(8/13/2003)

 昨日行われたタウンミーティングで小泉首相、ブッシュとの親密さをアピールし「人物評価にしても、こんなことを言ってもいいのかと思うぐらい率直です」とか、ブレア首相に「あなたは『ブッシュ大統領のプードル犬』と言われているが、私は大統領の前でしっぽをちぎれるくらい振っている、と言われている。お互い批判する人はなんでも言うんですよ」と話したことを紹介した由。前者についてはブッシュの下品さが仄聞できる話。後者については小泉の自己認識がまるでなっていないことを示す話。ともに十分嗤える話だ。

 小泉よ、ブレアとおまえは同じではない。おまえとブレアのいちばん大きな違いを教えてやろう。それは、忠犬トニーは国民に対してできる限り説明責任を果たそうとしたのに対し、忠犬ジュンイチローは国民を自分以下のものと見下して説明のひとかけらも行おうとしなかったということ。つまり、イギリス国民は愚かなブレアによってその地位を引き下げられているとはいえ、なおブッシュのイヌと同等であるのに対し、我が日本国民はブッシュのイヌ以下に位置づけられているということだ。(8/11/2003)

 台風一過、みごとに晴れている。やっと夏らしい暑さ。蝉の声がする。高校野球に飽きてチャンネルを変えてみたら、テレビ朝日で「日本が専守防衛をやめる日」という特番をやっていた。司会は田原総一朗と長野智子、出演は石破茂、岡崎久彦、寺島実郎、姜尚中、筑紫哲也という顔ぶれ。見たのは90分番組の終り30分だった。別に新しい話はなかった。しかしあの騒がしいだけの朝生よりは落ち着いて話らしい話が聞けた。

 自衛隊のイラク派遣に対して、岡崎久彦がこんなことを言っていた。「これは希有のチャンスだ。フランスやドイツは行きがかりからすんなり軍を派遣できない。ロシアも同じだ。アメリカをサポートする絶好のチャンスだ。日本の国際的なステータスが上がる」。岡崎はどういうつもりだったのか「儲かりますよ」とも言った。筑紫哲也が「それによって自衛隊員が何人か死んでもですか」といかにもの突っ込みをいれると、平然と「国益があればいいんです」と応じた。岡崎に確たる論理があるのなら、それはそれで一つの考え方かもしれない。しかし、その続きは実にお粗末だった。

 姜尚中の「ブッシュが政権に居続けるというなら、現在のような対米追従でもいいかもしれないが、そういう保証はないでしょう。仮に日米同盟を重視するとしても、相手によっていくつもの選択肢を用意することは必要でしょう」という問いに対して岡崎はこう答えた。「いまの我々のこの生活水準を子供たちにも維持してやりたいと考えるならば、どんなことがあっても日米同盟は堅持しなければならない」と。筑紫が「それならばアメリカの51番目の州になる方がいいね」とばっさり切って捨て、スタジオには声にならぬ嗤いが流れた。

 ふと竹内好が竹山道雄を痛烈に批判していた一節を思い出した。竹内は「買弁としてサヤを取りたいというのが」竹山の「隠された本心」なのだと罵倒していたが、岡崎にこそぴったりと当てはまりそうな批判だったな、と思った。(8/10/2003)

 夜中から風雨が強まり、雨音で何度も目覚める。熟睡できぬままに朝。台風10号は自転車なみの速度で沖縄から九州南部海上、四国室戸町に上陸、大阪湾から京都、彦根、富山となめるように日本を縦断中だ。雨はさほどでもないが時折かなりの強風が吹き抜ける。

 朝刊によると辻元清美と五島昌子が起訴されたとのこと。ニュースはもっぱら週半ばに伝えられた田中眞紀子不起訴内定との対比に目を向けているようだが、秘書の勤務実態の有無を考えればさほど不公平ということはない。なんといっても雇ってもいない秘書の給与を請求したのだから起訴は当然だろう。

 むしろ先週伝えられた土屋義彦の不起訴処分の方が辻元と対比してなぜだという疑問が大きい。動いた金額の大きさと悪質さからいえば、辻元が万引きなら土屋は強盗ぐらいの差があるにもかかわらず、万引き少女は執行猶予付きにはなるだろうが懲役、強欲爺は「辞職した上、既に社会的制裁を受けている」などという訳のわからない理由で裁判そのものを受けないですまされるというその一事の方がはるかに納得がいかない。

 辻元と土屋をわけているものは「不起訴処分」という制度だ。火曜日の朝刊のオピニオン欄で、ある弁護士が交通事故事件の不起訴処分時に記録を公開することを主張していたが、公益性に関わる事件の不起訴に関しても事件記録、少なくとも不起訴決定をした根拠データについては公開を義務づけるべきだろう。検察庁の恣意的な運用をチェックするものは今のところ検察審査会ということになっているが、政治家がらみの事件における「政治的な配慮」に関する疑いを避けるためには実現する価値のあることだ。

 事件記録の公開を禁じている刑訴法第47条は「訴訟に関する書類は、公判の開廷前には、これを公にしてはならない」と規定した後に、「但し、公益上の必要その他の事由があつて、相当と認められる場合は、この限りでない」と書いているのだから。(8/9/2003)

 飯田橋のパレスホテルから金大中が拉致されたのはちょうど30年前のきょうのことだった。

 事件の1年半ほど前の大統領選挙で当時の独裁者朴正煕と争い、猛烈な選挙干渉にもかかわらず善戦した金大中は国際的に一定の知名度を有していた。そういう人物が首都東京から拉致されたことに対して、当時の自民党田中角栄が総理を務める日本政府はほとんどなにもしなかった。

 この種の類似例としていちばん有名なのは60年のアイヒマンの「逮捕」だ。このときアルゼンチン政府はイスラエルとの国交を断絶し安保理事会に提訴した。最終的にイスラエルはアルゼンチンに陳謝の上、賠償金を支払い決着した。同じ韓国KCIAの犯行としては、金大中事件の数年前、自国の留学生を拉致し韓国に引き戻したというものがあり、当時の西ドイツ政府は韓国の駐西ドイツ大使館員を追放処分するとともに経済援助を中止する処置をとった。両国関係が正常化されたのは留学生全員が西ドイツに戻されてからで、それは金大中事件発生の2年前のことだった。つまり、当時の日本政府は、普通の国はそのような主権侵害に対してはどのように対処するものか、十分に先例を知っていた。

 北朝鮮がいつから日本人拉致を行うようになったか、正確なところはまだわかっていない。しかし、金大中ほどのレベルの人物をお膝元から拉致しても、日本政府はヘラヘラするばかりで(近頃はやり言葉になっている)「毅然たる処置」などとらない軟体動物のような政府であるという事実を北朝鮮当局はしっかりと見届けて、拉致に関する計画を立案し、遂行したことは間違いのないところだろう。ある意味で金大中事件は北朝鮮による拉致事件の無視し得ない「影の原点」といってよい。

 拉致問題に対して「毅然たる姿勢」を強調している自民党や右翼マインドの人々の中に、この原点たる事件の際にヘラヘラ姿勢をとったイデオロギー屋さんが少なからずいる。彼らのイデオロギーは「北朝鮮は共産主義。共産主義は悪」という論理だ。その論理から「韓国は北朝鮮の反対側に立つ国。その韓国の悪事は小事。仮に日本の主権が侵されたとしても、そのくらいは目をつむるべきこと」という結論が出されたのだ。まあカネに汚い自民党のことだから、あわせて当時「バノコン」と呼ばれた利権がらみの不正資金がからんでいたことも事実だろうが。

 拉致問題の解決に真剣に取り組もうというのなら、金大中事件を想起してイデオロギー屋とイデオロギー的なものを排除する必要がある。イデオロギー屋にとって最優先の課題は「北朝鮮を憎め」という一点である。拉致被害者およびその家族を救出することなど、彼らにとっては刺身のつまでしかない。だから彼らが思いつくのは一部のバカ週刊誌とヨタ新聞に仕掛けて「国民的憎悪」を煽ってみせることぐらいになってしまうのだ。そのことはイデオロギー屋の跋扈跳梁によって拉致問題解決パスをもののみごとにふさいでしまったこの10カ月の経過をじっと静かに観察してきた人々の目には明らかなことだろう。

 憎悪はたしかに巨大な精神エネルギーの抽出には効果的だ。しかし、「憎悪」や「怨念」だけで北朝鮮から拉致被害者が帰ってくるはずもない。だいたい歴史上「国民的憎悪」が個々人の幸せを創ったことも守ったことも一度たりとてない。

 イデオロギー屋さんたちの生き甲斐であるらしい「共産主義が悪であるかないか」などは、拉致被害者の完全救出とその家族の居住に関する自由な選択が実現できた後にでも、そういうことが飯より好きな人たちで喧々諤々やればいいことだ、なんの役に立つ議論かはわからないが。(8/8/2003)

 高校野球が始まった。今年の始球式は小泉首相が努め、山なりの投球とはいえストライクゾーンをかすめたノーバウンド投球。開会の挨拶も「感動」だとか「健闘」だとかお得意のフレーズをちりばめて、力いっぱい声を張り上げ、久しぶりにご機嫌の体だった。

 夜のニュースを見た人は、腐った魚のような目つきでいかにもやる気なさそうに「平和憲法の遵守、非核三原則の堅持」なぞと身にも付かぬ言葉を喋っていた昨日の広島平和祈念式典の一種無惨な姿との違いに驚いたことだろう。雲泥の差とはああいうことをさす。

 おそらく小泉に宰相の職は重過ぎるのだろう。安っぽい「感動した」の連発で十分「感激」してくれる扱いやすいノータリンばかりの町内会のタイコ持ぐらいが彼にはお似合い。人間、自分がいちばん活きる場で働くのがいちばん。そう思えば可哀想な男だ。(8/7/2003)

 やはり神様っているのかなぁ、と思う日がある。

 たまたま手に取った本はアメリカの歴史教科書に関するものだった。一昨日書いた「トンキン湾事件」を現在もっとも人気の高い教科書がどのように書いているかが載っていた。

 こうしてジョンソンの「トンキン湾事件」が起こる。このへんをアメリカの教科書はこう記している。
 「1964年8月2日、北ベトナム沖のトンキン湾を警戒中のアメリカ巡洋艦マドックスに北ベトナムのパトロール艇が魚雷を発射した。標的は外れたが、逆に反撃に出た巡洋艦はパトロール艇に甚大な被害を与えた。2日後の同月4日、再び同巡洋艦と北ベトナムの別のパトロール艇が同湾で遭遇、巡洋艦の技師が北ベトナム側が魚雷を発射したと報告したため、これに反撃した。その後、巡洋艦の乗組員は戦闘活動は一切なかったと証言している。ところが、この北ベトナム側が攻撃をしかけたとされた事件は、ジョンソンに北ベトナムに対する空爆決定を促すきっかけとなった。ジョンソンはただちにアメリカ議会に対してアメリカ軍に対するいかなる攻撃にも対抗しうる必要な措置を大統領がとれる権限を与えてくれるよう要請、議会はこれを承認する。これが『トンキン湾事件』である」(The Americans P728)
 トンキン湾事件はその後捏造であったことが明らかになるが、ここではさすがに「捏造」という表現は使っていない。いずれにせよ、ジョンソンはこれを機に北爆を開始、6月までに5万人以上のアメリカ兵をベトナムに送り込み、「ベトナム戦はまさにアメリカナイズされていく」(同P728)

高濱賛 「アメリカの教科書が教える日本の戦争」より

 教科書の記述としては精一杯の表現といえばいいのかもしれない。この教科書にはさらにベトナム戦争の項にソンミ村の虐殺事件までも記述している。高濱は「興味深いのは、トンキン湾事件も含め、今アメリカの中高生は『事実』についてしっかりと学んでいる点だろう」と書いている。その指摘が正しいとすれば、アメリカという国にもそれなりの未来がないわけではないと、知ることができた。

 きょう、本屋で見かけた本はこれだけではない。朝日のニューヨーク特派員が書いたもの。その本のあとがきにはこんなくだりがある。

 たしかに今のワシントンは、ネオコン(新保守主義者)と呼ばれる人たちに牛耳られていて、国外に対しては軍事力を持って高圧的に、国内においては、まるで50年ほど時計の針が戻ったように排外的、キリスト教原理主義的になっている。
 しかし、揺り戻しは必ず来ると思うのです。
 なぜなら、アメリカはいつの時代でも、「もう一つの顔」が強くはっきりと刻印されている国だから。保守とかリベラルとかいう区分ではない。彼らの言葉を借りれば「刻印されていない牛」「反逆者」たちが、この国には必ずいるからです。
 この本に書いたような反逆者――というと大げさですね、すね者と呼んだ方が、より実情に近いかもしれない――たちの声は、途絶えたことがなかった。完全に押さえ込まれたこともない。こちらが聞く耳さえ持っていれば、どこからか必ず聞こえてくるものなのです。
 今のアメリカは、なにか一枚岩のようになっていて、大統領を支え、単独行動主義を支持し、他国への侵略を当然のものとして見ている。もしもわれわれがそう感じるとするならば、それは多くは報道の問題であると思っています。アメリカのメディアも日本のメディアも、そういう方向でニュースをまとめた方が据わりがいいから。編集者も食指が動くし、原稿を書きやすい。現代の人間は、どんどん、分かりやすい方向に流されています。
 しかし、アメリカという振り子は、また、大きく逆に振れる。自分なりの体験に裏打ちされた確信を、僕は持っています。

近藤康太郎 「アメリカが知らないアメリカ」より

 たしかに近藤が確信しているようなことは聞いたことがないわけではないし、いまもあるのかもしれない。遠い国からメディアが伝えることだけを見聞きしている者にはわからぬこともたくさんあるだろう。偶然とはいえ立て続けにこういう本に行き会うと、自ら進んで遮眼帯をつけたがごとき我がアメリカ観を神がたしなめてくれているのかな、などと思ったりする。

 しかし、懸念は払拭されたわけではない。はたして現在のアメリカという国にどの程度の復元力があるものか。アービング・フィッシャーは大恐慌のさなかに「安定な均衡にいる船でも、ひとたびある角度以上に傾いたならば、もはや均衡へと戻る力を失い、かえってますます均衡から遠ざかる傾向を持つからである」と述べたという。心配なのはジョージ・ブッシュが通常の手段ではなく、弟と共謀のうえ犯罪的手段で大統領の椅子を盗み取った尋常ならざる小悪党だということだ。あのような不正ができたということ自体が、既にアメリカという国の均衡を大きく損ねているわけだから。(8/6/2003)

 夕方、豪雨と雷。そうとうの雨量で多摩市では花火大会のために多摩川の中州に渡って作業をしていた花火師が大量に孤立、ヘリコプターで救出される騒ぎ。救出された花火師、インタビューを受けて、「上ばかり見ていて、下には気付きませんでした」と。

 小やみになった雨を見て「いける」と判断した主催者は上流も同じように降りそれを集めた川の水位がほどなく上がるという当たり前の「知恵」すらはたらかせることができず、三、四十人、雁首そろえた花火師たちの中に、誰一人、水が靴を濡らすまで足下に迫る危機に気付く者がなかったというのは、なにやら当節のニッポンを象徴している話で、笑いながらやがて寒くなる図。(8/5/2003)

 ベトナム戦争本格化の契機となったのがトンキン湾事件だった。「トンキン湾事件」には1964年8月2日に起きたものと、その年のきょう、8月4日に起きたとされるもののふたつがある。前者は第一次トンキン湾事件、後者は第二次トンキン湾事件と呼ばれている。

 第一次トンキン湾事件は、アメリカ政府の発表では「駆逐艦マドックスが国籍不明の魚雷艇から攻撃を受けた」というもの、当時の北ベトナム政府の発表では「漁船の操業を脅かしているアメリカ軍艦を巡視艇が排除したもの」というものだったが、第二次トンキン湾事件には実態として説明できる事実はなにもない。攻撃したものもいなければ、攻撃されたものもいない、なにも起きなかった「空虚な事件」、それが第二次トンキン湾事件だ。北ベトナムに対する全面攻撃の口実としてウソであることを承知で、アメリカは世界中に「やられた、やられた」とふれまわった。イラク戦争における大量破壊兵器に相当するもの、それがこの「第二次トンキン湾事件」だった。このでっち上げは、後になってみると、戦争好きのアメリカにとっては、とんでもなく高いものについてしまったが・・・。

 虚言癖はアメリカ政府に繰り返し繰り返し認められる「病気」だ。邪な欲望を隠しながらなお野望を充たそうとする場合に、戦争という汚い手段をことさら美化することが必要になる。だから、アメリカ政府は戦争に際してウソをでっち上げることをためらわない。いつものことなのだ。

 そして戦争に勝利した当座の興奮が冷める頃、アメリカ国民は「ところであれはほんとかい?」などと問う。大統領はシラを切るがやがてウソはばれてしまう。アメリカという国はそこで図々しくも「でっち上げがあったことは事実だが、この国にはこのような自浄力がある、これは素晴らしいことだ」などと言ってのける。最初からでっち上げなどに手を染めない政府を持つことこそがずっと誇らしいことのはずだが、そういう知恵をヤンキーは持ち合わせていないらしい。もっとも、いまだに「南京虐殺はなかった」などという手合いが入れ替わり立ち替わり現れるような国に住んでいると、この「自浄能力」とやらでさえ素晴らしく見えてしまったりすることはあるけれど。

 だがアメリカが心から改心したことなど一度もない。典型的な虞犯少年、それがアメリカだ。きょうはその嘘つき国家アメリカを象徴する輝かしい負の記念日だ。世界でも有数の嘘つき国家にして、最大・最強のならず者国家、アメリカに乾杯!

 そうそう、先週の天声人語に教えられたのだが、トンキン湾事件の時のこの国の防衛庁長官は、いまや竹藪家の番犬として有名なジュンイチローの親父殿だった由。ついでに我が忠犬宰相ジュンイチローにもカンパイのお裾分け、カンパイ! ジュンイチローもありもしないカイカクをカイカクと強弁する大嘘つきだもんね。じゃ、やがてばれるウソに、カンパイ!(8/4/2003)

 久しぶりに日曜洋画劇場を見た。「13デイズ」。キューバ危機の舞台裏を描いたものだ。当時中学2年生で、なにがどのように起きたのかすら理解していなかったから、かなり楽しむことができた。

 印象に残ったシーンは空爆の成功率に関するケネディとルメイのやりとりだった。「成功率は?」「およそ90%」。いまならどういう答えになるだろう。精密誘導技術により「ほぼ100%」と答えることもできるに違いない。

 歴史に「if」と問うてはいけないとは知っているが、それでも、もし、そのときケネディがそういう答えをもらっていたとしたら・・・。彼の決断は変わっていただろうか。

 911で世界貿易センタービルがあれほど脆く倒壊したのは、構造解析技術の向上が仇となったのだという話があったが、圧倒的な空爆技術の向上がかえって賢明な決断を鈍らせたり、誤らせる、そういうことがありそうな気がする。いや、イラクに対する今度の戦争が、そういう愚行のいちばん身近な例だったのかもしれない。(8/3/2003)

 NGO「レインボー・ブリッヂ」が先月平壌で蓮池夫妻・地村夫妻・曽我ひとみの子供たちと面会した際に託された手紙を拉致被害者・家族支援室に手渡し、これが夕方までにそれぞれに届けられたということ。仲介したNGO小坂浩彰によると、手紙を預けられた際、子供たちと直接それぞれの親に手渡す約束をしたが、被害家族の「周辺」から手渡しを拒否され、政府の支援室を通してほしい旨の話があったらしい。

 なんともまあ不思議な話だ。小坂は子供たちに面会をしている。本来なら手渡される手紙だけではなく、面会時の子供たちの様子などを直接聞きたいと思うのが親の情というものではないだろうか。わざわざ私信を当局に提出した上でその検閲を受けてから受け取り、直接面会をしてきたメッセンジャーボーイの生の声は聞きたくないというのは、まるで北朝鮮政府が彼の国の国民に強いているようなやり方そっくりではないか。彼らはそれほどに北朝鮮風のやり方がお好みなのだろうか。

 果たして、会いたくない、支援室を通してくれというのは、5人がそれぞれに自由意思で望んだことなのだろうか。それをNGOに回答した「被害家族周辺」とは誰なのだろうか。おおよその推理はこんなところだ。家族の会には既に蓮池透のような専従メンバーがいる。手弁当やカンパの類では専従メンバーを喰わせることは難しい。となれば家族の会の活動費は政府から出ていると考えた方がいい。話題になった官房秘密費かもしれない。家族の会にはもはや素朴な互助組織でも運動組織でもないのだ。そう考えれば、自ら率先して私信の検閲を願い出たり、一切のフリーな情報をすべて北朝鮮によって色づけされたものと拒否する、一種異様な行動も理解できる。(8/2/2003)

 加入したばかりの品質管理学会のシンポジウムを聴きに両国の江戸東京博物館へ。テーマはマネジメント規格に関するもの。いつものように飯塚悦功の話が面白かった。しかし、それよりも可笑しかったのは参加者の風貌。一目で品質屋さんとわかるような感じの人が多い。おおむね真面目風、いかにも四角四面の堅物という感じ、少し神経質そうなところも見え隠れしている。システム監査関係のテーマでとくに監査資格のある人が多かったせいもあったのかもしれない。

 帰りに池袋で本屋にはいる。山本義隆の「磁力と重力の発見」をちょっと立ち読み。全3巻、税込み9,030円。面白そうとはいってもまとまった時間がなければなかなか読めないだろうと思われる内容。買う気はほとんどなかった、あとがきを読むまでは。

 なぜ、解析力学の諸概念が西欧近代に限って現れたのか、その疑問が出発点だった。そこからの探索が大変なものだったことは素人目にもよくわかる。彼は原典にあたる都合からラテン語まで習ったという。資料・文献の入手、閲覧の苦労は推して知るべしで、あとがきはその謝辞で埋められている。その中に、こんな言葉があった。

 ある分野の学問で専門の教育を受けたということは、たんに必要な専門知識を講義や演習でインプットされたということだけではなく、研究室や学科の人間との日常的な接触によってその学問世界での共通了解事項をいつしか身につけているということを意味している。独学の人間の悲しさは、それがなく自分のバイアスのかかった思い込みや誤解を訂正するきっかけがないということにある。

 この文章の後には懸念される独善のチェックのために依頼した査読者に対する感謝が続くのだが、この言葉はやはりそのことだけを書いたものとは読めない。思わず目頭が熱くなった。とたんに猛然と本棚に置いておきたくなって買ってしまった。(8/1/2003)

 ペルーのマキャベロ駐日大使が外務省にフジモリ元大統領を逃亡犯罪人として身柄を引き渡すように求めた文書を提出した。大使は「請求文書をよく検討してほしい。たった一人の問題で二国間関係が阻害されることのないようにお願いする」と言った由。これに対する日本政府の姿勢は「フジモリは日本国籍を有する日本国民なので犯罪人であっても引き渡さない」というものだという。

 国籍が点いたり消えたりする電灯のようなものでない以上、日本政府の主張が正しいとすれば、フジモリは日本国籍を有しながらペルーの大統領であったということになる。大統領は単なる行政の長ではない。国家元首をも兼ねている。ペルーは日本の属国ではないし、あったこともない独立国だ。独立国の大統領を他国籍の者が務める、これ以上面妖な話はない。

 朝刊に猿田佐世なる弁護士の投稿が載っていた。

 軍を権力基盤としたフジモリ政権は、テロ撲滅の名のもとに、人権侵害事件を多数起こしただけではなく、大規模な選挙違反などの犯罪行為にも手を染めた。現在フジモリ氏以外の容疑者はペルーで適正な裁判を受けている。フジモリ氏に対しても既に5件の刑事訴追がなされ、さらに二十数件の捜査が進められている。フジモリ氏が自らを無実だと主張するなら、裁判の場で明らかにすべきである。・・・(中略)・・・政府はペルーへの引き渡しについて、日本国籍をもつので応じられないという見解を示唆、3月、国際刑事警察機構(インターポール)の国際手配書に対し、身柄の拘束は考えていないと発表した。しかし、ドイツ、イタリアなどの十数カ国は、フジモリ氏が入国したら身柄を拘束する意思を表明。中南米諸国の国会の連合組織であるラテンアメリカ議会も日本に引き渡しを要請する決議を採択した。人権団体もヒューマン・ライツ・ウォッチなどの国際団体から、ペルー国内のものまでみな日本に引き渡しを求めている。世界ではフジモリ氏は訴追されるべきだという認識が、一般的になりつつある。

 とうのフジモリは「政権の支持率低下に悩む現政権の争点作りだ。次の大統領選挙には立候補する用意がある」といっているとのこと。前政権権力者が刑事訴追を受けることはバナナ共和国の類では珍しいことではない。仮にそうだとすれば、政府は政治的迫害からの亡命を認定すべきはず。「日本国籍を有しているから」というのでは世界中から嗤われるだけだ。結局のところ政府もフジモリの有罪を確信しているということなのかもしれない。

 我が国は拉致事件関連でこの1月に金世鎬なる北朝鮮の工作員を国際手配している。きちんとした交渉ができるものなら、この男の身柄の引き渡しを求めるつもりがあるからこその国際手配だと思うが、「北朝鮮国籍を有するから引き渡さない。日本もフジモリをペルーに引き渡していないだろう」と抗弁されたら、政府はどのように答えるつもりなのだろうか。他国に要求はするが、自国のことは拒否をする。まるでアメリカ合衆国のような身勝手さですな。(7/31/2003)

 先週読んだ本、「カストロ−銅像なき権力者」のエピローグにこんなくだりがあった。

 ・・・米英の軍隊は、3月20日にイラク攻撃を一方的に始めた。そして三週間後、これまた一方的にフセイン政権の崩壊を世界に告知する。大量破壊兵器の欠片も発見できず、フセインの影武者一人捕らえられずにだ。
 戦争の大義名分は、知らぬ間に、「独裁者フセインを倒してイラクを民主化する」ことに掏り替えられた。アメリカは、取ってつけたような大義名分を正当化するための手段として、あの醜悪なフセインの銅像が倒される画を有効に使った。銅像が引き倒され、それをイラクの国民らしき人々が足蹴にする画は、独裁体制崩壊と民主化を象徴する記号となって全世界にばら撒かれた。
 私は、テレビで幾度も幾度も流されるその画を見ていて、ふと思った。もし、ブッシュがキューバに侵攻し、海兵隊を上陸させ、空挺部隊を降下させたらどうなるだろうかと。
 わずか145qしか離れていない小さな島国は、アメリカの圧倒的な軍事力によって数日あるいは数時間のうちに制圧されるだろう。もちろんイラクと違い、キューバ人は一丸となって果敢に戦い、ゲリラとなって抵抗するだろうが、しかし軍事的に勝利するとは考えにくい。
 アメリカ軍がとりあえずキューバを制圧したとして、さて問題はそれからだ。キューバには何処を探してもカストロの銅像はおろか、肖像画一枚、写真一枚飾られていない。人々がカストロのバッヂをつけているわけでも、贅を尽くしたカストロの私邸や隠し財産があるわけでもない。もちろん大量破壊兵器もテロリストも何処からも出てこない。ブッシュや軍人や、戦争広告代理店の連中はハタと困るだろう。これでは独裁体制崩壊と民主化を象徴する画が作れないではないか。カストロが人々の中に生きているとすれば、人々の90%以上を殺さねばならないことになる。そんなことは不可能だ。つまり、どうやってもブッシュはカストロには勝てない。銅像なき権力者によって、アメリカは、また辛酸をなめさせられることになるのだ。

戸井十月 「カストロ−銅像なき権力者」より

 カストロが独裁者であることは紛れもない事実だ。その意味では金正日や彼の父、金日成と変わることはない。金日成がソ連の支持のもとで成り上がったのに対し、カストロは最初から社会主義者だったわけではないことは、小さく見えて大きな違いかもしれないけれど。

 いずれにしてもソ連の崩壊はキューバと北朝鮮に深刻な影響を与えた。しかし、二つの国の「それから」は対照的な道をたどった。戸井の言い方をまねれば、銅像を作らせない独裁者の国は非常にユニークな転換をして貧しくはあっても精神的に豊かな国民生活を実現しているのに対し、銅像を作り独裁者の神格化を図った国はいまや亡国の瀬戸際に立っている。つまり、キューバはソ連依存型の経済社会構造を食糧自給を軸とした持続可能な国家へ大転換させることにいまのところ成功している。北朝鮮は同様のショックを軍事的脅迫による援助の引出しといういかにもあの国らしい方法で対処しようとして、いまやどん詰まりの袋小路に入っている。その違いは「独裁者」その人の人格の違いもあるかもしれないが、国難を軍事に頼って解決しようと発想する貧しさ、それが二つの国のこの十年の結果をわけてしまったのだ。

 ここ十年、それとは別種の国難に遭遇しているこの国は、いったいなにができていることか。無能なトップに舵取りを任せ、軍事的なプレゼンスをあげることに腐心し、決して持続可能でない解決策に頼り、負のスパイラルループに入っているという点で、この国は北朝鮮とさして変わらない道を歩んでいるのだが、多くの人はとんとそういうことに気付いていないようだ。(7/30/2003)

キューバの「持続可能な国家」への転換については、
吉田太郎 「200万都市が有機野菜で自給できるわけ−都市農業大国キューバ・リポート」 築地書館 2002
を読んでみてください。非常に面白い本です。

 朝刊にフセイン像を倒した男たちの話が出ている。

 フセイン像を倒すこと、それはソ連が崩壊したときモスクワのルビヤンカ広場にあったジェルジンスキーの像を倒したあの映像を前提に思いつかれたものだったろう。しかし、記事にはそういう話は出てこない。

 フセインの圧政下で様々な屈折を味わった男たちが必然的にとった行動というのが、男たちへのインタビューの答えだ。

 フセイン像は、彼らの家から歩いて約5分のフィルドウス広場に立っていた。その真ん前に外国メディアの宿泊所であるパレスチナ・ホテルがあり、屋上などにTVカメラが並んでいた。ハイダルは友人とともに8人で広場に向かった。周辺の道路は米軍の戦車と装甲車などで埋められていた。彼らが広場についた最初のイラク人だったが、その後も続々と集まり、30人以上になった。「倒せ、倒せ、サダム」と沸き上がる大合唱。

 像の台座はコンクリート製でハンマーをふるうもびくともしない。そういえばジェルジンスキーの像も台座の上に立ち、像が撤去されたいまも台座は残っている。彼らがそれを思い出したかどうかはわからないが、人の考えることは国が変わろうがどうしようがさしたる違いはない。彼らははしごをかけ台座に登り像の足を叩きはじめる。だれか(すべて実名の入っている記事なのに、ここには名前が出てこない)が像の首にロープをかけ、続いて米海兵隊員がチェーンをかけついでに像を星条旗で覆った。イラク人から「ノー、ノー」の声が上がり米兵は星条旗を外す。いったんイラクの旗に付け替えられたが「フセインと一緒にイラクが倒れるのはダメだ」との声からこれも外される。やがて首にかけたチェーンを米軍のクレーン車が引っ張り、フセインの像は引き倒される。

 イラク人は自力で引き倒すことができず、最後は米軍が倒した。しかし、ハイダルはこう思う。「米軍はイラク軍の抵抗も民衆の抵抗も受けずにバグダッドに入った。イラク人がフセイン政権を見放していたからだ。私たちがフセイン像を倒そうと考えた。米国は最後に手を貸しただけだ」
 戦後、ハリドのところに外国人ジャーナリストが来て、「像を倒したのは米軍から金をもらったからだろう」としつこく質問した。ハリドが否定してもまた同じ問いを繰り返した。
 彼らにとって像が立つ広場は、涼しい夜に仲間たちと集う場所だった。「息苦しい体制のもとで、この像が倒れる日を私たちはひそかに語り合い、夢見てきた。なぜ、私たちが夢を実現させるために自ら動いたことを信じないのか」

 どこのテレビ局だったか、倒されたフセイン像に群がってそれを蹴飛ばし歓呼する人々の映像、続けてそのズームアップを徐々に解除する映像を流していた。ズームを解かれた映像には広場の外側を走る車の流れ、広場に向かう大通りの歩道を悠然と歩く人々が映っていた。フセイン像に群れる画面中央の興奮とその周辺の静かな日常。その温度差は印象的だった。

 もうひとつ書いておこう。最近、ジェルジンスキーの像を元の場所に復活させようという話が、モスクワ市長から出され、各方面からの批判をあびている由。どこの国にも「過度の自由がこの国をダメにした。ある程度の自由の制限は社会的規律の確保のためには必要だ」とか、「秘密警察や特高警察があった頃のこの国は一目置かれる国家だった」とか、トンチンカンな懐古趣味の人たちはいるらしい。フセインがある程度の再評価を受け、その像がサーカスの中心フィルドウス広場に戻ることはあるのだろうか。(7/29/2003)

 ニュース23に出ていた小沢、「安全保障問題について自由党と民主党と隔たりはかなり大きいという人もいるが」という質問に、「特殊法人問題についての自民党内の隔たり、我々の隔たりはあれほどじゃない。あれでも一つの政党でいられるのだから、こちらを心配する方がおかしい」と答えた。いわれればその通りで一瞬納得。しかし、それは与党というポジションがそうさせているのだろう。そうか、だから政権奪取を狙って耐え難きを耐えるというわけか。逆に言えば民主党が政権の座に着き、自民党が野党になればその途端に自民党も離合集散を繰り返しはじめると、そういうことになるはずだが・・・。(7/28/2003)

 フジテレビの「EZTV」の最初のテーマが「ウダイ・クサイ殺害の謎」だった。ウダイの側近で98年に亡命したという男が一昨日書いた疑問に関係することを述べていた。「ウダイとクサイは逮捕されずに殺されてしまった。大量破壊兵器のことなど取り調べることはいくらもあったのに残念だ。フセインだけは殺さずに捕まえて裁判にかけてほしい」と。

 出演していた中東調査会の大野元裕は「アメリカ側には生け捕りにする案もあったというが、ミサイルを何発も撃ち込んでいるところから考えると最初から殺害するつもりだったようだ」といっていた。殺害を選択した理由として、大野は、二人の身柄を抑えるとその奪還作戦など大規模な攻撃を覚悟しなければならないからだろうと語っていたがそれは理由にはなるまい。アフガンのタリバン兵やアルカイダの容疑者はキューバのガンタナモ基地にいまも拘束されている。ウダイにしても、クサイにしても逮捕後もイラクに身柄をおかなければならない理由などひとつもないのだから。やはりアメリカによるウダイ・クサイ殺害は不自然だ。(7/27/2003)

 アガサ・クリスティの「***A***」と坂口安吾の「***B***」には同じ「心理的トリック」が使われている。いずれも*********C********************いたというものだ。ポアロも、巨勢博士も、そんな犯人**の一見なんということもない行動の「不自然さ」から事件の真相を看破した。

 一昨日のウダイ、クサイの殺害のニュースを聞いてからずっと不思議に思っていることがある。

 彼らが本当に本人であるのかということから始まって、既に「戦闘」が終っている現在彼らを殺害することは法的に許されるのかということや、その死体の撮影許可の妥当性、さらにはその映像をそのまま報道することの可否まで、さまざまのことがいわれている。不思議に思っていることは、その中に「なぜ米軍は彼らを逮捕する努力をしなかったのか」というもっとも初歩的な疑問にふれたものがない、ということだ。

 これはちょうど「***A***」や「***B***」の読者が引っかかっている心理的トリックによく似ている。おどろおどろしい舞台設定と多彩な登場人物に幻惑され、とらわれない眼で見ていたら「エッ、どうして?」と疑問に思うはずの不自然さを見過ごしているのだ。

 「戦闘」終結後のアメリカ・イギリスにとっての最大の課題は大量破壊兵器の発見だ。ウダイ、クサイの両名を殺すのではなく生きたまま捕まえれば、大量破壊兵器の隠匿場所を自白させることができるはずではないか。彼らが簡単に自白するような人間ではないとしても、「死体を公開することなどノープロブレム」と主張するアメリカの立場なら自白剤の使用などためらう理由もない。

 大量破壊兵器が発見されないことで、ブッシュ政権も、ブレア政権も苦境に立っている。ウダイとクサイの「生け捕り」は愁眉を開くチャンス以外のなにものでもない。しかるに真犯人を逮捕するかわりに殺害してしまう。これほど「不自然な」行動はない。しかしメディアはその「不自然さ」を指摘しない。

 ポアロも、巨勢博士も、その「不自然さ」が「自然な行動となりうる説明」を探して、真犯人にたどりついた。同じ論理を「ウダイ・クサイ殺害事件」に適用してみよう。

 大量破壊兵器と称するものは、とっくの昔に廃棄されていたか、最大限アメリカとイギリスを贔屓したとしても両国がイラク攻撃を決定した頃までには廃棄されていた。そしてそのことをアメリカは最初から承知済みだった。ウダイとクサイを逮捕すれば、逆に、大量破壊兵器に関するアメリカの陰謀がばれてしまう。それが両名をロケット弾まで動員して殺害した真相なのではないか。


 これがアメリカの「不自然な行動」を「自然な行動とする説明」だ。
7/25/2003)

***A***、***B***、「ここ」をクリックすると、それぞれの小説名だけがわかります。
推理小説のネタバレ、気にしないという人はここの中の「****C****」をクリックしてください。

 民主・自由の合併は民主党が自由党を呑み込む体のものとかでもっぱら「野合」との批判が出ている。たしかに野合には違いない。しかし「一兵卒として」などとはなかなか言えぬことだ。少なくとも冬柴づれにこれを誹る資格などありはしない。ズルズルの公明党に他人のことをいえた義理はなかろう。

 もとより勝算があっての決断ではあるまい。小沢もこれが最後の賭けになるだろう。しかし小泉という売国奴を除き去るために「小異、大同」の決断をしたとするなら、あながち否定する気にはなれない。(7/24/2003)

 振り替え休日二日目。梅雨明けにはほど遠く、暦の上の大暑のはずがこの涼しさ。

 イラクのフセインの息子二人、ウダイとクサイが米軍により殺害されたというのが昼のニュース。そして、民主党と自由党の合併というニュースが夜。しかし、いちばん不愉快だったのが先ほど見た党首討論のさわりの部分だった。

 いつか小泉純一郎という男の名前はこの国が正気を失っていった時期の象徴として記憶されることになるのかもしれない。この男がいまも過半数の支持率を確保し、再度自民の党首に選出され、総選挙を乗り切り総理大臣であり続けるのかと思うと暗澹たる気持ちになる。なにもかもを台無しにするまでこの国のレミングの行進は続くのだろうか。

 菅との応酬の中で小泉は「どこが非戦闘地域でどこが戦闘地域か、いまわたしに聞かれたってわかるわけがない」と答えた。質疑はイラク復興支援特措法を念頭に置いたものだ。「復興」と冠するからには論理的には戦争は終っていなければならない。戦争が終っているにも関わらず、まだ「戦闘地域」があるとすればそれは「例外的な地域」のはず。その例外地域が即答できないことは「戦争が終っていない」ことの自白に他ならない。

 ということはイラク特措法を成立させてもその適用は当分のあいだ有り得ない。論議も尽くすための時間は十分にあり、内容を考慮すれば全国各地で公聴会を開くなどのことがあってもいい。ところが小泉は今国会で成立させなければならぬという。なぜだろう。イラク特措法が看板と内実が大きく違う「違法な」法律だからではないか。

 前の戦争の最高指揮官、当時は大元帥といったが、それは昭和天皇だった。現在の自衛隊の最高指揮官は内閣総理大臣、小泉純一郎だ。昭和天皇は「責任」を知らぬ無恥な男だった。自衛隊も、負けず劣らず無責任かつ無恥な男の「私兵」として国防とは縁のない場所での死を甘受することになるのだろうか。(7/23/2003)

 東電からの要請で振り替え休日になったのだが、電力消費量を懸念する必要がないほど涼しい。本を読みながら一日うちにいた。夏休みに入っているはずだが子供の声はほとんどしない。朝刊のコラム「ポリティカにっぽん」に早野透が「かつて子どもは生き生きしていた」と書いていたが、最近の子供は外では遊ばないようだ。

 長崎のような事件があると「少年の心の闇」という言葉が飛び交うが、外で遊ばない子供、塾通いのために9時、10時という時間に電車に乗っている子供、・・・、こういう身近な風景を不思議とも思わない感性が、事件が起きると突然「心の闇」などという言葉を使う可笑しさよ。

 シンキロー・森がどこぞの講演会で「日教組がさかんだった頃に教育を受けた世代の両親や先生が育てた子供が神戸や長崎の事件を起している」といったそうだ。しかし、世代論に持ち込むとしたら、酒鬼薔薇世代は君が代・日の丸が義務化された教育指導要領による記念すべき一年生であったことを忘れてはいけない。教育基本法の精神が行き届くように進められた結果、少年犯罪が凶悪化したと見るべきか、教育基本法が政府・自民党の手で空洞化された結果として、少年犯罪が凶悪化したと見るべきか、ノミほどの脳髄しか持たぬらしい前宰相には難しすぎる問題かもしれない。(7/22/2003)

 少し寝坊をしていつもなら見られないBSの朝ドラ再放送「ぴあの」に続く番組に引き込まれてしまった。タイトルは「心の旅:グアダルキビル川に私の灰を」。旅人はこの3月に亡くなった天本英世。引き込まれてしまったのは劈頭の天本の「遺言」の言葉が痛烈だったからだ。おおよそ、こんな意味。「人は歳をとると自分の国で死にたいと思うようになるという。しかし、わたしはいまの日本が好きになれない。いまの日本では死にたくない。わたしはスペインで死にたい。それが適わぬならば、わたしを焼いた灰をグアダルキビル川に流してもらいたい」。

 番組は彼が愛するアンダルシア地方の自然とそこに住む人々、彼が終生愛したガルシア・ロルカの足跡とその詩、フラメンコ、春の祭りフェリアなどを映してゆく。天本のスペインへの傾倒の理由がストレートに伝わってくる。

 天本は言う。「いまの日本人は、優しさ、人懐っこさ、恥じらい、人生の儚さ、そういうものを失ってしまった」と。彼のスペインの友人であるギタリストはなぐさめ顔でこんな風に言う。「きっと商業主義のもたらす忙しさのために、ゆっくり自分を見る時間を失っているんだよ」と。

 セビリヤの街には「死人通り」という道がある。「すごい名前だね」と嘆息しながらその通りを歩く天本は「ここの人たちは人生は儚いものだと思っている。だから、こうしてきょう生きていることをじっくりとかみしめて、思い切り楽しもうとしている。いまの日本人は明日は必ず来ると思っている。それどころか、来年も、十年後も、三十年後だって、自分にあると思っている」と言った。

 突然オディロン・ルドンの石版画のタイトルを思い出した。「死――私がおまえをまじめにしてやろう、さあ抱き合おう」というやつ。明日も、明後日も、今日と同じ日が続くと思っているがために今日を燃焼させる力を持たず、人生の儚さを実感しないが故にいまともにある隣人に優しさを発揮することもできず、自分を凝視することをしないから恥じらいの意識すら持つことがない、それがいまの我々だとしたら、そういう我々は本当に生きているといえるのだろうか。

 いや、もともとこの国の人々の多くは生きていることの意味を問うことがない人々だ。昨日の山本義隆は勤める予備校の講義で「ボクは根性などという精神論が嫌いだ、言葉の中に哲学がないからだ」といったそうだが、天本が嫌ったのはまさにその「哲学がない」ことを恥じないという風土そのものだったのだろう。(7/21/2003)

 朝刊の読書欄に「磁力と重力の発見」という面白そうな本が紹介されていた。あのケインズがニュートンを「最後の魔術師」と呼んでいたことは立ち読み程度の知識で知っていたが、現代の我々のニュートン理解がある種のホイッグ史観だということまでは考えたことがなかった。ニュートンが魔法とか錬金術というものの中で呼吸していたからこそ、機械論的な見方からは承認しがたいかもしれない万有引力という概念をいともあっさりと呑み込んでしまったのだと指摘されれば、その方がはるかにすっきりした視点に立つことができる。

 だが「面白さ」はそれだけではない。書評子はこのように書いていた。

 本書の世界観へのこだわりを、ぼくは懐かしい思いで読んだ。それはかつて著者に予備校で教わったものだったからだ。本書の著者名を聞いて、書評委員会は一瞬どよめき、自分の知らない時代のできごとが、三十年たっても深い刻印を残していることにぼくは改めて驚いた。それは多くの点でマイナスの刻印だっただろう。全共闘騒動の最大の損失は、山本義隆が研究者の道を外れ、後進の指導にもあたれなかったことだ、という人さえいた。でもプラスの刻印もあった。その事件のおかげで、ぼくをはじめ無数の受験生が予備校でこの人に物理を教われたのだもの。かれが教えてくれたのはただの受験テクニックじゃなかった。物理は一つの世界観で、各種の数式はその世界での因果律の表現だということを、かれは(たかが受験勉強で!)みっちりたたき込んでくれたのだった。

 インターネットで検索をかけてみた。まず、山本義隆が書いたり翻訳した本、プロゴルファーの山本義隆・・・。次いで多いのがいろいろな掲示板への書き込みだ。ゴミのような書き込みが多いのは掲示板の常だが、印象的だったのは全共闘に対する反発の故から誹謗する感情的な書き込みに対して、おおむね必ず律儀な事実訂正書き込みが対応していたこと。予備校講師としての山本は多くのイデオロギー抜きの受験生にとっては尊敬の対象らしい。現在の彼のフィールドで彼はそれなりの人物としての仕事をし、インパクトを与え続けているようだ。

 当時、東大の物理学教室の主になるはずの男、それが山本義隆だった。彼の「知性の反乱」を、あの頃、なにを目的に、どのように読んだか、死ぬまで忘れない。そして、いまもまだ、何らかの嘘をまじえずには、あの頃を語ることも書くこともできない。二度目の挫折の風景の中に山本はいる。(7/20/2003)

 土井たか子が辻元事件に関してやっと記者会見。党首を辞任する考えがないことを語った由。社民党は既に旧社会党のようなポジションの政党ではない。旧社会党にしても政権をめざす政党であったかどうかということになれば、はなはだ疑問のある政党だったが、社民党は100%、政権をめざす政党ではない。批判のための批判といえば、まるでそういうものの存在価値そのものがないように考えるのは最近の風潮だが、真実が必ずしも多数者の側にあるとは限らないものである以上、そういう存在にも一定のレーゾン・デートルはある。

 土井は悔しさまぎれに「なぜ、いまになっての逮捕か」といった。だがそういうことをいっては自民党の中島や民主党の山本と変わらぬことになってしまう。少数党ではあるが常に鋭い批判の矢を放つという存在になるためには、鈴木を断罪できぬ自民党、松浪をぬくぬくさせている保守党などと同じレベルにいてはならない。

 社民党はとっくに従来型の政党として失うものは何一つないところに来ている。逆に言えば、この国の低迷を象徴している自民党、権力病にとりつかれた公明・保守などの雑魚政党、あるいは自民党以上に党利党略で行動している民主党、マッチョ志向の抜けない自由党、硬直した官僚組織の共産党、・・・、こういった政党の党派性のくびきから自由であること、そういうところに存立基盤を求めるユニークな政党にモデルチェンジする絶好の機会なのだ。

 土井は辞任すべきだ。土井が辞めれば社民党は解体するという。それならそれでいい。一度解党し、護憲・平和の標語だけで飯を喰おうなどという卑しい連中を一掃する。その方が真の意味での平和志向の政治批判勢力の結集に役立つというものだ。行き詰まったこの国の政党政治を打開する唯一の出口は案外そういうところにある。(7/19/2003)

 辻元清美が秘書給与詐取容疑で逮捕された。あわせて土井たか子の元政策秘書だった五島昌子、辻元の政策秘書だった佐々木美枝、公設秘書だった梅澤桂子の計4人。社民党には相当の打撃のはず。

 詐欺罪の容疑内容も関係者もはっきりしている。容疑内容に辻元が主体的に行動していたとすれば、逮捕は当然でこれに異論をはさむ者はいない。秘書給与にまつわる疑惑は小泉首相本人にさえあることで珍しくもないが、雇ってもいない秘書の給与を当然のごとく請求するほど図々しい犯罪に目をつぶるわけにはゆかない。速やかに逮捕して必要な捜査を行い送検するのは警察の責務であろう。

 とすると不思議なことに思い当たる。辻元が議員辞職したのは一年前の3月末のことだ。15カ月ものあいだ、警視庁はいったい何をしていたのだろうという疑問だ。容疑内容が複雑で解明に手間取るというわけでも、関係者が逃亡していて裏付けがとれないというわけでもない。むしろ時をおかず関係場所を捜索しないと証拠隠滅の恐れだってあったはずだ。(ニュースによると辻元の事務所の捜索は明日やる由、あらまあ、明日行くからね、準備しといてね、はないだろう)

 15カ月もノホホンとしていて、さあ選挙も間近とザワザワし始めたときに逮捕というのは、いかにもの話ではないか。辻元の「詐欺罪」より逆に昔懐かしい「官権の横暴」という言葉がクローズアップしてきてしまう。捜査責任者に何らかの処分があってもいいのではないか。(7/18/2003)

 上司に対する公然たる批判はどんな組織でもタブーに近い。軍隊という組織にあってはそれは通常あり得ざる話だ。兵が将の命令を疑っていたら軍隊という組織は維持できない。兵は頭で考えるのでなく、命令されたことを体で実行しなくてはならない。少なくとも戦場にいる軍隊はそうでなくてはならないし、実際そういうものだ。それは「士気」以前の問題だ。

 インタビューされたアメリカ陸軍兵士が、「ラムズフェルド長官には辞任を求めたい」とか、「なんのためにここにいるのかわからない」とか、「イラクの人々を助けたいなどと思っていたが、こんなことならもうどうでもいい」とか、口々に答える映像を夜のニュースで見た。大義のない強盗同然の戦争であることは、現場にいる彼らがいちばん感じていることなのだろう。

 おりしもアビゼイド司令官は最近の状況を「古典的なゲリラ戦」と認めたばかり。兵士のインタビュー映像を流した後、バグダッドのレポーターは「いまわたしの立っている場所は50度です。これからもっと暑い季節になれば、彼らの不満はどこに向けられるようになるのでしょうか」と言っていた。

 暑さが増し、見えぬ敵からの攻撃により同僚が何人か死に、無敵米軍のプライドが揺らぐその時、彼らの耳に囁く声が聞こえたとしたら、「君たちは、世界中の心ある人たちから、バカなブリキの兵士とあざ嗤われているんだよ」という・・・。それでも彼らはイラクで愚直なイヌの任務についていることに耐えられるだろうか。それともその頃には忠犬ジュンイチローが派遣した我が自衛隊の面々が、彼らに代わってブリキの兵士となっているのだろうか。(7/17/2003)

 夏風邪らしい。終日、寝ていた。

 トリクル充電ならぬトリクル睡眠。夢と現を往復する。熱があるのはいい。夢の意味を考えたりしないから。心地よく夢を楽しめる。

 ・・・あけがたとろりしたときのゆめであつたよ・・・。(7/16/2003)

 安倍晋三は浅慮の人と思っていたがひょっとすると深謀遠慮の策謀家だったのかもしれぬとふと思った。家族の会と救う会が首相官邸に安倍を訪ねて拉致被害者の救出を訴える315万人の署名を提出し、北朝鮮に経済制裁などの圧力をかけることを訴えたというニュースを聞いてのこと。

 先週、アメリカの偵察機が再処理に伴って発生するクリプトン85を大気中で検出したという報道があり、さらに今晩のニュースでは、アメリカとの個別協議の中で北朝鮮が先月末までに核燃料棒からプルトニウムの抽出を完了したとか、元国防長官のペリーがワシントンポストに北が核実験や核弾頭の輸出などを強行する懸念が高まっているとした上で、最悪の場合、戦争に突入する危険性が高まっていると語ったとか伝えられている。北の核問題は際どい段階に入っていると見るべきなのだろう。

 12日に訪朝していた中国の外務次官は金正日と直接長時間の会談を行い、きょう帰国した。これに対し、昨日の時点で国務省バウチャー報道官が中国と密接に連携していることと次官の訪朝に期待感を表明。外務次官と金正日の直接会談、進行中の第三国の根回し活動への期待表明、いずれも少し普通ではない。次の実質的な外交交渉が米・中・朝の三国になるのか、これに韓・日・露のいずれかが加わるのか、それはわからない。大局的に見れば拉致問題などに手足を縛られている状況ではない。

 話を拉致問題に戻す。拉致被害者家族が本当の意味で冷静であったならば、本来は北朝鮮を刺激することはできる限り避けてほしいというのが自然な話。誘拐事件に際して人質の安全を最優先とするならば、犯人を刺激しないというのが鉄則である。ヨーロッパの警察は一時期のイタリアなどの特殊な例外を除いて人質の解放までは犯人を尾行したり逮捕する危険はおかさない。威圧的な虚勢を張ることもない。この間の犯人との取り引きは専門家が行う。有名なのはイギリスのコントロール・リスクス社だ。犯人の追及と逮捕は人質の解放が確認されてから行うものなのだ。しかし、家族の会は「犯人に圧力をかけてください」と、戦争という絶望的混乱へ昇る階段を一段昇るように自ら申し出た。

 安倍は北朝鮮の核問題が戦争による解決という事態に立ち至っても、拉致被害者家族が騒ぎ出さないように彼らが自ら自分たちの手を縛るように仕組んだのかもしれない。人の愚かさに乗ずる、これこそ、マキャベリズムの極意。巧んでそうしたのだとしたら、安倍晋三もたいしたものだが・・・。(7/15/2003)

 夕刊から。

 「イラクのウラン購入計画」にからむ情報操作疑惑の打ち消しに躍起の米ブッシュ政権のライス大統領補佐官やラムズフェルド国防長官は13日、「ウラン問題だけが開戦の理由ではない」「問題は解決した」とテレビで釈明した。・・・(中略)・・・ライス補佐官は「サダム・フセイン(元大統領)がウラン購入を試みた、との理由だけで大統領が戦争を始めたと考えるのはばかげている」と説明。大量破壊兵器(WMD)を製造・保有していた旧フセイン政権が世界の脅威だったことを改めて強調し、購入計画を盛り込んだ「一般教書演説は正しかった」と語った。ラムズフェルド国防長官は、今回の疑惑について、米中央情報局(CIA)のテネット長官が責任を認めたことから、「話は終わった」と指摘し、「WMDは見つかる」と述べた。

 なるほど「ウラン購入を試みたとの理由だけで」竹藪大統領が「戦争を始めたと考えるのはばかげている」のと同様、「大量破壊兵器を保有しているとの理由で」、「戦争を始めた」と考えるのもばかげている。彼らが石油を盗むためにイラクに押し入ったことは徐々に徐々に明らかになりつつあるのだから。ウランの話も、生物・化学兵器の話も、ならず者がつけたインネンに過ぎない。記事は続く。

 しかし、13日付のワシントン・ポスト紙は、「ウラン購入計画」が昨年10月の大統領演説で触れられなかったのは、事前にテネットCIA長官がホワイトハウス高官に対して「演説に盛り込むべきではない」と訴えたためだったと報じた。その3カ月後の一般教書演説でこの一節が復活したことについて同紙は、「計画を演説に入れたいと、いかにホワイトハウスが熱意をもっていたかが分かる。(『演説前には情報が間違っていることに気付かなかった』という)ブッシュ政権の説明には疑義が生じる」と指摘した。

 夕刊の記事はここで終っているが、インターネット掲載記事の最後はこのようになっている。

 ライス補佐官は「(ウラン購入計画にかんして)英国は『根拠はある』と説明していた」と、英政府への責任転嫁とも受け取れる説明をした。

 「我々にガセネタをつかませたのはイギリスなのよ」。こうなると、叱られた抗弁に友達を名指しする最低にして最悪の不良少女、といった雰囲気が漂う。悪党もひとかどとなれば悪党なりの風格があるものだ。しかし、ブッシュ一味は、揃いも揃って、救いがたいただの性格破綻者ばかりだ。(7/14/2003)

 けさの「サンデーモーニング」の冒頭に出てきた老人が、「被害者の親御さんのことも、加害者の親御さんのことも、どちらもお気の毒で胸が痛みます」というようなことをいっていた。この数日の長崎事件に関する報道の中で、いちばんホッとするコメントだった。きょうはそれだけを書いておく。(7/13/2003)

 長崎の事件のことで、またぞろ、少年法がやり玉にあがっている。保護年齢が引き下げられたのは2年ほど前のことだった。今度の犯人が12歳だったことから、保護年齢を12歳、あるいはイギリスの例をまねて10歳にし、成人同様の刑事罰を与えるべきだという議論だ。

 論拠はふたつしかない。ひとつは刑罰の適用年齢を引き下げることにより重大犯罪に走る抑止力になるという主張。もうひとつは被害者家族の慰撫のためという主張。

 前者は今回の事件をざっと思い返してみると効果に疑問があることが明らか。少年は防犯カメラの設置されている商店街を堂々と連れ歩いている。つまり犯罪が露見する可能性についてなんの顧慮もはらっていない。これから犯そうとする犯罪がもたらす明日というものに考えが至っていない。こういう犯罪者には抑止の効果はほとんど期待できない。

 後者は感情論といえば感情論なのだがけっして無視することはできない。社会的公正さというものに対する信頼は構成員が実感できる「フィクション」でなくてはならない側面を持つからだ。しかし被害者家族の慰撫の正否が社会的公正さそのものの正否と百%重なるという議論はどこか小児病的な匂いがつきまとっていて、とても支持する気にはなれない。

 もっとも鴻池某の「加害者両親を市中引き回しの上打ち首にすべきだ」という発言や2チャンネルあたりのボードで加害者少年の実名と写真をながして正義漢面をしている連中のことを考え合わせると、この「小児病的マインド」というものが蔓延しつつあるというのが最近のこの国の様相らしいと知って背筋が寒くなる。(7/12/2003)

 夜の飲み会に備えて、半休を取り、池袋へ。東武8階のシネ・リーブル池袋で「トーク・トゥ・ハー」を見た。先週の夕刊で秋山登がかなりほめていたやつ。

 スペイン映画。監督・脚本はペドロ・アルモドバル。最近、映画にはとんと縁がないもので、一切の先入知識なしに見た。今更「愛」などというものを正面切って語れない歳になってはいても、かなり想像力を刺激される面白い映画だった。回想シーンの「ククルクク、パロ〜マ」と歌う挿入歌、これが胸にしみこむような歌唱なのだ。(調べたところでは歌っているのはカエターノ・ベローゾという歌手らしい)

 看護師のベニグノはアパートの向かいのバレエスタジオに通うアリシアに恋をする。アリシアは事故で植物人間に。旅行案内書などを書いて生計を立てているマルコは取材対象の闘牛士リディアと恋仲になるが、リディアも仕事が終ったら話したいことがあるといったその日、競技中の事故で植物人間になる。

 ベニグノはひたすらアリシアの看護をしながら応えぬ恋人に話しかける。彼女が好きだった映画のこと、オフタイムに見たバレエのことなどを。ベニグノとアリシアは心の通い合った恋人同士などではない。そうなれるかどうか、すべてはこれからというときにアリシアは交通事故に遭ってしまったから。

 母の看病をするために看護師の資格を取ったベニグノ、彼の恋は普通に考えると片思いに終っただろう。アリシアの事故こそが彼の愛の日々を実現したのではないか。心の中のアリシアにかたむける愛情。誰もが経験のある恋に恋する類の愛情から我々はどこへ行き着いただろう。

 知り合ったベニグノから眠り続けるリディアに語りかけることを勧められるマルコにはそういうことはできない。彼にとっては、あくまで意識の交流、相手の反応がなくては愛情というものは成立しない。それは我々の常識でもある。

 対照的な二人のその後。リディアが話したいといっていたことがら、それはマルコが取材をはじめた因縁の闘牛士との復縁の決意だった。じつにわかりやすい愛の終り。だからといって愛がなかったわけではないのだが、ダメを押されるような場にはいたくない。マルコは仕事に逃げ出してゆく。

 その前後、ベニグノの見たサイレント映画。遊び人の男、科学者の女、彼女が開発した薬を飲んだ男は徐々に縮みはじめる。やがて女のハンドバッグに入るほど小さくなった男。女のベッドに誘われた男は、寝入った女の体を探検する。これがエロチックでめちゃめちゃにおかしい。巨大な乳房の山を登る男。恥毛の森から男は谷間の割れ目の中に出たり入ったり。

 アリシアにその映画の話をするうちにベニグノは交わってしまう。アリシアは妊娠し、ベニグノは強姦罪で収監。リディアの容態を病院に問い合わせたマルコは顛末を聞いて接見にゆく。アリシアとおなかの子供のことを調べてくれと頼むベニグノ。死産だったがその刺激でアリシアは意識を取り戻していた。弁護士はアリシアの覚醒は伏せておくようマルコに厳命する。マルコがそれを伝えた後、アリシアと同じになることを望んだベニグノは自殺してしまう。

 意識のない肉体を世話しながら充足していたベニグノは何に絶望したのだろう。心の中のアリシアとの会話ならば刑務所の中でも可能であったろうに。それともセックスがベニグノの愛を変えたのだろうか。

 書いているうちにもう一度見たくなってきた。(7/11/2003)

 埼玉県知事土屋義彦の長女(市川桃子)が政治資金規正法違反容疑で逮捕された。

 朝日の埼玉版に「土屋王朝の風景」という特集記事が載ったのは先月のことだった。特集はこの親子の専横と腐敗を詳細にレポートしたもの。前後して発覚したダスキンからの闇資金提供などもあり、彼女の逮捕は少し遅いくらいの感じ。

 土屋といえば大正製薬オーナー上原家の係累とか。その長女とあればカネに困るようなことは一切なかったろう。そういえば、先日脱税で逮捕された「無限」社長の本田博俊にしても本田宗一郎の長男、同じようにカネに不自由する生活とは無縁だったはず。

 芥川龍之介の言葉を思い出した。「恒産のないものに恒心のなかったのは二千年ばかり昔のことである。今日では恒産のあるものは寧ろ恒心のないものらしい」。(7/10/2003)

 長崎の幼児連れ去り、殺害事件の犯人として、12歳の中学一年生が補導されたというニュース。酒鬼薔薇事件と違って、今回は被害者の幼児を連れ歩く少年の姿が商店街の防犯カメラに映っているということだから、おそらく間違いはあるまい。

 暗澹たる思いにとらわれつつ夕刊を開いた。そこに吉岡忍の一文があった。書き出しはこうだ。

 確証はない。印象だけがある。けれど、ぼんやりしたその感じが気になっている。
 そういうことを記しておきたい。この国の低迷はまだ始まったばかり。これから本格的に陥没していくのだろうということ。その暗鬱な予感についてである。

 その先はもっと痛烈だ。

 しかし、二十一世紀の初頭、不景気風の吹きすさぶこの国で個々ばらばらに暮らしはじめた人々の声に耳を傾けてみればよい。取引先や同僚のものわかりが悪い、とけなすビジネスマンの言葉。友達や先輩後輩の失敗をあげつらう高校生のやりとり。ファミレスの窓際のテーブルに陣取って、幼稚園や学校をあしざまに言いつのる母親同士の会話。相手の言い分をこき下ろすだけのテレビの論客や政治家たち・・・。

 日記に愚行の葬列を記しながら時代をあざ嗤うだけの者、と続いてもおかしくはない。吉岡の話は続く。

 ここには共通する、きわだった特徴がある。はしたない言い方をすれば、どれもこれもが「自分以外はみんなバカ」といっている。自分だけがよくわかっていて、その他大勢は無知で愚かで、だから世の中うまくいかないのだと、いわんばかりの態度がむんむんしている。私にはそう感じられる。
 ・・・(中略)・・・
 この現実はやっかいだ。自分以外はみんなバカなのだから、私たちはだれかに同情したり共感することもなく、まして褒めることもしない。こちらをバカだと思っている他人は他人で、私のことを心配したり、励ましてくれることもない。つまり私たちは、横にいる他者を内側から理解したり、つながっていく契機を持たないまま日々を送りはじめた――それがこの十余年間に起きた、もっとも重苦しい事態ではないだろうか。
 不況、テロ、戦争、北朝鮮。どれも現在のこの国が直面する難問ではあるが、自分以外はみんなバカ、と思いこむ心性はそれぞれの問題を外側から、まるで大がかりな見世物としてしか見ないだろう。そこに内在する歴史や矛盾を切り捨て、自己の責任や葛藤を忘れて、威勢よく断じるだけの態度が露骨となる。
 そこに私は、この国がこれからいっそう深く沈み込んでいく凶兆を読み取っている。

 この一文は巧んできょう掲載されたわけではなかろうが、12歳の子供が4歳の子供を立体駐車場の最上階から投げ落とすという事件がどんな時代的背景の下に起きたのかについての記録になっている。(7/9/2003)

 阪神タイガースにマジック49。セリーグ史上最速。両リーグを通じてでも1965年南海ホークスの7月6日に続いて二番目の由。

 基本的に勢いだけ、いずれ失速すると思っていたが、あれよあれよという間にここまできてしまった。まともに戦っているのは、スワローズ(対タイガース:7−9)とドラゴンズ(同:6−9)ぐらいのもので、カープは12回戦って3勝、ジャイアンツは16回戦って4勝、ベイスターズに至っては開幕戦でたった一回勝っただけで、なんと16連敗しているのだから、とても「プロ野球」とは思えない。しかし、まあ、それはそれ。こういう偏りは勝負事には珍しいことではない。サンプル期間さえ長くとれば、数字は自ずと有意なところに落ち着くものだ。

 星野監督の評価は高い。しかし、星野はマスコミの扱いがうまいだけのことで、名と実がそろっているわけではない。同様にマスコミ評価の高かった仰木と同じ、基本的に焼畑農業型の監督なのだ。同じ畑で何回も収穫を上げる実力は持っていない。天井が来ると彼らは「勇退」する。使い潰された選手しか残っていないチームは長く低迷することになる。かつてのバッファローズ、現在のブルーウェーブはその例だ。ドラゴンズを引き受けた山田が四苦八苦していることも同じ。

 もし、タイガースがここ数年、優勝を続けるなりAクラス常連になれたら、星野評価を改めよう。だが十中八九そのような事態は訪れないだろう。

 ところで最速マジック点灯記録の65年ホークスの日本シリーズはどうだったか。1勝4敗でジャイアンツに敗れ去った。ジャイアンツのV9はこの年から始まった。(7/8/2003)

 朝刊に「政治献金公開基準引き上げ法案」の話が出ている。ポイントは「政治献金の公開基準を現行の年5万円から24万円にすること」、そして「政党支部への企業団体献金に上限を設け年150万円とすること」なのだという。

 前段の条件は議員の都合によるものらしい。こういうことだ。いま私設秘書やら事務所の維持のために必要なのは年5000万円。これを名前を出さずにすむ5万円以下の献金で集めるには1000社必要だが、制限を24万円に緩和すれば200社程度でよい。集金がずっと楽になるというわけ。もともと政治資金に関しては有権者の政治参加を進める中で個人献金を増やす方向へいきたいという話があったはずだが、政治家に魅力がないからか、身銭を切るよりは会社のカネで飲みたいというミミッチィ根性がこの国のスタンダードであるからか、自民党を支える勢力の中に「個人献金」という習性はなかなか根付かない。

 後段の条件は公明党が付けたもので、一見、制限の厳格化のように見えるが、「政党支部に150万円もの献金をしてくれる企業はほとんどないから、『実害』はない」ということを考慮したものというから悪質だ。最近取りざたされている政治日程の中で、来年の同日選を回避させるためなら、何にでも食いつこうという公明党が考えそうなことだ。

 自分の財布からは一銭も出さずに会社のカネを私物化する経営者といい、イラク特措法をあっさり通した民主党といい、この問題に見る公明党といい、道義を忘れてもっぱら私利私欲を優先するのが人間のならいと知らぬ訳ではないが、それにしてもこの臆面もない姿勢には絶句する。(7/7/2003)

 「家族の会」が自分たちの名をかたって街頭で募金活動をしている団体があると抗議しているというニュース。今後は「家族の会」としてのシンボルマークを作って識別ができるようにする由。

 事実とすれば許し難い話と思ったが、画面に出てきた蓮池透、今週、発刊する本をちゃっかりPR。なんだ、そちらの話が本命かと見ているこちらは白けてしまった。

 本来の帰還運動のための知恵は出なくとも、こういうビジネスセンスはあるものと見える。いっそのこと新しく作るシンボルマークを商標登録でもしたらどうだ。

 蓮池透は早々と勤めていた会社を辞め、この活動を「仕事」にした。仕事となれば、ふつうは仕事が長続きすることを望むものだ。ということは拉致被害者とその家族の帰還はなるべく手間取る方がいいことになってしまう。誰でもすぐ連想するのは同和問題のことだ。解決しそうで解決しないのはなぜか。

 こういう活動を飯の種にしない。それが倫理というものだ。(7/6/2003)

 東電からの要請により22・23日を休業日とするという連絡が来ていた。要請というよりはかなり高圧的なトーンだった由。ひょっとすると、東電が恐れているのは供給不足による停電ではなく、「ふつうにしていたのに供給不足にならなかった」という事態なのではないか。もし、ふつうのままで乗り切れてしまったなら、原子力発電が必要ではないことが露見してしまう。だから、あれやこれやの「停電回避努力」を必死にやっているふりをしている。その甲斐があってどうにか「危機」を乗り切れたという「神話」を作りたいのかもしれない。

 以下、東電とは直接関係のない、中電浜岡原発に関する記事を、7月2日の朝刊から。

見出し:「M8地震は起きる 浜岡原発は危険」

 茂木清夫・前地震防災対策強化地域判定会長は、1日、札幌市で開かれている地震の国際学会で、中部電力の浜岡原発(静岡県浜岡町)について、「直下でマグニチュード(M)8の地震がおきる浜岡原発は、極めて危険な状況だ」と警告した。東海地震の第一人者による学術集会としては異例の発言。
 茂木さんは元東大地震研究所長で、96年まで判定会長、01年まで地震予知連絡会長を務めた。
 英語で約30分間講演。世界中の原発の分布図と、地震の起きている場所をスライドで重ねあわせて、「M8の地震が起きるとわかっているところなのに、原発があるのはここだけ」と、浜岡原発の異常さを際だたせた。
 政府や中部電力が「大地震は想定ずみ」としていることに対し、茂木さんは「揺れ、岩盤の壊れ方など大地震のことはわかっていないことが多い。地震のたびに、想定外のことが起きている」と、技術者の慢心を心配した。

(購読紙に掲載の記事はここまで。以下はインターネット掲載文の追加記事)

 茂木さんが浜岡原発に関心を持ったのは、01年に起きた1号機の配管破断以降。「それまでは警戒宣言の問題に集中していたが、原発を調べてみると平気でいられる問題ではなかった。地震の専門家として発言する責任を感じた」という。
 発表したのは、国際測地学・地球物理学連合の総会。この分野ではもっとも伝統ある会で、4年に1度開かれ、アジアでは初の開催。日本学術会議などが主催した。世界99カ国から約4500人が参加、11日まで開かれている

 わざわざ北朝鮮に対面する日本海沿岸に作ったり、地震の巣の上に作ったり、原発の立地がいかに場当り的でいい加減なものかをうかがわせる話。(7/5/2003)

 イラク復興支援特別措置法が衆議院を通過した由。野中と古賀がこれほどの内容のものを記名採決ではなく、起立採決で行うことに異論を唱えて議決前に退席したという。民主党の岡田幹事長はこの行動を「自己満足的」と評したらしい。それはその通りだろう。しかし、なによりさしたる抵抗もせず、「記名採決」とすることを求めもしなかった民主党の振る舞いこそ恥じて然るべきだ。

 それにしても嗤わせる名前だ、この法律は。ふつうの日本語解釈にしたがえば、支援するのはイラク復興ということになるが、自衛隊が命ぜられる任務はアメリカ軍の下働き以外のなにものでもないことは万人が認めていることだ。どこが「イラクの復興」支援なのだ。バカも休み休みにいえ。

 ブッシュが「戦闘の終結」を宣言してからのちアメリカ軍は60名近いの死者を出している。無能な為政者の定見のなさがジワジワと泥沼の軍事的コミットメントに変わってゆく話なら、どこかで何度も聞いたことがある。そのブッシュの無定見に屋上屋を重ねようという法律に自己保身のためだけに賛成した議員、それが自民党、公明党、保守党の連中、そしてそれを党利党略で看過したのが民主党の議員たちだ。

 この国は百年ほど前から五十年ほど前までは軍隊という組織に引きずり回され、きちんと検討し意識して選択しなければならぬいくつかのことを成り行き任せにするままに、奈落の底に落ちてしまった。この十年は米国という国に引きずり回され、同じように思考停止に陥り、また下り坂を転がり落ちようとしている。まさに「むかし軍隊、いま米国、奴らが地獄の案内人」なのだ。

 基本的にこの国はパニック症らしい。朝鮮半島から大陸にのばした植民地経営の夢が絶たれるかもしれないというたったそれだけのことでこの国は軍の論理から自由になれなかった。そしていまは北朝鮮の軍事的脅威の影に怯えてアメリカに守ってもらうためなら「チンチン」でも「お手」でもなんでも尻尾をふって応じようという気持ちにとらわれている。そのくせ、北朝鮮の軍事力を「影」ではなく「実像」で把握しているものは誰一人としていない。

 だいたい世界第4位の軍事費を支出している国が、人口、工業力、すべての点で見劣りする国を恐れているとすれば、それはよほど軍事費を無駄に使い、情報収集・分析すべての点で後れをとり、外交下手であることを意味している。そんなバカな話はないのだが、多くの人が北朝鮮パニックに陥っているところをみると、どうやら巨額の防衛費はすべて無駄に使い、情報は「同盟国」からのもらいもの、分析をする頭脳はゼロで、外交は太平洋の彼方からの指示を待っていると、そういう風に国民が信じているということだ。このパニック症から直さなくては、この国は救われない。(7/4/2003)

 朝のラジオで月尾嘉男が法科大学院の設置を取り上げてこんな話をしていた。

 法曹関係者を増やそうというのが法科大学院構想の背景にある。法曹資格者一人あたりの国民数は日本が六千数百人であるのに対してアメリカは二百数十人。その差はじつに20倍にも達する。日本の法曹資格は各国に比べて格段に希少なものとなっており、これが長すぎる裁判などの弊害をもたらしているというわけだ。

 しかし、と月尾はいう。先にパーキンソンの法則について説明をした上で、彼は法曹資格者の行き渡ったアメリカでどのようなことが起きているかを述べはじめる。股にはさんだコーヒーカップをひっくり返して火傷をおった男が、熱いコーヒーを出したマクドナルドを訴えて3億数千万円をせしめた話、酔っぱらって運転したオートバイで角を曲がる際にたてたままになっていたスタンドのために転倒した男が、走行時不要なスタンドが自動的にたたみ込まれないという「設計ミス」を訴えてホンダから巨額の賠償を勝ち取った話、酩酊状態のため燃料タンクのキャップを確認し忘れ、緩んでいた口から燃料が漏れ出し、ガス欠で墜落した操縦者がセスナ社を訴え勝訴した話、信じられないようなことばかり。極めつきは工業地の売買に際し土壌汚染改良などの義務を果たすために積み立てられた金の支払いの顛末。一兆数千億もの積立費のうち本来の土壌改良作業に使われたのはたった12%、残りの88%はすべて訴訟費用に蕩尽されたという。ここに見られるものは狂気のような訴訟大国アメリカの姿だ。

 ここでマクラにあったパーキンソンの法則にもどる。有名な「役人の数は絶対に減らない」という法則のバリエーションとして「就労者数に見あっただけの仕事は作られる」という法則がある。月尾はこう話を結んだ。「自立的な職業としてあげられるのが医者と弁護士と建築家。数十年前、各大学の工学部は人気の土木、建築関係の学科の増員を行った。ゼネコン関係へ就職する人たちが多くなった結果、公共工事は増加し、やがて無駄、不要とわかっていても工事計画をやめることができなくなった。法曹資格者の増員についてもよほど注意しないと・・・」。(7/3/2003)

 東証、日経平均で終値9,592円24銭。昨年9月以来の9,500円台の由。6月に入ってから大商いが連続しているとのことで、小泉首相はさっそく「日本経済の底力を外国の方が評価している。悲観論が修正されて来つつある証拠」などとコメントしている。「あなたは経済がわからないから、目先の現象や幇間のような人間にだまされるんだ」ということでなければいいが。

 10時からのNHKニュースでネット取引が中心の松井証券の担当者がインタビューにこう答えていた。「6月になってからネット取引注文が集中しています」と。値動きがある一定以上になると、短期で売買を繰り返しマネーゲームを楽しむネット取引マニアが増殖する。連日のバブル期を上回る出来高のかなりの部分はこのネットによるこまめな往復的取引がカウントされている可能性が高い。

 なるほど値動きのトリガーは外国投資家が引いたものかもしれないが、それはドルの下落対応の一方策として値頃感のある日本株に一時的に流入しているという説明もある。実体経済の状況にリンクしたわけでないふたつの事実が招来する結果だけを見て、自分の楽観的希望に引き寄せてみている。それが小泉のコメントであるような気がする。(7/2/2003)

 「あなたは人がいいから、だまされてばかりなんだよ」と小泉が鳩山に言った由。「自民党をぶっ壊しても」という小泉のレトリックに、鳩山はもののみごとに引っかかり「その時は我々があなたを後押しする」などと応じた。観客席の我々はよく憶えている、騙しのチャンピオンは誰でもない小泉純一郎本人だということを。

 鳩山よ、これほどバカにされて、なお、自分の中の自民党的な澱を捨て去ることができないとしたら、政治家など辞めた方がいい。迷惑する人がたくさんいる。(7/1/2003)

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