朝刊の社説で昨日のもんじゅ訴訟に対する裁判官側の事情が分った。

 原発のような科学技術の安全性が対象となる裁判では、最高裁判例などによって審理の枠組みがほぼ確立している。
 裁判所は白紙の段階から審査して安全論争に決着をつけるのではなく、行政機関や専門家がした判断を尊重したうえで、現在の技術水準に照らして審査基準や決定過程に不合理な点や見逃せない誤りがないかどうか検証する、というものだ。
 福井地裁も、そうした考え方にのっとって判断を下した。

 なるほど、これならば昨日のような判決もやむを得ぬものかもしれないと、瞬時思わせる。しかし、審理中に起きたナトリウム漏れ事故は、その専門家の安全審査の不備故に発生したことは明らかである。また、各国の増殖炉が断念された最大の要因が、この熱媒体としてのナトリウムの技術的管理の難しさにあることも周知の事実である。ということは、もんじゅの安全審査には「現在の技術水準に照らして」疑義があるということになる。さらに、原告側は阪神淡路大震災を例に、耐震性についても国の安全審査の不備を指摘したという。

 今回の判決を作成した裁判官は、論理的に欠けるところがあるか、権力の愚昧から真実を守ろうという勇気に欠けるところがあるか、いずれかまたはその双方であるといって差し支えない。裁判長の名前は岩田嘉彦という。(3/23/2000)

 夕刊から。福井地裁で、旧動燃団の高速増殖炉「もんじゅ」に対する設置許可処分の無効を訴えた民事訴訟に「もんじゅの危険性はない」とする判決。ナトリウム漏れ事故については「事故の際も炉心の冷却能力は十分保たれており、放射性物質の放出による環境への影響もなかった。原子炉の安全性は、核燃側が予定している改善措置で保たれる」と判断したとのこと。世界がすべてプルトニウムによる高速増殖炉の開発を断念した事実には目をつぶり、事故時も外部環境への深刻な影響がなかったという事実のみを取り上げる恣意的な論理操作にはあきれかえるばかりだ。東海村のような死者が出るような事故が起きない限り、この手の裁判官の目はふさがったままなのだろう。国の政策にとらわれた愚かな裁判官よ。(3/22/2000)

 午後、霞ヶ関ビルで、電気通信協会のセミナー。最後に講演した文部省学習情報課長の岡本薫氏の話が面白かった。常識的な役人の考え方をひっくり返したようなもの言いなのだが、事実をきちんと見通した立論で「教条的な文部官僚」というこちらの思いこみを見事に裏切ってくれた。とくに面白かったのは、「数年中にパソコンが不要になる」という話。理由はインターネットをするのにも、電子メールのやりとりをするのにも、パソコン以外にもっと使い勝手のいいものが出てくるだろうからという。先週聴いたIモードの話を思い出しながら、興味深く聴いた。(3/21/2000)

 春分の日。地下鉄サリン事件から5年。オウム裁判は遅々として進まず。

 あの年はオウムからオウムという年だった。今年は警察不祥事から警察不祥事の年だ。朝刊のトップ記事は「交通違反記録もみ消し容疑で、新潟県警警視と警部補が逮捕」、「自民党白川議員の秘書が依頼」というもの。当の白川議員は「問題にするようなことではない」とうそぶいているとか。天下国家の防衛にことのほか熱心な連中が、これほど無神経に法律を踏みにじるというのはじつに不思議な話だ。別に外国に侵略されなくとも、法秩序をわたくしして恥じることがない人間が公職を占めていれば、国家など簡単にひっくり返るものだと気がつかない愚かさよ。(3/20/2000)

 台湾の総統選挙で民進党の陳水扁が勝った。国民党の連戦は国民党を離脱して無所属でたった宋楚瑜にも負けて第3位だった。結果は、

陳水扁(民進党)  4,977,737(39.30%)
宋楚瑜(無所属)  4,664,932(36.84%)
連 戦(国民党)   2,925,513(23.10%)

 陳水扁は、報道によると、貧農の子として台湾に生まれ、苦学して台湾大学で法律を学び、弁護士資格を取り、反体制弁護士、台北市議員から立法議員になった。彼の当選はふたつの理由が考えられるという。ひとつはあとの二人が富裕層の出身であることに対して、貧農の出であることが大衆的な支持を集めたこと、もうひとつは台湾生まれで台湾の自立という主張に違和感のないこと。とくに、後者に関しては、選挙前の朱鎔基中国首相の恫喝的なステートメントが逆に非常な追い風になったというのがもっぱらの評判だ。しかし、中国共産党の長年の敵である国民党の一党支配の終焉という事実を前にすると、老獪をもってなる中国の首脳が感情にまかせた恫喝を行ったという説に、にわかに賛成しがたいものがあると思うのはうがちすぎだろうか。(3/19/2000)

 今晩のテレビ朝日の「ザ・スクープ」は注目されていい内容だった。昨年の桶川女子大生殺しの事件前、被害者は再三上尾警察を訪れ相談を繰り返していたというのだ。これに対し上尾署は終始冷淡で、被害者が名誉毀損で告訴状を出したあとも、被害者宅を訪問しいったん受理した告訴状を取り下げるようにいったという。その際、「ひどくなるようだったら、そのときもう一度告訴すればいい」といったというのだから、開いた口がふさがらない。上尾警察は、今回の殺人事件に関して、犯人と同等の位置にいるといってよい。猪野詩織さんを殺したもう一方の犯人は、この上尾署の窓口担当者だ。(3/4/2000)

 夕刊から。和歌山の保険金詐欺事件、林夫婦の家から未明に出火。夫婦は収監中、子供たちは別に引き取られて無人の状態であるからには放火。オウムの石井の子供の就学拒否といい、この放火といい、あれだけの犯罪を犯したものに対しては何をしても許されるのだとでも言いたげな行為は、なんとなく心寒いものがある。(2/16/2000)

 千葉からラジオを聴きながら帰ってきた。新任の大阪府知事が春場所の優勝力士に対する府知事杯のプレゼンターを自分でやると言い出したことの賛否をテーマにしていた。まあ以前の森山真弓にも今度の太田房江にもある意味で権力志向の「臭み」はプンプンして、その点では諸手をあげて支持するという気にはなれないことは確かだ。しかし、例によって「土俵は神聖な場所。女性は上げない」という「伝統」に従うべきか否かということになれば、答えは決まっている。そんなものは伝統論議以前の問題だと。

 「伝統派」に多い意見は、「男には男にしかできないこと、女には女にしかできないことがある」とか、「どうしても土俵に上がるというのなら、ふんどし一つで出てこい」などというじつにくだらないものだ。森山も太田も別に土俵に上がって相撲をとりたいといっているわけではない。とすれば、こういう「意見」を開陳する奴らは、自らの「頭の不自由さ」を誇示しているようなものだ。いったい力士の職場である土俵で賞状をわたすだけのことが何ほどのことだというのだ。

 もし相撲協会があくまで筋の通らぬ「伝統」とやらに固執するのなら、厄介な話が絡みかねない「お上」の表彰状などいらぬといえば、それですむことだ。だいたい一方で八百長相撲を放任しながら、どこが「神聖な土俵」、なにが「伝統」というのだ。それとも相撲はいまも「八百長は伝統」の河原芸の一種なのか。ならば、河原者は河原者に徹したらどうだ。「もらえるものは何でももらう。もとより誰彼などいいませぬ」と。(2/8/2000)

 先週の日曜日の朝刊には、カナダで開催中の生物多様性条約に基づく特別締約国会議で29日、遺伝子組み替え生物の国際取引に関する「バイオセイフティー議定書(カルタヘナ議定書)」が採択されたことが報ぜられていた。(カルタヘナというのは昨年の締約国会議が開かれたコロンビアの都市の名前)

 目的は遺伝子組み替え技術を使った作物や微生物の国境を越えた生態系攪乱を防止すること。内容は輸出国の輸入国に対する安全性情報の提供義務と輸入国の危険性評価手順を定めたもの。遺伝子組み替え技術は場合によって農薬による自然破壊よりもはるかに深刻な事態を招きかねない。にもかかわらずビジネス至上主義のはびこる薄っぺらな国アメリカはこれを自由貿易の名のもとに各国にその製品を押しつけようとしている。

 保守主義の意味を知悉しているヨーロッパ諸国の反発はもっともなものだ。これを単にヨーロッパのこの分野における立遅れによるものと解する連中もいるようだが、知識はあっても知恵というものをもたない下賤なる精神というべき。遺伝子組み替え食品に重大な懸念を表明したチャールズ英皇太子の姿勢は十分に評価できる。これこそが貴族の責務というべきものだろう。学問研究を単なるアクセサリーにしているどこぞの国の似非貴族とはえらい違いだ。(2/5/2000)

 午後、半休にして、難波田龍起展をオペラシティーまで見に行った。いくつかブレイクの詩画集を想起させるものがあり、「いいな」と思ったが、やはり抽象画は苦手だ。パンフレットに「彼は、下地を作った画面に、液体状のエナメルを液が入った缶から直接ペインティングナイフで『飛ばして』描いたと言います。こうした技法は、ドリッピングと呼ばれていますが、手の無意識な動きにまかせて絵を描くことで、心の深みにある、感覚の本質的な部分を表現しているとも云えます」とある。ひとことでいうと、偶然にまかせて作られる絵の具の集積は「絵」なのだろうかという疑問。(2/4/2000)

 東京文化会館でヴァイオリンリサイタルを聴く。ヴァイオリンは中村静香、ピアノは田村宏。曲目は、バッハの無伴奏パルティータ第3番、ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ第5番「春」、ヒンデミットのヴァイオリンソナタ作品11の1、リヒャルト・シュトラウスのヴァイオリンソナタ作品18。アンコールがメンデルスゾーンの「歌の翼にのせて」とブラームスの「スケルツォ」。伴奏のピアノが少し老齢のせいか音に輝きがない感じだったが、ヴァイオリンはキリリとしまった音でよかった。ヒンデミットの曲ははじめてだったが、手許にあればたまにかけたくなるような曲。楽しめた。(1/29/2000)

 グルダが亡くなった。クラシックに限らず、楽しく音楽を聴かせるという点において傑出したピアニストだった。(1/28/2000)

  昼休み、アクセスが混雑する中を吉野川可動堰問題に関するホームページをのぞいてみた。反対派のホームページで読ませたのは、土木技術者グループが神亀好というペンネームでまとめた「吉野川可動堰建設事業の問題とは」という論文。写真や図が豊富に入って分りやすい。建設省の強権的体質に対する批判も鋭い。

 一方の建設省のホームページには「第十堰に関する技術資料の専門学者による評価報告書」が6つ掲載されている。そのうち一番ボリュームのある新潟大学教授大熊孝による「吉野川第十堰改築事業に関する意見書」を読んでみた。この意見書にも、控えめな表現ながら、「第十堰の補修・回収の必要性」「第十堰撤去による河床低下」「可動堰案の治水効果」「計画高水流量時」「基本高水値」などのそれぞれの角度から、建設省の計画はあまりフェアなものでないことが述べられている。(そういう文書をホームページに載せていることはフェアな姿勢の現れといってあげられないでもないが・・・)

 「おっ」と思ったのは、大熊意見書の末尾近くに述べられている「新しい治水思想」の提案だった。現在主流の治水方針は「大きな堤防を築き、可能なかぎり洪水を河道の中に押し込める」こととしてきた。これは「溢れた場合の対策」を忘れさせ、「一旦溢れると大きな被害を出す」ことにつながり、かえって想定不能の大洪水に対する無策の危険性を増大しているという。ある程度の氾濫は許容し、これに備える水害防備林などを整備することにより対処する江戸時代の治水思想を復活すべき時に来ているという指摘。利権コングロマリットに毒されて巨大構造物一辺倒になってしまった治水政策を根本から見直すために念頭に置いておくべき考え方であろう。(1/26/2000)

  昨日の朝刊の一面は、いまのこの国の素顔を二つの角度から光をあてたような感じのものだった。トップ記事が吉野川可動堰で、天声人語には愛知万博が取り上げられていた。

 長文の会議録だが、一気に読める。誤解を恐れずに言えば、じつに面白い。一方の側の発言は筋が通っていて、納得させられる。しかし、もう一方の側の反応は残念であり、寂しくなる。

 会議録の全文が載っている朝日のサイトをアクセスして会議録を読んでみた。「筋が通っている」のは博覧会国際事務局(BIE)で、もっぱら「反応」しかできなかった「残念」な側はこの国の担当者(通産省審議官・博覧会推進室長・博覧会調整官)である。

 「会議録」とあるが、これは会議の体をなしていない。ロジカルな質問に対して、真正面から論理的に対応することがまったくできていないからだ。どうやらこの国の役人は「官」の威光が通じない相手は「苦手」とみえる。

 BIEは、国際博覧会の質を高めようと設けられた機関だ。万博を催すには、全体計画をBIEに提出し、総会で「登録」されなければならない。その幹部が繰り返し警告を発するのである。「人々はばかではない。提示するプランがだんだん姿を変えていき、理想的な姿から変質していくことをよく知っている」
 「土建国家・日本」の自画像を見せつけられる思いだ。

 「人々はばかではない」という発想からスタートするか、「人々はばかだ」という前提からスタートするか。この国の役人は、この会議録で間抜けぶりをさらけ出した通産省の審議官といい、昨日ニュースにモテモテだった建設省の大平某といい、「政府の決定に反対する住民はバカだ」という抜きがたい偏見にとらわれている。住民をバカだと考えるから、いい加減な計画でことを進め本質的な質問に絶句したり、専門性を強調し「こういうことがらは住民投票になじまない」などとふんぞり返ったりするのだ。素人にきちんと説明できない専門家など偽物に決まっているし、偽物の専門家ほど突っ込まれると右往左往するくせに自分を偉そうにみせるものだ。本当に「バカ」なのはどちらなのかしらね。(1/25/2000)

 吉野川可動堰工事住民投票の確定票。投票率、54.995%(ふつう、これは55.0%と発表される数字ではないか)、賛成、9,367、反対、102,759、無効、1,870。

 一般的報道は「反対が90%」というもの。これに対して、負けて悔しい方は「50%ちょっとの投票者中の9割に過ぎない」といいたいところなのだが、投票率の50%割れを狙うという卑怯千万な戦術を採った関係上、そのような反論が憚られるためか、よけいに悔しさがつのるようだ。(ほとんど注目されていないようだが、賛成票を入れに投票所に足を運んだ9,367人、この人たちはすばらしい。こういうフェアな人が好きだ)

 建設大臣の中山某は、ニュースステーション、ニュース23と立て続けに出演していた。顔こそ苦み走ったいい男なのだが、おつむの方はあまりよろしくないらしい。「底の浅い口利き政治屋」という正体がすぐに見えてしまう。こういう男が「選挙による国民の負託」などといってみたところで、その知力が負託に耐えられない場合がおおいにありそうで、仮に住民投票に衆愚政治の匂いがないではないとしても、どうしてなかなかいい勝負ではないかという気がしてくる。

 その前のNHKのクローズアップ現代には建設省徳島工事事務所の大平一典という所長が出ていた。中山と大平がまるで鬼の首でもとったかのようにいった言葉がある。「もし、洪水になったら、誰が責任を負うのか」と。その言葉を聞いて思わず嗤った。かつて、いくつかの河川災害の被害者住民が起こした訴訟のとき、建設省の役人はなんと言い抜けたか。「予見不可能な自然災害であった」、これが彼らの繰り返した抗弁だったではなかったか。

 いや、もっと根本的なことがある。いったい、日本の役人が、行政機構が、かつて「責任」をとったことがあっただろうか。言を左右し、詭弁を弄し、責任を転嫁する、それがこの国の役人のしてきたことだ。何百万人の戦死者を出した前の戦争の最高責任者たる大元帥陛下は、ついにその「責任」をとらずにのうのうと余生を過ごしたではないか。なぜ政府は君が代に固執するのか、天皇制という無責任体制こそ彼らが望む役人天国を保証するものだからというのが、そのもっとも分りやすい答えだ。しかし、この国は天皇のためにあるのではない。いわんや選良面をした役人どものためにあるのでもない。この国はここに住み、実体のある暮らしをしている人々のためにあるのだ。(1/24/2000)

 吉野川可動堰工事の住民投票。投票率、50%をこえて、成立。反対票が9割近くを占めるらしい。建設推進派の卑怯極まりない投票ボイコットに痛棒。(1/23/2000)

 多くの人が世の中がどのように変わってゆくか、その変化に機敏に対応して儲けようと考えている。少なからぬ人の目つきが悪くなり、顔つきが卑しくなっているのはこのためだろう。どのような世の中になっていたら幸せか、そのために自分は何をしたらよいのか、たまにはそう発想すれば、もう少し品性の下落を防げるかもしれない。(1/3/2000)

 2000年問題での大きな障害は世界的にもなかったらしい。ニュースや各国からの中継によれば、世界は新たなミレニアムにわいている。何が次の百年、千年の間に待ちかまえているのか、誰にも分らない。しかし、分らないことを不安に思うよりは、分らないが故に楽しみだと思う方が健康的で体にもいい。それがカウントダウンに盛り上がり、歓呼して新しい年を迎えた人々の共通の思いに違いない。(1/1/2000)

<この項終わり>


 玄関へ戻る